2026年3月9日月曜日

摂津国豊嶋郡古江村(現大阪府池田市古江町)にあった古代寺院の(伝)等覚寺を探る

池田市五月台展望台(五月山)からの古江町遠景
今の大阪府池田市古江町にあったと伝わる古代寺院の等覚寺について、考えてみたいと思います。
 この等覚寺については、戦後は特に歴史資料上では、あまり触れられなくなって益々探求から遠のくばかりになり、人々に忘れられようとしています。
 それらの伝承資料を確認するため、池田市細河地域の各場所を踏査しています。その結果、それらは確かにあったと実感しています。
 また、考慮に入れるべき興味深い分野として、この辺りは鉱山がおおくあるということです。猪名川上流から五月山にかけては日本有数の鉱山地帯で、満仲を祖とする多田源氏が大きく勢力を拡大していった背景に、これらの鉱山の支配は見逃せません。長暦元年(1037)に摂津国能勢郡で銅鉱が発見され、銅が朝廷に献上されたことが『扶桑略記』に記述されています。(古江の歴史と民俗)
 今後は、各分野の専門家にも相談し、それらの意味を確認して、認定を行っていきたいと考えています。非常に有意義な発見に繋がる可能性も大いにあると考えられ、今後も地道に調査を進めていきたいと思います。

◎伝えられている等覚寺の姿
戦前に発行された池田町史(昭和14年発行)には、以下のようにあります。
※池田町史 第一篇(風物詩)P317

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【等覚寺址】
古江北方にあり、伝え言う当寺は天平年間(729-49)僧行基の開基なりしが寿永年中(1182-85)の兵燹にかかり、悉く烏有に帰せしと。今は田圃となりて遺址の見るべきものなきも字地に寺名及堂塔址を残せりと。(大阪府全志)
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この出典そのものは、大正11年(1922)11月に発行された『大阪府全志』によっています。内容は、殆ど同じですが、以下に掲示しておきます。
 ※大阪府全志3(昭和50年復刻版)P1116
 
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【大字古江】
(前略)等覚寺の址は北方にあり。伝え言う、寺は天平年間僧行基の開基なりしが、寿永年中の兵燹に罹りて悉く烏有に帰せしと。今は田圃となりて遺跡の見るべきなきも、字地に寺名及び堂塔銘を残せり。本地の領主及び区画の変遷は、大字中河原に同じ。
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どちらの記述にも「字地に寺名及び堂塔址を残す」とあるのですが、地籍(地番)には、今のところあたっておらず、これはまた、課題としておきます。位置特定が更に具体化するかもしれません。

古江村地図(新修 池田市史より)
◎近世に見られる等覚寺の記述
それから、平成11年(1999)に発行された『新修 池田市史』に等覚寺についての記述がみられます。
※新修 池田市史2-P156

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【古江村の寺社改め】
村の中には、住職や神主のいない小さな寺堂や庵、神社が多く存在した。(徳川)幕府はこれらの把握のため、村ごとの寺社改めもおこなった。元禄5年(1692)の寺社改めでは、古江村・畑村の届の写が残っている。
 「古江村寺社御改帳」には、寺として無二庵・清香寺、神社として八幡宮が書き上げられている。無二庵は、文明10年(1478)開基の禅宗の古刹で、当時は了納が住持を務め、その境内は除地となっている。無二庵境内には等覚寺・森堂があるが、前者は行基開基の伝承を持つ観音堂、後者は観音休堂とされている。もともと観音信仰があったところに、無二庵が開庵されたとも考えられる。八幡宮も無二庵の鎮守とされているが、起源は案外古い可能性があろう。無二庵では、近世には村の寄合も行われたこともあった。また清香寺は年貢地にあり、寺は廃絶して寺号のみ残り、敷地は村が支配して助兵衛に管理させていた。
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今もある無二庵(観音堂)
上記の伝記によると、文明10年には既に開創されていた寺であり、別説の永禄5年(1561)開基は、再興などいう事になるのかもしれません。
 また、同寺の山号が「鼓瀧山」とは、鼓ヶ滝を想起させる命名ですし、境内に「等覚寺」があるのは、無二寺が系譜を引き継いでいる要素があるのかもしれません。今後、もう少し調べてみます。
 それから、無二寺が八幡宮をも掌管していたと届け出ているのも気になります。古江村から少し離れた場所にある久安寺(現池田市伏尾町)内に城があり、それが「八幡城」であったと伝わるため、何か関連があるのかどうか気になります。

加えて、同市史から等覚寺についての記述をもう一つご紹介します。
※新修 池田市史2-P728

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【開基をめぐる諸説】
万治3年(1660)2月、片岡村惣道場(現八幡山 如来寺)の屋敷用地として、字等覚寺の下畑一畝五歩(35坪)が、代銀60匁で古江村本郷の七左衛門から片岡村へ譲り渡された。また、道場庫裏屋敷の用地として、字八幡屋敷の下畑十六歩(16坪)が、片岡村の治右衞門から代銀50匁で譲られている(「記録帳」)。(後略)
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上記には、同村内片岡の惣道場の屋敷用地として「等覚寺の下畑」の一部が売却されています。この場所がどこなのか、今のところ調べが及んでいませんが、片岡村が古江村の中心集落(本郷)とは少し離れた別の麓に展開されている集落ですので、等覚寺の土地の一部を売却するとなると、同寺域はこの山の頂きあたりに広く展開していたのかもしれません。

伝等覚寺からの系譜
を持つ聖観音立像
(池田市史 史料編より)
◎無二寺十一面観音立像についての調査結果

次に、十一面観音立像についての公的調査の結果をご紹介します。
※新修 池田市史1-P463

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【無二寺十一面観音立像】
古江町無二寺(曹洞宗)の観音堂に、十一面観音立像が本尊としてまつられている。像高102.9センチメートル。頭上に髻を結い、如来化仏、変化面を載せ、条帛、天衣、二段折返しの裳を着け、右手を垂下し、左手を屈して華瓶を持ち、左に腰を捻り、右脚を遊ばせて蓮台上に立つ、通行の十一面観音像である。
 材はクスかと思われるが、より検討したい。髻は別材であろうか。頭体幹部は右手首、左臂先を矧ぎ付ける。両足先も矧ぎ付ける。如来化仏、変化面を差し込む。天衣の両体側に垂下する部分を矧ぐ。これら矧ぎ付け部はすべて後補で、そのほか、大きな両耳、金銅製の冠帯と胸飾、地付きに一本出ているほぞも後補である。そのうえ地付きから5.0〜8.0センチメートルの高さまでを後補としている。この像の後補直前での状態はあまり良くなかったことがわかる。さらに全身に胡粉下地に古色を塗っているが、これも後補で、このために大きく美観を損ねている。
 やや面長ながら眉、伏し目は伸びが良く、品の良い鼻、小さな口は穏やかな表情となっている。しかし起伏の少ないところは、後世に手を入れているためと思われる。撫で肩で細身の体軀は女性的である。首を立てて、やや猫背に立つ側面観は平安後期に一般的なもので、扁平は体側も同じである。彫りも浅く、衣丈も無丈で、淡泊な印象である。角立った衣丈の表現、地付き部に裾が付く表現が当初からの形であるなら古い要素を持つと考えられ、制作期は12世紀末ごろと思われる。本像も原所在地は不明である
 なお、台座天板裏面に墨書がある。
大坂堺筋平野 / 大坂御堂筋 /(墨消)但馬 / ■保三 / ■年十一月 / 貞二郎 / 大仏師 / 外記(花押)
これにより台座は天保3年(1832)に制作されていることがわかる。光背も同時で、全身の古色もこの時と判断される。
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この公的な鑑定結果からしても、12世紀末頃と判断されており、平安時代に遡る歴史を持つ仏像です。やはり、等覚寺から受け継いだ仏像の可能性が高いと考えられます。また同結果から、伝等覚寺の言い伝えによる「寿永年中(1182-85)の兵燹にかかり、悉く烏有に帰せし」との時期的な一致もみられ、この「聖観音立像」は、その後に復興された仏像である可能性も考えられます。

◎伝等覚寺と鼓ヶ滝遺跡は、連続した関係性があるのか
それからまた、等覚寺跡は、古江の北方にあったとしており、ここには「鼓ヶ滝遺跡」もあります。それについて、兵庫県川西市発行(1998年)の『かわにし文化財ウォーキング』に、同遺跡の紹介がありますので、ご紹介しておきます。
 ※かわにし文化財ウォーキング(川西市教育委員会)P36
 
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摂津名所図絵に描かれた鼓ヶ滝(旗指山ともある)
【鼓ケ滝遺跡 古代の狼煙台?】

能勢電車を鼓ケ滝駅で降りて、線路沿に南へ歩くと、相当急な坂道になります。この坂道を登りきった山項に鼓ケ滝遺跡があります。
 鼓ケ滝遺跡は、この山項を中心に東西約700メートル、南北約250メートルの範囲で、現在の池田市と川西市にまたがっています。この遺跡については、弥生時代中・後期の巣落跡という以外は不明で、これまで2回の発掘調査でも溝やピットがみつかっただけで、住居跡や墓などの集落の構造を確認できる遺構はみつかっていません。また、遺物は弥生土器や石器が多数出土していますが、土器については細片がほとんどで、形のわかるものはほとんどありません。その中で、地元の山県みさおさん採集品の中に、高さ8.2センチメートルの弥生時代後期の壺形土器が1個あり、当時の生活を知る唯一の手掛りとなっています。
 弥生時代中期から後期にかけて、大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸にかけての地域では、鼓ヶ滝遺跡と同じように標高100〜200メートルの山頂に集落をつくることが多くなり、これを高地性集落と呼びます。
 高地性集落は、高い山上に集落があるために稲作には適しません。それでは、なぜ、このような所に集落をつくったのでしょうか?
 各地の発掘調査例をみてみると、濠や土塁のようなものが集落の回りを巡っていたり、鉄・銅・石鏃や投弾と考えられる石器が多数出土しています。また、中国の歴史書の『後漢書』に「倭国大いに乱れ…」という記載があることから軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。中でも芦屋市の会下山遺跡は有名な高地性集落で、遺構などを現地で見学できるようになっています。
 鼓ケ滝遺跡周辺は現在でも但馬・丹後方面へ向かう交通の要衝です。弥生人達も山上から人々の通るのを眺めて、危険がせまると狼煙を上げていたのでしょうか。
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鼓ヶ滝遺跡全景(かわにし文化財ウォーキングより)

ここには「軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。」との見解が示されています。
 「鼓ヶ滝(山)」の軍事的な要素について、もう一つ資料を見てみましょう。

◎『摂津名所図絵』に描かれた鼓ヶ滝と旗指山
摂津名所図絵の各地の名所解説に以下のようにあります。絵図の赤色丸印部分です。
※摂津名所図絵(臨川書店)下巻P71

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【旗指山】
多田村にあり。峰巒高聳(ほうらんこうしょう)にして、一郡の秀嶺なり。曾て満仲公此の峰に御旗を靡かし、諸軍の機を窺い給うとなり。
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江戸時代の伝承ですが、鼓ヶ滝の高みを利用して陣を取っていた様が「旗指山」として使われていたと伝わっています。
 このように、非常に興味深い要素を多々確認できます。高地性集落として使われていた「鼓ヶ滝」の付近では、同じく高台に環濠を伴う大集落を形成した、加茂遺跡があります。

◎地図から考えてみる
地図を見てみます。ここは今も昔も境目で、近世から近代に至るまで、摂津国の豊嶋郡と河辺郡との境界でした。現代は、大阪府と兵庫県の境で、非常に重要な場所です。
  そして更に、現代の地図を見てみますと、兵庫県川西市鼓ヶ滝1丁目16番のあたりが、奇妙に大阪府池田市側に入り込んだ境界になっています。この理由は解りませんが、意味があるのだと思います。

Google マップの衛星写真モード(キャプチャー)

明治42年測量:陸軍参謀本部地図

そこで更なる推測のため、赤色立体地図を見てみます。生活に欠かすことのできない「水」を確保するために、谷を人工的に普請したと思われる跡が多数見られます。自然地形を利用して、水を配る事を企図したらしき跡(赤色実線)が、同一線的に南北に見られます。この谷を堺とするように、東西に大きな区画が感じられます。

赤色立体地図による地形の観察


それからまた、この鼓ヶ滝遺跡及び古江の等覚寺跡あたりは戦国時代後期には、摂津国豊嶋郡を中心とした池田氏が五月山南麓に本拠を構えて、勢力を拡大していました。河辺郡との境である、この丘陵を重要視していたと考えられる事から、等覚寺跡や高地性集落跡を再利用するなどしていた可能性が考えられます。

ミツマタ(枝が3つに分かれる木)
ちなみにこの付近には、紙の原料である、ミツマタなど木が多数みられます。都市や寺院では紙の需要が大量にあり、これを満たす(賄う)ために、生育環境に適する場所には悉く植えられていたと思われます。概ね、谷に多く植えられていたようで、多数を目にしました。

◎能勢街道は摂津池田氏の地域政権にとっての基幹道であった
摂津国豊嶋郡を中心とした地域政権である池田氏にとって、その本拠地の地勢特性上、経済・軍事上、最も重視したのは能勢街道でした。
 発掘調査によると、池田城変遷過程の最終段階で、能勢街道を城内に取り込む構成になっており、同街道を重視していた事が解ります。したがって、少なくとも政策として、領内にある同街道は管理・監視する必要があったと思われますので、古江丘陵のあたりがそう言う意味で、最北端の重要拠点になっていたと考えられます。
 
◎室町時代末期の郡境の推測

一方、河辺郡には、多田院御家人筆頭とされる塩川氏が居り、池田氏にとっても、この丘陵がその敵対していた頃には、最前線になっています。その時代にもやはり「要塞・のろし台・みはり台」などの機能を持たせた要地であった可能性は高いと考えられます。
 この古江地域には、能勢・多田・妙見街道を通し、猪名川には川港があったようです。五月山南麓に本拠を構える池田氏にとって、この地域は後背を守る重要な地域であり、交通の要衝であっため、主体的な管理を是非とも行うべき所でした。これは、天文年間からそのような動きがあったのかもしれません。 
多くの重要街道が交差する細河郷
(新修 池田市史)
 伝等覚寺についての興廃は、資料上で辿る事は難しいと思われますが、現地地形やフィールドワーク(現地踏査)を通じて、その間を埋める事は十分に可能だと考えられます。
 現時点での見立ては、妙見道などを通すこの舌状丘陵は、天文から永禄年間以降の隆盛期の池田氏が、この地域を掌握していたのではないかと感じています。
 その根拠の一つは、永禄5年(1561)、僧雲清により創建(別説では文明10年開基)されたとされる(大阪府全志)古江村内の鼓瀧山 無二寺が、池田氏の菩提寺である大広寺末寺である事。ここには和泉式部に関わる宝篋印塔があり、それにまつわる伝承も存在し、池田と関わっています。それを擁する事についても無縁ではないと思われます。
 その他にも、その丘陵上に多数の池田氏に関連するらしき遺跡が多数あり、それらを総合しても、この丘陵の支配は池田氏が優勢であった事を伺わせます。
 また、同じく古江村内の小字片岡というところの伝承では、「古御坊」と呼ばれる寺院があり、それが池田城の落城と共に焼失し、廃寺となったとの伝承があります。
※新修 池田市史5(民俗編)P333
 
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【古御坊
村の墓のもう一つ上の高いところに、古御坊というお寺があったという。今でもそこは、古御坊と伝えられている。戦国時代に池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。そこに寺男としておった人が片岡〇〇という人で、寺が焼かれて行き場がないので、ここに降りてきて住み着いたという。その片岡某の名前からここを片岡といっていた。江戸時代は古江村字片岡といわれていた。
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この伝承では、「古御坊は池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。」とあるため、天正6年(1578)秋から始まる、荒木村重の信長政権からの離反に伴う闘争に関係するかもしれません。
 拡大して想像するなら、大和国北部の松永久秀の守備構想のように、多聞山城と鹿背山城を一体化させたものであったり、荒木村重の伊丹城と池田城の連携のように補完し合う守備構想を立てていた可能性もあったかもしれません。何しろ鼓ヶ滝の山は低く、東側の「現滝山」から俯瞰される状況でもあり、この不利を補って維持する必要(工夫・連携構想)があったとも考えられるからです。

昭和43年10月頃の唐船ヶ淵付近
(グラフいけだNo.27 1978年3月発行)
摂津池田城の守備構想の中にあったと思われる猪名川は、水量の少ない冬期などは、徒渡り(徒渉)が可能で、岩や石が多い川原に板や梯子などを渡せば対岸に渡ることができます。
 それ故に、各地に渡河阻止や、渡られた場合の備えが必要であったと思われます。そういう意味でも、城や寺などで監視や管理、防御想定などがされており、村の避難所的な曲輪が多数見らるのは、その結果であろうと考えられます。

史料上からも、多くの街道を交差させる池田領内において、敵の侵入による合戦が、天文年間(1532-55)以降徐々に少なくなり、永禄年間(1558-70)になると殆どありません。非常に防御が固かったため侵入できなかったのだと思われます。

それらから想定される事は、古江地域の地政学的要素の不変性を帯びており、弥生時代から永きに渡って、利用され続けた実態です。伝等覚寺や伝古御坊は、時の勢いによる実態の痕跡と考えられます。


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