2020年10月3日土曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十六回「三淵の奸計(かんけい)」放送前の先回り企画

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。


第二十六回「三淵の奸計(かんけい)」2020.10.4放送分

大河ドラマ「麒麟がくる」勝手に予測、先回り企画です。この回は、タイトルと予告を見るにつけ、足利義昭を奉じた織田信長勢が上洛戦を勝利で終えて、入京。そこで一区切りになるのではないかと思います。

細かな事は脇に置き、上洛戦とその後、将軍義昭政権黎明期では、池田衆が大活躍しています。ドラマを愉しむための予備知識としてご活用いただくと、劇中の状況がより良く掴めると思いますので、その頃の出来事をご紹介しておきたいと思います。以下、池田衆の活躍する主要エピソードを抜き出して説明します。
 時間軸としては、上洛戦を行った永禄11年(1568)の秋から同13年3月までの、越前朝倉氏討伐の直前までの出来事です。

◎概要
織田信長は、足利義昭の将軍就任の願いに応じ、軍勢を大挙し京都へ向かいます。最終的にこの軍勢は五万程になったとされ、これ程の軍勢を迎え撃てる大名は、この当時はどこにもいなかったでしょう。
 織田信長の常套手段はいくつかあります。よく見ると、いつも同じ手です。また、信長は情報を非常に重視しており、不具合は直ぐに修正して、対応します。
 また、決して猪突猛進ではありません。非常に慎重で、いくつもの策を講じて事にあたります。準備が周到です。また、原理と理念を重視し、それをなんとしても守ろうとします。
 それは、この上洛戦でも発揮されます。信長は、足利義昭を奉じて美濃の岐阜を発ち京都へ向かいますが、その通路の情報を集めてました。また、戦いは稔りの秋と限っていたことでしょう。そのためには、世間を驚かせる軍容を調える必要があります。これらを準備し、一気に実行した戦いでした。決して弱い勢力ではなかった三好三人衆でしたが、戦の準備も調えることができず、一旦、撤退の策を選んだようです。

特に大きな反撃を受けることも無く進んだのですが、唯一、摂津の池田衆だけは数日間に及ぶ反撃を行い、一矢を報いています。しかし、池田勝正は降伏して上洛戦は終わります。
 足利義昭・織田信長は入京を果たし、間もなく、義昭は京都で将軍宣下を受けます。その後、室町幕府の立て直しに向けて、東奔西走、24時間の活動を強いて、休む間もなく活動します。池田衆は将軍義昭に登用され、守護格を任じられます。池田衆は大きな期待を寄せられ幕府再興に尽力します。

以下、要素毎に解説します。

 

<永禄11年>--------------------
◎春 足利義栄の将軍就任後

東大寺転害門に残る銃弾痕
東大寺転害門に残る銃弾痕
足利義栄が将軍となったのは、2月8日でした。元々は一体化していた三好方組織も、三好一族と松永久秀とに分かれ、争いが始まっていました。その争いの勝敗が決したと世間の認識が整い、将軍就任が認められました。ただ、三好方と松永方の戦いは続いており、松永の本拠であった奈良多聞山城が落ちたのは、足利義昭が上洛する直前まで持ちこたえていました。ですので、この間、三好方は主に奈良へは軍勢を入れ続けなければならず、別の変化に対応することは、余裕があるとはいえない状況でした。奈良市中では銃撃戦が毎日のようにあり、今の奈良公園のあたりは最前線の主戦場でした。今も古い建物には、この時の銃弾痕が残ります。


松永久秀は、劣勢に耐えつつ、織田信長と音信を行っており、足利義昭上洛の準備も同時に進めていました。また、将軍となった義栄はなかなか入京できず(9月には入洛)、摂津富田の普門寺から動けませんでした。京都には適当な居所が無いためでもありますが、しかし、本来は武門の棟梁は天皇を護る役目がありますので、これは一番重要な仕事ができていないことになります。
 それでも三好三人衆方は、主要人物を京都に入れ、幕府機構を何とか再開・維持しようと試みており、主要人物は頻繁に京都入りをしていました。そんな中で、池田紀伊守正秀という人物が、近衛前久邸を訪ねています。酒宴もあったと記録されています。池田家は京都に屋敷も持っていました。

日が経つにつれ、夏頃には足利義昭の入京の情報が入り始め、8月には三好方が近江守護の六角氏と対策協議を行っています。六角氏は将軍義栄を支持していた勢力でした。

◎秋 足利義昭を奉じた織田信長の上洛戦
池田城跡公園
池田城跡公園
7月25日、足利義昭は美濃国の立政寺(りゅうしょうじ)に入り、ここで織田信長と対面します。この時にはもう、信長は全ての準備も終わり、スケジュールを説明するほどの最終段階だったでしょう。間もなく、信長は足利義昭を奉じて軍勢を出陣させ、翌月7日には、隣国近江の佐和山城に入っています。この時は、浅井長政もこの上洛戦に協力していますので、ここまでは安全に移動が可能でした。
 既に情報は入り、守護六角氏の本拠観音寺山城を攻める時には、内部分裂状態にあった、六角方の重臣が織田方に寝返り、難攻不落の城もあっけなく落ちました。
 三好方は、この城を頼りにしていたため、軍勢をここで足止めできると考えていたようです。六角方は一度は織田方を撃退したものの、結局は翌月の13日に落城します。

この情報は直ぐに京都へ入り、大混乱となります。また、同時に松永久秀の元にも入っていました。足利義昭も奈良興福寺一乗院門跡(当主)であった経歴から、諸方に向けて音信をし、織田方の軍事行動を支援していました。
 この勢いに驚いた朝廷は、織田信長に禁中(御所)警固を命じます。信長はこの上洛の年からの名乗りが「弾正忠(だんじょうちゅう)」でこれは、警察に相当する役職です。これを見ても、用意周到です。

先だって、23日、足利義昭の側近細川藤孝、近江国人甲賀の和田惟政が京都へ入ります。その2日後、最先頭の兵が京都へ入り始めます。また、この頃には、主要な人物は京都を落ちていきます将軍義栄、その関係者である水無瀬親氏などの公卿です。三好方の主要な人物も退却を始めていました。
 京都に近い勝竜寺城には、三好方の石成友通(いわなりともみち)が居て、交戦しましたが直ぐに突破されてしまいます。芥川山城(高槻市)付近でも同じでした。敗走した三好方の人々は、一旦池田城を目指したようです。池田城下は街道を多く交差させていたため、ロータリーのようになり、どこに向かうにも一旦は安全な城に入るという状況だったようです。
 そういう緊迫した状況にあって、人々がもたらす情報も池田城に入り、池田勝正は防戦体制を整えていたことでしょう。

さて、素朴な疑問がありますよね。皆逃げるのに池田勝正だけはなぜ、戦ったかという疑問。これには理由があります。三好勢の本拠は、四国や淡路島で、そこへ逃れる事ができたのですが、池田衆は地場勢力ですから、逃れる場所がありません。ですので、戦わざるを得なかったのです。
横岡公園から西側を望む
横岡公園から西側を望む

9月30日、池田城の織田信長の軍勢が池田城を包囲し、合戦が始まります。この時、信長も池田まで出てきており、陣を敷きます。今の池田市五月ヶ丘にある横岡公園がその陣と考えられます。ここからは、池田城がほぼ俯瞰できて、山へ通じる主要道も封鎖できる絶好の位置です。ここから西側へは急激に地形を下げ、展望は良好です。

 この池田城合戦で池田勝正は激しく抵抗し、信長の親衛隊が戦死、大けがをするなどして後退しました。そのため、力押しは止めて、城下を放火するという策に出、これをもって池田勝正は、10月2日に降伏を申し出て合戦は終わります。3日間の闘争でした。
 この池田城の戦いをもって、上洛戦は決着がつき、織田信長の一連の軍事行動は終わります。池田勝正は翌日、芥川山城の足利義昭・織田信長を訪ねています。
 18日、足利義昭は京都にて将軍宣下を受けて、第十五代室町将軍となります。22日、将軍義昭が禁裏(天皇)へ参内し、この時の警固に池田勝正は市中警固役を担っています。24日、池田勝正は将軍へ参内し、摂津守護を任されています。
 元々池田家は将軍義晴の代から御家人(江戸時代の旗本)格を得ており、将軍を護る任を命ぜられていたため、これはその流れに沿ったものでした。しかし、守護となれば、更に社会的地位が上がり、歴代池田家当主の中でも勝正は最高の社会的地位を得たことになります。ちなみに、守護とは今の府・県知事に相当します。
 池田家にとって、一旦は敵対したものの、敗軍して浪人すること無く、中央政権側に取り立てられてのですから、秋の稔りは全て失うことはありませんでした。それは家臣にとってこの上ない安堵となったでしょう。しかし、安心ばかりではなく、これに期待する幕府側の思惑があったのです。

一方、第十四代足利義栄はどうなったのかというと、京都を落ちのびて、阿波国本拠へ戻る途中の鳴門撫養(むや)で腫れ物を患って死亡しています。しかしこれは、松永久秀の暗殺説もあったりします。不自然な点が多いためです。

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<永禄12年>--------------------
◎正月 六条本圀寺合戦

六条本圀寺跡に残る門
六条本圀寺跡に残る門
この合戦は、5日から7日にかけて行われています。三好三人衆が再び将軍を殺害する可能性もある行動でしたが、何としても京都を護る将軍の役目だけは堅持すべく、重要な戦いでした。しかし、京都に適当な城は無く本圀寺という法華宗のお寺を将軍は居所としていました。明智光秀などの側近もここに居り、この戦いに側近衆は奮戦し、少数で見事に将軍の命を守りました。
 一方の池田勝正も救援にかけつけて勇敢に戦い、将軍を護る任務を果たしました。しかし後年の書物では、池田勝正が間抜けで、逃亡したとのウソが書かれており、当時の史料を見ると、この防戦に中心的役割を果たしていたことがわかります。

三好方は、第十四代将軍義栄を失い、求心力を欠いてしまいましたが、京都での活動が長く、まだまだ勢いはありました、時を移さず反撃の準備を調え、京都の奪還を画策していました。和泉国方面までは上洛戦の手が及ばず勢力も温存していましたし、堺でも三好方に組みする勢力が多くありました。
 年末から既に軍事行動を起こしており、京都を目指して各地で合戦が起き始めていました。それらの動きが、想定以上の早さで北上し、正月には京都間近の河内国枚方まで達しています。これらの情報は既に池田家にも入っており、準備はしていたようです。京都奪還のための相当数の兵で攻め上っていました。五千を超える兵数だったようです。
 1月4日には、三好方の軍勢が京都東福寺に陣取りを行い、京都市中は再び騒然となります。池田衆は将軍義昭を護るため、池田を出発しますが、この時高槻に居た入江氏が三好方に組みしたため、西国街道が塞がれ、大きく迂回することになりました。島本町大沢方面を通り、長岡京方面へ出る道を通り、京都へ向かいました。この当時は積雪もあり、非常に時間がかかったようです。

1月5日、京都六条にあった本圀寺を三好勢が襲います。しかし、西から池田勝正・伊丹忠親などの軍勢が迫って、手勢を割かなければならず、本圀寺に居た明智光秀などの少数の兵は、それも利用しながら奮戦しました。織田信長もこの報に接すると単騎で京都に向かい、10日に京都へ入っています。

1月7日夜、この日の午後に決着がついたらしく、池田勝正は細川藤孝などとともに勝竜寺城に入りました。桂川方面から池田勢は駆けつけましたが、桂川は水深深く、流れも早いために人の力では制御不可能ですが、当時の記録では西から切り込み、七条あたりで合戦になったようです。また、幕府などの重要人物は、池田城を目指して避難しており、池田城は当時からも堅固な城との認識があったものと思います。また、10日に信長が京都へ入った折、守りの備えが堅固なことに感心し、池田紀伊守正秀を褒めたという記述があります。

織田信長は、三好方の勢力が未だ侮りがたいとして、直ちにそれらに加担した勢力の討伐戦を行います。同時に、将軍の居所たる城の必要性を痛感し、二条城の建設を行います。これらに池田衆は経済的・労働的負担を強いられていました。


◎夏 播磨・但馬国攻め
但馬山名氏の居城子盗山城跡
但馬山名氏の居城子盗山城跡


三好勢力の討伐と幕府の経済基盤を確保するために、旧地の回復を企図して行動します。但馬国の生野銀山は当時からも有名な鉱山で、これの権益を手に入れるべく、山名氏の討伐の名目を立てます。
 この時も二万の大軍勢を整えて出陣します。池田勝正もこれに従軍して、主要な役割りを果たします。10日程で、18ヶ所の城を落としました。また、播磨国へ入る名目は、幕府方につく勢力の救援で、播磨国龍野の赤松氏支援でした。一方、山名氏討伐は、具体的な背反が見当たりませんが、要は、生野銀山を取り手に入れるためです。この軍事行動で、一応の目的は達して引き揚げますが、誤算が生じました。支援していた龍野赤松氏が、青山の戦いに負けてしまいます。三好方だった黒田官兵衛にです。
 そのため、退路を断たれる恐れが生じ、急遽、幕府軍は但馬から撤退し、播磨国を経由して、それぞれ本拠地へ戻りました。

◎秋 播磨国へ再び出陣

播磨国庄山城跡(現姫路市)
播磨国庄山城跡(現姫路市)
夏の出陣が目的達成不十分であったため、現地勢力の要請もあって再び同方面へ出陣する事になりました。これにも池田勝正は出陣しています。この頃の室町幕府は、友好勢力を維持するため、要請に応えて行動しつつ、自らの利益も実現するような行動をしていました。
 当時の播磨国など西側の方面は関係が複雑で、三好方に加担する勢力とそれに敵対する勢力が、自己防衛政策を軸にしたまだら斑模様の勢力状態にありました。例えば、黒田官兵衛が属する小寺家は置塩城の赤松氏の家老で三好方、それに敵対する龍野の赤松氏は幕府方、その西の勢力、備前国浦上・宇喜多氏は三好方、更に西の毛利氏は幕府方などという、混沌とした状況でした。瀬戸内海を挟んで、対岸に三好勢力があるため、小さな勢力は強い勢力に結びつきやすい状態になってしまいます。

状況的には、毛利氏が突出した勢力であっため、主にそこを中心として同じ勢力の支援をし、かたまりを作ろうとしていたようです。幕府に加担する龍野赤松氏を支援し、同族の争いを終わらせて統一を手伝おうとしていたようです。
 10月、池田勝正は再び播磨に出陣し、室山城(現たつの市)などの周辺を攻め落として引き上げています。この時は、海側の街道を通って進んだようです。
 またこの時、池田衆の一派が鵤莊内(揖保郡太子町)を乱暴し、斑鳩寺の懸け仏を持ち去ったという史料があります。経緯は不明ですが、そういったこともあったようです。ケンカか何かがあったのでしょうか?

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<永禄13年>--------------------
◎正月 諸国へ京都参内への触れを出す

将軍義昭を中心に室町幕府の再興を願って東奔西走しつつ、敵味方を判別するための方策も思いつくようになります。将軍を敬い忠誠を誓うために上洛せよと、諸大名に触書を出します。これに応えない者は、当面の敵と判別できることになります。ここに越前朝倉氏の名も見えます。また、朝倉氏に拉致軟禁されていた若狭国守護家の武田孫犬丸元明の名もあります。事実上不可能なことを突きつけ、攻め込む口実にしていた面もあると思います。
 この触れを出して間もなく、名指しされた大名は京都へ入り、将軍へ挨拶を行います。この中には池田勝正の名もありました。将軍への謁見と、様々な土産を献上し、誼を通じました。
 一方で、早くも織田信長と将軍義昭の不破が表面化しており、同じ時期に一旦の和解をしています。これ以前にも度々不和があり、周辺が心配するような状況も度々ありました。

◎3月  将軍義昭・織田信長、朝廷から越前朝倉氏征伐の勅許を得る
1日、織田信長は天皇から勅許を得て、朝倉討伐を行う事が認められます。これにより、錦の旗を立てた幕府軍を朝倉氏との戦いに利用できました。私戦では無く公戦となり、見方の離叛者を出す可能性を低くし、相手の謀反も誘うことができます。また、近隣の小勢力が幕府・織田信長方に従うようになります。
 更に、改元も予定し、その行軍中に「元亀」と改元する手はずも整えていました。また、出陣に合わせて、京都で建設中の二条城も完成させる予定でした。同時に、禁裏(宮中)の紫宸殿の修復も完成させました。

この動きに池田衆も動員されることになっており、摂津国内で最有力であった池田家は幕府方の中心的軍事勢力として三千の軍勢を出陣させました。幕府は立て直しを始めたばかりで、これ程の軍事力を持った単独の勢力は京都周辺にはなく、池田家が最大の勢力でした。しかし、池田家にとっては、度々の軍事動員が大きな負担でもありました。

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