ラベル 街道_能勢街道 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 街道_能勢街道 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年8月13日木曜日

摂津国豊嶋郡福井・岡山(現大阪府豊中市)にあったとされる城は、原田城と一体化していたか

◎はじめに
この城の話しは聞いたことがあり、資料もいただいていたりしたのですが、気になりつつ時間だけが過ぎてしまいました。今は、私自身の知識が蓄えられた事もあり、推測のための材料も用意できるようになったので、この城について考えてみたいと思います。

この伝福井・岡山城については、地方史研究者の高市光男氏が『大阪春秋』127号で、取り上げられており、茶人・キリシタン武将であった古田織部に関連づけて述べられています。それを引用するには、長文ですので、文中の要素を適宜に取り上げつつ、私なりの視点も加えて、以下にまとめたいと思います。

明治42年(1909)測図
◎地誌にみられる福井・岡山村
先ずは、その土地の概要把握から始めたいと思います。
出典:大阪府全誌3(清文堂出版)P1248

--資料(1)-------------
【大字福井】
本地は古来豊嶋郡に属し、もの餘戸郷の内なり、原田庄、一に六車庄とも呼びし内にして福井村と称す。字地に城山・東城山といへるあり
 西法寺は字城山にあり、星野山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。本地の郷士に星野四郎大夫なるものあり、本願寺蓮如法主に帰依し、剃髪して了忍と称し、明応6年(1497)当寺を創立し、享保4年10月檀徒協力して之を再建せり。境内は271坪を有し、本堂・庫裏・書院・鐘楼・薬医門を存す。
 福井城跡は中央にあり、一堆の丘阜をなして俗に城山と呼べり。周囲は260間にして、今は民家相連なり、遺跡の認むべきものなく、復た其の興廃の縁由等も明らかならず。
 本地は寛文元年(1661)より麾下畠山飛騨守の采地となり、村高83石8斗2升は同氏世襲して同飛騨守に至り、明治元年(1868)5月24日の公布に依りて大阪府司農局の支配となる。又本石高外なる1石1斗6升1合(新田)は徳川氏代官の支配たりしが、同代官継承して斉藤六蔵に至り、明治元年の初めに御料となりて、桜井遠江守・九鬼長門守の当分取締に移り、同3年3月1日兵庫裁判所の管轄に転じ、同年5月23日大阪府司農局の支配となる。(中略)同12年2月10日豊嶋郡役所部内となり、同月21日、第16分画に属し、同13年7月2日岡山村・曽根村・服部村・長興寺村と五ヶ村連合し、同17年7月1日第13戸長役場の管理区域に入りて、同22年4月1日の町村制施行に至れり。

新修 豊中市史大字小字図を加工
【大字岡山】
本地は古来豊嶋郡に属し、もの餘部郷の内にあり、原田庄、一に六車庄と呼びし内にして岡山村と称す。字地に北の口・新町・南の口・辻野・西の口へといへるあり。田圃の間に一の坪・五の坪・六の坪・東六の坪・十の坪といへる小字あり、条里制の遺称ならん。
 西琳寺は字辻野にあり、応頂山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。中村治右衛門なるもの本願寺准如法主の弟子となり、宗善と法名して寛永5年(1628)に創立し、其の後大破せしを以て6世■(養?餈?)元檀家と協力して之を再建せり、境内は425坪5合を有し、本堂・庫裏・鐘楼・薬医門を存す。
 本地は寛永年間より麾下船越駿河守の采地となり、同氏世襲して同柳之助に至り、明治元年(1868)5月24日の公布に依りて大阪府司農局の支配に移り、同年7月北司農局に属し、同2年正月20日摂津県の管轄に換り、同年8月2日兵庫県の管轄に転じ、同4年8月同県第35区に編入せられ、同年11月20日大阪府の管轄となる。而して其の後の区画の変遷は、大字福井村に同じ。
---------------

ちなみに、江戸時代に発行された『摂陽群談』に西琳寺と西法寺の記載がないのですが、なぜでしょうか?

続いて、現代に編纂されたいつもの地誌を見てみます。
出典:大阪府の地名1(平凡社)P271

--資料(2)-------------
大阪春秋127号より
岡山村(豊中市曽根東町2丁目、同4-5丁目):
曽根村芦田池の東、豊中台地の南端縁辺部にあり、東の福井村との境を南北に能勢街道(池田道)が通る。原田七郷の一村(元禄郷帳)。文禄3年(1594)の検地では原田郷10ヶ村で検地帳1冊が作成され、惣高3180石のうち岡山村分の高は203石余・反別18町2反余(享保2年「岡山村名寄帳」中村家文書)。慶長10年(1605)の摂津国絵図では当村や原田村など計5ヶ村の高3181石余のなかに含まれている。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では旗本船越領31石余。延宝5年(1677)6月には船越左門・同百助領136石余(野口家文書)。元禄11年(1698)4月には船越領203石余(同文書)。以後は幕末まで変化はない。産土神は原田神社、浄土真宗本願寺派西琳寺がある。

福井村(豊中市城山町1-2丁目、長興寺南2-3丁目、曽根東町6丁目、服部本町4丁目):

岡山村の東、豊中台地の南端縁辺部にあり、能勢街道(池田道)の東側に沿って集落がある。原田七郷の一村(元禄郷帳)。中世は春日社領垂水西牧六車郷に属し、正長元年(1428)11月日の南郷春日社新大般若会料田坪付帳(今西家文書)に、料田加地子米担当者として原田郷の福井村がみえる。慶長10年(1605)の摂津国絵図では当村や原田村など計5ヶ村の高3181石余のなかに含まれている。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では旗本畠山領83石余。以後幕末まで畠山氏の知行所であった。福井城跡と伝える所があるが、  詳細は不明。法華宗(本門流)藤井寺(とうせいじ)には「竜の頭」を用いる雨乞儀礼が伝えられている。降雨をつかさどる竜神の頭骨と伝え、寺宝として秘蔵されているが、外に出すと雨が降るといわれる。調査により日本産の牡鹿の頭骨と判明している(豊中市史)。ほかに浄土真宗本願寺派西法寺がある。
---------------

福井・岡山両村は、原田七郷(「元禄郷帳」)に属しており、一体的な地縁があったようです。この内、福井村については、中世において六車郷(原田庄)に属していたとあります。『大阪府全誌』では岡山村も六車郷の内としていますが、『大阪府の地名』では、その記述がありません。また、両村の境は、その間を南北に通る能勢街道でした。
 新しい地誌では過去の記載が見直されているようなところを感じて気になります。これは、能勢街道があるために、どうしても分けて見てしまうのですが、元は一体のものではないでしょうか。街道を取り込んだ城か、居住区(集落)を城の機能とを分けて構成されていたのかもしれません。

豊中市の担当部署に尋ねてみると、「城山」としての対象ではあるけども、今のところ報告書を伴う発掘調査はなされていないとの回答でした。ですので、現段階で物理的な判断材料は得られず、文字情報からの想定に尽きます。

出土した十文字入り瓦(4点)
大阪春秋127号より
◎出土したキリシタン瓦と伝福井・岡山城を考える
それで、この記事の冒頭でご紹介した高市光男氏の記事「豊中に織部の城があった - キリシタン鬼瓦が語る謎 -」によると、昭和33年(1958)に豊中第四中学校の体育館建設工事中に十字紋の入った鬼瓦が出土した事により、ここにキリシタン教会のような施設があったのではないかと想定されています。それが禁教令などにより、破壊された折に廃棄された時、元の城の堀に投げ棄てられたと推測されています。
 その現場は、比高10メートル程の崖で、字名が「城山」と呼ばれており、この城が天正6年(1578)冬から始まる荒木村重の乱と関係した、有岡城の付城であり、原田城に城番として入っていた中川清秀やキリシタン大名の古田織部に端を発する可能性を述べられています。以下、少々長文ですが、該当部分を引用してみます。
出典:大阪春秋127号P81(ミステリー探訪:豊中に織部の城があった)

--資料(3)-------------
【なぜここにキリシタン瓦が?】
なぜ当地でこのような瓦が出土したのかと問われると、誰もがここにキリシタン大名がいて、禁教令で形成悪しとみて堀に投棄したものだろうと推測する。
 豊中市立第四中学の北側には10メートルほどの崖があり高台になっている。そこは字名「城山」と呼ばれている。『大阪府全志』(大正11:1922)には、中豊島村の項に次のような記述がある。

 ”福井城址は中央にあり、一堆の丘阜をなして俗に城山と呼べり。周囲は260間(約473メートル)にして、今は民家相連り、遺跡の認むべきものなく、復た其の興廃の縁由等も明らかならず。”
福井城の名は、福井村の名をもって編者がつけた仮の名であろう。明治時代に既に忘れ去られていたとみえる。その中心は岡山村・福井村・長興寺村の三村墓地となっている。古戦場だから墓地になったという伝承もある。墓地から五輪塔や一石五輪塔など戦国期の墓石が出ることがあり、墓地中央には「鏡地蔵」が祀られている。
 『新修 豊中市史古文書 古記録』
「原田郷村々由緒記録」の一部が収められている。この記録は1709年(宝永6)に死亡した原田村梨井の庄屋であった野口玄好の日記を隣村原田村中倉庄屋永田兵太が1730年(享保15)に書き写したものである。野口氏は、原田氏の跡を継ぎ城に居住した原田城主の子孫である。その中に次のような記録がある。
”一、曽根・岡山・勝部は天正年中より初家造いたし候所、其中曽根少古し、尤勝部・岡山元亀頃壱弐軒つつ有之由に候へとも、荒木氏御退治時当城より見付のかまひいに成によって家とりはらはれ、殊に岡山は古田左助殿御陣所に成候故猶もって無家、其の丸跡を開発して岡山村と号、依之土井之内と云、当城出丸也
一、福井村右之村より少し古、”
原田城推定復元図
『荘園物語』近くて身近な中世の豊中より
とある。当城出丸(出城)という当城とは原田城の意であろうが、原田城側の我田引水である。伊丹有岡城の荒木村重を討つわけだから、むしろ岡山から見付(見張)のために家を取り払ったと考えるべきであろう。村に1〜2軒しか家がないことは奇異に感ずるが、中世的な大家族制の時代、一族郎党下人に至るまで何十人で一家を成していたと考えれば納得がいく。
 岡山の西琳寺の寺伝によると、開基宗善は、戦乱の世に嫌気をなして、土民(百姓)になり中村治右衛門と称し岡山に住み、1573年(天正元)頃本願寺に入門。1628年(寛永5)97歳で没した。とすると、1531年(享禄4)ころの生まれである。また、西武庫村(現尼崎市)の土豪高寺氏系図「高寺家譜」(『伊丹史料叢書4 荒木村重史料』による)には、
”十二代高寺泰経 号市郎右衛門尉 天文6酉年9月4日卒 年63才 妹 摂州岡山村中村弥兵衛に嫁す”
とある。泰経は1474(文明6)ころの生まれ、その妹が中村家に嫁ぐのは1500年ころと推定される。信長が荒木攻めのため、古田左介(左助)等を出兵させるのは1578年(天正6)のことで、その時岡山村、おそらく福井村も家々が焼き払われたか、取り壊された。1995年(平成7)の阪神・淡路大震災で被害を受けた西琳寺も大修築がおこなわれたが、その時本堂床下から五輪塔等が数多く発見され、柱の土台石として使われていた物も多かった。中には火が入った五輪塔もあり焼き払われた可能性もある。
 福井の西法寺についても同様の伝がある。『豊中の史跡たずね描き』(平成6:1994)には西法寺について「浄土真宗本願寺派で、1534年(天文3)に福井村の現在地ち建立された。星野四郎太夫(法名釈了思)が裏山の砦の主人であったが、殺し合う武士をはかなみ、出家して開祖となった。」とある。『西法寺四百六十年の歩み』によると、2代3代とも名前も不明で、4代1630年(寛永7)に続いている。西琳寺と同じ運命にあったことがわかる。
---------------

上記の資料(3)、「当城出丸(出城)という当城とは原田城の意であろうが、」と解釈されているのですが、これは、古伝書の通りに伝福井城(福井・岡山城)の事と思われます。また、「一堆の丘阜をなして俗に城山と呼べり。」から転じて「岡山」になり、それが別名「城山」だった...。

◎共通性がみられる奇縁
また、資料(3)にある、高寺市郎右衛門尉泰経についてですが、泰経は武庫郡に縁があり、これは石蓮寺村の興法寺と同郷です。この地域は、一連のつながりがあるようにも感じます。更に、泰経は兄弟で河原林越後守と共に戦って戦死したと伝わっています。これも、石蓮寺村に伝わる北河原氏と関係が深く、与作の妻は河原林越後守の娘です。
 福井村の歴史構成には、石蓮寺村と連動する所があり、それは相互に一体化した起源があるように感じられます。また、福井村にある西法寺の伝承についても星野四郎太夫が出家して「釈了思」となり、寺の開祖となったとあります。この星野氏は、荒木村重の家臣としても星野某(有岡城内の上臈塚砦へ滝川一益勢を引き入れた一団)が居り、星野氏は摂津池田の細河郷にルーツを持つ一派と共通点が見いだせます。非常に土着的な起源を纏わせる要素があります。池田氏が菩提寺の大広寺と一体化して統治機構を創出していたように、星野氏も親族による縁故関係を近隣に築いていたのかもしれません。星野姓はそれ程多くないですし、その姓名の起源はある程度限られてくるように思われます。

【参考】荒木村重の重臣でもあった摂津国人北河原氏(与作)について考える

豊中台地南端縁辺高低差の様子
◎福井・岡山村の地形と要害性
少し視点を変えてみます。この福井・岡山村というのは、東接する石蓮寺村と自然環境が似通っているばかりではなく、福井・岡山村は更に高い要害性を持っている事から、戦国時代には当然、何らかの策が講じられていた場所にあると考えられます。以下、要素をあげてみます。

○能勢街道の監視・管理の必要性があった
○吹田街道が穂積・服部村から東側へ分岐している
○原田村を中心とする原田庄(六車郷)は一体であった
○原田城と地理的に補完関係を維持する必要があった(南側への視界確保)
○原田と福井の間の曽根村付近に「本陣山」という小字がある
○豊中丘陵の水源を管理・保持する必要があった
○九名井の用水範囲
○垂水西牧の管理者である今西家の本拠地があり、その重要地域であること
○原田庄・田能村との水争い田あったこと
○河辺・豊嶋との郡境が近かったこと


これらの要素は、戦国時代において先鋭化する事から、領土保全について重要地域であったと考えられます。そのため、高市氏が想定されている、荒木村重の乱に伴う古田織部の築城よりも前に、既に城があったとも想定が可能かと思われます。

原田村絵図
『荘園物語』近くて身近な中世の豊中より
◎主陣地としての原田城を考える
時代降って、天正6年(1578)冬翌年秋にかけて、高市氏は、この重要地域に、織田信長の古くからの従臣でもある美濃国衆の古田氏が入れられていたと考えられています。古田氏は中川清秀の妹を娶っており、且つ、信長の目付的役割も持っていました。
 有岡城を攻める時、その周辺の街道を封鎖し、要所には付城を置きます。その一つが、元々あった原田城で、これを大きく改修して陣城とし、ここに中川清秀が入っていました。また、太平洋戦争前、陸軍がこの平野で演習を行った時、原田城跡あたりの木に登って、伊丹方面の友軍へ手旗信号で通信を行っています。両所の間は、4キロメートル程の距離です。

この原田城は、地形的に、南北に伸びる半島の先端で、高さを下げています。それより高さを持つ桜塚方面に何らかの工夫をしていたのかもしれません。加えてここは、東西南北への交差点でもあり、能勢街道も合流しています。豊中台地上の重要地点です。
 また、この豊中台地の南端であり、能勢街道を通す福井・岡山地域は、南側の中嶋方面から北上を阻む為には要害が必要な場所であったと考えられます。同台地全体を一つの防御陣地とする事ができます。
 ちなみに、天正2年(1574)7月の崇禅寺合戦の折、荒木村重勢は小曽根村方面から南下。渡し場を経由して神崎川を渡り、中嶋内十八条村を更に南下して、崇禅寺方面に向かっています。

◎原田城と一体化した、伝福井・岡山城

このように有岡城を対象とした場合には、その正面となる原田城が主要な陣となりますが、それを支えるための陣地構成・体制としてはやはり、伝福井・岡山城も必要であったと考えられます。これは、有岡城攻めに限らず、池田・伊丹氏の対立が長期間続いていた時代にあって、郡境を守るためには、同様の軍事要素が必要であったと考えられます。
 それ故に、天正6年冬から始まる有岡攻めは、既存施設の再利用だった。若しくは、荒木方であった施設を攻め落として、原田城と同様に織田方が利用したものと考えられます。また、福井・岡山城があったと考えられている根拠ともなっている地籍図を以下に示します。
出典:新修 豊中市史 通史1 豊中市大字小字図より

新修 豊中市史(通史1)豊中市大字小字図を加工
福井・岡山方面からは、能勢街道と、もう一つの重要な道である箕面街道を分岐させています。この街道は、ほぼ真北に伸び、豊中台地を一旦出て、谷に下りた少路・野畑村を経て、刀根山丘陵を越えて西国街道に接続します。この野畑村は、西国街道からの分かれ道を複数接続させており、要衝でもありました。刀根山には織田方の陣城もありました。

 一方、南側には穂積・服部村から小曽根村を経由し、東側へ向けて吹田街道を分岐させています。距離にして1キロメートル程で、目と鼻の先です。台地からは、ここも俯瞰できます。荒木の乱当時、先ずは、大坂本願寺との連絡・補給線を絶つ必要があるので、当然ながら福井・岡山地域は最重要地点になります。
 乱は長期化し、軍事的視点では、「1年近くをよく持ちこたえた」となりますが、経営的には、その間の収穫は途絶します。加えてその地の収穫のための水源や設備も失っており、地盤を持つ人々や武将は、友軍からの補給で食いつないでいるに過ぎません。

軍事行動は、政治目標の達成手段ですので、守るにしても、この軍事の全体構想(計画)が、勝算が高くなければならず、そうでなければ知行を得ている武士も、生産をする農民も、それに関わる領民も、一年間にも及ぶ無収入には耐えられません。
 包囲も籠城も、最終的に相手の経済破壊か、経済を保護するための籠城かの衝突(戦争)です。軍事は、政治の一部ですので、その目標達成までの軍事方策から、様々な意図が読み取れるように思います。

新修 豊中市史より
◎農業生産に必要不可欠な「水」の重要性について

ここで、水の大切さについて、この当時と現代社会の捉え方に少々の違いがありますので、「水」について用水・水利を考えておきたいと思います。
 伝福井・岡山城のある所は、春日社領垂水西牧の管理者である今西家の本拠の至近に位置します。また、その用水を石蓮寺村・寺内村から引いています。
 一方、原田・岡山村などの耕作地は、「九名井(くめい)」の用水路を通じて、猪名川から取水しています。これについて、ご紹介します。
出典:とよなか歴史・文化財ガイドブックP50

--資料(4)-------------
【九名井】
九名井(原田井)は、伊丹市下河原の猪名川から取水し、伊丹市の酒井・森本・岩屋、尼崎市田能、豊中市の勝部・原田・桜塚・曽根・岡山の耕作地を潤した用水路です。
 大和国(奈良県)興福寺の僧尋尊が記した『大乗院寺社雑事記』には、寛正2年(1461)に六車庄(原田庄)と田能村(尼崎市)との間で水争いが起きたことが記され、すでに室町時代後半には九名井が存在していたことが確認できます。九名井は中世史料では「久米井」と表れますが、江戸時代になると「九名井」と書かれます。「九名」という漢字が当てられた由来は、原田村など9か村の地を潤していたことによるともいわれます。
 戦後、原田・曽根・岡山の住宅地化が進み九名井の役割は次第に低下していますが、九名井は数百年にわたり豊中中西部の村々の重要な水源となっていました。勝部では千里川と交差しますが、千里川は天井川で高い位置を流れているため、その下にトンネルが掘られ九名井が通っています。
---------------

この九名井は、室町時代後半には存在していたことが確認されています。豊中台地の南端は、用水水系の境目でもあり、運営や管理において、繊細な地域でした。

◎水の大切さを知る聞き取り調査
また、水の重要さについての民間感覚を知ることのできる貴重な聞き取り記録がありますので、ご紹介しておきます。
出典:とよなかの史跡・余話(水とくらし・街道など)P76

--資料(5)-------------
九名井(勝部地区)
とよなか歴史・文化財ガイドブックより
【原田の用水について語る】
洗堰の保守と清掃の日は、4月末になっていて、その日は水利組合の組合員全部の農家から、鋤簾(じょれん:川や用水路を浚える道具のことで、竹のめの入った鍬の形をしているもの。水の中から砂利や砂のみを浚うのに使う道具)、竹雙木(たけそうき)、鍬などを持って集まりました。この日は農家から男頭(おとこかしら)が大勢集まるので、「百人普請」といっていました。原田からは50人程度が出かけました。だからこうした普請の全体指揮は、水利組合員の人数・反別の最も多い原田の区長が執っていました。
 洗堰は、猪名川を幅200メートル程の長さで築かれています。蛇籠はあらかじめ神津村(口)酒井の竹屋が頼まれて編んでいました。猪名川の両岸には竹藪が多かったので、材料の竹は簡単に手に入ったものです。蛇籠は一つの長さが約2間(3メートル60センチ程)あり、河原の小石を中に詰めると、それを打ち込んである松の木の杭の間に水の流れを止めるように並べて置いていきます。だいたい一ヶ所に四段くらい積みます。旱魃は水不足になり、水の一滴は血の一滴といわれるほどの問題になることがありました。それは水争いになるということで、各村々にとっては米の取れ高を左右する重大事でした。このような場合、慣行水利権というものがあり、どこにどのように流すか、決まっていました。旱魃になると、田が枯れないように一滴に水でも確保しようとして、水を流す樋門の開け閉めをめぐって争いになることもありました。
 明治30年(1897)から大正5年(1916)までかかって裁判で和解した歴史もあります。この時の裁判は和解になったのですが、九名井の一つ岩屋村では裁判費用に困り、夜なべ仕事に草履(わらじ)を作り、それを売って費用を捻出した家もあったと聞いています。水利権を持っている方は、下流に対して強く、下の田の人は、上田(かみだ)の家に頼んで分水してもらうのが普通ですが、日照りになり水不足が続くと、慣行通りにならないことが起きるということで、なんとかして田が枯れないようにお互いの助け合いもよくしたものです。特にむかしは米作りが主な所得でしたから、用水は飲み水とは比べものにならないほど重要で、「生まれてきても、水下(みずしも)に生まれるな」と言うほど、水は生き死にを決めるものであり、嫁にとつぐのも水下には行かさないといわれたものです。今は田が無くなってきて、住宅がいっぱい建っています。これまでのように猪名川からの用水のことを心配したり、水不足で騒いだりするようなことはなくなりました。
(1995年9月聞き取り:原田元町「豊中市立教育研究所:研究紀要第100号 第二集『聞き書き』水とくらし」)
---------------

そこには、大変興味深い記述があります。「用水は飲み水とは比べものにならないほど重要で、「生まれてきても、水下(みずしも)に生まれるな」と言うほど、水は生き死にを決めるものであり、嫁にとつぐのも水下には行かさないといわれたものです。」と、水への強烈な想いを知ることができます。
 このような社会と文化は、つい最近まで続いていましたが、近年は急速にこのような伝統的生活から離れつつあり、理解も遠のきつつあります。

◎史料に見える福井・岡山村の豪族などの有力者
春日社領の管理者(神人)である今西家の年貢の記録「御神供田服部村御内検帳事(天文5:1536)」に、福井の与三郎・同次郎衛門・同弥三郎・同九郎二郎・同藤五といった人々の名がみられます。また、「南郷御供米切出分注文(天文15)」には、福井勘兵衛という人物の給分(代理徴収)として1石があげられており、その後の同家の記録には、福井村出身者の名が度々記録されています。
 一方、岡山村にも同様の有力者が存在したと思われ、「御神供米方々算用状(天正4:1576)」に、岡山の孫九郎の名が現れます。ここには、原田孫衛門の名も見えますが、福井村出身者の名はありません。
 この記録に現れる「福井」とは、嶋下郡(現大阪府茨木市福井)ではなく、記録の特徴からして、近隣の集落が多く、遠方の給人の場合は、いちいち注記がある規則性もあり、豊嶋郡の福井であると考えられます。
 それからまた、当時の一次史料に原田氏と共に福井三郎なる人物の名が記されています。永正5年(1508)と比定される、8月10日付の管領格細川澄元が池田太松丸などの有力者へ宛てた音信です。
出典:新修広島市史6(資料編 その1:知新集)P222、戦国期細川権力の研究P207+234、歴史研究(戎光祥出版)724号P77

--資料(5)-------------
宛先:摂津国人三宅出羽守、宿久若狭守、瓦林九郎左衛門、原田豊前守入道福井三郎、池田太松丸、芥河豊後守入道
内容:毎々申し遣わし候。其の方儀、油断無く相調えられるべく事肝要候。此の方の事は、別儀無く候。猶与利弥三郎(不明な人物)申すべく候。謹言。
---------------

この中で、原田豊前守入道に続く福井三郎なる人物は、原田氏の近親者としての福井氏である事を感じさせます。この場合の「福井」は、同じ宛先として、三宅出羽守・宿久若狭守も見える事から、嶋下郡である可能性もありますが、書き分けられていると思われ、やはり豊嶋郡の「福井」であろうと考えられます。
 やはり、嶋下郡福井・岡山村には有力者が居り、しかも原田氏と一体的な関係性も感じさせる人的つながりも割と古い時代から持たれていたと考えられます。

◎まとめ
現実があり、軍事行動は、その中にありますので、それは「経世済民」の大きさと深さを、どこまで考えているのかが、勝敗の結果に直結しています。それが協力者を得る重要な要素です。
 戦争は、領内(領民)経済をどのように担保するのかの力量であり、決して個人の取り分や分け前だけの問題ではなく、社会的地位により、その目標と役割は変化していきます。逆に考えれば、攻められる側は、命と全てをかけた抗戦ですので、死力を尽くして挑んできます。
 戦術は、この間の駆け引きですので、城や合戦場所には、大きな意味があると思われます。その意味では、伝福井・岡山城の存在探索は、重要な視点になると感じています。同城は、それらの状況を考えた時に想定できるのは、やはり原田城と補完関係を持つ、一体的な城として、荒木村重の乱以前から存在したのではないでしょうか。

新修 豊中市史 通史1より
例えば、原田城跡からどちらに向いて視界が開けているのかを示した解析図があります。それによれば、原田城からは、やはり主に西向きで、東から南側は死角が多くあります。
 それからまた、原田村から曽根・福井・岡山村の字名を確認すると「本陣山」という小字名があります。ここは今の「ウェリス豊中曽根」という集合住宅のある一帯で、曽根村の東側に隣接(若しくは村の一部)する立地です。かつてここに、陣所があったことが想定されます。また、その北側には「二ノ丸」という小字もあります。

資料(3)でご紹介した、原田城主の子孫である野口氏が語った「殊に岡山は古田左助殿御陣所に成候」とは、この本陣山ではないでしょうか。また、「荒木氏御退治時当城より見付のかまひいに成によって家とりはらはれ」とは、原田城と同様に、拡張して再利用したのではないかと思われます。
 この事から、やはり原田城の死角を補うように南側への監視施設を設けていた事をうかがわせ、伝福井・岡山城は存在して、豊中台地の南側縁辺を警戒する意図があった可能性は高いように思われます。
 江戸時代になっても、この地は旗本の領地(畠山飛騨守(福井)・船越駿河守(岡山))として明治維新まで政策として維持されており、やはり、要地として認識されていたことは間違いないように思います。

大阪府豊中市曽根西町2丁目11付近が、小字「本陣山」

曽根村内の地図記号「卍」が法華寺の位置:明治42年(1909)測図


2026年3月31日火曜日

摂津国豊嶋郡に所在する久安寺の伝総門が存在した可能性は高い

応永年間(1394-1427)に大修理された楼門
非売品で、流通していない書籍『久安寺ものがたり』には、久安寺に伝わる逸話がまとめられています。同書は、ご住職であった故国司禎相さんが、後世への引き継ぎとして、既知の限りを尽くしてまとめられています。
 そこには、非常に重要な事柄が収められており、郷土研究を進める上でも、外す事のできない伝書です。今では知り得ない久安寺の過去の繁栄と、その痕跡について、貴重な手がかりでもあります。
 この著書の中で気になっている要素の一つとして、「久安寺に総門があり、それが現在の楼門から南へ2キロメートル程のところにあったと伝わる。」との記述です。
※久安寺ものがたりP93+P54

-(資料1)------------------
◎外院は楼門より五十丁(約2キロメートル:誤記か。)南に総門が建てられ、様々な施設と共に僧院があったという。この様なスタイルがこの時代の仏教寺院の典型であった。
◎この門(楼門)より北には、内院として四十九院と堂塔。南側の外院は東山町神殿(ここには一本松があったという)に総門が、また香華田(寺の運営に充てがう田)や寺院僧堂もあったと聞き及ぶ。吉田橋の東(イゴキ)に、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院。東山に松雲寺、木部に蓮台寺(現ショウノミ堂)、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。
-------------------

◎伝総門の場所を特定できる有力な手がかり
上記の注釈で、「一本松があったと伝わる」との記述...。互いに意識していたとは思いませんが、それを結びつける記録があります。
※新修 池田市史 第5巻P627+P635(池田の民話一覧 28番)

-(資料2)------------------
【池田の民話一覧 28番】
琴の松(神殿の松)/ 東山町 / 東山町と中川原町の間の池田亀岡線(中川原北縁)
※地元では「こどのまつ」と読んでいたため「琴の松」「神殿の松(神をこうと読む)」の文字表記が存在すると思われます。
-------------------

そこには伝承として、「神殿(こど)の松」との記録が確認できます。これは伝承と伝承の一致であり、確かな証拠として、一段階昇格する要素になるように思います。
 これにより、久安寺の総門は確かに存在した可能性が高まりました。東山村の南縁、中河原村の北縁にそれはあったのです。

また、この辺りは墓石が寄せ集められて「地蔵さん」として祀られている場所が複数あり、他の地域と比べても多く感じられます。何度かこの辺りを歩いていて、「地蔵さん」がとても多いのはどうしてだろう?と感じていました。

ここで久安寺について、ザッと概要を見ておきたいと思います。
※大阪府の地名1(平凡社)P319

-(資料3)------------------
高野山真言宗。大沢山安養院と号し、本尊は千手観音。当寺の伽藍開基記(「摂陽群談」所載)によると、神亀2年(725)行基が、光明を放ち沢から出現した、閻浮壇金でできた一寸八分の千手観音を本尊とし、一小宇を建立したのに始まるといい、聖武天皇の勅によって堂・塔が整えられ、さらに阿弥陀仏を安置する安養寺、地蔵菩薩を安置する菩薩(提)寺、山中には慈恩寺が建立されたという。
 天長5年(828)空海が留錫し、真言密教の道場とし、治安3年(1023)には、定朝が1尺8寸の千手観音像を刻し、沢より出現した千手観音像を胎内に納め、本尊とした。保延6年(1140)金堂以下諸堂を焼失したが、久安元年(1145)近衛天皇の勅命で、賢実が復興。年号より現寺号に改め、同天皇より宸筆勅額と庄田70余町をもらった。以後勅願寺に列し、支院49院を擁する大寺として隆盛したという。
 文和2年(1353)2月10日の足利尊氏御教書(寺蔵)によると、尊氏は久安寺衆徒に池田庄の一部を寄進している。なお、中興とされる賢実は、近衛天皇出生時の安産祈願導師を勤めたといわれ、無事出生したことから当寺の建つ地を「不死王」とよぶようになり、のち伏尾の字をあてるようになったと伝える。
 文禄年中(1592-96)の戦禍で、寺域・諸堂宇の規模も縮小したと伝えるが、「摂陽群談」には御影堂・護摩堂・安養寺・菩提寺・慈恩寺・楼門の六宇が記され、「摂津名所図会」の挿画には、楼門より境内の内に多くの坊が描かれている。しかし、安養寺は退転したらしく、代わって阿弥陀堂が新たにみえている。安養寺退転後、本尊を安置する阿弥陀堂が建立されたものと思われる
 境内は名勝で、多くの遊客が集まった。「摂津名所図会」は「春は一山の桜花発いて、遠近の騒客ここに来る。又秋の末も、紅葉の錦繍風に飛んで、秋の浪を揚ぐる。あるは安谷の蛍、小鶴の庭の雪の曙、何れも風光の美足らずといふ事なし」と記す。小鶴の庭は坊中にあり、名木奇岩多く、豊臣秀吉が賞したと伝え、安谷の蛍見について同書は「此地蛍多し、夏の夕暮、星の如く散乱して水面を照らす。近隣ここに来つて興を催す」と記す。
 慈恩寺では毎年1月15日、弁財天社では1月7日に富法会があり、牛王の神札を配った。幕末の大嵐で、一山の多くは崩壊し、明治初頭には坊中の小坂院のみが残った。小坂院は同8年(1875)久安寺と改名、寺跡を継いだ。
 楼門(国指定重要文化財)は、室町初期の建立で間口三間・奥行二間、昭和33年(1958)解体修理と学術調査が行われた。おもな寺宝に安養寺旧本尊と推定される藤原時代木造阿弥陀如来像(国指定重要文化財)、同時代の薬師如来像、久安寺真名縁起、同仮名縁起、久安寺文書一巻がある。墓地に歌人平間長雅の墓がある。彼は天和(1681-84)頃津田道意の招きで当山に在住している。
-------------------

◎伝総門付近にあった村々
それから、久安寺総門があったと考えられる場所にある村について見てみましょう。先ずは、東山村についてです。
※大阪府の地名1(平凡社)P318

-(資料4)------------------
伝行基創建の曹洞宗東禅寺
中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。
-------------------

続いて、中河原村についてです。
※大阪府の地名1(平凡社)P318

-(資料5)------------------
臨済宗天龍寺派松雲寺
木部村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、その左岸を余野道(摂丹街道)が通る。村域東部は五月山の北側にあたる山地で、耕地や集落は西部に展開。嘉禄2年(1226)11月15日の土師某田地売券(勝尾寺文書)に「在摂津国豊島北条仲川原村十九条二里十六坪内西依也」とみえ、この「仲川原村」を当地にあてる説もあるが、五月山より南の地で当地ではないとの見解が強い(池田市史)。康正2年(1456)造内裏段銭並国役引付によると、代官と思われる安東平左衛門が、中川原段銭として1貫文を進納、また「後法興院雑事要録」の文明11年(1479)条によると、当地に摂関家が得分権を有しており、代官池田若狭守が200疋を進納している。
 元和初年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後、幕府領として続くが、文政10年(1827)より三卿の一橋領となり(川西市史)幕末に至る。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では182石余であるが、享保20年(1735)摂河泉石高調では219石余。植木栽培が盛んであった。臨済宗天龍寺派松雲寺・真宗大谷派千行寺がある。
-------------------

◎久安寺は一時的に没落している
一方で、久安寺の寺院そのものについて、再び見てみます。『久安寺ものがたり』の記述に気になる要素があります。
※久安寺ものがたりP110

-(資料6)------------------
永禄年間(1558-70)、兵乱により寺領は没収され、天正年間(1573-92)の兵火では楼門と三重塔を残し、伽藍僧堂灰燼に帰したと伝わっています。
-------------------

応永年間の楼門修復以前に製作された仁王像
このあたりの出来事について、今現在も発掘調査は行われておらず、また、史料調査もされていない事から、科学的な知見は得られていません。
 上記寺伝に「永禄年間、兵乱により寺領は没収され、...。」とある部分、事実だとすれば、どの勢力によるものなのか気になります。この地域の有力武家である池田氏は、永禄年間にほぼ最盛期を迎えます。典型的な中世型武家である池田氏が、朝廷や室町幕府(足利氏)とも縁のある久安寺を潰すような行動はしないように思います。

◎久安寺と摂津池田氏の関係
この要素を以て全てではありませんが、池田氏と久安寺の関係を知る一例を挙げてみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P610

-(資料7)------------------
【赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)】
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
-------------------

上記について、その奥書部分です。
※池田郷土史研究8-P22

-(資料8)------------------
【大般若経修補本奥書】(川西市満願寺蔵)
天文十六年丁未、池田信正以此経、奉納于摂津豊嶋郡久安寺、永禄八年池田御寅丸、同太松丸、同妙安禅尼等加修補、慶長十三年池田筑(備)後守光重、子息多聞丸重重修補(下略)同経本五二二巻奥書に、多聞丸寅年施主息災延命御祈祷、慶長十三年五月吉日
-------------------

このような記述を見れば、永禄年間頃も池田氏と久安寺は共存関係を保っていたと考えられ、その寺領を没収するような強権は発動し得ず、それを越える権力もありません。寺領没収があるとすれば、これよりも後の時代(近世)になると考えられます。それについては後述します。

吉田町から出土した約2万枚の古銭(宋銭)
◎久安寺の没落時期の特定

一般的な感覚では、中世の終わりの最動乱期、荒木村重と織田信長の時代以降であるように思われます。
 吉田村の地面下から多量の古銭が見つかるなどしており、このあたりにまで兵火や混乱が迫った事が、公的にも想定されています。ひとつの判断基準なるものと思われます。この頃だとすれば、久安寺は荒木方に付いたのかもしれません。
 その復興として、豊臣秀吉が天正年間の終わり頃、あるいは文禄年間に久安寺にて「月見の宴」を催したのかもしれません。これは今のところ想像の域ではありますが...。
※久安寺ものがたりP110

-(資料9)------------------
天正の末、豊臣秀吉は久安寺に詣で、三光大膳神に祈願し珍寿山に月見の宴をはり、庭を借景よろしく庭造りの範だ、と誉めた(『摂津名所図絵』)と伝わっています。秀吉を迎えた小坂院(久安寺の塔頭)には桃山風の木戸を残し、楼門前の丹波屋(亀山街道沿いの岩崎家)には、秀吉一行の行列順を記した文書が残っています。文禄元年(1592)3月、秀吉は久安寺の塔を京の伏見城へ運び出したといわれています。(『穴織宮拾要記』)
-------------------

この頃から秀吉の寺社政策は、保護下での統制を行っており、政権は寺社後援策をとっているようです。
 そして一方で、秀吉は朝鮮出兵を計画し、3月1日に出陣日を定めて、行動が始まります。秀吉自身も肥前国名護屋へ向けて出陣しています。こういった大きな動きも参考にしつつ、史料の発掘をする事も課題です。


さて、久安寺の寺院規模感で参考になる資料がありますので、それも見ておきます。久安寺に伝わる古い巻物に描かれた境内図があります。
※久安寺ものがたり巻頭資料

時期は不明ながら久安寺最盛期と思われる境内図

これは、いつ頃のものか不明ですが、江戸時代の繁栄の様子と考えられます。再び『久安寺ものがたり』を引用します。
※久安寺ものがたりP54

昭和後半まであった一本松
-(資料10)------------------
この門(楼門)より北には、内院として四十九院と堂塔。南側の外院は東山町。神殿(ここには一本松があったという)に総門が、また香華田(寺の運営に充てがう田)や寺院僧堂もあったと聞き及ぶ。吉田橋の東(イゴキ)に、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院。東山に紫雲寺、木部に蓮台寺、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。
-------------------

◎久安寺境内の外にも関連集落が広がっていた

久安寺には往時、内院と外院があり、病院施設もある「寺尾千軒」なる大集落や附属の町が、外院としてあったと伝わります。
 著者の国司さんは資料(1)により「東山に紫雲寺、木部に蓮台寺、古江に等覚寺等、行基開創伝説にも見える寺を中心とする奈良、平安時代の風景が想像される。」としていますが、それらは行基開創の諸寺が連なる何かがあったのかもしれません。
 余談ながら、久安寺川(現余野川)から北側の集落は、久安寺と直接的に山の尾根が連続しており、時代が下るにつれて(特に室町時代以降)、こちら側の地域へ影響力を増したのではないかと考えられます。また、その川の名の通り、久安寺が治水や用水の開発・管理を行っていたとも考えられます。
 そしてまた、南北朝時代、南朝方の中心人物であった、北畠親房や足利尊氏と久安寺は縁があります。
※久安寺ものがたりP51

-(資料11)------------------
久安寺本尊、千手観音の両脇侍、不動明王と毘沙門天の二木造は、親房の寄進だと伝えられている。この仁王像も親房や尊氏の何らかの護持力があったのではと考えられる。尊氏の花押のある「池田荘寄進状」が保存され、池田伊居太神社社殿の修築などからも、室町時代の何者かが力を注いだのだろう。その大きな力が二王尊像を荘厳している。
-------------------

◎久安寺に城(八幡)があったと伝わる
一方で、久安寺の山内に城があったとも伝わります。
※摂陽群談(大日本地誌大系:大正5年刊行)P174、P137

-(資料12)------------------
【八幡古城】
豊嶋郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城。後に播磨守在城と云へり。氏年暦所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是れ則ち城郭の用水也と云へり。
【水槽清水(みずふねしみず)】
同郡伏尾村久安寺内、城山の原にあり。是れ則ち古城の用水也と云へり。数月雨なうして水不乾。亦淫雨洪水すると云へども、濁らざるの名水也。
-------------------

池田市古江南公園が八幡宮跡地

「八幡城」とは、足利尊氏が、源氏の氏神である八幡宮を篤く崇敬し、軍事・政治の拠り所ともしていた事と無関係ではないかもしれません。
 それからまた、古江丘陵の西端にある古江村には「八幡宮」があり、その東隣の片岡にある「如来寺」の山号が「八幡山」です。如来寺は、元は道場であり、江戸時代の宝暦年間に寺号を許されたのですが、「八幡」との山号は何らかの縁りがあるものと思われます。

このように、余野川(旧久安寺)以北に「八幡」を冠する呼称が少なからずあるというのは、偶然ではないように思われ、久安寺内院の東側からの地形が、古江丘陵にも連続している関係上、また防衛上も、西側への関係性を伸ばしていたものと思われます。そして、古江丘陵には、能勢街道・妙見(長尾)道・多田道を通しており、交通の要衝でもありました。
 摂津池田氏が勢力を拡大する永禄年間頃は、どちらかというと久安寺川から北に久安寺勢力が浸透し、同川の南側は東山村・中河原村・木部村が独立的で、池田氏の勢力が及んでいたような構成であったと思われます。この南側、五月山の北縁は、池田氏の本拠である池田城の裏庭でもありますので、直接的な影響力を及ぼす必要があったと考えられます。
 『摂陽群談』には、(前略)久安元年、近衛帝御宇再建、久安寺と改め賜勅額、賢実上人を中興開祖とす。此の時四十九院にして、七十余町の香花田あり。文禄年中没収せり。(後略)とあります。
 また、文禄年間に豊臣秀吉は、久安寺の塔を京の伏見城へ運び出したとも伝わっています。(『穴織宮拾要記』)「文禄年中没収せり」との整合性も感じる伝聞です。
 久安寺は非常に大きな勢力であり、新たな時代の統治には、その権力が邪魔になったのだろうと思われます。このあたりの地域は、日本国内でも有数の鉱山地帯でもあり、この近くには多田銅銀山があり、銅を大量に産出した能勢・箕面地域もあります。

◎能勢街道は摂津池田氏の地域政権にとっての基幹道であった
摂津国豊嶋郡を中心とした地域政権である池田氏にとって、その本拠地の地勢特性上、経済・軍事上、最も重視したのは能勢街道でした。
 発掘調査によると、池田城変遷過程の最終段階で、能勢街道を城内に取り込む構成になっており、同街道を重視していた事が解ります。したがって、少なくとも政策として、領内にある同街道は管理・監視する必要があったと思われますので、古江丘陵のあたりがそう言う意味で、最北端の重要拠点になっていたと考えられます。 

細河地域を通る重要街道
◎伝久安寺総門は伝承どおり存在した可能性は高い
今のところ、推測ではありますが、伝久安寺総門の存在有無について、まとめておきたいと思います。

 当初、私は総門の場所を、余野街道に沿いにある東山村の地蔵堂がその跡かと考えていました。この場所にも象徴的な大きな木があり、地蔵さんが点在します。
 しかし、この度はこれまでの資料の見直しで、有力な総門跡地が浮上しました。

総門推定場所の地図を元に、少々考察を加えたいと思います。その有無から言うと、存在した可能性が非常に高いと思われます。
 そして、その場所ですが、余野街道沿いという直接的に久安寺へ向かう途上にありつつ、ここから久安寺川(現余野川)を渡って西と北への接続道があり、能勢街道・妙見道・多田道の交差点でもあります。中でも注目しているのは、中河原村から分岐した道(途中に今も中川原橋がある)を真西に進むと、能勢街道に接続しますが、その途上に古江村の「八幡社」があります。結界や道標のような役割があったと思いますし、久安寺に纏わる象徴的な意味合いもあったのではないかと思われます。

このように巨大な宗教勢力であり、都市であった久安寺ですので、楼門や総門を備えた威厳を示す時代もあったと考えて良いように思います。
 場所の特定には、更なる資料集めや聞き取りなどして精度を上げる必要もあります。継続して、追求してみたいと思います。

臨済宗永源寺派 永源寺総門(滋賀県東近江市)


摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)へ戻る> 

 

2025年5月31日土曜日

摂津池田城の防御体制は、細河郷にも及んでいて現在認識されているよりも非常に広範囲である可能性が高い

細川六郎(昭元)と摂津池田氏についての関係性「元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状」をまとめていた途中で、脱線してしまい、池田の城郭の分野へ入り込んでしまいました。
 言い訳をさせていただきますと、山の中の城跡は、冬期のみの限定された調査になってしまう事から、そちらへ注力してしまいました。細川六郎と摂津池田氏の関係性について楽しみにされていた方には、大変申し訳けなく思います。必ず、事態(私の頭の中)の収拾をつけてまとめますので、少々お待ち下さい。

さて、今回の記事は、その摂津池田城についてです。五月山(大阪府池田市)北側を特に見たのですが、詳しい方に案内をしていただきますと、やはり、公的にもこれまで未知であった砦や城と思われる痕跡が無数にある事が判りました。今回知り得たそれらは、精査も必要ですが、村(集落)との関係や街道監視(管理)と密接に関係していると思われ、特に摂津池田城の背後にある五月山の裏庭(北側)には豊嶋郡・河辺郡の境目があり、その河辺郡の有力者である塩川氏と池田氏は戦国時代末期には、長期間に渡って敵対関係にありました。

そういった状況にもあり、五月山北側の細河庄(郷)は、摂津池田氏にとって、管理下に収める必要が是非ともあったと考えています。
 そのような想定で、2025年1月から赤色立体地図を元に、頻繁にそれと思しき場所を確認に訪れました。その想定としては、(1)豊嶋・河辺郡境、(2)街道の要所、(3)集落の近く、などには、必ず何らかの施設があるのではないかと考えました。

結果としては、想定通りにそれらしき痕跡がありました。自然に形成されたのではない人工普請跡が見られました。以下、簡単に上述の要素を(1)〜(3)の例にまとめてご紹介します。

(1)豊嶋・河辺郡境
郡境の豊嶋郡側に「陽松庵」があり、その北側の独立した山の頂きに城跡が確認できました。城跡から西側には妙見街道が走り、その城跡は、これを監視するために機能していたものと思われます。
 その直下に陽松庵がありますが、同庵の創建は1351年(観応2)京都天龍寺(臨済宗)を開いた夢窓疎石によると伝わり、その後の経過は不明ながら、1713年(正徳3)に天佳禅師を迎えて再興されています。
 今のところ、それらの伝承を補う資料は無いのですが、戦国時代の視点で見ると、その立地的には非常に重要でしたので、吉田村に関連する何らかの施設があったと考えられます。この東側には谷を挟んで突出した山が、かつては存在(開発により掃滅)し、そこが「オダノカイチ」と呼ばれる城跡とも伝わっています。吉田村自体が、小規模な拠点城であった可能性があると伝承や遺物、立地から考えられます。

陽松庵から続く山の頂上に城跡を確認

陽松庵の山の上にある城跡の位置関係

陽松庵上の山にある城跡から西側の妙見道を望む

(2)街道の要所
想定を戦国時代末期の池田氏支配下に当てています。その頃、摂津国豊嶋郡にあった久安寺は、大寺院に成長していたようで、その威光も相当な影響力であった事が想像されます。
 その久安寺には、内院として49院と堂塔があり、外院は東山町(大阪府池田市)に及び、神殿(田?)には総門が、また香華田や寺院僧堂も存在したと伝わっています。更に、吉田橋(池田市吉田町)の東(イゴキ)に、寺戸千軒や流行病患者のための病院、東山村に紫雲寺、木部村に蓮台寺、古江村に等覚寺などがあったとされています。それらの伝承は今のところ、少々時代の盛衰の時差はあるものの、細河庄が一時代の先進的地域であった事を物語っています。
 そんな久安寺には、戦国時代に於いても主要道の一つであった摂丹街道が通り、その途中にいくつもの里(山)道を交える重要な交通路でした。その通路を監視・管理する為とも思われる砦跡があり、尾根道を切断する巨大な堀切が今も残っています。
 この付近にそのような堀切がいくつかあり、軍事的な意味合いも持ちつつ、関所のような施設があったのではないかとも考えたりしています。

久安寺から余野川を挟んだ山にある摂丹街道を監視したと思われる施設の堀切

摂丹街道を監視したと思われる施設の位置関係 

堀切の現状(2025年3月撮影)

(3)集落の近く
豊嶋・河辺郡の境目である古江村(現池田市古江町)は、主要道である能勢街道を通し、その東側至近に片岡村があって、そこを妙見街道が通ります。その妙見道に豊嶋・河辺郡を結ぶ脇街道が複数交差しており、この付近は、交通の要衝となっていました。
 伝等覚寺と思しき寺跡のような痕跡がありました。片岡村の伝承として、戦国時代まで、村の上に「古御坊」と呼ばれる寺があり、それが戦乱で焼けてしまったので、その下の里に僧侶が降りてきて住み着いたので、その僧侶の名から「片岡」という集落名になったと伝わっています。
 しかし、この場所はそういった古刹があった事から、人や物が集まり、街道も次第に形成されたのではないかと考えられます。
 古江村側には、その西側至近の場所に猪名川が流れ、また、東西に伸びる長細い丘陵の突端が古江村付近で落ち込んだ間を能勢街道が通っています。その街道の対岸の山をも見通す場所に古江古墳がありますが、ここも戦国時代には砦として使われていたと考えられます。戦国時代、基本的に古墳は、軍事的な利用がされていたと考えられます。
 さて、そんな古江村から里道で谷筋を上る場所に、広い削平地と人工的な堀のような普請跡がありました。ここは有事の場合に、村人の避難場所であり、守りのための砦ではなかったかと考えられます。削平地は非常に広く、村人の他にも収容が可能な程、広い場所です。

そしてまた、その対岸、細河庄の中央部を余野川が流れ、古江村などからそれを超えた先に五月山があります。五月山を中心に見た場合、その北側、池田城からは北側背後にあたる重要な場所に中河原村があります。
 その中河原村の背後の山の中に平坦地を設けてあり、そこに村人の避難地があったのではないかと思われる場所があります。ここは、古代寺院があったと考えられる場所で、その跡地を使って、何らかの施設を整えていた可能性があり、人工的に造成された広い地形が残っています。近年それらは、植木畑にもなっていますので、その区別をつけることも課題です。

古代寺院跡地と推定される場所の平坦地の人工的普請跡

中河原社の位置関係

中河原社とその周辺に拡がる広大な削平地(2025年4月撮影)

人工的な普請が認められる跡地の位置

伝等覚寺と思われる場所などの位置関係

伝等覚寺跡(伝古御坊?)と思われる現状(2025年5月撮影)

一方で、摂津池田氏の本拠である、池田城は五月山南側にあり、なだらかに標高を下げつつ丘陵地を経て平らな地形となっていきます。
 池田城は、この地形を巧みに利用し、川や丘、谷を使って防御構想を組んでいたと考えられます。それに沿って城跡があり、また、史料上からもその範囲が想定されます。また、この川の外側にも縁故地や城館跡などを設けており、橋頭堡のようないくつも設定して、強固な防御態勢を敷いていたと思われます。

摂津池田城の南側の川を利用した防衛ライン構想の想定


追伸:今回、の調査では、 I さん、N さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。

 

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)へ戻る

摂津池田城の広大な防御構想について考えるまとめページへ戻る
 

  

2025年5月5日月曜日

摂津国豊嶋(現大阪府池田市)・河辺郡(兵庫県川西市)境に存在した可能性のある砦跡を発見か!?

兵庫県川西市1丁目16から大阪府池田市古江町1にかけて見られる人工物の一部で、これは堀跡と思われます。高さは4〜5メートルほどあります。堀らしき写真は、赤色立体地図の赤色丸印内、矢印の方向から撮影しています。

この辺り、戦国時代には特に重要な要所でした。地形的には、ほぼ東西に伸びる標高100メートル程の丘陵(板かまぼこ状)の西端にあたり、その丘陵に河辺郡と豊嶋郡の境目があります。
 その丘陵最西端には、眼下に能勢街道と篠山街道が走り、それらの間を猪名川という大きな川(人馬などでの渡河は不可能)が流れています。また、今回の堀(砦)跡と思われるところから、東側至近に妙見街道を通しています。

戦国時代、豊嶋郡は池田氏が、河辺郡は塩川氏がおり、両者は戦国時代末期、敵対関係にありました。その事から、有事には街道を封鎖し、郡境を超える軍勢に備える必要がありました。また、ここには「古江」という集落があり、その集落を守る必要もあります。

そういった事から、非常に念入りな防御施設を拵える必要があったものと思われ、既述の赤色丸印、すぐ東(右)側には、丘陵南突端に広い平坦地があり、ここに兵を駐屯させられるような場を設けていた可能性もあります。要するに砦のようなモノがあったと想定されます。
 更に、今は宅地開発されてしまっている場所(池田市古江町1)は、尾根続きで西端まで伸びており、その最西端には、公的に把握された古江古墳があります。この古墳も、眼下を見下ろす監視所のような役割に使われており、一体化した概念が感じられます。

公的には把握されていない遺跡ですが、状況から考えて、ここには重要な軍事施設があっても良い環境です。今後も調べを深めていきたいと思います。

本日ご同行いただきました、郷土研究家の I(アイ)様、池田市史学会のM様のご案内とお話しは、大変意義深く、勉強になりました。ありがとうございました。

航空・衛星写真から見た現在の地表面の様子

1909年(明治42)当時の該当地域の地図

堀跡と思われる状況1   

堀跡と思われる状況2

大阪府池田市の文化財「古江古墳」から西を望む


摂津池田城の広大な防御構想について考えるまとめページへ戻る