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2021年5月15日土曜日

荒木村重の重臣であった宇保対馬守が在地に城を構えた可能性について

永年、気になっていた、大阪府池田市にある宇保地域について考えを深めたいと思います。
 この地域に縁(ゆかり)があると思われる「対馬守」や「彦丞」「平三郎」などの名乗りを冠した宇保氏が、史料に現れることから、侍格身分の有力者が存在したことは確実と思われます。
 また、宇保村の猪名津彦神社は、伊居太神社(現池田市綾羽)の御旅所であることから時代が近世となっても、在郷町としての池田村との結びつきも強く、節目毎に作成される村絵図(地図)にも宇保村は関連づけされて記録されています。この宇保辺りの様子を「穴織宮拾要記」には、「池田ノ町屋ハくれは田より宇保尊鉢につつく也、中新町ハ絹屋町也と有」と記録されています。
 「クレハ」は、後に荘園となりますが、それ以前は豊島郡の北半のこの地が北条地区と公称され、宇保・佐備村のような村々が分立し行政区画が組織されていました。
 荘園体制の崩れ始めた同じ頃、池田市宇保地域には、呉庭総社の天王社が興り、これに地域開発有力者の坂上・土師氏につながる倉七郎正季がその神主を勤めています。天王社とは、中世時代に急速に発展した牛頭天王のことで、京都の八坂神社を中心とする信仰です。また、正季の嫡子正弘は、天王社神主に加えて、禅城寺俗別当に就任し、更に地域の求心力を高めています。
 有力者にとって、土地の神社・寺院の支配は極めて重要で、このような例はいくつもあります。この地に牛頭天王が勧進されたのは、草創期の鎌倉幕府の支配権確保の目的があったようです。また、創建年代は不明ですが、この禅城寺も呉庭荘にとって、関係の深い寺で、この名残りが今も観音堂として同地にあります。
 池田市の歴史にとって、宇保地域は非常に重要ですので、『新修 池田市史』には大変詳しく取り上げられており、ご興味のある方はそちらをご覧下さい。第5章第1節(391頁)や第8章第1節3(609頁)などにあります。

また、宇保には猪名津彦神社があり、その境内は古墳時代後期の円墳です。この一帯は宇保段丘と呼ばれる猪名川左岸の河岸段丘の西端で、少し高くなっています。
 それから、池田のクレハトリ・アヤハトリ伝説の場所の一つ「染殿井」が、宇保の猪名津彦神社から真西に、直線距離で300メートル程の距離にあります。クレハトリ・アヤハトリは、応神天皇即位37年(西暦306年)頃のこととされています。その頃、ここに井戸があったようですが、大正時代頃の地図では、この井戸のあたりに川が南北に走り、池田郷から南へ走る神田村へ通じる道もありました。今は、区画整理されてしまい、全く面影は残っていません。

さて、室町時代末期、いわゆる戦国時代に摂津国内最有力の勢力(国人)に成長する池田氏は、当初、現池田市南部地域に勢力を保っており、時を経て次第に北上するなどして、今の池田城跡公園に本拠(城)を構えるに至ります。元は藤原姓であった摂津池田氏の起源は、池田市南部に持ち、西国街道などから得る金融・商品経済の恩恵を受けるなどして成長したと考えられています。
 少々時代が降っていますが、その一端を知るための当時の記述を上げてみましょう。『新修 池田市史 第一巻(P608)』からの引用です。

(資料1)------------------------
応仁の乱を通して、年貢・貸金などの収入は増加し、国人領主のもとに富が蓄積されていった。こえは応仁の乱以前のことであるが、文正元年(1466)春のこと、京都の相国寺蔭凉軒の季瓊真蘂が有馬の温泉に湯治に赴いた。この時、池田充政が有馬に真蘂を訪ねた。充政は自家の収入について話したのであろうか、真蘂の日記『蔭凉軒日録』に「池田の一ヶ月の子母銭は是、千貫也。然れば則ち一年一万二千貫文也。一年中の米子一万石を収むと云々」と記している。子母銭は貸し付けた金利である。金融資本家としての池田氏の一面である。
------------------------(資料1おわり)

中世池田氏が、軍事・防衛上の理由により、本拠地をより北方へ構えた事から、南部地域の出先機関的な意味合いも持っていたのかもしれませんが、宇保村は、いつの時代にも池田氏にとっては重要視されていたと思われます。平たく言えば、仕事仲間と言っても良いでしょう。その宇保村について、詳しく記述されている資料がありますので、以下に抜粋します。

【脚注】
各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】としておきます。

◎ご注意とお願い:
 『改 訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。ま た、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の 消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企 画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ 宜しくお願いいたします。

(資料2)------------------------

  • 池田村の南東部にある字名。承元2年(1208)3月19日の女清原氏田地売券案(勝尾寺文書)に「在豊嶋北条宇保十九条二里卅四坪内」とみえるのが早く、嘉禄2年(1226)11月18日の有馬淡治田地売券(同文書)・同3年10月12日の土師恒正田地売券案(同文書)にもみえる。このうち嘉禄2年の売券の端裏書に「くれはのたのけん」とあり、また同3年の売券案には売地である「宇保十九条卅四坪之内」の四至に「限南呉庭寺地」がみえ、宇保村は呉庭庄に含まれる地であった事が知られる。中世後期、池田氏の本拠地として池田に町屋ができ発展してくる頃には宇保村の名は史料に登場しなくなる。近世、池田村の中の字名としてもみえるが、宇保町・宇保村の呼称はみえない。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)では宇保に庄屋1、職業無記載(百姓と思われる)32戸で、農村地帯となっている。安永9年(1780)の書上写(小西家文書)では宇保分として139石4斗6升9合が記される。【地名:宇保村】
  • (前略)坂上氏の先祖は、この猪名津彦神社の祭神「阿知使主・都加使主」で、池田の呉織・穴織伝説の織姫を呉の国から招いて仁徳天皇に奉った人物です。この様な由来で宇保は坂上氏の拠点となって来たのでしょう。宇保にはもと坂上氏の菩提寺「禅城寺」があって、「池田の観音さん」として有名でした。
        この地には猪名津彦を葬ったと思われる横穴石室の円墳と小さい祠がありました。今も境内に巨石や300年を越える樹木の切り株が残っています。文化2年(1805)石棺が開けられると、中には朱に染まった遺物が発見されました。伊居太神社の神官がこれを持ち帰って、境内に埋葬しなおしました。
        長い年月が経過して伊居太神社に預けられていた古墳の御神体は、昭和33年(1958)髙床式本殿と拝殿が建てられて再び御神体が勧請されて祭られたのが、現在の社殿です。巨石のいくつかは石垣に利用されました。戦後伊居太神社の神輿が、建石町衆によって宇保の猪名津彦神社まで巡幸した事もありました。
        お祭りは伊居太神社の夏越祭・秋例祭に合わせて行われています。(中略)神社の再建も地車も祭りも全てが地元宇保の方々の努力によって、行事として伝承され、歴史上有重要な史跡として保存されてきました。【改訂版 池田歴史探訪:猪名津彦神社】

------------------------(資料2おわり)

また一方で、宇保地域は、地形が起伏に富み、要害姓もあります。池田城南部の防御施設としても機能させていたものと思われますし、何より、村を守るためには、有力者がその必要性を感じていたはずです。川や用水の管理と言った面もあるでしょう。
 今のところ、それらの想定が公的にはされていないために、それに関する物理的な発掘調査などは行われていませんので、私個人的な推定になるのですが、やはり、永年に渡って気になっています。

さて、宇保という地域名を名乗る宇保氏について、考えてみたいと思います。その全てを調べた訳ではないのですが、時代的に割りと早い時期から史料に現れるのは『春日社柛供料所摂州桜井郷本新田畠三帳』です。これに宇保氏が記述されています。これは、奈良春日社南郷目代(荘官)の今西家に伝わる帳簿で、永享元年(1429)8月の記録です。
※豊中市史(史料編2)P226

(資料3)------------------------
十五条六リ 一反小 作少路道久 宇保方
------------------------(資料3おわり)

非常に長い記録ですので、前後は略しています。宇保氏は、奈良春日社領である桜井郷内の土地(十五条六リ)に一反(991.74平方メートル = 300坪)と少しの耕作地を持っていたようです。その土地で実際の農作業を行うのは、少路道久で、これは宇保方と契約していたようです。宇保氏は、「給人」といって、耕作地で作物生産の権利を得ている人物で、土地所有者(奈良春日社)に毎年、年貢を払います。小作人として少路氏がここを担当していました。
 また、天正7年11月に発行された『春日社領垂水西牧南郷知行方目録』にも、宇保氏の名が見られます。
※豊中市史(史料編2)P505

(資料4)------------------------
宇保分 与(與)三二郎 田数一町六反六十歩(一所取三ヶ所) 御供四斗三升六合
------------------------(資料4おわり)

これは、荒木村重が織田信長政権から離れる直前の記録です。この時には、宇保氏は同じ春日社領の垂水南郷にも給分を持っており、かなり広い面積を得ていたことが判ります。

一方、有力者として、また、武士として活動していた記録も見られます。この文書(『湯山文書』)は短いのですが、その内容に池田家中20名が署名している文書です。6月24日付けの年記不明史料ですが、個人的には元亀2年(1571)と推定しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503など

(資料5)------------------------
内容:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名者:小河出羽守家綱(不明な人物)、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫数秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■、萱野助大夫宗清、池田勘介正行、宇保彦丞兼家。
※■=判読不明文字。
------------------------(資料5おわり)

続いての史料も年記不明ですが、内容からすると、天正2年(1574)と思われる3月15日の文書です。池田家の解体に伴って頭角を現した荒木(この時、信濃守)村重が、織田信長方として尼崎巽・市庭の年寄中へ宛てて発行した音信です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P432など

(資料6)------------------------
先年の御朱印旨に任せ、法華寺内之儀、拙者申し付けるべく為上使差し下し候。早々堀構え之事、申し付けられるべく儀肝要候。委細宇保対馬守・観世又三郎申し含め候。恐々謹言。
------------------------(資料6おわり)

重要な港町であった、尼崎の町を再構築するために、本興寺門前の市庭の役員へ重要事項を通達した文書です。早急に堀を構えるように通知しています。この通達の使者として宇保対馬守が尼崎に赴いています。現地では上位からの細かな指示や、現地見聞を行ったことと思われます。

一方で、上記とは別と思われる宇保氏一族の活動も見られます。

鋳物師関連史料の中に収められている史料集に、荒木村重没落後、村重の嫡子次男である荒木村基被官と思われる宇保(四郎兵衛尉)真清が、公卿の日野家雑掌真継兵庫助久直へ宛てて音信しています。また、これへの関連史料があり、同件について、村基が同じ所に宛てて音信しています。
※中世鋳物師史料(名古屋大学文学部国史研究室編)P141、144

(資料7)------------------------
◎先刻申し入れの如く候。彼の知行分之儀、荒木(弥助)村基存分に成し申し候者、知行分存知候間、重馬のかい料之儀、進められるべく申し之由、松台(松永霜台か)仰せ付けられるべく候。恐々謹言。 3月26日 宇保真清 ※宛先:眞兵 まいる御宿所
◎彼の間之儀、急度一言相澄ませ申すべく、弥(いよいよ)御入魂畏みて承るべく候。委曲宇保(四郎兵衞尉)真清申されるべく候条、巨細能わず候、恐々謹言。 4月19日 荒木(弥助)村基
------------------------(資料7おわり)

この史料は年記未詳ですが、山梨県在住の私の知人の研究によると、天正11年の説が立てられています。天正11年ですと、本能寺の変後で、中央政治も大きく変化していた頃です。また、荒木村重は、同14年に没したとされていますので、その説の通りだと、存命中でした。長男の村次が戦で重傷を負っており、家督継承が困難であったため、次男の荒木村基が、家督継承者格として行動していたという説が立てられています。また、村基は、それまで系図上でのみ見られた人物だったのですが、この史料の発見で、実在する事が判明しました。
 個人的には、この資料中に登場する「松台」なる人物が気になっており、また、宛先である真継兵庫助は、天正年間前半頃に活動していたともあって、もう少し遡るかもしれないとも感じています。

この史料は、真継氏が日本全国の鋳物師に関する元締めとなりつつある過程の動きとして注目され、名古屋大学がその研究のために資料研究を行っているものです。ちなみに、真継氏は柳原家雑掌として仕えました。柳原家は、日野家の分流で公家。真継氏は戦国期から江戸時代に諸国鋳物師御蔵職(いもじみくらしき)を継承していた家柄でした。
 荒木村重は、摂津守護として摂津全土の他に、河内国北半分、播磨国に勢力を及ぼしていた経緯もあって、各職能集団の把握も行っていたであろうことから、こういった取りまとめの便宜を図っていたようです。特に河内国内には、日本国内有数の鋳物師集団が居り、荒木氏は真継氏の求めに応じるに充分な繫がりを持っていました。それに宇保氏も関わっていた形跡がこの史料からも判明します。

『大阪府の地名』にもあるように、池田に城・町屋ができて発展してくる頃には、そこに地域中心のより大きな求心力が発生し、「宇保」はひとつの地域となっていったようです。そのため、その地域の有力者(武士)は、地名(名字)を冠するようになったのでしょう。
 また、先にも触れました、宇保村内にある猪名津彦神社は、伊居太神社(現池田市綾羽)の御旅所であること、この宇保の地域が早くから拓けて、坂上・土師氏の系譜を持つ地域の有力者の倉氏・村治氏が禅城寺及び天王社に深く関わっていたことから勘案すると、宇保氏は「猪名津彦」に関係する可能性がある「彦丞」を名乗っていることから、神職(どこかの段階で入れ替わりつつ...)であった可能性があります。鋳物師は、梵鐘などを製作する当時は「大工」と呼ばれる職能集団でもあったので、神社仏閣などの繫がりも宇保氏の神職という経歴が役だったかもしれません。地域支配には、神社・寺院の取り込みが非常に密接な関係を持っています。

さて、そういう宇保氏の根拠地である宇保村には、やはり城を構えていることが自然ではないかとも考えています。その可能性について、古地図と現地写真から蓋然要素(私の勝手な)をお伝えしたいと思います。
 ちなみに、集落(郭)が北と南に分かれて存在する例は、豊中市の原田城の例があります。それがなぜ分かれているのか、築城年代によるものか何かは不明ですが、宇保村からそう遠くない地域にもそういった例があります。
 また、この仮製図が作られた頃は、明治初年ころで、一旦、集落が縮小(経済混乱人口の減少など)しているところもあり、宇保村もそのようであったのかもしれません。南側だけ残ったとも考えられます。地形からすると、西側の地形の段差(断崖)をキッカケとして、宇保村も元々は一体化していたようにも思うのですが今のところ不明です。

 

明治初年作成 陸軍陸地測量部仮製図(1/20000)
 
陸軍陸地測量部仮製図 宇保村拡大及び撮影地点


【地点A】現在の猪名津彦神社

【地点B】伝善(禅)城寺跡観音堂(撮影:2002年)

【地点C】北集落への主要道(東西方向) ※戦国時代には某かの仕切りがあった?

【地点D】約4メートル程ある要害性を伴う断崖

【地点E】北西角の要害性を伴う断崖。ここも高低差約4メートル程。

【地点F】猪名津彦神社西側縁道と北集落東西道の交点

【地点G】北集落東縁 ※集落の終端から北は、地形が下がる。

【地点H】南集落北向き入口付近

【地点 I 】南集落北縁付近集落の様子 ※写真奥の道は、地点H家屋の蔵へ続く。

【地点J】南集落南端付近の様子

【地点K】現在は東西方向の道が通る ※道の荒廃は不明