2016年4月28日木曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)

細郷(細川庄)は、古くから開け、久安寺を始めとした、非常に古い開基を持つ寺が多くあります。また、江戸時代の開基であっても、再興としての意味合いを持つ寺も多く、非常に古い時代の寺宝を持つ寺も多くあります。神社も然りです。
 細郷内には曹洞宗の寺院が多く、大広寺末寺及び同寺に関わりを持つ寺院が4つ(無二寺・東禅寺・松操寺・永興寺)あります。五月山南側の戦国領主池田氏の菩提寺である、曹洞宗大広寺と関わりを持つ寺が多い事は、非常に興味深いです。

五月山南麓にある池田城は、池田氏の成長過程で何度も戦乱に巻き込まれて落城していますが、発掘調査に関する研究では、落城の度に城郭そのものの縄張りも拡張・強化されています。これと同時に、五月山と城の関係を考え直し、落城しないための領域概念の再構成も行っていたとも想像されます。
 それらの永続的な防衛概念の構築と実践で、池田城は次第に落ちにくい城に変貌している事が歴史を追えば明らかとなります。池田城は、単立の存在ではないでしょう。
 五月山の裏から山上を取られて攻められたり、包囲されたりする事を避けるために、細郷に影響力を及ぼすことを池田氏が考えたであろう事は、想像に難くありません。研究によれば、史料上でハッキリし始めるのは、文安年間(1444-49)頃からとされ、池田氏が細川庄の代官請などを得ているようです。また、文明11年(1479)には、中河原村の代官職を得た池田若狭守の活動が見られるようになります。時代を経るにつれ、池田氏は細郷への影響力を強めた事と思われます。
 ちなみに、細郷六ヵ村(伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部)は、江戸時代を通じて、ほぼ幕府領で、同じく同時代に全期直轄領であった池田郷と関連を持たせた支配を行っている事からみても、これらの地域は防衛上、連続性を持たせる事が必須となっていたと思われます。
 それから、細郷は川辺郡との境目でもあり、隣接して多田神社があります。戦国時代は国や郡の境目は曖昧な事も多く、細郷の本所(領家)と多田院との境目争いも度々あったらしい事から、細郷は多田院御家人とは文化が違い、実質的な経済関係も全く異にしていたようです。

そういった状況から細郷は、永禄・元亀年間(1558-70)頃になると、池田氏の影響下に入っていた事と思われます。その裏付けとも考えられるのが、いくつかの寺の寺伝に「兵火による焼失」が見えます。また、昭和46年4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に、主に室町時代に流通していた多量の古銭が出土しています。(総合計18,317枚)
 やはり、この遺物の出土状況からみても、細郷が戦乱に遭っていた事が想定できます。伝承もある程度、正確に記述されているのではないかと思われます。
 
池田城を本城と考えた場合、重要な街道を多く通す細郷にも、支城機能を要所持たせていたと考えられ、それらの可能性を思索するために、細郷の歴史的経緯を村毎に詳しく考えてみたいと思います。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。


◎細川庄
  • 現池田市の北部、久安寺川(余野川)流域にあった庄園。近世の細郷六ヵ村の地に比定される。「後鳥羽院熊野御幸記」建仁2年(1201)10月25日条に「此宿細川庄成時沙汰也」とみえ、この時、熊野御幸に際しての雑事である長柄宿(現大淀区)の沙汰を当庄庄官成時が行ってる。ところで当庄は、建長5年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に、後堀河天皇の中宮鷹司院藤原長子知行の一処として「知足院殿新立庄内 摂津国細河庄」とみえ、知足院すなわち藤原忠実のとき立庄されたことが知られる。鷹司院へは、同目録によると寛元2年(1244)に近衛家実から譲られている。正応6年(1293)4月日の鷹司兼平譲状案(鷹司家文書)によると、その後当庄は鷹司院から鷹司兼平の手に移っており、この時兼平からその息子兼忠に譲られている。ただ、当庄はこの時金蓮華院領となっており、金蓮華院と鷹司家の関係は、応安4年(1371)3月6日の勘解由小路兼納譲状(広橋家文書)によれば、本家と領家であった。同譲状によると、文保年間(1317-19)勘解由小路兼仲が当庄領所職を得たらしく、その後同家が同職を相伝、建武3年(1336)には勘解由小路光業が、光厳上皇より当庄の知行を安堵されている(同年8月27日「光厳上皇院宣」下郷伝平氏所蔵文書)。
     当庄は多田院(現兵庫県川西市の多田神社)に近接していたために、この間、同院との間で境相論が起こっている。正安元年(1299)11月10日の六波羅下知状(多田神社文書)によると、当庄雑掌行智が多田院地頭代道教と山野などについて争ったことがみえるが、同下知状によれば、これ以前の正元年間(1259-60)にも相論があった。いずれも多田院の勝訴に終わっている。そのほか国衙や住吉社(現住吉区)から年貢所当(正税)をめぐって、しばしば濫妨をうけている(貞治3年9月日「勘解由小路家雑掌有賢申状」広橋家文書)。ところで永和元年(1375)7月25日の諸堂造営棟別銭郷村注文(多田神社文書)によると「多田加納村々」の中に、細川庄の名がみえ、このころ多田院の加納地となっていたことが知られる。また「康富記」文安5年(1448)8月5日条によると、細川庄本家職の請負代官に守護細川氏の被官池田筑後守充正がなっている。なおいつからかは不明だが、細川庄は三条家領となっており、康正2年(1456)造内裏段銭並国役引付に「三条師殿御家領(摂州細川庄段銭)」とみえ、3貫500文を納入している。【地名:細川庄】

◎細郷
  • 現池田市の北部、久安寺川(余野川)流域にあり、近世の伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部の六ヵ村をいう。中世は細川庄の地で、戦国期には細川村と記されることもあった(明応4年12月22日「細川政元奉行人斎藤元右奉書」多田神社文書)。元和初年の摂津一国高御改帳に「綱郷」とみえるが細郷の誤写であろう。上記六ヵ村で、高1745石余となっている。当郷は植木の産地として知られ、「摂津名所図会」に「名産種樹、細河谷より出づる。京師、浪速及び諸国へ出す。すべてこの辺の地理、北の方山岳多く寒を防ぎ、南の方晴れて陽気早し、ゆえに諸木繁生の名地なり」とある。承応2年(1653)大内裏が炎上し、紫宸殿の左右の桜・橘が焼け枯れたため、明暦元年(1655)郷中の接木の巧者六蔵なる者が御所に召され、橘の接木に成功し「橘兵衛」の名をもらったと伝えられる。
     この話しは川辺郡長尾(現兵庫県宝塚市)にもあり、両地ともに植木の元祖を主張している。元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)によると細郷谷は、梅・桃・李・梨・栗・柿などの産物とともに「樹芸」があり、接木・挿木・取木などで「珍弁異花ノ名品」を多く出していたことが記され、この頃には世に知られていた。安永3年(1774)大坂天満(現北区)の植木商が株仲間を結成する時、細郷六ヵ村と、川辺郡山本村(現宝塚市)が反対し、30株の株入を認めさせている(大阪市史)。これは、村々で植木を扱う商人の株入りが認められたことで、当郷にも植木を扱う在郷商人が広く存在したことを示している。以後、当郷で育てられた植木は「池田の植木」として発展していった。【地名:細郷】

◎木部村(池田市木部町)
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山腹にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川と合流する。池田村より北上してきた能勢街道は、村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。
     慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降は、すべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。
     木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しない、という条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が、池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】
  • 池田備後守光重寄進状 昭和11年7月 林田良平稿「大広寺年表」所載
    一相乗實(池田知正)並びに池田三九郎為、木辺村於、米10石御寺納候。田数別紙之在り。仍って後日為寄進件の如し。
       慶長10年(1605)10月吉日 池田備後守光重(花押)
        大広寺御納所
    【池田郷土研究第8号12頁:例会281回(昭55・5・11)蝸牛驢文庫所蔵】

◎中河原村(池田市中川原町)
  • 木部村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、その左岸を余野道(摂丹街道)が通る。村域東部は五月山の北側にあたる山地で、耕地や集落は西部に展開。嘉禄2年(1226)11月15日の土師某田地売券(勝尾寺文書)に「在摂津国豊島北条仲川原村十九条二里十六坪内西依也」とみえ、この「仲川原村」を当地にあてる説もあるが、五月山より南の地で当地ではないとの見解が強い(池田市史)。康正2年(1456)造内裏段銭並国役引付によると、代官と思われる安東平左衛門が、中川原段銭として1貫文を進納、また「後法興院雑事要録」の文明11年(1479)条によると、当地に摂関家が得分権を有しており、代官池田若狭守が200疋を進納している。
     元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後、幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では182石余であるが、享保20年(1735)摂河泉石高調では219石余。植木栽培が盛んであった。臨済宗天龍寺派松雲寺・真宗大谷派千行寺がある。【地名:中河原村】

◎東山村(池田市東山町)
  • 中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】

◎古江村(池田市古江町)
  • 木部村の北西にあり、細郷の一村。村の南西側を猪名川が南東流し、村の南端で久安寺川と合流する。北部は山地で、南部に耕地が広がる。東部を能勢街道が南北に通り、街道に沿って集落がある。
     慶長10年(1605)摂津国絵図に「古江村」とみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)、幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると349石余。宝暦10年(1760)の村明細帳(森家文書)によると、家数68(うち寺1・道場1)・人数161、牛12、溜池2、草刈野山1(六ヵ村立会)、村民の余業として木柴苅・木綿稼をし、池田や伊丹(現兵庫県伊丹市)の市場に売出した。年貢米は津出しで、神崎浜(現兵庫県尼崎市)へ運んだ。猪名川・久安寺川に挟まれたように立地する当村ではあるが、干損所であった。しかし、大雨の時には両川の水が合流するところから、出水する場合が多く、水損も多かった。曹洞宗無二寺と、初め片岡惣道場とよんでいたが、宝暦3年(1753)、寺号を免許された浄土真宗本願寺派如来寺がある。なお無二寺境内には貞和5年(1349)5月3日の銘を持つ石造宝篋印塔があり府指定文化財。【地名:古江村】

◎吉田村(池田市吉田町)
  • 古江村の北東にあり、細郷の一村。村の南東端部を久安寺川が南西流する。村域の北部および西部は山地で、集落は山麓平地に点在。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえる。元和初年の摂津一国高御改帳で細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれ、以後幕末まで幕府領。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると131石余。細川神社、曹洞宗陽松庵・同慈恩寺がある。【地名:吉田村】

◎伏尾村(池田市伏尾町)
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野街道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。
     慶長10年(1605)摂津国絵図には、伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉国高調に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川(現兵庫県加古川市)の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】

◎真言宗 大澤山 久安寺(池田市伏尾町)
  • 高野山真言宗。大沢山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
     天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
     
    久安寺寺号勅額(近衛天皇宸筆)
    文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書く(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
     文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる。
     境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
     慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
     楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。(中略)。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。【地名:久安寺】

◎曹洞宗 大広寺末 鼓瀧山 無二寺(池田市古江町)
  • 無二庵そのものは、延宝4(1676)浪速の人井関某が、自分の職業上、航海の安穏を祈って創立したものであるが、それまでこの辺りは、海光山等覚寺なる古刹があった。行基の創立で、寿永の乱(1182-85)に焼かれたと伝えるが、その法灯を無二庵が継いだので、恐らく等覚寺址の石塔群をも収めたものと推察。、とあります。
     また、大阪府全誌には、無二庵は字北垣内にあり、鼓滝山と号し池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、聖観音を本尊とす。永禄5年(1562)正月、僧曇清の開創にして、其の後再建せりと云う。【池田市内の寺院・寺社摘記:無二寺】
  • 無二寺のある古江は古墳もある、古代から人が住む街道筋でした。古江は「シノブ梅盆栽」の名産地としても知られている土地柄です。余野川に架かる中川原橋を渡って、田中園芸を北へ入り、三叉路を西へ柵に沿って進むと、右手に無二寺が見えて来ます。このお寺は、和泉式部の墓とされる宝篋印塔(供養塔)があることで有名です。無二寺となる以前は、海光山等覚寺というお寺があって、行基の開創と伝えられていますから、1300年も昔の話しです。その後、寿永の乱で焼失し、廃寺となって、永禄5年(1562)に僧・曇清が無二寺として創建、天正の乱で再び焼失しますが、延宝4年(1676)に井関某によって再興されます。
     現在の本堂は30年ほど前に建立されたものです。ご本尊は、釈迦牟尼仏です。墓地には、等覚寺当時の墓石が残されていて、室町初期の阿弥陀像石仏(二体を一つにした)や室町末期の光明阿弥陀像石仏等と共に大阪府指定文化財となっている和泉式部の宝篋印塔があります。宝塔には貞和5年(1349)の銘がありますので南北朝の頃のものです。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:無二寺】

◎等覚寺址(池田市古江町)
  • 古江北方にあり、伝えいう当寺は天平年間僧行基の開基なりしが寿永年中の兵燹にかかり悉く鳥有に帰せしと。今は田甫となりて遺址の見るべきものなきも字地に寺名及堂塔址を残せりと。(大阪府全志)【池田町史:等覚寺址】

◎真宗 西本願寺派 八幡山 如来寺(池田市古江町)
    古江字片岡にあり。八幡山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。本地住人岡本源之丞(了信)、本願寺良如法主に帰依し、寛文2年(1662)檀徒と協力して創立せり。(大阪府全志)
    • 八幡山と号し、寛文元年3月、開基釈了信の所有地に創立。(同寺所蔵 如来寺寺院規則)
    • 第1代寛文元年(1661)8月19日、亡 了信 創立時の如来寺は「片岡惣道場」であって、寺号は宝暦・明和(1751-72)頃に成立したらしい。(歴代住職表)
    • 良如法主(1612-62) 真宗本願寺派13世 諱は光円。12世准如上人第7子。
    • 八幡山 豊能郡伏尾村久安寺山内にあり。往昔、応神帝影向の山頭を以て、八幡山を称す。【池田市内の寺院・寺社摘記:如来寺】
  • 如来寺は、江戸前期の寛文元年(1661)本願寺13世の良如上人に帰依し、僧「了信」となった岡本源之丞ほか10数人の檀徒が建立した寺です。本堂は建立当時のもので、修復を重ねつつ300年以上も護持されて現在に至っています。(中略)。
     お寺のすぐ上は妙見街道となっています。「能勢の妙見さん」へのお参りの人々が絶えず往来しました。今は池田市立児童館となっている所に、古江の旧家森家の屋敷がありました。森家は肥後熊本細川藩の家老を先祖とする家柄で、この場所で漢方薬院として施薬・医療を業としました。妙見さんへ参る人々などの憩いの茶店が軒を並べ、中には体調を崩す人もあり、薬院は重宝され随分と流行りました。こうしてこの辺りは森家ゆかりの人、多田源氏落ち武者、「ふるごんぼう」と呼ばれた古江御坊信仰の人等が集まり、邨が出来て賑やかになりました。やがて森家の財力によって檀那寺が建てられ、如来寺の前身となりました。この寺の殆どのものが森家の寄進によるもので、屋根瓦には森家の家紋である九曜星(肥後細川家の家紋)の紋が使われています。森家の菩提寺としての如来寺の墓地には歴代住職をはじめ、森家累代の墓があります。
     ちなみに箕面公園滝道に「森 秀次」の銅像があります。氏は、府会議員時代に、箕面山を密教の神聖な山として公園化に反対する人々を説得し、尽力されました。銅像は、公園の生みの親としての功績を讃えられたものです。氏はその後、国会議員となられ、大正15年(1926)に72歳で逝去されました。【改訂版 池田歴史探訪:如来寺】
  • 古江字片岡にあり、八幡山と号し、真宗西本願寺にあり。【池田町史:如来寺】

◎曹洞宗 陽松庵末 長尾山 慈恩寺(池田市中川原)
  • 字深谷にあり。長尾山と号し、曹洞宗 陽松庵末にして、毘沙門天を本尊にする。由緒は詳らかならず。もと字長尾にありしが、明治21年(1881)2月15日当所に移転せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:慈恩寺】
  • 地元では古くから「吉田の毘沙門さん」とよばれて信仰されて来ました。住所が中川原となっていますが、これは土地を寄進された元の所有者が中川原の人であったために飛び地となっています。元は、伏尾ゴルフ場北の山頂近くにあって、細郷(細河谷)北方の守護神として祀られていましたが、明治時代現在地に移されました。(中略)。もとは真言宗でしたが、江戸時代に永平寺曹洞宗に改宗されました。しかし、現在も護摩が焚かれ、真言密教の名残があります。
     境内には元長尾山頂上にあった江戸時代後期の道標があって、「妙見江ぬけ道」と刻まれています。また参道石段右手の地蔵さんも道標となっています。
     平成16年(2004)から境内に品種の異なる100鉢の蓮の栽培を始められて、夏の7〜8月には見事な花が色とりどりに咲き、心を和ませてくれます。大変なご苦労があると思います。慈恩寺は、長い間無住職の時代があって、現在の住職は4世にあたります。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:慈恩寺】
  • 字深谷にあり、長尾山と号し、曹洞宗陽松庵末である。)【池田町史:慈恩寺】

◎曹洞宗 静居寺末 少林寺・退蔵峰 陽松庵(池田市吉田町)
  • 観応2年(1351)天龍寺開山夢想の開基なりと伝えらる。安永5年(1776)3月、淡路の領主稲田九郎兵衛祖先菩提のため再建せりと。境内九百坪を有し、本堂・庫裏・書院・方丈・廊下・衆寮・如幼斉・侍者寮・経蔵・山門・開山堂・禅堂などあり(大阪府全志)。
     本寺は有名なる天桂禅師留錫の道場であって、享保6年(1721)禅師を招請して中興の開山とした(寺史による)。彼の禅師の名著「正法眼蔵辨註(20巻)」「驢耳弾琴(7巻)」「報恩篇(3巻)」等は当時、眠れる法城に向かって獅子吼された書であって、当山は禅師由緒の地である。今尚は、其の名著の版木は輪堂に蔵され、禅師手澤の「正法眼蔵辨註」は、門外不出の書として当山に尚蔵されている。禅師は「正法眼蔵辨註」を享保11年に起稿され、同14年春に脱稿されている。そして6年後の享保20年(1735)12月10日に遷化された。
     当山は安居其他僧俗を問わず、時々其名著を提唱して修養の禅道場となって居る。そして当山は人寰(じんかん:人の住むべきさかひうち)を隔てて小丘によれる僻陬(へきすう:僻地)の寺院であって、幽翠静寂の勝地である。
     近時都人士が、煤煙の地を離れて当山に集い、提唱を聴く者甚だ多しと世間では、当山を一(いつ)に吉田の天桂と呼んでいる。禅師の遺蹤(いしょう:人の行ったあとかた)を偲ぶ名であろう。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:陽松庵】
  • 細河谷南斜面の日当たりの良い適度に乾燥した土地は、我国有数の松の産地で、五葉松(ヒメコマツ)、柏槙などの生産で有名です。池田の文化に多大な影響を残した連歌師「牡丹花肖柏」の号「肖柏」も松・柏に因んでいます。
     同様に松に因む参禅道場「陽松庵」の開山は、観応2年(1351)室町時代、京都天龍寺開山の夢想国師(疎石)と伝えられています。その地は木部北条にありました。その後、四国阿波蜂須賀候は、深く天桂禅師にに帰依され、創建より362年後の正徳3年(1713)、その家老である稲田九郎兵衛によって天桂禅師を招請し、堂宇を再建することを発願されました。
     享保6年(1721)、木部の牡丹屋下村小兵衛も天桂禅師に深く帰依し、所有する吉田の現在地を寄進し、稲田氏と共に天桂禅師を中興開山として新築移転建立されました。
     陽松庵は禅寺としての伽藍配置が良く整っていて、経蔵・放生池・山門・法堂・仏殿・鐘楼・座禅堂・客殿・庫裏・浴室・東司などを備えて、創建当時のまま修復を重ね、現在に至るまで保存されている池田屈指の古刹といえます。(中略)。
     天桂禅師(1648-1735)の墓所は、禅師自らが示された西側山麓の石段を登りつめた所にあります。そこには禅師が示された楠木が代々植え継がれています。(後略)。【改訂版 池田歴史探訪:陽松庵】
  • 字渓谷にあり、少林山、退蔵峯と号し、曹洞宗静居寺末なりと、観応2年天龍寺開山夢想の開基なりと伝えらる。安永5年3月淡路の領主稲田九郎兵衛祖先の為め再建せりと、境内900坪を有し、本堂、庫裡、書院、方丈、廊下、衆寮、如幼齋、侍者寮、経蔵、山門、開山堂、禅堂等あり。(大阪府全志)本堂は有名なる天桂禅師留錫の道場であって享保6年禅師を招請して中興の開山とした。(寺史に拠る)彼の禅師の名著『正法眼蔵辨註』(20巻)『驢耳弾琴』(7巻)『報恩篇』(3巻)等は当時眠れる法城に向かって獅子吼された書であって当山は禅師由緒の地である。今尚は其の名著の版木は輪堂に蔵され、禅師手澤の『正法眼蔵辨註』は門外不出の書として当山に尚蔵されて居る禅師は『正法眼蔵辨註』を享保11年に起稿され同14年春に脱稿されて居る。そして6年後の享保20年12月10日に遷化された。
     当山は安居其他僧俗を問わず時々其の名著を提唱して修養の禅道場となって居る。そして当山は人寰を隔てて小丘によれる僻陬の寺院であって幽翠静寂の勝地である。近時都人士が煤煙の地を離れて当山に集まり提唱を聴く者甚だ多しと。世間では当山を一に吉田の天桂と呼んで居る、禅師の遺蹤を偲ぶ名であろう。【池田町史:陽松庵】

◎真宗 東本願寺末 返照山 円城寺(池田市東山町)
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とする。天文14年(1545)4月西念の創立なり。慶応4(1868)1月29日、火災に罹り焼失し、明治元年住職知成檀家と協力して、之を再建せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:円城寺】
  • 細河谷と呼ばれ、久安寺川の両側に広がる一帯の植木の郷の起源は、350年から400年に遡る正保年間(1644-48)及び更に天文年間(1532-55)にも至ると言われています。
     その東北山側に東山(町)があります。日照時間の短い湿度と日陰と赤土を生かした「東山の鉢挿」は、有名なサツキ・ツツジの特産地として知られています。(サツキツツジは池田の市花となっています。)この様な集落の佇まいに、円城寺の古寺がひっそりと歴史を刻んでいます。
     東山バス停の地蔵堂を過ぎ、しばらくして右折れし、なだらかな山麓の坂道を数分登ると左手に石垣を巡らせた円城寺があります。その裏手には、同寺の経営される細河保育園があって、元気な子ども達が寂しさを和らげてくれます。
     円城寺の開創は天文14年(1545)、僧西念によると伝えられます。当主(住職)は17代目となるので、少なくとも500年以上になる寺です。しかし残念な事に、明治元年、この寺に仮寓していた乞食の失火によって堂宇全てが焼失し、貴重な文書・遺物が失われてしまいました。けれども本尊の阿弥陀仏と仏画は辛うじて持ち出され、現在拝むことができます。
     本尊・仏画はよく修復されて、仮本堂ながらも立派に祀られています。秘められた歴史の遺品として、まだまだ調査の必要な寺院です。特に本尊の台座は、他に見られない重厚な造りとなっています。【改訂版 池田歴史探訪:円城寺】
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗東本願寺末である。天文14年僧西念の創立なりと伝えらる。)【池田町史:圓城寺】

◎曹洞宗 大広寺末 瑠璃光山 東禅寺(池田市東山町)
  • 字上条にあり。瑠璃光山と号し、池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とする。僧正行基の創建に係り、紫雲寺と号せしが後、屢々兵燹(へいせん)に罹りて廃絶せしを、慶長9年(1604)2月、僧東光、其の旧蹟に一草庵を結びて再興し、今の寺名に改む。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:東禅寺】
  • 東禅寺へは少々体力が必要です。円城寺から上へ右手(南へ)にとると、少し下って薬師堂のある広場に出ます。ここから左手(山手)を更に集落の急な坂道を登りつめた台場にひっそりと古寺が佇みます。
     当寺の開創は、慶長9年(1604)、僧「東光」と伝えられます。また、元「紫雲寺」で、行基菩薩の開創とも伝えられています。現在の建物は古いものではありませんが、今の住職が中興の祖から7世にあたりますので、開創からは20世にもなり、400年を越える歴史のある古寺と言えます。本堂の釈迦如来のほかに、この寺の宝物は観音堂に安置されている四躯の仏像です。何れも池田市重要文化財として指定されています。(中略)。
     本堂の鬼瓦に揚羽蝶が見られますので、織田氏・尾張池田氏との関わりがあるかもしれません。池田の埋もれた歴史がこの寺にもあると思います。境内に引かれた涌水は、渇き疲れを癒やす甘露として、知る人ぞ知る名水です。墓地の歴代の住職の墓石は重厚感があります。また、同寺には石造美術品として、宝篋印塔があり、応永2年(1395)の銘が刻まれています。【改訂版 池田歴史探訪:東禅寺】
  • 東山字上條にあり、瑠璃光山紫雲寺と号し、曹洞宗総持寺末である。)【池田町史:東禅庵】

◎臨済宗 天龍寺末 薔薇山 松雲寺(池田市中川原町)
  • 字下門にあり。薔薇山と号し、臨済宗天龍寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とす。観応2年(1351)10月の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:松雲寺】
  • JA大阪北部細河支店の裏側を山手に少し登ると、松雲寺があります。細い参道へ入ると、苔むす石垣の上に真っ白な築地が続きます。しっとりとした石畳を踏んで進むと、すぐ山門に着きます。
     苔と下草に覆われた境内は、静寂そものです。正面に五月山を借景に本堂がひっそりと佇んでいます。「天龍寺派居士林道場」と書かれた木札が掛けられ、いかにも禅宗の寺らしく心落ち着く雰囲気です。
     現在の本堂は、昭和46年に建てられたものですが、創建は南北朝時代の禅僧夢想国師(疎石)で、600年以上の歴史を持つ古刹です。ご本尊は釈迦牟尼仏で、江戸時代末期の作と伝えられています。
     当寺は地元旧家である一樋家の菩提寺としても関わりがあります。南側にある墓地には、歴代住職の墓石をはじめ、歴史を感じさせる古い墓石が並び、夜には怖くて近付けないような昔のままの雰囲気もあります。
     境内で心を静めて「禅定」の瞑想に、ひととき浸るのもここまで足を運ぶ甲斐があるのではないでしょうか。【改訂版 池田歴史探訪:松雲寺】
  • 中川原字下門にあり薔薇山と号す。臨済宗天龍寺末なり。 【池田町史:松雲寺】

◎真宗 東本願寺末 大雲山 専行寺(池田市中川原町)
  • 字南絛にあり。大雲山と号し、真宗東本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。万治2年(1659)正貞の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:専行寺】
  • 国道から少し入るだけで旧街道は交通もまばらで、気持ちを落ち着きます。この中川原は、細河植木の集散地で、近くには細河園芸農協市場もあります。街道に沿う専行寺は、日当たりが良く、明るい境内は夏には、蓮の花が咲き、仏心が和みます。
     このお寺の創建は、万治2年(1659)、僧「正貞」と伝えられ、340年を越える古刹です。本堂も再建されていますが、修復を重ね270年を経る建物です。本尊は阿弥陀如来立像で、室町時代後期の作と思われます。(中略)。
     当寺の紋は笹りんどうで、多田源氏の紋と同じです。多田神社または、多田源氏家人と関わりがあるものと思われます。古江「如来寺」の建立に功績のあった、森家の先祖、肥後熊本細川藩家老であった人が、はじめは「専行寺」に入り、間もなく古江の片岡で森家を興して、如来寺を建てたと伝わります。
     昔、専行寺は門徒の信仰の寺としてだけではなく、寺子屋としても一円の郷の子ども達が集まり、学びました。この寺子屋は、明治7年(1874)、細郷小学校として、現在の細河小学校の前身として移転しました。浄土真宗の寺院は、世俗的で、民衆に慕われやすい道場の色彩があります。門徒が心を合わせ、苦労を重ねて寺を建て、何百年も維持されてきた努力は、美しく、尊いものです。【改訂版 池田歴史探訪:専行寺】
  • 字南條にあり、大小山と号し真宗東本願寺末なり。 【池田町史:専行寺】

◎曹洞宗 総持寺末 竹林山 松操寺(池田市木部町)
  • 字北条にあり。竹林山と号し、曹洞宗総持寺末なり。寛文2年(1662)8月、下村五郎右衛門の創立にして、大広寺18世雲山の開基と伝えられる。(池田町史)【池田市内の寺院・寺社摘記:松操寺】
  • 木部天神社(紀部神社)前の旧道を少し北へ行くと、五月山山麓の竹林に包まれて「松操寺」があります。ここまでは車の騒音も聞こえない、ひっそりとした佇まいの尼寺です。
     開山は「下村五郎右衛門」という人で、地元では「ごろよみ」と呼ばれていました。寛文2年(1662)大広寺末として、18世により建立されました。ご本尊は釈迦牟尼仏で台座には笹りんどうの紋があって、珍しいことに獅子に乗っておられます。お釈迦様が獅子に乗られたのか、獅子が潜り込んだのか、どちらでしょうか。下村五郎右衛門の祖母の持仏であったとも伝えられていますから、400年以上昔の仏像です。両脇には、達磨大師・天元大師の木像があります。また、小さいけれども創建当時の地蔵菩薩が安置されています。
     長い間無住の時代があって、竹藪にポツンと在った草庵に、籠職人が住み込んでいた事もありました。庵主が入られて現在7世となります。本堂は、周りに増築されていますが、柱など創建当初のまま、焼けることも無く江戸時代初期から修復を重ねて350年近くの年月を経て、今日に至っています。(中略)。
     戦後は政教分離が徹底され、檀家の変遷のある中で、寺院の維持・保存は非常に難しくなってきました。院主のご苦労が偲ばれます。【改訂版 池田歴史探訪:松操寺】
  • 字北絛にあり、竹林山と号し曹洞宗総持寺末なり。寛文2年8月下村五郎右衛門の創立にして、大廣寺18世雲山の開基と伝えらる。(大阪府全志)【池田町史:松操寺】

◎曹洞宗 総持寺末 松尾山 永興寺(池田市木部町)
  • 松尾山と号し、曹洞宗大広寺末にして釈迦牟尼仏を本尊とす。長禄2年(1458)2月、「永公」の創立なり。
     永興寺開山堂(いち名位牌堂)の十一面観音は、左手に水瓶(薬瓶)を提げ、右手で錫杖を立てている。ちょっと見慣れない姿だが、是れがいわゆる長谷式で、大和国長谷観音本尊の写しである。長谷寺は、天平時代に藤原房前が本願となって稽文会(けいもんえ)・稽主勲(けいしゅくん)合作のものを安置したが、現在のものは天文7年(1538)8月1日に成ったのだという。
     恐らく現本尊と同じものが古くからあって、天文年間(1532-55)にその形式を襲ったのであろう。分家が古く、本家が新しいという様な事は、理屈に合わないからである。なお錫杖を持っているのは、地蔵の兼相を表すものだとされている。
     ところで、永興寺の十一面観音は、元は木部天神の神宮寺松梅寺の本尊であったという。だいたい、松と梅は天満天神とかかわりの深いものだから、そんな名の寺に同神の本地とされる十一面観音を祀ったのは当然だろう。
     それは兎に角、この像は一木造りで、高さ110センチメートル、宝冠型のまわりに化仏を前後2体、左右3体、現在頂上に1体を配置する略式であるが、頂上仏は失われていない。それから首だけが妙に継ぎ足しの様にみえるのは、そのところだけ金箔が押し直された為か。なお左手と持物、足先が後補、台座も年代が下る。
     時代は彫眼の向き、肩の線、腰のくねり、衣丈の具合等、はっきり藤原式である。ただ中期か末期かに迷わされる。(池田市史)【池田市内の寺院・寺社摘記:永興寺】
  • 永興寺は、木部天神宮の赤い鳥居の右側の坂道を少し登ると、長尾山を望む高台にあります。このお寺は、室町時代の長禄2年(1458)、僧「永公」の開祖と伝えられますから、応仁の乱直前の540年を超える古いお寺です。永公がこの地に来たとき、粗末な庵(いおり)に十一面観音が祀られてあり、ここで一泊したところ、観音のお告げがあり、寺を建立したと伝承されています。
     ご本尊の十一面観音立像は、藤原時代1100年程前の作です。桧一木造りで、頂上仏が失われていますが、池田市重要文化財に指定されている貴重な仏像です。本堂裏の墓地には、古い歴史を語る、多くの宝塔・墓石が樹木に囲まれて森閑と並んでいます。心落ち着く風情です。
     隣地にある天神宮とは、昔は神仏習合(奈良時代に始まった神と仏の信仰を融合調和する思想の表れ)によって敷地がつながっていたそうです。以前、木部天神宮の神宮寺であった松梅寺がありました。【改訂版 池田歴史探訪:永興寺】
  • 南條にあり、松尾山と号し、曹洞宗総持寺末なり。【池田町史:永興寺】

◎臨済宗 妙心寺派 超伝寺(池田市木部町)
  • 字南條にあり、厳島山と号し、臨済宗妙心寺末なり。【池田町史:超伝寺】

◎明神社(池田市伏尾町)
  • 久安寺の門前にありますが、阪神大震災でさらに被害を受けて、参詣する人も少ない状態です。神明社というのは、平安末期以降、伊勢神宮の神霊を祀った神社で、全国各地にあります。ここ伏尾の神明社は、天照大神と天満天神を祀ってあります。のちに熊野大権現・愛宕大権現・大原大明神などが、合祀されているようです。
     灯籠に延暦年間(782-806)の年号がありますので、1200年を遡る歴史ある古社です。今は善慶寺地内の「設殿」として、伏尾町自治会の管理となっていますが、郷域の氏神として、往時は大坂の商人からも厚い信仰があったようです。
     伏尾町の役員が参加して、2月・夏・秋と年に3回の祭礼が行われています。久安寺の院主が祭礼を司り、僧侶であるが神式の玉串奉てん読経という、神仏合体の形式で行われるのは珍しい。夏の祭礼には太鼓みこしや屋台が出て賑わいます。【改訂版 池田歴史探訪:明神社】

◎細川神社(池田市吉田町)
  • 吉田町の北端部山麓に鎮座する。祭神は不詳。旧村社。「延喜式」神名帳にみえる「細川神社」は、その所在が不明であったが、享保年間(1716-36)幕府の命によって並河誠所が、神体を船具とする吉田村の産土神、すなわち当社に比定した。元文元年(1736)式内社として、幕府から社表石が寄進された。安政4年(1857)社殿の再建がなされ、社蔵棟札に「修覆摂州豊島郡細川大神御社殿奉再興者也 両村氏子中」とあり、吉田村・東山村の二ヵ村の産土神となっている。明治40年(1907)伏尾の天満宮、中河原の素盞烏尊神社、古江の八幡神社を合祀して、旧五ヵ村の産土神となった。【地名:細川神社】
  • 慈恩寺山にある。今、毘沙門天と云って、久安寺奥院にあたる。祭神・創建年月は詳らかでないが、往時、この社に金皷(ごんぐ)があったと云われる。細郷社の産土神である。
     金皷について、昭和14年刊の『池田町史』に、吉田町の細川神社に、天文年間(1533-55)の金皷があると書いてあったが、調査の結果、昭和8年(1933)7月10日発行の「雲泉荘山誌 巻之四」によると、山荘の持ち主の歿後、売り払われ金皷の所在は再び不明となっている。【池田市内の寺院・寺社摘記:細川神社】
  • 細川神社は、吉田町北部丘陵の麓にあります。道路から奥まった所にあるので、ちょっと解りにくいのですが、樹木に囲まれた静寂な神域です。鳥居をくぐり、赤い小橋を渡り、境内に入ります。伊居太神社と共に「延喜式」神名帳(927年)に記載されている古いお社です。
     ご祭神は、細川水神・通船神(猪名川通い船)を御神体とする伝承があります。本殿の右手に「細川社」と刻んだ石碑がありますが、これは、大岡越前守の支援を受けた「並河誠所」(江戸時代の儒者で京都の人、伊藤仁斎の門人、並河天民の兄)が、大坂町奉行所の指令によって訪れ、細川社を延喜式内社として認定したことから建てられたもので、270年前の石碑です。明治天皇もここを訪問され、参拝されています。
     祭日は10月23日の秋祭りで、戦前まで吉田・東山・伏尾・中河原・古江の各村から、多いときには6台の太鼓神輿が出たそうです。現在は尊鉢地域の五社神社宮司が祭祀を司っておられます。【改訂版 池田歴史探訪:細川神社】
  • 吉田慈恩寺山にあり延喜式内の古社なれど祭神詳らかでない。猶社に金皷あり、其の銘に、「天文5年8月吉日 細郷荘 吉田天神」と記されて居る。古より細郷莊の産土神である。【池田町史:細河神社】

◎紀部天満宮(池田市木部町)
  • 現在の紀部神宮、旧称木部天満宮の所在は池田市木部。当郷産土神として、崇敬甚だ厚く、祭神菅公の千載に変わらぬ忠烈精誠を仰がざるはない。創建の年代は詳らかならざるも、所伝に依れば、天神系紀国造(きのくにみやつこ)の末裔である木部氏(紀部氏)此の地に居りて祖神天道根命(あめのみちねのみこと)を斉祀し、氏の大神として尊崇されるもの、即ち当社の起源にして、後一条天皇の正歴4年(993)勅使菅原爲理太宰府に下り、菅廟に正一位太政大臣を贈り、霊代を奉じての帰途に、神託を畏みて分霊を島上郡日神山(ひるがみやま:上宮天満宮(天神社)現大阪府高槻市天神町)と当社に奉祀し、次いで、日神山の神を上宮天神、当社を木部天神と称え奉りたるものなり、という。
     天神系紀国造の氏族夙くこの地に住して、其の祖天道根命を祀り、氏神として斉き奉りたりしが、後年菅公を配祀して、天神宮と公称せしものなるべしが、正親町天皇朝の天正年間(1573-92)織田氏の兵火にかかり、社殿・神宝・古記録など悉く鳥有に帰し、今や徴すべき史料はない。
     以来、当地の名族下村五家、宮家として、京都吉田殿の免許を受け、神事を奉仕する事、実に明治40年に至れりという。
     上記は、義川百合女氏の論文を摘記させていただいたのですが、義川氏は最後に「而し、現社号は昭和26年宗教法人法に依り、上記の古文献・記録に従ひ許可されたるにて、神宮の称号は府下希有のものたるべし。」としています。【池田市内の寺院・寺社摘記:紀部天満宮】
  • 畑天満宮と区別するために「木部天満宮」としましたが、地元では「天神宮さん」と呼ばれています。本殿に掲げられている額には、「天満宮」と書かれていますので、天満宮が正しいと思いますが、称号が何時変わったのか明らかではありません。別に紀部神社とも呼ばれています。
     当社のご祭神は、言うまでも無く菅原道真公です。菅原道真は、藤原時時平の讒言によって、太宰府に左遷されて、延喜3年(903)59歳で亡くなりました。以来、天神信仰が全国的に拡がり、各地に「天神さん」として祀られていますが、ここの天神宮は、道真公と直接の由来があったように思います。と言いますのも、かなり古い社で少なくとも14世記南北朝時代には祀られていたように思います。火災には遭っていないようですが、長い間、宮司が不在で、古文書などは散逸してしまっているために、全く不明です。しかし、寛政から天保年間(1789-1843)の頃、最も繁栄していた様です。その後、明治・大正・昭和の初期まで、厚い信仰が続いていました。
     現在の本殿は、100年余り前の建立と思われますが、境内の数百年を経るケヤキの大木や石垣などに歴史の重みが感じられます。木部は「城辺」とも記録され、池田の原住民「佐伯部」の城(とりで)があたっと伝えられる平安時代からの集落でした。五月山は佐伯山と呼ばれていました。
     また、木部は牡丹の発祥地として500年もの歴史と主産地としての繁栄がありました。牡丹屋小兵衛が著名で、今も牡丹屋と呼ばれる下村家が健在です。現在、吉田にある陽松庵は、もとは木部にありました。陽松庵の建立に、牡丹屋小兵衛の大きな尽力がありました。
     木部天満宮は、阪神大震災で社務所が倒壊し、大きな被害を受けました。しかし、整備された神社とは、また違った神秘さと、歴史のミステリーが感じられます。
     当社のお祭りは10月24日・25日の秋祭りです。最近は祭日直近の土曜日に行われます。だんじりは、木部と新宅の2台があります。(中略)。現在は木部のだんじりだけが、2つの赤提灯を先頭に、太鼓の音色も勇ましく、大人・子ども70〜80人が曳いて、木部町を一巡します。保存会の方々のお陰で、元気な子どもたちも大いに一日を楽しみます。【改訂版 池田歴史探訪:木部天満宮】
  • 木部中絛にあり、菅原道真を祀る。勧請の年代は詳らかでない。縁起によれば中古織田氏の兵燹に罹り社殿記録等鳥有に帰し、古を徴するに由なも勧請は余程以前の事と伝えらる、かの鬱叢たる社頭の老樹は厳として千古を語り由緒の深きを偲ばしむるものがある。当地の名家下村氏宮座として明治41年まで神事に奉仕せりと明治5年村社に列し、同41年12月神饌幣帛料供進社に指定される。【池田町史:天神宮】




2 件のコメント:

  1. 利右衛門です。膨大な情報量に胸がいっぱいになりつつも、細郷の「境目性」にときめく思いです。
    久安寺も荒木村重の謀反時に焼き討ちされている可能性が考えられますが、となればいずれの陣営が焼いたのだろう?などと考えてしまいます。
    細川神社は並河誠所による式内社比定だったのですね。多太神社や能勢町の野間神社も並河誠所の「比定」で情報がすり替えられているので(馬部隆弘氏の「椿井文書」でもこういった問題提起がなされていますが)、そういった情報を除去すると中世細川荘の本来の核となる神社や支配体制が浮かび上がって来るのでは?と誠に勝手ながら想像してしまいます。
    とりとめの感想ばかりですが。

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    1. 変な設定になっていたみたいで、返信が遅くなり、すみません。
      私は何も役に立ちませんが、自分の好きなというか得意なというか、やりかけた事でもあり、何とか終わらせて、せめてこの方面で社会の役に立てばと思います。
       兎に角、先人の残してくれた情報を呑み込んで、更に自分なりの味を加えて残すことで、何かのお役に立つと考えています。デジタル情報にしておけば、検索で拾ってもらえます。

      もちろん、これらの事は全て、自分自身の勉強にもなっています。

      私も馬部先生は尊敬しております。素晴らしい研究者です。目標にしたい人です。先生の著作で、これまで疑問に思っていたことが、解け、点が繫がり、世界が拡がりました。

      利右衞門さんともいつか、お会いして、色々とお話しをお伺いしたく思います。では。

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