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2024年6月29日土曜日

松永久秀が、幕府政所伊勢貞助などへ宛てた新出史料の特別公開を展覧して

令和6年(2024)6月15日から、高槻しろあと歴史館にて、最近発見された松永久秀書状の展示が行われましたので、見てきました。

その書状は欠年史料でしたが、同館により、天文22年(1553)のものと比定されており、私も内容からして間違いの無い見立てだと思います。
 年記以下は、7月30日付のものですが、内容としては、その近辺の出来事を語った、いわゆる軍記物『細川両家記』『足利季世記』『長享年後畿内兵乱記』、また『言継卿記』の記述に加えて、その正確さを証明するかのように、新出史料は、それらの流れと一致する当時の情報交換が行われています。加えて、既出史料にはない出来事もあり、前述の軍記物などを補足するかのような興味深い要素も見られます。

一方で、同館を訪ねたついでに、何か目新しい資料はないかと物色していると、『しろあとだより:24号(令和4年(2022)3月発行)』があり、それもネット内でダウンロードして、記事を読みました。
 そこには、特に今回の展示を意識したはずは無いと思いますが、天文22年の芥川城落城時の「帯仕山」についての考察記事が載せられていました。
 今回もまた、奇縁がそこに...。私自身も、池田長正の動向を追う中で、天文22年という年が気になっていました。その年は、その前後で、断片的な長正及び池田衆の史料が見られるのですが、関連性を帯びておらず、その記述の意味を判断できずにいました。
 それからまた、この年は、京都の中央政権でも画期を呈した動きがあり、それまでの流れが変わる、要注意の年でもあります。

今回もまた奇縁のおかげで、保留状態にあったところを、前に進める動機を作ってもらいました。
 以下、天文22年の池田長正及び池田衆の動向の思索として、キーワードを挙げておきたいと思います。その前提として、馬部隆弘先生による天文22年頃の京都中央政権についてのご見解を紹介しておきたいと思います。
※戦国期細川権力の研究P705

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天文19年から22年までの間に、三好長慶方が臨時公事の賦課に積極的に関与し始めるのは、管領細川氏綱と長慶の主従関係が崩れ、特に天文21年2月に、長慶が御供衆に加えられて幕臣となった事が大きな理由である。ただし、天文22年前半まで、氏綱方と長慶方は、あくまでも別個に文書を発給していて、上下関係は歴然と残っていた。ところが、天文22年後半になると、氏綱内衆と長慶内衆の家格差は大幅に縮まり、両者の連署状が成立する。
 このように、公事と書札礼の両面を踏まえると、氏綱と長慶の関係性は、天文21年と翌22年の二度の転機を経て変化したと指摘し得る。
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これは非常に重要なご指摘で、この事で、これまでの欠年史料の特定が進み、非常に複雑な人物関係が繙かれるに至りました。
 それ故に、私の研究範囲である摂津池田氏の行動についても、ある程度の推測が立つようになりました。大きな前進です。
 この年も、正統な池田家惣領を主張する池田長正と、近世でいうところの家老的組織である池田四人衆の人々は、その主張を認めず、分裂していた可能性が高いように思われます。

例えば、欠年史料で、12月15日付けの池田四人衆が、当郡中所々散在へ宛てて下した禁制的法度は、後の考証(若しくは備忘録的メモ書きかもしれません)で「天文22年」としてありますが、実はこの考証は、馬部先生の研究成果による恩恵で、正確である可能性が増した訳です。池田四人衆の池田勘右衛門正村・池田十郎次郎正朝・池田山城守基好・池田紀伊守正秀が、当郡中(摂津国豊嶋郡)所々散在へ宛てて音信(折紙:直状形式)。
※箕面市史(資料編2)P411

---(2)---------------------
箕面寺山林所々散在従り盗み剪り者、言語道断の曲事候。宗田(池田信正)御時之筋目以て彼の寺へ制札出され間、向後堅く停止せしむべく旨候。若し此の旨背き輩之在る於者、則ち成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
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箕面寺中枢機関であった岩本坊

この文書内容についてですが、実は天文20年5月付けで、同じ内容のものが、池田長正により作成されています。その後に、同内容で上記の触れを池田四人衆が出すというのは、その前例の打ち消しであり、その時点での権力の表明でもあります。
 これは、天文22年8月18日、細川晴元方の多田・塩川勢力が、「池田表」にて蜂起するのですが、失敗します。この事で芥川城は利を失い、この翌日に芥川城の芥川孫十郎(右近大夫)は、降伏を申し入れます。
 よって、この「池田表へ蜂起」に、池田長正が晴元方として加わっていたのではないかと、推測できるようになります。

池田長正は、先代惣領の筑後守信正の子でありましたが、その妻の舅である三好政長(宗三)が、その立場を悪用して、長正を介し、池田家そのものを乗っ取ろうとしていました。それがために、池田家中からは猛反発を受けていました。その中心を担ったのが、池田四人衆であった訳です。
 故に長正は自らの身分と権力の裏付けを、外来権力に頼らざるを得ず、三好政長を側近として重用した管領細川晴元の権力に依存した権力体となっていました。よって長正の行動も活動拠点も、常に晴元権力の所在地にあったと考えられます。
 逆説的にみれば、長正は池田城内には起居する事ができなかったとも考えられます。少なくとも天文22年当時は、城内に居住する条件になかったと思われます。
※細川両家記(武家部:群書類従20号)P613、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

---(3)---------------------
『細川両家記』天文22年条:
一、同8月18日、細川晴元方の牢人衆多田・塩川方衆一味して池田表へ打ち出され候といえども、存分成らずして則ち明くる日帰る也。
『足利季世記』天文22年・芥川落城之事条:
8月18日、晴元方の牢人摂津国多田の塩川伯耆守に一味して、池田表へ蜂起し、芥川の後巻きをせんと企みけれども叶わず散々に成り行けば。
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軍記物とはいえ、今よりもこの当時は、言葉選びには慎重だったと思います。「蜂起」という言葉をどうして選んだのでしょうか?「責め」ではなく。池田家内部からの動きも感じさせるのですが、ちょっと気になります...。
 そして、上記の軍記物の正確さを裏付ける、当時の史料が存在します。前管領細川晴元方塩川国満が、天文22年8月22日付で、池田表を攻めたことについて、平尾孫太郎某へ感状を下しています。
※池田郷土研究8-P39

---(4)---------------------
去る18日(8月18日)池田表に於いて太郎右衛門尉討死、比類無き忠節候。なお委細新九郎申すべく候。恐々謹言。
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芥川城からの遠望(撮影:2001年2月)
それからまた、芥川城に籠もっていた芥川孫十郎も、細川晴元権力に依存する人物で、その家中において池田長正と同様の構図・立場にありました。孫十郎は、三好氏一族に迎えられていましたが、叛服常無く、いわゆる「問題児」でした。
 そのような境遇から、この芥川孫十郎と池田長正は、しばしば行動を共にし、共通の目標に向かう動きもしていました。その状況を知る一端として、天文21年6月4日付けで、松永久秀が京都大徳寺塔頭大仙院侍衣禅師へ宛てた音信に、池田長正と芥川孫十郎についての記述がみられます。
※戦国遺文1-P121など

---(5)---------------------
尊書拝受致し候。仍って今度丹波国の儀、不慮の次第候。悪逆人の儀、退治の行候処、摂津国人池田兵衛尉(長正)・小河式部退城仕り候。則ち池田の城存分に申し付け候。芥河孫十郎事も造意の段白状候て、種々懇望半ば候。何れの道にも手間入るべからず候間、御心安く思し召されるべく候。此等の趣き、宜しくご披露預け候。恐々謹言。
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また更に、この史料について、軍記物の記述があります。天文21年5月23日、三好長慶が丹波国八上城を攻めていたところを、形勢不利となって陣を解き、撤退します。それについての記事です。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P612、長享年後畿内兵乱記(続群書類従第20号上:合戦部)P318

---(6)---------------------
『細川両家記』天文21年条:
(前略)5月23日の夜半に三好筑前守長慶勢、摂津国衆諸陣悉く有馬郡へ引き退かれ候なり。(後略)
『長享年後畿内兵乱記』天文21年条:
(前略)5月23日夜、丹波国多紀郡高城と雖も三好筑前守長慶取巻く。芥河・池田・小河反逆に依り取退雑節。(後略)
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池田長正と芥川孫十郎は、常に呼応した動きをする事が多く見られます。これは、共通の利益や状況を持つ、仲間的な行動だと、資料上から読み取れます。また、このことから軍記物の大筋の正確さは、信用に足りる(100パーセントとは言えなくても)ものであることも判ります。

八上城遠景(撮影:2006年10月)
天文22年の夏、三好長慶が、その一族でありながら芥川孫十郎を芥川城に攻めたのは、丹波国方面から近江国西部にかけて、細川晴元方勢力の拠点があり、これと孫十郎が結び付いていた事からの処置でした。
 また、この年、将軍義輝も細川晴元を擁護する動きを見せ、行動を共にしていました。加えて、晴元には、摂津国の塩川・多田氏や能勢方面でも加担する勢力がありましたので、池田長正も丹波・摂津国境のあたりに居て、行動の機を謀っていたものと思われます。
 そんな中、芥川城を占領した三好長慶は、直ちに晴元勢を追って、丹波国に攻め入ります。この時、池田衆も従軍していますが、これは池田長正ではなく、池田四人衆方の勢力であったと考えられます。
 しかしながら、長慶方の軍事行動は、この時はうまく行かず、撤退。池田衆にも何らかの損害が出ていたようです。
※言継卿記3-P72、群書類従20号(武家部:細川両家記)P614、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P211

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八木城からの遠望(撮影:2001年10月)

『言継卿記』9月19日条:
癸亥、天晴、天専終、戌刻自り雨降り。(中略)昨日(18日)丹波国へ立ちたる三好人数敗軍云々。内藤備前守・池田・堀内・同紀伊守・松山・石成等討死云々。但し松永弾正忠(久秀)殊無き事云々。
『細川両家記』天文22年9月3日条:
(前略)同18日に後巻して此の衆打ち勝ち、内藤肥前守(備前守)国貞・永貞父子と池田、堀内を打ち取り。此の外数多討ち死也。然れ共松永兄弟は難なく打ち帰られ候也。此の時内藤方の城丹波国八木難儀候所、松永甚長頼は内藤備前守聟也ければ、此の八木城へ懸け入り、堅固なる働きとも見事なるかなと申し候也。
『足利季世記』天文22年(芥川落城之事)条:
(前略)同18日、城よりも突きて出て、相戦う半ばに晴元より香西越後守元成・三好右衞門大夫政勝(宗三子息)大将にて後巻きあり。松永が後陣に控えたる内藤備前守・池田・堀内等を打ち取りければ悉く敗北して、寄手散々に落ち行ける。大将(別働隊)討たれければ、内藤が居城八木の城明けるに、松永甚介此の城に入りて敗軍を集め、城を持ち固めける。松永は内藤備前守が聟なれば、城中にも一入頼もしく思いける落ち武者かく計らいける事、武功第一也と沙汰しける。
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天文22年付けの諸史料にみられる、摂津池田についての記述は、やはり、このように池田長正と池田四人衆が、晴元・細川氏綱(管領現職)両派に分かれて行動しています。その視点で見れば、既知(既出)の資料群は、矛盾の無い記述内容です。

そしてこの年の暮、既述の12月15日付(史料2)で、池田四人衆が当郡中所々散在に宛てて下した法度は、池田衆にとっての縁故寺院であり、且つ、摂津・丹波国境に近い場所で、氏綱方の池田四人衆が勢力を得て、先に下した池田長正権力の効果を削ぐ意味を示したものであろうと考えられる訳です。池田四人衆の権力が優位に立ち、その時局を進めたようです。
 これ以降、池田長正は史料・軍記物でも見られなくなり、代わって池田四人衆関連の史料が頻出するようになります。

そういう意味で、今回の高槻しろあと歴史館にて行われた、松永久秀の新出書状展示は、この重要な、天文22年の京都中央政治構造の解明に寄与する発見だったと思います。

追伸:
この激動の年、更にこのような大事件もありました。6月9日、阿波守護であった細川讃岐守持隆(氏之?)を三好豊前守(長慶実弟)が殺害。持隆は細川晴元と兄弟であり、政治・軍事上の何らかの障害になっていると考えたのでしょう。しかし、これは「主殺し」であり、当時の倫理観に照らしても、国内外に動揺が走ったと思われます。
 8月13日、将軍義輝が都落ちし、その勢いに陰りがみられたこともあり、幕府奉行衆が大量に離反して、京都に戻ります。三好長慶は、地域統治に於いて、それらの協力も得られることとなりました。
 そして、これらの動きを見ていた、阿波足利家が、京都の中央政権復帰を望み、上洛の構えを見せます。大坂本願寺などへ関係各所へ音信を行っていました。

これらの要素を個々にみれば、新聞記事を見るのと同じですが、やはりこれらの動きは関連性があって、欲求や何らかの高まりの中で、連鎖して起きています。この頃には実力者に成長していた三好長慶は、解決すべき要素に優先度をつけて、各々解決を計ったために、この後、大きく飛躍していきます。


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2024年5月15日水曜日

摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て

摂津池田家を見る上で、池田長正という人物は非常に重要な人物です。この長正の代で、池田家の発展の伸び代が芽生え、また反面、同族争いもしています。それから、この長正の代で、荒木村重につながる丹波出身の荒木氏が重く取り立てられます。

池田長正は、残された史料が断片的で、知りたい所の肝心な部分が今のところ見当たらず、それについては、周辺史料から推し量るしかありません。しかし、史料が無い訳ではありませんから、泣き言を言わずに証拠を紡ぐしかありません。
 その要素の一つで、同じような行動をする人物として、芥川孫十郎が居ます。しかし、この芥川姓はいくつか見られ、一つの筋としてみてしまうと、矛盾する動きをしており、混乱してしまいます。少なくとも私はそうでした。

この矛盾は、整理しておかねばならないと思っていたところ、私の尊敬する馬部先生のお見立てが、非常に参考になりました。またまた、備忘録的に、私の頭の中の整理としても、ちょっとブログに記事を投稿しておきます。

『戦国期細川権力の研究』からご紹介します。
※第二部 澄元・晴元派の興隆 第一章 細川澄元陣営の再編と上洛戦 3上洛戦の展開と軍事編成の変化「註:79」P250より

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この芥川氏の後継者について、天野忠幸氏は『二水記』永正17年5月10日条や『元長卿記』同日条の既述をもとに、三好之長の子である芥川次郎長則が養子に入ったと指摘している。しかし、芥川家に複数の系統があることに注意が必要である。
 長則の後継者は天文18年頃まで芥川孫十郎を名乗っているが、天文21年までに芥川右近大夫と改めている。(「親俊日記」天文11年6月13日条。成就院文書 <『戦三』240>。離宮八幡宮文書266号 <『戦三』340>。)それとは別に、天文18年11月に細川氏綱の命に従って、西岡にて段米の徴収にあたっている芥川美作守清正がいる(東寺百合文書い函121号 <『戦三』724>・『鹿王院文書』593号 <『戦三』266>)。彼は、直前の同年10月までは四郎右衞門尉を名乗っているので、孫十郎とは明らかに別人である。(広隆寺文書 <『戦三』255>・東寺百合文書ソ函245号)。
 応仁の乱の頃、阿波には勝浦荘の藏年貢を押領する芥川次郎がいるので(『西山地蔵院文書』4-18(2)号)、長則はこの家を継いだとみるほうがよいかと思われる。「故城記」(『阿波国微古雑抄』224頁)では、勝浦荘に近い那東郡び芥川氏を確認できる。
 最終的に清正へと受け継がれる豊後守の系統は、四国で畿内復帰の機会を窺っていたと思われる。「細川両家記」享禄4年閏5月13日条に「阿波衆堺より出張也、典厩・香川中務丞、築嶋に陣取給ふ」とみえる「香川中務丞」は、同じ一件を指して「去5日芥河中務丞・入江彦四郎至摂州入国」(増野春氏所蔵文書 <『戦三』73>。東京大学史料編纂所影写本で一部修正)とあることから芥川中務丞の誤りである。ここでの芥川氏は、三好元長らと行動をともにして摂津への上陸を果たしている。摂津への復帰は、天文2年3月11日付けの将軍義晴の御内書で、伊丹氏や池田氏などの有力摂津国人に並んで、芥川中務丞が宛所となっていることからも窺える。(「御内書引付」<『続群書類従』第23号下>)。のちに晴元方に芥川豊後守がいることから、中務丞は歴代当主に倣い、豊後守に改称したものと思われる。(「親俊日記」天正8年閏6月13日条・『大館常興日記』同月13日条・15日条)。
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どこの家もですが、やはり、いくつかの系統があります。人物記などには、芥川孫十郎がよく出てきますので、耳馴染みがあり、地域史を知っている者からすれば、直ぐに摂津芥川氏と結びつけてしまいます。しかし、それをしてしまうと、混乱します。

馬部先生のお見立てでは、その芥川孫十郎は阿波国人であって、摂津との結びつきは希薄です。ただ、一方の摂津国人系で、阿波に一時的に身を寄せていた「四郎右衞門尉 - 豊後守」の系統のそもそもは、どちらも同族なのでしょう。

それで、この芥川孫十郎という人物が、池田長正と行動を共にしている事が多く、史料に散見されます。
 孫十郎は禁制の類いが多く出されていますが、それに対して摂津に強い結びつきを持つ豊後守系では、寺社などとのやり取りをしている自署文書が見られます。

今は、ザッと感覚的にご紹介しておきますが、芥川孫十郎は、確かに三好長慶系統の血族なのだとは思いますが、地盤が摂津に無いため、自らの権力基盤がありません。多分、収入というのも地場から得られるものはあまりなかったのでしょう。
 そうすると、三好長慶の近習的立場や様々な管理や取次などで、長慶の行動を支えたのかもしれません。孫十郎の活動拠点はよくわかりません。もちろん、本国の阿波からの身入りや立脚点はあったのでしょうけど...。
 それ故に、近畿地域での自らの権力の後ろ盾となる要素、人物、機会を求めて、表裏激しく行動しています。結局は立場を失って、阿波国に却ってしまいます。どうも、細川晴元の誘いを受けて、何度か乗っては失敗しているように見えます。

一方、池田長正を見てみます。この人物も、池田信正亡き後、権力基盤を失って、細川晴元の権力を後ろ盾に行動していた時期があり、芥川孫十郎と同じく、同じ時期に、付いたり離れたりしており、同じ境遇からか、両者は名を連ねることが少なからずありました。

馬部先生のお見立ては、私の迷いに光を当てていただいたように思えました。細川晴元権力の実態と経過を分析することは、非常に有意義だと思います。私の観察している摂津池田家は、その権力実態の証拠としても非常に興味深い歴史になることでしょう。

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主郭部分 2001年2月撮影

登城口から芥川山城を望む 2001年2月撮影

当時の石垣 2001年2月撮影

井戸跡 2001年2月撮影

当時の石垣その2 2001年2月撮影

主郭あたりからの眺望 2001年2月撮影