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2025年9月18日木曜日

元亀2年に細川(典厩)藤賢が、摂津国島下郡の戦国武将野辺(部)弥次郎へ下した感状について

摂津堀城跡伝承地
摂津国西成郡に存在したと考えられる中嶋城について調べる内に、気になる史料もありますので、取り上げたいと思います。
 この中嶋城は、西成郡中嶋という「嶋」の内にあった事から「そこにある主要な城」という曖昧な記述がされている事も多く、場所の特定もできていないようです。時代により、必要性に応じて、また要所に軍事施設としての城が造られて、機能していたようです。
 中嶋城と呼ばれたのは、三津屋村にあったとされる「三津屋城」で、別称が中嶋城だったようです。こちらは三好長慶に縁のある城で、その後は、織田信長に攻め落とされ、廃城になったと伝わります。

中でも「堀城」は、水陸交通の要所でもあり、ここに拠点としての城を構えていたのが、細川典厩家でした。この典厩家も例外なく分裂し、時代によってその主体的人物が入れ替わりますので、見極めが難しい所です。

さて、気になっていた史料が、「堀城」を調べる内に、その輪郭(年代比定)が見えましたので、ご紹介したいと思います。
 新修茨木市史第2巻(通史2)に取り上げられている、摂津国島下郡味舌上村を名字の地とする野辺弥次郎が、細川右馬頭藤賢から下された感状についてです。
 これは豊後中川家中の「諸系譜14巻」にあるものとの事で、その家の経緯をまとめた家臣の履歴集です。以下、野辺(野部)家に伝わる2通の中世文書をあげてみます。(元亀2年)6月3日付、右馬頭藤賢が、野部(辺)弥次郎へ下した感状です。
※新修 茨木市史第2巻(通史2)P27

---(史料1)-------------------
去る朔日(6月1日)摂津国西成郡長堂口(成小路村付近)に於いて、一戦に及び、粉骨抽ぜられ、比類無き働き神妙に候。弥忠節肝要に候。謹言。
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更に他の一通。(元亀2年)8月3日付、右馬頭藤賢が、野部(辺)弥次郎へ下した感状です。
※新修 茨木市史第2巻(通史2)P29

---(史料2)-------------------
去る朔日(8月1日)大仁(現大阪市北区大淀付近)堤に於いて、多勢に無勢を以て一戦に及び、前代未聞比類無き働き神妙に候。弥忠節肝要に候。謹言。
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これら2通には「元亀2年」との記入があるのですが、これは後年に書き入れられたものと(市史筆者により)推定され、史料(1)を永禄9年史料(2)を元亀元年のものであろうとしています。
 この筆者である馬部先生のお見立てでも、確かに両通はその年代比定でも可能性はあると思われますが、私が調べている内に見つけたのは、摂津国西成郡成小路村内(付近)にも「長堂」という場所があり、史料(1)の文中にある「長堂口」とは、河内国では無い可能性が高いと考えられます。
※西成郡史(大阪府西成郡役所)P289

---(史料3)-------------------
大字成小路の条
大字光立寺・小島古堤の西に続きて中津川に沿へり。もと鷺島荘(其の名遣りて此の村の産土神を指し鷺島神社と呼びき)の地なりしが、後数箇村に分かれしものの一村即是れ也(摂津志は成小路・塚本・海老江(属邑一)・浦江・大仁(塚本以下鷺島荘)として本村を鷺島の地となさす)。而して本村の一部なる畑四町貳反壹畝壱四歩は、中津川の北岸に河流を隔てて存し、即木寺村(此の村後川口新家と合わせし、木川と云う)・堀村の堤外地となりたりき。(中略)又村内字地に長堂(ちょうどう:東西参町・南北壹町、元鷺島神社の東西に沿うてあり)・田堂(でんどう:東西貳町・南北参拾間、本村元八幡神社東方にあり)と云うあり。而して其の神社地辺にあると其の名称とに由て考うるに、古へ天台宗或いは真言宗の古刹ありし地なるべきか。(後略)
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その可能性を更に具体化するために、他の史料も見てみます。元亀2年6月4日付、織田信長が、将軍義昭側近の細川藤孝へ音信しています。
※信長文書の研究(上)P458

---(史料4)-------------------
細川右馬頭藤賢身上之儀に付き、御内書之旨、頂戴致し候。連々公儀に対し奉り疎略無く候。然る間信長に於いても等閑存ぜず候。此の節領知以下前々如く、相違無き之様に上意加えられるべく之事、肝要存じ候。此れ等之趣き御披露有るべく候。恐々謹言。
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摂津堀城跡伝承地の掲示板 
細川(典厩)藤賢の知行や噯いについて音信しています。これは(典厩)藤賢の働きに対して目に見える保証を用意して、味方として繋ぎとめる事の考えであるように思われ、(典厩)藤賢の弥次郎への感状と関連するものと考えられます。
 元亀2年のこの時期、6月は幕府方が再び勢いをつけ、摂津守護和田惟政・同守護伊丹忠親が、敵対する三好三人衆方となった池田氏を攻めています。和田勢は高槻から吹田を経て西進。伊丹勢は東進して、東西から池田城方面を攻めて挟撃体制にありました。和田勢は6月中頃に摂津国豊嶋郡の池田方の城である原田城を落としています。

このように堀城(中嶋)の北部で激しい交戦がありました。中嶋の北を流れる神崎川で池田領の豊嶋郡と境を接しています。(典厩)藤賢は、その南側を守備する事になっていたのでしょう。

摂津池田城跡公園
7月になると、三好三人衆方の松永久秀勢が、高槻方面へも出陣してきます。和田惟政を牽制するためと思われます。また、同じく三好方であった本願寺宗は、中嶋一帯に配下の寺衆を各地に維持し、その影響力の強い地域でした。「堀城」のあたりは、水陸の要地でもあり、争奪戦が繰り広げられていたようです。
 8月になる頃、その動きは敵味方共に活発化し、幕府衆三淵藤英は、7月26日付で南郷春日社(豊嶋郡)に宛てて禁制を下します。
※豊中市史(史料編1)P122

---(史料5)-------------------
一、軍勢甲乙人乱妨狼藉之事。一、竹木剪り採り之事、付きたり立毛(農作物)苅り取り事。一、非分課役相懸け事、付きたり寄宿免除の事、放火事。右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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原田神社(現豊中市)
続いて、三淵は、更に禁制を発行します。8月1日付で、同郡桜塚善光寺内牛頭天王に宛てられています。ちなみに、この禁制は同年6月23日付で和田惟政が、同所へ宛てて下した禁制と関連します。
※豊中市史(史料編1)P122

---(史料6)-------------------
一、軍勢甲乙人乱入。一、狼藉之事。一、竹木剪り採り之事。一、陣取り付きたり殺生之事。一、矢銭・兵粮米以下非分課役相懸け事。一、国質・所質請け取り沙汰事。一、敵味方撰らずべからず事。右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩於者、厳科に処すべく者也。仍而件の如し。
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8月2日、亡命中の池田家惣領池田筑後守勝正は、幕府方として同郡原田城へ入り、付城として池田城の動向を監視します。
※大日本史料第十編之六P701(元亀2年記)

---(史料7)-------------------
『元亀2年記』8月2日条
晴、晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守勝正入城。
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このような周辺状況の中で、細川(典厩)藤賢は要所の堀城を堅持し、作戦遂行を支えたのが史料(1)と(2)の状況だったのだろうと思われます。それに対して(典厩)藤賢への恩賞を用意する動きが史料(4)だった。

この(典厩)藤賢は、前管領であった細川右京大夫氏綱を支える典厩としての立場でしたが、その後の三好家分裂の中で、松永久秀について行動したようです。
 その流れで、将軍義昭政権樹立に加わっていたのですが、元亀2年春頃から松永久秀は、三好三人衆方に復帰して、幕府と敵対する行動を取っていました。
 (典厩)藤賢にとっては、拠り所的な人物を失い、不安定な立場に置かれ、また、所領や知行も拠る所が元々少ない状況にありました。

元亀2年は、幕府にとって非常に苦しい年で、そのような中でも(典厩)藤賢は、忠義を見せ、苦しい中でも役務を懸命に果たそうとしていました。
 幕府が立場ある人物や求心力のある人物を繋ぎとめようとしている動きが他にもあります。
 前年晩夏に三好三人衆方から幕府方に投降してきた有力武将三好為三へ所領安堵の御内書を、元亀2年7月31日付で下しています。
※戦国遺文(三好氏編3)P16

---(史料8)-------------------
舎兄三好下野守(三好)跡職並びに分け自り当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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これは、同年(推定)6月16日付の信長から幕府衆明智光秀に音信された動きに関連しています。
※信長文書の研究(上)P392

---(史料9)-------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知之旨に任せ、榎並之事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭忠親近所に、為三へ遣し候領知在り之条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なき之様に、伊丹へ了簡されるべく事肝要候。恐々謹言。
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三好為三にもめぼしい所領・知行はなく、幕府方として関係を繋ぎとめるべく、対策を進めていた事が判ります。
 為三は、三好三人衆方に擁された管領格の細川六郎(後の昭元)の重臣でした。これについては、近年発掘された新出史料と関係しているようです。元亀元年8月付の、信長による細川六郎への翻意を促す音信による動きであると考えられます。
※泰厳歴史美術館所蔵史料(令和6年8月14日頃報道)

---(史料10)-------------------
条目
一、池田当知行分、并前々与力申談候、
  但此内貮万石別ニ及理、同寺社本所奉公衆領知方、除之事。
一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、
  其躰之儀、申談事。
一、四国以御調略於一途者、可被加御異見之事。
  右参ヶ条聊不可有相違之状、如件。
 元亀元       弾正忠
   八月 日       信長 (朱印 天下布武)
細川六郎殿
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史料(1)と(2)の年記について、この史料内容と関連すると考えられる一次史料が多くあります。そこにある「元亀2年」の記入は後証であったとしても、それは当時の事情を知っており、正確に伝えた可能性が高いと思われます。幕府方が池田城を攻めるにあたり、その一端を(典厩)藤賢が支えていた状況を示す史料ではないかと思われます。

この2通の史料は、元亀2年の史料として間違い無いように思います。 

 

明治17・18年頃の様子