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2020年5月4日月曜日

摂津国池田に田地を寄進した河内国豪族恩智左近とその一族・城などについて考える

最近、池田勝正の生きた時代から少し枠(時代)を拡げて、色々な事物を見ています。その中で、摂津国池田の寿命寺へ田地寄進状を下した、恩智左近や足利尊氏について、ちょっと興味を持っています。その興味の行きつく先は、細河庄の大寺院、久安寺でもあります。

恩智城跡公園
この記事は、本格的に調べる前の、備忘録(メモ)的ですが、状況が整えば、しっかりとした、内容に拡張したいと思います。

さて、先述の恩智左近ですが、厳密に言えば、左近とは何代か続いての名乗りともなりますが、今のところ「左近」と言えば通念では一人です。この人物は、今の大阪府八尾市恩智地域で顕彰されており、その「左近」の伝墓もあります。この人物は、鎌倉時代末期から南北朝時代頃に活動した人物で、地元では諱を「満一」としています。また、左近は楠木正成に属して八臣の一人ともされている名族です。恩智氏は、恩智神社の社家の末裔で、恩智神社参道の長い石段の基を調えたのも左近と伝わっています。
 しかし、摂津池田寿命寺に伝わる寄進状の恩地左近は「政忠」で、日付も建武2年(1335)9月11日付けとなっています。活動年代に矛盾はありません。因みに、翌年7月9日付けで、足利尊氏が同寺に恩賞(感状)状を下しています。恩地左近の史料を以下にあげます。なお、この書状の形式は「直状」で、この人物が更に上位権力の意向伝達を行う形式です。
池田市史(史料編1:原始・古代・中世)P14

(史料1)-----------------------------
前置:寿命寺薬師堂仏 聖米田一所事
本文:合三段 摂津国山本庄十四条三里七坪号細間利。右の件、田三段於者、天下大平奉る為、領家安穏所、庄内豊饒願い成るに就き、寄進令め所也。万(よろず)雑公事停止、向後更に違乱有るべからず之状件の如し。
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さて、現在の八尾市恩智に目を移します。

その恩智左近が築いたとされる恩智城跡があります。今は恩地城跡公園となり、市民の憩いの場になっています。この城は、楠木正行の供をして四條畷合戦で戦死(正平3年(1348)8月)し、その戦死と共に城も落城しと伝わるようです。
 この楠木正成と摂津池田氏とも繫がりがあり、この縁で何らかの作用があったのかもしれませんが、今は調べが進んでおらず、後の項に譲ります。
日本城郭大系「恩智城」より
城の眼下には、南北に走る当時の重要道である東高野街道を通し、東には奈良へ通じる重要な道をいくつも持っていました。現地を見ると、立地は摂津池田城とも似たところがあります。
 また、今はもう変わってしまいましたが、東高野街道を更に20丁(更に500メートル)程西へ進む(坂を下る)と、大和川付け替え前は重要な水運でもあった川幅の広い恩智川が流れて(北流する)いました。
 川と丘陵で狭くなった道や平坦地を睨む好立地に城と集落がありました。後背は、山道で大和国信貴山や竜田方面など、縦横に道を交差させており、交通の要衝との結節点でもありました。

最近、八尾市史が新しくなり、また、国の史跡ともなった大発見「由義寺(弓削寺)跡」の発掘もあり、歴史に対する意識が高まりつつあるようです。故に、資料の発掘も盛んになるでしょう。
恩智神社本殿
これまでは、恩智左近のみの焦点が永年続き、史料の発掘も進みませんでしたが、左近以降の恩智氏の動向についても、少しずつ明らかになっています。
 例えば、河内国守護に仕えて上層内衆として活動していた恩智氏の史料などもあり、それらが解明されています。河内国守護畠山尚順内衆の恩智真成が、河内国南河内郡叡福寺太子僧坊年預中へ宛てて音信(直状)したものがあります。
※畿内戦国期守護と地域社会P30

(史料2)-----------------------------
羽咋庄之内、太子田段銭之事、尋ね申すと雖も、往古御免許之筋目に従り分け仰せられ之間、御判之旨に任せ、免除せしめ候。弥々相違有るべからず候者也。仍って状件の如し。
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こういった研究成果から、名族であった恩智氏は、栄枯はありながらも断絶はせず、地域権力として生き延びていたと思われます。また、先述の地政学的にも重要地域であったため、城や集落としての重要性は低下することは無かったと思われます。

また後日、このあたりのことを調べて記事にしますので、少々お待ち下さい。