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2024年6月6日木曜日

摂津国人惣領格の池田長正が、芥川孫十郎と共に活動していたかもしれない史料を発見!

今のところ不確定要素があるので、断言はできないのですが、可能性としては大いにある史料を見つけました。

私に、何かとご教示下さる「利右衞門」さんからのご連絡で、これまで見えなかった池田家の足跡の一部が見えました。これには不思議な事が起きて、一気に進みました。
 私もこれは読まなければいけないと、リストアップしていた『北野社家日記』『北野神社文書』ですが、1年程、グズグズした保留状態でした。そんなある日、ここに摂津池田氏の記述がありますよ、と、利右衞門さんから報せていただいたのです。これは「はよ、読め!」と天の声のように感じ、急いで史料を購入して読みました。
 いっぱい、ありました。鼻血が出そうでした。京都の北野社家と摂津池田家の四人衆筆頭池田紀伊守正秀は、非常に深く交わっていました。
 しかも、比較的史料の少なかった弘治2〜3年にかけての出来事・足取りが、濃密に記録されています。驚きました。

調べ事をしていると、本当に説明のつかない不思議なご縁とか、出来事があります。本当に導かれているような、不思議な事があります。それも、一度や二度ではありません。このような、機会に出くわす度に、私がやらねばならぬ、と励みにもなります。

さて、本題です。今回は、池田勝正の先代、長正について、重要な史料に出合いました。今のところ不確定要素があるものの、非常に想定の確定度合の高い史料であろうと、感じています。この史料背景と状況がある程度特定できれば、近畿地域の地域権力の変遷が部分証明できるようにも思え、気になっている間にできるだけ考えを深めておこうとしております。

その史料なのですが、以下に示します。禁制です。永禄4年7月24日付けで、右近大夫・右兵衛尉が連署し、北野境内へ宛てた禁制です。
※北野神社文書(史料纂集 古文書編)P104(史料番号:161号)

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一、軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、放火並びに竹木伐採事、一、矢銭・兵糧米・一切の非分課役相懸け事。右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩に於いて者、厳科に処されるべく者也。仍って下知件の如し。
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私の見立てでは、この「右兵衛尉」とは、池田長正です。長正は後に、摂津池田家の惣領を示す「筑後守」を名乗っており、最終的に摂津池田家の代表となっている事は、史料上からも顕かです。
 一方の「右近大夫」とは、芥川で、それまで「孫十郎」を名乗っていた人物とみています。この人物は、三好長慶の一族に列しながら、背反常無く、どうも家中の立ち位置が安定せず、外来の権力に頼らざるを得ない内情であったと思われます。これは、馬部氏の研究を参考にしていますが、私の研究ノートでも、そのような動きは見られ、今のところ納得して、馬部説を個人的には支持しています。

元に戻って、池田長正も芥川孫十郎と同じ境遇であり、『細川両家記』などの軍記物や他の史料でもこの両名は、並んで名前がよく出てきます。家中での権力を得るため、外来の権力を後ろ盾にしており、どうも細川晴元の権力を充てにしていたようです。

そういった中で発行された、「北野神社文書の161号文書」だと想定しています。

しかし、現段階で人物特定するには不確定要素もあります。この文書は、控え文書で、本文のみで、署名した花押が省略されています。そのため、私の想定している人物ではなく、別人の可能性もあります。

今のところ、上記禁制の補完史料としては、堺妙国寺日珖の日記『已行記』に芥河氏の存在確認ができる記述があります。
※已行記(堺市博物館報 第26号)P62-5

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永禄4年条、(前略)同9日(12月)、有馬中務某、芥河兄弟、河南兄弟、豊嶋父子、堀江猪介、鏡新尉受法、。
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堺にて三好豊前守入道実休が、堺妙国寺日珖に帰依したことから、これに続いてその組内衆が集団で帰依しているようで、その記録の中に「芥河兄弟」がみえます。この時点で、堺に居たことは確実で、また、顔ぶれからすると、所属としては三好実休の影響下での行動だったと思われます。これは、摂津国にルーツを持ちながらも、阿波国での基盤が成り立ちの柱であったことをうかがわせます。
 基本的に、三好方の行動は、組内の行動だったようですが、状況に応じて応援などに派遣されていたようです。『細川両家記』の記述などでは、和泉・河内国方面の担当であった、三好実休の組に三好下野守政生もみられるなどありますので、そのあたりのところは流動的な状況もあったと考えられます。

一方で永禄4年の動きを見ていますと、この年は新たな動乱の始まりでもあり、京都市中に多数の禁制が立ち、各組織とのやり取りも盛んに行われているようです。

その中で、上記禁制を掲げた2日後の26日付け、細川右京大夫入道(永川)晴元養護派近江守護六角衆左近大夫(隠岐賢広)右兵衛尉(平井定武)が連署で、京都清水寺に宛てて禁制を下しています。
※清水寺史3(史料篇)P124

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一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、寺内放火・竹木伐り採り事、一、矢銭・兵糧米・一切の非分課役相懸け事。右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩速やかに厳科に処されるべく者也。仍って下知件の如し。
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この隠岐氏と平井氏については、『清水寺史』による注記です。

続いて、同年8月16日付け、山城国大山崎に宛てた禁制で、同じく六角方の宮木賢祐・蒲生定秀が連署して禁制を下しています。この内、宮木氏は「右近大夫」を名乗っています。
※島本町史(史料編)P433、蒲生氏郷(戦国を駆け抜けた武将)P81

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一、軍勢甲乙人濫妨狼藉、一、山林竹木伐り採り付、放火事、一、非分の矢銭・兵糧米相懸け事、一、国質・所質付沙汰の事、一、荏胡麻油商売他職之事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違乱の輩厳科に処されるべく者也。仍て下知件の如し。
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このように同じ時系列で、同様の官途を名乗った人物は確かに存在しており、『北野神社文書(史料纂集 古文書編)』の104ページ(史料番号:161号)で官途を名乗った人物は、六角方の人物である可能性もあります。例えば、宮木右近大夫賢祐平井右兵衛尉定武が連署で、北野境内へ宛てた禁制を発行した可能性もあります

ちなみに、先にご紹介した「利右衞門」さんのご教示によると、幕府関係者としての「永禄六年諸役人附」には、「右近大夫」「右兵衞尉」は見当たらないとのこと。

署名が特定できれば一番良いのですが、肝心の161号文書にそれは無く、特定の手がかりに少々悩んでいる途上です。

少し視点を変えてみます。永禄4年という年は、京都中央政治の画期であり、三好長慶が将軍義輝から桐紋使用を許されて御相伴衆となって、幕府の代理的な行動も出来る環境ともなっています。
 更に、永年の抗争に終止符が打たれ、細川晴元は摂津富田の普門寺へ入って、長慶の軍門に降り、晴元の旧臣も吸収されるカタチとなっていたようです。長慶は、統治領も拡がっていたことから、人材が必要となって、多少の問題児も吸収して活用していたように考えています。

そういった状況での出来事であり、可能性としては十分にあり得る状況だと考えています。もしこれが事実と判明すれば、長正の事も私にとっては、大きな史実としての証拠ですが、芥川右近大夫は、永禄4年に中央政権に関わる活動をして、京都の中央政治に復帰していたことになります。

池田長正の足跡がハッキリすれば、丹波荒木氏が池田家に関わるタイミングも明確になります。よって、荒木村重のルーツも明確化されますので、この長正の足取りを掴むことは、大きな意義があることです。
 

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