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2024年7月8日月曜日

摂津池田家中の対外血縁関係

気になっていたことを、備忘録として、また、自分の頭の中の整理として記事にしておきたいと思います。

どの氏族でもそうですが、一族内に様々な系譜を持ちます。長い歴史の中で主従関係も変わりますし、政治・経済・軍事など、様々な状況により、生き残りを計るための対外的な血縁関係を結ぶようになります。
 史料から過程を追う上で、こういった要素もある程度は把握しておく必要があろうかと思います。離合集散の理由として、これらの血縁関係は必ずどこかで作用しています。

摂津池田家の系図は、5種類程あり、そこに血縁の情報も書かれていますが、この一番大きなブランド要素としては、河内国の楠木正行(その遺児が教正)につながる一派が居り、その縁で「正」の通字を用いるようになった可能性があります。
 これについて、摂津国能勢庄の野間城主内藤満幸の娘と縁組みしており、池田氏が能勢郡木代・山田方面に史料があったり、余野の領主とも後に縁組みしたりして、能勢郡に非常に深く関わりをもつのは、能勢内藤氏との縁組みが関係しているのではないかとも思います。これについて、いくつかの系図の内、「池田氏系図」をご紹介しておきます。
 ただ、野間城は近隣と比べても規模が大きかった事は明らかですが、城主が内藤氏であった事は、他の資料類では確認できず、更なる裏付けが必要だと思われます。
※池田市史(史料編1:原始・古代・中世)P131

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◎池田氏系図(続池田家履歴略記巻之四所収 題して美濃国三洞村医師野原良庵所蔵 池田御家系池田系譜とあり)
『教正』(池田十郎・兵庫頭)条:母摂州能勢庄住内藤右兵衛尉満幸女也。満幸仁勇之誉有るに依りて故判官の命に依りて満幸の娘楠帯刀左衛門正行に嫁す。正行戦死後楠左馬頭正儀、舎兄正行の室を父満幸の家に送る。故に池田教依に再嫁す。其の時教正の母(教依妻)摂州一萬貫を持参す。依って教依摂州伊丹に取出を(砦)を構う。其の後康安2年(1362)左馬頭正儀の勢と神崎之橋爪(?:場所不明)にて教正戦之武勇を顕す。永享元年(1429)10月18日卒。法号室光寺殿月厳宗照大居士。
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また、別の池田家の一派は、丹波波多野家とも関係しているようです。『細川両家記』にその事が、触れられています。
※細川両家記(群書類従20号:武家部)P593

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大永6年(1526)条:(前略)あくる12月1日、此の仁陣破れけり。然るに池田弾正忠は、波多野が甥なりければ、則ち彼の方へ裏帰り、河原林・塩川衆の退き口へ矢戦するなり。有馬殿道永(高国)方なるにより、此の人々有馬郡へ逃れけり。池田は我城へ帰り楯籠もり、今度伊丹は国の留守して、我が城にあり。京田舎の騒動斜めならず。然らば細川澄元方牢人摂津国欠郡中嶋へ切り入り也。三宅・須田あまり悦で、河を越し、吹田に陣取り。道永方伊丹衆・上郡衆談合して、…。(後略)
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『細川両家記』では、波多野氏と池田氏が血縁である事から、当初は細川高国方として参戦していた摂津国人池田氏が、波多野氏に与す細川晴元方となった、としています。
 これについて、当時の史料により『細川両家記』の正確さが証明できます。高国奉行人の薬師寺国長が、摂津国勝尾寺年行事中へ宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編2)P334

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池田従り相懸け兵粮云々。若し其の沙汰有る於者、一段曲事為るべく旨、御下知の旨に任せ、堅く申し付けられるべく候也。仍って状件の如し。
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高野山真言宗 頂應山 勝尾寺の山門
摂津池田家から兵糧等が懸けられること(この時すでに兵糧の賦課があったらしい)は、今後は一切無効である旨、高国方から勝尾寺へ命じられています。敵となった池田衆が、それまでの習慣通りに行動することを阻止しています。

それからまた、丹波国の波多野氏と摂津国の池田氏が血縁である事については、後に池田家中から頭角を顕す荒木氏との縁とも繋がっていると考えられます。
 そもそも丹波国人と思われる、この荒木氏は当初、酒造関連で摂津池田郷へ縁があったとも伝わっており、池田郷での最大の酒造家であった万願寺屋は、そのような成り立ちであったようです。万願寺屋は「荒城氏」であり、その墓群が大鹿妙宣寺(現伊丹市)にあります。
大鹿妙宣寺の万願寺屋墓
 池田家当主勝正の代に、重臣として活動していた荒木村重は、後に織田信長から摂津及び河内国北半を任される大名となりますが、村重は「日枝神」を信仰していたようで、その事からも丹波と酒造の関係を持つことは、明らかなように思われます。

血縁というのは、前近代社会の中では、生きる中心とも言える必須要素であり、やはりこの点も、研究を続ける上では、常に意識しておかなければいけない事と思います。

追伸:因みに、最終的に畿内をほぼ手中に収める阿波の戦国大名三好長慶も当初は丹波波多野氏から嫁取りをしており、その後に離縁し、河内国守護代格の遊佐氏から嫁を取っています。そのせいか、波多野氏は離縁以降、長慶に一貫して頑強に抵抗しています。

2021年6月5日土曜日

摂津池田家は、楠木正成の血統を継いでいたのか!?伊居太神社社宝の置手拭型兜鉢の意味を考える

 郷土史家の中岡嘉弘氏の蔵書の中から、久安寺に関する非売品の書籍『摂津の国 細河の莊 久安寺ものがたり』を読ませていただいたことがキッカケで、これまで繋がらなかった線が沢山、繋がりました。国の重要文化財ともなっている楼門からしても、相当な勢力と財力であったことは確かだったのですが、火災や明治維新後の混乱で資料が散逸し、詳しいことは解らないままです。公的な調査でも、断片的で、分野化されたものがあるばかりで、それらを繋ぐにはやはり、不明な点が多い状態です。
 しかしながら、同寺に伝わっていることや公的外の要素が書籍にまとめられ、また、宗教家としての形式の成り立ちの説明や社会的意義、経緯を論理立てて説明されている書籍に接し、私の中にあった蓄積と疑問が、いっぺんに繋がりました。

直接的に、久安寺のご住職は繫がりはなかったのですが、中岡さんを通じて、それを知る事ができ、私は私の何かが出来ること、得たように感じています。
 まだまだ不完全ですが、そこに繋がる思索を少し、この記事でお伝えしておきたいと思います。また、そういう状況ですので、ご指摘や情報があれば、どうぞお気軽にお寄せ下さい。

さて、そんな中で、偶然に鎧兜に関する私の蔵書ページを何気なく捲っていた時です。伊居太神社に伝わる「置手拭型兜鉢」について、それまで漠然としていたものが、急に具体的になったような気になりました。
 同社には様々な社宝があり、戦国時代の遺物として、この「置手拭型兜鉢」が伝わるのですが、これは鎧兜研究分野では全国的に有名なものです。完全なカタチではなく、損傷激しく、しかも鉄砲と思しき銃痕のある遺物(内側からの破壊との見解も)であることも、その特異さから、注目されています。池田家や池田城とも結びつきの深い同社に伝わる遺物であることで、摂津池田家との強い繫がりがあると考えられていましたが、決定的な判断材料は無く、永年に渡り、全容は不明です。
 ある日、私は『歴史群像シリーズ特別編集【決定版】図説 戦国の変わり兜:学研刊(140頁)』に出会いました。これを購入してから随分と日が経つのに、ちゃんと見ていなかったのでしょう。また、久安寺の本を読んだことから、私の感覚が敏感になっていたからでしょう。重要な一文が目に止まりました。実際のページは以下です。

 

【決定版】図説 戦国の変わり兜:学研刊


上記の絵を部分拡大
 

上記画像の文字部分を書き起こしておきます。

【楠木正成像】
江戸時代に描かれた楠木正成画像の遺品は数多く残っている。本品もそのうちのひとつで、背後に正成の着料が描かれている。その兜が正にこの置手拭形兜なのである。実物と若干の相違はあるものの、大型の並角本(ならびつのもと)や鉄鋲、眉形(まゆなり)の切鉄など特徴をよく掴んでいる。江戸時代においては楠木正成のイメージといえば、この兜であったことがよくわかる。
【置手拭型兜鉢】
本品は江戸時代には多田満仲および楠木正成所用とされ、『集古十種』などに所載された名物兜である。古様な眉庇の形状は注目に値すし、置手拭としては最古例に属すると思われる。現状鉄地に見えるが、当初の黒漆が残る。江戸時代には本品を写した兜が幾つも作られている。

この歴史的背景の中で、伊居太神社に伝わる「置手拭型兜鉢」をご覧下さい。前後左右の主要部分には、楠木正成に因んだ「菊柄」をあしらったデザインになっています。


置手拭型兜鉢(現在は朝鮮式兜として表示) 

 

摂津池田家は、元の姓が「藤原」でしたが、地域名の「伊居太(池田)」を名乗って地域を代表する存在となりました。このブランド化の過程で、楠木正成嫡子正行の遺児を貰い受け(妻は丹波国守護代家内藤氏)て、継承する系譜が伝わっています。その関係からか、同家の通字は代々「正」の字を用いています。
 また、摂津池田家は、当初、今の池田市南部(尼崎市北部地域も含む)に勢力を持ち、次第に勢力を増しながら、五月山南麓に本拠を構えるに至ります。この場所は、当初、摂津国河辺郡(現川西市など)を拠点とする多田源氏の勢力下(日本国内で最大の荘園)で、五月山の北側の細河荘を越え、五月山南麓にまで影響力を持っていたと思われます。加えて、西側の現在の宝塚市山本付近もその勢力下であったと考えられます。

時を経て、流通経済が発達するにつけ、都市型の有徳人(武士)であった、藤原系池田氏が北上し、地域の勢力図を塗り替えるように成長して行きます。
 しかしながら、全国的なブランドであり、皇室の血統を持つ多田源氏や大寺院である久安寺の影響力は依然として強く、この折り合いをつけるべく、様々な政策や手盾を講じて、時代に必要な舵取りを行いました。池田家中にも、多田源氏の血統と姻戚関係を結ぶものもあり、時代により池田家中の構成を均衡させていきます。

 

久安寺古図


そういった意味で、「置手拭型兜鉢」は、池田家中には軍旗や家紋と同じく、象徴としての重要な役割があったものと思われます。故に、この兜は、池田家の中心たる者や家が継承していたものではないかと思うようになりました。
 室町将軍の「大鎧」や天皇の地位の象徴としての「三種の神器」といった具合に、池田家中でもそのようなアイテムがあったと思われいます。

今現在、伊居太神社では、先祖伝来のこの「置手拭型兜鉢」を朝鮮式兜としていますが、これは明かな間違いです。絶対に違います。また、そのように表記し始めたのも最近のことで、それまでは戦国時代の伝来兜としていました。それが変わったキッカケは、韓国の学者が調査のために訪ねた折、その学者がこの兜について、そのように見解を述べたことから、それまでの伝承を変更したようです。

さて、話しは少し遡りまして、足利尊氏の室町幕府開幕の頃のことです。記述の『摂津の国 細河の荘 久安寺ものがたり』の中で、室町幕府開幕にあたり、足利尊氏がその策を練るため、尊氏と盟友であった伊勢国司北畠親房と久安寺にて語らい、活用もしたとの推測があります。これについて、裏付けとして考えられているのが、この頃に発行された、尊氏による禁制などが、久安寺、寿命寺、伊居太神社などに残っています。また、久安寺の本尊千手観音の両脇侍、不動明王と毘沙門天の二木像は、親房の寄進と伝わっています。

足利尊氏禁制

 
更に、寿命寺には、楠木正成公奉納と伝わる兜(これは置手拭型兜鉢ではない)と菊水旗が伝わっており、これは、楠木正行が箕面の瀬川合戦を経て兵庫湊川へ赴く時、正行が寿命寺に立ち寄って戦勝祈願して、この兜と旗を奉納したものとされています。

このような経緯、実績の積み重ねの中で、ブランド化と象徴化が醸成され、この兜にもの言わぬ価値が付加されていったのでしょう。池田家当主は、この兜を継承し、戦の時には身につけることで、全ての意志を代表する存在になっていたことと思われます。

時は下って、織田信長が活躍していた頃の時代。ご存知の様に戦国時代も最も激しい頃です。信長が戴いていた筈の上位権威である将軍義昭と不和になり、当時の日本国首都は混乱の極みに陥ります。
 その過程で、池田家もそれに呼応するように分裂します。この時、数世紀の間、池田家の中心であった「筑後守家」とそれに相当する中心的一族の「遠江守家」との間に過去の不仲に起因する不整合が再び不和の種となります。
 家中政治の中心軸が変わろうとするその時、誰がその正統の資格があるかで争い、この「置手拭型兜鉢」も右に左に引き合う事態に陥り、家中は混乱していたのでしょう。
 また、江戸時代の通念を考えれば、そんな中で、若しくは、「多田満仲」を系譜二持つ一派の象徴として、これを用いていたのかもしれません。
 結果的に、摂津池田家は元亀四年(1573)滅亡しますので、この兜の象徴性はある一面で大きく低下したのかもしれませんが、しかし、無価値になった訳ではなかったのでしょう。だからこそ残されたのだと思います。兜がこれ程までに損傷しても、現在に伝わっている意味が必ずあるのです。この先の事は、また、これから学んで調べを進めたいと思います。

歴史的遺物は、一般に「文化財」といいます。しかし、市区町村、都道府県、国の文化財になっていないものの側の方が圧倒的です。
 また一方で、「文化財」はとは何かという、漠然とした解りにくさもあるように思います。これについて、私なりに別の言葉で置き換えて、納得しています。「文化」のそれは「共有」です。
 その時代に地域や人々が共有していたものが、文化です。時間を経て、大多数が消滅する中で残った、いや、守ったものが文化財です。文化財(歴史的遺物)には、それに凝縮された時代やその時のカタチ(意味)を知り、現代社会の基礎を知るという意味では、非常に大切な手がかりなのです。
 そういう意味で、最も深刻なのは、その最前線である専門家自身が果たすべき義務を怠り、意味も理解していない事です。これは、このコロナ禍であらゆる分野で起きている事が露呈しましたね。既に文化財分野では、そのような状況でした。この現状は危機的です。国が、地域が崩壊します。

私は何事に於いても論拠の無い極端な見解を認めませんが、必要なことは見失うべきではないと考えています。何よりも、法的に規定された事は履行せねばならず、担当者は常々その役割りを負っています。当然ながら担当者は然るべき、報酬を得ています。法と組織とは、そういう事です。必要な事を、積み重ねる意味を法と予算とによって、組織化されているのです。今現在、それすらも行われておらず、無為に、不法に失われている例が急増しているのです。

先祖の歴史を消すことになるこの行為は、将来的な営みの主体性を失い、外圧(敵意のある行為以外にも、地域性を失って消失の原因を作る事になる)にも抗えなくなることは確実です。
 少々話しが逸れましたが、この「置手拭型兜鉢」を通じて、地域の文化財に対する日頃の想いも結びつき、このような記事にしようと思い立ちました。この記事をキッカケに、是非とも地域の文化財を知るキッカケ、それにまつわることも知っていただけたらと思います。
 ご縁があって、その地に暮らす事になり、過去と現在と未来をつなぐ文化財(共有財)の意味を感じていただけたらと思います。身近な歴史を気軽に学んでいただけたらと思います。