2020年10月29日木曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十九回「摂津晴門の計略」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。


これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、第二十九回「摂津晴門の計略」2020.10.25放送分です。



概要 -----------
今回は、陰謀渦巻く、ドロドロとした組織と人間関係を取り上げていました。個人的な感覚では、何だか間延びした構成で、何が言いたいのか分からない感じでした。太夫や駒、東庵の露出が多く、肝心の光秀が脇役のようになって、人物像を描くための流れが澱んでしまっていますね。実際に、ネットでは、そういった所の批判が出ています。
 さて、そういうヤッカミは脇に置き、いつものように劇中の要素を取り出して史実はどうであるか、池田家はどのような動きをしていたのかをご紹介します。


二条城の実態 -----------
劇中では、立派な重層天守がイメージ化されていましたね。また、格式に見合う調度品を寺社仏閣から徴発(半ば召し上げ)ていたような表現でしたが、これは概ね事実と異なるでしょう。実際は、多くの品が献上されていました。これらには、礼状と何らかの便宜が図られていました。献上する側は、これが目当てです。部分的にそのようになったものもあるかもしれません。播磨国龍野の赤松氏などは、娘を将軍の側へと送り出しています。
 しかし、物品を強奪すれば泥棒と同じ行動になり、その幕府は信用されなくなります。当時も今も同じで、法治を重視(今ほど厳密では無い)しています。法と慣習に沿って取り決めを行います。
 さて、二条城の実際は、40日の突貫工事でした。そのため、昼夜を問わない、多少の無理強いはありましたが、それは、これまでの幕府の権限と法による動員であって、奴隷労働ではありませんでした。賃金などの報酬は支払われます。また、義務としての使役もあり、それらを組み合わせて、折り合いをつけています。
 一方で、物理的な要素はというと、40日でできる範囲は限度があります。ですので、実際は土木工事部分が主で、調度品などは、追々取り揃えられましたので、40日で大坂城のような城が出来たのではありません。堀や塀などの防御設備、将軍の居所と政務空間など、当面必要な要素を優先して拵えてあり、実際は簡素なものでした。1月27日に着工して、4月14日に落成し、将軍義昭がここに入ります。この期間で、本当に重層の建物ができたと思いますか?
 一方、この御用普請も池田衆は動員されていたと考えられます。守護になった以上、将軍の公事(くじ:公的な事業)には参加しなければなりませんし、資金や労力の提供も義務化されていました。そして、将軍義昭が二条城に入った翌日の15日、京都妙覚寺にて池田衆など将軍義昭政権側(幕府)関係者、即ち池田氏などの守護が一同に集い、今後の事務の打ち合わせを行っています。


摂津晴門という人物 -----------
摂津晴門は室町幕府の官僚トップで、行政処理を代々任される家柄でもありました。鎌倉幕府の頃からそういった関係にあり、そのために公家などとも姻戚関係にあって、時を経るにつけ社会的地位と身分を高めていました。
 しかし、永らく室町幕府の政務トップは伊勢氏で、摂津氏はあまり活躍の場がありませんでした。第十三代将軍義輝の時代、政変があって、摂津晴門を起用。その流れから、劇中の晴門は、将軍義昭の政所トップとして再登用され、引き継き政務にあたることとなりました。
 しかし、実際には社会の激変に対応できず、任命権者の将軍義昭から数年後には義昭から罷免され、元の政所執政伊勢氏が返り咲きます。幕府政務の責任ある中心から永年離れていたこともあり、実力が不足していたのでしょう。
 幕府とは訴訟事や財政、管理業務、軍事など、様々な機構を持ち、今の総務大臣(総理大臣といってもよい)と同じような職務内容でした。

いわゆる、戦国大名とは、これに類する統治能力を持ち、地域の安定のための機構を持ちますので、幕府並みの官僚機構を持っていました。違うのは、規模だけです。武士に限らず、寺社仏閣、商人に至るまで、組織化するためには、こういった事務処理能力が必須で、これが無ければ組織は維持できませんでした。一方で、組織規模の大小は、この官僚機構の大きさと体制を持つかによりました。


明智光秀のオウリョウ -----------
劇中で、明智光秀と摂津晴門の対立シーンがありました。光秀が「東寺八幡宮領」をオウリョウしていると訴えがあった事で、行き違い、陰謀があったと言い争う場面です。これは実際にあったことですが、このオウリョウとは、現代の「横領」とは意味合いが違います。文字も違い「押領」と書きます。
 現代のオウリョウとは、人のものを盗る、明かな犯罪行為として、法的な規定もあります。しかし、この時代の「押領」とは、権利の衝突の意味合いがあり、よく見ると、経緯からして微妙な立ち位置による、相違的な要素が多くあります。これは「押妨」とも表され、権利を主張するものからすれば、両者とも「押妨」と評します。
 この「押領」については、細川藤孝、摂津晴門、三淵藤英、はたまた、織田信長まで、皆「押妨」で争いをしています。そして、池田勝正も、その一族の池田衆も皆、この「押領」で訴訟事を抱えていたのが実情で、当時はそれほど珍しいことではありませんでした。

劇中では、手元を移した時に書状が見えたのですが、多分「宝菩提院禅我書状案 」で、これは1570年8月10付けで出されたもので、東寺百合文書「ひ函175号文書」のような気が(日付は違いますが、内容は山城国下久世のことですし、ほぼ同じっぽいです。)します。これは、実際には劇中の時間軸よりも一年ほど後です。また、光秀は、他にも同種の訴訟事を持っていたようですが、その解決には数年罹っているものもあり、今の時代感覚の清廉潔白さとは、意味合いが違います。陰謀とか、ハメラレタとかの話しではありません。
 ちなみに、摂津守護となってからの池田勝正は、守護職の義務により、手持ちの領知、権利を返還させられています。これは詳しく見ると、当時の法治に照らしても、言いがかり的要素が強く、この部分で元三好派であった懲罰的扱いを受けていると考えています。この窓口は、御用商人である今井宗久に行わせている所から見ても、公権力で実行するには後ろめたさがあった行動を感じます。

【参考】東寺百合文書WEB:文書名・宝菩提院禅我書状案


近衛前久という人物 -----------
この人物は前回もご紹介しましたので、冒頭部分を引用しておきます。この時代の近衛家は、五摂家筆頭という名門の公家でした。この時、関白という地位にあり、皇室の政治(天皇の補佐)の担当者でもありました。また、この近衛家は、藤原鎌足を祖とする一族の筆頭でもあり、同族の日野家とも親密でした。日野家からは親鸞を輩出しています。いわば日本の頂点に位置する家柄であり、当時の政治では、巨大な存在でした。そしてまた、摂津池田家も藤原一族ですので、この近衛家を支える一族でもあったのです。
 劇中、近衛前久が将軍義昭政権の復帰を懇願しているかのように描かれていましたが、史実は、同政権打倒の急先鋒で、そのために各地の勢力を糾合していました。また、織田信長も前久に将軍義昭政権の力になって欲しいと要請しており、劇中で描かれていることとは全く逆でした。脚本家はこの点も読み違えています。
 反織田信長連合体の中心にあったのは、社会的地位の高い近衛前久で、そうでなければ比叡山・本願寺勢力を連合させることなど、できるはずもありません。間もなく、将軍義昭と織田信長は袂を分かち、敵対関係となりますが、将軍義昭が反信長となったことから、今度は近衛前久とも接近することになります。


浅井長政を当主とした浅井家の行動 -----------
近江国北部で頭角を表した浅井家は、家格としては高くなく、なぜ大名家としての通説が定着したのか、業界でも疑問を投げかける人も少なくありません。これは、越前朝倉家と結びつきを深くしてからの経済的繁栄があるからだと考えられています。
 当時は、日本海が大陸との玄関となっていて、環日本海貿易が盛んに行われていました。そのため、現代とは真逆の日本海側の都市が繁栄しており、この地域から身を起こす大名が多くあったのはその為です。
 劇中でも度々登場する越前朝倉氏ですが、その拠点は一乗谷であり、その谷を中心に巨大な城郭都市を建設していました。その中に朝倉氏は屋敷を持ち、字として「浅井」が残っています。いわば、近江国人という考え方よりは、朝倉方の北近江勢力であったのが実情です。滋賀県北部は、南部と違って文化風土も違いますし、そういう流れは当時から培われたものです。
 一方で、この地域は浅井氏の前の時代は、多賀氏が一大勢力で、その名の通り多賀大社との繫がりを深くする家でしたが、時代の移り変わりと共に、浅井氏へ地域求心力が移っていきました。その種はやはり、今も昔も経済力です。
 そして、永禄12年(1569)6月に浅井氏が幕府方から離れたとの噂が流れます。これは、奈良興福寺の坊官(官僚)である二條宴乗の日記に記されています。奈良にもこの噂が伝わっていますので、当然、幕府や主要な人物の耳に届いていたことでしょう。将軍義昭は、奈良の興福寺出身ですので、当然将軍の耳にも情報は入っていたはずです。若狭国根来地域では「お水送り」の行事があり、奈良興福寺ではこれを受けて「お水取り」があります。こういった行事からも若狭国やその周辺に興福寺領があり、情報は直ぐに届きました。

ちなみに、この年、越前朝倉氏は、仮想敵を将軍義昭政権(幕府)と決しており、雪の溶けた4月以降には、金ケ崎城、木ノ芽峠、中河内、椿坂などに城を整備して、戦争の準備を始めていました。

 

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2020年10月24日土曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十八回「新しき幕府」

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、第二十八回「新しき幕府」2020.10.18放送分です。

◎概要
今回は、京都を手中に収めていた三好勢が推す将軍義栄方を退け、永禄11年(1568)秋に、足利義昭・織田信長が入京。義昭が将軍となります。このあたりから、越前朝倉義景を攻めることに決するあたりまでを描いていました。時間的には1568年後半から1570年あたりまでで、あまり時間は進めていません。
 この間は、摂津池田勝正は大活躍で、将軍義栄も将軍義昭も支えることができる、双方から頼られる勢力でした。何と大河ドラマ企画始まって以来59年にして、初めて池田勝正の名前が取り上げられました。

さて、この回の表題のように、将軍義輝系政権の正常化を目指し、ないないづくしの幕府復興のために邁進します。しかし、急造でもあったために、早くも思惑の違いも表層化しつつ、進める事になります。
 永年、実質的な中央政権機能を備えていた三好勢の影響力は、直ぐには排除できず、また、還瀬戸内海の繫がり(政治・経済的な)も未だに握られており、侮りがたい状況でした。摂津池田氏は、織田信長方との戦闘には負けたものの、将軍義昭・織田信長政権に重用されます。実際の史実は、敵からも味方からも頼られる、非常に大きな池田氏の存在でした。

◎足利義昭将軍就任
織田信長が足利義昭に供奉(ぐぶ)し、入京を果たします。ドラマでは、兜を脱いでの入京になっていますが、この部分は創作です。まあ、ドラマですので、流れを受け入れましょう。
 ドラマでは、この入洛戦の様子が地図を使って表現されていたのですが、摂津芥川あたりで終わったことになっていました。もう少し、西に進んで池田合戦を取り上げて欲しかったのですが、なぜかそこはカット。

さて、ドラマ中で、将軍職就任式のシーンがありましたが、これは10月22日に禁裏(御所)でその宣下が行われました。この時に、京都市中は厳戒態勢が敷かれており、池田勝正は「辻固め」役を担っています。
 その2日後、池田勝正は将軍となった義昭を訪ね、祝言を述べます。この折に、摂津守護職を任されたようです。通常これは一名に任されるものですが、同じ摂津国人の伊丹忠親、甲賀出身の武士で足利義昭の重臣であった和田惟政も同じく摂津守護を任されたことから、この三名をもって、いわゆる摂津三守護と通称されています。


◎六条本圀寺合戦
ドラマだけではわかりづらいのですが、三好勢は一時的に京都から退きはしましたが、各地にその勢いを残しており、泉州地域あたりで反撃拠点を持っていました。堺あたりでは、早くも軍事行動を整えていました。
 これらの動きは、随時に情報が伝わっており、突然ではありませんでした。知ってはいましたが、京都周辺の勢力は、新旧どちらの勢力に対して積極的になるべきか、躊躇いがあり行動できず、様子を見ていたというのが現実であり、その間隙を縫った三好方の行動でした。これは再び将軍を殺害するか、拉致する目的をもっていたと考えられています。
 堺を出た5,000程の三好勢は、生駒山の山裾などを通り、今の枚方市から淀のあたりを経由して、京都東福寺に陣取ります。そこで将軍山城を先ず落とし、京都市中にあった六条本圀寺に攻め込みます。この動きに合わせて、河内飯盛城、高槻城などでは、クーデターが起きています。

池田勝正もこれらの動きは掴んでおり、将軍救援の軍を集めて池田を発ちます。しかし、高槻城の入江氏が西国街道を塞いだために、大きく迂回して山中を行軍し、今の長岡京市へ出ます。池田・伊丹勢が西側から。三好義継(幕府方で松永久秀が擁立)が南から三好勢を攻める体制となり、合戦となります。細川藤孝はこの時はあまり軍事力を持たず、陣取りをしてもそれ程の脅威と言える数ではありませんでした。西側に居たのでしょう。
 しかし、この戦闘は激戦となり、細川藤孝・池田勝正は行方不明、三好義継は討死と京都へ伝わる程でした。
 結果的に、幕府方が勝利します。織田信長が1月10日に京都へ入りますが、この時には落ち着きを取り戻してもおり、その布陣が堅固であることから池田衆を褒めています。


◎二条城の建設
京都は永年の闘争で荒廃しており、将軍義輝の暗殺の折、その将軍御所などが焼亡していました。そのために、防衛施設がなく、寺社や民家などの民間施設しかありませんでした。そのため、比較的防御に適した施設として、六条本圀寺が将軍の居所に充てられていました。
 三好三人衆は、これがわかっていて、守りが手薄であるところを狙っていたことは確実です。なぜなら、将軍義栄が京都に入らなかった、入れなかったのは、同じ理由によるものだったからです。
 しかし、この両者の違いは、将軍の元々の役割りにこだわり、無理をしてでも京都に将軍が留まるべき事を実行しようとしたからです。それが、新たな幕府を喧伝し、信用力が増すからです。
 将軍の居所として、二条城の建設が必要と決し、1月27日から工事を着工します。元の武衛跡、即ち将軍義輝が起居した将軍邸の跡です。この工事には、摂津池田衆も動員されていたようです。守護は、こういった幕府の命令に従う義務があるからです。また、税の徴収、軍事動員にも義務が課せられています。ですので、社会的地位は上昇しましたが、経済的にも、使役義務的にも非常に過酷な環境下に身を置くことになりました。

それから、墓や石仏のことですが、これは無縁仏や放置、管理者のわからないものを利用していたようです。多分、それらは供養をし、魂を抜いたものを使い、無秩序に勝手に使ったものではないでしょう。この時代、戦場には僧と神主を連れて行き、神仏の力を借りる行いをしていました。
 現代のように重機も加工機械も、内燃機関による輸送も出来ない時代に、石材を確保することは非常に困難です。ですから、短期工事には、こういったことを発想したのでしょう。ただ、忌み嫌う習慣から、行動に移すことは少なかったようで、そういう意味では現代感覚に近いところがあったのでしょう。しかし、礼儀や作法を無視していた訳ではなく、ドラマ中にあったように、あえて、仏像を蹴ったり叩いたりするようなことはしなかった思います。
 実際に信長は、この幕府を運営するにあたり、世間の聞こえを非常に気にしていたようですから、あまり奇抜すぎることはできなかったのが実際の所で、その行動ひとつひとつに非常な気遣いがあったことは、事実です。ただ、必要なことは思い切ってやり、徹底していたことも事実です。その基になるのは、結果を出し、道をつけることでした。そういう意味では、混迷の世を牽引するに相応しい視点も持っていたと言えると思います。


◎幕府再興の動き
通常の将軍ご沙汰始めは、2月17日で、この前に色々な準備を行ってもいました。しかし、三好三人衆の反転攻勢があったことから、急遽、これに関わった反将軍義昭勢力を討伐することになり、尼崎や堺、兵庫、石清水八幡宮などを攻めました。その間に、京都の二条城建設は進められています。
 また、内政の対応も進めていました。徳政令を発布し、借金を棒引きする準備をしています。これは、三好三人衆方との経済的繫がりを断つために行うもので、受ける側は非常に恩恵がありますが、貸した側は大きな損害が出ますので、その摂政も行っていました。
 その他、公家旧領地の調査(押領されている土地の返還を目的とした)、税金徴収のための体制整備を行っています。

それに加えて、この間に、但馬・播磨国(第一次)攻め、第二次播磨国攻めを行って、大規模な出兵を行っています。
 池田勝正は、それらの殆どに加わります。また、堺周辺の権益の幕府への返還もあり、池田衆にとって、将軍義昭政権への加担は、過酷なものとなっていました。

 

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2020年10月21日水曜日

【快挙達成!!】第59回大河ドラマ『麒麟がくる』にて、池田勝正が登場しました! ※今は名前だけ

 快挙です!!凄いことが起こりました!大河ドラマにて池田勝正の名前が登場しました。摂津池田衆の呼称も入れると、二回もです。

 大河ドラマ59年の歴史に於いて、これは初めてのことと思います。多分、今後も何らかのカタチで取り上げられるでしょう。私も勝手に責任を感じ、今後とも池田勝正の全体像解明に向けて、更なる精進を重ねたいと思います。

 今後とも激励、叱咤のほど、どうぞ宜しくお願い致します。

 

なお、荒木村重については、登場必至です。何せ、荒木村重の息子、村次は、明智光秀の娘を娶っており、この関係からかなり深く描かれると思われます。配役もそれなりの人物が充てられるでしょう。それ故に、村重の出自は摂津池田家であるために、ここに繋ぐために池田勝正も流れを繋ぐためにストーリーが練られているでしょう。

 

兎に角、万歳!知名度が、ちょっとだけ上がりました!

 

 


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2020年10月3日土曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十六回「三淵の奸計(かんけい)」放送前の先回り企画

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。


第二十六回「三淵の奸計(かんけい)」2020.10.4放送分

大河ドラマ「麒麟がくる」勝手に予測、先回り企画です。この回は、タイトルと予告を見るにつけ、足利義昭を奉じた織田信長勢が上洛戦を勝利で終えて、入京。そこで一区切りになるのではないかと思います。

細かな事は脇に置き、上洛戦とその後、将軍義昭政権黎明期では、池田衆が大活躍しています。ドラマを愉しむための予備知識としてご活用いただくと、劇中の状況がより良く掴めると思いますので、その頃の出来事をご紹介しておきたいと思います。以下、池田衆の活躍する主要エピソードを抜き出して説明します。
 時間軸としては、上洛戦を行った永禄11年(1568)の秋から同13年3月までの、越前朝倉氏討伐の直前までの出来事です。

◎概要
織田信長は、足利義昭の将軍就任の願いに応じ、軍勢を大挙し京都へ向かいます。最終的にこの軍勢は五万程になったとされ、これ程の軍勢を迎え撃てる大名は、この当時はどこにもいなかったでしょう。
 織田信長の常套手段はいくつかあります。よく見ると、いつも同じ手です。また、信長は情報を非常に重視しており、不具合は直ぐに修正して、対応します。
 また、決して猪突猛進ではありません。非常に慎重で、いくつもの策を講じて事にあたります。準備が周到です。また、原理と理念を重視し、それをなんとしても守ろうとします。
 それは、この上洛戦でも発揮されます。信長は、足利義昭を奉じて美濃の岐阜を発ち京都へ向かいますが、その通路の情報を集めてました。また、戦いは稔りの秋と限っていたことでしょう。そのためには、世間を驚かせる軍容を調える必要があります。これらを準備し、一気に実行した戦いでした。決して弱い勢力ではなかった三好三人衆でしたが、戦の準備も調えることができず、一旦、撤退の策を選んだようです。

特に大きな反撃を受けることも無く進んだのですが、唯一、摂津の池田衆だけは数日間に及ぶ反撃を行い、一矢を報いています。しかし、池田勝正は降伏して上洛戦は終わります。
 足利義昭・織田信長は入京を果たし、間もなく、義昭は京都で将軍宣下を受けます。その後、室町幕府の立て直しに向けて、東奔西走、24時間の活動を強いて、休む間もなく活動します。池田衆は将軍義昭に登用され、守護格を任じられます。池田衆は大きな期待を寄せられ幕府再興に尽力します。

以下、要素毎に解説します。

 

<永禄11年>--------------------
◎春 足利義栄の将軍就任後

東大寺転害門に残る銃弾痕
東大寺転害門に残る銃弾痕
足利義栄が将軍となったのは、2月8日でした。元々は一体化していた三好方組織も、三好一族と松永久秀とに分かれ、争いが始まっていました。その争いの勝敗が決したと世間の認識が整い、将軍就任が認められました。ただ、三好方と松永方の戦いは続いており、松永の本拠であった奈良多聞山城が落ちたのは、足利義昭が上洛する直前まで持ちこたえていました。ですので、この間、三好方は主に奈良へは軍勢を入れ続けなければならず、別の変化に対応することは、余裕があるとはいえない状況でした。奈良市中では銃撃戦が毎日のようにあり、今の奈良公園のあたりは最前線の主戦場でした。今も古い建物には、この時の銃弾痕が残ります。


松永久秀は、劣勢に耐えつつ、織田信長と音信を行っており、足利義昭上洛の準備も同時に進めていました。また、将軍となった義栄はなかなか入京できず(9月には入洛)、摂津富田の普門寺から動けませんでした。京都には適当な居所が無いためでもありますが、しかし、本来は武門の棟梁は天皇を護る役目がありますので、これは一番重要な仕事ができていないことになります。
 それでも三好三人衆方は、主要人物を京都に入れ、幕府機構を何とか再開・維持しようと試みており、主要人物は頻繁に京都入りをしていました。そんな中で、池田紀伊守正秀という人物が、近衛前久邸を訪ねています。酒宴もあったと記録されています。池田家は京都に屋敷も持っていました。

日が経つにつれ、夏頃には足利義昭の入京の情報が入り始め、8月には三好方が近江守護の六角氏と対策協議を行っています。六角氏は将軍義栄を支持していた勢力でした。

◎秋 足利義昭を奉じた織田信長の上洛戦
池田城跡公園
池田城跡公園
7月25日、足利義昭は美濃国の立政寺(りゅうしょうじ)に入り、ここで織田信長と対面します。この時にはもう、信長は全ての準備も終わり、スケジュールを説明するほどの最終段階だったでしょう。間もなく、信長は足利義昭を奉じて軍勢を出陣させ、翌月7日には、隣国近江の佐和山城に入っています。この時は、浅井長政もこの上洛戦に協力していますので、ここまでは安全に移動が可能でした。
 既に情報は入り、守護六角氏の本拠観音寺山城を攻める時には、内部分裂状態にあった、六角方の重臣が織田方に寝返り、難攻不落の城もあっけなく落ちました。
 三好方は、この城を頼りにしていたため、軍勢をここで足止めできると考えていたようです。六角方は一度は織田方を撃退したものの、結局は翌月の13日に落城します。

この情報は直ぐに京都へ入り、大混乱となります。また、同時に松永久秀の元にも入っていました。足利義昭も奈良興福寺一乗院門跡(当主)であった経歴から、諸方に向けて音信をし、織田方の軍事行動を支援していました。
 この勢いに驚いた朝廷は、織田信長に禁中(御所)警固を命じます。信長はこの上洛の年からの名乗りが「弾正忠(だんじょうちゅう)」でこれは、警察に相当する役職です。これを見ても、用意周到です。

先だって、23日、足利義昭の側近細川藤孝、近江国人甲賀の和田惟政が京都へ入ります。その2日後、最先頭の兵が京都へ入り始めます。また、この頃には、主要な人物は京都を落ちていきます将軍義栄、その関係者である水無瀬親氏などの公卿です。三好方の主要な人物も退却を始めていました。
 京都に近い勝竜寺城には、三好方の石成友通(いわなりともみち)が居て、交戦しましたが直ぐに突破されてしまいます。芥川山城(高槻市)付近でも同じでした。敗走した三好方の人々は、一旦池田城を目指したようです。池田城下は街道を多く交差させていたため、ロータリーのようになり、どこに向かうにも一旦は安全な城に入るという状況だったようです。
 そういう緊迫した状況にあって、人々がもたらす情報も池田城に入り、池田勝正は防戦体制を整えていたことでしょう。

さて、素朴な疑問がありますよね。皆逃げるのに池田勝正だけはなぜ、戦ったかという疑問。これには理由があります。三好勢の本拠は、四国や淡路島で、そこへ逃れる事ができたのですが、池田衆は地場勢力ですから、逃れる場所がありません。ですので、戦わざるを得なかったのです。
横岡公園から西側を望む
横岡公園から西側を望む

9月30日、池田城の織田信長の軍勢が池田城を包囲し、合戦が始まります。この時、信長も池田まで出てきており、陣を敷きます。今の池田市五月ヶ丘にある横岡公園がその陣と考えられます。ここからは、池田城がほぼ俯瞰できて、山へ通じる主要道も封鎖できる絶好の位置です。ここから西側へは急激に地形を下げ、展望は良好です。

 この池田城合戦で池田勝正は激しく抵抗し、信長の親衛隊が戦死、大けがをするなどして後退しました。そのため、力押しは止めて、城下を放火するという策に出、これをもって池田勝正は、10月2日に降伏を申し出て合戦は終わります。3日間の闘争でした。
 この池田城の戦いをもって、上洛戦は決着がつき、織田信長の一連の軍事行動は終わります。池田勝正は翌日、芥川山城の足利義昭・織田信長を訪ねています。
 18日、足利義昭は京都にて将軍宣下を受けて、第十五代室町将軍となります。22日、将軍義昭が禁裏(天皇)へ参内し、この時の警固に池田勝正は市中警固役を担っています。24日、池田勝正は将軍へ参内し、摂津守護を任されています。
 元々池田家は将軍義晴の代から御家人(江戸時代の旗本)格を得ており、将軍を護る任を命ぜられていたため、これはその流れに沿ったものでした。しかし、守護となれば、更に社会的地位が上がり、歴代池田家当主の中でも勝正は最高の社会的地位を得たことになります。ちなみに、守護とは今の府・県知事に相当します。
 池田家にとって、一旦は敵対したものの、敗軍して浪人すること無く、中央政権側に取り立てられてのですから、秋の稔りは全て失うことはありませんでした。それは家臣にとってこの上ない安堵となったでしょう。しかし、安心ばかりではなく、これに期待する幕府側の思惑があったのです。

一方、第十四代足利義栄はどうなったのかというと、京都を落ちのびて、阿波国本拠へ戻る途中の鳴門撫養(むや)で腫れ物を患って死亡しています。しかしこれは、松永久秀の暗殺説もあったりします。不自然な点が多いためです。

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<永禄12年>--------------------
◎正月 六条本圀寺合戦

六条本圀寺跡に残る門
六条本圀寺跡に残る門
この合戦は、5日から7日にかけて行われています。三好三人衆が再び将軍を殺害する可能性もある行動でしたが、何としても京都を護る将軍の役目だけは堅持すべく、重要な戦いでした。しかし、京都に適当な城は無く本圀寺という法華宗のお寺を将軍は居所としていました。明智光秀などの側近もここに居り、この戦いに側近衆は奮戦し、少数で見事に将軍の命を守りました。
 一方の池田勝正も救援にかけつけて勇敢に戦い、将軍を護る任務を果たしました。しかし後年の書物では、池田勝正が間抜けで、逃亡したとのウソが書かれており、当時の史料を見ると、この防戦に中心的役割を果たしていたことがわかります。

三好方は、第十四代将軍義栄を失い、求心力を欠いてしまいましたが、京都での活動が長く、まだまだ勢いはありました、時を移さず反撃の準備を調え、京都の奪還を画策していました。和泉国方面までは上洛戦の手が及ばず勢力も温存していましたし、堺でも三好方に組みする勢力が多くありました。
 年末から既に軍事行動を起こしており、京都を目指して各地で合戦が起き始めていました。それらの動きが、想定以上の早さで北上し、正月には京都間近の河内国枚方まで達しています。これらの情報は既に池田家にも入っており、準備はしていたようです。京都奪還のための相当数の兵で攻め上っていました。五千を超える兵数だったようです。
 1月4日には、三好方の軍勢が京都東福寺に陣取りを行い、京都市中は再び騒然となります。池田衆は将軍義昭を護るため、池田を出発しますが、この時高槻に居た入江氏が三好方に組みしたため、西国街道が塞がれ、大きく迂回することになりました。島本町大沢方面を通り、長岡京方面へ出る道を通り、京都へ向かいました。この当時は積雪もあり、非常に時間がかかったようです。

1月5日、京都六条にあった本圀寺を三好勢が襲います。しかし、西から池田勝正・伊丹忠親などの軍勢が迫って、手勢を割かなければならず、本圀寺に居た明智光秀などの少数の兵は、それも利用しながら奮戦しました。織田信長もこの報に接すると単騎で京都に向かい、10日に京都へ入っています。

1月7日夜、この日の午後に決着がついたらしく、池田勝正は細川藤孝などとともに勝竜寺城に入りました。桂川方面から池田勢は駆けつけましたが、桂川は水深深く、流れも早いために人の力では制御不可能ですが、当時の記録では西から切り込み、七条あたりで合戦になったようです。また、幕府などの重要人物は、池田城を目指して避難しており、池田城は当時からも堅固な城との認識があったものと思います。また、10日に信長が京都へ入った折、守りの備えが堅固なことに感心し、池田紀伊守正秀を褒めたという記述があります。

織田信長は、三好方の勢力が未だ侮りがたいとして、直ちにそれらに加担した勢力の討伐戦を行います。同時に、将軍の居所たる城の必要性を痛感し、二条城の建設を行います。これらに池田衆は経済的・労働的負担を強いられていました。


◎夏 播磨・但馬国攻め
但馬山名氏の居城子盗山城跡
但馬山名氏の居城子盗山城跡


三好勢力の討伐と幕府の経済基盤を確保するために、旧地の回復を企図して行動します。但馬国の生野銀山は当時からも有名な鉱山で、これの権益を手に入れるべく、山名氏の討伐の名目を立てます。
 この時も二万の大軍勢を整えて出陣します。池田勝正もこれに従軍して、主要な役割りを果たします。10日程で、18ヶ所の城を落としました。また、播磨国へ入る名目は、幕府方につく勢力の救援で、播磨国龍野の赤松氏支援でした。一方、山名氏討伐は、具体的な背反が見当たりませんが、要は、生野銀山を取り手に入れるためです。この軍事行動で、一応の目的は達して引き揚げますが、誤算が生じました。支援していた龍野赤松氏が、青山の戦いに負けてしまいます。三好方だった黒田官兵衛にです。
 そのため、退路を断たれる恐れが生じ、急遽、幕府軍は但馬から撤退し、播磨国を経由して、それぞれ本拠地へ戻りました。

◎秋 播磨国へ再び出陣

播磨国庄山城跡(現姫路市)
播磨国庄山城跡(現姫路市)
夏の出陣が目的達成不十分であったため、現地勢力の要請もあって再び同方面へ出陣する事になりました。これにも池田勝正は出陣しています。この頃の室町幕府は、友好勢力を維持するため、要請に応えて行動しつつ、自らの利益も実現するような行動をしていました。
 当時の播磨国など西側の方面は関係が複雑で、三好方に加担する勢力とそれに敵対する勢力が、自己防衛政策を軸にしたまだら斑模様の勢力状態にありました。例えば、黒田官兵衛が属する小寺家は置塩城の赤松氏の家老で三好方、それに敵対する龍野の赤松氏は幕府方、その西の勢力、備前国浦上・宇喜多氏は三好方、更に西の毛利氏は幕府方などという、混沌とした状況でした。瀬戸内海を挟んで、対岸に三好勢力があるため、小さな勢力は強い勢力に結びつきやすい状態になってしまいます。

状況的には、毛利氏が突出した勢力であっため、主にそこを中心として同じ勢力の支援をし、かたまりを作ろうとしていたようです。幕府に加担する龍野赤松氏を支援し、同族の争いを終わらせて統一を手伝おうとしていたようです。
 10月、池田勝正は再び播磨に出陣し、室山城(現たつの市)などの周辺を攻め落として引き上げています。この時は、海側の街道を通って進んだようです。
 またこの時、池田衆の一派が鵤莊内(揖保郡太子町)を乱暴し、斑鳩寺の懸け仏を持ち去ったという史料があります。経緯は不明ですが、そういったこともあったようです。ケンカか何かがあったのでしょうか?

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<永禄13年>--------------------
◎正月 諸国へ京都参内への触れを出す

将軍義昭を中心に室町幕府の再興を願って東奔西走しつつ、敵味方を判別するための方策も思いつくようになります。将軍を敬い忠誠を誓うために上洛せよと、諸大名に触書を出します。これに応えない者は、当面の敵と判別できることになります。ここに越前朝倉氏の名も見えます。また、朝倉氏に拉致軟禁されていた若狭国守護家の武田孫犬丸元明の名もあります。事実上不可能なことを突きつけ、攻め込む口実にしていた面もあると思います。
 この触れを出して間もなく、名指しされた大名は京都へ入り、将軍へ挨拶を行います。この中には池田勝正の名もありました。将軍への謁見と、様々な土産を献上し、誼を通じました。
 一方で、早くも織田信長と将軍義昭の不破が表面化しており、同じ時期に一旦の和解をしています。これ以前にも度々不和があり、周辺が心配するような状況も度々ありました。

◎3月  将軍義昭・織田信長、朝廷から越前朝倉氏征伐の勅許を得る
1日、織田信長は天皇から勅許を得て、朝倉討伐を行う事が認められます。これにより、錦の旗を立てた幕府軍を朝倉氏との戦いに利用できました。私戦では無く公戦となり、見方の離叛者を出す可能性を低くし、相手の謀反も誘うことができます。また、近隣の小勢力が幕府・織田信長方に従うようになります。
 更に、改元も予定し、その行軍中に「元亀」と改元する手はずも整えていました。また、出陣に合わせて、京都で建設中の二条城も完成させる予定でした。同時に、禁裏(宮中)の紫宸殿の修復も完成させました。

この動きに池田衆も動員されることになっており、摂津国内で最有力であった池田家は幕府方の中心的軍事勢力として三千の軍勢を出陣させました。幕府は立て直しを始めたばかりで、これ程の軍事力を持った単独の勢力は京都周辺にはなく、池田家が最大の勢力でした。しかし、池田家にとっては、度々の軍事動員が大きな負担でもありました。

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