2020年9月29日火曜日

織田信長が使った「天下布武」のハンコから始まった近世と中世の終わり。その意味、意識、社会、城について。

最近、役所のハンコの廃止について、連日ニュースになっていますが、このハンコについて、織田信長は特別な意味を込めてあらゆる文書に使いました。
 しかし、それは大きな意味がありました。ハンコとは何か。署名からハンコに変わった意味。一つの時代が終わり、始まりました。また、社会の仕組み、城の仕組みまで変えてしまった、意識の変化がそこにありました。

その意味でも、織田信長は非常に独創的で、時代を的確に主導するに相応しい能力を備えていたといえるのではないかと感じています。

そんなハンコについて、テレビや雑誌などでお馴染みの千田嘉博先生が、大変分かりやすく、的確な研究結果を披露されていますので、抜粋してご紹介します。
 今起きている社会的な動きが、思慮の浅いものではなく、ハンコの持つ意味そのものをしっかりと考え、ある方向に導くためにも一つの教養になろうかと思います。

シンポジウム 織田信長と謎の清水山城[記録集] 2002年3月発行 / サンライズ出版
◎基調講演:戦国時代の城 / 千田嘉博

---(文書形式と城の構造)-------------------------
さて、重大な意味といいましたが、それを読み解いていくために古文書を見てみたいと思います。城のあり方が大きく変化した天文(てんぶん)期を境に各地の戦国大名が出した文書の形式も大きく変わっていきました。戦国大名が出した文書を見ると、文書の最後に大名の名前があって、その下に花押、つまりサインをするタイプ(「判物:はんもつ」)と、文書の最後に名前を書いて、信長の「天下布武」のような印を押すタイプ(「印判状:いんばんじょう」)がありました。印を押したものは印だけで名前を記さなかったものもあります。
 例えば、私が教育委員会に呼ばれて講演に出かける場合、一応勤め人ですから私の博物館長に、教育長さんから「千田さんを派遣して下さい」という書類を出していただきます。その書類があってはじめて「行ってよろしい」ということになるのですが、殆どの場合、私はもちろん、館長も、依頼して下さった教育長さんとは個人的な面識がありません。
 それではなぜ博物館で「行ってよろしい」ということになるのかといいますと、教育委員会から送られてきた書類に教育長の印、赤いハンコが押されているからです。個人的な人間関係が全く無くても、そのハンコが押してあることで、公式の書類として通用するのです。

私たちが役所に行って証明書をもらう時も、特に市長さんや町長さんとお茶を飲んだことは無く、全く親しくなくても、市長印や町長印が押してあれば通用します。どんな人なのか知らないのに、その人の証明や判断に従う、というのはよく考えると奇妙なことです。しかし、それは私たちが個人的な関係の上で役所との関係をもっているのではなくて、組織的・官僚的な政治機構があって、市長さんや町長さんの権威を認めているから通用するのです。
 さらに凄いことに、どこの役所(あるいは会社)でも同じだと思いますが、ハンコというのは市長さんや町長さんが「よしわかった」といって全ての市長印・町長印を押しているのではありません。実際には誰か他の人がハンコを押すのです。サインは必ず本人でなくてはいけませんが、印は本人でなくても大丈夫なのです。政治機構ができあがっていれば、誰かがハンコを押せば教育長さん本人が押してなくてもちゃんと通用してしまうわけです。
 こうした花押(サイン)がある文書と印の押してある文書との違いは、現代社会だけではなく戦国時代の文書にも共通しました。
 先にもいいましたように花押というのは本人のサインですから、本人以外は書けないわけです。花押がある文書でないと信じられない、従えない、という社会は、政治機構ではなく、文書を出した人と受け取った人との個人的な親密感や信頼関係を基盤にしたことが明らかです。印を押した文書が通用する社会は人間関係ではなく官僚的な政治機構が基盤になっていたといえます。
 足利将軍邸など武士の館で会所という特異な建物が出現し個人と個人の人間関係をうまく構築する努力を重ねていたことは、将軍や大名達の遊びや文芸活動という文化史的な意味だけで捉えたのでは正しく評価したことになりません。これまで注目されてきませんでしたが、会所が室町時代に成立し、江戸時代の初頭には消滅したことの意味は、政治機構の変化との関係で解釈するべきです。ここでの議論に即して言えば、印を押した印判状を出すようになった大名は、会所で家臣達と横並びの人間関係を深めている場合ではなかったのです。
 判物から印判状へという文書形式の変化は先に上げましたように天文期を境に進んでいきました。早い遅いはありましたが、列島の各地で判物が少なくなり、印判状が増えていきました。そしてそれと連動して拠点城郭のかたちは並立型から求心型へと変化したのです。大名と家臣が個人と個人の信頼関係を基盤にして結ばれている時は、大名だけがみんなから超越した曲輪に住むというのは都合がよくありません。
 ところが印判状が出せる官僚的機構が確立してくると、大名を頂点とした政治機構が整って、より明確な序列ができあがります。また山城の階層的な空間にそれぞれの屋敷地を配置していくことは、そうした大名を中心とした序列をつくり出すのに絶好の装置でもありました。つまり天文期を境にした大きな変化は求心的な城への転換、大名と家臣との関係を基盤にした連携から政治機構を基盤にした権力へ、という様々な動きが一体となって実現したものだったことがわかるのです。
 そして、こうした変化は山城を中心に展開していきました。なぜ各地の大名が山城を拠点にしていったのかという大問題は、戦術や乱世の激化というだけではなく、中世から近世への社会構造や政治機構の大きな変革に裏打ちされていたのです。
-------------------------

千田先生の素晴らしいご研究だと思います。


織田信長禁制
天下布武印の入った織田信長朱印状(禁制)

池田筑後守勝正花押
池田筑後守勝正花押

荒木村重花押
荒木村重花押

インデックスページへ戻る



大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十五回「羽運ぶ蟻(あり)」

予告しました、大河ドラマの脇道を愉しむ企画ですが、タイトルを考えてみました。今後はこのタイトルで、週一回のペースでお届けできればと思います。

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。
 図に乗って、ガイドツアーも企画するかもしれません。途中で企画が「沈voつ!」したり、どうなるか分かりませんが、どうぞお楽しみに〜。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

今回は、第二十五回「羽運ぶ蟻(あり)」2020.9.27放送分です。

◎概要
永禄9年(1566)あたりから同11年頃までの流れを筋書きにしており、話しの中心は将軍就任レースの緊張感を伝える内容になっていました。
 歴史上では、三好長慶が死去し、程なくして三好家中が分裂。三好三人衆 vs 松永久秀の争いになっていますが、そのあたりは、ちょっと違う取り上げられ方になっています。この三好と松永の争いに対して、池田勝正が三好方に付いたことから形成は一変。松永不利となり、松永は義昭を担ぎ、入京の手引きをしていたのが事実です。松永も始めは義栄を担いでいたのですが、ケンカの末に、「俺(松永)はこっち」になったのです。

◎足利義栄の将軍職就任
この足利義栄は、阿波国に居住していた足利氏で、足利家内部の闘争などにより、都落ちする(他にも理由が色々ある)などして日本各地に足利家が存続していました。その地域で闘争があった時、これらの足利氏は担がれて、戦争を有利に進めるために利用されるなどの動きがありました。
 それの三好氏版です。この義栄が将軍職に就くにあたって、池田衆は大きな貢献をしており、池田衆無しでは不可能だったと思われます。池田家は、三好氏の本流筋から嫁をもらい、三好一族扱いを受けていた特別な存在でした。また、その池田家は摂津国内では非常に裕福で、地域政治にも長けていました。当然、戦国の世ですから、軍事力も持ち4,000〜5,000程の動員は可能であったと考えています。
 将軍は本来、皇室を守るためにあるのですから、京都に入り、そこで宣下を受けるべきなのですが、戦乱で適当な場所が無いため、守りの固い摂津冨田の普門寺で将軍職就任を認める宣下を義栄は受けました。

◎明智光秀の身分
織田信長が美濃を平定し、その祝いになどに光秀が訪ねた折、家臣になる事を誘われるシーンがありました。
 細かな事は明らかになっていませんが、これは史実の通りに描かれており、光秀は織田信長が京都へ入った頃は幕臣の立場でした。ですので、直接の主人は将軍です。奉公衆(ほうこうしゅう)など将軍の近臣として活動していました。多分、実際は領知も無かったようですから動員兵力もほとんど無く、官僚的な仕事が主だったと思われます。
 将軍義昭が京都に入った頃は、ゼロからのスタートで、何の基盤もなく、24時間体制の仕事だったと思われます。権威の整理、お金の管理と創出、徴税、軍事の手配などなど、将軍義輝政権(表現は不正確)の立て直しに忙殺されていました。

◎松永久秀の立場
三好三人衆に対して、ほぼ敗北状態だったところに、織田信長の将軍義昭を奉じての上洛で、九死に一生を得た松永久秀でした。実際にはかつての栄光に陰りがあり、信長からは一目置かれつつも、厚遇はされていませんでした。天正5年(1577)に死亡するまでに久秀は、3回(最後は自刃)も信長に反逆し、その度に詫びを入れて降伏しています。
 今の流れで行くと、最後との矛盾が出ると思うのですが、このあたりはどのように描くのでしょうか。既に矛盾はあるのですが...。

◎近衛前久という人物
この人物は五摂家筆頭という名門貴族近衛家の当主でした。この時、関白という地位にあり、皇室の政治(天皇の補佐)の担当者でもありました。また、この近衛家は、藤原鎌足を祖とする一族の筆頭でもあり、同族の日野家とも親密でした。日野家からは親鸞を輩出しています。いわば日本の頂点に位置する家柄であり、当時の政治では、巨大な存在でした。そしてまた、摂津池田家も藤原一族ですので、この近衛家を支える一族でもあったのです。
 ですので、足利義栄を将軍とするため、三好一族から一目を置かれていた面もあります。対して池田家は、その流れの中で様々な権益を獲得し、拡げることもしていたようです。
 近衛前久は明かな三好派で、後に劣勢となって織田信長方の軍勢が京都へ入った時には、殺害を恐れて京都から落ちのびています。大坂の本願寺へ身を寄せていました。

◎幕府奉公衆三淵氏、細川氏、一色氏
三淵藤英、細川藤孝は兄弟です。一色藤長は、丹後国の守護大名一色氏の系譜で名門の出です。またこれらの人々は足利氏の支族でもありました。こういった名族が幕府を支えるため、本拠地から出向するようなカタチで仕えたり、没落してしまい、最後の血を将軍に託すといった、様々な謂われの人々が幕府の中枢に入っていました。
 池田家は京都にも屋敷を持ち、御家人格(ごけにんかく:江戸時代の旗本に相当)でしたので、幕府にも知られた存在でした。そのため、こういった人物と深く交わっていました。時には、幕府からの命令や依頼を受けるなどしていた筈です。

 

摂津富田「普門寺」
摂津富田「普門寺」
国の重要文化財「方丈」

◎次回のこと
次回はいよいよ、将軍義昭の上洛ですね。池田衆は三好方として奮戦します。名前くらいは出てくるかも!