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2026年6月16日火曜日

割と最近まで、大阪では「そうは、桑名の焼き蛤」とは言わず、「ドッコイそうは、左専道の不動」と言っていた。大阪市城東区諏訪1丁目にある左専道不動尊(三友寺)の歴史

明暦元年(1655)大坂三郷町絵図
(大阪歴史博物館所蔵)
近年、急速に街の姿を変えつつあります。私は、この大阪市城東区諏訪1丁目で生まれ育ちました。その頃は、昭和時代の末であり、まだまだ文化の変容速度も遅く、人の移動も小規模であったので、それ以前の町並み、地域の精神文化も残っていた時代でした。
 私が、昭和・平成・令和と生きる中で、この先を考える時、やはり、できる限り知っている事を書き残したいと考える程、文化の根本が変わりつつあります。新しく建てる家の様式を見ても、これまでと、これからは、全く違います。左専道(させんどう)という地名そのものも無くなってしまいました。

しかし、この日本国に生まれ、育ったからには、その先人が成してきた事を知り、継いでいく事も、今を生きる私達の役割の一部であると感じています。その一つとして、私の地元、摂津国欠郡(大阪市城東区諏訪1丁目)にあった左専道不動尊(後藤山 三友寺)について、ご紹介します。
 
先ずは、現地に立てられている、城東区役所による案内板の内容をご紹介します。
※させん堂不動寺案内板より

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山門(2026年4月撮影)
不動明王を本尊とする真言宗の寺院です。豊臣秀吉が大坂城を築城したとき、現在の生國玉神社のあたりにあった不動堂が取り壊され、慶長7年(1602)に東成郡木野村において再建されたと伝えられます。その後、水害に見舞われ、宝暦9年(1759)に現在の場所へ移されました。
 江戸時代の書物「摂津名所図会大成」に「左専道不動」としてその名が見え、日々参拝の人が絶えなかったといわれ、広く信者を集め、とりわけ正月28日の「初不動」には多くの人々が参詣し、たいへんな列が絶えないほどの賑わいを見せていたそうです。現在は大阪四不動尊詣の「東方不動尊」として、東方を担っています
 天明2年(1782)の銘が刻まれた梵鐘は、美術史上保存の必要があるとして、戦時中も供出を免れました。なお、させん堂不動寺は令和6年(2024)に大阪市の都市景観資源に登録されました。
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◎江戸時代の左専道村の様子を旅日記からみる
その他、続いて、できるだけ手持ちの資料を紹介したいと思います。江戸時代、関藩士池田正樹が明和8年(1771)当時に、大坂を探訪した見聞録を書き残しており、それを現代語で紹介している単行本があります。
※大坂見聞録(渡邊忠司著)P122

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後藤家前(2005年4月撮影)
写真右は、かつて川だった
左専道不動: 
近世の大坂には、既に述べたように、現在のピクニックやハイキングと同じような言葉に野行き・山行きがあった。物見遊山である。池田正樹の江口探訪はまさに野行きであるが、一口に物見遊山とは言えないような周到さで、大坂三郷の郊外を歩き回っている。北の天満・曽根崎、東の玉造から中道・深江、南の寺町から天王寺へ、また長町から今宮戎、天下茶屋へ出ると、辺りはすぐに田園地帯であっただろう。その東や東北東に向かって行った所に、春には梅や菜の花で知られた左専道不動や野崎観音があった。正樹はここにも訪れている。
 明和8年(1771)2月10日の記録は、さきに触れた江口の里の記録につながるが、その冒頭には、江口の里への野行きの前に左専道不動を訪れたことが記されている。

”2月10日昼時より、茶専道不動(御城より東一里斗に有)へ参詣す。山号後藤山三友寺といふ。寺内狭し。本堂に額あり、不動尊と書り。支那大成筆なり。”
この不動尊は東成郡左専道村(城東区諏訪)にあった。「どっこいそうは左専道の不動」という語呂合わせでも親しまれ、旧暦正月28日の初不動も賑わったという。由来では最初は木野(この)村(生野区)に創建され、後藤山不動寺といったが、宝暦9年(1759)、水害のために左専道村に移転、寺号も後に友三寺となったが、昭和17年(1942)にもとの寺号に復したとする(『大阪府の地名』平凡社)。
 ところが、正樹は明和8年の時点で、深沢某の言うこととして、
"右寺はむかしより有之にもあらず。近年まで俗家にて、後藤友三郎と云うものの家に有之。参詣の者ある時は、亭主麻上下を着て出たりしといへり。”
と記す。これによると、寺は後藤友三郎の家にあったとしているから、さきに宝暦9年に左専道村に移転したとあるのは後藤氏の家の中への移転であったことになる。
本堂(2026年4月撮影)
 また『浪花のながめ』は「この辺りに桃の花咲りにハ老若男女群をなす」と桃の花の名所であることと、同時に寺の由来をも記している。それによると本尊の不動明王は最初百姓徳右衛門が信心していた石像であったが、「家の小座敷に安置し奉りしを諸人きき伝えに参、心願の趣きを帳面にしるし、毎日ご加持をなし」たことから、徳右衛門も髪を剃ってさらに丹精を込めるようになり、寺号も後藤山友三寺としたと伝える。
 いずれも始まりが個人の家とすることや、寺号が一致している。『浪花のながめ』は安永7年(1778)の刊行であるから、『難波噺』の記録より少し後である。寺号の一致を考えると、宝暦9年の移転は、後藤氏の家の中といえそうである。それゆえの友三寺である。
 旧暦2月といえば桃の花の咲く頃でもある。日和がよければ快適な野行きになったであろう。正樹は土産に深江の菅笠でも買って帰ったであろうか。
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摂津名所図会にある
左専道不動尊
◎名所として描かれた左専道不動尊
「させん堂不動寺案内板」の元になっている資料もご紹介します。ちなみに寛政年間(1789-1801年)の絵図では、門前に川が流れています。また、この付近に高い建物や山は無いのですが、このような鳥瞰図でモチーフを描けるのは、凄い事だと思います。
※摂津名所図絵(臨川書店)上P335

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左専道不動: 
左専道村にあり。初めは農夫徳右衞門が家に安置しける。近年後藤山三友寺といふ不動堂を建て、これを本尊とす。むかし当村の医師に後藤友三郎といふあり、此の人開発しけるにやあらん。尚異説聞こゆ。
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◎戦前の地誌をみてみる

続いて、だいたいの地誌の基本資料になっている、大阪府全志をご紹介します。
※大阪府全志3-P296(大正11年11月初版発行)

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東成郡城東村左専道条:
三友寺は字里中にあり、後藤山不動院と号し、真言宗山階派勧修寺末にして不動明王を本尊とする。慶長7年宗寛の創立にして天王寺の正祐寺に属し、木野村にありしが、其の地は水害あるを以て、宝暦9年(1759)8月27日九世善戒当所に移りて勧修寺末となる。本尊は世に左専道の不動と称し、世俗に己の意思に反して相手方の為さんとする行為を抑止するときの語に「ドッコイさうは左専道の不動」と附け加へて呼べるは、当不動にして、其の名高し。境内は270坪を有し、本堂・庫裏・座敷・玄関・鐘楼堂・土蔵・薬医門を存す。
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三友寺内は小学校だった時代も
◎左専道村の概要
この三有寺のある左専道村は、摂津・河内の国境にある村で、今も大阪市と東大阪市の境目の集落です。摂津国内で最東端の地です。その左専道村について概要を以下にご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P630

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左専道村(大阪市城東区諏訪1-4丁目、永田2-3丁目、東中浜5-6丁目、同8-9丁目):
天王田村の東、長瀬川左岸にあり、東は河内国森河内村(現東大阪市)。深江村(現東成区)で奈良街道(暗峠越)から分かれた摂河国境沿いの道が、村の東端を通って剣道へと続く。集落は村域北東隅に位置し、南方にある12間四方の墓地は行基が開いたと伝える。また延喜元年(901)太宰権師として筑紫へ左遷された菅原道真が、途中立ち寄ったのが当村諏訪明神の森といい、村名の由来説話がある(大阪府全志)。中世は四天王寺(現天王寺区)領新開庄(現東成区)に含まれたとみられる。
旧放出街道
 文禄3年(1594)の欠郡内佐専道御検地帳写(諏訪神社文書)によると、村高448石(うち12石余荒地)・反別33町4反余。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領。その後幕府領となったが、寛文5年(1665)村高の内400石が旗本稲富領となり幕末に至る。稲富領を東組と称し、残る幕府領を西組とよんだが、西組は幕末には京都所司代領(役知)。元禄11年(1698)治水のため村域大和川の外島(中州)が取り払われ(大阪市史)、宝永元年(1704)の大和川付替えで川は水量が減少して大部分の川床は開発された。享保20年(1735)以降成立の村明細帳(諏訪神社文書)は、特定年の村明細帳ではなく書式・類例を記したものであるが、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳と同じ451石余が記され、稲富領400石のうち下田93石余・畑299石余・永荒7石余、幕府領51石余のうち田50石余・永荒1石余とある。また宝永5年、永田村と共同で笹関新田(現鶴見区)のうち1畝8歩の地を銀101匁余で布屋九右衛門より、幅2間半・長さ52間半の用水路を銀188匁余で鴻池新七より購入したこと、当村は砂交じりの水損場で麦は不作であること、年貢の津出しは剣先船を利用したこと、村保有の小船は14艘で下肥の運搬や農通いに使用したことなどがわかる。主要井路に橋本・西河原・高野田の各井路があった。享保20年の摂河泉石高帳で、村高464石余のうち6石余が新田とされるのは、購入した笹関分か。
諏訪神社

 諏訪神社は建御名刀美命・八坂刀売命を祀る。前掲村明細帳に引く元禄5年の寺社相改帳によると宮座65人、うち年長の9人が社務をつかさどり、禰宜・神子はいない。古来武家の尊崇厚く、豊臣秀吉奉納と伝える獅子頭一対が残る。後藤山不動寺は真言宗山科派。慶長7年(1602)宗寛により木野(この)村(現生野区)に創建されたが、水害のため宝暦9年(1759)当地に移転、のち友三寺(ゆうさんじ)と改称したが昭和17年(1942)現寺号に復した。不動明王を本尊としたので左専道不動とよばれ、正月28日は初不動といって参詣人が多く(浪華の賑ひ)、桃の名所としても知られた(浪花のながめ)。大阪では「そうはさせない」というとき、語呂合わせに「ドッコイそうは左専道の不動」ということがあった(大阪府全志)。万峯山大通寺は融通念仏宗。ほかに慶長7年頃左専道惣道場として創建されたという真宗大谷派林照寺、浄土宗地蔵庵がある。
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国境の道:放出街道
(左)摂津国、(右)河内国
◎戦国時代の左専道
特に戦国時代には、国境は緊張状態にあったり、友好的に、その境を意識しない程の穏健な状態もあったと思われます。戦国時代に登場する左専道村の例もご紹介しておきます。天文3年(1534)10月13日の事として、大坂本願寺日記にみえます。ちなみに、ここでは左専道村を「河内国」に属しているかのように表記しています。
※石山本願寺日記(下)P232

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上野玄蕃頭・太融寺より河内サセ堂(左専道)へ陣取。薬師寺二郎左衛門(下文中断)。同朝、周防主計汁振る舞い。
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◎三友寺が元あった東成郡木野(この)村について
戦国時代も終わりつつある慶長年間(1596-1615年)、三友寺は時代と自然に翻弄されますが最終的に、左専道村に落ち着きます。
 そんな三友寺のあった木野村についても見てみます。近年は集落の境目が不明瞭になりましたが、元々の村の歴史を、長文ですが敢えて掲載しておきます。
※大阪府の地名1(平凡社)P645

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(左)明治41年測量
一体化しつつある木野村(赤色丸印)
木野村(生野区鶴橋1-3丁目、桃谷2-3丁目、東成区東小橋1-3丁目・玉津2-3丁目、天王寺区下味原町・船橋町・玉造元町など):
東成郡に属し、北は中道村(現東成区)・玉造村(現天王寺区)、西は小橋村(現同上)。集落は平野川左岸の自然堤防上にある。「摂津名所図会大成」には、「五榎木山 木村にあり往古大樹の榎木五株ありしより斯ハ号せしが、土俗誤りて上野山といひ、五榎木村といへるを、後世略して木村といふとぞ」とある。なお、「摂津名所図会」は「五榎山(うへのやま)」を比売許曾(ひめこそ)神社(現東成区)のもとの御旅所とする。
 正和4年(1315)10月9日付の摂津国守護使沙弥道覚請文(離宮八幡宮文書)によると、「天王寺領木村庄住人七郎男並得願法師等」が、津料と号して山城石清水八幡宮の大山崎神人から荏胡麻を押取ったのを返却するよう命じられている。これが木村の地名のみえるはやい例で、当時四天王寺(現天王寺区)領であった。大山崎神人は鎌倉時代から諸関免除の特権をもち荏胡麻の購入・油の販売の独占権を諸国に拡大しようとしたが、応永4年(1397)5月26日の室町幕府管領署判下知状(同文書)は、摂津の「道祖小路」、天王寺(現天王寺区)、木村、住吉・遠里小野(現住吉区)および近江の「小秋(脇)」の住人らが大山崎神人の特権を侵して荏胡麻油の製造・販売するのを禁じるとともに、油器を破却するよう命じている。しかし、その後の応永21年・翌23年にも、摂津守護細川満元が木村の住人らの荏胡麻油の製造・販売を停止する書下状(同文書)を出しており、木村の油生産がますます盛んになっていたことを物語っている。木村の油商人は、興福寺大乗院・春日神社の寄人となって油座をつくり、また河内誉田(こんだ)八幡宮(現羽曳野市)にも灯油を献納するなど、寺社保護によって商業活動を有利に展開しようとした。この点について、「大乗院自社雑事記」の文明12年(1480)正月27日条に「木村座衆ハ河内誉田八幡宮定灯御油致其沙汰」とみえ、さらに、木村座衆は春日神木の入洛や帰座のとき大和符坂の油座に従い供奉するのが習わしであり、すでに応安-康暦(1368-81)の春日神木入洛のさいにその例が確立していた旨を記している。したがって、少なくとも鎌倉末期頃には春日神社との間に木村油座が形成されていたと推定され、前記の正和4年の荏胡麻押取事件も、たんなる強奪事件ではなく、その背後に大山崎神人との油の生産・販売をめぐる対立関係が伏在していたものと考えられる。
 南北朝時代から室町期にかけて、新座である木村の油商人が南都への積極的な販売策を推進したため、本座の符坂油座との間にしばしば係争を惹起するに至った。以下、雑事記によってその一端をうかがうと、明徳2年(1391)符坂座が、木村座衆が春日神木供奉の代物を未納したのを理由として興福寺に訴え、南都における木村座の商売を3名に制限する措置に出たため争いとなり、その後いったん和解が成立したが、嘉吉元年(1441)に再発するなど、両者はたえず競合関係を維持しつつ文明年間に至ったという(文明12年正月27日条・同年2月15日条など)。文明11年9月に、符坂座が木村座の法華寺での商売を𠮟るべからずとして商品を押取したことに端を発してまた抗争が勃発し、双方が興福寺の門跡や六方衆に働きかけて争い、いったん、六方衆は木村座の南都での販売を止め、木村座の進納すべき油を符坂座に納入するよう命じたが、その納入額が僅少であったため、ついに同13年11月11日の六方集会において、法華寺での商売は双方とも禁じるが、「奈良中・国中売買事、不定人数之多少、如先々可買之」と決議し、いままでどおりの商売を認めた。(文明11年9月12日条、同12年2月5・12・15日条、同13年11月22日条など)。その後両座の争いがどのようになったか詳らかでない。なお、油生産以外にも、同4年に四天王寺の門前市である浜市(現天王寺区)で「木村布座」が布を販売して公事料を納めており、また「木村松売」がいたことも知られるなど(「天王寺執行政所引付」東京大学史料編纂所所蔵)、手工業生産と商業活動が盛んであったことをうかがわせる。
 当地は文明9年9月28日に畠山義就と畠山政長の合戦場となっており、「長興宿禰記」同日条に「摂津国欠郡於木村合戦」とある。同書によると、当時欠郡に属していたことが知られる。また、明応2年(1493)3月に将軍足利義稙(義材)が畠山義就を討つため河内方面へ出陣したさいの明応2年河内御陣図(福智院家文書)のなかに「木村」がみえ、戦略上の重要地点であったことが知られる。事実、この直後に起こった細川政元のクーデターに当たって、政元方の丹波守護代上原元秀が当村付近に布陣している(「大乗院寺社雑事記」同年閏4月19日条)。
 慶長10年(1605)摂津国絵図では木野村とみえる。元和初年の摂津一国高御改帳では「木村小指」として534石余、元和元年(1615)から同5年まで大坂藩領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では幕府領。延宝検地以前の高を示す天和3年(1683)頃の摂津国御料私領村高帳では501石余、幕府領。元禄郷帳でも幕府領で、享保20年(1735)摂河泉国高帳では600石余、幕末には幕府領。「摂津志」に「属邑一」とあり、前掲摂津一国高改帳の「小指」村域北部の小集落東小橋(現東成区)がこれにあたると思われる。東小橋は近世を通じて木野村のうちに含まれたと思われ、明治16年(1883)独立した(東成郡史)。字都東(つど)にある彌栄神社(祭神は素戔嗚命・仁徳天皇)はもと牛頭天王社と称し、延宝5年現社号に改称、大正2年(1913)岡の御館(みたち)神社を合祀。同6年までは、祭祀は10余戸の宮座の年番によって行われた。同字に浄土真宗本願寺派香閣山宗玄寺がある。
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今も残る絵図にある左専道不動尊への参道
この道の突き当たりに不動尊がある
◎様々な人の手によって守られた三友寺が今も残っている
木野村は自治志向のある村で大村で、また、三友寺は慶長7年(1602)の創立という比較的古い寺ですし、天王寺の正祐寺末ともあります。
 加えて木野村は、戦国時代には度々陣所となっており、三友寺が水害で被害を受けるような低地にあったとも考え難いようにも思えます。たいていの旧集落は、水害を想定して、微高地や少し高い地形に集落を形成するのが一般的です。何か他の理由があって、後藤家が身受けしたのかもしれません。

特に前近代では、封建制度からの慣習が強く残り、まだまだ閉鎖的な地域社会でもあり、更に寛文11年(1671)までに制度が完成したとみられる寺請制度により、その自由度が無い中での寺の移転ですから、幕府などの上位行政組織への届出が必要なはずです。その際は、関係性や経緯を審議の上で、許可がされている筈ですから、何の関係も無いという事は無いはずです。

この先については、また資料を見つけ次第、追加したいと思います。以上のような経緯を辿った後藤山三友寺は、今も当日の姿のまま参拝できる都会の中の貴重なお寺です。地域で大切に守りたいものです。


【関連記事】
明智光秀も陣を取った、戦国時代の史料に現れる森河内村(現東大阪市)と左専道村(現大阪市城東区諏訪1-2丁目)について


明治18年の摂津・河内国境を中心とした周辺の様子(国境の放出街道が南北に通る)


2025年10月21日火曜日

河内国の武将小寺美濃守高仲と飯島三郎右衛門と高井田村(現東大阪市)のこと

自分の中の記憶の点が結びついて、線から面になることが時々あります。地域の歴史案内板にある「由緒」が、その私の切れた思考と想定の線を繋いでくれます。
 河内国の戦国武将小寺美濃守高仲(現東大阪市布施付近)と同じく弓術の達人であった飯島三郎右衛門(現東大阪市岩田町)が、同国高井田を通じて、荒木村重との関係性にヒントを与えてくれました。

明治末期頃の地図
◎放出街道は摂津・河内の国境線
旧放出(はなてん)街道を南下していくと、旧深江村(現大阪市東成区深江南3丁目)あたりが、摂津と河内の国境に行き着きます。ここで奈良街道とも交差しており、この付近は重要な場所でした。それについて、東大阪市による説明板が立てられていますので、ご紹介します。

---(資料1)----------------
河内国と摂津国境(令和5年3月:東大阪市):
この児童公園の場所は、明治5年(1872)に高井田本村の西端に鎮座する延喜式内社の鴨高田神社へ合祀されるまで、西高井田の村社として八幡神社(祭神は品陀別命 = 応神天皇)が祀られていた所です。この神社跡の西側、大阪市側の深江との間を南北に通る道を境にして、東大阪市と大阪市の市境が続いています。
 この市境は、古代より江戸時代まで引き継がれてきた河内国(若江郡、渋川郡)と摂津国(東成郡)の国境となってきた古道の一つです。この国境は、場所によっては、周辺より約1mも高くなった堤状の道で、北は森河内の方へのびていました。南の足代村以南はやや屈曲した国境となっていますが、この国境堤は、北は茨田郡から南は平野郷まで続き、剣畷と呼ばれた堤にあたっており、ここを通る道は剣街道(放出街道)と呼ばれていました。
 平安時代の記録に”大同元年(806)10月に河内国と摂津両国堤を定める『日本紀略』”とありますが、深江と西高井田との間の堤道は、この時に定められた国堤の名残と思われます。
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今もここは、大阪市と東大阪市の境になっています。

◎摂津守護荒木村重領の境目、摂津・河内国
戦国時代、荒木村重が織田信長政権下にあって摂津と河内北半国の守護を務めていた頃、摂津の国境として、このあたりも管理していた筈です。ただ、時の政治状況により、統治領域の事態は動くようで、村重が河内北半国(若江以北)も信長から任されていたと思われますので、軍事的な緊張度合は低かったのではないかと思われます。村重統治時代は、比較的穏やかな国境だったと思われます。

◎高井田村地で戦死した武将小寺高仲

さて、既にご紹介したように、ここを南北に通る放出街道は国境も兼ねており、深江村に西接して西高井田村があります。同村には、今も念唱寺(融通念仏宗)という寺があり、同寺に足代(村)の豪族小寺美濃守高仲の墓地と祠が建てられていたと伝わります。高仲は、織田信長と戦い、高井田地域で戦死(高井田の戦い)したようです。東大阪市による念唱寺についての案内板には、以下のようにあります。

---(資料2)----------------
阿弥陀坐像は平安時代作
西高井田と念唱寺(平成5年1月:東大阪市):

念唱寺は融通念仏宗の寺院で、寺のある場所は、戦国の世、石山本願寺に味方して織田信長と高井田の戦いで討死にした、足代の豪族小寺美濃守高仲の墓地があり、祠が建てられて、毘沙門天がまつられていたといわれます。
 本山大念仏寺発行の「融通念仏宗年表」によると、寛文8年(1668)に、河州西高井田村毘沙門堂を寺院化して念昌寺としたことが記され、寺としての始まりを知ることができます。寺はその後衰退の時期もありましたが、寺の本尊の天蓋には、宝暦12年(1762)「施主 当寺中興浄恵大徳」また、瓔珞(ようらく)にも明和5年(1768)のこととして「再興浄恵法師」とあり、浄恵(安永9年没)という僧の時に、寺の再興が図られたことがわかります。
 本堂の奥中央に、本尊の阿弥陀三尊像が安置され、阿弥陀座像は、腹前で定印を結ぶ像高75.7cmの一木造りで、全体に後世の彫り直しで、相当に改変されていますが、平安時代の仏像で、両脇侍像は江戸時代前期頃と推定されています。
 脇にある厨子内の毘沙門天立像も大きく改変された像で、像高67cm、寄木造、玉眼嵌入(ぎょくがんがんじょう)の室町時代頃と推定されています。
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それから、近隣にもう一つ寺があったらしく、しかしこちらは残念ながら、明治時代に廃寺となったようです。その興りなど、今のところ調べていませんが、法華宗の聖源寺という寺があり、その跡に石碑が今も立っています。「ぐるり関西」というウェブサイト(https://gururinkansai.com/nensyoji.html)から引用します。

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かつてあった法華宗聖源寺のこと(ぐるりん関西):
ウェブサイト上の観光案内コンテンツ『ぐるりん関西』によると、念唱寺の前にある「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑は、聖源寺ゆかりの遺物で、側面に「東足代村、聖源寺享保12年(1722年)」とあります。聖源寺は明治時代に廃寺となったようです。
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この聖源寺は、東足代村に縁があるゆです。足代村といえば、先ほどの小寺高仲も足代出身の武将との事でしたので、この西高井田地域は、小寺(足代)氏の支配する所だったかもしれません。

撮影:2005年5月
◎河内国岩田村地で戦死した武将飯島三郎右衛門

それから、同じ東大阪市の旧岩田村にあたる場所に、弓術の達人であった戦国武将飯島三郎右衛門の墓があり、同氏も高井田村出身でした。その墓はその伝戦死地にあるようです。ここにも東大阪市と岩田町文化財保存会による案内板があり、以下のように紹介されています。

---(資料4)----------------
飯島三郎右衛門の墓(平成9年3月:東大阪市・岩田町文化財保存会):
飯島三郎右衛門は市内高井田村の生まれで、幼少の頃より弓道が得意で成人して、戦国の武将織田信長に仕えました。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は、その子秀頼に仕えました。元和元年(1615)5月「大坂夏の陣」の若江、八尾付近の戦いで、木村長門守重成に属して徳川軍と戦い、相手方の武将山口伊豆守重信に槍で突かれ、この地で戦死しました。重成、重信ともに戦死するという壮烈な戦いであったといいます。三郎右衛門の長男三吉(さんきち)は殉死をとげ、妻及び母も自刃したが、乳母に助けられた次男が成人した後、この地と高井田に父の墳墓を建てたと伝えられています。
 また、三郎右衛門戦死のこの地は、沼地で大小の用水の集合地であり、若江村と岩田村を結ぶ「雁戸樋橋(かりんどひばし)」という細い橋がありましたが、今も道路の下には昔と変わること無く、楠根川にそそぐ水が流れています。
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◎河内国高井田村(現東大阪市)について
高井田村は、長瀬川曹沿いであり、奈良街道も通す要地でしたので、大きな村でした。高井田村の概要を以下に示します。
※大阪府の地名2(平凡社)P981

---(資料5)----------------
高井田元町付近(撮影:2017年4月)
高井田村(東大阪市高井田、高井田(本通1-6丁目、西1-6丁目、東1-4丁目、中1-6丁目)、長栄寺1-2丁目):

森河内村の南にある。近世には若江郡に属したが、当地の鴨高田神社が渋川郡の同名式内社に比定されるので、古代には渋川郡であったかもしれない。東の村境を長瀬川が流れる。暗峠越奈良街道が東西に走る。正保郷帳の写しにみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(1673-81)河内国支配帳とともに高1711石余、幕府領。天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳では同高で、京都所司代戸田忠昌領。元文2年(1737)河内国高帳では1817石余、幕府領。宝暦10年(1760)には幕府領(瀬川家文書)、幕末にも幕府領。文久元年(1861)の村方様子大概帳(塚本家文書)の署名者は庄屋4・年寄8で、4村か、本郷と3つの枝郷に分かれていたと考えられる。高持百姓は103軒。農間余業は白木綿織。大和川付替え以後用水が不足し、夏に10日も照り続けば干害となった。悪水は西方の平野川へ落ちているが、淀川の水位が高くなった時には逆流して田畑が冠水した。前掲大概帳によると、村の南東から南・西・北にかけて延長1650間の内除堤を自普請でつくっているが、淀川・大和川からの出水に備えたものであろう。長瀬川を航行する井路川剣先船を宝永2年(1705)に村民が6艘所有していたが、のちに2艘に減少した。天明3年(1783)から他の4ヵ村とともに松原宿の費用の46パーセントを負担した(布施市史)。産土神は鴨高田神社。真宗仏光寺派西運寺、新真言宗長栄寺、真宗大谷派楊山念正寺、真宗仏光寺派本光寺、融通念仏宗念唱寺がある。
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続いて、高井田村に関係の深い高井田庄についてです。
※大阪府の地名2(平凡社)P981

---(資料6)----------------
高井田庄:
山城石清水八幡宮領の庄園。「吾妻鏡」元久元年(1204)8月21日条に「石清水八幡宮領河内国高井田」とみえ、将軍家の祈祷料所として地頭職をとどめ、八幡宮の沙汰とされている。のち永仁5年(1297)6月日付善法寺尚清処分帳(石清水文書)では、宮一若(入江通清)に譲られ、応長元年(1311)12月15日付善法寺尚清処分状写(同文書)によると、このとき検校職とともに権別当康清に譲られた。応永27年(1420)には当庄下司・公文・年預三職が石清水八幡宮寺雑掌に付され(同年8月28日「畠山満家尊行状」同文書)、長禄3年(1459)には高井田ほかが阿子々丸(善法寺享清)に付されている(同年12月30日「畠山義就尊行状」同文書)。所在地は従来大県(おおがた)郡高井田(現柏原市)一帯とされてきたが(荘園志料)、明確な根拠はなく、高井田庄に郡名を冠した史料もない。一方、当地若江郡高井田の鴨高田神社はもと八幡宮といい、かつて高井田の字西高井田に品陀別命社北の町にも八幡神社があった(大阪府全志)。また「河内志」の鴨高田神社の項によれば、当地一帯は石清水八幡宮と関係が深かったようである。断定はできないが、高井田庄は当地一帯と考えてよかろう。なお所在地不明の石清水八幡宮極楽寺領高井田小庄もある(保元3年12月3日「官宣旨」石清水文書)。これも大県郡高井田に比定する説があるが(大阪府史)、同地は大和川に面した平地のない場所なので、低湿ではあるが平地の広がる当地付近と考えられる。
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◎山城国石清水八幡宮領と鴨高田神社

この高井田庄は、山城国石清水八幡宮領でした。西高井田村にも八幡社がかつてはあり、明治時代に鴨高田神社に合祀されています。西高井田村の旧神社地は、今は小さな公園になっており、北隣りに念唱寺があります。
 このことから、西高井田村までが高井田庄域であったことが判ります。その鴨高田神社について、概要を示します。
※大阪府の地名2(平凡社)P982

---(資料7)----------------
鴨高田神社(撮影:2017年4月)
鴨高田神社(現東大阪市高井田):

「延喜式」神名帳に載る渋川郡の小社「鴨高田神社」に比定される。現在の祭神は須佐之男命、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇。旧郷社。「続日本後紀」承和3年(836)5月19日条に「河内国人散位鴨部船主、武散位同姓氏成等賜姓賀茂朝臣、速須佐之雄命之苗裔也」とあり、河内国と鴨氏との関係が知られるところから、当地に鴨氏がおり、同氏が奉祭した社とも考えられる。中世の状況は不明だが、「河内志」には「中古以此地、供山州八幡神祭料因称八幡宮」とある。当地一帯に山城石清水八幡宮領高井田庄があったと考えられ、当社も同八幡宮と関係が深かったと思われる。慶長20年(1615)大坂夏の陣で兵火に遭い、数年後再建されたという(大阪府全志)。「河内名所図会」によると、北隣の長栄寺の鎮守で八幡宮と称し、高井田村の産土神。例祭は9月15日。境内地に水神の小祠があるが、旱魃になると長栄寺住職が参って祈祷をし、その後村人とともに辻々の地蔵を巡拝して雨乞いをしたという(布施市史)。安永年間(1772-81)悪疫が流行した折、神職久左衛門が1月9日から10日断食祈祷して全村厄を免れた。これにちなみ毎年1月9日大弓による悪魔降伏の式を行ってきたが(大阪府史蹟名勝天然記念物)、昭和10年(1935)頃絶えたらしい。拝殿前の狛犬の台座銘によると、寛政(1789-1801)頃宮座の存したことも知られる。明治5年(1872)村内西高井田の品陀別命社、同40年同じく北の町の八幡社を合祀し、品陀別命(応神天皇)が祭神に加わった
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石清水八幡宮 東谷橘本坊跡
◎戦国武将荒木村重と山城国石清水八幡宮

既述の守護格戦国武将荒木村重は、この石清水八幡宮とも親しげに音信を交わしており、村重の領内にあった八幡宮領をより良く保つため、互いの友好を深めたのでしょう。
 村重が、石清水八幡宮内橘本坊に宛てた音信があります。2月28日付、天正3年と推定されるものです。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P18

---(資料8)----------------
此の表出陣に就き、両所御香水頂戴せしめ候。殊更に味(物事の意味やおもしろみ・おもむき)茶菓子贈り給わり、御懇ろ之至りに候。開陣之刻、申し述べるべく候。恐々謹言。
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大坂本願寺跡地(撮影:2014年1月)

大坂本願寺を孤立・封鎖のため、天正2年(1574)から翌年夏にかけて、摂津・河内国内の本願寺方とそれに味方する三好三人衆方などの勢力を一気に制圧する作戦を織田信長が命じています。
 資料(8)は、この動きの中で、石清水八幡宮が、国単位の地域統治者であった荒木村重に誼を通じたものと思われます。

◎戦国武将小寺高仲の戦死時期
話しを元に戻し、やっとテーマの核心です。河内の戦国武将小寺高仲が、信長勢との戦いで戦死したとの伝承は、いつのことなのか考えてみます。
 信長が足利義昭を奉じて入京するのは永禄11年(1568)秋です。そして、近畿を概ね平定、特に河内地域においては、天正3年夏頃です。その間にいくつかの地域毎の小競り合いはありますが、特に激しい闘争は、天正2年夏頃から翌年夏頃にかけてです。
 以下、ざっとその間の流れと出来事を書き出してみます。

---(資料9)----------------
【天正2年】
7/31   織田信長方細川藤孝勢、河内国三箇城(現大東市)を攻める
9/18   織田信長方細川藤孝勢、河内国堀溝(現寝屋川市)など飯盛山城下で交戦
9/21   本願寺坊官下間頼廉など、河内国人宇治彦右衛門尉跡目(現門真市)へ感状を下す
9/24   織田信長、河内国萱振(現八尾市)での功名に対して細川藤孝へ感状下す
9/29   織田信長方細川藤孝、某へ河内国飯盛城下(現四條畷市)の交戦などについて音信
10/20 織田信長衆明智光秀など、紀伊国根来寺在陣衆中へ河内国南部での戦況を音信
11/16 織田信長勢開陣する
【天正3年】
2/28   織田信長方荒木村重、八幡山(山城国男山の異称)橘本坊へ音信(返信)
3    織田信長、摂津国平野庄へ禁制を下す(朱印状)
3/15  足利義昭衆大和孝宗、甲斐守護武田勝頼一族穴山信君宿所へ河内国の戦況を音信
3/22  織田信長、細川藤孝へ本願寺攻めの兵動員について音信
4/1  織田信長、河内国内などに徳政令を出す
4/6  織田信長、京都から河内国へ向けて出陣して八幡へ陣を取る
4/7  織田信長、河内国若江城に入る
4/13  織田信長、摂津国天王寺へ移陣
4/14  織田信長勢、摂津国大坂本願寺周辺へ押し寄せて苅田などを行う
4/19  織田信長勢、摂津国新堀城・河内国高屋城を落とす
4/21  足利義昭方本願寺門徒衆の河内国萱振勢、織田信長へ人質を出す
4/21  織田信長、京都へ戻る
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大阪町中並村々絵図
(承応・寛文頃:1652-73)
◎小寺氏と飯島氏は河内国に生まれ、河内国で戦死
河内国の平定戦の中で、高井田に近い地域での戦いは、天正2年の秋です。小寺高仲は、この時の高井田の戦いで戦死した可能性があります。
 もちろん他の年月の可能性はありますが、概ねの確率の高さを示しておき、後年の研究の深まりに期待したいと思います。

それから、弓術の達人であった飯島三郎右衞門は、信長方として転戦したと伝わっているようですので、もし三郎右衞門が、この頃の戦いに参加しているなら両者は、敵味方の関係でもあった筈です。三郎右衞門は信長方で、攻める側です。三郎右衞門の戦死時期からすると、両者の世代に少し開きがあるかもしれません。

高井田庄は、永年に渡り石清水八幡宮領で、村もそこに属していましたから、その時期には信長など、時の統治者と友好を保って、領地経営の安定化を図ろうとしていたと思われます。資料(8)の村重とのやり取りは、そんな状況が想定できます。

戦国武将である小寺氏も飯島氏も河内国に生まれて、同国内で戦死しています。どのような想いで戦っていたのでしょうか。

 

【参考動画】
◎120m先のマトをも射抜く!!実戦技術を求める弓術家の業【安藤光太郎】 


 

2025年9月27日土曜日

摂津国東成(欠)郡左専道村(現大阪市城東区諏訪)にあった城らしき「古城」という小字(地名)

摂津国東成郡左専道村内「古城」推定地
元々は別の調べごとで、大阪府東成郡史を読んでいたのですが、そこに、筆者の生まれ育ちの地でもある旧左専堂村にも「城」らしきものがあった記述を見つけ、驚きました。これについて全く聞いたことがありませんでした。
 それを確認するために、文化財関連など心当たりの公的な関係部署には問い合わせてみたのですが、初耳とのことでした。ただ、古い地番に行き当たることができず、「法務局」での確認になりそうです。とりあえず、場所の特定について、そこまでは辿り着きました。
 また、旧左専道村に代々お住いの古老(1935年生まれ)にも同件を尋ねてみたのですが、「初耳だ」とのことで、場所の特定や様子には辿り着けませんでした。

この「古城」の小字については、非常に気になる要素ですので、調べを更に深めたいと思います。

◎城の存在を感じさせる小字「古城」の記述
さて、それについて先ず、現在手元にある資料を集めておきたいと思います。その出発点である『東成郡史』の記述該当部分からご紹介します。
※東成郡史(大正11年(1922)12月25日発行)P776

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東成郡城東村:
【地勢及び地味】
展開せる大阪平野の一部にして土地平坦なり。本村内を貫通する河川なし。但し池沼及び井路多し。地質は第四紀層に属する肥沃の土壌にして、殊に米・麦・菜種・野菜・大豆等の作物に適す。
【区割り】
本村は鴫野、左専道、永田、天王田の四大字より成る。鴫野は村の西部を占め、永田、左専道は東部に連なり、天王田は中部に位す。天王田は寛文7年、本庄村より分割して置く所なり。各大字に属する小字名及び番地は左の如し。

明暦元年(1655)大坂三郷町絵図
(大阪歴史博物館所蔵)
【大字左専道】
東島(地番略)、上島、中島、下島、古城(自140番至166番ノ2)、西溝、高野田(こおやでん)、中屋敷、西河原、橋本西側、苔木、南尼田、北尼田、切下、佃、宮前、里前、里中。
【水利(水系)運河】
大字鴫野に在り。摂津土地株式会社の経営にて開鑿したるなり。寝屋川朝日橋より西三十間の所に関門を設け、此処より南南東に向かいて進み、約150間(2.7キロ)にして東に折れ、又約100間(1.8キロ)にして南に折れ、経営地端に至る。総延長511間(9.2キロ)、幅8間(14メートル)、深さ干水時に於いて40石積みの運送船の通航を自由ならしむ。大正3年(1914)着手同年竣工す。幅7間(13メートル)の支線あり、その延長168間(3.1キロ)、大正8年(1919)9月竣工す。又城東土地株式会社にて、近く千間井路を開鑿して運河となす計画あり。
【池沼】
本村に池沼多し。大正7年(1918)度調査土地台帳によれば総数52、総面積2町3段1畝18歩にして、悉く民有なり。往時は池沼の数今日に比し尚多数なりしものの如く、明治9年(1876)の調査に拠れば周囲2町(約218メートル)以上のもの大字天王田に33、同永田に5、左専道に18、鴫野に41ありき。此等は水質薄濁、水藻魚亀を産し、池底の泥土は肥料に用う。大なる池沼は其の形大抵細長なり。
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旧字名の名残りの「左専道公園」
小字に「古城」とあり、その他にも「島」とつく小字が多くみられます。これについて同書「池沼」の項目で、「本村に池沼多し。(中略)周囲二町以上のもの(中略)大字左専道に18、(中略)大なる池沼は其の形大抵細長なり。」とあるように、湿地帯の自然環境でもあったことから、「島」と名の付く小字が多かったようです。

古城についての地番を辿れば、大まかには現永田1~3丁目のあたりのようです。明治18年(1885)の様子を記録した地図に、その範囲を示してみます。赤色で囲んであります。
 この時点で、既に開墾されており、「田」が一面に拡がっています。また、ご覧の通り、小字「城」の場所は、左専道村の中心部からは少し離れた場所です。

◎戦国時代当時の記録に現れる「左専道村」
さて、いわゆる戦国時代に見られる、左専道村についての当時の史料をご紹介します。天文3年(1534)10月13日の事として、大坂本願寺日記にみえます。
※石山本願寺日記(下)P232

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 上野玄蕃頭・太融寺より河内サセ堂(左専道)へ陣取。薬師寺二郎左衛門(下文中断)。同朝、周防主計汁振る舞い。
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左専道集落中心部の主要道
この記録では、「河内サセ堂」とあり、そこに陣を取ったとしています。同村は摂津・河内国境に位置する集落で、本来は摂津国欠郡に属します。これは記録者である本願寺関係者の誤記ですが、より興味深いのは左専道村に陣取りした事です。残念ながら、この記録は中断されており、その他の詳しいことは判りません。
 この記録が、左専道村に伝わる「古城」と関係があるのかどうか、今のところ不明ですが、同村が当時のそのような状況、地理にあったことは確かです。

他方、この辺りの当時の地形を広域に俯瞰すると、江戸時代中期の大和川開削前の状況ですので、今とは随分と自然環境が違います。生駒山の西麓にあった深野池から、その西側にあった新開池を経て大坂湾に注ぐという大河の流れがありました。左専道村と森河内村は、その経路にあたることから要地として重要視されていました。
 戦国時代当時、そのような状況にあり、左専道村は度々、戦の陣取りに使われていました。そのために、村人の避難場所や陣所として、村の主要部の他に施設が設けられていた可能性もあります。山のない平坦な地形で、それはどのように工夫されたのでしょうか。

◎左専道村の概要
左専道村について、いつもの大阪府の地名から、該当部分を以下に引用します。
※大阪府の地名1(平凡社)P630

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左専道村(大阪市城東区諏訪1-4丁目、永田2-3丁目、東中浜5-6丁目、同8-9丁目):
天王田村の東、長瀬川左岸にあり、東は河内国森河内村(現東大阪市)。深江村(現東成区)で奈良街道(暗峠越)から分かれた摂河国境沿いの道が、村の東端を通って剣道へと続く。集落は村域北東隅に位置し、南方にある12間四方の墓地は行基が開いたと伝える。また延喜元年(901)太宰権師として筑紫へ左遷された菅原道真が、途中立ち寄ったのが当村諏訪明神の森といい、村名の由来説話がある(大阪府全志)。中世は四天王寺(現天王寺区)領新開庄(現東成区)に含まれたとみられる。
旧放出街道
 文禄3年(1594)の欠郡内佐専道御検地帳写(諏訪神社文書)によると、村高448石(うち12石余荒地)・反別33町4反余。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領。その後幕府領となったが、寛文5年(1665)村高の内400石が旗本稲富領となり幕末に至る。稲富領を東組と称し、残る幕府領を西組とよんだが、西組は幕末には京都所司代領(役知)。元禄11年(1698)治水のため村域大和川の外島(中州)が取り払われ(大阪市史)、宝永元年(1704)の大和川付替えで川は水量が減少して大部分の川床は開発された。享保20年(1735)以降成立の村明細帳(諏訪神社文書)は、特定年の村明細帳ではなく書式・類例を記したものであるが、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳と同じ451石余が記され、稲富領400石のうち下田93石余・畑299石余・永荒7石余、幕府領51石余のうち田50石余・永荒1石余とある。また宝永5年、永田村と共同で笹関新田(現鶴見区)のうち1畝8歩の地を銀101匁余で布屋九右衛門より、幅2間半・長さ52間半の用水路を銀188匁余で鴻池新七より購入したこと、当村は砂交じりの水損場で麦は不作であること、年貢の津出しは剣先船を利用したこと、村保有の小船は14艘で下肥の運搬や農通いに使用したことなどがわかる。主要井路に橋本・西河原・高野田の各井路があった。享保20年の摂河泉石高帳で、村高464石余のうち6石余が新田とされるのは、購入した笹関分か。
 諏訪神社は建御名刀美命・八坂刀売命を祀る。前掲村明細帳に引く元禄5年の寺社相改帳によると宮座65人、うち年長の9人が社務をつかさどり、禰宜・神子はいない。古来武家の尊崇厚く、豊臣秀吉奉納と伝える獅子頭一対が残る。後藤山不動寺は真言宗山科派。慶長7年(1602)宗寛により木野(この)村(現生野区)に創建されたが、水害のため宝暦9年(1759)当地に移転、のち友三寺(ゆうさんじ)と改称したが昭和17年(1942)現寺号に復した。不動明王を本尊としたので左専道不動とよばれ、正月28日は初不動といって参詣人が多く(浪華の賑ひ)、桃の名所としても知られた(浪花のながめ)。大阪では「そうはさせない」というとき、語呂合わせに「ドッコイそうは左専道の不動」ということがあった(大阪府全志)。万峯山大通寺は融通念仏宗。ほかに慶長7年頃左専道惣道場として創建されたという真宗大谷派林照寺、浄土宗地蔵庵がある。
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これまで、あまり意識していなかったのですが、『明暦元年大坂三郷町絵図』では、左専道村と森河内村の間に川が流れています。放出街道は、今も他の地面より少し高い位置にあります。明治18年の地図ではその街道の東側の脇に細長い川の跡のようなものが描かれています。これはその名残かもしれません。長瀬川と接続していたと思われます。

◎摂津国欠郡新開庄の概要
それから、左専道村は摂津国新開庄の北端でもあったため、その庄園について、以下にご紹介しておきます。
※大阪府の地名(平凡社)P638

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摂津国新開庄の位置図
新開庄:

現在の東成区深江・今里の付近を中心としたとみられる四天王寺(現天王寺区)三昧院の庄園。興国元年(1340)7月28日、南朝の後村上天皇は四天王寺の28世執行泰順に綸旨を下し、父孝順の譲りに任せて新開庄の領主職を相伝知行するよう命じている(秋野房文書)、また正平6年(1351)2月28日、四天王寺検校忠雲が播磨上座なる者に与えた御教書(同文書)によれば、後村上天皇の興国年間の勅裁のとおり、性順の余流である播磨上座が通順とともに三昧院領新開庄の知行を認められている。当時、室町幕府内部では、足利尊氏・義詮父子と足利直義との間が分裂する危機にあり、南朝方との間に複雑な政治関係が展開されていた。そうした政治情勢のなかで、四天王寺が南朝の意向の下に当庄の知行を維持しようとしている点が注目される。しかしその後、「満済准后日記」の永享3年(1431)3月9日条によると、かねて摂津守護細川氏の使者が禁止していたにもかかわらず、去る6日に四天王寺の僧徒が新開庄に発向して現地の堂塔・在家一宇に放火し焼き尽くす事態がおこったので、守護方は面目を失したと伝えており、四天王寺の支配に対する庄民の抵抗が激化していったことをうかがわせる。
 新開庄の名は近世にも地域名称として残り、その範囲は宝暦3年(1753)摂州住吉東生西成三郡地図によれば「暗峠路ノ大街以北、大和古川以南、平野川以東十一村」であった。
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◎今後も「小字古城」について調べを続ける
このように左専道村は、古くからの歴史を持ちますが、全国屈指の政令指定都市である大阪市内に含まれるということもあり、急速に市街化が進み、今では旧態が判らなくなっています。
 しかしながら、先人が営々と地域を守り継いできた場所であり、それを知ることは、急速な市街化過程にある中にあるからこそ、再確認も必要であろうと感じます。
 戦国時代は、話し合いもありましたが、武力で解決することが不可避であった時代でもあり、村民と家を守るためにも大変な労力を要した時代です。そんな過酷な時代を生き抜き、今に地域を繋いだ人々の経過を知ることは、人道であり、科学であり、大きな資産でもあります。

左専道村にあった「古城」について、新たに判明したことがあれば、随時ご紹介していきたいと思います。

【参考記事】
明智光秀も陣を取った、戦国時代の史料に現れる森河内村(現東大阪市)と左専道村(現大阪市城東区諏訪1-2丁目)について

 

明治18年の摂津・河内国境を中心とした周辺の様子(国境の放出街道が南北に通る)