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2025年6月14日土曜日

山の尾根を割り、防御施設にしているかもしれない痕跡

赤色立体地図を見ていると、尾根の形状で気になる所が多々あります。尾根を割って歩きづらくしているような形状があります。地質がそのようになっていて、風雨で自然に崩れたのかとも考えたのですが、それだと周辺でも起こる筈ですが、特にそれに似たような状況も見当たらない。
 一方で、後世に人為的に治水や地山の為にこのような改変を行ったかとも考えたのですが、それにしては不自然な形状が多い。水の流れに逆らうような作りも多く見られます。

 

五月山南側にある痕跡(大阪府池田市畑)

五月山南側にある痕跡(大阪府池田市五月丘)

五月山北側にある痕跡(大阪府池田市木部町)


  • この尾根を割ったような形状は、守備要点付近でみられる。
  • 普請が複数で、巨大である。(もしかして、信長が池田を本陣とした時のものあるか。)
  • 自然的に崩れる場合は、もう少し階調的になるのではないか。


色々見る内に、これらも人為的に作られたもので、障害物として機能させる目的があったと考えて、守備普請の一部とみています。目的は、

  • 数本ある進行ルートの一つを潰す。
  • 一番広い尾根を割る。
  • 比較的勾配が緩く、人が多数で通過できそうなところを潰す。
  • 堀底道のようにして守る。


といった事を思いつきます。

一方で、自然地形としてあり得る場合もあります。また、何らかの目的を持って、人工的に普請した可能性もあります。
 これらの要素が見分けられないところがあって、何か思いつく事がありましたら、ご存知の方にご教示いただければと思います。以下、疑問に思う点をまとめます。

  1. 他で、このような例はご存知ですか?(生駒山でもありますが少ない。)
  2. 添付のファイルにあるような地形は、自然的に起こり得るか。
  3. 地山や治水などの目的で後世に人工的に作られた可能性はあるか。(だとすれば、形状がイビツ)
    ※人工的に作られたものが、経年変化でそうなったかも知れないが...。
  4. つづら折れの道が、経年変化で崩れた。


もし、これらが城の防御機能としての可能性があるのなら、これもまた、城郭分野では新たな視点になり得るように思います。どうぞ宜しくお願い致します。

 

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2025年6月3日火曜日

摂津池田の五月山(大阪府池田市)に見られる特徴的な防御施設らしき普請跡。トーチカの原始的なカタチか!?

摂津池田城は、その背後が山で、この山を取られると、城内を俯瞰されることとなってしまい、城の「弱点」との通説が、特に検証される事なく、永年に渡り順送りとなっていました。しかしながら、この要素は、軍事面の知識では素人の私でさえも、戦いのプロフェッショナルであった武士集団の本拠が、何の策も講じない筈が無いと考えていました。
 この度、ご縁があって、その永年の疑問が解ける機会に巡り会い、やはり池田城を俯瞰される弱点の対策を施していた事が判りました。至る所に砦や監視所のような普請を行っていた跡を発見しました。それらは非常に広範囲で、多数存在しますので、近日にそれらをまとめて、記事にしていきたいと思います。
 また、村(集落)との連携もされていたと考えられ、共存関係で防御体制を構築していたとも思われ、この視点についても記事で触れていきたいと思います。

私が「池田城の本拠を守るために、五月山や細河地域などにも何らかの策を講じていた筈」と考えていたのは、北摂山塊に、池田城と同じような環境の要所はいくつかあり、他の場所では、その奥地(丹波・能勢方面など)から軍勢が下りて、平地へ出るような動きが度々見られるのですが、奥地からの街道を幾本も通す池田で、それがあまり見られず、池田城が攻められる頻度も他地域のそれと比べると非常に少ない事に注目していました。それは偶然ではなく、必然であり、防御体制を敷いていた為だと考えていました。

最近、城郭に詳しい方の案内で、五月山周辺、特に細河地域(大阪府池田市)を見て歩きましたが、やはり、その見立ては間違いではなかったと感じ、それらの痕跡を多数発見しました。
 今後、更に詳しく見、本当にそうなのかどうかの精査をも必要ですが、もしそれらが見立て通りなら、池田城の城としての概念そのものを大きく見直す必要があると思われます。
 その「大仕事」の前に、池田城の守備体制の一例として、特徴的な人工普請跡をご紹介しておきたいと思います。
 山の尾根の要所(ピークや分岐)に砦・監視所を作り、堀切や堀を設けている所が多数あります。物理(軍事)的に障害物を設けて、尾根沿いの上り下りをさせないようにしているようです。
 例えば、摂津池田氏の菩提寺である大広寺(大阪府池田市綾羽2)の西側、ここに娯三堂古墳があります。これを利用したと思われるトーチカ風の人工普請跡があります。一方を開け、三方を土塁で囲むような地形を作っています。これは、鉄砲や弓といった飛び道具の武器を使うには、身を隠して対応できるのではないかと考えられます。

大広寺から東側に尾根道下を通る山の道もあった

 
現地を見ると、トーチカの原始的なカタチのようにも思えますし、このような防御拠点があれば、その先に進むことが難しくなりますので、特に守備には有効ではないかと思われます。
 また、この場所は地形的に、一旦下って谷になり、再び地面が隆起して枝豆のようなカタチの尾根が南西方向に伸びる、独特な地形です。これが高低差を持ちつつ屏風のように連なっていますので、防御地形としてうまく活用されていたと考えられます。ちなみに、この尾根上に、巨大な茶臼山古墳があります。


左側は明治42年測図、右側は現代

 

娯三堂古墳砦は、その尾根の上部に位置し、その間を通る山道をも警戒する役割もあったと思われます。
 現在では池田市の上水道貯水タンクなどがあって、開発されてしまいましたが、この辺りは、そういった役割を帯びた施設があったと考えられます。

さて、池田城の守備施設らしき場所をもう一つ、ご紹介します。五月山の北側、細河地域にも、砦・城跡が多数見られます。集落は深い谷を境として形成されており、天然の要害を持ちつつ、豊かな水の供給源でもあります。五月山から、至る所で川に水が流れ、水には苦労が無いであろう事は、歩いていて実感します。
 中河原町・東山町の境目から、東山町側に入った場所に、ここにも三方を囲んだカタチの人工普請跡があります。ここは太平洋戦争時に、魚雷などを格納する地下壕があった場所ですので、それらの関連施設の可能性もあるのか、確認が必要ではあります。
 しかし、ここにも娯三堂古墳砦のような志向の形状で、痕跡があります。そのの場合は、尾根筋では無いのですが、五月山側に、山の中を等高線に沿った山道が数本あるため、東山村の南端を守る役割があったのかもしれません。

 

池田市東山町の集落はずれにある防御施設と思われる普請跡

 

五月山周辺には、このような片仮名の「コ」の字形(若しくは円形とも)の普請跡が複数あり、あまり他では見ることがありません。
 これはもしかすると、摂津池田氏の独自の発想で、守備体制を組んでいた事によるものかもしれませんが、他の地域でもあり、私が知らないのかもしれません。
 しかし、この構造は特に鉄砲を使って守備する場合、非常に都合が良いですし、屋根を設置すれば、雨風も凌げる長時間の駐屯場所としても使えるように思います。
 色々と不明な点も多いのですが、何れも自然にできた地形とは思えませんし、この地域でよく見かける「炭窯」というのも構造が違うように思います。


池田市中河原町に残る炭焼窯跡

五月山周辺で見られる片仮名の「コ」の字形の普請跡や尾根上のピークや分岐の要所には、多数の普請跡が見られ、やはり、池田城の背後を取られない防御体制が取られていたと考えられます。
 このために、摂津池田城は「難攻不落」を誇ったようですが、これを破ったのは、1568年(永禄11)秋の織田信長による足利義昭上洛戦の時だったと思われます。
 織田勢は50,000騎ともいわれる大軍で摂津池田城を急襲し、「陣山(横岡公園)」(明治42年の地図を参照)に本陣を置きます。しかし、この先には進めなかったとみられ、ここから西側は急に落ち込む細い谷道で、進めば谷の両側から攻められてしまいます。その位置に、娯三堂古墳砦がありました。近世城郭で見られる「桝形」のような構造だったのかもしれません。
 『信長公記』によると、10月2日に総攻撃を開始し、外構えに取りついて、一進一退の攻防となったようです。信長の馬廻り?水野金吾忠分?配下の梶川平左衛門高秀が戦死。同じく馬廻り魚住隼人・山田半兵衛が負傷して後退。
 この時は、攻め手の軍勢主力を池田城の南側から攻めさせたようですが、城方の抵抗が激しく、攻め手に欠いた織田勢は、町場に火をかけ始めたことから、和睦となったようです。双方に死傷者を出して、信長勢は重臣を失います。その時の合戦を舞台に描いた版画があります。

『真像太閤記画譜』に描かれた池田勝正と織田方武将梶川高秀
(東京大学大学院教育学研究科・教育学部図書館室所蔵資料)
 

また『同記』では、この城攻めの時、信長が「北の山」に陣を置いたとしている事から、これを今の感覚の「五月山」と解して、現在の通説になっています。

 しかし、実際には、今でいう五月山に上る事は、当時の状況では到底できず、「陣山」に進出して停止するのが限界だったと考えられます。この陣山も単独で守るには不十分な環境であり、そのために、短期決戦を計って、いわゆる武士らしからぬ「汚い手(放火)」を使ってでも、和睦に持ち込む方針であったと考えられます。かといって、安全圏で指揮を採ることは出来ず、大将は危険を顧みず前に出て、諸将を鼓舞しなければ、烏合の大軍が瓦解してしまいます。
 その当時の五月山は、山林が今よりも南側に拡がっており、丘陵地帯も山林であったため、その間を山道が縦横に走っています。今とは五月山の様相が全く違います。

昭和30年代の開発前の横岡公園付近(個人蔵)


また、この時、管領細川晴元の息六郎(後の昭元)や三好長逸など三人衆方の武将や将軍義栄方の要人なども池田へ避難していたようで、それ程に堅固な城と考えられていたエピソードの一つだと思います。

 

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2025年5月5日月曜日

摂津国豊嶋(現大阪府池田市)・河辺郡(兵庫県川西市)境に存在した可能性のある砦跡を発見か!?

兵庫県川西市1丁目16から大阪府池田市古江町1にかけて見られる人工物の一部で、これは堀跡と思われます。高さは4〜5メートルほどあります。堀らしき写真は、赤色立体地図の赤色丸印内、矢印の方向から撮影しています。

この辺り、戦国時代には特に重要な要所でした。地形的には、ほぼ東西に伸びる標高100メートル程の丘陵(板かまぼこ状)の西端にあたり、その丘陵に河辺郡と豊嶋郡の境目があります。
 その丘陵最西端には、眼下に能勢街道と篠山街道が走り、それらの間を猪名川という大きな川(人馬などでの渡河は不可能)が流れています。また、今回の堀(砦)跡と思われるところから、東側至近に妙見街道を通しています。

戦国時代、豊嶋郡は池田氏が、河辺郡は塩川氏がおり、両者は戦国時代末期、敵対関係にありました。その事から、有事には街道を封鎖し、郡境を超える軍勢に備える必要がありました。また、ここには「古江」という集落があり、その集落を守る必要もあります。

そういった事から、非常に念入りな防御施設を拵える必要があったものと思われ、既述の赤色丸印、すぐ東(右)側には、丘陵南突端に広い平坦地があり、ここに兵を駐屯させられるような場を設けていた可能性もあります。要するに砦のようなモノがあったと想定されます。
 更に、今は宅地開発されてしまっている場所(池田市古江町1)は、尾根続きで西端まで伸びており、その最西端には、公的に把握された古江古墳があります。この古墳も、眼下を見下ろす監視所のような役割に使われており、一体化した概念が感じられます。

公的には把握されていない遺跡ですが、状況から考えて、ここには重要な軍事施設があっても良い環境です。今後も調べを深めていきたいと思います。

本日ご同行いただきました、郷土研究家の I(アイ)様、池田市史学会のM様のご案内とお話しは、大変意義深く、勉強になりました。ありがとうございました。

航空・衛星写真から見た現在の地表面の様子

1909年(明治42)当時の該当地域の地図

堀跡と思われる状況1   

堀跡と思われる状況2

大阪府池田市の文化財「古江古墳」から西を望む


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2025年2月26日水曜日

長久3年(1042)に描かれた、摂津国豊嶋郡細河庄に存在した古代寺院跡(玉性院?)を発見か!?

非常に興味深い遺跡を発見したかもしれません。平安時代頃に存在したとされる、大規模寺院の跡が、今も残っていました。(これから更に調査を続けます。)
 大阪府池田市に伝わる細河庄境界絵図(長久3年:1042)について、これまでは、想像の範囲で、あまり確認もされていなかった(池田市教育委員会自体が、これは想像の社寺であるとの見解を述べています。え?調べた?)のですが、この絵図に描かれている五月山側にあった大寺院の跡が、今も残っている可能性があります。

絵図が描かれた長久3年とは、平安時代で、この当時、今は大寺院と考えられている久安寺の規模が小さく、その前身と思われる「安養院」として描かれています。
 これに対して、五月山側の現池田市木部町から東山町にかけて、大規模寺院の存在が描かれており、絵図中の「玉性院?」は、三重の塔が描かれる隆盛ぶりです。また、同市中川原町と思しき付近に、鳥居と建造物が描かれており、五月山北側山麓に、安養院(久安寺)よりも賑やかな宗教施設の様子が描かれています。

本日令和7年(2025)2月24日、どちらかというと、城跡を確認のために、専門性の高い方と一緒に見て回りました。そうする内、城と言うよりは、寺院ではないか、しかも、非常に規模の大きい寺であることを確認しました。
 その時には城では無く、寺院ではないか?、と感じただけだったのですが、それらをひと通り見終わって、手持ちの資料を確認する内に、この「細河庄境界絵図」の存在を思い出し、現地の感想と結び付きました。
※いわゆる、戦国時代にはこれらも防御施設そして利用されていたものと思われます。
 
この現池田市の細河地域は、研究する人も殆どおらず、資料も残っていません。ただ、非常に古い神社やお寺が多いという、感想の順送りが続いていただけでしたので、この気付きは、更なる思考の前進に繋がれば、非常に意義有ることと感じています。

後世に残すため、この調査を続けていきたいと思います。
 
 
長久3年(1042)摂津国豊嶋郡細河荘大絵図(部分) 池田市立歴史民俗資料館所蔵

池田市木部町と同中河原町との境界の谷にある古代寺院らしき跡


池田市中川原町にある中河原社鳥居


池田市中川原町にある中川原社の古代寺院跡を感じさせる特異な地形(後年は城跡?)


 
 

2019年12月27日金曜日

池田市綾羽にある伊居太神社と摂津池田氏について

既述の記事「戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺社」からの抜粋です。また、関連する地域も同様に抜粋します。池田市綾羽にある伊居太神社について、再度、考えてみたいと思います。近日に池田市と尼崎市の伊居太神社も訪ね、追加記事も掲載します。

◎伊居太神社:いけだじんじゃ(池田市綾羽)
  • 五月山の西麓部に鎮座。祭神は「日本書紀」応神天皇37年・41年条にみえ、日本に機織・裁縫の技術を伝えた工女の一人穴織大神といい、ほかに応神天皇・仁徳天皇を祀る。「延喜式」神名帳の河辺郡七座のうちの「伊居太神社」に比定される。旧郷社。社伝によると応神天皇41年渡来して以降穴織は、呉織とともに機織・裁縫に従事、同時にその技術の指導に努めたが、応神天皇76年9月両工女は没した。仁徳天皇は両工女の功に対して、その霊を祀る社殿を建立、穴織の社を秦上社、呉織の社を秦下社と称したのが当社の始まりという。
     その後も代々天皇の崇敬を受け、延暦4年(785)には桓武天皇の勅により社殿が再建され、応神・仁徳両天皇が相殿として祀られるようになったという。
     延長年間(923-931)には兵乱で社地を失ったが、天禄年間(970-973)多田満仲が再興、以来武将の社殿修造が続いたといわれる。後醍醐天皇は宸翰を秦上社と秦下社に与え、以来秦上社は穴織大明神と称し、秦下社は呉服大明神というようになったと伝える。
     下って慶長9年(1604)豊臣秀頼の命によって片桐且元が社殿を造営した(大阪府全志)。同座地は旧豊嶋郡域で、前述の式内社伊居太神社の河辺郡とは矛盾する。これについて「摂津志」は「旧、在河辺郡小坂田に(中略)池田村旧名呉織里、以固有呉織祠也。中古遷建本社于此、因改里名曰伊居太又改社号曰穴織」と、もともとは河辺郡小坂田(現兵庫県伊丹市)にあったが、中古、当地に遷祀されたとの伝えを記す。一説に、その時期は南北朝時代で池田氏によって遷祀されたという(「穴織宮拾要記」社蔵)。なお現兵庫県尼崎市下坂部に式内社伊佐具神社に隣接して伊居太神社があり、当社が現在地に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所の塚口村(現尼崎市)に近いことから、この地域に鎮座地があったともいわれる(川西市史)。
     末社として両皇大神宮・猪名津彦神社などがある。伊名津彦神社などがある。猪名津彦神社は文化12年(1815)に字宇保の稲荷社(現猪名津彦神社)の床下の石窟より出てきた骨を納めて祀ったといわれている。例祭は10月17日。古くは1月14・15日の両日、長い大綱で綱引きを行ったといわれている。本殿は全国で例のない千鳥破風三棟寄せの造りである。境内には観音堂があったが、栄本町に移転。本尊として十一面観音像が祀られていた。なお呉服神社の近くに姫室とよばれる古墳があったが、これは穴織を葬った地と伝えている。【地名:伊居太神社】
  • 伊居太神社蔵の『穴織宮拾要記(あやはのみやしゅうようき)』にある記述に、「九月塚口村(現尼崎市塚口)へ御輿祭礼ニハ四十二人ハ家々之将束騎馬にて出る、両城主(池田・伊丹)ハ警護之供也。此祭事ハ清和天皇御はじめ被成候。天正之兵乱二御旅所も焼はらい神領も取りあげられ田ニ成下され共当ノ字所之者池田山と云名残りより、其後世治り在々所々ニ家作り、四年めニ九月十七日麁相成御輿を造り、池田・渋谷・小坂田としてむかし之総て還幸をなす所ニ、伊丹やけ野ひよ鳥塚と云所ニて所之百姓大勢出、むかし之勝手ハ成間敷と云、喧嘩してはや太鼓打棒ニて近在より出、御輿打破られ帰り、是より止ニ成り...(以下略)」
     この記述をみるかぎり、9月は塚口村への御輿の御渡りは清和天皇の時代からの重要な祭事で、当時の有力者池田氏と伊丹氏等が後援して、42軒の神人が騎馬装束で供をするならわしであったのが、荒木村重の乱で御旅所が焼き払われ神領も取り上げられた。だが、塚口には池田山という字名も残っているので、世間も治まって4年目になるので(天正9年:1581)新たに御輿をつくり、復興最初の神事として9月17日、塚口の池田山をはじめ、昔の習わしに従って所々の地を回り、伊丹の南のひよ鳥塚(現伊丹市伊丹6丁目)までやってくると、付近の百姓が出て、早太鼓を打ち鳴らし近在の人々を大勢集め棒などで御輿を打ち壊し従供等と喧嘩となり、以前のような勝手なふるまいを許さないと神幸を妨害した。結果それ以後神幸は実施されなくなってしまった。
     清和天皇は別として、天正の乱あたりからおおよそ60年後に書かれたと思われるので、かなり信頼してもよいのではないかと思う。伊居太神社にとっては、塚口神幸は重要な意味があったのだろう。(後略)。【池田郷土研究 第17号:伊居太神社と池田山古墳】 
  • 現池田市の伊居太神社は、麻田 茂氏の研究によれば、(1)式内伊居太神社の原鎮座地は、塚口の池田山ではないか。(2)阿知使主等が停泊した地は、古代海が伊丹段丘の東側猪名川沿いに深く入り込んだ地(伊丹には絲海の名が残る)塚口の池田山付近が考えられる。(3)池田山古墳は猪名川水系古墳群で最古。(4)伊居太神社の祭神は塚口古墳群(猪名川水系古墳群)を築造した氏族集団の祖が池田山古墳の主。(5)古代猪名川水系の両岸は同一生活圏。、としている。【池田郷土研究:「伊居太神社と池田山古墳」:麻田 茂】 
  • 猪名川を圧迫するように東から西へ張り出した五月山の山麓に伊居太神社が立地し、池田の町の防衛上も重要な場所にある。伊居太神社のすぐ西側の眼下に街道を通し、この街道はすぐ北にある木部付近で能勢・妙見・余野街道(摂丹街道)と分岐する。逆に言えば、北部地域からの街道が伊居太神社眼下で合流する。
     また、伊居太神社からは、五月山山上へ通じる山道が3本程ある。池田城からも伊居太神社への道がある。その途次に、的場と云われた場所がある
     中世の戦国領主にとっての祭祀の場所は必ず必要であるし、その主催者としての素養も地域を束ねるには必要とされていた事が近年の研究では注目されてもおり、戦国時代に大きな勢力を持つに至った池田氏にとっても、同様であったであろう事が推察できる。そういった関係もあってか、室町時代と伝わる寺宝も多く所蔵している。その中に、眉間部分を鉄砲で撃ち抜かれたような穴が開いた、錆びた雑賀兜がある。こういった寺宝がある事から見ても、池田城主とのつながりをうかがえるし、当社の宮司は、池田城主の家臣と伝わる家柄でもある。
     ただ、荒木村重の乱(天正元年頃と同6年〜7年)で火災などに見舞われ、それ以前にあったかもしれない文書などは残っていないのが悔やまれる。
    追記:神社蔵の兜は、鎧兜を研究している研究者にも有名な兜であるが、神社側はこれを「朝鮮兜」として展示している。一見して判るし、これは朝鮮兜の類いではない事を断言できるが、なぜそのように表記するか尋ねたところ、韓国の研究者が神社を訪ねたおり、この兜を朝鮮兜だとしたところから、以来そのようにしているとの事だった。
     それを聞いた筆者は、色々な意味で、恐ろしさと憂いを感じた。この兜は、歴史群像シリーズ 図説 戦国時代の実戦兜にも載録されているが、そこでも朝鮮兜では無いと断言している。【俺】
  • 小括として、伊居太神社は、河辺郡尼崎に近い池田山古墳あたりまで謂われを持ち、当時もそれらを意識していたと思われる事から、この根源(核)である伊居太神社の命脈を池田家に持つことは、関連地域の領有や関わりの根拠になり得、それを保持する意味は十分にある。
     池田勝正の時代、尼崎本興寺に宛てて禁制(永禄8年10月15日付)を下す程の実力を持つようになる。こういった転機で、地域に様々な影響力を持ちやすくなるようになるのだろうと思う。池田氏側に、その正当化の種を元々持っている訳なのだから。
     その後に興る、荒木村重の勢力は池田氏時代の要素を否定せずに抱え込む事で、穏やかに領地を拡げていく事ができる。そういった経緯は、荒木村重の乱によって、徹底的に破壊され、伊居太神社や春日社などの関係社は、その後に再び元の姿に戻そうとしたようだが、時代と諸権力(権威)がそれを許さず、池田・荒木氏が統治した時代、世の移り変わりを『穴織宮拾要記』が記録しているのではないかと思う。春日社も池田ブランドを利用して、失地回復図ったのではないかと思われる。【俺】

    大正時代頃の伊居太神社 本殿

    大正時代頃の伊居太神社 拝殿

    ◎小坂田村:おさかでんむら(大阪空港敷地内となり現在住所表記なし)
    • 猪名川左岸の氾濫原にあり、中村の東に位置する。北は豊島郡今在家村・宮之前村(現大阪府池田市)、東は同郡麻田村(現同府豊中市)。「延喜式」神名帳に載る河辺郡「伊居太神社」はもと当村内に鎮座していたが、南北朝期に摂津池田に移転したとも(「拾要記」伊居太神社文書)、文和3年(1354) に当村内に同社末社を勧請したとも伝承する(享保4年「伊居太神社棟札」正智寺蔵)。当村の伊居太神社の祭神は「日本書紀」応神天皇条にみえる機織技術を 伝えた渡来縫工女の穴織で、穴織の実名小坂が地名の由来と伝承する(前掲棟札)。足利尊氏が同社を再興した頃、小坂田は荒地になっていたともいう(「穴織宮拾要記」)。豊島北条の条里が敷かれ、かつては条里遺構がよく残り五の坪などの小字もあった(享保16年「村絵図」小坂田文書)。
       文禄3年 (1594)矢島久五郎によって検地が行われたという(「上知に付庄屋日記」小坂田文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高305石余、初め幕府領、元和元年 (1615)旗本太田領、寛永11年(1634)太田康茂が改易になり幕府領に戻ったと思われる。寛文2年(1662)旗本服部氏(貞仲系)に300石が分知されて相給となり、明治維新を迎えた(伊丹市史)。(中略)。
       明治15年(1882)の戸数52、人口262(呉布達丙七号)。産土神は伊居太神社。 伊居多神社とも書き穴織大明神と称した。浄土真宗本願寺派正智寺と正福寺があった(前掲村明細帳)。正智寺は寛永14年正西の代に木仏免許、正福寺は同年 教西の代に木仏・寺号免許という(末寺帳)。
       昭和11年(1936)からの大阪第二飛行場の建設で大部分が敷地になり、同15年からの拡張に伴い住民は移転した。かつての集落は現在の空港ビル付近にあたる。伊居太神社は現池田市の同名社に合祀、正智寺は同市井口堂3丁目に移転した。【地名:小坂田村】
    • この小坂田村にも荒木姓があり、この村の移転の折、桑津村に移ったとの事。その荒木さんにお話しを聞く機会があり、荒木村重について伝わっている話しを聞いた。有岡城での戦いの時(天正6年の謀反の時か)、有岡からの途中、小坂田で馬を替えて池田へ向かった。、との話しが伝わっているらしい。また、地面を掘ると、かわらけや須恵器のようなものがたくさんあって、それを投げ割って遊んでいた。、との体験談もお聞きした。その時にメモは取らず、自分の記憶に頼っているため、若干記憶違いがあるかもしれないが、色々と戦国時代の言い伝えもあるらしい。場所的に西国街道と能勢街道の等距離にあり、村の規模も比較的大きいため、小坂田村は重要な役割を持っていたのかもしれない。

    ◎塚口村と池田山古墳(尼崎市塚口本町)
    • 塚口村は、森村の北に位置し、北は御願塚村(現伊丹市)。字名に安堂寺・明神・又太郎免・楽馬・上慶長・下慶長・西塩辛・東塩辛・山廻・花折があった。中世から塚口御坊(現真宗興正派正玄寺)の地内町として栄えた。
       文明15年(1483)9月に本願寺蓮如が有馬温泉(現神戸市北区)での湯治の帰路に猪名野・ 昆陽池(現伊丹市)を経て神崎に向かっているが、その途中塚口に立ち寄り、「塚口ト云フタカキトコロニ輿ヲタテ、遠見シケルホドニ、アマリノオモシロサ ニ、シバラク休憩シケリ」と述べている(「本願寺蓮如摂州有馬湯治記」広島大谷派本願寺別院文書)。蓮如との関係は明確ではないが、正玄寺は応永16年(1409)創建の寺伝を持ち、文明3年7月に本堂が焼失、同6年に経豪が下向して再建されたと伝える。塚口には同寺を中心として碁盤目状の道筋が通り、方2町の周囲をめぐる土塁と濠の一部が現存しており、戦国期以降に発達した地内町と同様の景観を今に伝えるが、成立に至る経過や町の様相、一向一揆との関係などは不詳。かつて城山・城ノ内の地名があったという。
       天正6年(1578)11月に荒木村重が籠城する有岡城(現伊丹市)を包囲する織田信長方の陣所の一つに塚口郷がみえ(「中川氏御年譜付録」大分県竹田市立図書館所蔵)、12月11日には丹羽長秀らが同郷に砦を築いて在番する事が定められた(信長公記)。丹羽長秀らの軍勢が配置され、翌7年4月の配置替えの際にも同様に陣所となっている(中川氏御年譜付録)。9月27日には織田信長が陣中見舞いのため塚口の長秀の陣所に立ち寄った(信長公記)。有岡城落城後の同8年には信長から禁制が下付され(同年3月日「織田信長禁制」興正寺文書)、同 10年10月には、山崎合戦に勝利した羽柴秀吉が禁制を与えている(同月18日「羽柴秀吉禁制」同文書)。(後略)。【地名:塚口村】
    • 池田山古墳のあった塚口一帯は、その名の通り、かつては大小の古墳が点在し、大正年間でも20余基を数えた。そのうち最大のものが当墳で、市街地化によってほとんどが姿を消し、当墳も昭和13年(1938)頃には痕跡すらとどめなくなった。大正末年の記録では南西向きの前方後円墳で、全長約71メートル、後円部径約52メートル、前方部の幅約25メートル。一部に周濠の跡を残す。主体部は竪穴式石室であったらしい。鏡・刀剣・土器などが出土し、5世記前半の築造。【地名:池田山古墳】

    ◎下坂部村:しもさかべむら(尼崎市下坂部)
    • 久々知村の東に位置し、古代部民坂合部の居住地であったかと推定されている(尼崎市史)。文安2年(1445)の興福寺東金堂庄々免田等目録帳(天理大学附属天理図書館蔵)に雀部寺領として大嶋庄・浜田庄とともに下坂部庄がみえ、田数は62町7反小であった。(中略)。
       当地の伊居太神社の社名は「延喜式」神名帳に河辺郡の小社としてみえる。旧豊島郡域の大阪府池田市綾羽2丁目に同名社があり、「摂津志」はもとは河辺郡小坂田村(現伊丹市)にあったものが中古池田の地に遷祀されたとの伝えを記す。この説は有力であるが、同社が池田に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所が当地に近い塚口であることから、当地を小坂田に比定し、本来の鎮座地であったとする説もある(川西市史)。【地名:下坂部村】

    2019年8月25日日曜日

    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(戦いの無い平和な時代の池田と甲賀谷氏を考える)

    図1:元禄期の酒屋・炭屋の分布図
    池田も伊丹も尼崎も、戦いの無くなった世で、復興を遂げていきます。その過程で池田は満願寺屋を中心とした酒造業が隆盛し、一大産業化して町の復興を牽引します。池田酒は、その品質がもてはやされ、江戸でもブランドとなっていきます。池田酒について以下にご紹介します。
    ※江戸下り 銘醸 池田酒と菊炭(池田市立歴史民俗資料館)

    (資料9)-----------------------
    【池田の酒造業の発展】
    池田の酒造業は、満願寺村(川西市)から応仁年間(1467 - 69)、池田に移って酒造業をはじめた満願寺屋にはじまるといわれている。家伝によれば、宝暦14年(1764)時点ですでに、「2〜300年以前より酒造仕候様に相聞へ」といい、慶長19年(1614)、大坂冬の陣で家康が暗峠に陣した際、池田の銘酒を献じ、そのために朱印状が授けられたという。
    表1:摂泉十二郷の江戸積入津樽数
    物事の始まりをよく古く表現することは、古来から常に行われてきたことなので、これをもって池田の酒造業の始まりとするわけにはいかないが、室町時代終わりごろには、既に町屋が形成されるなど、早くからひらけた土地であったため、酒造業の始まりも、戦国時代末期から安土・桃山時代ごろまで遡ることができるものと推定されている。
     江戸時代に入り、幕府の酒造統制政策のもと、池田は「往還の道筋、市の立つ処」として酒造業がみとめられ、朱印状の庇護もあって、伊丹と並ぶ銘醸地へと発展したのである。

    ◎池田酒 豊島郡池田村に造之、神崎の川船に積しめ、諸国の市店に運送す、猪名川の流れを汲で、山水の小清く澄を以て造に因って、香味勝て、如も強くして軽し、深く酒を好者求之、世俗辛口酒を伝へり。(「摂陽群談」元禄14年刊)
    ◎池田、伊丹の売り酒、水より改め、米の吟味、麹を惜しまず、・・・・・軒を並べて今の繁盛、・・・・・大和屋、満願寺屋、賀茂屋、清水屋、此の外次第に栄えて、上々吉諸白、・・・・・。(井原西鶴「織留」)

    このほか、池田の酒を紹介した当時の書物は、枚挙にいとまがない。
     明暦3年(1657)の酒造株設定時には、42株、13,640石がみとめられ、元禄期には、60株を超えた。江戸積銘醸地の中でも中心的存在で、元禄10年(1697)、池田から江戸へ下った酒は、28,238駄 = 56,576樽にものぼる。これは、この年の江戸下り酒総入津髙の8.8%を占め(表1参照)、まさに、近世池田酒造業の全盛期であった。
     このころの酒屋の分布状況をみてみると(図1参照)、そのほとんどが東・西本町(現栄本町)に集中している。池田屈指の酒造家満願寺屋や大和屋も、東本町(現在のコミュニティセンターから職業安定所付近)にあった。
    図3:江戸時代・池田酒の商標
    満願寺屋は「小判印」「養命酒」、大和屋は「山印」「滝ノ水」を醸造し、江戸の人々の評判も高かったという。伊居太神社(綾羽2丁目)には、全盛期の元禄14年、酒屋六尺中から奉納された井戸が残っている

    【池田酒造業の衰退】
    幕府の酒造統制が緩和され、灘をはじめとする新興酒造地が登場してくると、池田はだんだん遅れをとるようになった。その後の酒造政策によって若干の変動はみられるものの、池田が占める江戸積入津樽数の割合は減少の一途をたどり(表1参照)、酒造株のなかでも休株のものが目立ってきた。
     衰退の要因には、いくつか指摘されている。その一つは、池田が海岸線から遠く、江戸積みには不利な条件であったことである。江戸時代を通じ、猪名川通船願いが何度となく出されるが、その都度、池田をはじめ周辺諸駅の馬借らが反対し、実現しなかった。天明4年(1874)、ようやく許可されたが、それは、下河原(伊丹市) - 戸野内(尼崎)間に限られていた。
    池田から江戸までの輸送経路と運賃
    したがって、池田の酒荷はまず、牛馬で広芝、あるいは神崎・下河原へ運ばれ、そこで小型廻船(小廻し)に積み替えられ、安治川・伝法まで送られたのち、再び樽廻船に積み替えられて江戸まで廻送された。このことは、単に運賃が余分にかかるというだけではなく、駄送では輸送量も限られ、なんといっても二度の積み替え作業で、江戸着までに多くの日数を要することが大きな問題であった。酒荷は、特に迅速性が要求されるものであっただけに、海岸沿いの灘にくらべ、奥まった地の池田は不利であった。
     第2点としては、酒造技術(水車精米・仕込方法)改良の遅れがあげられる。灘では、近世中期から、既に水車精米を採り入れていたのに対し、池田や伊丹では、依然、足踏み精米にたよっていた。明治期に入ると、木部の水車場を利用していたことが知られているが、いつ頃から水車による精米が始まったか定かでない。文化年間(1804 - 18)にも、木部の水車場が米搗きに使用されていた記錄があるが、酒造業との関係は詳らかではなく、仮に酒造米の精白に使用されていたとしても、灘方面の急流を利用した水車に比べ、その精白度や精白量は低かったと思われる。
     仕込技術の面では、薄物辛口への好みの変化に対応し、文化・文政期、灘では、米1石に対し水1石の仕込方法に成功しているのに対し、池田では、米1石に対する水は5割弱に過ぎなかった。
    呉春酒造酒蔵梁の書付(元禄14年 甲賀谷仁兵衛)
    第3点目は、在郷町池田の特権のよりどころであった朱印状が、官没収されてしまったことである。この「朱印状事件」は、安永3年(1774)、満願寺屋が大和屋からの借金300両の返済を拒否したことに端を発し、朱印状の下付先が満願寺屋か池田村かの争いへと発展、ついに、安永5年、満願寺屋の借財返済と朱印状官没収が命じられたものである。特権のよりどころを失った池田は、酒造業だけでなく、在郷町の機能全体としてもかげりをみせるようになったと訴えている。
     このほか、酒造家が金融業へ一部資本を転換するようになったことなども要因の一つにあげられている。こうした諸条件が重なって、やがて、江戸積酒造体制から脱落し、酒造株の質入れや売買が行われ、「出造り」が一般化していった。
     以上のような発展、衰退の歴史のなかにも、新旧酒造家の交代がみられる。元禄期ごろ、上位を占めていた小部屋、菊屋、満願寺屋に替わり、江戸時代後期は、甲字屋、綿屋などが成長してくる。これら新興酒造家の中には、酒造技術の改良に努め、辛口薄物の酒の量産化を実現したものもいる。しかし、こうした動きが池田の酒造業の復興までに至らなかったのは、これら酒造家が、純粋に酒造経営を行っていたのではなく、貸金を主とし、酒造業を行っていたという点にあったといわれている。仕込技術では、遅れを取らずとも、原料の酒米の多くを質入米に頼っていたことが、酒の品質を左右したのではないかと考えられている。
    -----------------------(資料9おわり)
    ※文中の酒造家小部屋とは、「小戸」か。

    少々長い引用でしたが、酒造と輸送は両輪ですから、効率のよい輸送(出荷)をどのように確保するのかは、非常に重要な問題です。この池田の一大産業の勃興に、池田の武士や元の住人が戻って従事するようになっていたようです。酒造最大手の満願寺屋は、当主の名を「荒城九郎右衛門」といい、「荒城」との字を充ててありますが、これはやはり「荒木」であろうと思われます。また、他の荒木一派も「鍵屋」という屋号で酒造業を営んでいたり、他にも池田家中の武士であった酒造家もありました。
     一方で、それに関連する役割を持つ者も当然いた事でしょう。荒木村重は没落して後、摂津国守護職であった頃の役目の延長で、鋳物師統括に関する取り計らいをしていたらしい史料もあります。
    ※中世鋳物師史料P141

    (資料10)-----------------------
    先刻申し入れ如く候。彼の知行分の儀、荒木弥四郎村基存分に成り候者、知行分存知候間、重馬之かい料の儀、進められるべく申しの由、松台(不明な人物)仰されるべく候。恐々謹言。
    -----------------------(資料10おわり)

    上記は年記を欠く、3月26日付の文書で、宇■真清、公卿真継久直宿所へ宛てて音信されているものです。宇■真清とは、■が欠字ですが、これは宇保という人物と思われ、宇保は今の池田市内にある地域の「宇保」の有力者と考えられます。この地域にも宇保姓の武士が居た事は、当時の発行文書からも明かです。また、真継久直とは、あまり地位の高くない公卿ですが、日野家に関係し、全国の鋳物師の統括を担っており、この頃は、一元化を推し進めている途上でした。その流れの中での文書です。

    このように、甲賀谷正長も池田の家老的重職を務める役の家系にあったようですから、その政治力や人脈を活かした、時代時代の役割りがあったのだろうと思われます。
     先にも述べたように、正長は長遠寺の復興や正蓮寺の創建に、中心的な役割りを果たしており、それに伴う経済的支援もしていることから、相当な経済力も持っていたことは明かです。甲賀谷という、いち地域から町全体の政務(まつりごと)を行う地位に昇っていたのかもしれません。

    最後の桶職人 武呂氏(池田酒と菊炭より)
    ちなみに、甲賀谷正長の名乗りの起源であった、江戸時代の甲ヶ谷の様子について、資料をご紹介します。
    ※大阪府の地名1(平凡社)P316

    (資料11)-----------------------
    【甲賀谷町(現池田市城山町・綾羽1丁目)】
    東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
    -----------------------(資料11おわり)

    甲賀谷は、近年まで大工職をはじめ、職人の多い町として知られていて、この江戸時代の流れが、その時代に沿いながら地域の定形文化が続いていたといえます。




    2019年8月24日土曜日

    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(瑞光山 本養寺(大阪府池田市)について)

    日蓮宗(法華)の特徴は、主に町屋と町衆を布教対象としていたため、周辺地域の拠点的特徴も持っていた池田に、日蓮宗の布教拠点(寺院)があったのも、それは自然なことと言えるのかもしれません。以下、池田の本養寺について、ご紹介します。
    ※大阪府の地名1(平凡社)P316

    (資料2)--------------------
    瑞光山 本養寺(2001年頃撮影)
    【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
    日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
     元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
     なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
    --------------------(資料2おわり)

    また、池田での『穴織宮拾要記 末』による伝承では、荒木村重が池田城を畳み、本拠機能を伊丹へ移したときに、本養寺も伊丹へ移したとしています。しかし、場所など伊丹での実態状況が不明です。江戸時代に再び池田へ戻ったとされるまでの間はよくわかっていません。
     町衆と深く結びつく宗教で、歴史も永く、池田では大きな寺院でもあったことから、本拠を移すにあたって行動を伴にすることは、何ら不自然ではありません。
     ちなみに、法華宗も日蓮宗も日蓮上人を宗祖としています。本山の違いがあって、宗派が別れています。時代を経る中で、考え方の違いで派生していきました。元々は法華宗と呼ばれていたようです。

    また、天正3年頃に池田から伊丹へ本拠機能を移した時の伝承記錄に、本養寺のことが記述されています。『町並調査報告書』など、いくつかの資料からの引用です。
    ※(1)北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P32(『穴織宮拾要記 末』)、(2)荒木村重史料(伊丹史料叢書4)P136(『穴織宮拾要記 本』)

    (資料3)-----------------------
    (1)しかし荒木村重は間もなく、本養寺・大広寺を伊丹へ移し、町人も「城之用聞五軒伊丹へ引き」「池田之城をたたみ百姓二歩せ」(以上『末』)、本拠を伊丹へ移した。
    (2)一、今ノ本養寺屋敷ハ池田ノ城伊丹へ引さるさき家老池田民部屋敷也。(中略)一、大広寺・本養寺二箇寺伊丹へ引跡二も小寺建置、旦那ノ内身体よろしき人死候時ハ伊丹へ和尚呼二行也。本養寺ハ元円住坊山二有、留守坊主ノ名円住坊と云候故、今畠ノ字円住坊山と云、伊丹崩候後池田二二ヶ寺被帰候。秀吉公・秀頼公之御時より池田ハ御代官所成ル、片桐市正御預り牧治右衛門池田支配ノ時、右之屋敷本養寺へ寄付せられ候。町人も城之用聞五軒伊丹へ引、又帰り候
    -----------------------(資料3おわり)

    このような伝承記錄があるのですが、伊丹市側では本養寺のこの動きについて把握されてされておらず、詳細は不明です。場所なども判っていません。もしかすると伊丹にある日蓮宗滋霔山 本泉寺に何らかの関係があるのかもしれませんが、それも不明です。






    ◎参考記事:摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?