2023年10月26日木曜日

摂津国河辺郡荒牧村周辺の酒造りを見る

荒牧村の周辺でも酒造りをしている地域があるので、その資料をあげてみます。有馬街道も含め、同じ郡内で平野部の場所を偏見で選びました。兵庫県の地名からです。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)

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〇鴻池村(伊丹市鴻池など)
武庫川支流の天神川と天王寺川に挟まれた村で、新田中野村の北に位置する。文禄3年(1594)9月荻野村・荒牧村と一括で宮木藤左衛門尉の検地を受けた(延享4年「荻野村書上帳」荻野部落有文書ほか)。慶長国絵図、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では鳴池村とあるが誤写か。この段階では村切されておらず、石高は荒牧を本郷とし荻野と三ヵ村合わせて1782石余。(中略)鴻池家初代の新右衛門幸元は清酒製造に成功し、慶長4年初めて酒を馬の背に乗せて江戸に送ったという(寛政6年「新右衛門返答書」灘酒沿革史、鴻池稲荷祠碑では翌年)。幸元は大坂久宝寺(現大阪市中央区)に店を構え、寛永16年八男善右衛門正成が今橋(同中央区)の鴻池本家の祖となった。幸元は当地の邸に稲荷社を勧請、宝暦13年(1763)の台風で祠が倒れたため、天明4年(1748)中井履軒の撰で鴻池稲荷祠碑を建立した。当村の清右衛門は古来800石の酒株をもっていたが400石まで減石し、正徳4年(1714)すべて伊丹郷町米屋町六郎左衛門に譲った(「酒株譲証文」岡田家文書)。享和3年(1803)酒造家2軒、株高2770石(「酒造株石高控」四井家文書)。(後略)

〇山田村(伊丹市山田1 - 6丁目など)

寺本村の南に位置し、北西端を山陽道がかすめる。宝徳4年(1452)2月19日の与一大夫等下地預け状(稲垣文書)によると、「山田せう下村衛門三郎下地」2反は地下(村)のものとなっていたが、この時に宮内大夫に預けられた。署名している与一大夫と斎阿弥は山田庄の村落の代表者と考えられる。(中略)近世初頭から酒造業が展開、慶長後期には白井栄正の子市右衞門正次が湯山(現神戸市北区)・篠山・摂津大坂へ酒を売りに行き、万治2年(1659)・同4年には蔵が建てられたという(「白井市右衞門一代之覚」白井家文書)。明暦2年(1656)には7人の酒造家がおり、翌3年の市右衞門の酒造米高は1800石、他の3人も1000石を超え当村の酒造米高は6950石(「明暦万治酒造米高覚」岡本家文書)。しかし相次ぐ減醸令によって延宝8年(1680)には346石にまで激減、この頃から尼崎や兵庫津に株の売却が相次いだ(「村中酒作高之覚」山田部落有文書)。しかし元禄10年(1697)には新城屋五郎右衞門が江戸に酒問屋の出店を出し、正徳3年(1713)頃弟同権右衞門とともに新城屋新田(現尼崎市)の開発を始め、享保元年(1716)に146石余の検地を受けた(尼崎志)。(後略)

〇寺本村(伊丹市寺本1 - 6丁目など)
山陽道に面し、昆陽村の西に位置する。地名は昆陽寺が所在するすることによる。慶長国絵図は昆陽寺を行基堂とし村名も行基堂村だが、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では寺本村とみえ、高438石余。正保国絵図(京都府立総合資料館蔵)には街道の東から東寺本村・中寺本村(大分県竹田市立図書館蔵正保国絵図では中寺村)・西寺本村とあり、正保郷帳によるとそれぞれ高179石余・高98石余・高160石余。(中略)酒造家は東寺本に2軒・酒造株高105石(昆陽組邑鑑)。(後略)

〇昆陽村(伊丹市昆陽1 - 8丁目など)

千僧村の西に位置する。山陽道が東西に通り、有馬(現神戸市北区)への道が交差する宿場町として発展した。小屋村(慶長国絵図)・崑陽宿村(正保郷帳)とも。「和名抄」所載の武庫郡児屋郷、古代中世の昆陽・崑陽野の遺称地で、小屋庄が成立した。文禄3年(1594)片桐且元によって検地が行われた(「法厳寺口上」法厳寺文書)。(中略)酒造業も行われ、正徳6年(1716)には江戸積み酒造家がおり(「江戸積荷樽覚」岩田家文書)、宝暦6年頃は4人で酒造株580石(昆陽組邑鑑)。酒造家や米屋を相手にする有力な米仲買商人が成長し、天保7年(1836)には賀茂屋平兵衛・石橋屋吉右衞門が川辺郡惣代として摂津七郡で在郷米穀仲買商人仲間を結成する動きも出た。(後略)

〇千僧村(伊丹市千僧1 - 6丁目など)
大鹿村の西にあり、村の東縁は同村の田畑と入り組んでいた(「千僧村絵図」大鹿土地改良区蔵)。山陽道が東西に通る。先祖村とも(中国行程記)。地名は49院造営の願が成就した行基が千僧供養をしたことにちなむという(摂陽群談)。文禄3年(1594)片桐且元によって検地が行われた(「諸色付込帳」千僧土地改良区文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高247石余、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では高237石余、正保郷帳によると高256石余、延宝5年(1677)検地を受け(「千僧村検地帳」千僧土地改良区文書)、享保20年(1735)の摂河泉石高調は高307石余。(中略)酒造株4人で445石(諸色付込帳)。(後略)

〇大鹿村(伊丹市大鹿1 - 7丁目など)
大志賀村とも(天正10年正月日「法華経巻釈」妙宣寺文書、慶長国絵図)。地元では「おじか」とよぶ。北村の西に位置し、山陽道が東西に通り、村の中ほどに一里塚がある。同街道に交差して伊丹郷町から中山寺(現宝塚市)、有馬(現神戸市北区)への中山道(有馬道・大坂道)が通る。村は東方と西方に分かれていた(「増補御領地雑事記」森本家文書)。文禄3年(1594)片桐且元によって検地が行われ(「奥谷池論記録」坂戸家文書)、慶長国絵図では高386石。享保20年(1735)の摂河泉石高調は高438石余と新開2石余。天保郷帳は高450石余。慶応元年(1865)の池尻村記録帳(池尻区有文書)では高503石。初め豊臣領で慶長(1596 - 1615)後期から片桐貞隆(大和小泉藩)が預かり、豊臣家滅亡後幕府領となったが、貞隆の預かりはしばらく続いた。(中略)寛文年間(1661 - 1673)頃から酒造が始まったとされ、元禄10年(1697)の株改では12人の酒造家がおり造高4010石(「酒造請高調」武田家文書)。寛延3年(1750)には「剣菱」の銘柄で知られる津国屋勘三郎が確認され、同4年の江戸積出11958樽、宝暦10年(1760)は16396樽(「酒掛之目録」伊丹酒造組合文書)。「摂陽群談」にも「甚香味なり」と紹介されている。(後略)

〇小浜町(宝塚市小浜1 - 5丁目など)
武庫川左岸に突き出して、大堀川に囲まれた台地上に位置する。川辺郡に属し、東は安倉村、北は米谷村、西は武庫川川面村、南は武庫川を挟んで同郡伊孑志村。京・山城伏見から有馬・丹波方面への有馬街道に沿った宿場町。大坂道から分岐する。(中略)江戸前期には江戸積酒造産地で小浜流という醸法が知られていた(童蒙酒造記)。井原西鶴の「日本永代蔵」は諸白の産地とする。享和3年(1803)には酒家2軒・800石、領主貸付株酒家1軒・150石があった(「摂津国酒造株石高寄帳」国立公文書館蔵)。文政10年頃には1軒・600石に減少(前掲様子大概書)、明治に至る(明治3年「酒造米高書上帳」小西家文書など)。慶長11年(1606)東は郡山(大阪府茨木市)、西は生瀬(兵庫県西宮市)の間で駄賃稼・荷物付をするよう定められた(「摂州内駄賃馬荷附所覚」大阪府全志)。(後略)

〇米谷村(宝塚市米谷1 - 2丁目など)
川辺郡に所属。有馬街道に沿って小浜町の北に位置し、西は荒神川を挟んで武庫川川面村。中世米谷庄の遺称地で、別に米谷村の村名もみられる。慶長国絵図に村名がみえ高624石余。慶長19年(1614)高423石余が大和小泉藩領となり(「片桐貞隆宛知行目録」杉原家文書)、元和3年(1617)の摂津一国御改帳によると残る高200石は幕府領(代官建部与十郎預地)。寛文2年(1662)には200石分が上総飯野藩領になり(「免状」和田家文書)、幕末に至る(宝塚市史)。(中略)元禄 - 正徳期(1688 - 1716)に8軒の酒造家がいた(正徳5年「米谷村酒造米高覚」御影町文書)。小浜が寺内町として開発される前は米谷が宿場の機能を果たしていた。本願寺蓮如の摂州有馬湯治記(広島大谷派本願寺別院文書)の文明15年(1483)9月17日条に「舞谷」を通過したことが記される。(後略)

〇川面村(宝塚市川面1 - 6丁目など)
有馬街道沿いに川辺郡米谷村の西にあり、南東は武庫郡見佐村、西は有馬郡生瀬村(現兵庫県西宮市)。古代河面牧、中世河面庄の遺称地。集落は上川面・下川面に分かれ、上川面の集落は安場村と人家・田畑とも入り組み、時代によって武庫郡と川辺郡との間で所属が変化したとみられるが、下川面は武庫郡に属して本郷とよばれていた(「川面村郡別高付分限」中野家文書)。(中略)正徳3年(1713)の酒屋六兵衛の減石届によると、六兵衛は米谷村で酒屋奉公の後に酒造高5石余で独立した。江戸廻船には積下さないとしており地売酒屋だったと思われるが、寛政9年(1797)には麹屋市左衛門が北在組酒造家24人の惣代となって、往古より西宮へ津出ししていると主張している(「北在酒造荷物口線口上」若林家文書)。明治18年(1885)安場村を合併。(後略)

〇安場村(宝塚市川面1 - 6丁目)
東は荒神川を境に武庫郡川面村下川面。同村の上川面と集落・耕地が入り組む。有馬街道に沿う。天正13年(1585)9月10日の羽柴秀吉領知判物(妙光寺文書)に「摂津河辺郡(中略)やすば村」とみえ、当村の20石などが妙光寺(現大阪市中央区)に宛がわれている。慶長国絵図では武庫郡に村名がみえるが以後は川辺郡に属する。文禄3年(1594)浅野弾正忠が検地を行い、高26石余。(中略)酒造業が行われ享和2年(1802)には1軒・300石だったが、文政期(1818 - 30)には2株・1360石となり(「一橋領村々様子大概書」一橋徳川家文書)、明治3年(1870)には2軒・4株・1446石余になった(「酒造米高書上帳」小西家文書)。(後略)

〇中筋村(宝塚市中筋1 - 9丁目など)
川辺郡に属し、米谷村の東に位置する。文禄3年(1594)浅野長吉の検地で高617石余、田方31町2反余・畠屋敷方22町4反余(同年9月日「中村御検地帳」小池家文書)。集落は南北に分かれ、慶長国絵図では北に小池村、南に中筋村の2集落が描かれる。元禄郷帳では中筋上村とみえ「古は中筋」と注記。元禄国絵図(内閣文庫蔵)では中筋下村を「中筋上村之内」とする。(中略)小池家は近世前記の酒造家で酒造米高は万治元年(1658)は2800石。その後減醸令によって規模はいったん縮小するが、元禄10年(1697)の株改では2980石、翌11年には2000石を申告、豊嶋郡尊鉢村(現大阪府池田市)に出店もあった(「酒造米減少之次第」小池家文書)。灘酒の江戸積みが行われるようになると北在郷の仲間も西宮まで運び津出しした。寛政9年に西宮駅が口銭をかけようとしたが、北在組酒造家24人惣代大行司小池治右衞門らの働きかけで認められなかった(「口上書」若林家文書)。享和3年には酒造家2軒・870石余(「摂津国酒造株石高寄帳」国立公文書館蔵)。同時期と推定される「摂州酒樽薦銘鑑」に当村三木屋彦兵衛の名がみえる。宝暦3年(1753)には小池家が銀主になって尼崎銀札(現存)が発行された。(後略)

〇加茂村(川西市加茂1 - 6丁目など)
栄根村の南、最明寺川下流域の台地上に古くから開けた上加茂と、東部の猪名川沿い平野部の下加茂からなる。式内社鴨神社が台地上に鎮座、同社を中心に弥生時代の加茂遺跡がある。当地から東は瀬川・半町(現大阪府箕面市)に通じ、西は小浜(現宝塚市)・生瀬(現西宮市)の宿駅に通じる古くからの要路(有馬街道)がある。地内に市ノ坪の地名がある。中世の加茂村・加茂庄の遺称地。正安2年(1300)7月10日の代官の代官光末寄進状(多田神社文書)に当地の「阿弥寺」がみえ、湯屋谷東谷の田地が経田として寄進されている。(中略)酒造株は持高2450石の岩田五郎左衛門など4人で造高5158石。(中略)なお享和3年(1803)当村の1株高900石の酒造家は摂津北在組(16ヵ村)に属していた(「酒造株石高数之控」四井家文書)。(後略)

〇栄根村(川西市栄根1 - 2丁目など)
小花村の南西、最明寺川下流域の左岸に位置する。壱之坪の地名がある。「住吉大社神代記」に「河辺郡猪名山」は「坂根山」とも号すると記され、東は猪名川と公田、南は公田、西は御子代国の境の山、北は公田と羽束国の境を限るという範囲であるが、河辺・豊島両郡の山をすべて為名山と称するともいう。(中略)なお天文 - 弘治年間(1532 - 58)頃に丹波八上(現丹波篠山市)の波多野一族の荒木氏が小戸庄栄根に移り、のち池田勝正に仕えるようになったという(「荒木略記」内閣文庫蔵)。(中略)小戸庄七ヵ村は初め高一所として扱われていたが、寛永3年(1626)に村切りが行われた(「寺畑村免状」尾林家文書)。宝暦6年(1756)の栄根村付込帳(栄根部落有文書)によれば、元文元年(1736)新開田畑2町2反余が本高に加えられ、百姓本人37・抱本人18・医師1、牛15、酒株100石、鉄砲3。(後略)

〇小戸村(川西市小戸1 - 3丁目など)
現川西市域の南部、池田村五月山の西方、猪名川右岸に位置する。地内に壱之坪の地名がある。中世は小戸庄に含まれた。慶長国絵図に「ヲウヘ村」とみえ、高1691石余とあるが、滝山村・出在家・萩原村・「ヲハナ村」などを含むものと考えられる。元和3年(1617)の摂津一国御改帳では「北戸庄村」と記される。寛永元年(1624)に「小戸庄」として年貢1221石余のうち168石余は大豆納とされ、庄屋・百姓中に免状が下付されているが(小戸村文書)、同3年頃には村切りが行われたらしい。正保郷帳では小戸村といて高533石余。(中略)正徳5年(1715)「小戸村」の八右衞門は高20石の酒株を今津(現西宮市)の三右衛門に譲っている(同6年「今津酒造米高書上」鷲尾家文書)。(中略)百姓本人45・地借本人2・水呑本人7、酒株高670石(猪三右衛門持)、牛14、鉄砲2。(後略)

〇出在家村(川西市出在家町など)
火打村の北東、猪名川の右岸に位置する。文禄3年(1594)10月の川辺郡小戸庄出在家村検地帳(滝井家文書)によれば田5町9反余・畠屋敷5町1反余で、分米137石余のうち荒16石余。名請人は持高30石余の北右衞門ら22人、屋敷地を登録する者8人、庵1ヵ所。慶長国絵図では「出在家」と記すが、七ヵ村一括で村高は不明。正保郷帳には「新在家村」とあり、高137石余。正保郷帳では出在家村とみえ、高142石余。領主の変遷は文禄4年片桐且元領となり、元和元年(1615)から幕府領、それ以降は小戸村と同様。(中略)宝暦5年(1755)の村明細帳(滝井家文書)によれば百姓本人19、牛7で、蔵一ヵ所、キリシタン札・火付札、威鉄砲1、酒株350石(当時は休株)。(後略)
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荒牧村の周辺では酒造を行う村もあり、以上にあげた村で行われていました。特に、山田村(明暦3年:1800石)、大鹿村(最盛期4010石)、中筋村(元禄期2980石)、加茂村(最盛期5158石)の諸村は製造量が多く、特に大鹿村は江戸積(宝暦10年16396樽)が行われていました。他に、小規模ながらも昆陽村(580石)や小浜町(950石)などもありました。
 江戸時代になると、当時は、勝手に営業もできず届出と認可が必要でしたので、製造上の技術要素だけではなく、酒造業の様々な問題も経て成せる商売でした。また、上記の資料では、時代を考え合わせたものではなく、歴史的な流れだけを繋いだものですので、「荒牧屋」の動きを中心に見た場合には、それらの条件も一致させる必要があります。

『兵庫県の地名』荒牧村条には、酒造についての記述がなく、不詳ですが、近隣にこれだけの醸造地があり、一大消費地の大坂や衛星都市の伊丹・池田(大規模生産地でもある)、城下町尼崎など大きな都市があります。
 櫻正宗の前身「荒牧屋」の当主山邑氏は、賢実に商売を拡大し、初代山邑太左衛門を名乗り、酒造家として、1717年(享保2)に創業します。その後も様々な関係性を繋いで歴史を紡いだものと想像します。

 

江戸時代後期を再現した摂津国川辺郡小浜宿(模型) ※全家屋が瓦屋根
 

 

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