2019年6月18日火曜日

中之坊文書に署名している播磨国人らしき藤田橘介重綱について

年欠の『中之坊文書』について、これまでにも何度か、本ブログにて紹介しているところですが、この文書は摂津池田家の歴史を見る上で、非常に重要な文書の一つです。しかし、そこに署名している人物の出自が不明なところがあって、まだまだ課題の多い史料でもあります。

そんな中、意図せず、ツイッターでRTされた記事からたどり、そのブログを眺めていますと、中之文書中の署名者の手がかりと思しき記事があり、同文書の時期や状況からして、その手がかりから得た要素を非常に有力視しています。ここで一旦、中之坊文書を以下にあげます。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180など

--(史料)-----------------------------------------------------------
湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
年欠 六月廿四日

小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守■清(誤読:卜清)、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、萱野助大夫宗清、池田勘介正次(誤読:正行)、宇保彦丞兼家

湯山 年寄中参
-------------------------------------------------------------

さて、この文書の残存課題は以下です。

(1)年記がわからない
(2)人物の出自がわからない
(3)本文が短く、文書の意図がわからない
(4)池田衆(連署者)と宛所の関係がわからない

これらの内の(1)については、本ブログでも推定理由を述べて、元亀2年(1571)と、今のところ考えています。また、その時期の特定と同時に(3)+(4)も必然性の推定が出来、交通の要衝で、要地であった有馬の湯山年寄中からの協力同意に、池田衆が返報したものと考えています。
 この時期、三好三人衆勢力が再び五畿内地域で勢力を強め、将軍義昭・織田信長の幕府方本拠である、京都を圧迫する程になっていました。
 また、有馬郡に西接する播磨国(美嚢郡)三木城でも交戦があり、池田から西側の動きに確実な信頼を築いて、池田勢が敵に包囲された局面を打開するための反転攻勢を成功させようとしていた時期の音信と考えています。つまり、元亀2年の白井河原合戦直前の文書です。

◎参考:白井河原合戦についての研究 

『中之坊文書』は、私の研究にとって、そういう重要な文書なのですが、署名している20名の人物の出自が、全て把握できていないという、大変なジレンマがありました。これらの人物が判明すれば、その時の政治・軍事情勢解明の手がかりにもなるはずです。

今回、なんとなく出自の推定が立ったのは、藤田橘介重綱という人物です。志末与志さんのブログ『志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』 - 松山重治―境界の調停と軍事 -
という記事からで、それを読んでいて、「松山重治に従った勇士たち - 藤田忠正 -」の項目が非常に参考になりました。
 それによると、藤田氏は、播磨国美嚢郡の国人で、吉川荘に起源を持つ人物で、毘沙門城(現兵庫県三木市)主を務めた一族であったそうです。また、三好家中の松山重治被官であったようです。
 そういえば、私の研究ノートでの『播磨清水寺文書』では、藤田氏の名が度々見られ、このあたりに縁の国人であることは認知していたはずですが、気付いていませんでした。志末与志さんのおかげで、私の永年の疑問が晴れ、その日から少し、なんだか毎日嬉しいです。

さて、元亀2年という時期に藤田氏が、池田衆と共に名を連ねる理由ですが、池田と湯山とは有馬街道で繋がっており、政治・経済・軍事ともに非常に密接です。有馬道とは、京都 - 池田 - 湯山や、大坂 - 池田 - 湯山という流れがあり、当時の多くの人々が利用する主要道の一つで、往来も盛んでした。
 ちなみに藤田氏の家紋は、その名の通り「下がり藤」です。摂津池田氏と同じ本姓は、藤原氏で同族です。
 そしてまた、必要に迫られ、湯山と池田衆の双方にとって、何らかの約束をする時、地縁者や関係の深い既知の人物がそこに居れば、なお安心します。約束を違う確率が低くなり、実現が固くなるからです。

署名の中で、私の把握している人物を上げてみます。

【池田家臣】
池田清貧、池田(荒木)村重、池田正良、荒木卜清、神田景次、池田正慶、高野一盛(多分家臣)、池田正遠、池田正敦、藤井敦秀、瓦林加介、池田正行、宇保兼家
【不明な人物】
小河家綱、安井正房、行田賢忠、藤田重綱
【その他】 ※家臣では無いが、出自が推定できる人物。
萱野宗清(現箕面市萱野の住人)


萱野氏は、摂津守護であった高槻を本拠とした和田惟政の西進に圧迫され、自らの領知を保持するために、池田氏を頼った勢力であると思われます。
 これに同じような関係で、播磨国に出自を持つ藤田氏も行動していたのかもしれない、と思いつきました。加えて「小河」氏も不明だったのですが、読みは「おうご」で、そうすると播磨国人の「淡河」といった系譜が思い浮かびます。ただ、摂津国守護家一族の伊丹氏の縁者で「小河(おがわ)」という人物も見られますので、そこは何とも言えないところです。
 それにしても先にあげた「小河」氏は、中之坊文書では、一番初めに署名をしていますし、順番はあまり関係が無いとも言われるものの、一番初めや上位であることはやはり、何の意味も無いということは、考えられないのではないかと思います。小河出羽守家綱は、藤田重綱と同じ「綱」の字も持ちます。それも何か気になります。しかし、小河氏は池田家臣でもなく、この人物いについては、中之坊文書でのみ登場して、他では見られません。
 中之坊文書に見える人々は、播磨・有馬郡あたりの人物と池田衆が連絡を取り合い、互いの利益補助のために一時的に結束した足跡ではないかとも考えていますが、今のところは、確実な証拠はありません。

しかし、今回の藤田重綱の出自推定が立ったことで、そういった動きの可能性があったことも、推定ができるようになったかもしれません。続けてまた、調べていきたいと思います。


2019年6月5日水曜日

天正6年(1578)秋、摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと

明治期の地図(+-+-+線が県境であり旧国境)
1576年(天正4)初頭、丹波国内の最大勢力であった波多野秀治の、織田信長政権離叛により明智光秀は、丹波国平定を目前にして、敗走します。この時、光秀は、現兵庫県三田(さんだ)市を通り、池田を経て、京都へ戻ったようです。
 この当時、摂津国内をほぼ掌握して、大名(守護)となっていたのは、荒木村重で、村重は、光秀の丹波平定戦を支援する役割りも担っていました。現在の三田市は当時、摂津国に属していましたが、播磨・丹波とも国境を接しており、要衝でした。多数の重要な街道を通し、いわば「ロータリー」のようになっていて、三田からはどこへでも進むことができました。
 江戸時代には、そういう立地から物資の集散地となり、特に米については、三田での値が、摂津国内の米価を決めたともいわれます。

さて、戦国時代、天正頃の三田へ話しを戻します。天正4年の光秀の、丹波国撤退から、その後は再入国の機会無く、時を待つことになりましたが、再びその機運が高まったのは、荒木村重が織田政権を離叛した1578年(天正6)でした。
 天正4年初頭以降、摂津国を領していた村重が、一族であった荒木重堅を三田へ入れ、領国統治を進めており、着実な成果を上げていました。光秀が丹波から撤退した同年2月、村重は、丹波・摂津の国境の村、「母子(もし)」に禁制を下し、素早く国境対応を行ったりしています。ここは、波多野氏の居城「八上」の後背地にあたり、通路でもある重要なところです。
 国境というのは、時の勢力により、実効支配が出たり、引っ込んだりしますので、境目自体は変わりませんが、実質的な状況変化があります。また、八上城の防衛を考えるなら「後背地」は確保しておかねば城が孤立し、脅かされ、物資補給もできません。

戦国時代、現在の三田市北部地域は、そういった重要な地域でした。

1578年(天正6)秋。荒木村重は、織田政権から離叛します。これは信長にとって、非常に深刻な事態となり、状況を悪化させないために、信長自らが出陣して、「初動全力」で鎮静にあたります。結果は歴史が示す通りですが、この頃の三田市北部の様子を少し詳しくご紹介します。

村重の離叛で、波多野氏勢力とは一体化します。この時両者(先に波多野氏は毛利方に)は、織田政権と敵対していた毛利輝元方となります。元々摂津の荒木氏は、丹波国が起源とみられますので、そういう接点も何らかの働きがあったかもしれません。
 さて、毛利方からすると、村重が味方に加わったことで、軍事的には一気に京都間際まで、友軍勢力が拡がり、将軍義昭再入洛が現実味を帯びるようになります。また、織田方へ頑強に抵抗していた、本願寺宗とも地続きの協力関係となります。
 一方の織田方にとっては、天下を平定するための終盤の安定感さえも出始めていた頃ですから、村重の政権離叛は、大きな危機を迎えたわけです。
 信長は、丹波国内とその周辺の事情をよく知る光秀を、再び同方面へ入れ、優先して敵勢力の分断を行いました。今度は光秀がそれらを首尾良く進め、村重勢力の弱体化に貢献します。村重方は、三田、花隈、有岡、尼崎などに追い籠められて、点の勢力維持となってしまいます。

小柿周辺の城館配置(三田市史より)
さて、この頃、村重のかつての主君であった池田勝正も三田市北部に入って活動していたようです。時期としては天正6年(天正5年も余地はある)に入ってからかもしれません。勝正は、1570年(元亀元)6月の家中内訌以来、将軍義昭方として行動していたようです。中央政権の権力が複雑に作用して、勢力が離合集散していましたので、勝正の行動の詳しくはまた後日としますが、備後国鞆に居所を構え、鞆幕府ともいわれる権力体を保持しており、それに従って勝正は、行動していたようです。鞆に近い場所に居た可能性もあり、言い伝えや遺物があります。
 摂津池田家に関する系図に、勝正は「天正6年歿」とあります。また、その他いくつかの史料や遺物があります。そして、勝正の墓と伝わる五輪塔が、三田市北部の小柿という地域にあります。
先に説明したように、この地域は、戦国時代当時は非常に重要な地域です。ここに勝正が入っていたならば、しかも墓があるなら、「戦死」ではないでしょうか。勝正の行動は、一貫性が見られるため、多分、将軍義昭方勢力として、この小柿地域に入り、同じ友軍勢力であった波多野氏と呼応して行動していたのではないかと思います。

伝館跡の石垣(2001年頃撮影)
地元の方に話しを聞いたことがあります。それによると、勝正の縁故地は、この地域に2箇所あり、(1)は、墓のあるところ。ここは、道の分岐を押さえるような立地です。かつて、墓のあるところの直ぐ上に寺があったとのこと。墓はその寺にあったが、廃寺となったために、現在地に移したとのこと。
 (2)は、(1)からすると、対角線上の北東側、小柿三舟会館のある方面にも勝正の墓(三右衛門墓とも)伝わる五輪塔があり、この周辺に勝正に従って移ってきた武士の方々が定着したとのことです。(2)の場所には、その館跡と言われる石垣も残っています。その侍(伝勝正らしき)が没してからは、同地に慈徳寺が建てられ、更に後、山王神社となり、1910年、同村内の天満神社と合祀するため移転しました。山王神社は勝正公が崇拝していたとも伝わっています。
 ちなみに、館跡があったとされる場所は、後背は山ですし、通路もあり出入りは可能です。また川も流れ出ていて水の心配もありません。館を構えるには適した地形です。
侍が没してから山王神社となった経緯はどんな感じなんでしょうね。気になります。また、この慈徳寺というのは、勝正の墓と関係するのでしょうかね
摂津池田氏の菩提寺である大広寺には、勝正が死亡したことは把握されていたようです。法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か。詳しくは、以下の参考ページをご覧下さい

(1)の伝池田勝正墓方面を望む(右の山裾あたり)
これら2箇所の縁故地は、互いに見通しが利き、重要な通路上にあります。そしてまた、それらの真ん中に、高平田中城館(城館配置図中の(11))という推定地もあって、この三点で、通路は完全に管理できる相関にあります。小柿のこの地域からは、丹波(篠山・亀岡)方面と摂津能勢方面へ繋がる道があり、非常に重要な地でした。
他方、1578年(天正6)では、特にこの地域は最前線であり、非常に緊迫した状態の地域でした。そういう地域で、明智光秀、池田勝正、荒木村重(重堅)は、再び接点を持ち、刃を交えたのです。彼らは、かつて、非常に関係の深い仲であったにも関わらず...。
※村重は、天正6年秋には動けずに、三田方面へは入れなかったかもしれませんが、何らかの情報を得ていたに留まるかもしれません。

◎参考:池田氏関係の図録「伝池田勝正墓塔」 (私の過去の記事より)
◎参考:池田筑後守勝正の法名は「前筑州太守久岩宗勝大禅定門」か 



【ごあんない】
兵庫県三田市の状況をまとめた「荒木村重と摂津国有馬郡三田について」という研究発表のレジュメや荒木村重の領国支配についての論文(会報への原稿)「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」がありますので、ご希望される方には、実費にてお分けします。このブログの右帯下部にある「連絡フォーム」からお問い合わせ下さい。


※以下の360°写真は、伝池田勝正墓の今の様子(2019年撮影)です。



2019年5月6日月曜日

新しい世、令和の新元号を戴くこと慶賀の至り。今年は皇紀2679年。

5月1日より、令和の新元号となり、各地で祝賀行事も行われたり、そういったムードになていますね。ただ、年々国家と国民の距離が開くような気もしているのですが、皇居の一般参賀は、たくさんの人が訪れているようですね。

若干、違うかもしれませんが、皇紀2600年を祝う国家行事(祝典)が、昭和15年(1940)にあり、その時の映像がありますので、ご紹介しておきます。外国からの招待参賀あって、その様子も収められています。
※皇紀:天皇の歴史で、西暦と相対する日本独自の紀年法。

凄い時代だったと思います。この人々の時代に、戦争は負けましたが、同じ人々が国家の再建を果たし、今があります。その時に必要な世の中の形ができます。この時は、近代の戦国時代とも言うべく、世界情勢でした。技術、経済力に優れる欧米列強から国を守るため、ある程度の軍国化は自然なことであり、その当時は、それについて何も特別な考えはありませんでした。日本でも、その他の国でも。
 第一次世界大戦の結果、近代戦争に負けるということの悲惨さを目の当たりにして、日本は身構えたところがあるかもしれません。当時も今と同じ、グローバル化、急速な技術の発展と国防をどのように調和させるのか、難しい舵取りを迫られていたことでしょう。国内の意見も纏めにくい時代にもなっていました。

歴史とは、その通りになぞるものでは無く、学ぶものですね。儀式や行事とは違いますから。バカな前例主義はやめて、思考の停止に気づきかないといけませんね。歴史から摂理や真理、あるべき姿を学び、実践しなければならないと思いますね。何の為にそれをするか、ちゃんと考えて行動しないといけませんね。



2019年4月29日月曜日

藤井寺市の伝統工芸品「小山団扇(こやまうちわ)」は、甲斐武田家臣山本勘介がこの地に伝えた!

藤の花を見物に、大阪府藤井寺市の紫雲山葛井寺を訪ねました。とてもきれいで、良かったです。桜もいいですが、他の花もいいですね。最近は、あまり藤の花も街中で見かけないので、少し遠くに出かけないといけません。

葛井寺(ふじいでら)の藤の花
葛井寺(ふじいでら)境内


 お寺も七世紀中頃に興りを持つ古刹で、永い歴史を持つ真言宗のお寺です。近隣には、1300年以上の歴史を持つ辛国神社や古墳群があり、一時代を築いた地域でもあります。街道の曲がりくねり、風景もとても良かったです。
 間もなく、令和の世を迎えるにあたって、意識はしていなかったものの、時間や時代の流れを少し感じることができたのは、とても良かったと思います。

 藤井寺市は、人口6万人ほどの都市ですが、有名なのはやはり、藤井寺球場のお陰でしょうね。今はもう取り壊されて、学校や住宅になっていますが、それもまた、一時代の文化を担った事物です。
 藤井寺市は、生まれて初めて訪ねたところですが、独特の雰囲気があって、それはそれで、文化の多様性や奥深さを感じました。「藤井寺まちかど情報館 ゆめぷらざ」で、色々教えていただきました。 とても勉強になりました。

そこで知ったのですが、藤井寺市の伝統工芸品として、小山団扇(こやまうちわ)というものがあるそうです。この工芸は何と、甲斐武田家臣の山本勘助がこの地に伝えたのだそうです。戦国時代の永禄年間、三好氏の動静を探るため、この地に潜伏。名を変え、隠れ蓑としての生業として団扇の製造販売をしたことから、藤井寺市域に定着したのだそうです。初耳でした。知りませんでした。その後、発展を遂げ、ブランド化すると、江戸幕府将軍や、皇室にも献上されるようになったのだそうです。
  詳しくは、以下のブログをご覧下さい。パンフレットの案内をテキスト化されています。また、観光協会のサイトも上げておきます。

ブログ:なにかいいこと「小山団扇」
https://blogs.yahoo.co.jp/tumumasi2001/38291104.html
藤井寺市観光協会公式サイト
http://www.fujiidera-kanko.info/index.html

また、貰ったパンフレットのイメージも以下に上げておきます。

小山団扇パンフの表面

小山団扇パンフの裏面

この日は、春らしい気候で、とても良い日帰り旅でした。大阪もまだまだ知らない事が多いですし、いいところがいっぱいあります。地域それぞれに魅力がありますね。


2019年4月28日日曜日

人間は二度死ぬ?平成から令和になる今、考えること。

平成の役割りを終え、新しい元号になろうとするその時の言葉として、これが相応しいかどうかはわかりませんが、ひとつの世が変わるその時を目前に控え、時間や人間などといった、半ば宗教的な思いを馳せることも、私の中に時々おきます。

とある漁港(泉佐野市)で見かけた光景も、何だかそういう思いに結びついてしまいます。水槽に、一疋だけの魚が、止まること無く泳ぎ続けていました。


ぐるぐる、ぐるぐる、泳ぎ続けています。たった一疋だけです。

見方を変えれば、これは元気な魚かもしれません。はたまた、この後、大量の仲間がこの水槽に入ってくるのかもしれません。兎に角これは、魚屋さんの水槽だという事は、一瞬忘れて下さいね。

しかし、この光景、私なりに感じたことがあります。一人だけでは生きて行けないし、未来も無い。その光景に見えたのです。

今は元気。だけど、その後です。

動物であれ、植物であれ、継ぐことの不必要は無いはずです。そう言う意味では、お墓は、とっても重要ですし、拠としての意味があったのです。
 しかし、現代日本社会のように、どことも繋がらない状態を続けていては、この水槽の魚のようになってしまうような気がします。今現在も繋がらない。未来を考えて繋がろうともしない。考えようともしない。限度も考えない。これは新しい概念の「自死」だとも思います。大きく見れば、文字通り、社会の自滅でしょうか。

人間は、肉体的に、物理的に滅びます。それが葬式で、それが一度目です。しかし、その後、その人が生きたことと、その行動。更には、それ以前の先祖の繫がりを、目に見えるカタチにしているのがお墓で、今を生きている自分と繫がりを持てる唯一の方策です。それが、現世の苦しみを緩和するための、様々な困難を乗り越える、一つのアイテムとなっているのです。
 しかし、今は、その墓さえも経済的困窮と文化的変質から、物体として残すことを望みません。人の、二度目の死を忌避する方策だったにもかかわらず...。

その「二度目の死」とは何かというと、その人に一番近い人々の心から、その人自体が消えてしまうと言うとです。その連続となれば、今生きているその人は、どこから来たのか、解らなくなるということです。

過去の日本の人々は、それを一番に恐れました。それが無くなる事は、過去も未来も現在も、全てを失うことになったからです。
 それを失えば、物体として人間(の身体)が、そこにあるだけです。それは、モノと同じ事です。戸籍などというものは、記録、データ上のものであって、物体としての証し、がなければ、この世での証明のしようがありません。それは、今も昔も同じ事です。そんな映画もありましたね。

自他の中で生きるから、「己(おのれ)」があります。自分は、人の心の中にあるのです。だから、人の心から自分が消えてしまえば、それが末期(まつご)になるわけです。それが、人間が二度死ぬという意味だと、私は理解しています。

そう言う意味では、新しい元号の「令和」は、昭和が消える、もう一つの新時代を迎えることになるのでしょうね。


2019年2月26日火曜日

新撰組屯所となった京都壬生の八木家は、但馬国守護代八木氏の系譜!?

先日、梅を見に京都へ行ってきました。その日、壬生の新撰組関連の旧蹟も巡ってきました。昔、幕末に興味を持っていた頃、新撰組の史跡を巡っていましたが、京都の壬生寺周辺には行っていませんでした。大阪の生まれ育ちですので、隣県の京都はスグに行けますが、今回初めての訪問となりました。

新撰組について、色々な本を読んていましたが、司馬遼太郎の小説も読んでいました。「燃えよ剣」は、映画やテレビドラマにもなって、司馬氏の代表作でもありますね。

その舞台ともなった八木邸は、新撰組隊士が寝起きしていた頃と同じ場所、同じ造りの状態です。永年、実際に人も住んでいましたので、部分的に改修などはされていますが、ほぼ当時のままです。刀傷や文机も今に伝わっていて、実際にそれらを見ると大変感慨深かったです。




さて、この八木家なのですが、越前朝倉家の縁がある名家と伝わり、この壬生のあたりの取り仕切り役の家柄だったそうです。八木家の家紋も三盛木瓜紋です。

しかし、私が思いますに、室町末期の戦国時代、朝倉家の有力家臣に八木姓はありませんので、それは但馬守護家の山名氏の重臣八木氏の流れを持つのではないかと思いました。
 元亀元年(1570)の朝倉攻めの頃、朝倉氏は若狭国や丹後国、その西の山名氏とも関係を持っていたのではないかと調べていたのですが、この地域の資料に、それを裏付ける有力な証拠が無く、ちょっと調べの手が止まっていたのですが、この八木邸を訪問し思わぬ接点の可能性も見つかりました。但馬山名氏には、四人の有力者「近世の家老ともいうべく守護代(しゅごだい)」が居り、室町時代末期には、守護を凌ぐほどの勢いを持っていました。
 一方で、但馬・因幡・伯耆国を治めた山名氏は、没落しつつあったとはいえ、名家でしたので、豊臣秀吉のお伽衆となり、家は存続します。ですので、この流れで山名氏の有力家臣であった八木氏も京都に出てきたのではないかとも、今は想像しています。
 しかし、実は越前国守護となった朝倉氏の出莊が、実は「但馬国朝倉」であり、その時代からの繫がりである可能性もあります。また、朝倉氏は、平安時代から大武士団を形成し栄えていた日下部氏の流れをくむ氏族のひとつで、実は八木氏もこれに同じ系譜を持っています。
 確証はいまのところ無いのですが、何れにしても、何の縁も無いのであれば、当時であっても公言することは難しい筈です。単純に、知っている人の数が多いからです。ですので、何らかの接点がある事は、間違い無いと思います。

「京都鶴屋 鶴寿庵」の栞には、
当店は、御菓子司”京都鶴屋”と名乗ります。当家「八木家」は天正年間中(室町時代)に、京・洛西壬生村に居を構え当代まで十五代。幕末には新撰組発祥の地、壬生屯所でありました。  (後略)
とあります。

天正年間は20年間ありました。朝倉家が滅びたのは、天正元年です。本能寺の変で織田信長が斃れたのが天正10年。そのほとぼりが醒めた頃に八木家は京都に出てこられたのでしょう。

【参考】播磨屋 但馬八木氏


2019年1月13日日曜日

文化とは何か - 摂津池田家滅亡から考える(文化形成・権威と権力) -

近年、世界中で移民や国のあり方に、大きな課題が投げかけられています。地域社会共通の認識といえる「文化」や国境の意味について、改めて考えるようになっています。
 技術の発展で、人やモノの移動、通信・金融の交換が容易になり、いわゆるグローバル化が進んだ結果です。

池田勝正が生きた室町時代末期、日本、近畿地域でもそれは起きていました。摂津池田家はその、いわばグローバル化の中で成長し、反映を築いたのですが、そのグローバル化によって、人の心を繋ぐ基本単位である「家」や組織の文化が維持できなくなり、瓦解したとも言えます。

「文化」とは、日常的によく耳にしますが、それは一体何でしょう?

人間の意識には、この文化が非常に重要であるはずですが、それについて、日頃あまり考えを深める事は無いように思います。島国であり、多分、ほぼ単一民族国家であるからでもあります。

この文化について、滅びてしまった摂津池田家を通して、考えてみたいと思います。先人は今、私たちが苦しんでいる状況を既に経験しています。近年は、歴史学に「相似性」概念を持ち込む人もあり、私はそれに影響を受けています。
 同じ日本の中で、前例としての事実が歴史であり、経緯です。要因が同じである場合が多いです。一方で、世界に目を向けた時、日本の社会経験が、世界よりも先である場合もあります。例えば、宗教と政治の関わり方とか、国民皆保険とか、教育、医療などです。

ちょっと脱線しました。話しを元に戻します。

本題の前に、「文化」についての定義をはっきりさせておかなければなりません。
 「文化」を辞書で引いてみると、
  1. 文明が進んで、生活が便利になる事。
  2. 真理を求め、常に進歩・向上をはかる、人間の精神的活動(によって作り出されたもの)。
と書かれています。 ※新明解国語辞典第三版/1959.9..20、三省堂発行
 更に、「文明」が分からず、続いて辞書を引いてみると、
  • 発明・発見の積み重ねにより、生活上の便宜が増す事。
と書かれていました。
 そのわからない部分を足して文化を説明するための文章を勝手に再構成すると、
  • 発明・発見の積み重ねにより、生活上の便宜が増し、生活が便利になる事
という事になり、現代の状況(生活)を理解する事ができます。

しかし、文化の項目の(2)について考えると、疑問が残ります。ある意味そうだと思いますが、(2)の意味を「文化」という言葉から、日常的にその性質を感じているでしょうか?

さて、それらの説明で、私の目の前にある池田固有の歴史的遺物(文化財、埋蔵文化財も含む)を理解ができるかどうか、また、説明がつくかどうか。大変な疑問を感じていました。
 (1)の意味で考えれば、何の格付けもされていない歴史的遺物というのは、古いだけのやっかいものでしかありません。これはごく一般的な認識です。しかし私は、もう一つの意味である(2)の事について、長い間考えていました。

私は「文化」というのは、言い換えれば「共有」ではないかと感じています。私の中では「文化」を「共有」と言い換えることによって、(1)と(2)のどちらも説明がつくような気がしています。
  進化の過程で、社会が共有してきたもの。それがそこに「文化財」として残っているという事は、先人を含めた私達が、歩んできた軌跡を再認識する事であり、また今後の応用(社会や地域)の元であると、説明ができると思います。
 そう意味で、曖昧な「文化(財)」という言葉を、あえて「歴史的文化財」「芸術的文化財」ときちんと区別して考える事で、しっかりとした意識の基礎を作る事ができるのではないかと考えています。
 
さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ本題です。

冒頭でも触れましたが、文化とは、私達が平和で穏やかに生活するにおいて、非常に大切な基礎になりますが、その重要性に気付く事はあまりありません。文化とは「共有」であり、生きる上で全ての根幹を成す「社会風土」でもあります。
 日本は長い間、近代社会となってもなお、つい最近まで「家制度」がその中心となり、個人が、一族や血縁を元に結束し、互いを守っていました。
 戦国時代もそうです。その名の通り、戦国の世の生活ですので、生死にかかわる保護を「家制度」を中心に求めていました。それについて、摂津池田氏を取り上げて、文化を考えてみたいと思います。もちろん、今は今の文化がある事は良く理解した上で進めます。

摂津池田氏は本姓は藤原で、地名を名乗るようになって、「池田」と称していました。応仁の乱の頃、「充正(みつまさ)」の代で、大いに発展し、中興と考えられています。
 池田氏は、その後200年程に渡り成長を続けましたが、勝正の代が独自権力体としては最後の当主です。
 私は勝正を中心に前後四代程を見ていますが、特に池田氏が飛躍的に発展したのは、いち早く官僚制を採り入れたことによるものです。
 意思決定と実行を別々にしたため、物事の進行が非常に速やかになって、周辺の同規模の国人衆から抜きん出た成長を遂げます。また、その成長過程で人材不足ともなり、必ずしも血縁を伴わない有能な人材を採用するようになります。その中に、荒木家や中川家などがあります。
 また、その本拠地の立地も5本の国家的主要道を通し、他にも様々な街道が扇の要のように領内で交差していたため、人や物が集まりやすい環境にありました。

そういった環境もあって、摂津国内では最大級の国人に成長し、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの日記には「要すれば軍備の調った一万の軍隊を用意できる。」とも紹介される程に有名で、大きな勢力でした。

しかし、そんな池田氏も滅んでしまいます。それは何であったか。

急成長したために「家中文化」が崩壊したためだと考えています。
 これはもう少し詳しく説明しないといけませんが、価値を「共有」するための統治の仕組み(装置)を作り出せず、感覚・感情で物事を判断したためだと考えています。必要な組織化、権力の整理を行えず、時代の要請(意思決定)に応えることができずに、対立を経て、家が滅んでしましました。
 また、その過程での決定的な悪要素は、当初は、当主(惣領)の補佐役としての家老(老人(おとな):池田四人衆)が、代を経るにつれて、独自権力化し、当主の選定にあたって対立する程になってしまいます。いわば、二重権力状態でした。
 私は勝正という人物は、池田四人衆に擁立された惣領であり、権力はどちらかというと、四人衆側の意向が強く働く実情であったと考えています。傀儡とまでは言えないですが、勝正の代になると、当主を補佐する役目が変化していたと考えられます。
 最終的には、四人衆と勝正も対立してしまい、一時的に当主を置かない時代も出現します。それ程に四人衆の権力が強かったと言えます。
 しかし、それもうまく行かず、四人衆自体が分裂し、それを以て池田氏は滅びてしまいました。この時、四人衆の中に荒木村重が居り、分裂の原因は池田一族の血と、よそ者の区別が決定的になったものと考えられます。運命共同体ともいえる組織の、文化を共有する装置が無かったための悲劇であると考えています。

翻って、今の私たちも、文化というものが理解されず、作ろうとしなければ、このようにあらゆる場面で、相違・対立が起き、意思統一ができなくなります。
 家庭、地域、府県、国など、単位が色々ありますが、文化があるからこその、その善悪の基準ができ、その内側で理解し合ってまとまります。意思形成の共有ができ、平和で穏やかに暮らせ、経済活動もできるのです。

今、移民の問題が世界的に深刻化していますが、文化そのものを理解することをしてこなかったためだろうと思います。地域文化を保持する工夫を打ち出さず、思考の停止状態であり、今、近代社会の概念と価値観を永続させるための分岐点に立っていると、非常に関心を持っています。価値の共有ができず、社会がバラバラになった時、本当に弱い存在である個人はどう生きるでしょう?
 
その意味で、文化財を大切にしない行為は、心の現れだと考えています。今や自治体(行政)そのものが、率先して歴史的文化財を蔑ろにしている状況です。考えずに、ただ見ているだけです。自治体や行政の意味さえも、もう衰退しつつあります。就職先のひとつみたいなものです。統治力(ガバナンス)が、低下すればどうなるか。無法地帯となります。法律だけで全て統治はできないのです。それは文化による「善悪の判断」が、機能しているから社会が支えられているのです。
 個人的には、建国以来、また、太平洋戦争敗戦直後よりも深刻であると感じている程です。これから先は、これまでとは全く違います。

国家観の欠如が、これまでに無い、事件と事故を起こしています。これまでには考えられなかったことが頻発しています。文化はゆっくり壊れています。この先は、更に壊れるでしょう。

文化は簡単に壊れます。組織も簡単に壊れます。例えるなら、胴上げの時、それぞれが役割りを忘れて、手を引っ込めるだけです。一度壊れてしまえば、二度と再生できません。


摂津池田氏の組織変化や権力構造の変化については、詳しく知りたい方は、こちらの資料もご活用下さい。
※用紙サイズはA3ですので、DLいただき、データをコンビニのコピー機で出力しますと、とてもきれいに印刷できます。

【追伸】
先に述べた、国語辞典からの言葉で文化の意味を考えた時の(2)の項目について、その意味で「移民」を考えるなら、簡単に自分の国を棄て、国作りの根本である「民族自決」も理解できず、愛国心で以て国を支えるつもりも無く、自分の都合で住む場所を変える性質があるなら、地域「文化」とは無縁であり、共有することもできないでしょう。


【オススメ動画】
タムボムニックTV「今 江藤淳みたいな日本人が必要!」2019/05/06 に公開
ニックさんが、運営するユーチューブチャンネルです。タイトルにはありませんが、内容は、文化についてです。日本に住む外国人から見た日本の文化とその先行について、感想を述べてくれています。
 大変簡潔に述べられていて、大変参考になります。是非、ご覧下さい。


2019年1月5日土曜日

明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(はじめに)

2020年の大河ドラマは「明智光秀」が取り上げられますので、それに向けて、池田勝正・荒木村重との接点を取り上げた特集を組んでみたいと思います。

明智光秀は将軍となった足利義昭をその流浪時代から支えた人物で、将軍となった義昭からも信頼を得ていたようです。
 義昭が将軍となった永禄11年(1568)秋からは側近として活動していたようです。初期の頃は、あまり当時の史料もありません。また、同じ側近でも、細川藤孝は領知を桂川西岸の山城国内に与えられ、幕府勢力の武将としても活動しますが、光秀は将軍義昭政権初期の頃は、文官のような活動を主に行っていたようです。

しかし、光秀はもちろん武士ですので、いざとなれば戦いにも動員されますが、領知もまとまったものはなかったようですので、武士と言っても、将軍の親衛隊のような状況だったようです。

一方、摂津国最大級の国人であった池田衆の惣領池田筑後守勝正は、時の将軍(幕府)からも頼りにされる存在でしたが、当時の中央政治に家中政治も大きく影響を受け、不幸にも分裂の後、家制度の解体の憂き目に遭います。
 代わって、荒木村重が池田家中から頭角を顕し、摂津国の守護格に成長します。そのタイミングで明智光秀も新境地を開き、戦国武将として立身出世します。光秀は織田信長政権内での新興勢力として、村重とも関係を深めていきます。両者の相性も良かったのか、縁組みをして絆を強くします。
 しかし、何の因果か、両者は遅いか、早いかの違いだけで、結局は織田政権から離れ、家は滅んでしまいます。
 
詳しくは、別立ての記事をご覧いただくとして、今のところ解っている光秀・勝正・村重、三者の接点(エピソード)を以下にあげてみます。

<明智光秀と池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)>
◎京都本圀寺の戦い(永禄12年正月)
越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」(元亀元年4月)
摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと(天正6年秋)