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2026年3月31日火曜日

摂津国豊嶋郡に所在する久安寺の伝総門が存在した可能性は高い

応永年間(1394-1427)に大修理された楼門
非売品で、流通していない書籍『久安寺ものがたり』には、久安寺に伝わる逸話がまとめられています。同書は、ご住職であった故国司禎相さんが、後世への引き継ぎとして、既知の限りを尽くしてまとめられています。
 そこには、非常に重要な事柄が収められており、郷土研究を進める上でも、外す事のできない伝書です。今では知り得ない久安寺の過去の繁栄と、その痕跡について、貴重な手がかりでもあります。
 この著書の中で気になっている要素の一つとして、「久安寺に総門があり、それが現在の楼門から南へ2キロメートル程のところにあったと伝わる。」との記述です。
※久安寺ものがたりP93+P54

-(資料1)------------------
◎外院は楼門より五十丁(約2キロメートル:誤記か。)南に総門が建てられ、様々な施設と共に僧院があったという。この様なスタイルがこの時代の仏教寺院の典型であった。
◎この門(楼門)より北には、内院として四十九院と堂塔。南側の外院は東山町神殿(ここには一本松があったという)に総門が、また香華田(寺の運営に充てがう田)や寺院僧堂もあったと聞き及ぶ。吉田橋の東(イゴキ)に、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院。東山に松雲寺、木部に蓮台寺(現ショウノミ堂)、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。
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◎伝総門の場所を特定できる有力な手がかり
上記の注釈で、「一本松があったと伝わる」との記述...。互いに意識していたとは思いませんが、それを結びつける記録があります。
※新修 池田市史 第5巻P627+P635(池田の民話一覧 28番)

-(資料2)------------------
【池田の民話一覧 28番】
琴の松(神殿の松)/ 東山町 / 東山町と中川原町の間の池田亀岡線(中川原北縁)
※地元では「こどのまつ」と読んでいたため「琴の松」「神殿の松(神をこうと読む)」の文字表記が存在すると思われます。
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そこには伝承として、「神殿(こど)の松」との記録が確認できます。これは伝承と伝承の一致であり、確かな証拠として、一段階昇格する要素になるように思います。
 これにより、久安寺の総門は確かに存在した可能性が高まりました。東山村の南縁、中河原村の北縁にそれはあったのです。

また、この辺りは墓石が寄せ集められて「地蔵さん」として祀られている場所が複数あり、他の地域と比べても多く感じられます。何度かこの辺りを歩いていて、「地蔵さん」がとても多いのはどうしてだろう?と感じていました。

ここで久安寺について、ザッと概要を見ておきたいと思います。
※大阪府の地名1(平凡社)P319

-(資料3)------------------
高野山真言宗。大沢山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
 天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
 文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
 文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる
 境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
 慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
 楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。おもな寺宝に安養寺旧本尊と推定される藤原時代木造阿弥陀如来像(国指定重要文化財)、同時代の薬師如来像、久安寺真名縁起、同仮名縁起、久安寺文書一巻がある。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。
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◎伝総門付近にあった村々
それから、久安寺総門があったと考えられる場所にある村について見てみましょう。先ずは、東山村についてです。
※大阪府の地名1(平凡社)P318

-(資料4)------------------
伝行基創建の曹洞宗東禅寺
中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。
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続いて、中河原村についてです。
※大阪府の地名1(平凡社)P318

-(資料5)------------------
臨済宗天龍寺派松雲寺
木部村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、その左岸を余野道(摂丹街道)が通る。村域東部は五月山の北側にあたる山地で、耕地や集落は西部に展開。嘉禄2年(1226)11月15日の土師某田地売券(勝尾寺文書)に「在摂津国豊島北条仲川原村十九条二里十六坪内西依也」とみえ、この「仲川原村」を当地にあてる説もあるが、五月山より南の地で当地ではないとの見解が強い(池田市史)。康正2年(1456)造内裏段銭並国役引付によると、代官と思われる安東平左衛門が、中川原段銭として1貫文を進納、また「後法興院雑事要録」の文明11年(1479)条によると、当地に摂関家が得分権を有しており、代官池田若狭守が200疋を進納している。
 元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後、幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では182石余であるが、享保20年(1735)摂河泉石高調では219石余。植木栽培が盛んであった。臨済宗天龍寺派松雲寺・真宗大谷派千行寺がある。
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◎久安寺は一時的に没落している
一方で、久安寺の寺院そのものについて、再び見てみます。『久安寺ものがたり』の記述に気になる要素があります。
※久安寺ものがたりP110

-(資料6)------------------
永禄年間(1558-70)、兵乱により寺領は没収され、天正年間(1573-92)の兵火では楼門と三重塔を残し、伽藍僧堂灰燼に帰したと伝わっています。
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応永年間の楼門修復以前に製作された仁王像
このあたりの出来事について、今現在も発掘調査は行われておらず、また、史料調査もされていない事から、科学的な知見は得られていません。
 上記寺伝に「永禄年間、兵乱により寺領は没収され、...。」とある部分、事実だとすれば、どの勢力によるものなのか気になります。この地域の有力武家である池田氏は、永禄年間にほぼ最盛期を迎えます。典型的な中世型武家である池田氏が、朝廷や室町幕府(足利氏)とも縁のある久安寺を潰すような行動はしないように思います。

◎久安寺と摂津池田氏の関係
この要素を以て全てではありませんが、池田氏と久安寺の関係を知る一例を挙げてみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P610

-(資料7)------------------
【赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)】
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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上記について、その奥書部分です。
※池田郷土史研究8-P22

-(資料8)------------------
【大般若経修補本奥書】(川西市満願寺蔵)
天文十六年丁未、池田信正以此経、奉納于摂津豊嶋郡久安寺、永禄八年池田御寅丸、同太松丸、同妙安禅尼等加修補、慶長十三年池田筑(備)後守光重、子息多聞丸重重修補(下略)同経本五二二巻奥書に、多聞丸寅年施主息災延命御祈祷、慶長十三年五月吉日
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このような記述を見れば、永禄年間頃も池田氏と久安寺は共存関係を保っていたと考えられ、その寺領を没収するような強権は発動し得ず、それを越える権力もありません。寺領没収があるとすれば、これよりも後の時代(近世)になると考えられます。それについては後述します。

吉田町から出土した約2万枚の古銭(宋銭)
◎久安寺の没落時期の特定

一般的な感覚では、中世の終わりの最動乱期、荒木村重と織田信長の時代以降であるように思われます。
 吉田村の地面下から多量の古銭が見つかるなどしており、このあたりにまで兵火や混乱が迫った事が、公的にも想定されています。ひとつの判断基準なるものと思われます。この頃だとすれば、久安寺は荒木方に付いたのかもしれません。
 その復興として、豊臣秀吉が天正年間の終わり頃、あるいは文禄年間に久安寺にて「月見の宴」を催したのかもしれません。これは今のところ想像の域ではありますが...。
※久安寺ものがたりP110

-(資料9)------------------
天正の末、豊臣秀吉は久安寺に詣で、三光大膳神に祈願し珍寿山に月見の宴をはり、庭を借景よろしく庭造りの範だ、と誉めた(『摂津名所図絵』)と伝わっています。秀吉を迎えた小坂院(久安寺の塔頭)には桃山風の木戸を残し、楼門前の丹波屋(亀山街道沿いの岩崎家)には、秀吉一行の行列順を記した文書が残っています。文禄元年(1592)3月、秀吉は久安寺の塔を京の伏見城へ運び出したといわれています。(『穴織宮拾要記』)
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この頃から秀吉の寺社政策は、保護下での統制を行っており、政権は寺社後援策をとっているようです。
 そして一方で、秀吉は朝鮮出兵を計画し、3月1日に出陣日を定めて、行動が始まります。秀吉自身も肥前国名護屋へ向けて出陣しています。こういった大きな動きも参考にしつつ、史料の発掘をする事も課題です。


さて、久安寺の寺院規模感で参考になる資料がありますので、それも見ておきます。久安寺に伝わる古い巻物に描かれた境内図があります。
※久安寺ものがたり巻頭資料

時期は不明ながら久安寺最盛期と思われる境内図

これは、いつ頃のものか不明ですが、江戸時代の繁栄の様子と考えられます。再び『久安寺ものがたり』を引用します。
※久安寺ものがたりP54

昭和後半まであった一本松
-(資料10)------------------
この門(楼門)より北には、内院として四十九院と堂塔。南側の外院は東山町。神殿(ここには一本松があったという)に総門が、また香華田(寺の運営に充てがう田)や寺院僧堂もあったと聞き及ぶ。吉田橋の東(イゴキ)に、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院。東山に紫雲寺、木部に蓮台寺、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。
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◎久安寺境内の外にも関連集落が広がっていた

久安寺には往時、内院と外院があり、病院施設もある「寺尾千軒」なる大集落や附属の町が、外院としてあったと伝わります。
 著者の国司さんは資料(1)により「東山に紫雲寺、木部に蓮台寺、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。」としていますが、それらは行基開創の諸寺が連なる何かがあったのかもしれません。
 余談ながら、久安寺川(現余野川)から北側の集落は、久安寺と直接的に山の尾根が連続しており、時代が下るにつれて(特に室町時代以降)、こちら側の地域へ影響力を増したのではないかと考えられます。また、その川の名の通り、久安寺が治水や用水の開発・管理を行っていたとも考えられます。
 そしてまた、南北朝時代、南朝方の中心人物であった、北畠親房や足利尊氏と久安寺は縁があります。
※久安寺ものがたりP51

-(資料11)------------------
久安寺本尊、千手観音の両脇侍、不動明王と毘沙門天の二木造は、親房の寄進だと伝えられている。この仁王像も親房や尊氏の何らかの護持力があったのではと考えられる。尊氏の花押のある「池田荘寄進状」が保存され、池田伊居太神社社殿の修築などからも、室町時代の何者かが力を注いだのだろう。その大きな力が二王尊像を荘厳している。
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◎久安寺に城(八幡)があったと伝わる
一方で、久安寺の山内に城があったとも伝わります。
※摂陽群談(大日本地誌大系:大正5年刊行)P174、P137

-(資料12)------------------
【八幡古城】
豊嶋郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城。後に播磨守在城と云へり。氏年暦所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是れ則ち城郭の用水也と云へり。
【水槽清水(みずふねしみず)】
同郡伏尾村久安寺内、城山の原にあり。是れ則ち古城の用水也と云へり。数月雨なうして水不乾。亦淫雨洪水すると云へども、濁らざるの名水也。
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池田市古江南公園が八幡宮跡地

「八幡城」とは、足利尊氏が、源氏の氏神である八幡宮を篤く崇敬し、軍事・政治の拠り所ともしていた事と無関係ではないかもしれません。
 それからまた、古江丘陵の西端にある古江村には「八幡宮」があり、その東隣の片岡にある「如来寺」の山号が「八幡山」です。如来寺は、元は道場であり、江戸時代の宝暦年間に寺号を許されたのですが、「八幡」との山号は何らかの縁りがあるものと思われます。

このように、余野川(旧久安寺)以北に「八幡」を冠する呼称が少なからずあるというのは、偶然ではないように思われ、久安寺内院の東側からの地形が、古江丘陵にも連続している関係上、また防衛上も、西側への関係性を伸ばしていたものと思われます。そして、古江丘陵には、能勢街道・妙見(長尾)道・多田道を通しており、交通の要衝でもありました。
 摂津池田氏が勢力を拡大する永禄年間頃は、どちらかというと久安寺川から北に久安寺勢力が浸透し、同川の南側は東山村・中河原村・木部村が独立的で、池田氏の勢力が及んでいたような構成であったと思われます。この南側、五月山の北縁は、池田氏の本拠である池田城の裏庭でもありますので、直接的な影響力を及ぼす必要があったと考えられます。
 『摂陽群談』には、(前略)久安元年、近衛帝御宇再建、久安寺と改め賜勅額、賢実上人を中興開祖とす。此の時四十九院にして、七十余町の香花田あり。文禄年中没収せり。(後略)とあります。
 また、文禄年間に豊臣秀吉は、久安寺の塔を京の伏見城へ運び出したとも伝わっています。(『穴織宮拾要記』)「文禄年中没収せり」との整合性も感じる伝聞です。
 久安寺は非常に大きな勢力であり、新たな時代の統治には、その権力が邪魔になったのだろうと思われます。このあたりの地域は、日本国内でも有数の鉱山地帯でもあり、この近くには多田銅銀山があり、銅を大量に産出した能勢・箕面地域もあります。

◎能勢街道は摂津池田氏の地域政権にとっての基幹道であった
摂津国豊嶋郡を中心とした地域政権である池田氏にとって、その本拠地の地勢特性上、経済・軍事上、最も重視したのは能勢街道でした。
 発掘調査によると、池田城変遷過程の最終段階で、能勢街道を城内に取り込む構成になっており、同街道を重視していた事が解ります。したがって、少なくとも政策として、領内にある同街道は管理・監視する必要があったと思われますので、古江丘陵のあたりがそう言う意味で、最北端の重要拠点になっていたと考えられます。 

細河地域を通る重要街道
◎伝久安寺総門は伝承どおり存在した可能性は高い
今のところ、推測ではありますが、伝久安寺総門の存在有無について、まとめておきたいと思います。

 当初、私は総門の場所を、余野街道に沿いにある東山村の地蔵堂がその跡かと考えていました。この場所にも象徴的な大きな木があり、地蔵さんが点在します。
 しかし、この度はこれまでの資料の見直しで、有力な総門跡地が浮上しました。

総門推定場所の地図を元に、少々考察を加えたいと思います。その有無から言うと、存在した可能性が非常に高いと思われます。
 そして、その場所ですが、余野街道沿いという直接的に久安寺へ向かう途上にありつつ、ここから久安寺川(現余野川)を渡って西と北への接続道があり、能勢街道・妙見道・多田道の交差点でもあります。中でも注目しているのは、中河原村から分岐した道(途中に今も中川原橋がある)を真西に進むと、能勢街道に接続しますが、その途上に古江村の「八幡社」があります。結界や道標のような役割があったと思いますし、久安寺に纏わる象徴的な意味合いもあったのではないかと思われます。

このように巨大な宗教勢力であり、都市であった久安寺ですので、楼門や総門を備えた威厳を示す時代もあったと考えて良いように思います。
 場所の特定には、更なる資料集めや聞き取りなどして精度を上げる必要もあります。継続して、追求してみたいと思います。

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2025年6月7日土曜日

現存する摂津国豊嶋郡伏尾村(大阪府池田市伏尾町)に残る砦跡(仮称:伏尾イゴキ砦)

摂津国豊嶋郡伏尾村は、細河郷内にあり、平野部と山地の結節点にもあたります。いわば「出入口」で、非常に重要な立地です。また、ここは郡の境目(河辺・豊島郡)でもあり、その境目に沿って「妙見街道」が通るという、交通の要衝でもありあました。
 ここより北側の、丹波国や摂津国能勢郡といった地域に通じており、太古から交易が行われ、産出する鉱物や山の富を輸送する重要な、通路でもありました。
 視点を変えますと、室町時代末期に地域政権が成長する頃には、豊嶋郡を中心とした池田氏が勃興し、五月山の南側(大阪府池田市綾羽2)に城を構えて本拠とします。
 細河郷は、池田城の裏庭であり、五月山の北側にあたる事から、勢力を増大した池田氏は、同地域にも積極的に関与するようになり、管理下に置いたとみられます。
 その細河郷を構成する六ヵ村の一つである伏尾村には、久安寺という近衛天皇との繫がりを持つ真言宗系の大寺院があります。伏尾村は、久安寺との結びつきが強く、地域政権でもあった池田氏は、同寺とも共存・共栄関係を志向していたようです。

時は「戦国」、久安寺という宗教組織(今とは社会的立場が違う)も、武家である池田氏との関係性を保ち、戦乱を避ける工夫をしていたと考えられます。そのような視点で見れば、久安寺・伏尾村と周辺にも自衛のための城や砦跡が見られます。

その例の一つをご紹介します。

旧細河郷内を赤色立体地図で見ていると、気になる地形があり、更によく見ると、その形状も非常に気になります。
 立地的にも眼下に余野街道(摂丹街道)、その背後にも同じく余野街道と五月山へ上がる道に接続する通路があります。
 そして更にここは「イゴキ」との字で呼ばれ、久安寺に深く関係する場所で、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院などがあったと伝わっています。
 そのような経緯もあり、ここは久安寺の一部でもあった場所ですので、戦国時代には伏尾村の南の入口としての概念があったのではないかと思われます。

 

大阪府池田市伏尾町にある砦跡と思われる場所

以下の赤色立体地図では、2ヶ所の赤色丸印をつけてありますが、本来はどちらも何らかの人工的な普請がされていたと思われます。しかし、今はこの地図の東(右)側部分は、レジャー施設として開発されており、痕跡は残っていませんでした。
 一方、西(左)側部分の小さな舌状丘陵には、土塁と曲輪、堀跡が残っており、ここは砦(城)として使われていた事が判明しました。
 地形としては、西側の余野街道側は絶壁で、天然の要害性を持ち、北と南側は谷です。東端に、今は集落が建っていますが、ここを画して、丘陵を一つの縄張りにしたようです。

赤色立体地図に映し出される砦と思われる地形(大阪府池田市伏尾町)

ちょっと詳しく見てみましょう。
 

仮称:伏尾イゴキ砦の縄張り拡大

この「仮称:伏尾イゴキ砦」と目される、一体的な地形を更に分割しています。北側の端に人工的な普請跡(曲輪)があり、東端の集落と繋がっています。逆側の南辺は崖で、こちら側のその先は緩やかな谷となるため、そこにも備えがされていたのではないかと思われます。
 再訪し、よく見る必要がありますが、地形的には南側にも曲輪のようなカタチが複数箇所みられます。
 西側は、急峻な崖のため、ここから攻める事は不可能ですが、そこに土塁を設けています。現在は、ゴミの投棄・放置場になっているのですが、今も戦国時代の痕跡をハッキリと残しています。

仮称:伏尾イゴキ砦の土塁の現状

仮称:伏尾イゴキ砦の東側の区切り

仮称:伏尾イゴキ砦の北側にある曲輪の様子

仮称:伏尾イゴキ砦の南側の曲輪

縄張りの東端集落の南側の様子で、手前の畑と家の間に谷がある

最後に、この場所との関係性を見るために、広域に赤色立体地図を見ておきたいと思います。地図中の赤色丸印は、人工的な普請を確認した所で、黄色丸印は、未踏査の場所ですが、施設など何らかの痕跡がありそうな立地です。

仮称:伏尾イゴキ砦北方の城・砦の配置想定


今は「伏尾台」として開発されてしまいましたが、この山の随所に砦・監視・避難所が設けられていたと考えられます。それは、久安寺の自衛体制でもあり、関所も設けて管理を兼ねて、経済活動(有料道路にして、道の管理も)の拠点になっていたのかもしれません。

さて、既述の「寺尾千軒や流行病患者のための病院」が、この「イゴキ」と呼ばれた場所にあったとされ、この削平地は久安寺の栄えていた頃に拓かれた跡ではないかと思われます。
 「仮称:伏尾イゴキ砦」は、それらを戦国時代に再利用されたものと思われます。室町末期の動乱期には、寺も自衛の必要があったため、要所には軍事的な施設と体制を取っていたと考えられます。
 それらは連絡の目的もありますので、要所から要所は直線的に結ばれて、監視のための眺望も確保された所に施設があるように思います。道を監視し、連絡と連携体制を基本的に考えて、施設を置いたと考えられるため、砦は、対岸の吉田村と久安寺につながる線を保っていたのではないかと思われます。


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2025年5月31日土曜日

摂津池田城の防御体制は、細河郷にも及んでいて現在認識されているよりも非常に広範囲である可能性が高い

細川六郎(昭元)と摂津池田氏についての関係性「元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状」をまとめていた途中で、脱線してしまい、池田の城郭の分野へ入り込んでしまいました。
 言い訳をさせていただきますと、山の中の城跡は、冬期のみの限定された調査になってしまう事から、そちらへ注力してしまいました。細川六郎と摂津池田氏の関係性について楽しみにされていた方には、大変申し訳けなく思います。必ず、事態(私の頭の中)の収拾をつけてまとめますので、少々お待ち下さい。

さて、今回の記事は、その摂津池田城についてです。五月山(大阪府池田市)北側を特に見たのですが、詳しい方に案内をしていただきますと、やはり、公的にもこれまで未知であった砦や城と思われる痕跡が無数にある事が判りました。今回知り得たそれらは、精査も必要ですが、村(集落)との関係や街道監視(管理)と密接に関係していると思われ、特に摂津池田城の背後にある五月山の裏庭(北側)には豊嶋郡・河辺郡の境目があり、その河辺郡の有力者である塩川氏と池田氏は戦国時代末期には、長期間に渡って敵対関係にありました。

そういった状況にもあり、五月山北側の細河庄(郷)は、摂津池田氏にとって、管理下に収める必要が是非ともあったと考えています。
 そのような想定で、2025年1月から赤色立体地図を元に、頻繁にそれと思しき場所を確認に訪れました。その想定としては、(1)豊嶋・河辺郡境、(2)街道の要所、(3)集落の近く、などには、必ず何らかの施設があるのではないかと考えました。

結果としては、想定通りにそれらしき痕跡がありました。自然に形成されたのではない人工普請跡が見られました。以下、簡単に上述の要素を(1)〜(3)の例にまとめてご紹介します。

(1)豊嶋・河辺郡境
郡境の豊嶋郡側に「陽松庵」があり、その北側の独立した山の頂きに城跡が確認できました。城跡から西側には妙見街道が走り、その城跡は、これを監視するために機能していたものと思われます。
 その直下に陽松庵がありますが、同庵の創建は1351年(観応2)京都天龍寺(臨済宗)を開いた夢窓疎石によると伝わり、その後の経過は不明ながら、1713年(正徳3)に天佳禅師を迎えて再興されています。
 今のところ、それらの伝承を補う資料は無いのですが、戦国時代の視点で見ると、その立地的には非常に重要でしたので、吉田村に関連する何らかの施設があったと考えられます。この東側には谷を挟んで突出した山が、かつては存在(開発により掃滅)し、そこが「オダノカイチ」と呼ばれる城跡とも伝わっています。吉田村自体が、小規模な拠点城であった可能性があると伝承や遺物、立地から考えられます。

陽松庵から続く山の頂上に城跡を確認

陽松庵の山の上にある城跡の位置関係

陽松庵上の山にある城跡から西側の妙見道を望む

(2)街道の要所
想定を戦国時代末期の池田氏支配下に当てています。その頃、摂津国豊嶋郡にあった久安寺は、大寺院に成長していたようで、その威光も相当な影響力であった事が想像されます。
 その久安寺には、内院として49院と堂塔があり、外院は東山町(大阪府池田市)に及び、神殿(田?)には総門が、また香華田や寺院僧堂も存在したと伝わっています。更に、吉田橋(池田市吉田町)の東(イゴキ)に、寺戸千軒や流行病患者のための病院、東山村に紫雲寺、木部村に蓮台寺、古江村に等覚寺などがあったとされています。それらの伝承は今のところ、少々時代の盛衰の時差はあるものの、細河庄が一時代の先進的地域であった事を物語っています。
 そんな久安寺には、戦国時代に於いても主要道の一つであった摂丹街道が通り、その途中にいくつもの里(山)道を交える重要な交通路でした。その通路を監視・管理する為とも思われる砦跡があり、尾根道を切断する巨大な堀切が今も残っています。
 この付近にそのような堀切がいくつかあり、軍事的な意味合いも持ちつつ、関所のような施設があったのではないかとも考えたりしています。

久安寺から余野川を挟んだ山にある摂丹街道を監視したと思われる施設の堀切

摂丹街道を監視したと思われる施設の位置関係 

堀切の現状(2025年3月撮影)

(3)集落の近く
豊嶋・河辺郡の境目である古江村(現池田市古江町)は、主要道である能勢街道を通し、その東側至近に片岡村があって、そこを妙見街道が通ります。その妙見道に豊嶋・河辺郡を結ぶ脇街道が複数交差しており、この付近は、交通の要衝となっていました。
 伝等覚寺と思しき寺跡のような痕跡がありました。片岡村の伝承として、戦国時代まで、村の上に「古御坊」と呼ばれる寺があり、それが戦乱で焼けてしまったので、その下の里に僧侶が降りてきて住み着いたので、その僧侶の名から「片岡」という集落名になったと伝わっています。
 しかし、この場所はそういった古刹があった事から、人や物が集まり、街道も次第に形成されたのではないかと考えられます。
 古江村側には、その西側至近の場所に猪名川が流れ、また、東西に伸びる長細い丘陵の突端が古江村付近で落ち込んだ間を能勢街道が通っています。その街道の対岸の山をも見通す場所に古江古墳がありますが、ここも戦国時代には砦として使われていたと考えられます。戦国時代、基本的に古墳は、軍事的な利用がされていたと考えられます。
 さて、そんな古江村から里道で谷筋を上る場所に、広い削平地と人工的な堀のような普請跡がありました。ここは有事の場合に、村人の避難場所であり、守りのための砦ではなかったかと考えられます。削平地は非常に広く、村人の他にも収容が可能な程、広い場所です。

そしてまた、その対岸、細河庄の中央部を余野川が流れ、古江村などからそれを超えた先に五月山があります。五月山を中心に見た場合、その北側、池田城からは北側背後にあたる重要な場所に中河原村があります。
 その中河原村の背後の山の中に平坦地を設けてあり、そこに村人の避難地があったのではないかと思われる場所があります。ここは、古代寺院があったと考えられる場所で、その跡地を使って、何らかの施設を整えていた可能性があり、人工的に造成された広い地形が残っています。近年それらは、植木畑にもなっていますので、その区別をつけることも課題です。

古代寺院跡地と推定される場所の平坦地の人工的普請跡

中河原社の位置関係

中河原社とその周辺に拡がる広大な削平地(2025年4月撮影)

人工的な普請が認められる跡地の位置

伝等覚寺と思われる場所などの位置関係

伝等覚寺跡(伝古御坊?)と思われる現状(2025年5月撮影)

一方で、摂津池田氏の本拠である、池田城は五月山南側にあり、なだらかに標高を下げつつ丘陵地を経て平らな地形となっていきます。
 池田城は、この地形を巧みに利用し、川や丘、谷を使って防御構想を組んでいたと考えられます。それに沿って城跡があり、また、史料上からもその範囲が想定されます。また、この川の外側にも縁故地や城館跡などを設けており、橋頭堡のようないくつも設定して、強固な防御態勢を敷いていたと思われます。

摂津池田城の南側の川を利用した防衛ライン構想の想定


追伸:今回、の調査では、 I さん、N さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。

 

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2025年2月28日金曜日

摂津の有力国人池田氏が、摂津国豊嶋郡細河庄に合法的な進出が成ったと考えられる史料

 現大阪府池田市の細河地域に古代寺院が存在した事について、摂津の豪族池田氏の史料を見直していましたら、判断の指標になりそうな重要な記述(史料)に気づきました。池田氏が摂津国豊嶋郡細河庄に合法的な進出が成ったと考えられる、史料です。
これは、権大外記で左大臣の鷹司家家来であった中原康富の日記『康富記』で、文安5年(1448)8月3日条にあります。『新修 池田市史』には、この記述について、背景と記述の意味が説明されています。
 それによると、この日、中原康富が鷹司邸に召された折、「摂津細河庄の本家職分を池田筑後守充正(政)と契約した」と聞かされて、康富はこれを頻りに止めたけども、お聞き入れなく、もったいなき次第なり。これは匡具(ただとも)の仕業によるものらしいが、佞臣(ねいしん)というべきなり。、と憤慨している記録のようです。
 また、続けて背景環境の解説では、細河庄の本家職すら得分化して、既に国人池田筑後守充正の代官請けとなっていた。、読み解いています。
さて、この後、池田家中では、一族で細河庄の受け持ちを分割しており、文明14年(1482)11月28日付で、中川原村は池田若狭守正種が受け持って、年貢を近衛家に納めています。(もちろん手数料(25%程)を差し引いています。)

久安寺も近衛家と関係の深い寺院ですので、同じ藤原系統である摂津池田家からも現場で支援を受けて、勢力拡大に一役買っていたのではないかと思います。久安寺の山門は、室町中期頃のものとされていますので、これは、この史料の動きと一致するものと思います。

本来、五月山北辺に栄えた古代寺院が、久安寺の隆盛と入れ替わったか、吸収されたのでしょう。更にこの動きの中で、池田氏は自らの氏寺である大広寺の末寺を入れて、支配強化を行っているように見えます。

ちなみに大広寺は、応永2年(1395)に創建されたとされています。五月山周辺は、見事に大広寺ネットワークが張り巡らされて、摂津池田氏と共存関係を築いていたように思われます。

 

『康富記』文安5年(1448)8月3日条

 
大澤山 久安寺山門(大阪府池田市)

塩増山 大広寺山門(大阪府池田市)


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2023年5月21日日曜日

摂津国人池田信正が、天文16年に摂津国榎並庄にあった大金剛院(赤川寺)の「大般若経六百巻」を同国豊嶋郡の久安寺に寄進した事についての考察

偶然の出会いであった、大坂本願寺五十一支城の一つとされている伝葱生(なぎう)城を調べる内に、その付近にあった赤川寺と摂津池田家との関わりが浮かび上がり、これまた電撃的な、嬉しい出会いとなった事、非常に驚いています。
 赤川寺にしても葱生城にしても、両要素は摂津国榎並庄にあります。ここにある榎並城は、三好政長が居城しており、この人物は池田信正の義理の父親にあたります。要するに妻の父親、信正の舅です。ですので、榎並庄は、摂津池田家にとっても非常に関係の深い場所でもあります。
 この際、詳しく見て、これまでに知り得た要素の整理と再検討、また、今後の備えにもしておきたいと思います。先ずは、もう一度、赤川寺(大金剛院)と般若寺について見ておきたいと思います。
※大阪府の地名1-P610(赤川廃寺跡)

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◎赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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この「大般若経」の奥書によると、寛喜2年(1230)に完成した経典600巻をその300年余り後の天文16年(1547)に池田信正が、摂津国豊嶋郡の久安寺(現池田市)へ寄進しています。この久安寺は、信正の居城池田城からも至近にある大寺院です。
 信正が西成郡(東成郡とも)の大金剛院(赤川寺)にあった大般若経を知り、久安寺に寄進するという経緯はどのような理由によるものだったのでしょうか。豊嶋郡の久安寺について、一旦、以下に示しておきます。
※大阪府の地名1-P319

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久安寺楼門
高野山真言宗。大澤山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
 天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
 文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書く(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
 文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる。
 境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
 慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
 楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。(中略)。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。
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久安寺は真言宗。大金剛院(赤川寺)は、天台宗です。その当時は、宗派が違ったかもしれませんが、両寺とも興りは古く、また、「般若経典」は、どちらの宗派も共通して尊ばれています。
 一方、この時代には、摂津池田家の菩提寺は塩増山大広寺としていたようですので、池田領内にあった久安寺などの大寺院とも、付き合いや親交があったのでしょう。

続いて、榎並庄について見てみましょう。ここは摂津池田家とも非常に関係の深い場所でもあり、長文になりますが、榎並庄部分を全文引用しておきます。
※大阪府の地名1-P625(城東区)

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現城東区野江・関目付近を中心とし、かつての大和川と淀川の合流点に近い低地帯に存在した大規模な庄園。もと東成郡に属するが正確な庄域は定めがたい。近世には淀川南東、鯰江川以北の摂州25村を榎並庄と称しており(摂津志・享保八年摂州榎並河州八箇両荘之地図)、現旭区・都島区のほぼ全域と、城東区北半、鶴見区の一部にあたる。野江村の水神社付近には中世榎並城があったといわれ、馬場村(現旭区)の集落部を字榎並というのが注目される。

〔摂関家領〕
「法隆寺別当次第」に長元8年(1035)から長暦3年(1039)まで法隆寺別当をつとめた久円が、その任中に西大門を造立するため「榎並荘一所」を売却したとみえる。しかし榎並庄には法隆寺だけではなく多くの領主の所領が錯綜していたらしい。承暦4年(1080)に当庄をめぐって内大臣藤原信長と信濃守藤原敦憲との間に争論が起こった際、榎並庄の四至内に所領をもつ者に公験を提出させたところ、藤原信長・藤原敦憲・故藤原憲房後家・皇太后藤原歓子・右中弁藤原通俊や四天王寺(現天王寺区)・善源寺(跡地は現都島区)らの多数が応じている(「水左記」承暦4年6月25日・同29日条)。この相論で藤原敦憲は父憲房が故関白家(頼通)から領掌を認められたときの政所下文を提出して対抗しているが(同書同年閏8月8日条)、結局、信長の圧迫を逃れるため関白藤原師実にその所領を寄進したようで、その頃から摂関家の榎並庄支配が急速に進展し、摂関家領となっている。建長5年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)の榎並に「京極殿領内」と注記があるのは、当庄が師実(京極殿)の時代に摂関家領として確立したことを示している。摂関家では前遠江守藤原基俊を預所に補任して支配させた。ところが基俊が預所職を子孫に伝える際、摂関家は榎並庄を上庄・下庄に分割、基俊の嫡女(冷泉宰相室)を下庄の、次女(清章室)を上庄の預所に任じた(「榎並庄相承次第」勧修寺家本永昌記裏文書)。このうち上庄の預所職は次女の夫清章に伝えられたが、保元2年(1157)4月、関白藤原忠通は榎並上庄を東方と西方に分け、清章の譲状に任せて、その着女を東方の預所に補任し庄務執行を命じた(「関白家政所下文案」・「榎並庄相承次第」同文書)。
 前掲近衛家所領目録によると、榎並庄を伝領した近衛基通は、鎌倉初期に上庄西方を近衛道経の妻武蔵に分与したが、上庄東方と下庄は本所の直轄とし、政所の年預を給主として支配させた。榎並上庄西方は「庄務無本所進退所々」に、榎並庄東方・同下庄は「庄務本所進退所々」に書上げられており、当時の東方給主は行有法師、下庄の給主は資平・行経であった。この上庄と下庄の位置を明確に示す史料はないが、延徳元年(1489)12月30日の室町幕府奉行人連署奉書案(「北野社家日記」延徳2年3月4日条所収)には「榎並下庄東方号今養寺、同上庄四分一号高瀬」とみえ、上庄の庄域が高瀬(現守口市)に及んでいる点から、上庄北部、下庄は南部に位置したものと考えられる。しかし平安末期から鎌倉中期にかけての摂関家に対する当庄の負担・奉仕については、わずかに関白忠実の春日詣の前駈るへの負担(「永昌記」嘉承元年12月17日条)、摂関家の元日の供御座の進納や吉田祭の費用の勤仕(執政所抄)、春日祭の舞人・陪従への負担(「猪隅関白記」正治2年正月10日条)などが知られる程度で詳細は不明。建長5年3月成立の高山寺縁起(高山寺蔵)には、中納言藤原盛兼が長日勤行の仏聖灯油ならびに人供料として当庄の私得分の田畑の一部を高山寺(現京都市右京区)に施入し、後日、関白近衛家実の計らいでその坪付を寄進した旨が記され、田畑の一部は高山寺の所領となっている。
「荘園物語」挿絵より:豊中市教
 鎌倉中期以降、当庄に対する武士の侵略が次第に激しくなり、建長2年2月6日、北条時頼は御教書(海蔵院文書)を出し、河内守護三浦泰村が榎並下庄を自分の所領と称して侵害するのを禁じ、代々摂関家領である旨を伝えている。しかし、その後も武士の侵略はやまず、暦応2年(1339)9月、足利尊氏が播磨国平野庄の替りとして榎並下庄東方や楠葉河北牧(現枚方市)年預名などを洞院家に付与した際、榎並下庄東方は「城三郎跡」と注されており(河東文書)、すでに鎌倉末期には下庄東方に幕府方の武士の某城三郎の所領が形成されていたことがわかる。これらの侵略は単に武力によって行われたのではなく、承久の乱以降、この地に地頭が設置され、秦村や城三郎が補任され、地頭職の支配を通じて所領を形成したのではないかと推定される。下庄がいつ東方と西方に分かれたかつまびらかでないが、少なくとも城三郎のときには東方がその所領となっており、東方と西方の分割は、庄園領主である摂関家と地頭との下地中分による支配の分割によって生じたものと考えられる。その城三郎の東方が足利尊氏に没収され洞院家領となったのであるが、永徳2年(1382)10月16日には山名氏清が榎並上庄東方の年貢のうち30石を山城石清水八幡宮に寄進しており(石清水文書)、争乱の展開の中で武士の侵略・押領が激化していった。
明治41年の榎並庄の状況
 こうした情勢のなかで、近衛家の支配は衰退を余儀なくされた。近衛家は榎並下庄の庄園領主権を京都北野天満宮の別当職を兼務する曼殊院門跡に寄進したものとみえ、正安3年(1301)7月29日付の伏見上皇院宣案(曼殊院文書)によって、門跡が相伝の理にまかせて下庄を領掌することが認められている。これが当庄と北野天満宮の関係を示す早い史料であるが、康永2年(1343)6月には、光厳上皇も榎並下庄東方を北野神社の別当大僧都に安堵する院宣(曼殊院文書)を出している。貞和4年(1348)4月には参議藤原実豊が亡息の菩提所領として榎並下庄西方の田地七町五反を長福寺(現京都市右京区)に寄進(長福寺文書)、さらに観応元年(1350)8月には興福寺が春日社領榎並庄など三庄の返付を北朝に訴えている。「御挙状等執筆引付」に、この三庄は永仁年間(1293 - 99)に春日社へ寄進され柛供を備進してきたが、まもなく顛倒されたとあるので、鎌倉末期から南北朝初期にかけて榎並庄が奈良春日社領となっていた時期もあり、当庄をめぐる庄園領主権がきわめて錯綜した様相を呈していたことがわかる。こうしうて近衛家の支配は消滅し、室町時代になると他の庄園領主に関する史料もみえなくなり、もっぱら北野天満宮領としてあらわれてくる。
〔北野天満宮領〕
北野天満宮は光厳上皇の院宣で榎並下庄東方を安堵されたあと、応永23年(1416)11月10日付の法印禅順譲状写(北野神社文書)に「榎並上庄 公方御寄進内 半分並下庄東方同下司公文職同田畠」とあるように、将軍足利義持の寄進もあって、15世紀中葉頃には榎並上庄半分と同下庄東西両方が北野天満宮領となっている(同文書)。「北野社家日記」などによると、初め榎並庄の管理支配に当たったのは、祠官家の一つ松梅院であった。しかし社家内部で競合対立があり、将軍足利義教のとき松梅院禅能が勘気を受け、かわって宝成院が奉行したのを契機に、15世紀後半を通じて榎並庄の管理支配権をめぐる両者の対立が断続的に繰り返された。とくに長享2年(1488)から延徳3年にかけて松梅院・宝成院双方がそれぞれ幕府首脳に働きかけて、当庄の管理支配権を激しく争った。「北野社家日記」延徳2年3月4日条によると幕府側でも困惑したとみえ、「榎並庄上東西半分、下庄東西一円」を松梅院禅予に、榎並下庄東方地頭職と同上庄四分一地頭職を宝成院明順に領知させるというきわめて曖昧な裁定を下している。両者が争っていたとき、現地では武士の侵略や庄民の抵抗がますます激しくなっていた。当時の「北野社家日記」には「榎並庄不知行」により神事が退転したという記事が頻出し、北野天満宮の庄園支配が崩壊の危機に直面していたことを物語る。天文10年(1541)12月15日付の後奈良天皇女房奉書(北野神社文書)も榎並庄について「ちかきころその沙汰いたし候ハぬゆえ」神事が退転していると記す。
榎並座発祥の地石碑
〔猿楽榎並座〕

中世の榎並庄の歴史において特筆されるのは、丹波猿楽の一座といわれる榎並座がここを根拠として台頭し活動したことである。榎並庄の猿楽は、初め近くの住吉社(現住吉区)への奉仕を通じて発達してきたが、鎌倉末期には、丹波猿楽の矢田(現京都府亀岡市)の本座、宿久庄(現茨木市)の法成寺座と並んで「新座」として京都へも進出するようになった。文永7年(1270)6月の京都賀茂社の御手代の祭礼に、本座・新座・法成寺座の三座猿楽が勤仕したとあるのが早く(賀茂社司古記)、南北朝期には名称も新座に代わって榎並座とよばれるようになり、「妙法院法印定憲記」康永3年4月19日条によると榎並座は醍醐寺清瀧宮祭礼の猿楽楽頭職を獲得している。足利将軍の保護を受け、世阿弥が伝える義満の前での榎並・観世立会能のエピソードも生みだされ(申楽談儀)、応永年間になると、矢田本座から伏見(現京都市伏見区)の御香宮・法安寺の楽頭職を買得するなど目覚ましい活躍を示す(「看聞御記」応永27年3月9日条など)。役者としては馬の四郎・左衛門五郎らが有名で、後者は能「鵜飼」「柏崎」の作者といわれる(申楽談儀)。しかし榎並座では応永30年に楽頭が譴責を受けて死に、後を継いだ弟も死去するという事件が起き、清瀧宮楽頭職が観世座に奪われるに至った(「満済准后日記」応永31年4月17日条)。これを契機に急速に衰え始め、わずかに「エナミ大夫生熊」(「満済准后日記」応永33年4月21日条)、「春童」(看聞御記」永享10年3月12日条)の存在が知られるだけで、以後榎並座の活動は中央の記録から姿を消す。
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榎並庄は低湿地で、洪水が起きやすいという難所ではありましたが、化学肥料も無い当時、洪水は肥沃な大地に変えてくれるという利点もありました。それ故に、敢えて、低湿地を選んで集落を形成するというところもあります。「輪中」はその典型です。

さて次に、その榎並庄にあって、その中心ともいえる榎並城について見てみます。
※大阪府の地名1-P627

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榎並城(城東区野江4丁目)
水神社
中世榎並庄に築かれた城で、野江水神社(野江神社)付近にあったとみられるが遺構は確認できない。「花営三代記」応安2年(1369)3月23日条に楠木正儀が天王寺から退却して榎並に陣したとみえ、古くから軍陣を布くのに適した場所だったようである。十七箇所城とも称したといわれ、同書同年4月22日条に正儀が「河内十七箇所」に退いたとみえ、明応2年(1493)の河内御陣図(福智院家文書)に森口(現守口市)南方、八箇所(現門真市など)西方に「十七箇所」と書き込まれているのは当然のこととする説もある。榎並城については「細川両家記」の天文17年(1548)10月28日条にみえるのが早く、三好政長・政勝父子と長慶の抗争は、その後ますます熾烈になり、翌年6月17日政長は榎並城を政勝に任せ、兵三千騎を率いて淀川北岸の江口(現東淀川区)に渡り城郭を構えて迎撃態勢をとった。しかし6月24日長慶軍は江口城を総攻撃し、政長を討死させた(細川両家記)。一説に政長は榎並城へ逃れようとして水死したともいわれる(暦仁以来年代記)。政長敗死の報を受けた政勝は、城を捨てて瓦林城(現兵庫県西宮市)へ退却した。「万松院殿穴太記」は榎並城について、もともと三好政長の居城で屈強の要害を構えていたと記しているので、おそらく天文年間に政長が築城したものとみてよいであろう。政長・政勝の後、当城がどうなったかつまびらかでないが、この地には石山本願寺合戦のときにも本願寺(跡地は現中央区)側の端城(陰徳太平記)が置かれたとみられる。
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この榎並城の城主であった三好政長は、既述の通り、自分の娘を池田家に嫁がせて、姻戚関係となっていましたが、それがいつの事だったのかは、今のところ不明です。戦国の乱世でも、婚姻は非常に重要な契約でしたので、道義的な習わしは守られ、血筋も大切に守られていました。

ところで、天文16年という年は、池田家にとっても京都の中央政権にとっても、激動の年廻りでした。
 少し遡って、天文12年(1543)7月、管領細川高国の跡目を称して、和泉国に於いて細川氏綱が挙兵します。様々な事情で次第に社会的な支持を受けるようになっていきます。
 摂津池田家は、当主(惣領)信正の舅とはいえ、その立場を利用して、池田家の権益を押領(横領)するような事もしていた三好政長に対して、池田家中が不満を持っていた時期でもありましたが、幼小の頃から永年に渡り支えてきた管領系譜の細川晴元は、重臣であり同郷でもあった政長の行動を諫める事もなく、処置もせず放置したようでした。この態度に対して、池田信正は自衛的な対抗措置として、当時、勢いを増していた細川氏綱方に加担する事を決め、細川晴元政権からの離叛を決行します。天文15年(1546)9月でした。

摂津池田城の推定復元模型
晴元は、直ちに摂津国方面の討伐を行い、池田・原田城などを激しく攻め、旧誼も顧みず、執拗に、大規模に攻撃を行いました。結果、氏綱方の支援もありましたが、抗いきれずに池田信正は、晴元方に降伏します。
 天文16年(1547)6月25日、同じ氏綱方にあった中心人物薬師寺与一元房が、芥川山城(現高槻市)で降伏したため、池田信正も晴元方に降伏し、摂津国方面は、一旦平定されました。しかし、河内・和泉国、山城国北部方面では、闘争が続いていました。
 更に、この機に乗じて、阿波国に退居していた将軍候補の家系でもあった足利義維が、京都への返り咲きを目指して、堺へ上陸してきます。これは、この年に将軍義晴と細川晴元との確執が表面化していた事の隙を見ての動きでもあります。

一方の池田信正は、出家し、僧体となって、作法通りの詫びを入れて、細川晴元の指示に従っていたようです。晴元方から離叛して、武力抵抗をしたとはいえ、晴元政権での功労者(しかも二代に渡る)でもあった事から、どのような処分にするのか、決めかねていたようです。

今西家屋敷
天文16年とは、そのような年であり、思惑の錯綜する時期でもありました。このような時代の中、境遇の中で、池田信正は「大般若経典六百巻(大般若波羅蜜多経)」を久安寺に寄進しています。
 この時点で、僧覚賢により最初に書写されて(寛喜2年:1230)から300年余り経ている事から、補修などを施して寄進したのでしょう。廃れかけていたものを、復興したようなカタチだったのかもしれません。「大般若経典」は、大乗仏教の原点とも言える大切な経典ですので、そういった考えや願いを込めての行動だったと思われます。
 少し気になる要素があります。天文15年(1546)頃に割と大規模に洪水や日照りがあったようです。
※豊中市史(史料編2)P526(今西家文書)

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三石五斗(将監殿・大垣内殿:相合わせ)、三石者(八木小五郎方・高野源二郎方)、五斗(中村源五方)、七斗(垂水上方)、弐斗(玉林分)、弐斗(片山分)、参斗(安井出雲守方)、七石者(八木七郎兵衞方)、四石者(渡辺源兵衛方)、四斗(田木五兵衛方)、六斗(古田彦左衛門方)、四石者(新三郎殿)、一石五斗(樋口太郎左衛門方)、八石三斗五升八合(田井源介殿抱え分・香西分)、三石者(厚東二介方)、五石者(小曾禰勘兵衛方)、拾四石者(下村方両人)、三石者(大林與三次郎方)、三石者(牧野宗兵衛方)、一石五斗(栗原方)、一石者(金前坊)、一石者(御中間新左衛門)、弐石五斗(中殿)、弐石五斗(塩山十郎左衛門方)、五石者(寺江與兵衛方)、五石者((河?)端彌次郎方)、八斗(古田三郎太郎方)、四石者(宇保平三郎方)、一石五斗(幡本十郎三郎方)、一石五斗(同名善十郎方)、弐石二斗三升弐合(御局様抱え分湯浅分)、一石者(河端甚三郎方)、一石者(福井勘兵衛方)、三石者(茨木伊賀守長隆殿)、一石者(吹田殿)、拾八石者(與四郎殿)、五斗(穂積源介方)、一石四斗(宇保與市方)、弐石者(景寿院分)、弐拾石者(榎坂殿)、五斗(寺野修理方)、四斗(津田彌六方)、四斗一升(伊丹大上分)、九石者(安倍備中守方)

以上百五十石分。

右、春日社為御神供米百五十石之分、知せず于水損、諸給人為、前以って書き立て抽んず留木修理進並びに目代今西橘五郎彼の両人へ百五十石分切出上え者、別儀無く孰(いず)れ別儀無き者也。若し此の旨背き、難渋輩於者、此の方堅く成敗加え為るべく候。仍て後日為、目代に対し、染筆処、件の如し。
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今西屋敷付近の田んぼ
池田信正が、「南郷御供米切出注文」として、摂津国豊嶋郡の今西家へ神供米の切出注文発行していますが、この文中に「不知于水損、為諸給人前以書立(後略)」とあって、神供米収穫時期前に、事前に言葉を添えています。ちなみに、人物名の太字は、池田氏と関連すると考えられる人物です。

実は、天文13年(1544)7月8日から翌日にかけて、近畿・東海地域にかかて防風水害が発生していました。京都醍醐寺の僧、理性院厳助の記録『厳助大僧正記』には、四条・五条の橋、祇園大鳥居が流出するなど、京都で大きな被害が出ていたことが記述されています。
 ちなみに天文9年(1540)5月には、干損、間もなく一転して大洪水、同年秋には、イナゴの大発生による農作物の被害に見舞われるという、悲惨な状況でした。
 池田信正は、このような状況を鑑みて、契約の文面「南郷御供米切出注文」にその旨を入れ、やむを得ない時の布石を打っていたのだと思います。

大洪水で付近に流れ着いた地蔵尊

一方で、榎並庄に目を向けます。もし洪水があったとすれば、低湿地であった榎並にも被害が出ていた可能性は多分にあり、赤川寺も被害を受けていたのでしょう。
 このような状況から、池田信正と大金剛院(赤川寺)の接点ですが、今のところは直接的な資料に出会っていませんが、やはり、信正の舅であった三好政長の接点によるところではないかと思われます。また、大金剛院に「大般若経典」がある事は、当時から著名だったのではないでしょうか。

これらの要素を整理すると、信正の天文16年当時の状況、その領内にあった久安寺という大寺院、信正と三好政長の関係とその居住地であった、天文13年の大規模な洪水などという接点が、全て作用して、実現した出来事だったと、今は大まかな流れのみを推測するに留まります。
 天文13年の洪水で被災した赤川寺にあった「大般若経典」を、信正が、大切な経典でもあるために、救済的な目的で避難させ、久安寺に寄進したという想定もできるのかもしれません

今後の何かの手がかりになればと期待して、この記事を終えたいと思います。


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2022年8月15日月曜日

摂津国池田の地域権力と社寺などの宗教勢力について、あれこれ思索(備忘録)

 自分の中の考えの整理、備忘録として、あれこれと雑感を書いてみます。

先月、20年ぶりくらいに、勝竜寺城(京都府長岡京市)を訪ねました。新たな発掘成果などを元に、復元遺構などがあって、大変興味深く見学させていただきました。中でも、長岡京市の市制50周年事業(2020年)として、勝竜寺城の関係資料集(『勝龍寺城関係資料集 -長岡京市歴史資料集成1-』:長岡京市教育委員会)があり、買い求めました。資料中に仁木・馬部両先生の論稿が収められており、私にとっては多くの気づきがありました。

その中の仁木先生の論稿中、「守護方拠点としての勝龍寺」章に、「諸国において、この時代の守護所が固有の建物ではなく、寺院の間借りである事例が多いことは既に論じられている。勝龍寺は、山城一国の守護所ではもちろんないが、守護方の郡レベルの支配拠点であったことは確かであろう。この時点では臨時的なものである可能性も高いが、のちに勝龍寺が帯びる「公的な性格」を既に孕んでいたともいえるだろう。」との一節があり、これには私の疑問に対する、非常なヒントがありました。

摂津池田家が、箕面寺(大阪府箕面市)に対して、惣領の代替わり、地域争乱時(禁制)、何らかの地域関係の通達、等々を出す場合、時代を経ても定型文であったり、宛先が箕面寺(豊嶋郡・政所宛なども)である事が多いのは、箕面寺に郡役所的な性格もあったのではないかと考えました。
 前述の仁木氏の論稿中の「寺院の間借り」の概念を知る前から、摂津国豊嶋郡を治めていたと思われる動きを感じており、摂津池田家と箕面寺の関係が非常に深い事に注目はしていました。しかし、それがどんな関係なのかは、理解していませんでした。それが、『勝龍寺城関係資料集』によって、認識のメドが立ちました。

古代寺院や山岳寺院と地域権力の関係や城郭の発展過程は、多くの研究がありますので、これからは、それらを読み進めて、摂津池田での、その動きについても考えてみたいと思います。

現代社会と中世社会の宗教の社会的役割りは全く違います。現代感覚で宗教を見ることはできませんし、通信事情や政治権力、協働関係は、考慮するべき必須要素だと感じます。
 勝尾寺・箕面寺の他、摂津池田家の膝元としての大寺院は、久安寺(池田市伏尾)があります。また、時代により盛衰はあるものの、他に大広寺(池田市綾羽)・弘誓寺(同市綾羽)・寿命寺(同市西本町)・常福寺(同市神田)・禅城寺(同市宇保)などの関係も、地域権力としては良好を保つ必要があったと思われますし、一体化的な協働宇関係もあったのではないかと思われます。池田一族の中には、僧も居り、これらとの関係維持も目的化(双方の調整役的な)していたところもあるのではないかと思います。

これらの組織と良好な関係を築く事に、権力は腐心していたと考えるのが自然で、このいかんで、勢力の拡大縮小の趨勢が決まったと感じています。
 今後は、こちらの方面も調べを深めたいと思います。

2021年6月5日土曜日

摂津池田家は、楠木正成の血統を継いでいたのか!?伊居太神社社宝の置手拭型兜鉢の意味を考える

 郷土史家の中岡嘉弘氏の蔵書の中から、久安寺に関する非売品の書籍『摂津の国 細河の莊 久安寺ものがたり』を読ませていただいたことがキッカケで、これまで繋がらなかった線が沢山、繋がりました。国の重要文化財ともなっている楼門からしても、相当な勢力と財力であったことは確かだったのですが、火災や明治維新後の混乱で資料が散逸し、詳しいことは解らないままです。公的な調査でも、断片的で、分野化されたものがあるばかりで、それらを繋ぐにはやはり、不明な点が多い状態です。
 しかしながら、同寺に伝わっていることや公的外の要素が書籍にまとめられ、また、宗教家としての形式の成り立ちの説明や社会的意義、経緯を論理立てて説明されている書籍に接し、私の中にあった蓄積と疑問が、いっぺんに繋がりました。

直接的に、久安寺のご住職は繫がりはなかったのですが、中岡さんを通じて、それを知る事ができ、私は私の何かが出来ること、得たように感じています。
 まだまだ不完全ですが、そこに繋がる思索を少し、この記事でお伝えしておきたいと思います。また、そういう状況ですので、ご指摘や情報があれば、どうぞお気軽にお寄せ下さい。

さて、そんな中で、偶然に鎧兜に関する私の蔵書ページを何気なく捲っていた時です。伊居太神社に伝わる「置手拭型兜鉢」について、それまで漠然としていたものが、急に具体的になったような気になりました。
 同社には様々な社宝があり、戦国時代の遺物として、この「置手拭型兜鉢」が伝わるのですが、これは鎧兜研究分野では全国的に有名なものです。完全なカタチではなく、損傷激しく、しかも鉄砲と思しき銃痕のある遺物(内側からの破壊との見解も)であることも、その特異さから、注目されています。池田家や池田城とも結びつきの深い同社に伝わる遺物であることで、摂津池田家との強い繫がりがあると考えられていましたが、決定的な判断材料は無く、永年に渡り、全容は不明です。
 ある日、私は『歴史群像シリーズ特別編集【決定版】図説 戦国の変わり兜:学研刊(140頁)』に出会いました。これを購入してから随分と日が経つのに、ちゃんと見ていなかったのでしょう。また、久安寺の本を読んだことから、私の感覚が敏感になっていたからでしょう。重要な一文が目に止まりました。実際のページは以下です。

 

【決定版】図説 戦国の変わり兜:学研刊


上記の絵を部分拡大
 

上記画像の文字部分を書き起こしておきます。

【楠木正成像】
江戸時代に描かれた楠木正成画像の遺品は数多く残っている。本品もそのうちのひとつで、背後に正成の着料が描かれている。その兜が正にこの置手拭形兜なのである。実物と若干の相違はあるものの、大型の並角本(ならびつのもと)や鉄鋲、眉形(まゆなり)の切鉄など特徴をよく掴んでいる。江戸時代においては楠木正成のイメージといえば、この兜であったことがよくわかる。
【置手拭型兜鉢】
本品は江戸時代には多田満仲および楠木正成所用とされ、『集古十種』などに所載された名物兜である。古様な眉庇の形状は注目に値すし、置手拭としては最古例に属すると思われる。現状鉄地に見えるが、当初の黒漆が残る。江戸時代には本品を写した兜が幾つも作られている。

この歴史的背景の中で、伊居太神社に伝わる「置手拭型兜鉢」をご覧下さい。前後左右の主要部分には、楠木正成に因んだ「菊柄」をあしらったデザインになっています。


置手拭型兜鉢(現在は朝鮮式兜として表示) 

 

摂津池田家は、元の姓が「藤原」でしたが、地域名の「伊居太(池田)」を名乗って地域を代表する存在となりました。このブランド化の過程で、楠木正成嫡子正行の遺児を貰い受け(妻は丹波国守護代家内藤氏)て、継承する系譜が伝わっています。その関係からか、同家の通字は代々「正」の字を用いています。
 また、摂津池田家は、当初、今の池田市南部(尼崎市北部地域も含む)に勢力を持ち、次第に勢力を増しながら、五月山南麓に本拠を構えるに至ります。この場所は、当初、摂津国河辺郡(現川西市など)を拠点とする多田源氏の勢力下(日本国内で最大の荘園)で、五月山の北側の細河荘を越え、五月山南麓にまで影響力を持っていたと思われます。加えて、西側の現在の宝塚市山本付近もその勢力下であったと考えられます。

時を経て、流通経済が発達するにつけ、都市型の有徳人(武士)であった、藤原系池田氏が北上し、地域の勢力図を塗り替えるように成長して行きます。
 しかしながら、全国的なブランドであり、皇室の血統を持つ多田源氏や大寺院である久安寺の影響力は依然として強く、この折り合いをつけるべく、様々な政策や手盾を講じて、時代に必要な舵取りを行いました。池田家中にも、多田源氏の血統と姻戚関係を結ぶものもあり、時代により池田家中の構成を均衡させていきます。

 

久安寺古図


そういった意味で、「置手拭型兜鉢」は、池田家中には軍旗や家紋と同じく、象徴としての重要な役割があったものと思われます。故に、この兜は、池田家の中心たる者や家が継承していたものではないかと思うようになりました。
 室町将軍の「大鎧」や天皇の地位の象徴としての「三種の神器」といった具合に、池田家中でもそのようなアイテムがあったと思われいます。

今現在、伊居太神社では、先祖伝来のこの「置手拭型兜鉢」を朝鮮式兜としていますが、これは明かな間違いです。絶対に違います。もうちょっとしっかりして下さい。また、そのように表記し始めたのも最近のことで、それまでは戦国時代の伝来兜としていました。それが変わったキッカケは、韓国の学者が調査のために訪ねた折、その学者がこの兜について、そのように見解を述べたことから、それまでの伝承を変更したようです。

さて、話しは少し遡りまして、足利尊氏の室町幕府開幕の頃のことです。記述の『摂津の国 細河の荘 久安寺ものがたり』の中で、室町幕府開幕にあたり、足利尊氏がその策を練るため、尊氏と盟友であった伊勢国司北畠親房と久安寺にて語らい、活用もしたとの推測があります。これについて、裏付けとして考えられているのが、この頃に発行された、尊氏による禁制などが、久安寺、寿命寺、伊居太神社などに残っています。また、久安寺の本尊千手観音の両脇侍、不動明王と毘沙門天の二木像は、親房の寄進と伝わっています。

足利尊氏禁制

 
更に、寿命寺には、楠木正成公奉納と伝わる兜(これは置手拭型兜鉢ではない)と菊水旗が伝わっており、これは、楠木正行が箕面の瀬川合戦を経て兵庫湊川へ赴く時、正行が寿命寺に立ち寄って戦勝祈願して、この兜と旗を奉納したものとされています。

このような経緯、実績の積み重ねの中で、ブランド化と象徴化が醸成され、この兜にもの言わぬ価値が付加されていったのでしょう。池田家当主は、この兜を継承し、戦の時には身につけることで、全ての意志を代表する存在になっていたことと思われます。

時は下って、織田信長が活躍していた頃の時代。ご存知の様に戦国時代も最も激しい頃です。信長が戴いていた筈の上位権威である将軍義昭と不和になり、当時の日本国首都は混乱の極みに陥ります。
 その過程で、池田家もそれに呼応するように分裂します。この時、数世紀の間、池田家の中心であった「筑後守家」とそれに相当する中心的一族の「遠江守家」との間に過去の不仲に起因する不整合が再び不和の種となります。
 家中政治の中心軸が変わろうとするその時、誰がその正統の資格があるかで争い、この「置手拭型兜鉢」も右に左に引き合う事態に陥り、家中は混乱していたのでしょう。
 また、江戸時代の通念を考えれば、そんな中で、若しくは、「多田満仲」を系譜二持つ一派の象徴として、これを用いていたのかもしれません。
 結果的に、摂津池田家は元亀四年(1573)滅亡しますので、この兜の象徴性はある一面で大きく低下したのかもしれませんが、しかし、無価値になった訳ではなかったのでしょう。だからこそ残されたのだと思います。兜がこれ程までに損傷しても、現在に伝わっている意味が必ずあるのです。この先の事は、また、これから学んで調べを進めたいと思います。

歴史的遺物は、一般に「文化財」といいます。しかし、市区町村、都道府県、国の文化財になっていないものの側の方が圧倒的です。
 また一方で、「文化財」はとは何かという、漠然とした解りにくさもあるように思います。これについて、私なりに別の言葉で置き換えて、納得しています。「文化」のそれは「共有」です。
 その時代に地域や人々が共有していたものが、文化です。時間を経て、大多数が消滅する中で残った、いや、守ったものが文化財です。文化財(歴史的遺物)には、それに凝縮された時代やその時のカタチ(意味)を知り、現代社会の基礎を知るという意味では、非常に大切な手がかりなのです。
 そういう意味で、最も深刻なのは、その最前線である専門家自身が果たすべき義務を怠り、意味も理解していない事です。これは、このコロナ禍であらゆる分野で起きている事が露呈しましたね。既に文化財分野では、そのような状況でした。この現状は危機的です。国が、地域が崩壊します。

私は何事に於いても論拠の無い極端な見解を認めませんが、必要なことは見失うべきではないと考えています。何よりも、法的に規定された事は履行せねばならず、担当者は常々その役割りを負っています。当然ながら担当者は然るべき、報酬を得ています。法と組織とは、そういう事です。必要な事を、積み重ねる意味を法と予算とによって、組織化されているのです。今現在、それすらも行われておらず、無為に、不法に失われている例が急増しているのです。

先祖の歴史を消すことになるこの行為は、将来的な営みの主体性を失い、外圧(敵意のある行為以外にも、地域性を失って消失の原因を作る事になる)にも抗えなくなることは確実です。
 少々話しが逸れましたが、この「置手拭型兜鉢」を通じて、地域の文化財に対する日頃の想いも結びつき、このような記事にしようと思い立ちました。この記事をキッカケに、是非とも地域の文化財を知るキッカケ、それにまつわることも知っていただけたらと思います。
 ご縁があって、その地に暮らす事になり、過去と現在と未来をつなぐ文化財(共有財)の意味を感じていただけたらと思います。身近な歴史を気軽に学んでいただけたらと思います。