ラベル 特集_明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2019年1月5日土曜日

明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(はじめに)

2020年の大河ドラマは「明智光秀」が取り上げられますので、それに向けて、池田勝正・荒木村重との接点を取り上げた特集を組んでみたいと思います。

明智光秀は将軍となった足利義昭をその流浪時代から支えた人物で、将軍となった義昭からも信頼を得ていたようです。
 義昭が将軍となった永禄11年(1568)秋からは側近として活動していたようです。初期の頃は、あまり当時の史料もありません。また、同じ側近でも、細川藤孝は領知を桂川西岸の山城国内に与えられ、幕府勢力の武将としても活動しますが、光秀は将軍義昭政権初期の頃は、文官のような活動を主に行っていたようです。

しかし、光秀はもちろん武士ですので、いざとなれば戦いにも動員されますが、領知もまとまったものはなかったようですので、武士と言っても、将軍の親衛隊のような状況だったようです。

一方、摂津国最大級の国人であった池田衆の惣領池田筑後守勝正は、時の将軍(幕府)からも頼りにされる存在でしたが、当時の中央政治に家中政治も大きく影響を受け、不幸にも分裂の後、家制度の解体の憂き目に遭います。
 代わって、荒木村重が池田家中から頭角を顕し、摂津国の守護格に成長します。そのタイミングで明智光秀も新境地を開き、戦国武将として立身出世します。光秀は織田信長政権内での新興勢力として、村重とも関係を深めていきます。両者の相性も良かったのか、縁組みをして絆を強くします。
 しかし、何の因果か、両者は遅いか、早いかの違いだけで、結局は織田政権から離れ、家は滅んでしまいます。
 
詳しくは、別立ての記事をご覧いただくとして、今のところ解っている光秀・勝正・村重、三者の接点(エピソード)を以下にあげてみます。

<明智光秀と池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)>
◎京都本圀寺の戦い(永禄12年正月)
越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」(元亀元年4月)
摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと(天正6年秋)



2018年10月17日水曜日

明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」)

元亀元年(1570)春、幕府・織田信長の軍勢は、天皇からも勅許をもらい、官軍(皇軍)として越前朝倉氏を攻めたのは、大変有名です。
 実際の攻める目的は、以下の複合的な要素を一気に解決する、非常に考え抜かれた行動でした。
 
 (1)若狭武藤氏討伐
 (2)若狭武田氏の守護家正常化支援
 (3)湖西地域の支配強化
 (4)比叡山に対する牽制
 (5)山陰地域の山名氏に対する示威行動
 (6)浅井氏の動向確認
 (7)天皇・公家領の回復
 
一応の表向きとしては、(1)(2)による、越前朝倉氏の討伐でしたが、実は、(6)の浅井氏の動向確認も大きな目的でした。
 この朝倉氏攻めの前年から、浅井氏が織田氏から離れた旨の噂(『多聞院日記』)が出ており、織田信長の義理の弟である浅井長政の行動が本当に噂通りなのか、確認する意味もあったようです。将軍義昭政権を支える織田家の身内から、そのような事が起きれば外聞も悪く、政権にも良い材料にはならないからです。

越前朝倉氏攻めは、そのような複合的な目的を一気に解決するため、大変用意周到に計画され、軍勢に公家も同行していました。行軍中に改元も行われています。また、予備の軍勢も用意し、京都にも準備(更に各地の武将にも準備をさせていた)していました。状況不利になった場合に、総崩れにならない工夫もされていました。
 現在の通説では、越前朝倉氏攻めと「姉川の合戦」は別々のものと考えられていますが、作戦からすれば、これは一体化したものです。作戦の筋書きとしては、
 
”浅井方に離叛の動きが見られる場合、戦況が悪ければ躊躇いなく撤退を行う。速やかに体制を立て直し、敵の本隊に決戦を挑み、殲滅する。”

といった流れであったと考えられます。そのための「姉川合戦」であり、そのための予備兵力の用意であった訳です。
 姉川合戦では、将軍義昭の出陣が計画されており、京都に集められた予備の軍勢を高嶋郡へ出し、決戦場(姉川)の「後詰め」を行う計画(将軍義昭御内書・細川藤孝奉書などにより)でした。
 それが、軍事行動の一連の計画であり、ストーリーでしたが、結果的にはその通りに進まず、誤算を生じてしまいます。それは歴史が示しているところです。

池田勝正は、この動きの中心的人物でもありました。幕府方を支える中心勢力で、越前朝倉氏攻めでは、3,000の兵を出していました。
 当時の政治制度上、将軍(幕府)が天皇を護っていますので、幕府を支える一勢力であった織田家は、有力な支援者という立場ではあるものの、池田家と制度上は同列です。実際の当時の社会的な見方としては、少し違うと思いますが...。
 そして、その幕府組織の中心で活動していたのが明智光秀で、朝倉氏攻めでは将軍義昭の代わりに従軍していたのでした。その将軍が朝倉方に身を寄せていた時から随行して、事情をよく知っていたからでしょう。他にも何人かの同僚も出陣していましたが、一団を成す程の軍勢ではなく、小規模であり、政治的な立場での従軍だったと思われます。
 ですので、池田勝正と明智光秀は、同じ幕府方の人物として、意思疎通も蜜に行っていたと思われます。また、公家衆一行を警固するための厳重な手配もされていたことでしょう。
 
そんな中で起きた「金ケ崎の退き口」でした。警戒しながらの行軍でしたが、織田信長は、情報に接すると直ぐに、公家衆を警固しながら、京都へ向かいます。これも予定されていた道程を辿りましたが、有力幕臣の朽木氏の領内とはいえ、不測の事態に備える緊張感はあったと思います。
 撤退の追撃を阻むため、幕府勢の主力である池田衆が「殿軍」を努めることになったのは、自然な流れであったと思われます。光秀は幕府方、将軍義昭の側近としてこれに従い、また、織田方からは木下秀吉が手勢を率いてこれを支援しています。この数は、その時の秀吉の経済力からして、池田衆程では無いでしょう。

撤退戦は、緊張感が走ったようですが、実際はそれほど厳しい追撃は無く、被害事態は少なかったようです。5月の上旬までには京都を経て、池田衆は帰城したようですが、次の出陣に直ぐさま備えなければなりませんでした。

6月28日、姉川で合戦が行われ、織田・徳川連合軍は、朝倉・浅井連合軍に苦戦の末に勝利します。その苦戦の理由は、将軍義昭の高嶋郡への出陣ができず、後詰めを欠いたためです。幕府勢の主力であった池田衆が、出陣できなかったためです。
 三好三人衆が、池田家に調略を行い、池田家中で内紛が起きたことによるもので、当時の池田家は、それ程の影響力がありました。
 この時、一方の明智光秀は、将軍出陣のため、高嶋郡や若狭国方面への調整を行っていました。将軍が出陣した際には、再び池田勝正と明智光秀は、行動を共にしていたかもしれません。

池田家中は、6月18日に分裂し、勝正は居城である池田城を追われます。間もなく、一族的な存在であった原田氏の城、原田城も内紛が起きています。この頃、各地の勝正派は、勝正を頼って集まったと考えられ、この一団が京都などにしばらく留まって、幕府方として活動していたと考えられます。
 勝正と光秀も、元亀争乱の難局を乗り越えるため、互いに協力して、活動する場面もあったことでしょう。

越前朝倉氏攻めの詳しくは、以下の記事をご覧下さい。

池田勝正も従軍した、元亀元年の幕府・織田信長による越前朝倉攻め(はじめに)