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2026年9月25日金曜日

吉原忠雄先生による「久安寺阿弥陀如来坐像と市立歴史民俗資料館「摂州細川荘大絵図」について」という考察

『池田郷土研究』第26号に、吉原忠雄先生による「久安寺阿弥陀如来坐像と市立歴史民俗資料館「摂州細川荘大絵図」について」という、同大絵図についての最新の考察が収録されています。その詳しくは、池田郷土史学会から発行されている同書をご覧下さい。

◎摂州細川荘大絵図についての重要な示唆
この寄稿は、仏像研究の観点から絵図を読み解く試みもされており、非常に興味深い内容です。絵図について触れられている部分を抜粋して以下にご紹介してみます。
※池田郷土研究(第26号)「久安寺阿弥陀如来坐像と市立歴史民俗資料館「摂州細川荘大絵図」について」より

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池田市吉田の様子(2025年1月撮影)
細川荘大絵図との関係条:
(前略)ところで、本図は天文年間(1532〜1555)の作と推測され、細川郷の植木業に携わる人々が、その生業の正統性を主張するために拵えた絵図ではないか(注4)とされている。また、安養院を画面中心に描いていることから、絵図を描いた要因が安養院にあるとも見られている(注5)。
 本図が植木業に携わる人々による作成とすれば、大変興味深い。また、安養院が画面の中心に描かれている点については、この絵図は安養院を中心にした長久3年(1042)の絵図をベースにして、天文年間に拵えたと考えられないだろうか。つまり、実際は天文年間に作成した絵図だが、長久3年に細川荘の所有者である近衛院の下司が作成した絵図に、少なくとも約40年前の細川政国(1428〜1495)が署名した絵図であると主張したのであろう。細川政国は約40年前であれば、細川荘の領主として住民に記憶されていたであろう。なお、細川荘の立荘は藤原忠実(1078〜1162)によるのであり、長久頃には成立していないのは明白だが、天文頃の時点では細川荘の成立期を厳密に検証出来なかったのだろう。
 そして安養院には本尊も安置されていたはずである。安養院は阿弥陀の極楽浄土のことで、11世紀をあまり下らないと推定したこの阿弥陀坐像がその本尊であろう。像の制作期の下限を長久3年11月15日とできるが、当初の絵図の作成にごく近い頃ではないだろうか。市指定文化財の増長天立像もその頃であろう。
 ところで、真言宗と浄土教が結びつくのは、高野山の覚鑁(かくばん)上人の働きによるもので、1130年代のことである。11世紀の段階での浄土教は天台浄土教である。したがって、この阿弥陀像は天台浄土教の阿弥陀像であり、久安寺の安養院時代は、天台宗であったと思われる。(後略)
※文中の(注4・5)は原典をご覧下さい。
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とあり、大変興味深く、示唆に富んだ考察がなされています。この「細川荘大絵図」が、天文年間の制作で、その制作者が細川郷の植木業に携わる人々であり、その生業の正統性を主張する目的で拵えたものである可能性を指摘する説を紹介して、更に考察を加えられています。

久安寺山門(2021年3月撮影)
◎摂州細川荘大絵図の基は長久3年に制作された可能性が高い

吉原氏は、「この絵図は安養院を中心にした長久3年(1042)の絵図をベースにして、天文年間に拵えたと考えられないだろうか。(中略)なお、細川荘の立荘は藤原忠実(1078〜1162)によるのであり、長久頃には成立していないのは明白だが、天文頃の時点では細川荘の成立期を厳密に検証出来なかったのだろう。」と一歩踏み込んだ推定もされています。基になる大絵図は、長久3年にあった(実態として存在した)のだろうともお考えのようです。
 なお、元々の絵図は安養院が中心に描かれており、その目的は安養院にあるとも考えられているようです。
 不明な点が多い大絵図ですが、仏像研究の観点から絵図成立の可能性についての考察は、非常に有力な分野(方向性)ではないかと思われます。大絵図の全容解明に向けて、また一歩前進したようです。
 
◎摂州細川荘大絵図はその時代には意義のある絵図
摂州細川荘大絵図について、当初は事実に基づかない「虚構絵図」とまで言われていたのですが、その時代には実在意義のある絵図である事が判明しつつあります。ということは、そこに描かれている「玉性院」などの立派な寺社群は、実在した可能性も高まった訳です。
 近年の研究により、細川郷の植木産業にも関連付けられる現実味も帯びてきました。天文年間は、摂津池田家も更なる成長期であり、摂津国内でも特に勢いのある時期でしたし、その領内(と思われる)にこのような産業を持つ事は、単なる産業を超えた社会的地位を示すものであった事でしょう。
 もちろん、今後の研究が進めば、それよりも植木産業定着時期が遡る可能性も十分にあり得ます。絵図の作成意図が「正統性の主張」であれば、産業定着時期は必然的に天文年間よりも遡る可能性は高いですね。

◎池田市細川地域の可能性が更に高まるか
現在の池田市細川地域は、市域の歴史上も、いや京都・奈良といった当時の中央政治上においても重要なはずですが、細川地域の殆どは調べが進んでいません。そんな中でも、少しずつ同地域の歴史調査が及ぶようになってきているようにも感じます。多くの方々にこういった文化財への関心を持っていただき、地域の宝物を大切に活かした活動の「核」になっていければと願っています。

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長久3年(1042)摂津国豊嶋郡細河荘大絵図(部分) 池田市立歴史民俗資料館所蔵

2025年2月28日金曜日

摂津の有力国人池田氏が、摂津国豊嶋郡細河庄に合法的な進出が成ったと考えられる史料

 現大阪府池田市の細河地域に古代寺院が存在した事について、摂津の豪族池田氏の史料を見直していましたら、判断の指標になりそうな重要な記述(史料)に気づきました。池田氏が摂津国豊嶋郡細河庄に合法的な進出が成ったと考えられる、史料です。
これは、権大外記で左大臣の鷹司家家来であった中原康富の日記『康富記』で、文安5年(1448)8月3日条にあります。『新修 池田市史』には、この記述について、背景と記述の意味が説明されています。
 それによると、この日、中原康富が鷹司邸に召された折、「摂津細河庄の本家職分を池田筑後守充正(政)と契約した」と聞かされて、康富はこれを頻りに止めたけども、お聞き入れなく、もったいなき次第なり。これは匡具(ただとも)の仕業によるものらしいが、佞臣(ねいしん)というべきなり。、と憤慨している記録のようです。
 また、続けて背景環境の解説では、細河庄の本家職すら得分化して、既に国人池田筑後守充正の代官請けとなっていた。、読み解いています。
さて、この後、池田家中では、一族で細河庄の受け持ちを分割しており、文明14年(1482)11月28日付で、中川原村は池田若狭守正種が受け持って、年貢を近衛家に納めています。(もちろん手数料(25%程)を差し引いています。)

久安寺も近衛家と関係の深い寺院ですので、同じ藤原系統である摂津池田家からも現場で支援を受けて、勢力拡大に一役買っていたのではないかと思います。久安寺の山門は、室町中期頃のものとされていますので、これは、この史料の動きと一致するものと思います。

本来、五月山北辺に栄えた古代寺院が、久安寺の隆盛と入れ替わったか、吸収されたのでしょう。更にこの動きの中で、池田氏は自らの氏寺である大広寺の末寺を入れて、支配強化を行っているように見えます。

ちなみに大広寺は、応永2年(1395)に創建されたとされています。五月山周辺は、見事に大広寺ネットワークが張り巡らされて、摂津池田氏と共存関係を築いていたように思われます。

 

『康富記』文安5年(1448)8月3日条

 
大澤山 久安寺山門(大阪府池田市)

塩増山 大広寺山門(大阪府池田市)


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2025年2月26日水曜日

長久3年(1042)に描かれたとされる、摂津国豊嶋郡細河庄に存在した古代寺院跡(玉性院?)を発見か!?

非常に興味深い遺跡を発見したかもしれません。平安時代頃に存在したとされる、大規模寺院の跡が、今も残っていました。(これから更に調査を続けます。)
 大阪府池田市に伝わる細河庄境界絵図(長久3年:1042)について、これまでは、想像の範囲で、あまり確認もされていなかった(池田市教育委員会自体が、これは想像の社寺であるとの見解を述べています。え?調べた?)のですが、この絵図に描かれている五月山側にあった大寺院の跡が、今も残っている可能性があります。

絵図が描かれた長久3年とは、平安時代で、この当時、今は大寺院と考えられている久安寺の規模が小さく、その前身と思われる「安養院」として描かれています。
 これに対して、五月山側の現池田市木部町から東山町にかけて、大規模寺院の存在が描かれており、絵図中の「玉性院?」は、三重の塔が描かれる隆盛ぶりです。また、同市中川原町と思しき付近に、鳥居と建造物が描かれており、五月山北側山麓に、安養院(久安寺)よりも賑やかな宗教施設の様子が描かれています。

本日令和7年(2025)2月24日、どちらかというと、城跡を確認のために、専門性の高い方と一緒に見て回りました。そうする内、城と言うよりは、寺院ではないか、しかも、非常に規模の大きい寺であることを確認しました。
 その時には城では無く、寺院ではないか?、と感じただけだったのですが、それらをひと通り見終わって、手持ちの資料を確認する内に、この「細河庄境界絵図」の存在を思い出し、現地の感想と結び付きました。
※いわゆる、戦国時代にはこれらも防御施設そして利用されていたものと思われます。
 
この現池田市の細河地域は、研究する人も殆どおらず、資料も残っていません。ただ、非常に古い神社やお寺が多いという、感想の順送りが続いていただけでしたので、この気付きは、更なる思考の前進に繋がれば、非常に意義有ることと感じています。

後世に残すため、この調査を続けていきたいと思います。
 
 
長久3年(1042)摂津国豊嶋郡細河荘大絵図(部分) 池田市立歴史民俗資料館所蔵

池田市木部町と同中河原町との境界の谷にある古代寺院らしき跡


池田市中川原町にある中河原社鳥居


池田市中川原町にある中川原社の古代寺院跡を感じさせる特異な地形(後年は城跡?)