昭和から平成に元号が変わり、世も変わろうとする頃、それまでの地域の軌跡を記録しておこうとする動きも、各地でみらます。その取組は、今となっては大変貴重な取組でした。
『荒牧郷土史』は、非常に念入りな構成で、市史や県史と同様の知見をまとめた非常に価値の高い内容となっています。中でも特に、この項目では「酒造業」の既述をみたいと思う。先ずは、内容をそのまま引用させていただきます。
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◎酒造業
酒造業については、次の文書からこの村でも酒造業が行われていたことがわかります。
寛成(政)四年極月五日(1792年12月5日)
一、右極月五日大坂東御番所より北在組酒家酒造御改二付、与力・同心大勢にて加茂両家、小池・中山・荒牧・川面・大鹿・昆陽・古江凡拾六七軒斗御改被成諸帳面不残御持帰り被成、同六日御番所へ御召にて段々御吟味被遊候所、川面其外無株之分五人有之入牢被為仰付(「天明・寛政期酒造一件諸控」、四井幸吉文書『西宮市史』第五巻)
大坂東御番所から与力・同心が酒造改めのため北在組十七軒ほどの酒家に出向いて帳簿を残さず持ち帰り、あくる日順番に取り調べて酒造株を持たずに営業している五人を入牢させています。この文書によって荒牧でも酒造業が行われていたことがわかります。
近代になってからは、岸添家が明治三年(1870)大坂出身の酒造家鹿嶋屋清太郎から貸株を受け、伊丹中之島町で酒造業を行っています。
現在の宮水湧水地の様子 |
現在の当主(山邑美保子氏)に伺いましたところ、残念ながら山邑家の過去帳は天保時代台風で水に浸かり判読できず、それ以前のことはわからないということです。
ところで、江戸時代の商人の屋号を調べると、米屋・油屋など商品を付したもの、河内屋・播磨屋・大坂屋など国名や大都市の名を付したもの、山田屋・荒牧屋など農村名を付したもの、松本屋・大塚屋など人名を付したものに大別されます。その中で農村名を付した屋号は、その農村が出身地か、商業上の取引があったものと思われます。
「荒牧屋」と荒牧村との関係を示す具体例として、天保12年西教寺に鯛島万兵衛とともに荒牧屋重次良が釣り燈籠を寄進しています。
また、天保4年、荒牧屋もよという女の人が寡婦となって、一家そろって荒牧村の源左衛門に引き取られています。このような例から見ると、山邑家の先祖も荒牧村出身で、荒牧屋を称したものと思われます。
ところで、「文政五年(1822)酒造米引手」では米の品種を大極から下々まで8種に分けて選定していますが、荒牧産米は大極から数えて5番目の「上」になっています。また『伊丹市史』第二巻によれば、米問屋鹿島屋利兵衛購入の荒牧産米は、主として掛米(もろみの仕込みに用いる米)に使われています。
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この中で、特に気になる既述の要素として、
「天保のころ荒牧屋喜太郎(六代目太左衛門)は、大坂の伝法町に住み、店は魚崎にありました。のちに、西宮にも出作りし、...。」
明治末から大正時代頃の伝法 |
という口伝です。2点気になる所があります。
1つ目は、歴史的な一応の流れは、西宮から灘へ拡がったようですが、口伝ではその逆になっているようです。
2つ目は、荒牧屋当主(六代目)が、大坂伝法町に住んでいたと伝わっている事です。1717年(享保2)に、荒牧屋にとって事業拡大や新体制となった画期で、「荒牧屋初代」と位置付けているようです。概ね一代の活動期間は20〜25年で計算すると、120〜150年後という事になります。ここを基点にすると、六代目の活動期は、1837年(天保8)から67年(明治元年)頃となります。
一方で、荒牧屋は1625年(寛永2)創醸という事ですので、ここを基点にすると、六代目の活動期は、延享2年(1745)から安永4年(1775)という事になります。
もしかすると、六代目の時代関係をどこに基準を当てるかによって、宮水の源泉発見も、もう少し前の時代になるのかもしれません。これは今のところ、勝手な想像ですが...。
現在の伝法の河港の様子 |
この事と荒牧屋の初代からの代重ねの道筋と概ね一致します。櫻正宗の公式見解として、「宮水の発見」との関連性から考えて、創業初代を享保2年(1717)としているようです。
それから、西宮や灘地域への拡大経緯ですが、これらを私なりに少々想像してみます。櫻正宗の公式見解と『荒牧郷土史』では、享保二年(1717)を初代と定義しています。創業から数えて六代目当主(天保年間:1831〜45)は、伝法町に住み、事業を拡大しつつあった中で、享保二年に新体制となったのでしょう。しかしこれは、それ以前から伝法町に住んでいたものと思われます。
また、生産地も西宮から新興の灘地域へ進出して事業を拡大したのかもしれません。社会情勢や業界の成熟期など様々な要因で、更なる品質向上を求めていたところ、主要的生産地であった西宮で「宮水」の源泉に辿り着いたのではないでしょうか。
もちろん、それまでにも銘水での酒造は行われていたとは思いますが、源泉からの安定供給により、更なる品質向上と生産量の増大によって、地域ブランド力の強化や差別化を図る意図もあったように思われます。時代を経て、酒造メーカーも増えて、競争の激化もあった事と想像します。
今のところの「宮水発見」の公式見解は、1837〜40年で、これはほとんど、江戸時代末、いわゆる幕末にあたります。
「荒牧屋」が関連する地域の位置関係 |
櫻正宗の公式見解によると、天保年間(1831〜45)に当主は大坂伝法町に住んでいたという事です。天保時代というと、江戸時代も末期で、幕府が倒れるまでに20年程です。その時代であっても、当主が伝法町に住まいを置いていたと言う事は、江戸時代を通じて、今で言う本社を伝法町に置いていたとも考えられます。
同じく櫻正宗の公式見解では、1625年を創醸の年としており、この年が同地にある正蓮寺の創建(開山:日泉上人・開基:甲賀谷又左衛門尉正長)です。荒牧屋は、この創建時に大量の酒を提供しています。
池田から江戸までの輸送経路と運賃 |
そういった状況もあって、伝法町の正蓮寺を基点にした関係性は維持していたとみられます。外形的には大消費地であると同時に、相場・物流拠点としての大坂・尼崎に近く、時局の把握と生産地への連絡を重視していた事が想像できます。ネットワークの中間地点に住んでいたというのは、無意味では無いのでしょう。
その詳細は今後の課題にしたいと思いますが、荒牧の山邑氏、上月氏、甲賀谷氏の縁故がこれ程永く保たれていた事は、非常に興味深い事です。この事が、酒造・輸送(物流)・地域経済など、様々な謎を解くきっかけになれば良いと思います。