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2016年1月23日土曜日

1570年(元亀元)の幕府による阿波三好氏討伐計画(はじめに)

元亀元年(1570)の幕府による越前守護朝倉義景攻めは有名ですが、実は阿波国三好氏攻めをも計画しており、検討の結果、朝倉攻めになった事は、あまり知られていないような気がします。

永禄12年(1569)時点で幕府は、阿波か越前のどちらを攻めるか、決めかねていたようです。しかし、結果的に越前朝倉討伐となりましたが、これは、この年に織田信長との同盟勢力であった近江国人浅井氏が、「離反する」との噂が出た事。加えて、永禄11年8月に朝倉氏が、隣国の若狭守護家の武田家内紛に介入して、若狭への影響力を強めいていた事もあって、後者に決まったようです。
 当時の政治的・軍事的深刻度合いから、越前攻めを優先させたようで、阿波攻めも同時並行で準備はされていました。

その幕府方の動きについて、関連する要素をご紹介していきたいと思います。

(1)将軍義昭政権始動時の幕府の状況
(2)幕府が当面行うべき事
(3)当初から阿波か越前を討伐する計画があった
(4)越前朝倉氏攻めに決まった理由
(5)西国の情報を集めていた堺商人今井宗久
(6)阿波国攻めの準備の状況
(7)永禄12年(1569)の播磨国攻めは、阿波国攻めの準備