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2025年7月10日木曜日

細川京兆家(昭元)と典厩(藤賢)について(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

地域権力としての摂津国豊嶋郡を支配する池田氏は、その性質上、上位権力と切り離して存在し得ず、どうしても連動してしまうのが本質でした。
 池田氏も、それについて無意識であった訳ではなく、その不安定要因のを分散、体制構築を試みた一つは、様々な権威に繋がる事でした。直接的には、将軍や管領、典厩家、寺社勢力などに接近して、可能な限りの誼を通じました。

例えば、将軍と直接的に交わり、御家人として関係を結びます。天文8年閏6月13日付、将軍義晴が、池田筑後守信正などの有力国人に、私的な音信(内書)を送っています。
※大館常興日記1(増補 続史料大成15)P92

---資料(1)---------------------
閏6月14日条:
(前略)一、未明に荒礼部(不明な人物)より書状之在り。池田筑後守・伊丹次郎・三宅出羽守・芥河豊後守、此の人数へも成され、御内書、別して三好孫次郎に対し意見加えるべく之由、之仰せ下され、何れも副状調進致すべく候由之仰せ出され也。仍って則ち之相整え、幕府奉公衆荒川治部少輔氏隆へ之上せ進めるべく也云々。
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その後間もなく、同年9月26日、池田信正は、毛氈鞍覆・白傘袋着用の許しを幕府に請うています。これは、将軍の御家人である印の物品です。

大西山 弘誓寺(2000年撮影)
また、摂津池田城下の大西垣内には、池田一族から本願寺実如光兼の真弟となり一寺を建立して開基となった、浄土真宗本願寺派大西山弘誓寺があります。大西隼人宜正の嫡子源五郎正是が、「道空」との法号で僧侶となり、一向宗との接点を構築したようです。開基は永正6年(1509)2月28日と伝わります。(池田町便覧)
 この前年の5月、池田城は現職管領の細川高国方の軍勢に攻め落とされて落城し、池田城主であった貞正が切腹しています。城内から離叛者(池田遠江守など)を出し、池田家中は新たな体制で政治が進められた頃でもありました。
 このような状況でしたので、筑後守・遠江守どちらにも組みせず、出家して連枝の家を守る方策だったのかもしれません。同寺は、元禄3年(1690)に、第七世恵空によって再建され、今も同地に存在しています。

さて、そんな数々の試練を潜り抜け、戦国時代には摂津国内随一の国人に成長した池田氏と特に繫がりの深かった「管領」と「典厩」について、以下、見ていきたいと思います。

◎管領とは
室町幕府の統治体制における、管領という役務について、非常に解りやすく説明されている一説がありますので、それを部分引用させていただきます。
※室町幕府 全将軍・管領列伝P10

---資料(2)----------------------
(前略)将軍の意思伝達や裁決実施命令を基本的職掌とする執事(高師直など)の立場は、守護を直接掌握しようとする将軍の立場と矛盾するものであった。この矛盾は、細川頼之が幼将軍義満の親裁権行使の代理者として、義詮の親裁権を全面的に継承して執事に就任したことによって解消へと向かった。頼之は、将軍義満の成人とともに、将軍の親裁権と、将軍を補佐して幕政を運営する執事の権限と再分割した。義満の元服を契機として、頼之は管領と呼称される。
 主として所領・諸職の補任・寄進・安堵など権益の付与・認定およびそれに関する相論の裁決を将軍の親裁とした。そして、評定における管領の発言力を増大させ、引付方の機能を形骸化して所領・年貢に関する裁判を管領が総括した。さらに、諸国・使節等に対する執行命令を管領の権限とした。
 それまでの命令系統は、将軍─守護、将軍─執事─守護、将軍─引付頭人─守護、将軍侍所頭人─守護というように、多様であった。それが、この管領の地位成立とともに、将軍─管領─守護という系統にほぼ統一された。この命令系統の統一が、管領制度成立の指標とされている。
 将軍・管領の権限分掌や、管領を軸とする命令系統は、この後も継承されていく。室町幕府は、管領制を基本とする幕府機構を通じて発揮される権力であった。(後略)
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また、その「管領」について、経年変化の後半の実態について、同じ書籍から引用します。
※室町幕府 全将軍・管領列伝P480

---資料(3)----------------------
慈雲山 普門寺 晴元隠居所
「管領」細川晴元のすがた:

天文3年9月3日、足利義晴は近江国坂本から六角定頼の息子義賢を伴い、京都へと戻った。その頃、晴元は一向一揆終息のために摂津・和泉を転戦しており、ようやく落ち着いて京都に戻ってきたのは天文5年9月のことである。では、晴元は上洛後、義晴をどのようにして支えたのであろうか。
 天文期に入ると、同じく義晴を支える立場として、近江の六角定頼の姿がみえる。定頼は常に在京することはなかったが、義晴は彼を重用し、難儀な裁許決定をする場合は彼の「意見」を欲した。それに対し、幕府は晴元に対して「意見」を諮ることはなかった。むしろ、晴元が幕府や政所に対し、京兆家の方で持ち込まれた問題を諮ることがしばしばみられる。例えば、天文7年11月、住吉浄土寺と桑原道隆なる人物の相論が細川京兆家にもたらされた。幕府政所の執事代を勤めている蜷川親俊の記録には、この相論について次のように記録している。
 "住吉浄土寺と桑原道隆入道の相論について、晴元殿のところで諮ったにもかかわらず、晴元殿はこちらへ幕府の「御法」を尋ねてきた。本日、晴元殿の奉行人でもある飯尾元運、同為清、茨木長隆が政所にやってきて、親俊が応対した。"
 晴元方の3名(飯尾元運・同為清・茨木長隆)は、晴元の下で政務処理をする役割を持つ人々である。つまり、政務処理をする立場である彼らは、幕府の「御法」を詳しく知らないため、政所へ尋ねにきているのである。後日、この案件は政所預かりとなり、晴元率いる京兆家だけでは自力での解決ができなかったことが読み取れる。このように、晴元は政務面において幕府を頼るといった傾向がみられ、幕府を補佐する立場というよりも、補佐を被る立場であった。それは、晴元の近くに、可竹軒周聡など政務処理ノウハウを熟知して人材がいなくなってしまったことが原因として考えられるであろう。(後略)
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◎典厩とは
現在の淀川の様子
「右京大夫(京兆家)」の官途を受ける細川家の分家の一つで、初期には京兆家において内衆を束ねる役割を果たしていたようです。
 典厩とは「右馬頭・右馬助」の官途の唐名で、そう呼ばれていました。この典厩家も経年変化があります。これについては、ウィキペディアから部分引用し、ざっとその全体像を掴んでみます。
※ウィキペディア:細川氏項目内「典厩家」

---資料(4)----------------------
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の三男持賢を祖とする。当主が官途とした右馬頭・右馬助の唐名にちなんで典厩家と呼ばれる。基本的に守護として分国を有することはなく、初期には京兆家において内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようだが、後に摂津国西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。(中略)
 京兆家当主の座を奪った晴元に対し、細川氏綱(尹賢の子)は高国の後継者として天文7年(1538年)以降抗争を続けていたが、三好長慶が氏綱を擁立して晴元から離反し打倒した。(中略)三好政権に対して一定の立場・発言力を保持しており、単なる傀儡でもなく同盟者に近かったと指摘されている。(後略)
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上記の解説では触れられていないのですが、管領家が2つに分裂して争った事から、典厩家も2つになります。
 その発端であった細川晴元の側につく、細川一族の中から「晴賢」という人物が典厩家で、その一党が摂津国中嶋を拠点として支配していました。この頃には分郡守護的な立場となり、地域権力にも変化していました。
※石山本願寺日記(上)P558

---資料(5)----------------------
10月1日条:
細川右馬頭晴賢・松井(波多野)十兵衛尉・小河左橘兵衛(二郎三郎)・水尾源介・並河四郎左衛門(丹波国人?)等ヘ、今度唐船寺内へ乗り入れの儀に就き、相意を得られの間、其の礼為唐船3種(献上品脱カ)5人へ宛て之遣わし候。使い河野、下間兵庫取り次ぎ(此の年5月13日条、松井十兵衛、水尾源介、小河左橘兵衛を中嶋三代官と称せり)。
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大阪城内にある本願寺跡地の碑
上記史料にもあるように、中嶋は京都への水運の要でもあり、非常に重要な場所でしたので、当時、本願寺宗を含めて様々な組織(戦国大名も含め)が海外貿易を活発に行う中にあっては、欠く事のできない場所でした。
 中世は世界的に宗教の時代とも言われ、そういう方向性での繁栄に加えて、本願寺宗は貿易を行う事でも、富を手にしていました。それについて、当時の日本国を記録に残した外国人の一人、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記述を見てみます。
※フロイス日本史3(中央公論社)P217

---資料(6)----------------------
第17章(第1部56章)彼ら(フロイス師とアルメイダ修道士)が豊後から堺へ、さらに同地から都へ旅行した次第:
(前略)堺の数人のキリシタンは、その習慣に従って先行し、(堺の)市街から半里離れたところにあって、多数の神の社がある住吉というところで、司祭とその同行者を待ち受けた。彼らはそこで、(司祭)のために、はなはだ清潔で綺麗に調理した飲食物を用意していた。彼は彼らと別れた後、堺から3里距たった大坂への道をたどった。そこには一向宗の上長で、全日本でもっとも富裕、有力、不遜な仏僧の都市であった。この(僧侶)は、阿弥陀同様に有難がられ、阿弥陀に対してと同じように畏敬されている。なぜならその信徒たちは、(阿弥陀)が、彼ならびにその後継者たちに化身すると信じているからである。(後略)
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それから、戦国大名の海外貿易の実態について、周防国を中心とした戦国大名の大内氏の例を見てみましょう。部分引用します。
※世界史の中の戦国大名P35

---資料(7)----------------------
大内義隆没後も続く遣明船:
その後、日本国内では、大永6(1526)年に細川高国対抗する細川晴元・三好元長らが阿波で挙兵し、翌年京都に侵攻したことで、高国は近江に逃れ、政治的求心力を失った。これによって、以後の遣明船経営権は大内氏が集約することになり、その後の天文8(1539)年度と同16(1547)年度の遣明船は、享禄元(1528)年に没した大内義興の跡を継いだ大内義隆による独占派遣となった
 周防の大内氏は、この31代当主義隆の時期に全盛を迎え、山口に本拠を置いて周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前の七ヶ国守護職を兼任する日本最大の大名に成長した。そうした時期に独占的に経営・派遣されたのが、天文年間の2度の遣明船であった。天文10(1541)年と同19(1550)年にそれぞれ帰朝した船が大内氏の大名財政にもたらした利益は計り知れず、また、その本拠の山口は文化的にも爛熟した。
 しかし、天文20(1551)年9月、その絶頂にあった義隆が、不満を抱いていた家臣の陶隆房に謀反を起こされて自害した。この騒動以降、日本から明に渡って皇帝への進貢を遂げた遣明使節の記録は途絶えた。この事実をもって、一般的な日本史の辞典や教科書では、日明間の勘合貿易は断絶した。
 だが、その通説にそぐわない、いくつもの事例を紹介しよう。
 貿易の実験を握った大内義隆が、陶隆房によって自刃に追い込まれたのは天文20年9月1日のことである。しかしながら、例えば、その2年半後の天文23(1554)年3月に肥後の戦国大名相良晴広が「大名船」を明に派遣している。また、弘治年間(1555-58)には、倭寇禁圧を要求するために来日した鄭舜功の帰国に随行して、豊後の戦国大名大友氏が使僧を派遣して明に入貢している。さらに、同じ使命を帯びて来日した蒋洲に帰国に際しては、義隆没後に大友家からの養子として大内家を継いだ大内義長とその兄の大友義鎮が、連合遣明船を派遣している。中国側の史料によると、この時、大内義長は倭寇被慮の中国人の送還を名分として明へ入貢している。その際、大友義鎮の遣明船は明側から「巨舟」と称された。(後略)
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上記の『世界史の中の戦国大名』でも触れられているように、管領もその職権を使い、海外貿易を行っていました。
 海外貿易については、その当初「日本国王」として将軍家の特権(義満が再開)でしたが、室町幕府が安定しない事からその権利が切り売りされるなどし、海外貿易窓口が乱立してしまう事となりました。
 いわゆる応仁・文明の乱以後、京都の中央政府は乱れに乱れ、織田信長が登場する頃にはその極致であったとも感じます。将軍を補佐して政治を行うべき役務者である管領までもが独自に対外貿易を行い、政治体制は麻痺状態でした。

織田信長は、それらの政治の不安定要素の整理も行ったと私は感じています。

最後の管領となった細川昭元の最晩年について、詳しく研究された論文がありますので、それも見てみます。
 先ず、天正2年(1574)と思われる、閏11月9日付け細川信良(昭元)が、香川中務大輔信景(讃岐国人)へ音信している史料の紹介です。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P211

---資料(8)----------------------
小早川左衛門佐隆景従り返札相届き祝着候。仍って其の表異儀無き由候。此の方事も別無く候。春者当方へ道行すべく候。猶波々伯部伯耆守広政(信良重臣)申すべく候。恐々謹言。
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復元された安宅船
天正2年という年は、将軍義昭と織田信長の対決の余震が続いており、斑な支配域を面に変えていく対応の最中でした。
 この頃は、信長と毛利家の関係も、それ程悪化しておらず、むしろ、東方の甲斐武田氏に備えるため、西側の大名とは友好関係にありました。
 織田方は、制海権も意識して、阿波・讃岐国に勢力を保っていた三好氏に対する策を講じていました。これは、毛利・織田氏双方に利益があり、同地域に影響力のある管領格細川昭元(この時信良)は、かつての讃岐守護でもあったため、讃岐の有力国人香川氏と接していました。香川氏は、織田・毛利方の支援を受けて三好氏と戦い、讃岐国西部(天霧城主)の支配を固めています。

昭元は、天正元年(元亀4)7月の槙島城合戦で、将軍義昭が織田信長に降伏すると、信長の命により同城に入りました。
 その7ヶ月後、天正2年2月に昭元は、信長から偏諱を受けて「信元」と名乗ります。そこからまた10ヶ月程が経ったところで再び昭元は「信良」と名乗りを変え、管領家(格)として代々の通字である「元」も名乗らなくなっています。
 『瀬戸内海地域社会と織田権力』では、ここに事実上の「管領」の終焉となり、信長の支配下に完全に掌握されたと考えられています。

戦国の世の極致でもあった、元亀・天正年間、織田信長の「天下布武」による国内統一戦において、細川昭元は、非常に重要な人物でした。
 室町幕府が機能を停止した元亀4年いっぱいまでは、典厩の城であった中嶋に昭元を入れて、地域勢力の根拠地で、管領・典厩の両権力の下、ある程度は機能していたようです。
 その過程で、摂津池田氏も中嶋城の普請などに動員されており、管領・典厩権力に沿って、国人衆としての池田氏も労務を果たしています。

いくつか、資料を上げます。

元亀元年と思われる6月9日付、細川右馬頭(典厩)藤賢が、某(幕府関係者)へ音信しています。
※新修 茨木市史(通史2)P28

---資料(9)----------------------
今度近江国於いて大利を得られ、六角承禎父子近江国伊賀に至り退かれ候由、慥かに承り珍重候。尤も罷り上りと雖も申し上げるべく候。普請毎日申し付け候間、取り乱し自由に非ず候。形の如く(慣例に従って)申し付け候者罷り上り、毎事上意得るべく候。先日申す如く伊丹兵庫頭忠親は摂津国東成郡榎並へ人夫3日申し付け、普請合力池田筑後守勝正は、一昨日1日摂津国欠郡へ人夫2〜300人合力為馳走仕り候並びに上意堅く仰せ出され候故と忝く存じ候。然るべく様御取り成し頼み入り候。近日者、牢人雑談相静め申し候。此の分に候者、都鄙大慶せしめと存じ候。近江国へは、織田信長定めて罷り出られるべく候。然ら者御動座為るべく候哉、承り度く存じ候。猶々伊丹・池田へは、私城(中嶋城)の普請合力仕り候由神妙に思召され候由、仰せ出され様に御取り成し頼み入り存じ候。旁様体承り度く候間、先ず以て飛脚申し候。何れも図らず罷り上り申すべく候。かしく。
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摂津池田衆は、中嶋城の普請助勢の命令があり、それに従事している様子が読み取れます。
 また、欠年の6月2日付、昭元が、香西玄蕃頭へ音信した史料があります。年代特定は難しいところですが、今のところ元亀3年のものと考えています。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

---資料(10)----------------------
昨日者見廻り悦び入り候。仍て摂津国池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。明日上嶋に至り、敵相動き由の条、尚以て馳走肝要候。恐々謹言。
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中島総社
この音信の宛先である香西玄蕃頭は、三好為三と共に活動していた人物と思われます。であれば、昭元の重臣です。香西玄蕃頭は、元亀元年8月下旬に、三好方から寝返って幕府・織田方に迎えられています。
 その後まもなく、三好方から離れた細川昭元の配下に入って活動していましたが、元亀3年8月下旬に再び為三と香西玄蕃頭は、幕府方を離れて三好方に寝返っています。
 この6月2日付の史料は、そのような状況で発行された元亀3年のものではないかと思われます。音信中「池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。」とあって、これは、摂津中嶋城への加勢の動きを伝えているものと思われます。管領権威に池田衆が従うという、本来の政治体制に復す行動を取っています。
 三好三人衆勢に寄った行動を取っていた池田衆ですが、この頃に池田衆は池田方から離れたようです。

時代は降って、天正2年7月20日、織田信長配下となっていた荒木信濃守村重が、中嶋方面で優勢であった本願寺勢を制圧するため、大合戦を行います。
※織田信長文書の研究(上)P765

---資料(11)----------------------
前置き:
尚々其の表之事、毎事油断有るべからず候。
本文:
折紙披閲候。去る20日(7月20日)摂津国欠郡中嶋相働き、即ち一戦に及び切り崩し、数多之討ち取り、残党河へ追い込み、悉く放火之由、手強に申し付けられ故、武勇之子細候。味方中少々討死申し、是又苦しからず候。古今の習いに有り候。次に此の表之儀、先書に具に塙(原田)九郎左衛門尉直政申し達すべく候。伊勢国長嶋之事、猶以て詰陣申し付け候間、落居程有るべからず候。開陣候者、則ち上洛為るべくの条、面談を期し候。謹言。
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これは上述のように、中嶋は、京都に繋がる水運の要所であり、未だ軍事的に不安定であったこの時期の情勢において、経済封鎖か流通確保かを争う重要な用件でした。
 また、この時期、瀬戸内海は織田方が把握(制海権)できておらず、天正4年7月の海戦で毛利方に大敗を喫しています。それを挽回するには、天正6年冬を待たねばなりませんでした。

そういう状況下での天正2年夏の摂津国中嶋大合戦でした。村重勢は、これに打ち勝ち、戦略的には織田方に、一旦は有利となりました。
 また、視点を広域にすると、この頃の織田勢は、京都周辺の四方八方は敵で、五畿内地域(山城・大和・摂津・河内・和泉)にも、敵対勢力が多く存在した状態でした。
 朝廷のある京都は、堅持すべき場所として荒木村重を主として周辺対応に当たらせ、信長は、その外側の地域の敵に対処をしていた時期でした。村重は、そういう状況をよく理解し、戦術・戦略的にも的確に成果を上げて、実行支配地を拡げました。

地域権力は、その地と社会的地位が密接であり、故に時代の変化に影響を受け易いとも言えます。管領及び典厩が、政治権力と経済性のバランスを欠き始め、土着性を帯び始めた時から、戦国大名や国人と同質化し、一過性の安定欲求が、本来の社会的な役割を曇らせる事になったのでしょう。
 管領という中央政治の要職にありながら、その職責が、時代や要望に押し潰されて、新たな社会形成の枠組みに沿わなくなり、再編されてしまったのが、管領家と典厩家だったようにも感じます。

しかし、この管領は、唐名で「黄門」であり、それは江戸時代にも引き継がれています。あのテレビ時代劇「水戸黄門」は、管領の事で、徳川将軍を補佐する役務(副将軍)でした。
 平和な時代の管領であった水戸光圀は、数多くの史書を編纂しており、現代への日本文化継承に多大な貢献を果たした人物の一人でした。

 

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2023年11月21日火曜日

摂津国河辺郡にあった次屋城(現兵庫県尼崎市次屋)についての考察

偶然に通りかかって、それから気になって調べてみました。潮江などについては、池田勝正研究の関係で、時代的な流れだけは、ザッと知っていました。しかし、それ程の関心を持っていた訳ではありませんでした。通りかかった事で、急に思い出し、急に興味を持ちました。備忘録的にちょっと、次屋城の項目を作っておきたいと思います。引用です。
※兵庫県の地名1-P470(次屋村の項目)

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◎次屋村(尼崎市次屋1-4丁目・下坂部3丁目・浜3丁目・潮江2丁目・西川2丁目)
下坂部村の南東に位置する。天文5年(1536)3月26日、摂津中嶋(現大阪市淀川区)の一向一揆が尼崎方面の細川晴元方の軍勢を破り、「次屋の城」に籠城していた晴元方伊丹衆は、城を明け渡した(細川両家記)。慶長国絵図に村名がみえ高615石余。元和元年(1615)池田利重領、同3年尼崎藩領となる。寛永20年(1643)青山氏のとき分知により旗本青山幸通領となり明治に至る。陣屋が置かれた時期もある(尼崎市史)。元文3年(1738)代官安東茂右衞門の苛政に抗議して逃散、源十郎・佐兵衛ほか3人に過料銭100石につき10貫文が科せられた(尼崎市史・徳川禁令考)。用水は猪名川水系大井掛り(「水論裁許状」西沢家文書)。明治12年(1879)調の神社明細帳によれば次屋村・浜村立会陣屋所に伊弉諾神社がある。同15年の戸数78・人口334(県布達)。
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とあって、次屋村には、江戸時代に陣屋が置かれたこともあるらしいです。もしかして、城跡をこの時に再利用した可能性もあるでしょうね。
 そして、戦国時代の軍記物でありながら、最近は史料的価値が見直されつつある『細川両家記』を見てみます。
※群書類従第弐拾号(合戦部)『細川両家記』(天文5年の項目)

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3月26日に摂津国中嶋の一揆衆(残存抗戦派本願寺勢)富田中務 一味して、摂津国河辺郡西難波に三好伊賀守連盛・同苗久助長逸両人の人数楯籠もるを責め落とす也。長屋岸本(意味は不明。次屋?)腹切りぬ。40計り討ち死にす。然らば伊丹衆楯籠り次屋の城もあくる也。同椋橋城(現大阪府豊中市椋橋)三好伊賀守も明くる也。然らば木澤左京亮長政をたのみ大和国信貴城へ越されける也。
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この時は、管領細川晴元方の有力勢力として、池田衆も伊丹衆と共に積極的に活動していましたので、この一連の動きは、池田衆も関与していたと考えられます。
 また、この文中に出てくる「長屋岸本」とは、もしかして「次屋」ではないでしょうか?この人物が討ち死にしたために、その本拠の次屋城も落ちた可能性もあります。地元の人間が、案内役として出向いた先で戦死する事は、事例として多々見られます。
 参考までに、もう少し前の時代の事例ですが、永正年間(1504〜21)の細川澄元と細川高国の管領争いの折にも、この辺りで交戦が盛んにありました。『細川両家記』では、両軍ともに「潮江」に陣を度々取っています。潮江の集落は、次屋の西隣ですので、この頃は潮江が主たる立地だったのでしょう。ひとまとめに「潮江」としている場合もあります。
 そして、その次屋城の跡地と推定されているのが、現在は「城の後公園」となっているところです。これについて、『日本城郭大系』には短く記述があります。
※日本城郭大系12-P556

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『細川両家記』などに、その名がみられる。字「土井ノ内」の北隣が「城後」。
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さて、明治時代初期の地図(陸軍参謀本部:陸地測量部仮製図)が、精密地図としては一番古く、その後、三点測量による地図が明治時代後期にできあがります。その地図を見ると、何となく城の輪郭が見えるように思います。高低差があります。今の「城の後公園(字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園))」は、ほんの一部だけが残っていますが、現在も公園内は周辺道路よりも1メートル程高い位置にあります。多分、宅地造成の時に整地などで削ったりしたいと思いますが、その前の時代は田んぼで、その時に随分改変されたのだと思います。空襲の被害もあったかもしれませんが、復興期を経て1960年代には、宅地化されているようでう。

次屋の西側(1キロメートル程)には、神崎村があり、ここは川港で、関所も置かれていました。猪名川と神崎川の合流点で、有馬街道や大坂道とも交差していました。加えて、西国街道とは別に、中国街道も通していました。陸から川から海から人と荷物が行き交う要衝でした。
 次屋は、尼崎と塚口の中間点にあり、塚口の更に北には、大都市の伊丹・池田郷がありました。平野部から沿岸部への入口として、独特の地位を保っていたのでしょう。

 

仮製図に記された次屋村の様子(赤枠が城跡推定地)


1909年(明治42)測量時の次屋村(赤色枠内黒色長方形は公園の位置)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


字「土井ノ内」の北隣が「城後」(現尼崎市次屋1丁目18:城の後公園)


2022年10月14日金曜日

摂津池田家惣領家(筑後守)の幼名は「太松丸」である可能性

数年間、サボっていた調べ事も、最近また、気持ちが向くようになり、このやりかけた調べ事をなんとか終わらせて、後世の役に立つカタチにしなければと思うようになりました。
 自分自身の興味を書き綴り、自分の頭の中を整理しつつ、皆さんに紹介するというスパイラルを作るのも、良いように思います。

さて、今回は、池田家惣領家系の筑後守の幼名は「太松丸」読み方が判りません。「たしょうまる」でしょうか。「たしょうがん」という薬みたいな呼び方では無かったとは思います。さて例えば、こんなシーンを想像してみましょう。
 小さな子が、何か良くないことをしようとして、その親が声をかけます。「これ、ふとまつまる(太松丸)!」...。ちょっと違う気がします。一方、「これ、たしょうまる(太松丸)!」これならシックリ来るような気がしますよね。こんなのファンタジーの世界ですが...。

近年すっかり、馬部隆弘先生のファンになり、色々と論文を読んでいます。馬部さんは凄いです。もの凄く深い。そして広い。私がこれまでに疑問に思って放置していたことが、馬部先生のお陰で、次々と解け、目が覚め、暗闇で光を見るような心地です。

そんな喜びに包まれる中で、この気付きも永年の疑問にヒントを与えてもらった要素の1つです。史料を三つご紹介します。
※以下それぞれの史料中、「太松丸」の記載は赤色文字で強調表示してあります。

--(A:永正5年(1508)8月10日)----------------------------
毎々申し遣わし候。其の方儀、油断無く相調えられるべく事肝要候。此の方の事は、別儀無く候。猶与利弥三郎(不明な人物)申すべく候。謹言。
※細川六郎澄元、摂津国人三宅出羽守、宿久若狭守、瓦林九郎左衛門、原田豊前守入道、福井三郎、池田太松丸、芥河豊後守入道宛の音信
【出典】新修広島市史6(資料編 その1:知新集)P222、戦国期細川権力の研究P207
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--(B:天文17年(1548)6月29日)----------------------------
一、大門役 波多野孫四郎・香西越後守、一、小門役 芥川孫十郎・山中橘左衛門尉、一、裏門役 池田太松丸、一、楽屋奉行 山中新佐衛門尉、一、惣奉行 塩川伯耆守・三好宗三、一、御進物奉行 飯尾上野介・茨木伊賀守、一、供物奉行 垪和道祐・高畠伊豆守・田井源介・平井丹後守・波々伯部伯耆守、一、御膳奉行 波々伯部伯耆守・中條五郎左衛門尉、一、諸衆相伴 波多野孫四郎・長塩民部丞、一、御走衆相伴 山中新左衛門尉、一、侍雑司相伴 豊田弾正忠、一、御酒奉行 安久良紀伊守・筒井神介・穂積右衛門尉、一、蝋燭奉行 吉阿、一、御折奉行 平井丹後守・飯尾越前守、一、御茶湯(御前) 伊阿、一、惣茶湯 残り同朋衆(但今度者御寺の、以下欠)、一、灯台請取 作阿・慶阿、一、年行事 長塩民部丞・柳本孫七郎、一、御成門 飯田蔵人・撫養掃部助、一、官女間 安成若狭守・秋山勘解由左衛門尉、一、兵庫間、嶋田若狭守・中村加賀守・第十加賀守、御対面所 澤田新左衛門尉・鶏冠井六介、一、十八間 波々伯部源五郎・望月太郎左衛門尉、一、三間 入江四郎左衛門尉・中村式部丞・山本与四郎、一、屏中門番 藤岡三河守・原田孫九郎・待井孫七郎・竹田六八・中澤与五郎・竹田修理亮・今井八郎左衛門尉・石柴左京進・藪田左馬允・友成与五郎。

【出典】戦国期細川権力の研究P443、続群書類従35(武家部)P221(『天文(十)七年細川御成記』「御成役者日記」条)
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--(C:天文17年(1548)8月12日)----------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正:宗田)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者、三好宗三(政長)相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物(ぞうもつ:隠す・賄賂を受け取る・盗んだもの・不正手段によって得た物)相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木ノ本に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政長父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、細川晴元方近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言。

【出典】戦国遺文(三好氏編1)P79など
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(A)の史料は、細川六郎澄元が、摂津国人三宅出羽守、宿久若狭守、瓦林九郎左衛門、原田豊前守入道、福井三郎、池田太松丸、芥河豊後守入道へ宛てて音信したものです。
 この時期、管領細川氏家督を巡り、激しい内部闘争を繰り広げており、細川澄元方として池田城を頼み、籠城していたのですが、池田家中の有力者で同族の遠江守正盛が、寄せ手の細川高国方に内通したため、池田城は陥落しました。城主(惣領)である筑後守貞正は、切腹して果てました。
 しかし、嫡子や妻など近親者は落ちのびています。この筑後守嫡子(太松丸)など、澄元方の摂津国人に宛てて細川澄元本人が、池田城陥落直後に音信しています。

(B)の史料は、天文17年6月に将軍義晴が、管領細川晴元邸を訪ねた時の記録です。
 この頃、管領細川晴元(澄元嫡子)が、側近の三好政長の讒言を真相確認をせずに聞き入れ、晴元の中心でもあった、この当時の池田家当主、筑後守信正を切腹させてしまいます。突然の切腹で、思い通りの後継者も育っていない中で、、急遽、惣領として立てられたのが「太松丸」でした。筑後守信正は、晴元邸で切腹させされており、その晴元邸に将軍義晴が訪問するという伝統的示威行事に、太松丸は晴元の近臣としての役目を課されていました。その時の記録です。

(C)の史料は、天文17年8月、三好筑前守長慶が、細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉元継・高畠伊豆守長直・田井源介長次・平井丹後守直信へ宛てて音信したもので、長慶が定頼に、三好政長の排除を求めたものと考えられています。
 この一件の真相は、娘を池田信正に嫁がせており、三好政長は姻戚上の義理の父の立場にありました。それを理由に、非常に裕福であった池田家の財産を我が物にしようとする素行があり、日頃から晴元の権力を利用して、池田家の権利などを掠め盗る動きがあったようです。
 これに耐えかねた池田家中は、同じ管領格の細川氏綱(高国弟)が台頭してきた事から、そちら側に未来を見出して離叛します。自衛措置とも言えるでしょう。しかし、タイミング悪く、その行動(蜂起)は鎮圧されてしまいます。信正は、これまでの貢献も考慮して、一度は赦免されたものの、責任を問われて切腹を命じられます。
 この晴元の行動に対して、この当時から重すぎるとの批判があり、摂津国人衆の間で波紋が拡がっており、晴元権力に対する大規模な反発が起きました。これについて、三好政長の同族であった三好長慶が、細川晴元の義父である近江守護六角定頼へ訴え出た時の史料です。

これらの史料により、惣領筑後守家に家督の問題が起きた時には「太松丸」の名が見られる事がわかります。ただ、一応は嫡子での相伝ではあるのでしょうが、その基本を守れない場合には、養子での血縁維持を行っていたのかもしれません。「太松丸」の名乗りは、父母が必ずしも一致せず、その時の事情で襲名するという可能性もあるのかもしれません。
 また、父親が同じでも母親が違う、いわゆる「腹違い」といった情況もあると思います。

それはさておき、この場合の家督選定は、晴元の信頼厚い三好政長の血縁に近い人選を強要されたと考える事は、不自然では無いように思います。不本意ながらも要求された条件を受け入れたにもかかわらず、池田家からの希望を受け入れなかったと、この文面から読み取れるように思います。その後、世論の支持と三好長慶の保護もあり、池田家中は三好政長の一派を池田家から追放しています。
 更につけ加えるならば、当主と一心同体化した、官僚機構(この事態で、もう一つの権力体となった)であった池田四人衆が、家政体制護持のために、別の家督適格者(孫八郎:遠江守家系か)を立てて、「太松丸」擁立派池田長正と対立して、暫くの間、対立構図が続きます。双方に正統を名乗る勢力が並立する期間が出現します。

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上京の右京大夫・典厩屋敷付近(2017年撮影)

2013年7月12日金曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その2:池田筑後守信正(宗田)について)

池田筑後守宗田(信正)は、管領細川右京大夫晴元に重用され、その政権を支える国人の一人でした。各地の守護も政権を支える大きな力となってはいましたが、国人はそういった地域の枠を越えて、江戸幕府でいうところの「旗本」のような、守護を通さずに直接指示を受けるような事もあったようです。

ですので、宗田(信正)は京都に屋敷を持ち、管領と行動を共にしていたようです。将軍への毎月の挨拶などの行事には宗田(信正)の名前が見えます。更に信正は、将軍からも直接的に音信(指示)も受けるようにもなっており、「御内書」などをしばしば受けています。摂津・河内・山城・近江・丹波など、京都周辺の国々では特に、そのような傾向があったようです。
 また、それらの事が常態化すると、外聞的にも身分を整える必要があり、信正は天文8年6月に「毛氈鞍覆・白笠袋」を許されます。これは、格式ある大名のみに許された栄典ですが、室町末期には乱用されていたようです。しかし、社会的な効力はある程度持っていたようです。

ちなみに「宗田」とは、隠居(現代感覚とは違う)後に名乗った入道号で、それが法名ともなったようです。また、「宗」を使う所が三好宗三一統と何らかの共通性を感じます。今のところ、その理由について、はっきりはしていません。

それからまた、細川晴元は阿波国出身であったため、これを支えるために同国の武士が代々側近として取り立てられていたのですが、その大きな勢力が三好一族でした。そのリーダー的存在であったのが長慶と政長でした。
 時が経つにつれて、長慶は独自の理念を持つようになり、人望も得るようになります。それと対象的な運命を辿るのが晴元と政長です。
 こうなると両派は対立するようになり、政権内で武力衝突も起きるようになります。それが中央政権での出来事であったために、断続的に京都も戦火に包まれるようになります。
 不幸にして摂津池田家は、この闘争の中心に置かれる事となり、更に不幸だったのは、政長方につながりを強くしていた事です。
 
以下、前回のように、主な要素を抜き出してみます。

◎天文15年 9月3日
池田信正が細川晴元方から離反する。
◎天文16年 6月25日
池田信正、細川晴元に降伏。僧体となり恭順し、入道号を「宗田」と名乗る。
◎天文17年 5月6日
池田信正、細川晴元から切腹を命じられる。
◎8月12日
三好長慶、三好宗三による摂津池田家への非行を細川晴元へ訴える。
◎10月28日
三好長慶、反細川晴元方として三好宗三嫡子政勝を攻める。

池田信正は細川晴元に取り立てられ、その事もあって大いに家運が開けたのも事実です。しかも、晴元の信頼厚かった三好政長と縁続きになった事で、更に安定の裾野が広がったかに思われたのですが、時代や人自身の変化もあり、思うような繁栄の未来は見出せなかったようです。
 信正にとっても、池田家中の人々の生命と財産を託され、発展し続けるための舵取りを任されている以上、それを削がれる可能性が見えた場合には、回避せざるを得なくなります。
 それが、天文15年9月の晴元からの離反でした。それは信正一人が決めた訳では無く、家中と話し合って決めた事でしょう。
 
しかし、池田家が頼りにした細川晴元の対抗馬である同じ管領候補の同名氏綱は、その勢力があと一歩及ばず、池田家の目論みは遂げる事ができませんでした。
 池田信正は軍事制圧され、降伏します。この時、やはり縁者であった三好(宗三)政長を頼り、細川晴元に詫びを入れ、停戦となりました。しかし、一旦は赦免されたものの、切腹を命じられるまでの約1年間、様々な思惑を交錯させつつ、検討がされたようです。

この間、晴元のその処分を巡って、色々と世間を騒がせる出来事がありました。それらの要素を箇条書きにしてみます。

責めを受ける当人が、僧体となり恭順していれば、よほどの事が無い限り切腹には及ばない慣例があった中で、跡取りも正式に決めさせないまま、晴元が信正の切腹を命じた。
摂津池田家の縁者であり、晴元の側近でもあった三好宗三が、池田家の取り計らいもせず、非道な処置を黙認したどころか、その実行を望んだ。
三好宗三が、池田信正の処分保留中に、その財産を我が物にしようと介入した。
三好宗三が細川晴元と共に、池田信正の跡取りの人事について介入した。

これらの事は、当時の社会(特に京都周辺、近隣地域)にとって、非常に関心を集め、それを巡る細川晴元の処置は大変問題視されました。その事もあって、晴元政権は信用を失い、一気に傾きました。

もちろん、池田家中でもこの問題は深刻化し、内訌に発展しました。三好宗三に関する一派は、池田を追われるなどしたようです。この闘争では、池田信正を補佐する家政機関であった池田四人衆が、次期当主となる候補を立て、別の一派も独自の候補を立てるなどして対立した様子が窺えます。

この時どうも、宗三とは別の血統の孫八郎を四人衆が立て、一方では信正系譜の長正が当主の座を巡って分裂したようです。しかし、その後は和解したらしく、最終的には長正が池田家の正当な当主として「筑後守」を名乗っています。

荒木村重の世となった天正4年に発行された『春日社領垂水西牧御神供米方々算用帳』には、景寿院分として5石の割り当て分が記されています。これは奈良春日神社に納める、今でいう税のようなものです。
 その内訳けが、「二石 宗田御書出也。三石 右兵衛尉御書出也、御蔵納也」とあります。宗田とは信正、右兵衛尉は長正を指すと考えられます。この両者について、取りまとめを行っているらしい「景寿院」という寺(人物か)があったようです。この景寿院とは、信正・長正を供養する寺だったのではないかとも考えられます。また、この両者に関わる事が、景寿院を通して管理されているところを見ると、信正と長正は親子だったのではないかと思われます。

結局、池田家は時代の政治状況や色々な要因が関係して、三好宗三(政長)の血統が当主に就いたようです。しかし、これが三好長慶政権内でも良い方向に作用し、池田長正の代でも発展の基礎となります。これは、後に三好三人衆の一人となる同名下野守との関係があったためだと考えられます。

という訳で、次回は三好下野守(宗渭)について考えてみたいと思います。