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2025年5月31日土曜日

摂津池田城の防御体制は、細河郷にも及んでいて現在認識されているよりも非常に広範囲である可能性が高い

細川六郎(昭元)と摂津池田氏についての関係性「元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状」をまとめていた途中で、脱線してしまい、池田の城郭の分野へ入り込んでしまいました。
 言い訳をさせていただきますと、山の中の城跡は、冬期のみの限定された調査になってしまう事から、そちらへ注力してしまいました。細川六郎と摂津池田氏の関係性について楽しみにされていた方には、大変申し訳けなく思います。必ず、事態(私の頭の中)の収拾をつけてまとめますので、少々お待ち下さい。

さて、今回の記事は、その摂津池田城についてです。五月山(大阪府池田市)北側を特に見たのですが、詳しい方に案内をしていただきますと、やはり、公的にもこれまで未知であった砦や城と思われる痕跡が無数にある事が判りました。今回知り得たそれらは、精査も必要ですが、村(集落)との関係や街道監視(管理)と密接に関係していると思われ、特に摂津池田城の背後にある五月山の裏庭(北側)には豊嶋郡・河辺郡の境目があり、その河辺郡の有力者である塩川氏と池田氏は戦国時代末期には、長期間に渡って敵対関係にありました。

そういった状況にもあり、五月山北側の細河庄(郷)は、摂津池田氏にとって、管理下に収める必要が是非ともあったと考えています。
 そのような想定で、2025年1月から赤色立体地図を元に、頻繁にそれと思しき場所を確認に訪れました。その想定としては、(1)豊嶋・河辺郡境、(2)街道の要所、(3)集落の近く、などには、必ず何らかの施設があるのではないかと考えました。

結果としては、想定通りにそれらしき痕跡がありました。自然に形成されたのではない人工普請跡が見られました。以下、簡単に上述の要素を(1)〜(3)の例にまとめてご紹介します。

(1)豊嶋・河辺郡境
郡境の豊嶋郡側に「陽松庵」があり、その北側の独立した山の頂きに城跡が確認できました。城跡から西側には妙見街道が走り、その城跡は、これを監視するために機能していたものと思われます。
 その直下に陽松庵がありますが、同庵の創建は1351年(観応2)京都天龍寺(臨済宗)を開いた夢窓疎石によると伝わり、その後の経過は不明ながら、1713年(正徳3)に天佳禅師を迎えて再興されています。
 今のところ、それらの伝承を補う資料は無いのですが、戦国時代の視点で見ると、その立地的には非常に重要でしたので、吉田村に関連する何らかの施設があったと考えられます。この東側には谷を挟んで突出した山が、かつては存在(開発により掃滅)し、そこが「オダノカイチ」と呼ばれる城跡とも伝わっています。吉田村自体が、小規模な拠点城であった可能性があると伝承や遺物、立地から考えられます。

陽松庵から続く山の頂上に城跡を確認

陽松庵の山の上にある城跡の位置関係

陽松庵上の山にある城跡から西側の妙見道を望む

(2)街道の要所
想定を戦国時代末期の池田氏支配下に当てています。その頃、摂津国豊嶋郡にあった久安寺は、大寺院に成長していたようで、その威光も相当な影響力であった事が想像されます。
 その久安寺には、内院として49院と堂塔があり、外院は東山町(大阪府池田市)に及び、神殿(田?)には総門が、また香華田や寺院僧堂も存在したと伝わっています。更に、吉田橋(池田市吉田町)の東(イゴキ)に、寺戸千軒や流行病患者のための病院、東山村に紫雲寺、木部村に蓮台寺、古江村に等覚寺などがあったとされています。それらの伝承は今のところ、少々時代の盛衰の時差はあるものの、細河庄が一時代の先進的地域であった事を物語っています。
 そんな久安寺には、戦国時代に於いても主要道の一つであった摂丹街道が通り、その途中にいくつもの里(山)道を交える重要な交通路でした。その通路を監視・管理する為とも思われる砦跡があり、尾根道を切断する巨大な堀切が今も残っています。
 この付近にそのような堀切がいくつかあり、軍事的な意味合いも持ちつつ、関所のような施設があったのではないかとも考えたりしています。

久安寺から余野川を挟んだ山にある摂丹街道を監視したと思われる施設の堀切

摂丹街道を監視したと思われる施設の位置関係 

堀切の現状(2025年3月撮影)

(3)集落の近く
豊嶋・河辺郡の境目である古江村(現池田市古江町)は、主要道である能勢街道を通し、その東側至近に片岡村があって、そこを妙見街道が通ります。その妙見道に豊嶋・河辺郡を結ぶ脇街道が複数交差しており、この付近は、交通の要衝となっていました。
 伝等覚寺と思しき寺跡のような痕跡がありました。片岡村の伝承として、戦国時代まで、村の上に「古御坊」と呼ばれる寺があり、それが戦乱で焼けてしまったので、その下の里に僧侶が降りてきて住み着いたので、その僧侶の名から「片岡」という集落名になったと伝わっています。
 しかし、この場所はそういった古刹があった事から、人や物が集まり、街道も次第に形成されたのではないかと考えられます。
 古江村側には、その西側至近の場所に猪名川が流れ、また、東西に伸びる長細い丘陵の突端が古江村付近で落ち込んだ間を能勢街道が通っています。その街道の対岸の山をも見通す場所に古江古墳がありますが、ここも戦国時代には砦として使われていたと考えられます。戦国時代、基本的に古墳は、軍事的な利用がされていたと考えられます。
 さて、そんな古江村から里道で谷筋を上る場所に、広い削平地と人工的な堀のような普請跡がありました。ここは有事の場合に、村人の避難場所であり、守りのための砦ではなかったかと考えられます。削平地は非常に広く、村人の他にも収容が可能な程、広い場所です。

そしてまた、その対岸、細河庄の中央部を余野川が流れ、古江村などからそれを超えた先に五月山があります。五月山を中心に見た場合、その北側、池田城からは北側背後にあたる重要な場所に中河原村があります。
 その中河原村の背後の山の中に平坦地を設けてあり、そこに村人の避難地があったのではないかと思われる場所があります。ここは、古代寺院があったと考えられる場所で、その跡地を使って、何らかの施設を整えていた可能性があり、人工的に造成された広い地形が残っています。近年それらは、植木畑にもなっていますので、その区別をつけることも課題です。

古代寺院跡地と推定される場所の平坦地の人工的普請跡

中河原社の位置関係

中河原社とその周辺に拡がる広大な削平地(2025年4月撮影)

人工的な普請が認められる跡地の位置

伝等覚寺と思われる場所などの位置関係

伝等覚寺跡(伝古御坊?)と思われる現状(2025年5月撮影)

一方で、摂津池田氏の本拠である、池田城は五月山南側にあり、なだらかに標高を下げつつ丘陵地を経て平らな地形となっていきます。
 池田城は、この地形を巧みに利用し、川や丘、谷を使って防御構想を組んでいたと考えられます。それに沿って城跡があり、また、史料上からもその範囲が想定されます。また、この川の外側にも縁故地や城館跡などを設けており、橋頭堡のようないくつも設定して、強固な防御態勢を敷いていたと思われます。

摂津池田城の南側の川を利用した防衛ライン構想の想定


追伸:今回、の調査では、 I さん、N さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。

 

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2025年5月5日月曜日

摂津国豊嶋(現大阪府池田市)・河辺郡(兵庫県川西市)境に存在した可能性のある砦跡を発見か!?

兵庫県川西市1丁目16から大阪府池田市古江町1にかけて見られる人工物の一部で、これは堀跡と思われます。高さは4〜5メートルほどあります。堀らしき写真は、赤色立体地図の赤色丸印内、矢印の方向から撮影しています。

この辺り、戦国時代には特に重要な要所でした。地形的には、ほぼ東西に伸びる標高100メートル程の丘陵(板かまぼこ状)の西端にあたり、その丘陵に河辺郡と豊嶋郡の境目があります。
 その丘陵最西端には、眼下に能勢街道と篠山街道が走り、それらの間を猪名川という大きな川(人馬などでの渡河は不可能)が流れています。また、今回の堀(砦)跡と思われるところから、東側至近に妙見街道を通しています。

戦国時代、豊嶋郡は池田氏が、河辺郡は塩川氏がおり、両者は戦国時代末期、敵対関係にありました。その事から、有事には街道を封鎖し、郡境を超える軍勢に備える必要がありました。また、ここには「古江」という集落があり、その集落を守る必要もあります。

そういった事から、非常に念入りな防御施設を拵える必要があったものと思われ、既述の赤色丸印、すぐ東(右)側には、丘陵南突端に広い平坦地があり、ここに兵を駐屯させられるような場を設けていた可能性もあります。要するに砦のようなモノがあったと想定されます。
 更に、今は宅地開発されてしまっている場所(池田市古江町1)は、尾根続きで西端まで伸びており、その最西端には、公的に把握された古江古墳があります。この古墳も、眼下を見下ろす監視所のような役割に使われており、一体化した概念が感じられます。

公的には把握されていない遺跡ですが、状況から考えて、ここには重要な軍事施設があっても良い環境です。今後も調べを深めていきたいと思います。

本日ご同行いただきました、郷土研究家の I(アイ)様、池田市史学会のM様のご案内とお話しは、大変意義深く、勉強になりました。ありがとうございました。

航空・衛星写真から見た現在の地表面の様子

1909年(明治42)当時の該当地域の地図

堀跡と思われる状況1   

堀跡と思われる状況2

大阪府池田市の文化財「古江古墳」から西を望む


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