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2021年8月12日木曜日

荒木村重の末裔!?が、「ポツンと一軒家」に取り上げられる!

 今度の日曜日(15日)、ポツンと一軒家という番組で、荒木村重の子孫と伝わる旧家が取り上げられるそうです。もし興味のある方は、ご覧下さい。

「ポツンと一軒家」番組の公式サイト
https://www.asahi.co.jp/potsunto/

番組の概要(ちょっと判りづらい)によると、鳥取西 部、島根・広島・岡山の県境にあるお宅が、荒木村重の末裔と伝わる家系だそうです。
 また、もう一軒。岡山県の深い山の中にあるお宅も、戦国武将とのかかわりがあるお宅だそうです。

番組のダイジェストでは、非常に古い薬師如来を大切に護り続けているともあります。

この番組について、私がツン!、あ、ピン!と来たことをご紹介しておこうと思います。必然性があるように思えます。この地域であることと、薬師如来を祀るということが、私には少し、心当たりがあります。

★先ず、地域のこと。実は私の一族の出庄は、今の広島県神石高原町の山奥で、もの凄く山深い所です。冬には雪もかなり積もるようなところで、人里離れた場所です。そこは、島根・鳥取・岡山の境目近くです。
 また、私の一族も武士だったらしく、平家の系譜と伝わっています。家も、後ろに山があり、一段高くなった所に建てられ、出入口は鍵型になっていた(ような)、小さな館城のような感じが今も残っています。

★荒木村重の子孫と伝わる今回の旧家は、そんな環境にも似た、地域であること。そのため、戦国時代など には、落ちてきた武将などを匿うこともあったかもしれません。

★それから、岡山県の総社市というところに荒木氏・池田氏の墓が多くあるようです。実地調査は出来ていないのですが、そのような情報を出されているサイトがあって、気になっていました。この場所は、川と官道(国道)・主要道を多く通す、要衝の地でもありました。

★一方、同じく岡山県倉敷市真備町有井というところに、摂津池田家の上級者一党が、毛利輝元から領知を貰っていた史料もあります。身を寄せていたと思います。
【過去記事】摂津池田家解体後に池田紀伊守家系の人物が、毛利輝元へ客将として迎えられ
ている史料

https://ike-katsu.blogspot.com/2016/05/blog-post_44.html

★更に、池田勝正の子孫と伝わるお宅も、福山市御領にあります。ここは、総社市から東へ40キロメートル程の所です。

★極めつけは、足利義昭が鞆浦に居住していました。近年は、明智光秀の謀反の黒幕は、「義昭」との説が定着しつつあります。有力な証拠が出たためです。

★昔の備後国(現広島県東端)やその周辺は、鉱山が多く、荒木村重一派は、後年、鋳物関連の流通に関わっていたため、鉱山にも繫がりがあった可能性もある。

★そして、「薬師如来」を崇拝すること。荒木村重が、池田家中から頭角を顕し、摂津国の守護職(今の県知事のようなもの)を織田信長から任されます。その時に、手狭になった池田を出て、伊丹に首都を移す時、既存の城を拡張して有岡城を造ります。その城に村重は、守り神として日吉社を勧進していたようです。その当時の史料(天正5年8月の村重の手紙など)に現れます。また、その頃、神社もお寺も共存していましたので、日吉神社と比叡山は一体化しており、その比叡山の本尊は「薬師如来」です。

上記の要素をまとめると、池田・荒木氏の一派は毛利氏を頼り、西へ縁故を辿る動きが多くあり、それらの縁故は、荒木村重の没落を受けて、益々活用されたように思われます。
 総社市から鞆の浦までは、60キロメートル程の範囲に、池田・荒木氏の縁故地が多くあります。それらの環境から、この岡山県の山奥に暮らす、伝村重の末裔一族があっても、不自然では無いように感じます。それに、村重が崇拝していた薬師如来がそこにあること。

番組をご覧になる方は、そのような状況もあることを意識しながら視聴されると、また別の楽しみがあるかもしれません。

 

 

鞆城跡から鞆の浦の港を望む

2019年6月18日火曜日

中之坊文書に署名している播磨国人らしき藤田橘介重綱について

年欠の『中之坊文書』について、これまでにも何度か、本ブログにて紹介しているところですが、この文書は摂津池田家の歴史を見る上で、非常に重要な文書の一つです。しかし、そこに署名している人物の出自が不明なところがあって、まだまだ課題の多い史料でもあります。

そんな中、意図せず、ツイッターでRTされた記事からたどり、そのブログを眺めていますと、中之文書中の署名者の手がかりと思しき記事があり、同文書の時期や状況からして、その手がかりから得た要素を非常に有力視しています。ここで一旦、中之坊文書を以下にあげます。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180など

--(史料)-----------------------------------------------------------
湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
年欠 六月廿四日

小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守■清(誤読:卜清)、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、萱野助大夫宗清、池田勘介正次(誤読:正行)、宇保彦丞兼家

湯山 年寄中参
-------------------------------------------------------------

さて、この文書の残存課題は以下です。

(1)年記がわからない
(2)人物の出自がわからない
(3)本文が短く、文書の意図がわからない
(4)池田衆(連署者)と宛所の関係がわからない

これらの内の(1)については、本ブログでも推定理由を述べて、元亀2年(1571)と、今のところ考えています。また、その時期の特定と同時に(3)+(4)も必然性の推定が出来、交通の要衝で、要地であった有馬の湯山年寄中からの協力同意に、池田衆が返報したものと考えています。
 この時期、三好三人衆勢力が再び五畿内地域で勢力を強め、将軍義昭・織田信長の幕府方本拠である、京都を圧迫する程になっていました。
 また、有馬郡に西接する播磨国(美嚢郡)三木城でも交戦があり、池田から西側の動きに確実な信頼を築いて、池田勢が敵に包囲された局面を打開するための反転攻勢を成功させようとしていた時期の音信と考えています。つまり、元亀2年の白井河原合戦直前の文書です。

◎参考:白井河原合戦についての研究 

『中之坊文書』は、私の研究にとって、そういう重要な文書なのですが、署名している20名の人物の出自が、全て把握できていないという、大変なジレンマがありました。これらの人物が判明すれば、その時の政治・軍事情勢解明の手がかりにもなるはずです。

今回、なんとなく出自の推定が立ったのは、藤田橘介重綱という人物です。志末与志さんのブログ『志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』 - 松山重治―境界の調停と軍事 -
という記事からで、それを読んでいて、「松山重治に従った勇士たち - 藤田忠正 -」の項目が非常に参考になりました。
 それによると、藤田氏は、播磨国美嚢郡の国人で、吉川荘に起源を持つ人物で、毘沙門城(現兵庫県三木市)主を務めた一族であったそうです。また、三好家中の松山重治被官であったようです。
 そういえば、私の研究ノートでの『播磨清水寺文書』では、藤田氏の名が度々見られ、このあたりに縁の国人であることは認知していたはずですが、気付いていませんでした。志末与志さんのおかげで、私の永年の疑問が晴れ、その日から少し、なんだか毎日嬉しいです。

さて、元亀2年という時期に藤田氏が、池田衆と共に名を連ねる理由ですが、池田と湯山とは有馬街道で繋がっており、政治・経済・軍事ともに非常に密接です。有馬道とは、京都 - 池田 - 湯山や、大坂 - 池田 - 湯山という流れがあり、当時の多くの人々が利用する主要道の一つで、往来も盛んでした。
 ちなみに藤田氏の家紋は、その名の通り「下がり藤」です。摂津池田氏と同じ本姓は、藤原氏で同族です。
 そしてまた、必要に迫られ、湯山と池田衆の双方にとって、何らかの約束をする時、地縁者や関係の深い既知の人物がそこに居れば、なお安心します。約束を違う確率が低くなり、実現が固くなるからです。

署名の中で、私の把握している人物を上げてみます。

【池田家臣】
池田清貧、池田(荒木)村重、池田正良、荒木卜清、神田景次、池田正慶、高野一盛(多分家臣)、池田正遠、池田正敦、藤井敦秀、瓦林加介、池田正行、宇保兼家
【不明な人物】
小河家綱、安井正房、行田賢忠、藤田重綱
【その他】 ※家臣では無いが、出自が推定できる人物。
萱野宗清(現箕面市萱野の住人)


萱野氏は、摂津守護であった高槻を本拠とした和田惟政の西進に圧迫され、自らの領知を保持するために、池田氏を頼った勢力であると思われます。
 これに同じような関係で、播磨国に出自を持つ藤田氏も行動していたのかもしれない、と思いつきました。加えて「小河」氏も不明だったのですが、読みは「おうご」で、そうすると播磨国人の「淡河」といった系譜が思い浮かびます。ただ、摂津国守護家一族の伊丹氏の縁者で「小河(おがわ)」という人物も見られますので、そこは何とも言えないところです。
 それにしても先にあげた「小河」氏は、中之坊文書では、一番初めに署名をしていますし、順番はあまり関係が無いとも言われるものの、一番初めや上位であることはやはり、何の意味も無いということは、考えられないのではないかと思います。小河出羽守家綱は、藤田重綱と同じ「綱」の字も持ちます。それも何か気になります。しかし、小河氏は池田家臣でもなく、この人物いについては、中之坊文書でのみ登場して、他では見られません。
 中之坊文書に見える人々は、播磨・有馬郡あたりの人物と池田衆が連絡を取り合い、互いの利益補助のために一時的に結束した足跡ではないかとも考えていますが、今のところは、確実な証拠はありません。

しかし、今回の藤田重綱の出自推定が立ったことで、そういった動きの可能性があったことも、推定ができるようになったかもしれません。続けてまた、調べていきたいと思います。


2016年5月14日土曜日

摂津池田家解体後に池田紀伊守家系の人物が、毛利輝元へ客将として迎えられている史料

元亀4年7月に足利義昭が京都から落ちた事で、幕府機能が停止します。しかし、織田信長方が五畿内地域で優勢ではあったものの、その後も余震が続き、天正3年春頃までは足利義昭方の勢力も抵抗を続けて、侮れませんでした。
 とはいうものの、織田方は重要な戦で確実に勝ち、また、政治的対応も進めて、同年夏頃には一応のメドを立てて、京都とその周辺地域で優位に立ちました。こうなると、足利義昭も抜本的な構想の再編を行う必要に迫られて、毛利輝元との連合を模索します。

そして遂に、互いの利害が一致し、天正4年2月28日に足利義昭は、毛利家に迎えられて、備後国鞆に入ります。これで、西側に権威を持った大きな対抗勢力ができ、織田信長は京都を維持しながらも敵に囲まれる状況に陥りました。
 この足利義昭の移座に、名家や名だたる武士も多く付き従っているようですが、摂津国大名の池田家の一派もこれに供奉していたようです。義昭が鞆に入った直後の天正4年3月29日、毛利輝元が、池田勘助に知行を宛て行っています。
※黄薇古簡集P269

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備中国薗庄内有井本所18貫之地之事、給地為置き遣わし候。知行全うせしめ、いよいよ馳走肝要候。仍って一行件の如し。
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その翌月20日、毛利輝元の一族である小早川隆景が、足利義昭関係者、若しくは、池田から移ってきたと思われる、上野右衛門大夫某(上野肥前守系の毛利被官かもしれない)・渡辺対馬守某へ、池田勘助の事について音信しています。
※黄薇古簡集P268

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池田勘助大取り退きの由、其の心得候。然る間当地行の事、相違無く宛て行うべく候。忠義肝要為すべく候。仰せられるべく通り与え候。随って同意得之者共進退事者、忠義次第に安堵の儀申し付けるべく候。恐々謹言。
------------------

とあります。
 実は、毛利家中の名だたる武将で、池田姓を持つ人物が以外にも存在しません。4月29日の文中で「池田勘助大取り退きの由、其の心得候。然る間当地行の事、相違無く宛て行うべく候。」と言っているのは、他から移ってきた事を指していると考えられます。
 また、この備中国薗庄内有井(現岡山県倉敷市真備町有井)は、同国の最西端、西国街道を通す高梁川の西側で、毛利領国境の地域です。また、ここには、比較的規模が大きいと想定されている馬入堂山城があります。
 そしてそこから少し西には、摂津池田勝正が入ったとの伝承がある備後国上御領村があります。この頃、摂津国大坂の石山本願寺支援の計画が持ち上がり、毛利領内国境を固める必要もあったため、こういった措置を取ったのかもしれません。しかし、国境の不安定な地域です。「随って同意得之者共進退事者、忠義次第に安堵の儀申し付けるべく候。」との文意は、そういった事情を顕しているのかもしれません。

さて、この池田「勘助」なる人物は、池田家中では「紀伊守」の家系で使われる名乗りと思われ、紀伊守といえば、清貧斎正秀が有名です。そして、その嫡子と思われる正行も勘介を名乗り、後に紀伊守を名乗っています。ちなみに、助と介の違いがありますが、同一の人物とみて良いと思います。この時代も割りと、漢字の使い方はアバウトです。但し、現在のところ、慎重に見る可能性も残されてはいる段階ですが...。

ここで、紀伊守(清貧斎一狐)正秀の登場する史料をご紹介します。元亀4年4月27日付けで、織田信長奉行人林佐渡守通勝・同佐久間右衛門尉信盛・同柴田修理亮勝家・美濃国三人衆(安東守就・氏家朴全・稲葉一鉄)・同滝川左近尉一益が、幕府奉行人一色式部少輔藤長・同上野中務大輔秀政・同一色駿河守昭秀・同曽我兵庫頭祐乗・同松田豊前守頼隆・同飯尾右馬助貞連・同池田清貧斎一狐(正秀)へ宛てた起請文です。
※織田信長文書の研究-上-P629

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霊社起請文前書事、公儀信長御間事、御和平之上、信長一切表裏致すべからず候。並びに信長以前之条数、何れも堅く御請け之条、各慥かに受け取り申し候間、違逆有るべからず、若し此の旨違背せしめ者、起請文御罰深厚に罷り蒙るべき者也。仍って前書件の如し。
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その翌日、今度は幕府側から織田方奉行人へ宛てて起請文を発行します。28日付け、幕府奉行人池田清貧斎一狐(正秀)・同飯尾右馬助貞連・同松田豊前守頼隆・同曽我兵庫頭祐乗・同飯川肥後守信堅・同一色駿河守昭秀・同上野中務大輔秀政・一色式部少輔藤長が、織田方奉行人塙九郎左衛門尉直政・同滝川左近尉一益・同佐久間右衛門尉信盛へ宛てて起請文を発行しています。
※織田信長文書の研究-上-P630

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霊社起請文前書事、今度信長御和平之上者、一切御違変有るべからず候間、各請け取り申し候。猶以て今自り以後、信長に対し逆心之儀を存ずべからず候。但し以前之条数、然るに自り御相違者、右之趣き御分別預かるべく候。若し此の旨違背於て者、起請文御罰深厚に罷り蒙るべき者也。仍って前書件の如し。
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この2つの史料から判るように、池田正秀は、将軍義昭の側近として取り立てられています。また、この時正秀は、清貧斎一狐として、入道となっていたようですので、当主の紀伊守は別にいたのではないかと思います。それは多分、正行です。
 次に、年記未詳ですが、池田家中の人々が連署して、摂津国有馬郡湯山年寄中へ宛てた、6月24日付けの音信を示します。これは、いわゆる池田二十一人衆の連署状として知られている史料です。今のところ個人的にはこれを元亀2年(1571)と推定しています。署名者は、小河出羽守家綱(不明な人物)、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、菅野助大夫宗清、池田勘介正行、宇保彦丞兼家です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503

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湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
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この文書に「池田勘介正行」がおり、その父と思われる、「池田清貧斎一狐」も署名しています。そしてその後、勘介正行は、紀伊守を名乗ります。その史料をご紹介します。年記未詳12月13日付けで、池田正行が、奈良春日社領南郷目代今西橘五郎へ音信したものです。正行の花押の形状が一致しているので、同一人物と思われます。
※春日大社南郷目代今西家文書P456

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尚々吹田寺内衆へも此の由堅く仰せ付け候て出ずべく候。少し取り乱し候之間、閣筆候。重々後日に対し私曲之儀之在り候ハバ、貴所疎意為べく候。(悉く事無き之様御調え専一候。)南郷五ヶ村扱い之儀、相調え候由然るべく存じ候。其れに就き寺内村之儀も軈而作環住申すべく候歟。五ヶ村別儀無き様如く御調え所仰せ候。然るに自り後日ニ申事之在る於者、其の曲在る間敷く候。御案内為此の如く候。恐々謹言。
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ちょっと高圧的な感じの内容です。この史料は個人的に元亀2年ではないかと考えています。この頃に正行は、紀伊守を名乗って、正秀の跡を継いでいるものと考えられます。

そして、この元亀2年の後に再び池田家は内訌を起こして分裂し、荒木村重が台頭します。その頃の史料が、先に紹介した元亀4年のものです。
 ご存知の通り、この争いは村重が競り勝ちます。その後、劣勢となった池田家は、主に五畿内地域で活動していたようですが、天正3年頃には史料を追えなくなりますので、多分、バラバラになったか、吸収されたのだと思います。滅ぼされたかもしれません。

そんな流れの中で、天正4年3月の池田勘助の史料は、摂津池田家の武士の動向を探る貴重な史料ではないかと考えています。ただ、この勘助の諱がわからず、他の勘介・紀伊守とどういう繋がりを持っているのかは不明です。天正4年頃になると世代が変わり、この「池田勘助」とは、正行の嫡子かもしれません。今のところ、不明です。


2015年7月4日土曜日

信長公記にも登場する、摂津武士池田紀伊守入道清貧斎(正秀)について

私の調べている期間内で、池田正秀なる人物は池田家政の中心的人物で、非常に重要です。
 池田家当主が信正(のぶまさ)の時代、時代の要請や池田家自身の繁栄で、当主だけでは手が足りなくなり、その補佐役として、信頼の置ける人物を一族の中から選抜して、その役に就かせたようです。
 江戸時代でいうと「家老」と同等の立場のようで、官僚のような役割ももっていたようです。ただ、あらゆる点で中世は、江戸時代のように固定化した概念はあまりなく、その範囲も限定されたものでもなく、割と不規則だったように見えます。人物本位といったところがあると思います。
 その家老のような人物を4人選んだらしく、「四人衆(よにんしゅう)」と呼ばれる集団が、当主を補佐しています。そらからまた、この家老集団を出現させた需要として、池田信正が京都の中央政権に重く取り立てられ、同所に屋敷などを持つようになった事から、国元の政治を取り仕切る機関が必要になったからだと考えられます。

この四人衆時代の変遷があり、3期に分かれます。最後には内部分裂を起こし、池田家が解体となりますが、その最後まで中心的な役割を果たしていたのが池田紀伊守正秀です。
 以下に1期から3期までの四人衆の構成をご紹介します。

<第一期> (順不同)
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・同苗山城守基好
 ・同苗十郎次郎正朝
当主と四人衆のイメージ画

<第二期>
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・同苗周防守正詮
 ・同苗豊後守(正泰ヵ)

<第三期>
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・荒木信濃守村重

池田四人衆についての詳しくは「摂津池田四人衆の事」をご覧いただければと思いますが、この中心的な人物である池田紀伊守正秀については、生没年が不明です。私の守備範囲である年代の記録から判る範囲で、以下にご紹介します。
 ただ、没年については、1575年(天正3)以降、史料上に見られなくなりますので、その頃の可能性は高いと思います。この頃には随分と高齢だったとも想定されるため、その事も併せ考えると、没年の想定をこの頃に置くのも不自然では無いと思います。
 また近日に史料を上げて、詳しく正秀の行動をお知らせする事にしまして、ここではダイジェスト版でご紹介しようと思います。

◎池田家中政治の中心人物
当時の史料には「四人衆」との記述が多方面で現れる事から家政機関として、外部組織にも認知されていた事は確実です。
 そしてまた、その四人衆は「禁制」も多数発行しており、そこに4名の署名があって、正秀の名も見られます。それから『言継卿記』に、正秀が公家である山科言継の屋敷を訪ねて会談したりしており、外交の面でも広範囲に活動していたようです。
 池田家は、京都周辺の主要な重要都市に屋敷や拠点を持っていたいとようです。前記の京都を始め、和泉国の堺、摂津国平野にはあったようです。これは、正秀個人の所有なのか、池田家としての共同資産なのかわ分からないのですが、用件のある度にお寺などで宿泊するよりは、屋敷や拠点を持つことは便利ですし、重要です。その地域への出先機関ともなります。
 それからその他の地域でも、例えば、摂津国尼崎、同大坂、同冨田、同芥川城下、河内国飯森山城下など、大きな都市や軍事拠点には何らかの機関もあったと想定されます。本願寺宗が、各地に布教拠点を設けますが、これと同じような事は、宗教活動で無くても必要ですので、当時の通信事情を考えても、効率を考えればどうしても必要になって来ると思われます。
 
◎正秀の名前について
池田正秀の名前についてですが、中世と現代とでは社会的な慣習が異なります。個人は「家」を中心に活動し、生活しています。家は途切れずに続き、自分自身はその通過点であると考えているため、「生ききる」事に人生の価値を置いています。一方で、極まった時の「潔さ」という一面もあったと思います。どちらにしても、「後世」を意識しての価値観だと思います。
 さて、現代的に言うと、姓と名は、池田正秀です。しかし、その当時には社会的地位と現在の立場などが、名前の間に入ってきます。歌舞伎役者や落語家などの伝統芸能では、こういった習慣がまだ残っていますね。
 正秀は「紀伊守」という官途を名乗る家系だったようで、その官途を名乗ります。また、紀伊守を名乗る前段階の名前もあったりして、その時々の年齢や事情によって変わっていきますが、諱(いみな)はあまり変わりません。
 それから、跡継ぎが育ち、家の代表者を嫡男に譲る時が来れば、後見役となって入道(仏門に入るなど)となり、入道号を名乗ります。多分、「正行」は、正秀の嫡男で跡継ぎです。彼は父と同じく紀伊守を名乗っています。また、跡継ぎの事だけでは無く、何らかの理由で代表を退く場合にも入道となり、浮世から離れます。
 正秀の場合の入道号は「清貧斎」です。読みは多分、「せいひん」だと思います。「せいとん」という読み仮名を『言継卿記』に1箇所だけ書き込んであるのですが、せいとんの意味が分かりません。誤記ではないかとも思います。
 当時の史料を見ると「池田紀伊守入道」とあり、これは正秀を指します。時代によっては、同じ名乗りを記録していますが、その場合には諱(いみな)が重要な判断基準となります。
 それから、茶道や連歌に通じる場合、「斎号」というものを名乗ることがあります。正秀はその両方に秀でていた事から斎号も持っていたようで、「一狐」とも署名しています。これの意味はわからないのですが、狐(きつね)は、中国の伝説にも登場する妖怪だったり、イナリのような、神格化された信仰の要素など、日本には古くから身近な動物でした。正秀はそれらの要素の何かに注目して、斎号を取ったのだろうと思われます。
 ちなみに、正秀がいつ頃から入道号を名乗ったかというと、この長正が無くなった永禄6年初頭頃からでは無いかと考えています。対立はしましたが、当主長正は池田家のためによく働き、長正が亡くなる頃は、正秀が長正に心を寄せていて、その死亡を悼んだのではないかと思います。
 長正が死亡した直後と考えられる、永禄6年らしい2月27日付けの摂津国多田院僧衆へ宛てた音信では、勝正の書状に添えて四人衆が同内容の書状を発行しています。これに正秀は清貧斎と署名しています。

◎文化人としての活動
正秀は、連歌会にも出座し、多くの歌を残しています。織田信長が京都で政権を始動させる前、三好長慶がその座にありましたが、長慶は連歌を愛好しており、それらの歌会にも度々呼ばれています。
 一方で茶道にも通じ、様々な名物茶器も所有して、「清貧釜(せいひんがま)」など、彼の名を冠する茶道具もありました。堺商人の天王寺屋宗及などが記した茶席・茶道に関する史料『茶道古典全集』には、正秀の名が頻出しています。
 
◎武士・武人として
正秀など四人衆は、当主信正から勝正の代まで少なくとも3代に関わる活動をしていますので、その間に数多くの戦場を経験しています。その経験から後年には、戦場でも老練な作戦立案や目利きができたようです。
 『信長公記』によると、1569年(永禄12)正月の京都本圀寺・桂川合戦での機転の利いた手配りに正秀を褒めたと記述されています。これは池田衆の名代としての事だったのかもしれませんが、特記事項として取り上げられています。
 その2年後、1571年(元亀2)8月28日、今の茨木市で行われた大合戦「白井河原合戦」では、非常によく練られた作戦を成功させ、不利だった状況を見事に挽回しています。この時は三人衆時代で、その中心は正秀だったと見られます。

◎家中での発言力と求心力
1548年(天文17)5月6日、当主信正が、管領細川晴元から切腹を突然に命じられ、池田家中が混乱します。その時、四人衆が暫定的に当主の代行的役割を果たしますが、その時も家中の対立があって、暫く当主の一本化ができずにいました。その一方の当主を擁立していたのが四人衆でしたが、その四人衆が推す人物が病気などで死亡してしまい、結局は長正を当主にする事で決着します。
 四人衆は、当主格と対立もでき、「家」としての意思決定もできる機関であった事が、それを見てもわかります。
 当主の並存期間には、四人衆が独自に領内へ法度(禁制的なもの)を公布し、前当主信正に代わる、若しくは、同等の機関である事を公言しています。そこには四人衆を構成する正秀など4名の署名があり、地域社会に対する公権力を発動しています。

◎最期には幕臣に取り立てられる
数々の経験から、1573年(元亀4)初頭には、将軍義昭の近臣として、幕臣として取り立てられています。この頃には池田三人衆も分裂し、池田一族は幕府へ加担。対する荒木村重は小田信長へ加担して、それぞれの道を歩みます。
 皮肉な事に、両者は両陣営から重く取り立てられ、村重も将軍義昭方との交渉役として活動する事となります。実際に顔を合わす事もあったのかも知れません。
 この京都の中央政権内での将軍義昭と織田信長の分裂という極限状態で、両陣営から池田衆の取り組みが盛んに行われていた事が窺え、それは如何に池田家が地域ブランドを持っていたかを示す事実でもあります。
 その事を知る当時の記述があります。イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記した報告書『耶蘇会士日本通信』には、内藤如安(丹波国人)の都に着きたる日(3月12日)、池田殿兵士2,000人を率いて公方様を訪問せり。此の兵士の来着に依り、都は少しく沈静せり。、とあります。
 これを率いる事ができたのはやはり、池田正秀を抜きにしては不可能で、池田衆が動いた事の京都市中の反応も、その当時の実力に相対するものだったと考えて、間違いは無いと思います。




2012年8月4日土曜日

摂津国吹田村にも関わった池田正行という武将

池田勝正の一族で、池田正行なる人物が居ました。何通かの音信が史料として残っていますので、実在の人物です。この正行は、池田家中の政治に深く関わっており、その音信の内容も非常に興味深く、また、重要なものです。

正行は、吹田村について音信の中で触れています。以下はその音信の内容です。

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尚々吹田寺内衆へも此由堅被仰付候て可出候。少取乱候之間閣筆候。重々対後日私曲之儀在之候ハバ、貴所可為疎意候。(悉無事之様御調専一候。)

南郷五ヶ村扱之儀、相調候由可然存候。就其寺内村之儀も軈而作環住可申候歟。如五ヶ村無別儀様御調所仰候。自然後日ニ申事於在之者、其曲在間敷候。為御案内如此候。恐々謹言。

年欠 十二月十三日 池田紀伊守正行

今西橘五郎殿 御宿所

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吹田殿趾
音信(『今西家文書』)は「年欠」で、何年のものかわからないのですが、私は白井河原合戦直後のもので、元亀2年(1571)ではないかと考えています。白井河原合戦時の吹田村周辺の状況については、「白井河原合戦について」をご覧下さい。

また、文書の内容は、最後に「恐々謹言」とはあるものの、大変高圧的で「慇懃無礼」でもあります。
 しかし、そういった態度を取る事ができる状況だった事がわかります。文書の宛先である今西氏は、奈良春日社の荘園(主に垂水西牧、次第に東牧の山田荘や菟原郡山路荘にも広がる。)を管理する神人(じにん)で、池田家にその荘園から上がる税金の徴収を部分的に任せていました。
 今西氏担当(支配)の地域は、最盛期で7万3千石に達していたそうです。詳しく書くと大変な文章量になるので割愛しますが、今西氏と池田家は重要な関係であり、こういった高圧的な態度で池田家が接していた事はあまり無いのですが、天正時代頃には次第にそういった傾向になっていたのかもしれません。しかしながら、これ程の内容は他にあまりありません。

さて、池田紀伊守正行という人物ですが、「紀伊守」という官位を名乗る前は「勘介(かんすけ)」でした。なぜ同一人物である事が断定できるかというと、文書の最後に書く自分の名前の近くに「花押(かおう)」という手書き印を記します。これはその人だけが持つもので、公的な証明になります。
 この花押が、池田勘介の場合も池田紀伊守の場合も「正行」としての花押が一致します。ですので、地位が変わっていても同一とわかるのです。
 それから、勘介とか紀伊守というのは、社会的地位を示すものです。社会的な地位は伴いませんが、今でも歌舞伎役者などは、こういった伝統的なシキタリの名残がありますね。また、官位は会社でいうところの、係長や課長・部長といった組織内部と、社会通念としてのニュアンスもあります。

正行が生きた時代は、それがそのまま社会的身分となります。また、一族内での順位にもなっていきます。

そしてその地位ですが、下積みといいますか、最初は「勘介」という通称ですが、家中の政治で重きを成すようになると対外的な接触も増える為に官位を伴うようになっていくのが多くの場合です。
 正行の場合は、「勘介」から「紀伊守」となります。紀伊守の社会的身分は、国司という部類で、侍がよく名乗る位(くらい)です。国の名前に「守(かみ)」とつく呼称です。守が最高位で、その下に色々と位階があります。そして、その国にも上下の区別があり、大国・上国・中国・小国となっていて、大国の最高位は従五位(上)、上国は従五位下、中国は正六位下、小国は従六位下です。ですので、池田家の当主の筑後守は上国で従五位下ですので、その他の一族は社会的地位が並ぶ事はあっても越えない範囲で、地位が決まります。紀伊守は筑後守と同じ、上国で従五位下です。
 ちなみに、その他に池田家中で見られる官位は、池田播磨守(大国)、池田肥前守(上国)、池田周防守(上国)、池田遠江守(上国)、池田豊後守(上国)、池田伊賀守(下国)、池田和泉守(下国)、渋谷対馬守(下国)、池田伊豆守(下国)、荒木信濃守(上国)、荒木美作守(上国)、荒木美作守(上国) 、荒木若狭守(中国)、荒木志摩守(下国)、などがあります。

それからまた、この官位は、それを継ぐ家がだいたい決まっていたようです。養子縁組や活躍があって、上位の地位を持つ人物から官位が下される場合などがありますので、厳密には絶対ではない部分がありますが、概ね決まっていたようです。
 ですので、紀伊守を継ぐその先代は、池田正秀の可能性も高いというわけです。この人物は紀伊守から隠居するなどで、名を一狐としたり、斎号を清貧斎と名乗った人物です。どちらが斎号で入道号なのか今はまだ迷う所ですが、公文書にも使っています。清貧斎一狐と一緒に使ったりもしています。

これが同一家系とすれば、親子となります。親子で公文書に署名した史料もあります。

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湯山之儀、随分馳走可申候、聊不存疎意候、恐々謹言
年欠 六月廿四日

小河出羽守家綱、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫敦秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、菅野助大夫宗清、池田勘介正次(正行か)、宇保彦丞兼家

湯山 年寄中参

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この音信(『中之坊文書』)も「年欠」で、何年のものかわからないのですが、私は白井河原合戦直前のもので、元亀2年(1571)ではないかと考えています。また、宛先の湯山とは、現在の有馬温泉の地域です。
 文中にある「池田勘介正次」は、活字にした際に「次」か「行」か判断がつかなかったため、「正行か」と注釈がつけてあります。これは正行です。ちなみに、読めない文字として他にも「荒木志摩守■清」があるのですが、この字は「■=卜(ボク)」です。この人物も地位の高い人物で、多くの書状に署名をしている人物です。それ以外にもここには重要な人物が名を連ねています。
 ちなみに、この文書は「池田二十一人衆」が署名したものとの通説があるのですが、実際には「池田二十一人衆」という集団の史料は存在せず、伝聞記録に現れるのみです。ですので、記録するため(理解)の便宜的な呼称で、その呼称も数回登場するのみです。中には「三十六人衆」とするものまであります。

◎呉江舎(池田氏関係):池田一族連署状のページ

さて、この時の池田清貧斎一狐は、「紀伊守」を署名しておらず、池田正行は「勘介」のままです。書面は後の証拠になるので、その時の状況を反映したものになっていると考えられますが、既知の相手には一々正式な名前や地位を全て書かない事もあるように思います。現在でもあるような、未知の人には当然、正式な事を全て書くでしょう。
 この『中之坊文書』では、荒木村重が、池田姓を名乗り、信濃守の官名まで名乗っています。村重はそれまで、荒木弥介として史料に登場していましたので、この史料が村重の官位を名乗った初期にあたるのだろうと考えられます。同時に、家中での地位が向上していると言えます。
  その事を湯山年寄中に宛てて告げていたとも考えられます。それに加えて、顔ぶれも意味があったと考えられます。
 実は湯山地域へは、当時の主要道でもあった有馬街道があるのですが、京都や大坂からでは、池田を必ず泊地とする立地になっていました。 湯山の更に西には播磨国三木です。そのため池田と湯山地域は、交通・商業などで密接な関係を持っていました。

こういった経緯を持つ、池田正行は、池田筑後守勝正を放逐した後の池田家政の中心的人物の一人となり、池田周辺地域などにも関わっていたようです。詳しくは今のところわかりませんが、冒頭の『今西家文書』を見ると、正行は吹田村方面の政治・軍事に関する何らかの役割を担っていたのかもしれません。

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)