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2022年10月26日水曜日

高山ユスタと摂津余野・池田氏の関係を考える

 高山ユスタ生誕地の碑が大阪府豊能町余野に建てられています。ここは中世、余野氏が居城したといわれる余野城があったところでもあります。余野氏は在地の有力者で、周辺の野間氏や能勢氏とともに「能勢の三総領」と称されていた能勢一族衆でした。
 そんな余野氏が、摂津池田氏と高山右近とを結びつけていたとする記録が残っています。当時、日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスなどによって見聞きした出来事が記録されており、有名な『フロイス日本史』にまとめられています。

第三十九章「沢・余野及び大和国十市城の人々の改宗について」の中で、高山マリアとユスタの事が詳しく記されています。文が長いので、関係記述のみ箇条書きにしておきます。
 

  • そこには比丘尼(ビクニ)が大勢いた。そのうちの幾人かは、クロダ殿(余野蔵人)の奥方の親戚であった。奥方(マリア)は、その家柄からいえば、まことに高貴な人で、池田殿(当主は長正?勝正?)と称して、その国の最大の殿の一人の正当な娘であった。池田殿の家は天下に高名であり、必要とあればいつでも五畿内きっての極めて優秀な、万全の装備の整った一万の軍隊を戦いに繰り出したものであった。
  • この奥方の長女(ユスタ)と結婚(相手は当時13~4才の高山右近殿)した。
    ※高山右近は、1552年(天文21)生まれとされるので、1565年(永禄8)頃の結婚と考えられる。
  • 織田信長が、荒木との戦いの結果、信長は、池田の所領全部を他の諸侯に与え、この奥方の所領であった余野もその中にあった。その結果、彼女は追われて、困り果てたあまり高槻へ行った
  • 右近殿と彼女(マリア)の娘ユスタとが、高槻城主となっていた時、この母親(マリア)はもう大人になっていた息子達と、彼女が二度目の夫(蔵人殿の弟)から得た小さな他の子供達に伴われて、高槻に来たのであった。
  • 彼女(マリア)を襲った病気によって、デウスが彼女を御許にひきとりたもうた時、彼女はやっと四十歳くらいであった。
  • 信長が殺されたのと同じ年(1582年:天正10)に、その後継者である羽柴筑前殿が越前の国に攻め入って...。
    ※羽柴秀吉が越前国を攻めたのは、天正11年であるので、山崎合戦(天正10年6月)と混同しているのかもしれない。
  • マリアの年長の息子二人と、その年にキリシタンとなっていた彼女の夫(蔵人殿の弟)も一緒に同じ戦争で死んだので、マリアには三人の娘が残るばかりになった。皆キリシタンで...。
    ※賤ヶ岳の戦い(1583年:天正11)を経て、北ノ庄城の本拠で柴田勝家は自害して、一連の戦いは終わる。主要な衝突は賤ヶ岳合戦であり、この戦いでは、摂津国衆として高山右近・中川清秀が出兵し、その内清秀が戦死。その中に余野氏も含まれたのかもしれない。


とあって、その当時の様子を詳しく知る事ができます。
 また、この一連の高山マリア・ユスタに関する記述の中では、摂津池田氏の事についても興味深く記されています。マリアは、後に高山を名乗るようになったとしています。マリアは、四十歳くらいで亡くなっているようです。

永禄7年(1564)正月、余野城主余野氏が、縁戚にあたる高山飛騨守ダリオ(右近の父)の紹介を受けた、日本人宣教師ロレンソを城内に招き、城内に人を集めて宗教論争が展開されました。そして論争を終え、これを期に「蔵人殿」は、妻・子・兄弟・家臣など53名とともに受洗したと記録されています。
 余野には今もその城跡の梺に「オヤド」と呼ばれる小字があり、ここにかつては客を止める施設があったと考えられています。この場所で「宗教論争」が行われたと地元の研究家は考えておられます。そこに碑が建てられています。

追伸:永禄11年(1568)10月2日の織田信長による池田城総攻撃で、池田方として討死した足軽組頭「高山門内」は、この池田家と余野家から高山家に繋がる関連の人物だったのだろうかと少し気になっています。

 

 

大阪府豊能町余野にある高山ユスタ生誕地碑


大阪府豊能町にある摂津余野古城跡


大阪府豊能町高山にある伝高山マリア墓(摂津池田城主娘)

2022年5月13日金曜日

既知の史料なのに、読み返すと気付いたこと。「もしかして、これって...。」2点。

 今年初の更新です。新年、明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。永らくの未更新をお許し下さい。

近頃、元亀2年の史料を少し読み返すことがあり、時間が経って、改めて読んでみると「あれ?」ということがありますね。既知であり、既出の史料ですが、それを紹介したいと思います。

◎摂津国有馬郡の中之坊文書に署名した「池田蔵人正敦」について
欠年6月24日付けで、摂津国有馬郡の湯山年寄中に宛てて発行された文書です。個人的には元亀2年と推定しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P154

内容は、以下のようになっています。

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本文:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名部分:小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、萱野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
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この中で、「池田蔵人正敦」について、気になったことがあります。この署名中には、色々な地域の代表としての人物が関わっていると見られます。例えば、 萱野助大夫宗清は「萱野」(現箕面市)、藤井権大夫敦秀は「外院」(同市)、 宇保彦丞兼家は「宇保」(現池田市)、神田才右衛門尉景次は「神田」(同市)、藤田橘介重綱は「播磨国の由来か」といった感じで、非常に広範囲に渡ります。これは、象徴的・絶対的な人物がいない場合でも、その代替として、約束の根拠としては非常に有効だったと思われます。

余野古城跡

 一方で、池田信濃守村重とは、荒木村重と同一人物でありながら、この時は、池田姓で署名をしています。村重はこの時、池田家から嫁取りをし、池田一族となっていたからです。村重は、対外的にも「池田姓」で知られており、西国の大名である毛利家の音信でも「池田信濃守」として記述されて、認識されています。
 この『中之坊文書』にはそいうった要素も含まれており、時代による人物の所属や名乗り(官位)などを知る事ができる貴重な史料です。


その観点で見ると気になるのが「池田蔵人正敦」なのです。この人物は、余野(現箕面市)の蔵人ではないかと思います。余野蔵人は、摂津池田家から嫁取りをしており、一族的な扱いを受けている筈だからです。
 『フロイス日本史(中央公論社)』の192頁に、余野のクロン殿のことについて記述があります。余野氏は切支丹であり、池田家の婚姻関係(長正の娘?:記述では非常に高貴で、摂津国で最大の殿の娘)があったとしています。また、地元の伝承では「黒田姓」は地域に無い、との調査結果があることから、フロイス日本史にある、「クロン」「クロード」といった記述は、「蔵人(くろうど)」であり、余野氏はこの官名を名乗る系統だったと考えられます。また、余野氏は能勢一族の一派で、能勢氏・野間氏と並び三惣領と言われる地域の代表的一族でもあります。余野一族は、永禄7年正月に、蔵人と妻子、兄、弟、家臣など53名が受洗したと記されています。親戚である高山飛騨守ダリオの紹介によるものです。
 「池田蔵人正敦」とは、「余野蔵人正敦」ではないかと思います。余野は街道の交差点であり、非常に重要な場所でしたので、血統を継ぐ何らかの手盾で、地域政治の代表的地位を維持していたと思われます。また、池田家中に「敦」の字を使う系統もあります。

元亀2年と推定される6月24日付連署状(中之坊文書)


◎豊後岡藩中川氏諸士系譜「十七之四 安威氏」にある記述について
この記述に「安威三河守勝宗(摂津守嫡男)の事」として、(前略)、一、元亀2年5月、和田伊賀守惟政高槻の城に移りて分内を広めんため敵味方を問わず近隣の村里を掠取領主地頭を追い払う。或る時粟生谷兵衞尉氏晴池田へ参り向かい之留守安威の城をも攻落。其の後三河守は荒木が旗下に属す。、としている。
 また、「粟生兵衛尉氏晴(隼人佐氏信次男)の事」として、(前略)一、元亀2年5月、和田伊賀守惟政高槻の城に移りて、荒木村重と雄を争い、分内を広めんため敵味方を問はず、近隣の里村を掠め取り、領主・地頭を追い払う。ある時粟生兵衛尉氏晴、池田へ参り向かいの留守、粟生の館をも攻め落とし、其の後氏晴は荒木が旗下に属し、本領安堵を望む。(後略)、とあります。

この中で「里村・村里」という言葉が気になります。伝記史料は、年代の間違いが多いのですが、これは比較的正確なのかもしれません。すなわち、白井河原合戦の直前の様子ではないでしょうか。この時、安威・粟生氏は、和田惟政によって、惣領格(の可能性がある一派)が、本拠地を逐われます。
 一方で、この周辺の地域で「里」に関する伝聞史料は、「佐保」を「里」と聞き間違え、書き間違える事が少なからずあります。
 近年、大阪府高槻市の「市立しろあと歴史館」の『しろあとだより』などでは、『尋憲記』にある「里城」は「佐保城」ではないかとの見解を示されています。これは、私の悩みを一気に解く事となり認識の深まりと拡がりを得たところでした。
 その中にあって、『豊後岡藩中川氏諸士系譜「十七之四 安威氏」』にある記述は、非常に興味深い内容です。

記述の「分内を広めんため敵味方を問はず、近隣の里村を掠め取り、領主・地頭を追い払う。」とは、時代状況は合致します。文脈からいうと、「里村・村里」が「佐保村」を指すかどうかは、微妙な表記感覚ですが、書き間違いの可能性もあるかもしれません。
 何れにしても、この時期に、和田惟政が地域権力の整理、領域拡大の強行策に出た事は、種々の史料からも事実であったと思います。
 この当時の状況として、「分内を広めんため敵味方を問はず、近隣の里村(村里)を掠め取り」の背景として、摂津国内に守護が、異例にも三名おり、それぞれの実力次第で領知が決まるという事実もありました。
 これは、将軍義昭政権の方針で、名のある者を権力者として保護した上で、実際の統治は様子を見て決めるという、地域の当事者にとっては不確実なものでした。それ故に、国内での覇権争いが起きていて、これを有利に進めるために、最有力の池田氏を押さえるため、将軍義昭の親権力で、新参の和田惟政と、小勢力に陥りなりながらも、生え抜きの地域勢力である伊丹氏が姻戚を結んで、池田氏を挟撃する体制を構築していました。

いずれにしても、『豊後岡藩中川氏諸士系譜「十七之四 安威氏」』は、この時期に合致する現象である事は間違いありません。和田方と池田方が、境界を争っていたこと間違いありませんし、白井河原で決戦が行われた事と、その地域周辺の争奪戦が行われた情況は確実にありました。
 更にフォーカスすると、佐保村にある城は、新旧時代の入れ替わりの形態を残す痕跡があり、これがこの史料にある実態を示すものではないかというのは、非常に興味深いです。公的には、なぜこのような状態で、この地域に存続するのかは不明としています。

【参考サイト】山城賛歌:佐保城跡(大阪府茨木市)
http://ktaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_ff76.html

この白井河原合戦の池田勢の強さは、失地回復を望む近隣勢力の協力もあり、それを実現するための戦いであった事が想定できます。

今後また、こういった気づきがあるかもしれません。その時は、向後のために小まめに記事にしておきたいと思います。