2021年8月17日火曜日

荒木村重の末裔!?「ポツンと一軒家」の番組を見て。記事訂正です。

前記事の訂正です。この番組は、歴史番組では無いので、あまり掘り下げはなかったですね。近日に以下の要素で、訂正と補足を致します。

「ポツンと一軒家」番組の公式サイト
https://www.asahi.co.jp/potsunto/

【荒木村重の子孫と伝わるお宅】
◎本家と分家が隣接し、墓も敷地内にある
私の本家もそうですし、中国山地の奥地では、珍しくない習慣だと思いますが、地域性があるでしょうか?また、先祖の墓群も、土地の一角にあります。一方で、菩提寺は少し離れた場所にあり、隣国の旧備中国川上郡で、この領主が備中松山藩でした。なぜ、こんな遠距離に菩提寺にあり、しかも隣国なのかは聞き及んでおらず、自分の家系も少し調べて、残しておかないといけないと思っているところです。本家の伯父さんが元気な間に。
 あ、脱線しました。テレビの番組中で紹介されていた光景は、私にとっては、それ程珍しいものではなく、淡々と見ていました。
★余談
我が家の墓群には、珍しいものがあります。基本的に、明治時代以前は、一人にひとつの墓塔ですが、二人でひとつの墓に入っている先祖がいます。刻んである年月を見ると、女の子が幼くして亡くなったらしく、先にその墓を立てました。その後に、亡くなったお父さんの名が同じ墓塔の側面に刻まれています。一緒に入っているのだと思います。とても可愛がっていたのでしょう。このひとつは、非常に珍しいお墓です。


◎村重の謀反の理由
番組レギュラー出演者の林先生が「荒木村重の謀反の理由は、今もよくわかっていない。」とのコメントがありました。林先生は、「歴史」もお好きそうで、しかもマイナーなところにご興味があるのかもしれないと、ふと、好感を持ったコメントでした。
 謀反について、私なりに調べたところで、思いますに、やはり、明智光秀と同じように、黒幕は、備後国鞆の浦(現広島県福山市)に居所を構えていた「足利義昭」だったと思います。村重に前後して起きた、織田信長に対する謀反は、全てそこに繋がると思います。
 荒木村重が天正6年(1578)冬、同年2月の播磨国三木城の別所長治の離叛(織田政権への主従的関係は薄く協力者的行動)、前年10月、大和国信貴山城の松永久秀謀反が、前後して起きています。摂津国大坂に、本願寺宗が拠点を持っており、これとの連携で思いの実現を図ろうと考えていたのだと思いますが、連携が散発的で、戦略的に有効打に欠く結果となってしまいました。織田信長の統治下での躊躇いが、そのような消極的で、中途半端な行動に繋がってしまったのだと思います。
 明智光秀は、それらの経緯を知っていますので、やはりそこは頭を働かせて策を練りましたが、最終目的は達することが出来ずに終わりました。


◎日本海と太平洋の今と昔の感覚
太平洋に富の源ができたのは、明治時代以降であり、それまでは全て、日本外側に富の道がありました。太平洋戦中でも、満州・朝鮮半島・樺太以南は日本領土であり、頻繁な往来がありました。日本海側が閉ざされ、地域が衰えるのは、つい最近の戦後です。
 私の若い頃、バイクで日本一周の旅(何度かに分けて)をして、日本海側も回りました。日本海側には大きな屋敷、繁栄の跡が見られ、何も知らなかった私は、それらの光景が非常に興味深く映ったものです。
 そりゃそうです、富や恵みなどのフロンティアが、全部日本海側にあったのです。室町時代の戦国時代、日本海側の大名が成長したのは、大陸との独自貿易によるもので、近年の研究では、鉄砲は様々なルートから入っていたことが解っています。


【岡山県のオグラさん宅】
◎農民(住民一揆)
住民一揆は、江戸時代初期の島原の乱が、全国的には有名でしょうか。松倉重政が領する島原藩が、領民から年貢を過重に取り立てたために、絶えかねた領民(キリスト教徒が多かった)が、大規模な一揆を起こした歴史です。その鎮圧は凄惨を極め、その跡地で畑仕事などをしていると、今も遺物が出てくるようです。
 また、江戸時代の中頃以降、各地で大規模一揆が多発しています。それは、徳川幕府による経済政策の失敗と藩の政策の失敗で、絶えかねた関係者が国を超えて一揆を起こしていました。絞油や綿生産に携わる人々が、連動して起こすなどすると、藩は、領域を越えて対策が取れず、幕府もこういった広域の対策もしづらいため、当初は対策に苦慮したようです。
 詳しく説明できないのですが、統制経済と庶民の生産力の向上のバランスが崩れてしまい、貨幣発行の調整もうまく行かず、それ故に幕府の信用が低下していく...。これが幕末の倒幕に繋がります。今も昔も起こり得る状態が、この時代の歴史として見ることができます。
 さて、岡山県で起きた大規模一揆は、どのような背景があったのか、今のところ詳しくはわからないのですが、江戸時代も中頃以降であれば、上記のようなことがあったのでしょう。重税ということも理由としてはあると思います。島原の乱の頃、最終的には税率は、何と!10割です。全部が税金です。無茶苦茶でした。


◎木地師
現代生活では、食事の時にの器は陶器です。しかし、江戸時代でも、庶民は木の器を使う事が多くありました。陶器は贅沢品です。
 また、山は恵みをもたらす、資源の場所でした。蒔きや薪、木材、山の幸、薬、水資源などなど、社会の生活を支える無くてはならない場所でした。
 今も木曽地域では、民芸品として、伝統工芸としてこういった木工製品が製造・販売されているのは、ご存知の方も多いと思います。
 しかし、江戸時代やそれ以前の時代の需要とは、規模が違いますので、各地で木工製品を生産する拠点がありました。山仕事の合間や冬期いった、山に入ることの出来ない時期の仕事としても発達したようです。
 軽く、落としても割れないので、これはこれで重宝していたのかもしれませんが、木地に滲み込むので、漆を塗ります。
 近江商人の中でも日野商人は、漆器「日野椀」を全国に供給し、確かな製品とデザインで、全国ブランド化していました。戦国武将の蒲生氏のバックアップもあったようです。また、数ある近江商人グループの中でも日野商人は古参で、早くからこういったブランドを立ち上げることができたのも、やはり、全国各地を統治して城下町を築いた、蒲生氏郷の支援もあってのことでしょう。


【余談】
◎前近代の山の暮らし
前項の「木地師」で、書いてしまいましたが、前近代の生活、というか、近年まで山に頼る社会生活が続いていました。ですから、そこに経済要素も生まれ、そこで生活する人々も多くありました。
 しかし、今は、それらの連鎖が悉く衰退、切断されてしまっている状況です。消費地の都会では、関心も持ちません。本来は人間生活にとって、普遍の要素、命を繋ぐ源が山にはありますが、最近は、それらを忘れ、レジャーの場のような感覚に、都会人は陥っています。
 一番解りやすい要素は、「水」です。健全な山を保たなければ、日頃の飲み水、治水による作物の生産ができません。
 山が荒れています。もの凄く荒れています。だから、崩れもします。自然にしていても、山は平らになろうとしますので、崩れます。しかし、手入れをしていない林はそれを助長します。また、山が荒れているために、動物も食べるものが無く里に出てきます。動物は食べるものが無いのです。お負けに、経済原理を机の上で考え、実行します。開発をするなと言っていません。聞いて、見て、必要な事には手を打たなければ、必ず自分に不幸の種を蒔くことになるのです。一般的では、経済的ではないけども、必要なことを行うのが政治だと思います。
 こういった状況をみて欲しいと、文化財調査も兼ねて、立場ある方に声を変えたりしていたのですが、興味が無いのか実現に至らないままです。そういったことも、今後、折を見て、興味のある方をお誘いして、企画できたらと思います。


◎いわゆる限界集落
前近代の時にあった、社会生活の中で、経済的な繫がりが循環し、山の暮らしは維持されてきました。しかし、その輪が途切れ、必要な事をしないまま、取り残されているのが山の暮らしです。「限界集落」とマスコミかインテリが名付けて、カテゴリー分けしていますが、それに対策を打たないために、消滅集落が進んでいます。「ポツンと一軒家」は、それで番組が成り立っているのだと思います。
 マスコミだけではなく、政治も媒体報道にばかり意識を向けている(自分で調べる事無く)のではないかと思います。本当に100年に一度、50年に一度の雨だけが原因かというと、そうでもない事が多くあると思います。何もできない山に、太陽光発電所が乱立し、それが災害に繋がっているのではないかと、囁かれるのも、背景にはそういう現実があります。

2021年8月12日木曜日

荒木村重の末裔!?が、「ポツンと一軒家」に取り上げられる!

 今度の日曜日(15日)、ポツンと一軒家という番組で、荒木村重の子孫と伝わる旧家が取り上げられるそうです。もし興味のある方は、ご覧下さい。

「ポツンと一軒家」番組の公式サイト
https://www.asahi.co.jp/potsunto/

番組の概要(ちょっと判りづらい)によると、鳥取西 部、島根・広島・岡山の県境にあるお宅が、荒木村重の末裔と伝わる家系だそうです。
 また、もう一軒。岡山県の深い山の中にあるお宅も、戦国武将とのかかわりがあるお宅だそうです。

番組のダイジェストでは、非常に古い薬師如来を大切に護り続けているともあります。

この番組について、私がツン!、あ、ピン!と来たことをご紹介しておこうと思います。必然性があるように思えます。この地域であることと、薬師如来を祀るということが、私には少し、心当たりがあります。

★先ず、地域のこと。実は私の一族の出庄は、今の広島県神石高原町の山奥で、もの凄く山深い所です。冬には雪もかなり積もるようなところで、人里離れた場所です。そこは、島根・鳥取・岡山の境目近くです。
 また、私の一族も武士だったらしく、平家の系譜と伝わっています。家も、後ろに山があり、一段高くなった所に建てられ、出入口は鍵型になっていた(ような)、小さな館城のような感じが今も残っています。

★荒木村重の子孫と伝わる今回の旧家は、そんな環境にも似た、地域であること。そのため、戦国時代など には、落ちてきた武将などを匿うこともあったかもしれません。

★それから、岡山県の総社市というところに荒木氏・池田氏の墓が多くあるようです。実地調査は出来ていないのですが、そのような情報を出されているサイトがあって、気になっていました。この場所は、川と官道(国道)・主要道を多く通す、要衝の地でもありました。

★一方、同じく岡山県倉敷市真備町有井というところに、摂津池田家の上級者一党が、毛利輝元から領知を貰っていた史料もあります。身を寄せていたと思います。
【過去記事】摂津池田家解体後に池田紀伊守家系の人物が、毛利輝元へ客将として迎えられ
ている史料

https://ike-katsu.blogspot.com/2016/05/blog-post_44.html

★更に、池田勝正の子孫と伝わるお宅も、福山市御領にあります。ここは、総社市から東へ40キロメートル程の所です。

★極めつけは、足利義昭が鞆浦に居住していました。近年は、明智光秀の謀反の黒幕は、「義昭」との説が定着しつつあります。有力な証拠が出たためです。

★昔の備後国(現広島県東端)やその周辺は、鉱山が多く、荒木村重一派は、後年、鋳物関連の流通に関わっていたため、鉱山にも繫がりがあった可能性もある。

★そして、「薬師如来」を崇拝すること。荒木村重が、池田家中から頭角を顕し、摂津国の守護職(今の県知事のようなもの)を織田信長から任されます。その時に、手狭になった池田を出て、伊丹に首都を移す時、既存の城を拡張して有岡城を造ります。その城に村重は、守り神として日吉社を勧進していたようです。その当時の史料(天正5年8月の村重の手紙など)に現れます。また、その頃、神社もお寺も共存していましたので、日吉神社と比叡山は一体化しており、その比叡山の本尊は「薬師如来」です。

上記の要素をまとめると、池田・荒木氏の一派は毛利氏を頼り、西へ縁故を辿る動きが多くあり、それらの縁故は、荒木村重の没落を受けて、益々活用されたように思われます。
 総社市から鞆の浦までは、60キロメートル程の範囲に、池田・荒木氏の縁故地が多くあります。それらの環境から、この岡山県の山奥に暮らす、伝村重の末裔一族があっても、不自然では無いように感じます。それに、村重が崇拝していた薬師如来がそこにあること。

番組をご覧になる方は、そのような状況もあることを意識しながら視聴されると、また別の楽しみがあるかもしれません。

 

 

鞆城跡から鞆の浦の港を望む

2021年8月7日土曜日

摂津池田家と忍者について考える

 この要素(忍者)は、非常に難しい判断です。今で言う、スパイやインテリジェンスの概念にもかかるものですが、資料も証拠もほぼ無いので、あったとか、無かったとかいつまでも論争しなければいけません。書き残したものは無く「口伝」であったこと、その意味は、残せば証拠になるからです。そのくらい徹底した、超越的行動と概念だったのです。昔の日本人は、もの凄いです。推し量るには、文字や物的な残欠を集積し、分析するしかありません。

いわゆる忍者について、断片的な手がかりとして、服部半蔵などが、時代によってカタチを変えながら表現されています。これらは「萬川集海(まんせんしゅうかい)」という江戸時代後期、甲賀忍者が膨大な忍術をまとめ、幕府に献上した書物によって僅かにその痕跡を知る事のできた結果でもあります。

「隠密(おんみつ)・忍び」とは、その当代を越えて、未来永劫に渡り、痕跡を残さないという徹底ぶりです。しかしながら、それらの概念は、ほそぼそと受け継がれ、大東亜戦争当時には「陸軍中野学校」の創設につながりました。これは、近代組織組織として人材育成を始めたという意味があり、その根底に概念として、文化的に生き続けており、必要に応じて活用しようとしていたことが、事実として、中野学校在籍者から明らかにされています。
 また、同じような目的で、国家機関として、海外でも、様々なスパイ組織が存在する事から、必要の用として、今もその意義が普遍的に存在します。

さて、戦国時代のこと。摂津国池田家でもそういった概念や必要性は、当然ながら、あったと思います。なぜなら、目の前に敵が見えてから行動してからでは、一家の滅びに直結するからです。また、戦いに勝つにも、勢力を拡大するにも、事前に状況を掴む必要があるからです。その為には、対象に向けて、静かに忍び寄り、観る必要があり、そのための組織や術、時には戦う必要があります。また、最小限の労力で、目的を達成する欲求はあったでしょう。

一方で、現代においても株式投資や経済的な分野では「インサイダー」という言葉で集約された、事前(内部)情報により、不当に利益を出す行為(独占)を法的に規制しています。
 要するに、「情報」には価値があるために、それをどの段階でどのように知るべきか。それそのものを考える事は、有形無形を問わず、最大限に利益を出したいと考える時には当然ながら、発想する自然科学です。

具体的には...。といっても、曖昧でですが、戦国時代の池田城下に「甲賀伊賀守」という家老が池田城下に住んでいたという跡地の記述があります。これは、発掘調査もされず破壊(法的にも規定されていながら)されてしまったので、科学に基づく事実判断ができなくなってしまいましたが、記述としてはあります。また、その地域に古くからお住まいの方々の口伝としても存在(独自に取材)します。
 この記述要素から、一時的に現在の池田で、「忍者が居たのでは?」という話題が盛り上がりました。関連行動としての、滋賀県甲賀市との交流も、これにより実現した程です。
※その甲賀伊賀守なる人物の行動は、その後に判る範囲で調べた記事はこちら(此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察)

忍者とは日本人にとって、興味を持つ人が多くあり、今では、海外の高まりつつあります。また、その研究拠点として、三重大学に忍者の研究を行う学部が設立され、その初代の教授は、忍者の子孫です。今後に期待したいところです。

一方で、その忍者は、身の危急から逃れる為に、独自に戦う術を持っており、それは特別なものだったようです。忍者の絶対的使命は、生きて依頼主や要望者の元に戻り(目的達成)、重要な情報を伝える事ですから、得た情報を絶やす訳にはいきません。必ず持ち戻らなければいけません。

そのために、身につける道具、術、また、絶体絶命の時には、証拠を残さずに確実に死ぬことも使命でした。その中で、現代に伝わる忍びの古武道をご紹介します。

これは、死ぬことを前提としたものは一切排除した、その場を切り抜ける、最終段階の丸腰になって組み合う状況であっても、切り抜けることを考えた古武道です。

 

◎玉虎流宗家 石塚先生 的確に急所を攻める痛すぎる骨指術の世界!