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2026年3月19日木曜日

池田市にある五月山愛宕神社は、摂津池田城の関連施設である可能性が非常に高い

大阪府池田市の五月山頂上にある愛宕神社(綾羽2丁目)の地は、摂津池田城の関連施設であった可能性が非常に高いと思われます。この愛宕社の由緒などについては、公的には以下のように記述されています。
※新修 池田市史5(民俗編)P135

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摂津名所図絵にある五月山愛宕神社
【愛宕神社の勧請】
愛宕神社が京都から勧請された時の次第については、柴田久徳が『愛宕火と八坂の額灯』(市立歴史民俗歴史館図録)の中で詳細に述べているので、以下、この研究を参照しながら説明を進めていきたい。愛宕神社の勧請についての同時代史料は、今のところ確認されていないが、享保12年(1727)ごろ作成された『穴織宮拾要記 末』(伊居太神社蔵)には、次のように記載がある。正保元年(1644)に多田屋・板屋・中村屋・丸屋の四人が、山上で百味の箱を竹に立てて火をともしたところ、人々がその火をみて、池田に愛宕が飛来したといいながら、競って参集したのが当地の愛宕神社の始まりである。その評判があまりに高いために、京都の愛宕神社から抗議があったが、箕面勝尾寺宝泉院は、京都所司代板倉周防守に働きかけ、和解を果たしている。和解後、慶安2年(1649)には、宝泉院は板倉周防守に感謝するため、22人の僧によって護摩を焚いている。それ以後、本格的な社殿の建築が進められている。近世都市においては多くの流行神がみられ、その中には神が飛来するというパターンもみられるが、池田における愛宕神社の創始には、典型的な都市における民衆信仰の発生過程が示されている。
 元禄6年(1693)に作られた『池田村寺社吟味帳』(伊居太神社蔵)には、当時池田にあった寺社の明細が記されているが、愛宕権現社は当時皐月山にあった上仙寺境内の一社として記載されている。ただしその説明部分には、「是ハ勝尾寺宝泉院当村高法寺両寺之支配」と書かれていることから、愛宕神社の支配はこの上仙寺ではなく、勝尾寺宝泉院と池田の高法寺の両寺がおこなっていたことがわかる。柴田久徳は高法寺が池田の会所寺としての機能を持っていたことを指摘したうえで、勧請の後、庄屋衆が愛宕神社の利権の一部を貰い受けたために、高法寺が支配権を得たことを述べている。会所寺とは、町民の集会所としての性格の強い寺院である。勧請から50年後には、愛宕神社は池田の町が全体として祭祀するという特別な位置を確かなものとしていたのである。
池田村寺社御吟味帳(部分)より
 愛宕神社勧請についての事情はおおむね以上のとおりであるが、それ以前の五月山についても少し考えてみたい。先に取り上げた元禄6年(1693)の『池田村寺社吟味帳』の皐月山上仙寺の項目には、愛宕大権現以外に、常住院と地蔵堂2宇、護摩堂が書かれている。この堂宇の構成からは、愛宕信仰の前提として地蔵信仰があったことがうかがえるし、護摩堂という記載からは、山岳の信仰としての修験道が根付いていたことも想像できる。史料的な実証は困難であるが、池田の町民が日々仰ぎみる美しい山としての五月山に対する素朴な山岳信仰が古代から存在し、そこに地蔵信仰や修験道がまず定着し、その前提の上で、近世初期に愛宕神社が都市的様相を強くにじませながら勧請されたという歴史的推移が考えられよう。池田における愛宕神社は、単なる火伏せの神というだけではなく、在郷町池田全体の守護神的性格が感じられるが、その背景として、愛宕神社のこのような成立過程を考慮する必要があるだろう。
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現池田市米屋町にある高法寺
◎真言宗 待兼山 高法寺は、池田筑後守の祈願所であったという伝承

また、上記引用文中に登場する「高法寺」とは、摂津池田筑後守の祈願所であったとも伝わっており、古くから摂津池田とは関係の深い寺です。以下、その由緒です。
※大阪府全志3-P1109

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【高法寺】
高法寺は米屋町にあり、待兼山と号し、真言宗高野派西禅院末にして十一面観世音を本尊とす。僧正行基の開基なりと伝う。もと待兼山の絶頂にありて、池田城主筑後守祈願所たりしが、後兵燹に罹りて当所に移転し、慶長3年(1598)静辨之を中興せり。境内は141坪を有し、本堂兼庫裏・薬医門を存す。外に不動堂あり。
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ちなみに愛宕社では、大阪府無形民俗文化財「五月山の愛宕火(がんがら火)」も、ここを基点毎年8月24日に催行されます。

◎高地性集落があったとみられる愛宕神社遺跡
それからまた、この場所は、弥生時代から古墳時代に渡る「愛宕神社遺跡」として、公的な認知がされてもおり、高地性集落が営まれていたと考えられています。
※新修 池田市史1-P155

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摂津名所図絵:鼓ヶ滝
【池田の高地性集落】

愛宕神社遺跡:
五月山の頂上近くの標高210メートル、麓との比高差約150メートルのところにある遺跡である。昭和6年(1931)、愛宕神社の相撲場があったところの付近で、林田良平氏が、弥生土器を採集したが現在は不明である。また、同年秀望台の下にある愛宕神社鳥居近くの旧道において石器が採集されている。その石器の石質は安山岩で有孔磨製石器が1個あり、他の石器は皮剥ぎなどに使用されたと思われる刃噐である。愛宕神社の宮司によって、弥生土器・石器・土師器などが採集保管されている。土器は畿内第五様式を中心に第三様式が一部含まれている。土器の種類は、甕と壺である。その中に中河内産の搬入の土器もある。石器は不定形の刃噐と安山岩片がある。土師器は古墳時代前期の布留式の高杯の完成品が2点ある。この愛宕神社遺跡から南方を望むと、弥生時代中期の加茂大集落が眼下に見え、西方を望むと、弥生前期の木部遺跡と、時代も性格も同じの鼓ヶ滝遺跡が見える。愛宕神社遺跡は、猪名川流域全体を見張ることのできる場所としては最高の高地性集落である。また、出土遺物から古墳時代初めには祭祀などを行っていたかもしれない。
鼓ヶ滝遺跡:
古江丘陵が西に伸びる標高約100メートルのところにある。遺跡の範囲は、尾根上の緩斜面に広がっており、その中心は北側の川西市にある。遺物は個人により採集保管されていた。土器は、畿内第五様式にあたるもので、その種類は、壺・甕・高杯・甑(こしき)などであった。この遺跡の特徴は、猪名川と両岸の山塊とによって関門状になっているところである。遺跡は、左岸の端で比高差約60メートルの古江丘陵の尾根にあり、多田方面をみると矢問遺跡が見え、南方は木部遺跡と加茂大集落が見える。また、この地は、池田地方と多田地方との交通上の要所であることから、人と物の交流に関係のあった遺跡ではないかと推定される。
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この場所は同じ高地性集落の鼓ヶ滝遺跡(標高100メートル)よりも更に高く、標高が210メートル(麓との比高差約150メートル)に位置します。改めて、高地性集落の概要を引用してみます。
※かわにし文化財ウォーキング(川西市教育委員会)P36

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【鼓ケ滝遺跡 古代の狼煙台?】
(前略)
弥生時代中期から後期にかけて、大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸にかけての地域では、鼓ヶ滝遺跡と同じように標高100〜200メートルの山頂に集落をつくることが多くなり、これを高地性集落と呼びます。
 高地性集落は、高い山上に集落があるために稲作には適しません。それでは、なぜ、このような所に集落をつくったのでしょうか?
 各地の発掘調査例をみてみると、濠や土塁のようなものが集落の回りを巡っていたり、鉄・銅・石鏃や投弾と考えられる石器が多数出土しています。また、中国の歴史書の『後漢書』に「倭国大いに乱れ…」という記載があることから軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。中でも芦屋市の会下山遺跡は有名な高地性集落で、遺構などを現地で見学できるようになっています。
 鼓ケ滝遺跡周辺は現在でも但馬・丹後方面へ向かう交通の要衝です。弥生人達も山上から人々の通るのを眺めて、危険がせまると狼煙を上げていたのでしょうか。
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「鼓ヶ滝(山)」の軍事的な要素について、もう一つ資料を見てみましょう。摂津名所図絵の各地の名所解説に以下のようにあります。絵図の赤色丸印部分です。
※摂津名所図絵(臨川書店)下巻P71

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【旗指山】
多田村にあり。峰巒高聳(ほうらんこうしょう)にして、一郡の秀嶺なり。曾て満仲公此の峰に御旗を靡かし、諸軍の機を窺い給うとなり。
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江戸時代の伝承ですが、鼓ヶ滝の高みを利用して陣を取っていた様が「旗指山」として使われていたと伝わっています。

五月山頂上の代表的な道(他にも無数にある)
◎五月山半島には無数の山道が交わる重要な通路

このように五月山愛宕神社の地は、古くから人の活動が認められ、軍事的、時には精神的な場所でもありました。また、五月山は山頂が比較的に平坦であるためか、多くの山道を通して、その交差点ともなっていました。
 半島状の五月山の根本にあたる北東方向には、勝尾寺・箕面寺や茨木方面、北へは高山や能勢・丹波国方面へつながる山間道が通じていました。
 近距離では五月山南麓にある池田城とその町などと、細河郷の村々を繋ぐ山間道が多数あり、相互に行き来は盛んに行われたようです。五月山頂上が交通上のロータリー構造的になり、分岐点・結節点として、平地を通る西国街道や能勢街道などと同様に、重要な通路になっていました。

五月山の山間道の利用を考える上で参考になる史料があります。欠年2月14日付、楢葉宗祐なる人物が、摂津国豊嶋郡勝尾寺年行事へ宛てた音信で、池田への連絡(夜間の移動)のため、その使者である「中間(ちゅうげん)」の道案内を依頼しています。この宗祐なる人物は、摂津国人芥河孫十郎常信の被官であり、年代比定は天文21年と嶋中佳輝先生は述べられています。以下、その史料をご紹介します。
※勝尾寺文書1139号(箕面市史:史料編2)P379、歴史研究(戎光祥出版)724号-P79+83

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前置:寺納候。御油断候ては然るべからず候。
本文:急度申し入れ候。仍って此の中間は「芥新十」より池田まで急用候て参り候池田へ案内者御添へ候て、遣わされるべく候由「新十」より申しかへの由申され候。今夜中に遣わされるべく候。詳しくは此の者申すべく候。恐々謹言。
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五月山愛宕神社の地形
◎五月山愛宕神社の場所は、監視・管理・連絡などの要害施設

それ故に、戦国時代にあっては、これらの街道の監視・管理などを目的とした場所として、五月山愛宕社の地に要害を設けていたと考えられます。
 同時に、五月山の北から西及び南側の警戒や連絡場所として機能していたと思われます。ここからは、それらを一望することができます。今の五月台展望台は、観光用も兼ねて広くなっていますが、ここは太平洋戦争中には防空監視所があったようで、この頃に手が加えられているのかもしれません。
要害性のある西側からの入口
 五月山愛宕社へつながる山道は、2つあり、ひとつは五月台(展望台)の中央部にある階段から神社へ登る道があります。もうひとつは、神社境内へつながる鳥居のある所から南へ伸びる道(今はドライブウェイで切断)があったようです。なお、これらは時代による変遷はあると思われます。

◎古江村方面の郡境の警戒
摂津池田領内の北端にあたる、古江から吉田村に至る小丘陵は河辺郡との境にあたり、比較的長期間に亘り敵対していた塩川氏との最前線となっていた重要な場所です。また、ここには能勢街道など複数の重要街道を交差させています。
 この半島状のいわゆる「鼓ヶ滝」は、古江丘陵と呼ばれます。同丘陵の猪名川を挟んで西側にある、より標高の高い釣鐘山(約200メートル)・石切山(約284メートル)から見下ろされる立地にあります。したがってその不利を補うために付近の要所と連携を取って同半島を守る必要があり、その意味でも、五月山愛宕社に示威的な建造物などを置きつつ、その見通しにより、警戒・監視を常時行う必要があったと考えられます。
 余談ながら、古江丘陵の南側、猪名川を越えて、河辺郡小戸村や栄根村、賀茂村、久代村へも池田氏が影響力を持っており、これらも塩川・伊丹氏など河辺郡勢力への対応を行っていたと思われます。

五月山愛宕神社の周囲にある何本もの深谷
◎山を支配する事は水利権にも及ぶ

現代のように、水道の蛇口を捻れば、いつでも安全な水を当たり前のように得られる時代は、つい最近の事で、生命線である水の確保については、非常な労力が必要でした。戦国時代は、水の取り合いでもありましたが、山を支配する事は水の確保の面でも、必要な課題でした。
 生活の水はもちろん、農産物生産にも水は欠かせません。谷の上、尾根の最上部など、用水のための谷から最適な所にある池を管理するためにも、要所に何らかの屯所は必要でした。そういう意味でも五月山愛宕社には、何本もの深い谷があり、水源管理(分水嶺)としても重要な場所でした。

それら幾つもの重要要素を持つ五月山愛宕社の地は、やはり戦国時代には軍事的な性格を帯びた施設がなければならない場所であった事が解ります。
 時代は降り、江戸時代となっても、やはり池田村としての重要な場所で、日照りが続くと同地で「雨乞い」が行われています。その場所が高法寺の支配地でもあり、同寺は池田郷の寄り合い場所ともなっていて、町政運営を話し合うために年寄り衆の集う寺でもありました。

五月山愛宕神社のある場所は、時代により意味合いが変化するのですが、重要な場所である事は変わらず、現在に至っています。


2026年3月9日月曜日

摂津国豊嶋郡古江村(現大阪府池田市古江町)にあった古代寺院の(伝)等覚寺を探る

池田市五月台展望台(五月山)からの古江町遠景
今の大阪府池田市古江町にあったと伝わる古代寺院の等覚寺について、考えてみたいと思います。
 この等覚寺については、戦後は特に歴史資料上では、あまり触れられなくなって益々探求から遠のくばかりになり、人々に忘れられようとしています。
 それらの伝承資料を確認するため、池田市細河地域の各場所を踏査しています。その結果、それらは確かにあったと実感しています。
 また、考慮に入れるべき興味深い分野として、この辺りは鉱山がおおくあるということです。猪名川上流から五月山にかけては日本有数の鉱山地帯で、満仲を祖とする多田源氏が大きく勢力を拡大していった背景に、これらの鉱山の支配は見逃せません。長暦元年(1037)に摂津国能勢郡で銅鉱が発見され、銅が朝廷に献上されたことが『扶桑略記』に記述されています。(古江の歴史と民俗)
 今後は、各分野の専門家にも相談し、それらの意味を確認して、認定を行っていきたいと考えています。非常に有意義な発見に繋がる可能性も大いにあると考えられ、今後も地道に調査を進めていきたいと思います。

◎伝えられている等覚寺の姿
戦前に発行された池田町史(昭和14年発行)には、以下のようにあります。
※池田町史 第一篇(風物詩)P317

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【等覚寺址】
古江北方にあり、伝え言う当寺は天平年間(729-49)僧行基の開基なりしが寿永年中(1182-85)の兵燹にかかり、悉く烏有に帰せしと。今は田圃となりて遺址の見るべきものなきも字地に寺名及堂塔址を残せりと。(大阪府全志)
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この出典そのものは、大正11年(1922)11月に発行された『大阪府全志』によっています。内容は、殆ど同じですが、以下に掲示しておきます。
 ※大阪府全志3(昭和50年復刻版)P1116
 
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【大字古江】
(前略)等覚寺の址は北方にあり。伝え言う、寺は天平年間僧行基の開基なりしが、寿永年中の兵燹に罹りて悉く烏有に帰せしと。今は田圃となりて遺跡の見るべきなきも、字地に寺名及び堂塔銘を残せり。本地の領主及び区画の変遷は、大字中河原に同じ。
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どちらの記述にも「字地に寺名及び堂塔址を残す」とあるのですが、地籍(地番)には、今のところあたっておらず、これはまた、課題としておきます。位置特定が更に具体化するかもしれません。

古江村地図(新修 池田市史より)
◎近世に見られる等覚寺の記述
それから、平成11年(1999)に発行された『新修 池田市史』に等覚寺についての記述がみられます。
※新修 池田市史2-P156

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【古江村の寺社改め】
村の中には、住職や神主のいない小さな寺堂や庵、神社が多く存在した。(徳川)幕府はこれらの把握のため、村ごとの寺社改めもおこなった。元禄5年(1692)の寺社改めでは、古江村・畑村の届の写が残っている。
 「古江村寺社御改帳」には、寺として無二庵・清香寺、神社として八幡宮が書き上げられている。無二庵は、文明10年(1478)開基の禅宗の古刹で、当時は了納が住持を務め、その境内は除地となっている。無二庵境内には等覚寺・森堂があるが、前者は行基開基の伝承を持つ観音堂、後者は観音休堂とされている。もともと観音信仰があったところに、無二庵が開庵されたとも考えられる。八幡宮も無二庵の鎮守とされているが、起源は案外古い可能性があろう。無二庵では、近世には村の寄合も行われたこともあった。また清香寺は年貢地にあり、寺は廃絶して寺号のみ残り、敷地は村が支配して助兵衛に管理させていた。
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上記の伝記によると、文明10年には既に開創されていた寺であり、別説の永禄5年(1561)開基は、再興や中興という事になるのかもしれません。
 また、同寺の山号が「鼓瀧山」とは、鼓ヶ滝を想起させる命名ですし、境内に「等覚寺」があるのは、無二寺が系譜を引き継いでいる要素があるのかもしれません。今後、もう少し調べてみます。
 それから、無二寺が八幡宮をも掌管していたと届け出ているのも気になります。古江村から少し離れた場所にある久安寺(現池田市伏尾町)内に城があり、それが「八幡城」であったと伝わるため、何か関連があるのかどうか気になります。

加えて、同市史から等覚寺についての記述をもう一つご紹介します。
※新修 池田市史2-P728

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【開基をめぐる諸説】
万治3年(1660)2月、片岡村惣道場(現八幡山 如来寺)の屋敷用地として、字等覚寺の下畑一畝五歩(35坪)が、代銀60匁で古江村本郷の七左衛門から片岡村へ譲り渡された。また、道場庫裏屋敷の用地として、字八幡屋敷の下畑十六歩(16坪)が、片岡村の治右衞門から代銀50匁で譲られている(「記録帳」)。(後略)
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上記には、同村内片岡の惣道場の屋敷用地として「等覚寺の下畑」の一部が売却されています。この場所がどこなのか、今のところ調べが及んでいませんが、片岡村が古江村の中心集落(本郷)とは少し離れた別の麓に展開されている集落ですので、等覚寺の土地の一部を売却するとなると、同寺域はこの山の頂きあたりに広く展開していたのかもしれません。

◎伝等覚寺と鼓ヶ滝遺跡は、連続した関係性があるのか
それからまた、等覚寺跡は、古江の北方にあったとしており、ここには「鼓ヶ滝遺跡」もあります。それについて、兵庫県川西市発行(1998年)の『かわにし文化財ウォーキング』に、同遺跡の紹介がありますので、ご紹介しておきます。
 ※かわにし文化財ウォーキング(川西市教育委員会)P36
 
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摂津名所図絵に描かれた鼓ヶ滝(旗指山ともある)
【鼓ケ滝遺跡 古代の狼煙台?】

能勢電車を鼓ケ滝駅で降りて、線路沿に南へ歩くと、相当急な坂道になります。この坂道を登りきった山項に鼓ケ滝遺跡があります。
 鼓ケ滝遺跡は、この山項を中心に東西約700メートル、南北約250メートルの範囲で、現在の池田市と川西市にまたがっています。この遺跡については、弥生時代中・後期の巣落跡という以外は不明で、これまで2回の発掘調査でも溝やピットがみつかっただけで、住居跡や募などの集落の構造を確認できる遺構はみつかっていません。また、遺物は弥生土器や石器が多数出土していますが、土器については細片がほとんどで、形のわかるものはほとんどありません。その中で、地元の山県みさおさん採集品の中に、高さ8.2センチメートルの弥生時代後期の壺形土器が1個あり、当時の生活を知る唯一の手掛りとなっています。
 弥生時代中期から後期にかけて、大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸にかけての地域では、鼓ヶ滝遺跡と同じように標高100〜200メートルの山頂に集落をつくることが多くなり、これを高地性集落と呼びます。
 高地性集落は、高い山上に集落があるために稲作には適しません。それでは、なぜ、このような所に集落をつくったのでしょうか?
 各地の発掘調査例をみてみると、濠や土塁のようなものが集落の回りを巡っていたり、鉄・銅・石鏃や投弾と考えられる石器が多数出土しています。また、中国の歴史書の『後漢書』に「倭国大いに乱れ…」という記載があることから軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。中でも芦屋市の会下山遺跡は有名な高地性集落で、遺構などを現地で見学できるようになっています。
 鼓ケ滝遺跡周辺は現在でも但馬・丹後方面へ向かう交通の要衝です。弥生人達も山上から人々の通るのを眺めて、危険がせまると狼煙を上げていたのでしょうか。
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鼓ヶ滝遺跡全景(かわにし文化財ウォーキングより)

ここには「軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。」との見解が示されています。
 「鼓ヶ滝(山)」の軍事的な要素について、もう一つ資料を見てみましょう。

◎『摂津名所図絵』に描かれた鼓ヶ滝と旗指山
摂津名所図絵の各地の名所解説に以下のようにあります。絵図の赤色丸印部分です。
※摂津名所図絵(臨川書店)下巻P71

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【旗指山】
多田村にあり。峰巒高聳(ほうらんこうしょう)にして、一郡の秀嶺なり。曾て満仲公此の峰に御旗を靡かし、諸軍の機を窺い給うとなり。
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江戸時代の伝承ですが、鼓ヶ滝の高みを利用して陣を取っていた様が「旗指山」として使われていたと伝わっています。
 このように、非常に興味深い要素を多々確認できます。高地性集落として使われていた「鼓ヶ滝」の付近では、同じく高台に環濠を伴う大集落を形成した、加茂遺跡があります。

◎地図から考えてみる
地図を見てみます。ここは今も昔も境目で、近世から近代に至るまで、摂津国の豊嶋郡と河辺郡との境界でした。現代は、大阪府と兵庫県の境で、非常に重要な場所です。
  そして更に、現代の地図を見てみますと、兵庫県川西市鼓ヶ滝1丁目16番のあたりが、奇妙に大阪府池田市側に入り込んだ境界になっています。この理由は解りませんが、意味があるのだと思います。

Google マップの衛星写真モード(キャプチャー)

明治42年測量:陸軍参謀本部地図

そこで更なる推測のため、赤色立体地図を見てみます。生活に欠かすことのできない「水」を確保するために、谷を人工的に普請したと思われる跡が多数見られます。自然地形を利用して、水を配る事を企図したらしき跡(赤色実線)が、同一線的に南北に見られます。この谷を堺とするように、東西に大きな区画が感じられます。

赤色立体地図による地形の観察


それからまた、この鼓ヶ滝遺跡及び古江の等覚寺跡あたりは戦国時代後期には、摂津国豊嶋郡を中心とした池田氏が五月山南麓に本拠を構えて、勢力を拡大していました。河辺郡との境である、この丘陵を重要視していたと考えられる事から、等覚寺跡や高地性集落跡を再利用するなどしていた可能性が考えられます。

ミツマタ(枝が3つに分かれる木)
ちなみにこの付近には、紙の原料である、ミツマタなど木が多数みられます。都市や寺院では紙の需要が大量にあり、これを満たす(賄う)ために、生育環境に適する場所には悉く植えられていたと思われます。概ね、谷に多く植えられていたようで、多数を目にしました。
 
◎室町時代末期の郡境の推測

一方、河辺郡には、多田院御家人筆頭とされる塩川氏が居り、池田氏にとっても、この丘陵がその敵対していた頃には、最前線になっています。その時代にもやはり「要塞・のろし台・みはり台」などの機能を持たせた要地であった可能性は高いと考えられます。
 この古江地域には、能勢・多田・妙見街道を通し、猪名川には川港があったようです。五月山南麓に本拠を構える池田氏にとって、この地域は後背を守る重要な地域であり、交通の要衝であっため、主体的な管理を是非とも行うべき所でした。これは、天文年間からそのような動きがあったのかもしれません。 
多くの重要街道が交差する細河郷
(新修 池田市史)
 伝等覚寺についての興廃は、資料上で辿る事は難しいと思われますが、現地地形やフィールドワーク(現地踏査)を通じて、その間を埋める事は十分に可能だと考えられます。
 現時点での見立ては、妙見道などを通すこの舌状丘陵は、天文から永禄年間以降の隆盛期の池田氏が、この地域を掌握していたのではないかと感じています。
 その根拠の一つは、永禄5年(1561)、僧雲清により創建(別説では文明10年開基)されたとされる(大阪府全志)古江村内の鼓瀧山 無二寺が、池田氏の菩提寺である大広寺末寺である事。ここには和泉式部に関わる宝篋印塔があり、それにまつわる伝承も存在し、池田と関わっています。それを擁する事についても無縁ではないと思われます。
 その他にも、その丘陵上に多数の池田氏に関連するらしき遺跡が多数あり、それらを総合しても、この丘陵の支配は池田氏が優勢であった事を伺わせます。
 また、同じく古江村内の小字片岡というところの伝承では、「古御坊」と呼ばれる寺院があり、それが池田城の落城と共に焼失し、廃寺となったとの伝承があります。
※新修 池田市史5(民俗編)P333
 
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【古御坊
村の墓のもう一つ上の高いところに、古御坊というお寺があったという。今でもそこは、古御坊と伝えられている。戦国時代に池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。そこに寺男としておった人が片岡〇〇という人で、寺が焼かれて行き場がないので、ここに降りてきて住み着いたという。その片岡某の名前からここを片岡といっていた。江戸時代は古江村字片岡といわれていた。
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この伝承では、「古御坊は池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。」とあるため、天正6年(1578)秋から始まる、荒木村重の信長政権からの離反に伴う闘争に関係するかもしれません。
 拡大して想像するなら、大和国北部の松永久秀の守備構想のように、多聞山城と鹿背山城を一体化させたものであったり、荒木村重の伊丹城と池田城の連携のように補完し合う守備構想を立てていた可能性もあったかもしれません。何しろ鼓ヶ滝の山は低く、東側の「現滝山」から俯瞰される状況でもあり、この不利を補って維持する必要(工夫・連携構想)があったとも考えられるからです。

昭和43年10月頃の唐船ヶ淵付近
(グラフいけだNo.27 1978年3月発行)
摂津池田城の守備構想の中にあったと思われる猪名川は、水量の少ない冬期などは、徒渡り(徒渉)が可能で、岩や石が多い川原に板や梯子などを渡せば対岸に渡ることができます。
 それ故に、各地に渡河阻止や、渡られた場合の備えが必要であったと思われます。そういう意味でも、城や寺などで監視や管理、防御想定などがされており、村の避難所的な曲輪が多数見らるのは、その結果であろうと考えられます。

史料上からも、多くの街道を交差させる池田領内において、敵の侵入による合戦が、天文年間(1532-55)以降徐々に少なくなり、永禄年間(1558-70)になると殆どありません。非常に防御が固かったため侵入できなかったのだと思われます。

それらから想定される事は、古江地域の地政学的要素の不変性を帯びており、弥生時代から永きに渡って、利用され続けた実態です。伝等覚寺や伝古御坊は、時の勢いによる実態の痕跡と考えられます。

2025年5月5日月曜日

摂津国豊嶋(現大阪府池田市)・河辺郡(兵庫県川西市)境に存在した可能性のある砦跡を発見か!?

兵庫県川西市1丁目16から大阪府池田市古江町1にかけて見られる人工物の一部で、これは堀跡と思われます。高さは4〜5メートルほどあります。堀らしき写真は、赤色立体地図の赤色丸印内、矢印の方向から撮影しています。

この辺り、戦国時代には特に重要な要所でした。地形的には、ほぼ東西に伸びる標高100メートル程の丘陵(板かまぼこ状)の西端にあたり、その丘陵に河辺郡と豊嶋郡の境目があります。
 その丘陵最西端には、眼下に能勢街道と篠山街道が走り、それらの間を猪名川という大きな川(人馬などでの渡河は不可能)が流れています。また、今回の堀(砦)跡と思われるところから、東側至近に妙見街道を通しています。

戦国時代、豊嶋郡は池田氏が、河辺郡は塩川氏がおり、両者は戦国時代末期、敵対関係にありました。その事から、有事には街道を封鎖し、郡境を超える軍勢に備える必要がありました。また、ここには「古江」という集落があり、その集落を守る必要もあります。

そういった事から、非常に念入りな防御施設を拵える必要があったものと思われ、既述の赤色丸印、すぐ東(右)側には、丘陵南突端に広い平坦地があり、ここに兵を駐屯させられるような場を設けていた可能性もあります。要するに砦のようなモノがあったと想定されます。
 更に、今は宅地開発されてしまっている場所(池田市古江町1)は、尾根続きで西端まで伸びており、その最西端には、公的に把握された古江古墳があります。この古墳も、眼下を見下ろす監視所のような役割に使われており、一体化した概念が感じられます。

公的には把握されていない遺跡ですが、状況から考えて、ここには重要な軍事施設があっても良い環境です。今後も調べを深めていきたいと思います。

本日ご同行いただきました、郷土研究家の I(アイ)様、池田市史学会のM様のご案内とお話しは、大変意義深く、勉強になりました。ありがとうございました。

航空・衛星写真から見た現在の地表面の様子

1909年(明治42)当時の該当地域の地図

堀跡と思われる状況1   

堀跡と思われる状況2

大阪府池田市の文化財「古江古墳」から西を望む


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2023年3月14日火曜日

摂津国河辺郡(現兵庫県川西市)にあった、上津城を考えてみる

先に紹介した新田(多田)城についての関連記事です。この上津(うえつ)城は、塩川氏の拠点であった新田(多田)城と対を成す城で、両城の間には、主要道である能勢街道を南北に通しています。
 この至近でもあり、豊嶋郡にあった池田城は、発掘調査等から、その発展の過程で最晩年には能勢街道を城内に取り込む形態となっています。他地域にも、街道と城の関係は、密接である事例が多くあり、この新田城・上津城の関係も、例に漏れず、そのようであった事でしょう。残念ながら、新田・上津城については、あまり発掘調査が進んでおらず、多くが明かではありません。

先ずは、今ある情報を集めてみたいと思います。いつものように、以下に関連資料をご紹介します。
※日本城郭大系12(上津城)P330

---(資料1)---------------------------------
上津城の築城時期は不明であるが、新田城の支城の一つとして築かれ、新田城から塩川を渡った東側丘陵上、旧平野村字(「東上津」「西上津」「権現」「竹の下」)にあったものと思われる。
 「多田文書」の「荒木の兵上津城来襲記録」(『荒木村重史料』所収)によると、多田春正が上津城主であった天正六年(1578)に荒木村重の兵が上津城を攻撃している。春正は防戦に努めたが、落城し、自害した。なお、多田春正は源満仲の末裔で、26代目であったという。
 現在、城跡は田畑に開墾され、あるいは民家が並び、城郭構造の詳細は不明になっている。
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続きまして、こちらも定番、日本城各全集(1967年刊行)の該当記事です。
※日本城各全集10(川西市上津城)P192

---(資料2)---------------------------------
多田城ともいわれ、塩川伯耆守の築城と、能勢妙見宮の文献にあるのみで、詳細については不明。
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そして更に、地史としての、いつもの平凡社の地名シリーズ該当記事です。
※兵庫県の地名1(川西市新田村)P384

---(資料3)---------------------------------
平野村(現川西市平野1-3丁目、新田3丁目、長尾町、多田桜木2丁目、東多田3丁目、東畦野山手1丁目、向陽台、平野)
新田村の東に位置する。地名は平野神社(現多太神社)に由来するといわれる。(摂陽群談)。慶長国絵図に平野村・新田村と併記され、村高は不明。元和3年(1617)の摂津一国御改帳および正保郷帳では東多田村と併記され、高652石余。領主の変遷は幕府領ののち、寛永17年(1640)摂津高槻藩領、寛文2年(1662)から慶応4年(1868)まで幕府領(川西市史)。当地の平野温泉は「摂津名所図会」「摂陽群談」に紹介された湯の一つで、安永9(1780)に「多田温泉記」が刊行され、その効能を宣伝する。汲み上げた源泉を温めて入浴した。文化8年(1811)に大坂東町奉行一行が多田院参詣のあと平野温泉で一泊。同8年には多田院御家人が湯元で会合。幕末の大火以後は寂れ、湯ノ町の地名を残すのみとなった。天保13年(1842)の諸商売村々書上帳(西本家文書)では、左官一(農間)・米酒商二・荒物商一・馬喰一・紺屋一・屋根屋一。禅宗平常院(現曹洞宗岡本寺)がある(元禄5年「平の村寺社吟味帳」岡本寺文書)。
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それから、上記に取り上げた「日本城郭大系」の該当記事に採用されている元の情報です。『多田庄十郎文書』に、荒木の兵上津城来襲について伝わっています。
※荒木村重史料(伊丹資料叢書4)P139

---(資料4)---------------------------------
口上覚
一、多田御家人と一統相唱候内多田名字壱人有之候。多田字之儀は従 満仲公・頼光公・頼国・頼綱と次第に嫡男二而致相続、多田本政所・新田政所と越中守正迄 満仲公より弐拾八代致相続、春正は平野村之内上津之城主、其節伊丹有岡之城主荒木之一族襲来上津之城一戦之砌春正自害、其の子小次郎丸有重以来至今二一庫邑井之内二居住、家禄之儀は越中守迄庄内並他所入組致領知来候所、右大坂大将軍之節被没収、依之有重以来無縁二而時節を相待居候内(中略)
 明和9年(壬辰:1772)二月 多田院 御役者中
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また、ウェブサイト『北摂多田の歴史』の「多田庄の歴史散歩」の項目に、「5-1.平野上津にあったとされる「多田上津城」と「正法寺」と「観音寺」」という項目があり、ここで、多田春正の自害は「永禄十年(1567)八月十日」の事と紹介されています。このサイトは、地域資料を多数収集され、詳細に分析されています。
北摂多田の歴史「多田庄の歴史散歩」
http://hokusetsu-hist.sakura.ne.jp/newpage1kawanishiiseki.html

ちなみに、この永禄10年の蓋然性を考えるなら、この頃はちょうど、池田家当主の勝正は、三好三人衆側につき、松永久秀と激しい闘争を繰り返していた時期です。この松永方に、伊丹・塩川氏が付いていますので、戦いの起こる情況としてはあり得ます。
 この年の10月10日、あの有名な奈良東大寺大仏を焼失する合戦があり、松永方は三好三人衆方に対して、起死回生の夜襲を仕掛ける程に追い詰められていました。8月と言えば、松永方が窮地に立っている時期でもありました。
 しかし、上津城の城主多田春正は源満仲の末裔(26代目)が、自害・落城したというのは、大きな出来事であった筈です。その後の顛末は今のところ調べに及んでいないませんが、多田家(嫡流)が一時的に滅んでいます。

一方、新田・上津に拠点を持っていた塩川氏は、北方の山下(やました)地域に拠点を移しますが、いつ頃移ったのかは、今のところハッキリしていません。しかし、多田の荘園の中心である多田院は、その後も同じ場所にあることから、これを守るためにも、また、街道の監視のためにも塩川氏は、支城を要所に配置していたと思われます。そのためにも新田・上津も規模を変化させながら、機能は維持していたと思われます。

さて、天正6年11月付けで、織田信長は、塩川領中所々へ宛てて(中山寺文書:兵庫県宝塚市)禁制を下しています。信長は電光石火の動きで、通路封鎖を行い、荒木村重方の拠点孤立化を実行しています。
※織田信長文書の研究 下巻 P402

---(資料5)---------------------------------
禁制 塩川領中所々
一、軍勢・甲乙人等、乱入・狼藉事。一、陣取事。一、伐採山林・竹木事。右条々、堅被停止了。若於違犯之輩者、速可被処厳科者也。仍下知如件。
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これは、この頃あった、荒木方の打ち廻りに対する対応のようです。10月28日の夕方、賀茂村・栄根村を荒木方が打ち廻りを行っています。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P134 ※『穴織宮拾要記 本』

---(資料6)---------------------------------
一、天正年中伊丹ノ城主荒木摂津守反逆之時、東ハ長柄川を限り津ノ国一ヶ国を放火ス。天正六年十月二十八日空曇りたる日、暮方伊丹より賀茂栄根村栄根寺へ火を掛ける。神主右衞門佐定明先殿内へ入り、御神体を守り出し、西之方松ノ木ノ根迄守り出し候ヘバ、はや大勢来たる。居宅ニハ家来共旧記共取り出し、妻子共引きつれ、北ノ口方ヘハ逃れず、池田山へ登り山越えに能勢大里村森下氏親類たる故、夜中に逃げ行く。家来妻子共に三十六人也。持ち逃げたる記録皮籠に二つ背負い也。、とある。
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この地域は、摂津加茂・栄根村(現兵庫県川西市加茂・栄根)方面は、荒木氏の池田家中での本拠地とも伝わる地域であり、特別な場所でもあります。また、付近は地形が隆起しており軍事的要衝でもあります。
 文中には、「北ノ口方ヘハ逃れず、池田山へ登り山越えに能勢...」とあることから、北側方面はキケンと判断していたことが判ります。通路も塞がれていたようです。

塩川氏はその当初から村重の行動に従わず、織田方として独自に行動していたようです。荒木方にとってこれは、喉元の急所に不安定材料を抱える事でもありました。その領界付近で、早くも交戦があったようです。
 資料5の塩川領中所々へ宛てた織田信長の禁制は、これへの対処だったようです。また、発行者が塩川氏では無かったのも重要ですね。

加えて、同年12月11日の織田方砦各所の記録によると、塩河伯耆守が古池田の受け持ちだったようです。これは、村重にとって、大きな誤算だったのでしょう。その影響は、続く高山右近、中川清秀、安部仁右衞門の織田方への投降に連なる要素も含んでいたのかもしれません。

さて、年が明けた天正7年、『信長公記』3月14日条。織田信長は「多田の谷」にて放鷹を楽しんでいます。
※改定 信長公記(新人物往来社)P244

---(資料7)---------------------------------
多田の谷、御鷹つかはされ候。塩河勘十郎、一献進上の時、御道服(どふく)下され、頂戴。忝き次第なり。
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信長は、この頃、池田城に本営を置き、戦況を確認していました。また、翌月18日、荒木勢が織田信長方の付城を攻撃しています。荒木方は、重要な場所を取り返して領内並びに丹波方面への連絡路を確保するために、部分的攻勢をかけています。
 これを受けて、同月27日、織田信長嫡子信忠が、中川瀬兵衛尉清秀などを伴って15,000の軍勢で能勢街道を北上、荒木方の拠点に対する根本対応を行って、連絡路の完全な遮断を行っています。この時、池田城から至近の止々呂美城を落としています。中川清秀がそれらの調略に活躍したようです。
※ちなみに、大阪府止々呂美には、塩川隠岐守入道の古塞という伝承があるようです。

信長は、同じ18日、塩川伯耆守長満へ銀子百枚を下しています。この交戦で功績のあった事、また、忠誠を尽くしている事への褒美だったのでしょう。塩川氏は荒木村重の政権離脱には加わらず、初期段階から織田方へ誼を通じたようです。
 同月月28日に織田信長が、塩川伯耆守長満・安東七郎(平右衛門)へ覚書を発行しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P436

---(資料8)---------------------------------

一、何口へ敵相動■、此方諸口出あい■を仕、各別可馳合、若油断之輩候者可為曲事、交名を可注進事。一、番等之儀、夜中ハ不及申、昼も無懈怠、其口其口を請取、不可油断事。一、諸口より敵と出合可停止。但、調儀之口も有之者相尋、其上にて可被沙汰事。一、番手人数無退屈、かたく可申付事。一、何篇当年中二ハ可為一着之条、不入動候て、可然もの鉄砲なと二あたらさる様、丈夫にはげミ簡要之事。
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この覚書の翌日。織田信長は、再度池田城の本営に入り、戦況を確認します。池田は、主要道を四方八方に通しているため、播磨国三木城、丹波国八上城の様子なども全て速やかに得る事ができます。この時の布陣の様子について『信長公記』は細かに記しており、「賀茂岸」(兵庫県川西市)の陣で、伊賀平左衛門、同七郎と共に、塩河伯耆守(長満)の名が見えます。
 ですから、先の信長の塩河伯耆守への覚書は、賀茂岸の陣で受け取って、これを読んでいたことでしょう。

多田庄は国内最大の荘園で、広大な領域を有していました。その多田庄の中心に多田院があり、その御家人を自覚する人々も庄内外に居住していました。更にその中に多田鉱山を含みます。この掌握のためにも、塩川氏を活用しようと織田政権は考えたのだと思います。逆の視点で見れば、荒木村重の織田政権からの離叛は、この鉱山を手中に収めていることの計算もあったのだと思います。

『北摂多田の歴史』の説を参考に、上津城と新田(多田)城の位置関係を、大正時代の地図にマークしてみました。上津城は、永年に渡り、気になっていたところですが、未訪問ですので、近日こちらも訪ねてみたいと思います。




「塩川氏の拠点新田(多田)城について」は、こちらの記事をご覧下さい


【修正】利右衛門さんのご教示を得て、文の修正を行いました。ありがとうございました。(2023年3月21日)

2023年1月14日土曜日

摂津国河辺郡(現兵庫県川西市)にあった、新田(多田)城を考えてみる

ずっと気になっていた地域を訪ねました。令和5年の初詣に兵庫県川西市平野にある、平野神社を訪ねました。気持ちの良い素晴らしい神社でした。その折のブラ歩きで、新田城跡も知る事ができました。
 荒木村重の統治や天正6年の村重の織田信長政権から離叛した事による争乱について知るための非常に重要な地域です。また、細河庄との境界の情況について、その周辺情況も、しっかり見ておかないといけないので、気になっていました。

兵庫県川西市にあった、新田(にった:しんでんとも)城は、凄い城でした。塩川氏が山下に本拠機能を移す以前は、新田城が塩川氏の拠点城でした。あまり調べずに、別の場所を目的に訪ねた折に、偶然、気になった所がその城跡だったので、よく調べて、近日に再訪したいと思います。その下調べ的に、このこの記事を出しておきます。

いつものように、以下、村と城についての資料をご紹介します。
※日本城郭大系12(新田城)P330
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新田(しんでん)城は、別名「多田城」ともいい、旧多田新田村にあった。この地の東側に塩川が流れ、西側から南側に猪名川が流れて村の東南隅で合流している。広義の新田城とは、この二つの川に挟まれた地を指し、承平年間頃、源(多田)満仲およびその御家人(多田御家人)が集落を作り、代々住んでいた所という。
 しかし、一般的にいわれている狭義の新田城は、このうちでも特に軍事的な防御施設のあった所で、東部塩川沿いの丘陵部をさしている。この付近は、多田御家人中でも有力者であった塩川氏が代々守り”常の城”を置いていたが、天正年間(1573-92)の伯耆守国満の時、北方の山下城を本城とした。この頃も新田城は存続していたらしく、同6年(1578)の荒木村重の叛乱によって多田城・多太神社をはじめ、付近一帯が焼き打ちに遭っている。「明治8年新田村地字図(『川西市史』所収)」には、城跡の中心部に「城山」「城山ノ下」「城ノ下」「東堀」などの字名が見られ、昭和30年頃まで、田畑の土手に等間隔に並んだ疎石が残っていて、城壁跡といわれていた。現在、丘陵上は宅地化され、多田グリーンハイツとよばれているが、南麓に奥行き5-10メートルの削平段が数カ所と、下方に幅6メートル・深さ5メートルの竪堀跡と思われるものが残っている。
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新田城山公園という公園があるのですが、そこから東向きに丘陵を利用した城であるようです。また、塩川を超えた直ぐ東側にもある上津城と連動した機能を持っていたと考えられており、両城の間にある、塩川と能勢、妙見方面へ通じる重要な街道を監視するようにそれぞれ立地します。

続いて、地史としての、いつもの平凡社の地名シリーズ該当記事です。
※兵庫県の地名1(川西市新田村)P384
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新田村(現川西市新田1-3丁目、平野2丁目、多田院1丁目、向陽台1-2丁目、緑台2丁目、新田)
多田院村の東、猪名川と塩川にほぼ囲まれて立地する。多田の開発に伴う地名と考えられ、元禄11年(1698)の国絵図御用覚(多田神社文書)に「ニッタ」の訓がある。

 享徳元年(1452)12月29日の沙弥本立売渡状(同文書)に「多田庄新田村」とあり、多田院千部経中に村内高岡西窪を3石5斗で売渡している。文明8年(1476)高岡仲明が多田院御堂修理料として新田村内の木村屋敷前の田を寄進している。(同年10月8日「高岡仲明寄進状」同文書)。
 「細川両家記」によれば、永正16年(1519)秋、細川高国は都を立ち、越水城(現西宮市)の救援のため小屋・野間(現伊丹市)や新田・武庫川に陣取り、澄元方との合戦に及んだという。明けて1月、今度は澄元方が小屋や新田に陣取り、合戦したという。
 天文16年(1547)又六兵衞が多田院に羅漢供田として「新田村之内馬場」垣内加地子4斗を寄進している(同年7月6日「又六兵衞寄進状」多田神社文書)。この内馬場を現猪名川町域の内馬場とすると広域すぎて妥当ではない。
 天正10年(1582)9月1日の多田院・新田村際目注記案(同文書)によると、当時、新田村が東順松下町の際まで自領内として押領したため、多田院と新田村との間で境目論争が起きた。寺家より往古の支証を出し、塩川城に新田村在所の年寄どもや寺家僧衆が登城し、双方の言い分を聞いた上で、上寺の東は三間ほど、北は山の際の横大道・平野への横道を限って寺領内とするという裁定となった。

 なお、弘治4年(1558)山問頼秀は長谷乙浦山に関する平居・新田両村の山手代を万願寺に寄進している(3月11日「山問頼秀寄進状」万願寺文書)。
 城山之中にあったとされる新田城は、多田城ともいい、塩川氏の居城とされる。のち国満のとき、山下に新たな城を築き移ったと伝える。現在遺構は消滅したが、城跡中心付近には城山・城山ノ下・城ノ下・東堀などの字があったといわれる。
 慶長国絵図に村名がみえ、平野村と併記されるが、村高は116石余であろう。領主の変遷は、寛文2年(1662)まで矢問村と同様で、同5年以降は多田院領として幕末に至る(川西市史)。寛文5年、四代将軍徳川家綱は、多田院社領として新田村の116石余を含む500石を寄進、同11年の社領寄進の将軍判物(写、多田神社文書)がある。多田院領の当村など三ヵ村では、享保9年(1724)に風損による年貢米25石余の引下げをはじめ、同17年に虫害による同じく62石余、元文5年(1740)には洪水により、明和8年(1771)には干損のため、天明2年(1782)には水害などと災害による減免を出願してきたが、天明6年には前代未聞の凶作として年貢引方を願出ている(清水平文書)。浄土宗宝泉寺がある。
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『兵庫県の地名1』中で、「のち国満のとき、山下に新たな城を築き移ったと伝える。」との伝聞が伝えられ、加えて、『日本城郭大系12』には、「天正年間(1573-92)の伯耆守国満の時、北方の山下城を本城とした。この頃も新田城は存続していたらしく、同6年(1578)の荒木村重の叛乱によって多田城・多太神社をはじめ、付近一帯が焼き打ちに遭っている。」と、焦点を絞り込んでいます。
 天正年間に移ったキッカケは、山下付近で、鉱山開発が行われたために、本城を移したと思われます。荒木村重が天正元年から、織田信長権力の下で信任を受けて頭角を顕し、実質的な摂津国守護になっていたため、次第に国内が平定される中で、軍事・経済分野においても再構成がされつつありました。
 これも伝聞の範囲で今は収まっているのですが、『兵庫県の地名1』川西市笹部村の項目には、天正2年に河辺郡笹部村を分離して山下町を作ったとされ、この山下に城(元々支城などがあったのかも)を作り、町には吹場が集約されて鉱山関係者の居住地としたとあります。
 織田政権下で成長した荒木村重権力の下に入った塩川氏が、状勢の変化により、拠点を移したと思われます。因みに、この年、荒木村重もそれまでの拠点であった池田城を畳み、伊丹に新たな城を築いて、ここを本城としています。有岡城です。村重の領内は、天正2年から翌年にかけて、大規模な軍事拠点の再編成が行われていますので、多分これに伴う動きが、新田城から山下城への変遷にも関わると考えられます。

ということで、ザッと思いつく所をまとめてみました。また、詳しく現地を訪ねて、地形などを見たいと思いますので、その折にまた、この記事を補足します。