2011年8月28日日曜日

元亀2年の白井河原合戦について


今から440年前、元亀2年(1571)8月28日、白井河原にて三好三人衆方に加担する池田衆と幕府方摂津守護職であった和田伊賀守惟政勢とで、大きな合戦がありました。場所は現在の茨木市中河原町一帯で、茨木川と勝尾寺川の合流するあたりだったと伝わります。また、当時のこの戦争の呼び名は「白井河原合戦」というものではなかったようで、後世に書かれた家伝『陰徳太平記』などの記述によって定着したようです。その当時の史料には「郡山」などとかろうじて記される程度です。宣教師ルイスフロイスの耶蘇会への報告書や後の編書『日本史』にも「白井河原」という記述は登場しません。
とはいえ、現在では「白井河原合戦」とした方が通りがいいので、便宜上、それで統一します。
それから、この当時の年月基準は、陰暦ですので、今とは少し季節が違います。毎年、2月上旬頃に旧正月がありますが、そのくらい時期がずれています。ですので、和暦の8月28日といっても、現在の太陽暦に相対させると10月上旬頃になるでしょうか。もう秋で、収穫の時期です。

この白井河原合戦は、この決戦時期も重要です。米の収穫時期に、境界争いを起こしているわけですから、米の収奪も視野に入れた領土拡張です。当時、米はそのまま社会的価値を持っており、銭と同じように扱われていました。
詳しくはまた、取り上げてみたいと思いますが、とりあえず、追々とこのブログでご紹介して行きたいと思います。

この合戦に至る迄に、池田方と和田方に闘争が繰り返されていました。池田家は、幕府の要として摂津守護を任されていましたが、この前年6月、家中の内訌により、家政の方針が転換されて、元の主筋である阿波・讃岐・淡路を束ねる三好三人衆方に加担する勢力となっていました。
 対して、和田惟政は将軍義昭の側近であり、また、摂津守護職を任される幕府の重要人物で、京都に近い摂津国嶋上郡を任される勢力でした。
この当時、摂津国内には守護が3人居り、曖昧な境界の中で、それぞれが分割統治する状況にありました。ですので、争いの火種は元々あったとも言えるのかもしれません。


白井河原合戦当日の8月28日に至るまでに、池田領との境近くに、2つの城を築いた事から、一気に決戦の機運が先鋭化されたようです。
高山右近の父飛騨守などは、父子共にその前線に入って守備していたようです。
 また、『日本史』の記述にあるその砦の場所ですが、その一つは萱野(現箕面市萱野)かもしれません。三好三人衆方の池田家に与する土豪で、萱野長門守某などの名が見られ、他にもその附近の地名を持つ粟生や安威などの名も見られます。こういった土豪が、自分達の権利を守るためもあり、池田家へ与力して和田方に対抗していたのでしょう。

白井河原での合戦に至ったのは、池田方が和田方と決戦を行い、境界争いなどを含めて雌雄を一気に解決する一方で、三好三人衆方の京都入りを視野に入れた東進も意図していたのではないかと思われます。

池田衆は3,000の兵を出陣させ、それらを3つに分けて行動させており、白井河原の決戦では計策を実行します。和田惟政は和田方領内に向けた池田勢の動きを知り、惟政は急遽200程の手勢を率いて高槻城を出陣。間もなく、息子の惟長が後詰めのため500程の兵を用意して出陣しました。和田方は砦の勢力等を入れて1,000程。しかし、和田惟政率いる正面は200程であったようです。本来はもっと多くの軍事動員が可能でしたが、とりあえず用意できる数としては、これだけだったのでしょう。それ程、急な事だったようです。
詳しくはわかりませんが、惟政には何か考えがあってか、また、機転を利かせて無理を承知で戦闘を始めたようです。フロイスの記述では、惟政の勘違いのような事が述べられていますが、老練な社会的身分の高い武将ですし、武力が仕事の当時の武士にあって、勘違いはあまり無い様に思います。多分、何か考えがあっての行動だったと思います。

結局、この戦いで、大将である和田惟政が戦死し、主立ったその被官も多くが死に、和田家の組織維持が出来なくなる程、大敗を喫します。対する池田衆の側にも少なからず死傷者が出ていたらしい記述もありますので、相当な和田方の反撃があった事が想像できます。
 池田衆はこの決戦に勝ち、和田方の居城高槻を取り囲み、近隣の茨木城・宿久城・里城までも落としたようです。その後数ヶ月余りに渡って、高槻城の攻防が続いたようですが、幕府との和睦がまとまり、何とか本拠である高槻城の落城は免れたようです。
この白井河原合戦の勝利により、池田衆は千里丘陵を越えて嶋上郡へも領地を拡大させ、権益が大きく拡がりました。また、この合戦で、中川瀬兵衛尉清秀池田(荒木)信濃守村重が活躍し、名を世に知らしめるきっかけともなりました。

ちなみに、後世の出版物などに登場する池田勝正の跡を継いだ知正が、この池田衆を率いる総大将だったとする通説がありますが、今のところ、それを実証する当時の史料は見当たらず、池田紀伊守入道清貧斎正秀・池田勘右得門尉正村・池田(荒木)信濃守村重が、池田家中政治の実質的な主導者だったと考えられます。これらは当時の史料に見られます。


<写真(上から)>
写真1:郡山の山の城から、西国街道方面を望む
写真2:高槻カトリック教会内にある高山右近像
写真3:箕面市萱野に残る旧道
写真4:池田方の陣跡とされる、茨木市に残る馬塚(同市郡山下井町にも馬塚跡あり)
写真5:高槻市伊勢寺にある和田惟政供養塔





2011年8月10日水曜日

東大寺大仏殿の戦いに登場するマメ山とはどこ?

「東大寺大仏殿の戦い」などと呼称される永禄10年10月10日に至る、一連の奈良市街の戦いについてですが、これに池田勝正も参戦していました。この流れの中で気になるのが「マメ山」です。
Wikipediaなどには、戦国合戦大事典(新人物往来社)の記述を元にした、マメ山を多聞山城の北800メートル程のところとしているのが通説になっているようです。確かにここには今も奈良豆比古神社があり、その関係でマメ山と呼ばれていたのかもしれません。
※「戦国合戦大事典」は間違いが多く、個人的にはあまり参考にしていません。

また、近鉄奈良駅のすぐ北側に奈良女子大学があって、駅からその大学までの間に大豆山町があります。どちらに池田勝正は居たのでしょうか?


近日にまた、詳しく調べたいと思いますが、私は今のところ、池田勝正が多聞山城の北側800メートルの「マメ山」なる場所に永禄10年5月時点で陣を取る事は不可能だったのではないかと考えています。その頃の状況を見ると、佐保川をはさんで一進一退で、三好三人衆方が圧倒的優位で多聞山城を囲んでいたわけではありません。
また、奈良統治の拠点で、巨額をつぎ込んで築いた松永久秀自慢の堅城であった多聞山城から僅か800メートル(8町弱)の位置に、三好三人衆方がこの時点でやすやすと進めるとは考えられません。

この一連の動きについて記録が詳しい『多聞院日記』を見ると、5月28日になって筒井順慶方の大和国民秋山衆が多聞山城へ前進を強行し、24〜25間(約45メートル)に迫ったようでした。しかし、これは佐保川をはさんでの事と思われ、距離は近いですが要害性を決定的に砕いたものではありませんでした。
 一方、勝正も多聞山城を守る天然の要害である佐保川を越える事の重要性を理解しており、5月18日に松永方の宿院城に夜襲を敢行しますが、失敗。100名程の足軽を束ねる大将の下村重介を戦死させてしまいます。宿院城は佐保川を渡らせないために強力な守りの橋頭堡でした。城は現在の奈良女子大の場所にありました。
更に、雲井坂(柚留木町付近)にも城があり、街道から多聞山城へ進む事を阻んでいました。この城から、宿院城までは北西へ600〜700メートルの距離で、地形的にもマメ山の丘陵の南東縁です。

ですので、三好三人衆勢は、この時点で佐保川を渡る事ができていない筈です。当時の佐保川は現在よりも水量が多く、「堀」としての役割を十分に持っていたようです。ですので当然、本城である多聞山城にも接近する事はできませんし、その背後に回り込む事など不可能です。
更に、松永は守りをそんなに簡単に考えていません。多聞山城から北へ1里半程の間に木津城や鹿背山城などをつくり、木津川を防衛ラインとして一体化させた防衛概念を作り上げていたようです。近年の鹿背山城の発掘調査では、非常に堅固で大型の城である事がわかっており、松永久秀の手によるものであろうと考えられています。また更に多聞山城の西側の超昇寺城や信貴山城なども相互に防衛線を構築していました。連絡と連携のための様々な工夫も施されていたと考えられます。

状況的に、三好勢は木津川を超えて北から多聞山城に近づく事はこの時点では不可能であったと考えられます。それが、可能になったのは永禄11年も夏以降になってからで、永禄10年時点では、多聞山城に近づく事は無理で、堅牢さもまだまだ十分にあった筈です。当然、勝正も多聞山城の北800メートルの位置に陣を進める事もできなかったと思われます。
ということで、永禄10年5月23日に池田勝正が陣を取ったマメ山は、宿院城の押さえとしての策だったと考えられます。そして勝正の宿所は場所的に近い西方寺だったのでしょう。それは丘陵の西端です。ここからは飯盛山城方面も目視でき、狼煙などの連絡が可能です。
そして今も「大豆山町」との地名を残す場所もありますが、当時のその状況については不明です。

写真(1):佐保川の様子
写真(2):油留木町にある「雲井阪」の碑
写真(3):木津川市の鹿背山城跡登城口にある西念寺
写真(4):崇徳寺のある大豆山町の通り