2020年10月24日土曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十八回「新しき幕府」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、第二十八回「新しき幕府」2020.10.18放送分です。

◎概要
今回は、京都を手中に収めていた三好勢が推す将軍義栄方を退け、永禄11年(1568)秋に、足利義昭・織田信長が入京。義昭が将軍となります。このあたりから、越前朝倉義景を攻めることに決するあたりまでを描いていました。時間的には1568年後半から1570年あたりまでで、あまり時間は進めていません。
 この間は、摂津池田勝正は大活躍で、将軍義栄も将軍義昭も支えることができる、双方から頼られる勢力でした。何と大河ドラマ企画始まって以来59年にして、初めて池田勝正の名前が取り上げられました。

さて、この回の表題のように、将軍義輝系政権の正常化を目指し、ないないづくしの幕府復興のために邁進します。しかし、急造でもあったために、早くも思惑の違いも表層化しつつ、進める事になります。
 永年、実質的な中央政権機能を備えていた三好勢の影響力は、直ぐには排除できず、また、還瀬戸内海の繫がり(政治・経済的な)も未だに握られており、侮りがたい状況でした。摂津池田氏は、織田信長方との戦闘には負けたものの、将軍義昭・織田信長政権に重用されます。実際の史実は、敵からも味方からも頼られる、非常に大きな池田氏の存在でした。

◎足利義昭将軍就任
織田信長が足利義昭に供奉(ぐぶ)し、入京を果たします。ドラマでは、兜を脱いでの入京になっていますが、この部分は創作です。まあ、ドラマですので、流れを受け入れましょう。
 ドラマでは、この入洛戦の様子が地図を使って表現されていたのですが、摂津芥川あたりで終わったことになっていました。もう少し、西に進んで池田合戦を取り上げて欲しかったのですが、なぜかそこはカット。

さて、ドラマ中で、将軍職就任式のシーンがありましたが、これは10月22日に禁裏(御所)でその宣下が行われました。この時に、京都市中は厳戒態勢が敷かれており、池田勝正は「辻固め」役を担っています。
 その2日後、池田勝正は将軍となった義昭を訪ね、祝言を述べます。この折に、摂津守護職を任されたようです。通常これは一名に任されるものですが、同じ摂津国人の伊丹忠親、甲賀出身の武士で足利義昭の重臣であった和田惟政も同じく摂津守護を任されたことから、この三名をもって、いわゆる摂津三守護と通称されています。


◎六条本圀寺合戦
ドラマだけではわかりづらいのですが、三好勢は一時的に京都から退きはしましたが、各地にその勢いを残しており、泉州地域あたりで反撃拠点を持っていました。堺あたりでは、早くも軍事行動を整えていました。
 これらの動きは、随時に情報が伝わっており、突然ではありませんでした。知ってはいましたが、京都周辺の勢力は、新旧どちらの勢力に対して積極的になるべきか、躊躇いがあり行動できず、様子を見ていたというのが現実であり、その間隙を縫った三好方の行動でした。これは再び将軍を殺害するか、拉致する目的をもっていたと考えられています。
 堺を出た5,000程の三好勢は、生駒山の山裾などを通り、今の枚方市から淀のあたりを経由して、京都東福寺に陣取ります。そこで将軍山城を先ず落とし、京都市中にあった六条本圀寺に攻め込みます。この動きに合わせて、河内飯盛城、高槻城などでは、クーデターが起きています。

池田勝正もこれらの動きは掴んでおり、将軍救援の軍を集めて池田を発ちます。しかし、高槻城の入江氏が西国街道を塞いだために、大きく迂回して山中を行軍し、今の長岡京市へ出ます。池田・伊丹勢が西側から。三好義継(幕府方で松永久秀が擁立)が南から三好勢を攻める体制となり、合戦となります。細川藤孝はこの時はあまり軍事力を持たず、陣取りをしてもそれ程の脅威と言える数ではありませんでした。西側に居たのでしょう。
 しかし、この戦闘は激戦となり、細川藤孝・池田勝正は行方不明、三好義継は討死と京都へ伝わる程でした。
 結果的に、幕府方が勝利します。織田信長が1月10日に京都へ入りますが、この時には落ち着きを取り戻してもおり、その布陣が堅固であることから池田衆を褒めています。


◎二条城の建設
京都は永年の闘争で荒廃しており、将軍義輝の暗殺の折、その将軍御所などが焼亡していました。そのために、防衛施設がなく、寺社や民家などの民間施設しかありませんでした。そのため、比較的防御に適した施設として、六条本圀寺が将軍の居所に充てられていました。
 三好三人衆は、これがわかっていて、守りが手薄であるところを狙っていたことは確実です。なぜなら、将軍義栄が京都に入らなかった、入れなかったのは、同じ理由によるものだったからです。
 しかし、この両者の違いは、将軍の元々の役割りにこだわり、無理をしてでも京都に将軍が留まるべき事を実行しようとしたからです。それが、新たな幕府を喧伝し、信用力が増すからです。
 将軍の居所として、二条城の建設が必要と決し、1月27日から工事を着工します。元の武衛跡、即ち将軍義輝が起居した将軍邸の跡です。この工事には、摂津池田衆も動員されていたようです。守護は、こういった幕府の命令に従う義務があるからです。また、税の徴収、軍事動員にも義務が課せられています。ですので、社会的地位は上昇しましたが、経済的にも、使役義務的にも非常に過酷な環境下に身を置くことになりました。

それから、墓や石仏のことですが、これは無縁仏や放置、管理者のわからないものを利用していたようです。多分、それらは供養をし、魂を抜いたものを使い、無秩序に勝手に使ったものではないでしょう。この時代、戦場には僧と神主を連れて行き、神仏の力を借りる行いをしていました。
 現代のように重機も加工機械も、内燃機関による輸送も出来ない時代に、石材を確保することは非常に困難です。ですから、短期工事には、こういったことを発想したのでしょう。ただ、忌み嫌う習慣から、行動に移すことは少なかったようで、そういう意味では現代感覚に近いところがあったのでしょう。しかし、礼儀や作法を無視していた訳ではなく、ドラマ中にあったように、あえて、仏像を蹴ったり叩いたりするようなことはしなかった思います。
 実際に信長は、この幕府を運営するにあたり、世間の聞こえを非常に気にしていたようですから、あまり奇抜すぎることはできなかったのが実際の所で、その行動ひとつひとつに非常な気遣いがあったことは、事実です。ただ、必要なことは思い切ってやり、徹底していたことも事実です。その基になるのは、結果を出し、道をつけることでした。そういう意味では、混迷の世を牽引するに相応しい視点も持っていたと言えると思います。


◎幕府再興の動き
通常の将軍ご沙汰始めは、2月17日で、この前に色々な準備を行ってもいました。しかし、三好三人衆の反転攻勢があったことから、急遽、これに関わった反将軍義昭勢力を討伐することになり、尼崎や堺、兵庫、石清水八幡宮などを攻めました。その間に、京都の二条城建設は進められています。
 また、内政の対応も進めていました。徳政令を発布し、借金を棒引きする準備をしています。これは、三好三人衆方との経済的繫がりを断つために行うもので、受ける側は非常に恩恵がありますが、貸した側は大きな損害が出ますので、その摂政も行っていました。
 その他、公家旧領地の調査(押領されている土地の返還を目的とした)、税金徴収のための体制整備を行っています。

それに加えて、この間に、但馬・播磨国(第一次)攻め、第二次播磨国攻めを行って、大規模な出兵を行っています。
 池田勝正は、それらの殆どに加わります。また、堺周辺の権益の幕府への返還もあり、池田衆にとって、将軍義昭政権への加担は、過酷なものとなっていました。

 

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