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2021年7月13日火曜日

えびす様の総本社、西宮神社(兵庫県西宮市)に残る荒木村重の書状

令和3年(2021)7月11日の日曜日に、西宮神社を訪ねました。西宮神社は、荒木村重との接点があります。同社は近いのに、初めて訪ねました。この日は暑かったのですが、境内は涼風が通り、藤棚の下にある休憩所に居るととても心地よく感じました。
 この西宮神社は、えびす様の総本社として全国的にも有名で、毎年、境内を疾走する福男レースは風物詩ともなっていますね。ただ、このコロナ禍では、この縁起の良い行事も中止が続いているのは残念です。

ちなみに、日本酒好きの私としては、西宮といえば呑まずには居られません。参拝を済ませた後には、南へ向かい酒蔵の運営するレストランで夕食と酒を楽しみにしていました。しかし、コロナ対策で、土日のアルコール提供は全面禁止となっていました。大阪府と同じ感覚で、よく調べずに出かけた私が悪かった。スグに大阪へ戻り、取りあえずのアルコール摂取となりました。色々大変残念でしたが、また涼しい時に、再訪したいと思います。諦めません、呑むまでは...。


さて、西宮神社と荒木村重の接点とは、戦国時代、荒木村重は摂津国の代表となりましたので、統治者として当然、これらの大社は、政治的にも重要な関係性を持ちました。また、この西宮神社の南東隅を回り込んで、数千年の間、日本の官道であった西国街道が走っています。国指定の重要文化財である表大門の前が西国街道です。また、大練塀も同じく重要文化財で、推定では室町時代の建造に遡ると考えられています。

そんな西宮神社に、かつて有った古文書(西宮神社文書:太平洋戦争で消失、写真と影写本が残る)には、荒木村重の書状が存在します。年欠文書ですが、個人的には天正3年(1575)のものではないかと推定しています。


(荒木村重書状:折紙)-----------------------
先日神事米の儀に付きて、折紙遣わし候ところ、礼の儀の為金子五両給わり候。先ず懇音候。去り乍ら此の方要らずの間返し置き候。当社造修然るべく候。向後も加様の儀気遣い有るべからず候。恐々謹言。
              荒木摂津守村重(花押)
八月十九日 西宮社家中
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だいたいの意味は、「神事米の事、気遣いにお金を添えてもらったけども、今のところそれは必要ないから、お返しします。社殿の修復などに充てて下さい。今後も、このような気遣いはされませんように。」といったことを伝えています。なんだか、村重って結構良い奴なのかなと、思わせる史料です。
 もしかすると、大練塀はこの頃と重なる経緯があったりするかもしれません。また、この音信の頃は、村重が摂津国の統一に奔走している頃で、署名にわざわざ「摂津守」と記しているところからすると、「摂津守」を名乗り始めた頃(天正3年8月から)で、その祝い的なことも含めて、西宮神社が音信にお金を添えたのではないでしょうか。

互いに、良好な関係を築こうとしていた様子も窺えます。また、この頃は、村重が池田城から伊丹城に本拠を移し、摂津国の統治者として、名実共に権力(悪い意味ではない。今風に言えば、ガバナンス)が地域社会に浸透し始めている時でした。伊丹(有岡)城からは、西国街道を馬で駆けるとスグの距離感です。港もある重要な場所でしたので、共存を図る工夫はお互いに意識していたことでしょう。

ちなみに、太平洋戦争末期の西宮大空襲で、市街地は壊滅的な被害を被り、西宮神社も被害に遭います。三連春日造り本殿が全焼するなど、甚大な被害を受けたため、社宝や文書なども全てを失ったようです。そんな中で、荒木村重他、二通(織田信長、三好長慶)の歴史史料は影写本と写真で残っており、それにより今の私たちは知る事ができます。門と塀は、そんな時代を経て残ったものです。

 

伝豊臣秀頼公寄進で国の重要文化財「表大門」
 

表大門から望む西国街道

国の重要文化財「大練塀」