2023年1月14日土曜日

摂津国河辺郡(現兵庫県川西市)にあった、新田(多田)城を考えてみる

ずっと気になっていた地域を訪ねました。令和5年の初詣に兵庫県川西市平野にある、平野神社を訪ねました。気持ちの良い素晴らしい神社でした。その折のブラ歩きで、新田城跡も知る事ができました。
 荒木村重の統治や天正6年の村重の織田信長政権から離叛した事による争乱について知るための非常に重要な地域です。また、細河庄との境界の情況について、その周辺情況も、しっかり見ておかないといけないので、気になっていました。

兵庫県川西市にあった、新田(にった:しんでんとも)城は、凄い城でした。塩川氏が山下に本拠機能を移す以前は、新田城が塩川氏の拠点城でした。あまり調べずに、別の場所を目的に訪ねた折に、偶然、気になった所がその城跡だったので、よく調べて、近日に再訪したいと思います。その下調べ的に、このこの記事を出しておきます。

いつものように、以下、村と城についての資料をご紹介します。
※日本城郭大系12(新田城)P330
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新田(しんでん)城は、別名「多田城」ともいい、旧多田新田村にあった。この地の東側に塩川が流れ、西側から南側に猪名川が流れて村の東南隅で合流している。広義の新田城とは、この二つの川に挟まれた地を指し、承平年間頃、源(多田)満仲およびその御家人(多田御家人)が集落を作り、代々住んでいた所という。
 しかし、一般的にいわれている狭義の新田城は、このうちでも特に軍事的な防御施設のあった所で、東部塩川沿いの丘陵部をさしている。この付近は、多田御家人中でも有力者であった塩川氏が代々守り”常の城”を置いていたが、天正年間(1573-92)の伯耆守国満の時、北方の山下城を本城とした。この頃も新田城は存続していたらしく、同6年(1578)の荒木村重の叛乱によって多田城・多太神社をはじめ、付近一帯が焼き打ちに遭っている。「明治8年新田村地字図(『川西市史』所収)」には、城跡の中心部に「城山」「城山ノ下」「城ノ下」「東堀」などの字名が見られ、昭和30年頃まで、田畑の土手に等間隔に並んだ疎石が残っていて、城壁跡といわれていた。現在、丘陵上は宅地化され、多田グリーンハイツとよばれているが、南麓に奥行き5-10メートルの削平段が数カ所と、下方に幅6メートル・深さ5メートルの竪堀跡と思われるものが残っている。
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新田城山公園という公園があるのですが、そこから東向きに丘陵を利用した城であるようです。また、塩川を超えた直ぐ東側にもある上津城と連動した機能を持っていたと考えられており、両城の間にある、塩川と能勢、妙見方面へ通じる重要な街道を監視するようにそれぞれ立地します。

続いて、地史としての、いつもの平凡社の地名シリーズ該当記事です。
※兵庫県の地名1(川西市新田村)P384
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新田村(現川西市新田1-3丁目、平野2丁目、多田院1丁目、向陽台1-2丁目、緑台2丁目、新田)
多田院村の東、猪名川と塩川にほぼ囲まれて立地する。多田の開発に伴う地名と考えられ、元禄11年(1698)の国絵図御用覚(多田神社文書)に「ニッタ」の訓がある。

 享徳元年(1452)12月29日の沙弥本立売渡状(同文書)に「多田庄新田村」とあり、多田院千部経中に村内高岡西窪を3石5斗で売渡している。文明8年(1476)高岡仲明が多田院御堂修理料として新田村内の木村屋敷前の田を寄進している。(同年10月8日「高岡仲明寄進状」同文書)。
 「細川両家記」によれば、永正16年(1519)秋、細川高国は都を立ち、越水城(現西宮市)の救援のため小屋・野間(現伊丹市)や新田・武庫川に陣取り、澄元方との合戦に及んだという。明けて1月、今度は澄元方が小屋や新田に陣取り、合戦したという。
 天文16年(1547)又六兵衞が多田院に羅漢供田として「新田村之内馬場」垣内加地子4斗を寄進している(同年7月6日「又六兵衞寄進状」多田神社文書)。この内馬場を現猪名川町域の内馬場とすると広域すぎて妥当ではない。
 天正10年(1582)9月1日の多田院・新田村際目注記案(同文書)によると、当時、新田村が東順松下町の際まで自領内として押領したため、多田院と新田村との間で境目論争が起きた。寺家より往古の支証を出し、塩川城に新田村在所の年寄どもや寺家僧衆が登城し、双方の言い分を聞いた上で、上寺の東は三間ほど、北は山の際の横大道・平野への横道を限って寺領内とするという裁定となった。

 なお、弘治4年(1558)山問頼秀は長谷乙浦山に関する平居・新田両村の山手代を万願寺に寄進している(3月11日「山問頼秀寄進状」万願寺文書)。
 城山之中にあったとされる新田城は、多田城ともいい、塩川氏の居城とされる。のち国満のとき、山下に新たな城を築き移ったと伝える。現在遺構は消滅したが、城跡中心付近には城山・城山ノ下・城ノ下・東堀などの字があったといわれる。
 慶長国絵図に村名がみえ、平野村と併記されるが、村高は116石余であろう。領主の変遷は、寛文2年(1662)まで矢問村と同様で、同5年以降は多田院領として幕末に至る(川西市史)。寛文5年、四代将軍徳川家綱は、多田院社領として新田村の116石余を含む500石を寄進、同11年の社領寄進の将軍判物(写、多田神社文書)がある。多田院領の当村など三ヵ村では、享保9年(1724)に風損による年貢米25石余の引下げをはじめ、同17年に虫害による同じく62石余、元文5年(1740)には洪水により、明和8年(1771)には干損のため、天明2年(1782)には水害などと災害による減免を出願してきたが、天明6年には前代未聞の凶作として年貢引方を願出ている(清水平文書)。浄土宗宝泉寺がある。
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『兵庫県の地名1』中で、「のち国満のとき、山下に新たな城を築き移ったと伝える。」との伝聞が伝えられ、加えて、『日本城郭大系12』には、「天正年間(1573-92)の伯耆守国満の時、北方の山下城を本城とした。この頃も新田城は存続していたらしく、同6年(1578)の荒木村重の叛乱によって多田城・多太神社をはじめ、付近一帯が焼き打ちに遭っている。」と、焦点を絞り込んでいます。
 天正年間に移ったキッカケは、山下付近で、鉱山開発が行われたために、本城を移したと思われます。荒木村重が天正元年から、織田信長権力の下で信任を受けて頭角を顕し、実質的な摂津国守護になっていたため、次第に国内が平定される中で、軍事・経済分野においても再構成がされつつありました。
 これも伝聞の範囲で今は収まっているのですが、『兵庫県の地名1』川西市笹部村の項目には、天正2年に河辺郡笹部村を分離して山下町を作ったとされ、この山下に城(元々支城などがあったのかも)を作り、町には吹場が集約されて鉱山関係者の居住地としたとあります。
 織田政権下で成長した荒木村重権力の下に入った塩川氏が、状勢の変化により、拠点を移したと思われます。因みに、この年、荒木村重もそれまでの拠点であった池田城を畳み、伊丹に新たな城を築いて、ここを本城としています。有岡城です。村重の領内は、天正2年から翌年にかけて、大規模な軍事拠点の再編成が行われていますので、多分これに伴う動きが、新田城から山下城への変遷にも関わると考えられます。

ということで、ザッと思いつく所をまとめてみました。また、詳しく現地を訪ねて、地形などを見たいと思いますので、その折にまた、この記事を補足します。

 

 
 

2023年1月5日木曜日

【後編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要

 質問があり、その回答旁々、FBにだけ投稿していた記事をこちらにも掲載しておきたいと思います。白井河原合戦についてのダイジェスト版(後編)です。ご活用下さい。

先日お伝えしました、白井河原合戦(大阪府茨木市耳原(みのはら)付近)の続報です。幕府の重臣、将軍義昭の側近であった高槻城主和田惟政が、8月28日の合戦で戦死し、その後の流れをお伝えします。
大将の和田惟政が、三好三人衆方摂津池田衆に討たれ、瞬く間に近隣周辺は、池田方の手に落ちてしまいます。池田衆は、和田惟政やその主立った武将の首を持って、高槻城などに押し寄せます。その首を城外から見せつけるように掲げ、歓喜の声を上げたとフロイスの報告にはあります。首は、色々な場所、見せる必要のある城に持っていったようです。
 フロイスはこの時、合戦場から12キロメートル離れた、河内国三箇(サンガ)の教会(現大阪府大東市)にいたところで、この報に接したようです。何が起きているのかを確認するために、高山飛騨守のもとに使いを遣り、その日の午後には戻って、詳細を聞いたとしています。この日、朝から晩まで銃声を聞き、飯盛山(城)に上ると、2日2晩、高槻方面が燃えるのを認めたとあります。
しかしながら高槻城は、辛うじて落城を免れています。
以下は、その確認を元に、フロイスが報告を送っている内容です。


『耶蘇会士日本通信』1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰条
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(前略)総督(和田惟政)の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)総督の首級は、他の武士一同(主な和田方武将)と共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり。
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そして以下は、時系列で白井河原合戦が終息するまでを一覧にします。11月頃までは、戦闘状態が続いていました。土地勘は地図をご参照下さい。
 総合的には池田勢が勝利し、三好三人衆方が京都に迫る勢いでした。加えて、松永久秀など、奈良方面から北上する三好三人衆方一派もありました。更に、近江国方面からも朝倉・浅井勢が京都を覗う動きを見せていました。大坂本願寺も三好三人衆方です。
この情況で、摂津池田衆は、本拠の豊嶋(てしま)郡から、東側に大きく版図を広げることとなり、歴代池田家の最大の領域を手に入れます。


<8月>---------------
 28 幕府衆三淵藤英、夜半に摂津国高槻城へ入る
 29 三好三人衆方池田勢、白井河原周辺の諸城を攻撃を始める
<9月>---------------
   1   摂津池田勢、摂津国茨木城とその領内を攻撃
   2   摂津池田家家臣中川清秀、摂津国茨木城を領知する
   5  摂津池田勢、大挙して摂津国高槻城を攻める
   6   池田勢、戦闘に敗北
   9   摂津国高槻の攻防について交渉が整い、一時的に停戦となる
 中 摂津池田衆内吹田氏、摂津国吹田城に復帰?
 11 織田信長、近江国三井寺へ入る
 12 織田信長、比叡山を焼き討つ
 13 織田信長入京
 24 幕府衆明智光秀勢、摂津国(高槻)へ出陣
 25 幕府衆一色藤長など、摂津国(高槻)へ出陣
<10月>---------------
 10 摂津国池田家臣の中川清秀、摂津国欠郡新庄城へ入る
   9   摂津国高槻の付城に三好三人衆方三好左京大夫義継が入る?
 14 織田信長、幕府衆細川藤孝へ山城国勝竜寺城の普請について音信
 26 織田信長勢先鋒、京都へ入る
<11月>---------------
   8   摂津池田衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
 14 織田信長、摂津守護伊丹忠親へ通路封鎖を行うよう通達
 15 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
 17 但馬守護山名祐豊、丹波国へ侵攻

 


 

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【前編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要

質問がありましたので、FBにだけ投稿していた記事をこちらにも掲載しておきたいと思います。白井河原合戦についてのダイジェスト版(前編)です。ご活用下さい。  

近年、少しずつ知られるようになりました、白井河原合戦(大阪府茨木市耳原(みのはら)付近)ですが、この合戦は、単なる地域戦ではなく、将軍義昭・織田信長政権に対して、政局を変える事になった大戦でした。
 「白井河原合戦」とは、後年につけられた名前で、毛利家中でまとめられた『陰徳太平記』や豊後竹田家の中川家でまとめられた一家記(中川史料集)などで使われた言葉です。その時の既述が、順送りで現代に伝わっています。当時は、「郡山合戦」「宿久河原合戦」と呼ばれ、概ね実際と近い場所を呼称としています。
 合戦場所の呼称、江戸時代に書かれた、物語風の脚色が、白井河原に焦点を当てるため、幣久良山(てくらやま)眼下の川が主戦場のように意識されているのですが、これは事実からすると、違います。
主戦場は、あくまで幣久良山から西側の約2キロ程の地点です。幕府方大将の和田惟政は、ここで戦死しました。和田惟政の一団約200名は、三好三人衆方池田勢の鉄砲300丁の斉射を受けて、対戦した時点で、ほぼ壊滅状態でした。池田方は、囮として前哨させた荒木村重一千名程を前に立て、和田方を引き出し、西側に出てきたところで、丘に隠していた二千名が現れ、ここで鉄砲の斉射が行われます。
以下、当時の様子の記録、抜粋です。


『耶蘇会士日本通信』1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰
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(前略)翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)
 総督(和田)は大臚勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ、又、武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時、城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき。(中略)敵が如何に多数なりとも少しも恐れず、新城に達する前約半レグワ(約2キロメートル)の所にて敵を認め、一同を下馬せしめ、徒歩にて来れる其の子の後陣を待たず、彼の200人を率いて敵を襲撃せり。
 彼は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。
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この結果、和田方は、地域統治ができなくなり、そのまま一気に、京都への侵攻が現実味を帯びました。その結果、京都防衛の拠点、勝龍寺城(京都府長岡京市)の大幅な防備強化を行い、現在の城の形態は、この頃に起源があるとの見解を示しています。
また、この大合戦の周辺環境も将軍義昭・織田信長政権の空白で、弱り目でした。以下、箇条書きです。

  • 伊勢長島での本願寺門徒の蜂起(5月) ※本願寺衆の各地での蜂起
  • 松永久秀の反幕府行動の活発化(5月)
  • 幕府方毛利元就死亡(6月)
  • 六角承禎など近江国内で活動を活発化(7月)
  • 比叡山焼き打ち(9月)

この情況で、白井河原合戦は行われており、後に明智光秀によって起こされる「本能寺の変」に近い意図がありました。相手の弱り目で、大挙決戦を挑む。池田衆は多分、この情況(将軍義昭・織田政権の)を情報として知っており、この大きな流れを作っていたのが、近衛前久でした。この時は、大坂本願寺内に居り、全体を繋ぐ役割と地位にいたようです。

兎に角、この白井河原合戦前後で、地域統治のための多くの人材を失い、将軍義昭・織田信長政権は、京都確保が難しくなり、9月の比叡山焼き打ちは、この事態打開のため、強硬策に出たと考えられます。戦争は、人材を失う事が策としての難点です。

 


 

 


 

 

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