ラベル 戦国武将_池田四人衆 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 戦国武将_池田四人衆 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年7月4日火曜日

摂津国人池田筑後守長正について考える

池田筑後守長正という人物は、私の研究している池田筑後守勝正の先代で、一世代前にあたります。この長正という人物については、不明な点が多く、史料もそれ程多くないため、その全容把握に難儀しています。強い思い込みで見ていると、行動の表裏反目が多く、残されている史料では、その意味をどのように理解すべきか非常に悩むことがありました。
 しかし、この長正という人物の行動を解明する事は、摂津池田氏の京都中央政権に対する家中の流れを把握することができ、その事が摂津の政治事情解明の一端にもなると思われます。
 これについては、馬部 隆弘氏先生の『戦国細川権力の研究』により、近年急速にその解明が進んでいます。その波に乗り、摂津池田家から見た細川権力との関係性を解く事につながればとも考えています。
 実際、同書のおかげで、これまで永年、意味の解らなかった長正関連文書の意味が解け、私の研究も大きく進みました。暗闇に光が差し込むように、池田長正の行動が少し判りました。これによって、池田信正から長正を経て、勝正に至る連続性の隙間が埋まりました。
 完全に解くには、もう少し課題もありますが、池田長正の池田家中での立ち位置や最終的には惣領となるのですが、その経緯も、概ね推定できるようになりました。
 細かなところは、要素毎に分けてご紹介しようと考えていますが、今回は大きな流れ(概要)だけ、お伝えしておこうと思います。今後は、以下のような項目で、それぞれの記事をご紹介できたらと思います。

  • 長正は当初、池田家中での惣領候補とはされなかった
  • 長正の母は、三好政長(宗三)の娘
  • 長正は、池田城に起居しなかった
  • 池田四人衆の権力化に対抗した長正
  • 長正の家中での地位は、管領細川晴元に依存
  • 長正は荒木氏などを登用し、独自の組織運営体制を構築
  • 長正は、池田四人衆と和解し、摂津池田家惣領となった
  • 三好一族としての池田家が権益を拡大
  • 永禄6年2月、池田長正死亡


さて、それに沿って簡単にご紹介します。

◎長正は当初、池田家中での惣領候補とはされなかった
池田信正が、細川晴元により不慮に切腹させられると、それが突然の事でもあり、家中は大混乱となりました。次の(独自)後継者も決められていなかったからです。
 それに加えて、舅である事を理由に、三好政長は勝手に後継者を指名して、上位権力(管領細川晴元)に認めさせ、池田家の財産を掠め取ろうとしていました。そもそも、信正の舅であるにも関わらず、細川晴元の重臣でありながら、取り計らいもせず、池田信正を切腹に追いやった事は、当時の慣習を大きく逸脱し、摂津国内外の国人衆の動揺と波紋を呼び起こしました。
 池田家中は、三好政長の暴挙・介入に猛反発し、別の独自惣領候補を立てた上で、家中の三好政長派を追放します。内訌が起きました。


◎長正の母は、三好政長(宗三)の娘
惣領池田信正の死後、軍記物ですが『細川両家記』天文17年条によると、(前略)跡職(池田筑後守の)には三好越前守入道宗三(政長)の孫にて候間、宗三申し請けられる別儀無き者也。、とあります。また同じく軍記物の『続応仁後記巻5』摂州舎利寺軍事付細川畠山両家和睦事条には、(前略)然れ共、其の子(池田筑後守の子)は正しく三好新五郎入道宗三の孫なる故に遺跡相違無く立て置きて、其の子を宗三に預け置かれけり。、としています。
 自分の血筋を元に池田家惣領とさせ、あからさまに池田家の乗っ取りを謀っていました。この軍記物に現れる三好政長の孫とは、「太松丸」で、信正の死の直後に催された将軍義晴の管領細川晴元邸御成りに、「裏門役:池田太松丸」の名が見られる事から、この太松丸が、三好政長(宗三)の孫とされる人物と考えられます。


◎長正は、池田城に起居しなかった
天文17年(1548)夏頃、三好政長(宗三)派の池田家中一党は、追放されてしまいます。『戦国遺文:三好氏篇(三好長慶の、細川晴元側近垪和道祐・平井丹後守直信への音信)』には、(前略)皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く、仰せ付けられ太松、条々跡目之儀、安堵せしめ候き、然る所彼の■体者渡し置かず、三好宗三相抱え、今度種々儀を以て、城中へ執り入り、同名親類に対し、一言之■に及ばず、諸蔵之家財贓物相注ぎ以て、早知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、宗三申し掠め上儀、池田筑後守生涯せしめ段、現形之儀候。難き申すべく覚悟以て、宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固之旨申す事、将亦宗三父子に対し候て、子細無く共親にて候上、相■彼是申し尽し難くを以て候。(後略)とあります。
 この時、池田家中は「孫八郎」という別の惣領を立てていますので、池田の三好政長派一党は、太松丸を頼って、京都に身を寄せていたのかもしれません。
 具体的な場所は不明ですが、史料も暫く見えなくなり、次に見られるようになるのは、3年後の天文20年5月です。「池田(右)兵衞尉長正」として、摂津国豊嶋郡箕面寺に禁制を下しています。
 この池田兵衞尉長正という人物が「太松丸」と同一人物かどうか、また、親子関係なのか等は、今のところ不明ですが、その行動からすると、同一人物ではないかと思われます。父である池田信正の死が突然であり、混乱期の中で元服した(させた)とも考えられます。
 ちなみに、天文18年6月、池田家にとっては、その不幸の元凶とも言える三好政長が戦死します。惣領池田筑後守信正の切腹から大体一年後です。この事で、細川晴元政権も瓦解し、一行は京都を落ち延びて丹波・近江国方面へ身を寄せます。
 天文20年5月に長正は、箕面寺に禁制を下していますので、このあたりの地域に居たのでしょうか。丹波・摂津国境や芥河氏・塩川氏、波多野氏などの細川晴元方の人物に身を寄せていたとも考えられます。今のところ、その活動場所については想像の域内です。

◎池田四人衆の権力化に対抗した長正
摂津池田家の当主代行的臨時家政機関となっていた「池田四人衆」ですが、その四人組は、独立的な池田家存続を志向して、外部勢力の影響を受けない方策を施行していました。ですからそれは、「権力化」といっても、「家」の存続についての自衛措置であり、正統な理由であって、自然な欲求でした。
 しかし、これに対して、池田長正は惣領後継者の立場を崩さず行動していたことが伺えます。長正が摂津国豊嶋郡箕面寺に禁制を下しているところや奈良春日社領垂水西牧南郷を管理する今西家(現大阪府豊中市)に対して神供米切出しを行っている事からみても、その意図が推察できます。特に今西家への「神供米切出」は、先代信正の契約継承です。(但し、規模は150石分の内38石分で、影響の及ぶ範囲に収まっていて、全体の4分の1程)


◎長正の家中での地位は、管領細川晴元に依存
馬部先生の論文『江口合戦への道程』瓦林春信の立場の項目に、興味深い見解ありますので、抜粋させていただきます。
 「瓦林春信が晴元方にいたのは天文五年から一〇年までのわずかな期間で、それ以外は一貫して敵対していたことになる。しかも、一度は投降を許したものの、わずかな期間で晴元のもとを離れたのである。そのような人物の帰参を認めてまでして三好政長を支援したことに、長慶は怒りを覚えたのであろう。(中略)
 その状況下での瓦林春信の宥免は、たとえどのような前歴があろうとも政長に味方する摂津国人は晴元方の摂津国人と見做され、所領が安堵されることを意味する。その分、誰かが所領を失うわけである。つまり、政長に敵対すると晴元の敵と見做され、所領安堵がなされない可能性を示唆したことになる。いわば、春信の宥免は摂津国人衆の危機感を煽って、その結束の切り崩しを図る行為でもあった。
 実際、晴元方の切り崩しはある程度奏功しており、先述の芥川孫十郎と池田長正は江口合戦後に晴元のもとに帰参している。また、長らく晴国や氏綱のもとで活動していた摂津国人の能勢国頼も、晴元方の摂津国人である塩川国満を介して晴元のもとに参じている。(中略)
 三好長慶がそれに対抗するには、晴元とは別の所領安堵をする主体を用意するしかない。そのため、氏綱を擁立したといえよう。
 ところが、江口合戦で政長を討った後も、「就三好右衛門大夫(政勝)事、三筑(三好長慶)条々申事」とみえるように、長慶は政勝の弾劾を続けている。つまり、政勝さえ排除すれば、晴元を改めて推戴する余地をまだ残しているのである。このように、長慶の目指すところはあくまでも政長・政勝父子の排除であり、天文一七年末に方針を変えたのちも晴元の排除を主たる目的に据えたわけではなかった。」との見解が示されています。
 この研究結果により、私の読んでいた池田長正に関する行動の不可解な史料群について、その意味が判るようになりました。池田家中の総意としての惣領を「孫八郎」として立てている池田四人衆に対する抵抗として、池田長正は、細川晴元の権威に初期の頃は特に依存し、自らの立場を顕示し、高めようとしていた行動が、史料に顕れているものと思われます。池田家中の争いは、管領争いと鏡のように連動していたと言えます。
 と同時に、長正は箕面寺への禁制発行や大坂石山本願寺への接近、先代信正の契約の継承(今西家への神供米切出し継続(約束の履行))なども独自で行い、地域関係も繋ぎとめたり、新たな関係構築も行っていました。これは、晴元権力を後ろ盾とする、具体的な積極行動とも考えられます。


◎荒木氏などを登用し、長正は独自の組織運営体制を構築
亡命中の長正の、人的・地域的に影響力が及ぼせる範囲が断片的であったため、これまでの池田家が採っていたように、物理的な不備を埋める方策としても、分業体制を採用したと考えられます。池田長正は「池田四人衆」にあたる役職として、荒木氏を登用しています。これが後に、荒木村重につながって行くのですが、その出発点は、この池田家分裂時にあります。長正の行動を詳しく見ると、新たに始められた行動が多々あり、これはこれで、注目要素です。池田家の伝統権力として定着します。

◎長正は、池田四人衆と和解し、摂津池田家惣領となった
池田長正は、池田家惣領の名乗りである「筑後守」を署名している史料があることから、正式な惣領として、家中から承認を得ていたことは間違いありません。
 しかし、それがいつ、どのように成されたのかは、不明な要素も多くあります。しかしながら、その転機としての大きな要素は、池田四人衆が推す信正後継者であった「池田孫八郎」が、何らかの理由で死亡した事にあるようです。これは、病気の可能性が高いと思われます。
 これが、最終的に長正と四人衆の和解に至った一つのキッカケであった事は確かだと思います。
 しかし、史料上には「孫八郎」が死亡したと思われる弘治3年(1557)以降も、少なくとも数年間、史料上では長正と四人衆との反目があったようです。長正が「筑後守」を名乗るという、本質的な和解に至るまでには、他にもいくつもの解決すべき要素があったと考えられます。


◎三好一族としての摂津池田家が権益を拡大
池田長正と池田四人衆の対立していた時期は、三好長慶の勢力が拡大していた時代です。権限や権益も比例して大きくなっており、その活動を追えば、池田家が三好一族的噯いを受けているところをみると、長正の血縁が元になっている手は明白です。
 そういった状況の中で、「四人衆の池田家政についての当初のコダワリ」は、その時代の流れに掻き消されていったのかもしれません。また、長正自身も独自に築いた権益やヒト・モノ・コトの関係性も、四人衆にとっては否定できなくなり、話し合いにより融合すべき要素に成長していた事物になっていたと思われます。
 何れにしても、大きくみれば、成長する三好長慶政権の中で、池田家もそれを共有し、活用しながら拡大した事は確かです。
 一方で、その上位権力であった、三好長慶の方針転換もあったのかもしれません。天文17年頃の長慶による、同族の政長(宗三)・政勝父子の排斥運動を何らかの理由で問題視しなくなったか、方針転換(改めた)があって、それが、池田家の家政方針に影響を与えたということが、可能性としてはあるかもしれません。

◎永禄6年2月、池田長正死亡

この年、池田長正の他に、細川晴元・細川氏綱が死亡しています。室町幕府の要職である「管領」の両巨頭が同じ年に死亡しています。また、この年の8月、三好長慶の一人息子も病気で死亡しており、五畿内地域に伝染病の蔓延があった可能性があります。
 その頃の長慶は、代替わりを終えていた直後でもあり、跡継ぎの死亡は大きな落胆だったらしく、自身も翌年の7月に死亡します。その死の直前、自らの四人兄弟の一人である、安宅冬康とも相反し、殺害に至っており、精神的にも落ち込みが激しかったことを物語っています。
 さて、そんな激動の周辺環境の中、池田家中の代替わりは、前代に苦しんだ経験を乗り越えて、長正の後継継承は非常に速やかに行われました。
 長正が永禄6年2月に死亡し、その翌月には、池田勝正の惣領就任を告げる音信を関係者に送っています。
 この流れを考えると、長正と勝正は血のつながりが有り、三好家との関係性を重視しようとしていた筈です。永禄6年の時点では、三好長慶は存命で、後継者も健在であった事から、池田家中は、それまでとこれからの関係維持を図るために、順当な後継者選定をおこなった筈です。
 しかし、池田長正と勝正は、親子というには、活動期間が近いようにも思われ、長正が病死(突然的)の可能性もある事から、両者は兄弟であった可能性もあるかもしれません。この点は、今も私の課題であり、よく解らないところです。


池田長正花押 ※(右)兵衛尉の頃


2022年10月17日月曜日

摂津池田家中の有力な家系、筑後守家と遠江守家について

1570年(元亀元)6月18日、摂津池田家中で内訌が発生し、官僚機構でもある池田四人衆の内、惣領池田筑後守勝正親派であった、池田豊後守正泰、同周防守正詮が殺害されて、事態は紛糾。勝正自身が城を出る程に深刻化しました。
 四人衆の構成員でもあった、豊後守正泰と周防守正詮が死亡したのは、その原因が定かではありません。勝正を裏切ったことにより、勝正自身が殺害したのか、勝正と対立する誰かによって殺害されたのか、真相は分からないのですが、私は、後者の理由によるものではないかと思います。反勝正派によって、勝正の側近が殺害されたと見ています。

また、この内訌後、間もなく、「民部丞」を名乗る人物が、勝正の後任として活動していることが見られ、これは池田家中の政変の度に見られる、遠江守家と民部丞家の人物であることから、この時ももう一つの有力家系である、遠江守家と民部丞家の台頭(活用とも)があったと思われます。
 殺害について、遠江守家グループを支持する人々による同意もあったと思われます。これにより、当主の殺害を避けつつ、家中での勝正親派を粛正し、強い意味を内外に表明したのだと思います。

時間を遡れば、勝正の惣領擁立自体も、四人衆権威の影響が大きく、勝正の惣領就任時の1563年(永禄6)3月にも内訌があり、四人衆の内、池田山城守基好、同十郎次郎正朝など8名が殺害されています。
 新たな惣領の就任時には、反勢力の整理が行われていた経緯もあるように思われます。

勝正の場合、惣領そのものの殺害が行われなかったのは、やはり、当時も主殺しは外聞が悪く、池田家の将来にも関わるブランド力の毀損に繋がる事を考えての事だと思います。もちろん、人情もあったでしょう。

勝正の動きを総合的に見れば、その前の惣領(信正・長正)に比べると、四人衆による後見の影響力が強い惣領権力であったと思われます。
 一方の四人衆は、自己の富裕と家系の存続は、運命共同体であり、この池田家を存続させなければ、自身の栄誉はありません。
 そのため、対外的な要因と、家中の欲求との整合性を合致させる必要があり、家中に対して、決断に対する説得力を帯びさせる工夫が必要になります。それが両立できなければ、承服されません。

特に家中騒動という、非常事態で常に表出するのが、筑後守系と遠江守系の有力両家の補完対処です。これは、実力のぶつかり合いと競争で、その時を凌ぐというよりは、四人衆という官僚組織が創設されてからは、半ば、お決まりのパターンのようになって、入れ替えが行われているように感じる情況も見られます。これは、深刻な家中対立を避ける意味があったのかもしれません。加えて、対外対応(混乱が長期化すれば攻め込まれるなどの懸念も)でもあり、家中の説得でもあったのではないかと思われます。
 現代社会でも使われる「二大政党政治」のような感覚かもしれません。

池田家を構成する人々に説明し、組織存続を図る基本要素を、方策を用いてその場を治めるには、この二大勢力の使い分けは、有効であったと思われます。これが、池田家政の官僚化の中で現れた現象ではないかと思われます。
 池田家が富裕になり繁栄するにあたり、上位権力との結びつきも年々深まるようになっていました。幕府の官僚機構との接点(天文21年2月13日付の本願寺日記では、飯尾新七郎なる人物が記録され、池田十郎兵衞の弟で、与力である。、としています。)もあった可能性もあり、制度の取り込みも行って、池田家中での応用も行われていたのかもしれません。
 次第に家政機関による内政の技術力も向上していたと考えられ、権限の集中や、より権威を高める動きもあったと思われ、惣領を決める上で、四人衆の権力体としての発言力の高まりが想定できます。

1570年(元亀元)6月、惣領筑後守勝正追放直後の7月、9月、11月に見られる「民部丞」による禁制は、池田家権力とも親密な場所である重要度を考えても、様式も踏襲されており、惣領格の人物です。しかしそれが、一旦廃されたと思われる動きを経て、再び元亀3年11月に民部丞が幕府に惣領として申請されて許されるに至っては、家中の権力の整理が行われたと思われます。その頃、池田四人衆を改め、欠員2名を補充せずに荒木村重を加えた3名体制となっていたのですが、この三人衆が、分裂します。血縁を持つ池田一族と新参の荒木村重などとの対立が深刻化します。
 民部丞を惣領として立て、遠江守も、池田家の重要人物として史料に見られるようになり、活動している様子がわかります。
 記録としては、対外的な文書によるものから類推する事になりますが、対外的な行動の前に、必ず身内での合意を取り付ける必要がある事から、それらは、一体化した行動であり、対外的なやりとりの文書の中に、その様子を読み取ることができると、考えるべきでしょう。

 

池田城跡公園(大阪府池田市)

摂津池田城の想像模型 



2022年6月5日日曜日

摂津池田家の政治体制の考察

応仁・文明頃の勢力図

池田家の惣領が信正の頃(勝正の先々代)になると、摂津国人の中でも一歩抜き出た存在に成長します。信正は畿内地域で活躍していた三好一族と親密になり、当時の管領であった細川晴元重臣三好政長の娘を娶って一族となりました。そのため、管領職であった晴元とも一気に距離が近くなり、重臣的な扱いを受けるようになります。
 また一方で、信正は幕府(将軍義晴)に「毛氈・鞍覆」使用の許可を申請し、間もなくこれを認められると、幕府とも直接的な関係を結びました。池田家は、御家人のような関係と、晴元の重臣としての立場を持ち、それらの関係性を一種の自衛策としても機能させていたらしい事が窺えます。これは管領・将軍職共に、政治的変転多く、安定しなかったからでもあります。
 こういった池田家当主の社会的地位の上昇で、支配領域の拡大と共に、経済的にも富む事となりました。それに相対して、政治的な必要用件も増大するのは当然で、京都に屋敷を持ったり、池田以外の場所にも屋敷を置く必要もあったようです。
 それに伴って、家中の政治が、当主だけでは対応できない状況ともなって、いわゆる近世時代の家老のような「池田四人衆」制度が創出されたと考えられます。
 池田四人衆は、当時の史料でもその呼称が確認できる事から、外部組織からも認識されていた事が解ります。池田家の国内有力者としての急成長は、社会的地位の上昇による、家政機関の創出と役割分担組織を作ったことが、成長の源となったと考えられます。


天文17年(1548)5月、しかしその信正が、晴元から突然に切腹を命じられます。これが余りにも急であったため、池田家中は混乱し、次の当主選定を巡って対立が起きました。
 この時に、当主を支える補助機構であったはずの四人衆が、独自の当主候補を立てた形跡があり、当主とは別の権力機関としての側面も見せるようになります。
 しかし、この時の対立には理由があり、信正の舅であった三好政長が、信正亡き後の池田家に介入し、財産を我が物のようにしようとしたため、これに反発する動きが池田家中に起こったためです。
 四人衆側は、「孫八郎」なる人物を立て、それに対する当主と目される人物は長正(太松は多分、長正の子)でした。この両頭は数年間、対立、または併存していた可能性があります。
 
弘治3年(1557)5月、孫八郎は何らかの理由で死亡します。これを機に、池田家中は対立を止め、長正を当主として一本化したようです。最終的に長正は「筑後守」を名乗り、正統な池田家当主として内外に公言しています。
 この四人衆と長正の対立の過程で、長正は四人衆と同目的で独自に人材登用を行ったと見られ、この時に荒木氏が池田家に深く関わるようになります。四人衆と長正が和解した後も荒木氏は、長正の重臣としての地位を失う事無く、いわば四人衆と並列するカタチで四人衆制度が拡大さました。
 その後しばらくは家中の政治が安定し、信正時代には見られなかった、広範囲に禁制を下す行動や文書が見られ、池田家の活動範囲が大きく拡がっています。近畿地域で拡大する三好政権の下で、安定的な地域権力の確保に成功したと言えるでしょう。

山田彦太夫宛の池田筑後守長正書状

長正の死後、勝正の時代となりますが、この重臣集団は整理される事無く受け継がれ、その代替わりの時に、村重もその集団の中に組み込まれていったようです。
 また、いわゆる「池田二十一人衆」という多数の重臣集団も存在したと思われますが、その後直ぐに、意思決定の早さを重視した少人数制へと変化しているようです。
 この時、それまでの四人衆体制に戻らずに三人制、いわば「池田三人衆」という新しい体制を打ち出したと考えられ、それを示す史料も実在しています。
 多分これは、旧誼であり、永らく上位権威として、また一族として行動を共にしていた三好三人衆を手本として創出されたと考えられますが、間もなく、それがうまく機能しなくなり、家中対立が再び起きてしまいます。やはり池田家の社会的な位置づけからも、集団の代表は必要だったのです。
 そしてそれは、織田信長と将軍義昭の対立の時期であり、元亀3年(1572)冬頃には、池田一族が幕府方へ加担し、一方の村重は信長方へ加担する事となりました。
 この時、池田一族は、代表者を立てる必要性に迫られ、池田民部丞擁立を将軍義昭に通知し、受入られています。これが知正にあたるのかどうか、今のところは不明。


それからまた、元亀元年(1570)の勝正追放後に「民部丞」なる人物が、山城国大山崎惣中、摂津国多田院、同国箕面寺へ宛てて禁制を下しています。これらは何れも池田氏と浅からぬ関係を持っている場所です。この後に民部丞の禁制や文書は見られませんが、それが元亀3年の池田一族の文書に現れる「民部丞」と同一人物かどうか、完全に一致させる史料は今のところ見つかっていません。
 しかし、それは同一人物である可能性は極めて高いように思われます。特に箕面寺に宛てた禁制は、勝正が下した内容と同様である事から、その権力を継ぐ法則を実行できる人物である事は確実です。
 
元亀4年(1573)7月の室町幕府機能停止をもって、新たな時代を迎える事となり、元号は天正となります。しかし、その後も翌2年頃まで組織のカタチを維持できたかは不明ですが、池田衆は存続を維持していたと見られ、史料にも池田一族の行動が見られます。
 しかし、伊丹城の落城をもって京都周辺地域の拠点が消滅すると、史料上では池田衆の活動は見られなくなっています。翌3年には、完全に新たな時代を迎える事になったと思われます。

2019年6月18日火曜日

中之坊文書に署名している播磨国人らしき藤田橘介重綱について

年欠の『中之坊文書』について、これまでにも何度か、本ブログにて紹介しているところですが、この文書は摂津池田家の歴史を見る上で、非常に重要な文書の一つです。しかし、そこに署名している人物の出自が不明なところがあって、まだまだ課題の多い史料でもあります。

そんな中、意図せず、ツイッターでRTされた記事からたどり、そのブログを眺めていますと、中之文書中の署名者の手がかりと思しき記事があり、同文書の時期や状況からして、その手がかりから得た要素を非常に有力視しています。ここで一旦、中之坊文書を以下にあげます。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180など

--(史料)-----------------------------------------------------------
湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
年欠 六月廿四日

小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守■清(誤読:卜清)、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、萱野助大夫宗清、池田勘介正次(誤読:正行)、宇保彦丞兼家

湯山 年寄中参
-------------------------------------------------------------

さて、この文書の残存課題は以下です。

(1)年記がわからない
(2)人物の出自がわからない
(3)本文が短く、文書の意図がわからない
(4)池田衆(連署者)と宛所の関係がわからない

これらの内の(1)については、本ブログでも推定理由を述べて、元亀2年(1571)と、今のところ考えています。また、その時期の特定と同時に(3)+(4)も必然性の推定が出来、交通の要衝で、要地であった有馬の湯山年寄中からの協力同意に、池田衆が返報したものと考えています。
 この時期、三好三人衆勢力が再び五畿内地域で勢力を強め、将軍義昭・織田信長の幕府方本拠である、京都を圧迫する程になっていました。
 また、有馬郡に西接する播磨国(美嚢郡)三木城でも交戦があり、池田から西側の動きに確実な信頼を築いて、池田勢が敵に包囲された局面を打開するための反転攻勢を成功させようとしていた時期の音信と考えています。つまり、元亀2年の白井河原合戦直前の文書です。

◎参考:白井河原合戦についての研究 

『中之坊文書』は、私の研究にとって、そういう重要な文書なのですが、署名している20名の人物の出自が、全て把握できていないという、大変なジレンマがありました。これらの人物が判明すれば、その時の政治・軍事情勢解明の手がかりにもなるはずです。

今回、なんとなく出自の推定が立ったのは、藤田橘介重綱という人物です。志末与志さんのブログ『志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』 - 松山重治―境界の調停と軍事 -
という記事からで、それを読んでいて、「松山重治に従った勇士たち - 藤田忠正 -」の項目が非常に参考になりました。
 それによると、藤田氏は、播磨国美嚢郡の国人で、吉川荘に起源を持つ人物で、毘沙門城(現兵庫県三木市)主を務めた一族であったそうです。また、三好家中の松山重治被官であったようです。
 そういえば、私の研究ノートでの『播磨清水寺文書』では、藤田氏の名が度々見られ、このあたりに縁の国人であることは認知していたはずですが、気付いていませんでした。志末与志さんのおかげで、私の永年の疑問が晴れ、その日から少し、なんだか毎日嬉しいです。

さて、元亀2年という時期に藤田氏が、池田衆と共に名を連ねる理由ですが、池田と湯山とは有馬街道で繋がっており、政治・経済・軍事ともに非常に密接です。有馬道とは、京都 - 池田 - 湯山や、大坂 - 池田 - 湯山という流れがあり、当時の多くの人々が利用する主要道の一つで、往来も盛んでした。
 ちなみに藤田氏の家紋は、その名の通り「下がり藤」です。摂津池田氏と同じ本姓は、藤原氏で同族です。
 そしてまた、必要に迫られ、湯山と池田衆の双方にとって、何らかの約束をする時、地縁者や関係の深い既知の人物がそこに居れば、なお安心します。約束を違う確率が低くなり、実現が固くなるからです。

署名の中で、私の把握している人物を上げてみます。

【池田家臣】
池田清貧、池田(荒木)村重、池田正良、荒木卜清、神田景次、池田正慶、高野一盛(多分家臣)、池田正遠、池田正敦、藤井敦秀、瓦林加介、池田正行、宇保兼家
【不明な人物】
小河家綱、安井正房、行田賢忠、藤田重綱
【その他】 ※家臣では無いが、出自が推定できる人物。
萱野宗清(現箕面市萱野の住人)


萱野氏は、摂津守護であった高槻を本拠とした和田惟政の西進に圧迫され、自らの領知を保持するために、池田氏を頼った勢力であると思われます。
 これに同じような関係で、播磨国に出自を持つ藤田氏も行動していたのかもしれない、と思いつきました。加えて「小河」氏も不明だったのですが、読みは「おうご」で、そうすると播磨国人の「淡河」といった系譜が思い浮かびます。ただ、摂津国守護家一族の伊丹氏の縁者で「小河(おがわ)」という人物も見られますので、そこは何とも言えないところです。
 それにしても先にあげた「小河」氏は、中之坊文書では、一番初めに署名をしていますし、順番はあまり関係が無いとも言われるものの、一番初めや上位であることはやはり、何の意味も無いということは、考えられないのではないかと思います。小河出羽守家綱は、藤田重綱と同じ「綱」の字も持ちます。それも何か気になります。しかし、小河氏は池田家臣でもなく、この人物いについては、中之坊文書でのみ登場して、他では見られません。
 中之坊文書に見える人々は、播磨・有馬郡あたりの人物と池田衆が連絡を取り合い、互いの利益補助のために一時的に結束した足跡ではないかとも考えていますが、今のところは、確実な証拠はありません。

しかし、今回の藤田重綱の出自推定が立ったことで、そういった動きの可能性があったことも、推定ができるようになったかもしれません。続けてまた、調べていきたいと思います。


2013年7月8日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その1:三好筑前守政長(宗三)について)

堺市の善長寺にある三好政長の墓
この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

 三好為三を知ろうと思えば、一世代前から見る必要がありそうです。その父(為三が政勝と同一との前提)にあたる越前守政長入道宗三についてみておきたいと思います。

やらなければいけない事なのですが、系図関連はあまり取り組めておらず、私が把握しているのは、宗三には少なくとも3人の子がおり、1人は娘で、2人は男子。その娘が摂津国池田家当主の筑後守信正に嫁いでいるようです。
 2人の男子の内、兄が下野守を名乗り、弟が右衛門大夫で宗三跡職、つまり家督を継いでいます。
 ですから、池田信正にとって宗三の2人の男子は義理の兄弟になるわけです。

それから、私は享禄2年(1529)あたりから池田勝正について調べていますので、それ以前は、残念ながら今のところご紹介できません。政長の出自などは、他のサイトなどをご参照頂ければと思います。すいません。

という事で、私の守備範囲の中から、今回のテーマに関係する三好政長についての出来事を抜き出してみたいと思います。

◎天文13年 5月9日
三好政長、嫡子新三郎政勝へ家督を譲る。政長は隠居して入道となり「宗三」と名乗る。
◎天文17年 8月12日
三好宗三、同族三好長慶により非行を訴えられる。
◎天文18年 6月24日
三好宗三戦死。嫡子政勝は摂津国榎並城へ籠り生き延びる。

この内、大変注目される史料が天文17年8月12日の史料です。三好筑前守長慶が、細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉・高畠伊豆守・田井源介長次・平井丹後守へ宛てた音信です。以下、その内容をご紹介してみます。

-史料(1)------------------------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者三好宗三相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言、としている。
※■=欠字部分。
-------------------------------------------

天文17年5月、摂津国池田家当主の池田筑後守信正が、管領細川晴元に切腹させられます。その後宗三は、舅である事を理由に、池田家の領知を同意を得ないまま処分したり、財産を自分のモノにするなどしている事を三好長慶は訴えています。宗三の目に余る非行を池田家から調停を懇請されたようです。
 長慶は、宗三が池田家中の知行・財産を掠め取っていると強い口調で非難してしています。また、池田家中に宗三の親類・宗三派が居り、内訌に陥っているとも伝えています。

兎に角、この事件からは、宗三の人間性を窺う事も出来、非常に興味深い史料です。 

また、この事を裏付ける史料が見られます。参考のため、ご紹介します。欠年11月27日付け、細川晴元方三好之虎(義賢)、摂津国人池田信正衆同名正村など(四人衆)宿所へ宛てた音信です。
※豊中市史(史料編2)P512、箕面市史(史料編6)P437

-史料(2)------------------------------------------
阿波国御屋形様科所摂津国垂水事、先年平井丹後守方と三好政長(宗三)以って調え、相渡され候へき。然るところ、近年また押領候て然るべからず候間、御代官職事、最前平井対馬守方従り仰せ付けられ候条、速やかに渡し置かれ候様、孫八郎殿(池田四人衆が推す当主)へ御異見肝要候。なお、加地又五郎申すべく候。
-------------------------------------------

更にもう一つ。上記の関連史料です。欠年11月30日付け、細川晴元方某(姓名不明盛■)が、摂津国人池田信正衆同名基好など(四人衆)宿所へ宛てた音信。
※箕面市史(史料編6)P437

-史料(3)------------------------------------------
摂津国垂水儀、此 御屋形様料所筋目を以って、先年三好宗三と平井丹後守方以って調え、相渡され候事候。然るところ、重ねて御押領然るべからず候。御代官職事、先々自り平井対馬守方仰せ付けられ候条渡し置かれ候。なお、御異見候者喜悦為すべくの由、書状以って申され候。別して御気遣い仕るべく候 。
※■=欠字部分。
-------------------------------------------

政長が善長寺の創建に関わる
このような状態であったにもかかわらず細川晴元は処置をせず、宗三への加担をやめなかったために三好長慶は、父親の代から仕えていた晴元から離れる事を決意します。
 天文18年に長慶と宗三は衝突し、宗三は摂津国江口城で戦死してしまいます。代替りした嫡子政勝は落ち延びます。

次は、この一連の関係の中での池田筑後守宗田について、取り上げようと思います。