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2024年1月4日木曜日

河内国若江郡長田村の八幡宮

河内国箕輪村(現東大阪市箕輪)と同じ若江郡に属する長田(現同市長田)にも鎌倉幕府により地頭が置かれたようだとしています。この幕府による地頭の設置がキッカケで、同地にはそれぞれ八幡宮を祀るようになったのではないかと思われます。開幕した源頼朝は、八幡信仰者で、京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請していますので、幕府と関連する施設には、やはり八幡宮が祀られる傾向にあったのではないかと思われます。繰り返しになりますが、その記述部分を以下に紹介します。
※大阪府の地名2(平凡社)P945

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◎東大阪市「中世」条

新田構成地図
京都府八幡市 石清水八幡宮(前略)平安時代末の天養年間(1144-45)市域内水走の地が藤原季忠を祖としてこの地方の代表的中世領主水走氏が登場した。同氏は河内郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、氷野河(現大東市)・広見池など池河や、河内郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、市域一帯を支配していた。源平合戦のとき、大江御厨に源氏の兵粮米が課せられ、水走開発田にも兵粮米使が乱入したが、当寺の領主康忠は源義経に訴えて鎌倉御家人となり、本領を安堵されている。また市域の武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わった。乱(源平合戦)のあと市内の箕輪や長田に鎌倉幕府の地頭が置かれたらしく、「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条に記された、地頭が伊勢神宮造営の役夫米を未済した所々の中に河内国三野和・長田の地名がみえる石清水八幡宮領高井田の地頭は将軍家祈祷所として停止され八幡宮の直接支配に戻った。また若江北条にも地頭給田があった。しかし鎌倉時代の市域は皇室領の大江御厨・若江御稲田、摂関家領玉櫛庄、中御門家領因幡庄、興福寺領若江庄、高野山領新開庄、石清水八幡宮領神並庄・桜井圓、枚岡社領荒本庄など公家寺社勢力が強く、その特権を帯びた供御人・寄人・神人らが諸産業・交易・交通などの業者として活躍し、やがて玉櫛庄民が日吉神人と称して八幡宮神人と利権を争い、若江住人が和泉国大鳥庄(現堺市)内の抗争に加担して悪党とよばれたように(田代文書)、庄園体制の旧秩序を攪乱して南北朝の内乱を導くに至る。(後略)

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長田の神社は現在「長田神社」と称していますが、今も八幡宮を祀っています。こちらも箕輪村と同じような「八幡宮」を祀る経緯を持つのではないかと思います。
 この長田村の歴史について、いつもの大阪府の地名から抜粋します。
※大阪府の地名2(平凡社)P980

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◎長田村(東大阪市長田:中1-5丁目、内介、西1-6丁目、東5丁目、長田)
1908年(明治41)測量の地図
若江郡に属し、標高3.75-5メートルの平坦地で北は稲田村。大和川付替えまでは、村の西を楠根川が流れていた。明治20年(1887)前後の仮製地形図では「長」に「ヲサ」とよみを付す。「新撰姓氏録」(河内国未定雑姓)の「長田使主 百済国人為君主之後也」は、当地に関係ある人物と伝える。「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条に、神宮使が各地の地頭の造太神宮役夫工米未進を訴えた記事があり河内国の未進のうちに「長田」がみえる。本願寺証如の「天文日記」天文11年(1542)5月4日条に「斎を河内長田教法為志調備之」とある「長田」も当地と考えられる。
 慶長17年(1612)の村高は801石余、寛永5年(1628)高西夕雲により117石余が無地増高された。同19年には村が大方と小方に分けられた(布施市史)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高1243石余で、848石余が幕府領、394石余が山城淀藩領。延享2年(1745)の村差出明細帳(栗山家文書)によると、幕府領分が大方、淀藩領分が小方。大方は寛文2年(1662)大坂城代青山宗俊領となり、小方は明暦4年(1658)淀藩主永井尚政の三男尚庸領となる。延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では大方は大坂城代太田資次領で610石余、改出117石余(無地増高)・120石余の計848石余。小方は永井尚庸の息直敬領で394石余。天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳も同様。大方は貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり、同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)、元禄13年(1700)から幕府領(宝暦10年「村差出明細帳」百済家文書)。小方は貞享4年直敬の下野烏山入封に伴い同藩領となったが、元禄15年から幕府領(宝暦10年村差出明細帳)。
長田神社(八幡宮)本殿
 元文2年(1737)河内国高帳
では一村幕府領で884石余409石余。延享2年の村差出明細帳によると大方は高844石余・菖蒲池新田27石余(反別2町5反、石盛1石1斗)、川違新田12石余(反別1町6反余、石盛8斗)、小方は高396石余、長田村新田12石余(反別1町1反余、石盛1石。)なお、宝暦10年(1760)の村差出明細帳では大方・小方に分かれているが、安永8年(1779)の様子明細帳(田中家文書)では大方499石余、大方から分かれたと思われる中方396石余、小方409石余に分かれてる。幕末には京都所司代松平定敬(伊勢桑名藩)領。なお、延享2年の村差出明細帳にみえる菖蒲池新田は宝暦10年の村差出明細帳では古新田とあり、元禄14年万年長十郎の地押(6尺竿)。川違新田は大和川付替えに伴うもので、享保6年(1721)玉虫左兵衛・遠山半十郎の検地(6尺3寸竿)。
 延享2年の村差出明細帳では大方の家数134・人数574、小方の家数57(高持46・無高10・寺1)・人数269。大方・小方で牛31、小船30(野通い・肥船)、竜骨車21・踏車28(ともに用水・悪水かき)。酒屋2・たばこ屋1・醤油屋1・たね買6、ほか1。余業は男女とも木綿稼。地蔵堂・禅宗常心寺・唱名庵・林鳥庵・摂取庵(現浄土宗)西願寺(現浄土真宗本願寺派)などが記される。安永8年の様子明細帳では、大方の家数94(うち寺2・庵3)・人数381(うち僧3)・牛12、中方の家数41(うち道場1)・人数193(うち僧1)・牛8、小方の家数58(うち寺1)・人数222(うち僧1)・牛5。平坦・低湿の地にあるため、南の新家村との堺に150間、荒本村との堺に79間の水請縄手をつくっていた(宝暦10年村差出明細帳)。文政5年(1822)松原宿の助郷村に加えられた(布施市史)。
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戦乱の世も終わり、社会が安定してきた頃の記録である、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高1243石余という、かなり大きな生産性を持つ村である事が分かります。
 江戸時代も社会が成熟してくると、経済的な停滞期も何度かあって、江戸時代中期頃に村切りが行われます。しかし、一貫して、生産性は衰えることも無く、幕末まで維持されていきます。
本願寺証如(光教)上人座像
 それから少し時代を遡って、『大阪府の地名』の記述中にある『天文日記』の該当部分を抜粋します。時は室町末期の戦国時代です。
※石山本願寺日記 上(証如上人日記)P420

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◎1542年(天文11)5月4日条
斎を河内国長田教法志為之調備。斎料為300疋之出す。仍って汁3・菜8。興正寺之呼び(此の門下也)教法方自り、相伴5人来たる。布施は100疋。兼誉・兼智等30疋宛。経照に20疋、坊主衆へは常の如く。(後略)
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「教法」というのは、人物名だと思われます。この時の法主は、「光教」で、この一族は、「教」「光」「兼」の文字を継ぎ、中でも「教」は、一族中枢に使われていたようですから、長田に配された人物は、教団内で非常に重要な位置付けにある人物だったと思われます。
 また、同じ本願寺関連の史料の中に「河内国長田」の記述がありますので、それもご紹介します。この年は本願寺宗が、時の中央政権との関わりを拗らせて、激しい武力闘争を行っていた頃でした。
※石山本願寺日記 下(私心記)P239

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◎1535年(天文4)6月10日条
敵出候。賢勝宿にて見物候。麦振る舞われ候。八時(午後2〜4時)に、森河内等崩れ候て、人数引き退き候。仍って中道・中間(浜?)まで敵焼き入り候。長田・稲田等落居候。
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天文4年の闘争では、やはり武士相手ですので、戦には適わない事が多かったようです。この時も長田と稲田の拠点は、敵方の手に落ちたと記述されています。

一方、『大阪府の地名』には、神社の記載がありません。東大阪市の神社全般に言える事ですが、経緯不明の場合も多く、この長田神社(八幡宮)も例に漏れずです。詳しくはまた、調査をしたいと思いますが、現地にある、東大阪市教育委員会の案内の内容を取りあえず、ご紹介しておきます。

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◎長田神社と子安地蔵
長田神社(八幡宮)鳥居
長田から西堤にかけて細長く続く旧集落は、古くは旧若江郡の北辺に広がっていた大きな湖沼(新開池)の南岸堤上にそって営まれた古い集落です。
 長田村の中央字相生と呼ばれた所に鎮座する長田神社は、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命、多紀理毘売命の三神を祀っています。神社の北方には字意伎宮屋敷、弓場と呼ばれた所があり、神社が焼失したため現在地に移されたといわれます。境内には本殿の他に末社として賽神社・愛宕神社・稲荷神社・水神社・琴毘羅神社があります。
 境内の北側には「摂取庵」と呼ばれる浄土宗の堂があり、鎌倉時代末期の木像地蔵菩薩立像(像高91cm)が安置されています。この地蔵像は、地元に伝わる「子安地蔵縁起」によれば、嘉禄年中(1225-27)、恵心僧都作と伝えられ、江州(滋賀県)堅田で子安地蔵としてまつられてきたものが、有縁の地である長田村へ移されたことがわかります。地蔵像及び子安地蔵縁起ともに、この地の歴史を伝える文化財として1974年(昭和49)3月25日に東大阪市文化財保護条例により有形文化財に指定されています。
東大阪市教育委員会 
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今の長田神社は、火災によって焼失したため、字意伎宮屋敷から現在地に移ったようです。その場所は、現在の場所から北へ200メートル程のところのようで、1908年(明治41)測量の地図では、既に現在地にありますので、それよりは以前の事ですが、それ程古い訳ではないようです。もしかすると、明治維新の混乱での事かもしれません。
 現在の神社は、寺地に再建されているようで、一乗寺との関係も浅からずあるようです。一乗寺は、天正8年創建と伝わり、この年は、織田信長政権下で、荒木村重の乱が収まる頃です。河内国中域は、荒木氏の委任支配下であり、同時に本願寺が織田方に降伏し、摂津・河内国の乱もひと段落する年です。長田村は、本願寺勢力の地域だったようですので、一乗寺創建の経緯はその事とも何か関係するのでしょう。

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◎一乗寺と善光寺阿弥陀三尊図
融通念仏宗 一乗寺 伝1580年(天正8)創建
一乗寺は、旧長田村の中央字中の町と呼ばれた所にあります。この寺は融通念仏宗の寺で、阿弥陀仏を本尊としています。
 記録によれば、天正8年(1580)に観信という人の開基と伝えています。寺には南北朝時代前後の作である絹本著色善光寺阿弥陀三尊図が残されています。
 善光寺式阿弥陀三尊は、鎌倉時代以降各地で信仰され、彫像は数多く伝わっていますが、仏画としての遺品は非常に少なく、一乗寺の三尊図は貴重なものといえます。
 近年の修理で三尊部分は描き改められていますが、その下の須弥壇や不動明王・毘沙門天の二像の緻密な描法等は、当初の趣を多分に残しています。
 鎌倉期の余影をとどめる善光寺阿弥陀三尊画像の貴重な遺品として、1985年(昭和60)1月23日に東大阪市文化財保護条例によって有形文化財の指定を受けています。
東大阪市教育委員会 
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今のところ、長田神社(八幡宮)周辺情報に留まっており、予備情報と言ったところですが、近日に調査して、情報を追加したいと思います。

 

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2024年1月1日月曜日

河内国若江郡(東大阪市)古箕輪集落の中心部は島だった!?

紫色部分は先に干拓
前々から気になっていた事を、この度、まとめておきたいと思います。史料上の検討を経て、大和川付替え前の古箕輪集落の自然立地環境について、考えてみます。それらの検討については「はじめに」の各項目からご覧下さい。
 過去記事の中の加納村の項目で、周辺地域を見た通り、古箕輪村と加納村の間は、地面の高さから見て、川か沼であった可能性が高いと思われます。また大和川付替え工事後の干拓事業の経緯(詳しくはこちら)から、開発された場所が明らかですので、それらの資料を併せると、地図上では以下のような想定ができるように思われます。

中世には古箕輪は島で、川田も島だったと思われます。もしかすると、吉原村側から橋を架けるなどしていたかもしれません。 ただ、吉原は河内郡ですので、若江郡側に、そのような敷設をするかどうかは、わかりません。はたまた、郡の境界そのものが曖昧であったり、確定的でなかった可能性もあります。想像の域です。

 さて、古箕輪集落が、島であった事の検証ですが、いくつかの地点の写真と共に、地面の高さとその差位について、考えてみたいと思います。

以下、アルファベット文字表記の地点ごとに、写真と文字で状況を示したいと思います。

【概要】

AからHまでは、1〜2メートル程の高低差のある地形が望める場所の写真です。南北に長い島で、途中「C地点」で一旦高さを下げます。ここは、水運のために開削されたようで、藤五郎樋(樋門)があります。舟運のための水位調節施設が設けられています。また、灌漑のためにも川は使われていたのでしょう。
 「C地点」は、中世時代などでは、橋があったのかもしれません。人が住んでいたかどうかは不明ですが、降雨時など増水時には南北の行き来ができなくなると思われますので、橋があっただろうと思います。
 古箕輪集落の島は、南側程、海抜が低くなりますが、それでも1.5メートル程の高低差があり、「F地点」では、島の南端の低い部分を灌漑し、農業用水路としたようです。明治41年(1908)測量のこの地図では、灌漑用水路は描かれておらず、その後に開かれたようです。現在、この付近に揚水ポンプ小屋がありますが、これは、大正期に設置されたようですので、灌漑工事もその頃でしょう。
 中世時代は、F地点より南は人は生活できず、人が住んだり何らかの活動を行う場合は、そこから北側に限られていたと考えられます。
 

写真撮影地点図

【A地点】

古箕輪八幡宮西側:2メートル程の断崖

【B地点】

東大阪市道「古箕輪新庄線」東へ望む

【C地点】

古箕輪1丁目19付近から南を望む

【D地点】

古箕輪公民館へ通じる階段:2メートル弱の断崖

【E地点】

古箕輪1丁目8付近

【F地点】

古箕輪1丁目7付近:1.5メートル程の断崖で、このあたり南端

古箕輪1丁目7付近:1.5メートル程の自然の断崖で、このあたり南端。


古箕輪1丁目7付近:1.5メートル程の断崖の南端に大正期頃、水路を敷設


【F地点】

古箕輪1丁目7付近東側から北を望む。この道路は川だったと想定。

【H地点】

古箕輪八幡宮北端から西側を望む。

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2023年12月31日日曜日

東大阪市(河内国)古箕輪集落の北側で隣接する加納村について考える

明治41年(1908)測量の地図
河内国の「加納村」は若江郡に属し、同郡北限の村です。加納村は、箕輪新田村(現古箕輪)の北側に隣接する村でもあります。この間に「川田」集落がありますが、大和川付替え前には恐らく存在せず、その頃は小さな島だったと思われます。
 現在、秋の祭礼日には「川田」としての地車は出ていますが、集落に縁の神社としては盾津宇治懸神社の他に見当たらず、多くは神社と隣接か境内に立地するなかで、地車小屋も単体で建てられています。

先ずは、大阪府の地名を見てみます。
※大阪府の地名2-P967

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加納村(東大阪市加納など)
若江郡に属し、北は讃良郡三箇村・御供田村(現大東市)、東は恩地川、南は河内郡水走村・今米村・吉原村。大和川付替えにより村内を流れていた吉田川の水量が減少し、川床に川中新田が開発されたため、新田の東が加納村飛地となった。建長4年(1252)6月3日の藤原康高処分目録案(水走文書)に「在河内郡八条曾禰崎里卅六町内」とみえ、その注記に「自堤内南水走里」とある。水走里は水走村一帯と考えられるので、「曾禰崎里」は加納村付近にあたる。安元2年(1176)2月日付の八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)に「庁分御庄」として「河内国川田」がみえ、嘉元4年(1306)6月12日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧城文書)に「庁分」として河内国の「河田庄」が載る。当地に川田の字名があることから、加納一帯に比定する説がある(布施市史)。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高1627石余で幕府領小物成として葭年貢銀100匁元文2年(1737)河内国高帳では1624石余と新田113石余。以降幕末まで大きな高の変化なく一貫して幕府領で、寛政6年(1794)高槻藩預地となる(「高槻永井氏預り所村々高付帳」中村家文書)。幕末には京都守護職領(役知)。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。嘉永7年(1854)6月14日、11月4日・5日に大地震があった。6月には倒壊家屋18・負傷者6、11月には全壊30村の八割が半壊残りが中損で、村内の四ヵ寺とも倒壊した(布施市史)。天保15年の新庄村明細帳(岩崎太郎家文書)の付図には、三島新田の西に「加納領志方」がみえ、反別1町3反余・分米6石余(大和川付替工事史)。時期は不明だが、おそらく新開池南岸の湿地を新田化したものであろう。産土神の宇波神社は「延喜式」神名帳に載る若江郡「宇波神社」に比定される。浄土真宗本願寺派宝龍山西陽寺・同派善徳寺・真宗大谷派願行寺・同派紫雲山仏名寺・同派称名寺・融通念仏宗専念寺がある。
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記述では、新田113石余とあり、これが今の「川田」だと思われます。古箕輪と同様の成り立ちだったと思われます。
 ただ、今のところ、確定的ではないものの「河田庄」を今の川田に比定している説があり、これが正しいとすれば、時代により、川の水量の増減があって、陸地の様相が違った状況にあった可能性もあります。加納村が後の呼称で、そちらが定着した可能性もあります。
 また、今は川田集落にある「浄土真宗本願寺派宝龍山西陽寺」と「真宗大谷派称名寺」が、加納村内の寺として記述されており、両集落は一体的な成り立ちであると認識されているようです。不詳。

荘園分布図(竹内理三編より)
それから、竹内理三氏による『荘園分布図』によると、「河田庄:後宇多院領」として図示してあるのですが、河内国の池沼については、非常に複雑ですので、更に精査が必要かと思われます。図では地続きですが、多分、実際は断続的な島だったと思われます。

このような集落の経緯と現在の集落構成を踏まえ、今のところ、川田村は加納村の新田として開発された集落であろうとみられます。
 川田集落は、称名寺のある中心部で海抜3.0メートル程の高さがあり、大和川付替え以前は、小さな島のようになっていたと思われます。
 ちなみに、加納村の宇波神社あたりも3.2メートル程の海抜で、古箕輪八幡宮境内地(ここも海抜約3.2メートル)から北へ、点々と島と半島が並んだ風景だったように想像しています。
 「川田」という呼称からしても想像できるような立地環境だったのでしょう。川田の北と南側は、川が流れるか沼のようになっていたと思われます。橋をかけるには、距離があり過ぎますので、そういった自然地形のまま、生活をしていた事でしょう。

加納2-18付近の地形の様子
何れにしても、加納村としての石高は、正保郷帳の写しとみられる「河内国一国村高控帳」では高1627石余と、巨大な石高を持つ集落ですので、加納村も元文2年(1737)の「河内石高帳」では、箕輪村同様に新田が見られて、村切り(幕府の経済政策の一環)が行われているようです。

地形を詳細に見ていくと、加納村は東に地続きで、西側が断崖のような地形で、波打ち際にある集落だったのでしょう。その南に、後に川田集落となる島があり、さらに南に古箕輪集落となる隆起した島があったのだろうと思われ、これらは同じ若江郡で、何らかの重要な関係性があったと考えられます。しかも、江戸時代を通して加納村は幕府領でした。

最後に、参考として、宇波神社にある東大阪市による由緒の説明板をご紹介します。
※宇波神社門前の説明板

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宇波神社
宇波神社

宇波神社の祭神は埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)で字瓦口に鎮座しています。延喜式内社で神名帳によれば、従三位を授けられています。神社の周辺は、まわりより少し小高くなった所で、古代は水辺であったようで、この付近を白肩の津と呼び、船が停まれるような深さをもっていた所であったようです。加納の北西部に小字名で「シカタ」という所があることからも推定されますが、波打ち際に祀られた神社であったようです。
 この神社では、秋祭りになると獅子舞が各家を回ります。昭和45年頃までは、中地区の北部の各地で舞われていましたが、最近では、宇波神社に見られる郷土芸能として、貴重な伝統行事になりました。獅子舞は獅子の面の人と天狗の面をかぶり、ササラを持つ人が踊り、囃しは笛を使います。以前は十数種の踊りと吹き方を伝えていました。各家を訪ね五穀豊穣と家内安全を願って祓って歩くのです。

平成13年9月 東大阪市

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中世時代以前の川の様子(想定)


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2023年12月13日水曜日

河内国若江郡箕輪村・古箕輪村の産土神「八幡宮」についての小考(由来・歴史・ルーツ)

東大阪市の中北部地域にある古箕輪には、産土神として「八幡宮」があります。そこに神社がある理由は、村の歴史そのもので、古箕輪集落になぜ「八幡宮」社なのか、少し気になりましたので調べてみました。本来、人々は神社(寺)に寄り合い、決め事をしていました。大変身近で、なくてはならない存在でした。
 また、人々は自然の摂理を上手く使い、調和して文化を育みました。この一帯は、新開池という大きな池沼がありましたが、大和川の付け替えという大土木工事により、環境が一変しました。その事とも村の成り立ちは大いに関係があります。

それについて先ずは、古箕輪八幡宮にある東大阪市による由緒の説明板をご紹介します。
※古箕輪八幡宮境内の説明板


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古箕輪八幡宮
もと箕輪村に含まれる古箕輪は、新開池の南東に位置し、大和川付替え以前は池の藻草を刈り、魚を採って生活していた漁村でした。新田開発後は農村となりましたが、南方の村々の悪水で例年作付けに水難を受けるため、踏車を使って悪水を排水し、また天水場であるため日照りの時には干害にみまわれたといわれています。
 氏神である八幡宮は、創建は不明ですが、本殿は一間社流造杮葺で江戸時代中期の建築とみられ、また境内の鳥居に寛保元年(1741)の銘があり、拝殿前の燈籠に明和元年(1764)の銘があることから、新田が開発された後に、神社が整備されたことがわかります。
 拝殿には、幕末から明治初めに奉納された元寇、神功皇后朝鮮出兵図、江戸時代の風俗図、天皇に将軍・御三家等が供をした加茂明神参詣図などの明細な絵馬が残されています。
 また、正面左にある燈籠は、天保2年(1831)銘の「おかげ燈籠」です。竿に「おかげ」と刻むこの燈籠は、江戸時代に伊勢参宮が流行し、ほぼ60年毎に「おかげ参り」と呼ばれる集団参宮が行われた際に、村人達が神恩を感謝して奉納したものです。東大阪市内には合計18基の「おかげ燈籠」が知られていますが、文政13年/天保2年(1831)のものが13基で最も多く、この頃伊勢参宮が非常に盛んであったことがわかります。
平成16年10月 東大阪市
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それによると「氏神である八幡宮は、創建は不明」とありますが、続けて「本殿は一間社流造杮葺で江戸時代中期の建築とみられ、また境内の鳥居に寛保元年(1741)の銘があり、拝殿前の燈籠に明和元年(1764)の銘があることから、新田が開発された後に、神社が整備されたことがわかります。」と記述し、神社の創建に遡るための、少々の手がかりを得る事ができます。
 そこで、学術的な村の歴史を知るために、いつもの地名シリーズから、該当項目を抜粋します。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

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◎箕輪村(東大阪市箕輪)
箕輪旧集落の様子 ※2001年撮影
若江郡に属し、南は中野村。大和川付替えまでは、北に新開池があり、西方の菱江川、東方の吉田川に挟まれた平坦な低湿地であった。「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条によると、造太神宮役夫工米を各地の庄園の地頭が未進しており、そのなかに河内国の三野和がみえる。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高148石余、小物成として葭年貢銀100匁、幕府領。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領150石余・同新田118石余。天保郷帳では箕輪村150石余と箕輪新田118石余とに分かれて記される。新田は元禄16年(1703)に開発され、高118石余・反別11町1反余。鴻池屋善次郎が1反歩につき5両3分の地代を納めた(享保5年「箕輪村新田明細帳」田中家文書)。以降高の変化はなく、領主の変遷は横枕村に同じ。延享元年(1744)の村明細帳(同文書)によると、宝永元年(1704)以前、新開池床のうち60町歩ほどが箕輪村領で、「池之内に而藻草を苅、魚を取、百姓身命ををつなぎ候」とある。当地はこの一帯では最も低湿地で、南方の村々の悪水で例年作付に水難を受けるため、水車大5両・小25両を用意して悪水を踏み出し、水害を防ぐ手段とした。また天水場のため、堀井・溜池など用水に役立つものはいっさいなく、日照りの時には干害の難にあった。家数187・人数917、牛8。産土神は八幡宮2社で、1社は座衆25人、1社は100余人。享保5年(1720)の新田の家数2(無高)・人数11(前掲新田明細帳)。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。明治2年(1869)の新田を含めた家数155・寺2・人数756、牛20(同年「村明細帳」田中家文書)。真宗大谷派宝樹山淳信院聞称寺がある。明治7年箕輪新田が独立村となったが、同20年箕輪村と併合。
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同書によると、現在の古箕輪は、明治時代初頭までは「箕輪新田」と呼ばれており、その後は「小箕輪」との変化を経て現在の呼称に至るようです。また、産土神は八幡宮2社であるとしており、この内の1社が、古箕輪集落に祀られているものと思われます。
 それから、同記述中には、享保5年(1720)の新田の家数が2・人数11とあります。この規模では、村とは言えないように思います。大和川の付け替えなどによる工事(開発)は宝永2年(1705)です。古箕輪八幡宮の鳥居には寛保元年(1741)の銘が刻まれています。
 これらを整理すると、大規模新田開発が行われ始めた頃から段階的に箕輪村の新田開発を行うために、1720年頃に出先としての入植が始まり、その開発が概ね完了した頃の1741年に神社などの整備も行われて、集落として整ったのではないかと思われます。
 小箕輪集落は、箕輪村を起源としていますが、何度かの独立機運もあって、今となっては両村のつながりは無くなっているそうです。
 一方、この記述で大変気になるのは、「吾妻鏡」の建久元年(1190)の記述には、三野輪すなわち箕輪村に鎌倉幕府により地頭が置かれたようだ、としています。幕府の出先機関ともいえる地域の役所機能も備えた地頭が箕輪に置かれたならば「八幡宮」のルーツの可能性もそこにありそうです。その前に、地頭の意味について、概要部分を紹介してみます。
※ウィキペディアより抜粋「地頭」の項目
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD

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◎地頭とは
武士の館の一例
地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。
 平安時代(平氏政権期以前)には、荘園領主・国司(知行国主)が、所有する荘園・国衙領(公領)を現地で管理し領主へ年貢を納める職(荘官、下司、郡司、郷司、保司)を任命したが、鎌倉時代には源頼朝がその職の任命権を持つこととなり、朝廷も認めた。鎌倉幕府はこれを地頭職と呼ぶこととし、御家人から任命し、領主へは年貢を納めることを保証した。

在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領において武力に基づき軍事・警察・徴税権を持つこととなり、御家人の実質的な所領として認めることとなった。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。

幕府が御家人の所領支配を保証することを本領安堵(ほんりょうあんど)といい、幕府が新たに所領を与えることを新恩給与(しんおんきゅうよ)というが、いずれも地頭職への補任という手段を通じて行われた。地頭職への補任は、所領そのものの支給ではなく、所領の管理・支配の権限を認めることを意味していた。(中略)
 幕府に直属する武士は御家人と地頭の両方の側面を持ち、御家人としての立場は鎌倉殿への奉仕であり、地頭職は、徴税、警察、裁判の責任者として国衙と荘園領主に奉仕する立場であったとする解釈もある。 (中略)
 平氏滅亡後の文治元年(1185年)10月、源義経・源行家が鎌倉に対して挙兵すると、11月に上洛した北条時政の奏請により、義経・行家の追討を目的として諸国に「守護地頭」を設置することが勅許された(文治の勅許)。鎌倉幕府の成立時期にはいくつかの説があるが、守護地頭の任免権は、幕府に託された地方の警察権の行使や、御家人に対する本領安堵、新恩給与を行う意味でも幕府権力の根幹をなすものであり、この申請を認めた文治の勅許は寿永二年(1183年)十月宣旨と並んで、鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられることとなった。(中略)
 頼朝傘下の地頭の公認については当然ながら荘園領主・国司からの反発があり、地頭の設置範囲は平家没官領(平氏の旧所領)・謀叛人所領に限定された。しかし、後白河法皇が建久3年(1192年)に崩御すると朝廷の抵抗は弱まり、地頭の設置範囲は次第に広がっていった
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元々は平安時代に興りを持ち、後に鎌倉幕府なども荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職を指していたようですが、やがて幕府寄りの人物である御家人から選ぶようになり、それも収斂されて在地から選ばれるようになっていきます。
 これが時を経て地域権力化していくようですが、当初は鎌倉幕府による地頭職として、徴税・警察・裁判の責任者として、国衙と荘園領主に奉仕する立場であったと考えられています。その幕府の出先機関であるなら、源頼朝が信奉した、石清水八幡宮を勧請するのが自然な流れでもあるように思えます。
 この時期に地頭が置かれていたとする同じ若江郡に属する長田村(現東大阪市長田)にも神社はありますが、こちらも「八幡宮」を祀っています。同じような経緯だったのではないでしょうか。この補足資料をもう少しご紹介しておきたいと思います。
※大阪府の地名2(平凡社)P945

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◎東大阪市「中世」条
京都府八幡市 石清水八幡宮
(前略)平安時代末の天養年間(1144-45)市域内水走の地が藤原季忠を祖としてこの地方の代表的中世領主水走氏が登場した。同氏は河内郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、氷野河(現大東市)・広見池など池河や、河内郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、市域一帯を支配していた。源平合戦のとき、大江御厨に源氏の兵粮米が課せられ、水走開発田にも兵粮米使が乱入したが、当寺の領主康忠は源義経に訴えて鎌倉御家人となり、本領を安堵されている。また市域の武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わった。乱(源平合戦)のあと市内の箕輪や長田に鎌倉幕府の地頭が置かれたらしく、「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条に記された、地頭が伊勢神宮造営の役夫米を未済した所々の中に河内国三野和・長田の地名がみえる。石清水八幡宮領高井田の地頭は将軍家祈祷所として停止され、八幡宮の直接支配に戻った。また若江北条にも地頭給田があった。しかし鎌倉時代の市域は皇室領の大江御厨・若江御稲田、摂関家領玉櫛庄、中御門家領因幡庄、興福寺領若江庄、高野山領新開庄、石清水八幡宮領神並庄・桜井圓、枚岡社領荒本庄など公家寺社勢力が強く、その特権を帯びた供御人・寄人・神人らが諸産業・交易・交通などの業者として活躍し、やがて玉櫛庄民が日吉神人と称して八幡宮神人と利権を争い、若江住人が和泉国大鳥庄(現堺市)内の抗争に加担して悪党とよばれたように(田代文書)、庄園体制の旧秩序を攪乱して南北朝の内乱を導くに至る。(後略)
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ここには、箕輪村の項目にあった視点を更に拡げた記述があるのですが、石清水八幡宮領であった高井田村(現東大阪市高井田)にも地頭職が置かれていたところ、石清水八幡宮の直接支配に戻ったとあります。
 やはり、源頼朝と関係の深い八幡宮が、これらの動きに関わっており、場所としても要衝であったところに幕府が政策として、出先機関を置くようになったようです
 それからまた、このあたりは、川の流域でもある事から、土砂の堆積で年々陸地化が進み、次第に荘園開発されるようになったようです。
 「新開庄」ができ、続いて「新開新庄」が開かれています。以下、資料です。
※大阪府の地名2(平凡社)P968

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◎新開庄
中新開の諏訪神社 ※2013年撮影
中新開一帯にあった庄園。「明月記」嘉禎元年(1235)正月9日条に「暁更禅室被下向河内新開庄(金吾供奉)」とみえる。弘安4年(1281)3月21日、鎌倉幕府は関東祈願所である高野山金剛三昧院に「河州新開庄」を寄進し、同院観音堂領としてこれを安堵した(「関東御教書」金剛三昧院文書)。同6年5月日の金剛峯寺衆徒愁状案(高野山文書)によると、悪党が金剛三昧院の寺庫を破って兵粮に充てよとしたので、同院は河内国新開庄・紀伊国由良庄の庄官らを招集して寺庫を守護させたという。鎌倉後期、西園寺家領であったようであるが(「公衡公記」正和4年3月25日条、建武2年7月21日「後醍醐天皇綸旨」古文書纂)、建武新政のもとで楠木正成が当庄を領有しており、湊川合戦で正成が討死した直後、足利尊氏は「河内国新開庄(正成跡)」を御祈祷料所として東寺に寄進した(建武3年6月15日「足利尊氏寄進状」東寺壱百合文書)。尊氏は続いて当庄に対する狼藉の停止を命じ(同年12月19日「足利尊氏御教書」同文書)、これをうけた河内国守護細川氏が当庄における兵粮米の徴収を止めるよう下知したが(同4年6月11日「細川顕氏下知状」同文書)、もとの領主西園寺家の愁訴により同家に返付され、改めて東寺に備後国因島と摂津国美作庄が寄進されている(東宝記)。
【参考記事】戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付替前の地形を探る)
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次いで、新開新庄についてです。
※大阪府の地名2(平凡社)P977

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◎新開新庄
新庄一帯にあった庄園。高野山金剛三昧院領新開庄を本庄とし、そこから分かれた新庄で、「河内国新開新庄」(文安3年9月12日「細川国賢書状案」高山寺文書)とか、「河内国新開之内新庄郷」(欠年月日「大聖寺殿塔頭長生院領所々目録」西園寺家文書)などとよばれている。弘安11年(1288)正月13日の尼如くわん寄進状案(高山寺文書)に「しんしやうのけししき二ちやう五反かうち二たんハ、ほんそんあみたの三そんに、えいたいをかきりて、きしんまいらせ候」とあり、新庄に2町5反の下司名田があって、そのうち2反を領主尼如観が寄進していることがわかる。尼如観は続いて同年4月に、新庄の下司名のうち給田3反を山城栂尾高山寺の「くうしやうの御はう」へ譲り渡した(同月20日「尼如観所領譲状案」同文書)。この田地は、文保元年(1317)10月4日の春胤奉書案(同文書)に「新開新庄郷内都賀尾田伍段」と記され、応安4年(1371)に、新開新庄下司の清冬が天役を高山寺の寺田に課し、栂尾雑掌が河内守護楠木正儀にこれを訴える事件があった(同年11月20日「楠木正儀書下案」同文書)。また前掲の細川国賢書状によると、当庄の「下司給内五段田」は、当時「高山寺方便智院領」であったという。
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箕輪村は、池川の水辺の淵にあり、年々地形も変化していたと思われます。「新開新庄」は、新庄村一帯にあった荘園で、鎌倉時代以降、島になったと思われます。新庄村についての資料です。
※大阪府の地名2(平凡社)P977

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◎新庄村(東大阪市新庄・新庄西・新庄東・新庄南)
新田構成図
若江郡に属し、南は本庄村。大和川付け替えまでは、北から西に新開池があり、南西を菱江川、東方を吉田川が流れる低湿地であった。明和7年(1770)の村差出明細帳(岩崎太郎家文書)によると、当村が開かれたころ新開海という大沼があり、沼の築州に百姓の居屋敷を定めていたが、数度に及ぶ大和川の洪水のため新開囲堤の内へ引越した。古屋敷に続く大沼・葭島も新庄村領で、作間に大沼で菱・海老・雑魚などをとって生活をし、葭小物成や運上銀を納めてきた。宝永2年(1705)の新田開発で大沼や囲堤外の地は鴻池新田となったが、その分の高6石余は減じられなかったという。
 正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高461石余で幕府領、小物成として葭年貢銀10匁。寛文6年(1666)より大坂定番米津田盛領となり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では米津領411石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳でも米津領で461石余、宝永4年より幕府領、享保20年(1735)より大阪城代太田資晴領(天保15年「高反別諸色書抜」岩崎太郎家文書)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で新田7石余を含み468石余。前掲高反別諸色書抜によると元文5年より幕府領。寛政6年(1794)には幕府領で高槻藩預地となる(「高槻永井氏預り所村々高付帳」中村家文書)、幕末には幕府領。享保7年の村明細帳(岩崎太郎家文書、以下同文書)によると堤新田(下畑7反余・分米6石余)があった。元文2年河内国高帳にみえる新田と思われる。三島新田との境にあり、もとは悪水井路で川違新田であった(享保20年村明細帳・天保15年村明細帳付図)。享保7年の村明細帳によると家数106・人数558、牛15。延享3年(1746)の村明細帳では家数124・人数694。他村よりの入作高はなく、出作高390石余・63人。田方は稲作7町8反余・綿作21町8反余(田方の約73パーセント)。綿作は連作になるため虫害や病害が多く、近年満作ということはない。宝暦10年(1760)の村明細帳では家数130(高持86・無高44)・人数658(うち僧1)、牛12、大工1(大工高40石は役高引、禁裏普請の時大工を勤める)。産土神は毘沙門天社。天保12年には木綿寄屋1軒があった(大阪木綿業誌)。浄土真宗本願寺派妙光山浄圓寺がある。
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今、見られる新庄村旧集落は、移転してきた後の形態としてですので、本来はもう少し、北や東の水際に近いあたりに位置していたようです。
 そして、その新庄村の南側に位置する本庄村について、続けて以下にご紹介します。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

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◎本庄村(東大阪市本庄西1-3丁目・本庄中1-2丁目・本庄東・本庄)
若江郡に属し、東は箕輪村・中野村。大和川付け替えまでは南西の村境を菱江川が流れ、東方を流れていた吉田川との間に位置して低湿地であった。寛政2年(1790)の村明細帳(藤戸家文書)によると、「悪水平押落込、元来地低成村」で難儀し、付け替え以降は「用水通路曾而無御座、天水場に罷成」と日照りが続けば干害にあった。享保20年(1735)の新庄村明細帳(岩崎太郎家文書)によると、大坂の陣で慶長の検地帳を失い、寛文5年(1708)の検地でも同様であったが、享保6年に分帳となったという。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高703石余、幕府領。延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では幕府領で978石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳では幕府領703石余、元文2年(1737)河内国高帳は幕府領で724石余。幕末には幕府領。寛政2年の村明細帳によると堤新田として下畑高4石余・反別5反余がある。享保6年に玉虫左兵衛・遠山半十郎の検地(6尺竿)をうけているので、大和川付け替えに伴う新田であろう。同帳によれば家数116・人数510。初め稲作2分であったが、大和川付け替え以降の天水場となり、木綿作8分・稲作2分となった。産土神は八幡宮(現六郷社)。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。浄土真宗本願寺派天王山浄福寺がある。
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両村は、本来は一所として認知されていたところが、後に村切りが行われて別々の集落となったようです。また、「本庄村」の項目で気になるのは、「享保20年(1735)の新庄村明細帳(岩崎太郎家文書)によると、大坂の陣で慶長の検地帳を失い」とあって、この新開新庄にも戦火が及んでいた可能性を示唆しています。
 地理的には、両村は離れていますが、箕輪村に近い本庄村が、そこから離れた新庄村と一体化していたのは非常に興味深い実態で、これは、箕輪村に地頭が置かれたキッカケで、時代を経ても地域の政所的な役割りがあっての事かもしれません。因みに本庄村の浄福寺は天正3年間(1575)の創建と伝わっています。また、この村々のある新開新庄は、若江郡に属しており、郡の境は川であったと考えられます。
 箕輪村の南から東にかけて川があったようです。村は島(新開新庄)の南東淵にあり、集落には、いくつかの街道も通していました。故に、箕輪村周辺は戦国時代に戦火に見舞われていた可能性があったと思われます。
 ちなみに、浄福寺の創建と伝わる天正3年という年は、織田信長の配下となった荒木村重が、摂津・河内国内の大きな争いは概ね鎮圧された頃で、大坂本願寺の本拠を除いて、戦後の再建(政治再編)が進められ始めた年にあたります。荒木は、摂津国一職に加えて、河内国の北半分(若江・河内郡以北あたり)も織田信長から任されていました。ですので、この若江郡地域は荒木の支配地域にあたります。

その頃(大和川付け替え前)は、今の小箕輪集落にあたるところは小さな島で、箕輪村との間は湿地や沼、水際の浅瀬だったのではないかと思います。
 地形を見ると、箕輪村八幡宮と古箕輪村(箕輪新田)八幡宮のある地所は、共に海抜3.2メートル程であり、周辺各村の中でも最も高い位置にあります。
 これをみても、箕輪村に地頭が置かれた場所は今の箕輪八幡宮のあるところと考えられ、幕府の出先機関を置くには、最も選ばれやすい立地です。

その他、箕輪村周辺の集落を参考までに紹介しておきます。当初は、箕輪村周辺にもいくつかの集落はあったと思われますが、時代を経て、次第に規模が大きくなったと考えられます。やはり、条件の良い地勢は先に人が住みますが、その他では海抜が低くなり、住むには条件が悪くなっていきます。大規模なインフラ整備などで、周辺環境が変わらない限り、人の力では自然の作用を克服できないためです。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

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◎横枕村(東大阪市横枕・横枕東店横枕西・荒本北・荒本西4丁目など)
未知の川があった想定図
若江郡に属し、菱江村の西にある。大和川付け替え後、村の中央を流れていた菱江川の川床に菱屋東新田が開発された。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高594石余、幕府領。寛文2年(1662)より大坂城代青山宗俊領となり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では同太田資次領で485石余と改出106石余と1石余。この改出は無地増高。天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳では太田領485石余・同新田162余。貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で577石余。幕末には京都所司代松平定敬(伊勢桑名藩)領。文政5年(1822)には松原宿助郷村に加えられた(布施市史)。浄土真宗本願寺派繍雲山横枕寺がある。

◎中野村(東大阪市中野村)
若江郡に属し、南は菱江村、西は本庄村・横枕村。村の形は「く」字形で、自然堤防上に位置する。このことから考えて、かつて横枕村西方を流れる菱江川から分かれて新開池に流入する川があり、当村はこの川床を開発して成立した可能性がある。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高380石余、幕府領。享保15年(1730)大坂城代土岐頼稔領となり、寛保2年(1742)頼稔の上野沼田入封以降同藩領。元文2年(1737)河内国高帳では407石余で以降高の変化なし。元禄14(1701)の諸色覚帳(西村家文書)によると10年間の平均免2ツ6分8厘。家数60・寺1、人数324。余業は男は木綿糸・日用稼、女は木綿稼。産土神は山王権現宮(現存せず)であった。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。真宗大谷派西善寺がある。
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この内、特に中野村は、大和川付替後に、水量の減った川床を開発して成立したと考えられています。あるいは、村が拡がったのでしょう。この村の伝承として、今の日吉神社は、元々今の高倉墓地にあったものを移転したとされています。
 この事は、地形が変わり、再開発に伴うものだったと考えられます。村そのものも移転したのかもしれません。中野村が日吉神社を祀るのは、この開発とも関係があるのだと思われます。産土神が山王権現宮で(現存せず)あるようですので、それが今の日吉神社として改められたのだろうと思います。これについては資料にあたっていませんが、そんな気がします。

中野村の項目にある、「かつて横枕村西方を流れる菱江川から分かれて新開池に流入する川があり」との記述にもある通り、この川が埋められた時期は、非常に興味深いです。大和川の付け替えのような大規模な河川改修の前の段階でも、中小規模の河川改修が行われていたようです。それは概ね、大坂の陣(1615年)が終わったあたりから想定できるのではないかと思います。

箕輪八幡宮
以前から個人的に気になっていた、「古箕輪の神社が、なぜ八幡宮なのか」が、最近出合った(というか既知の資料を読み直して気付いた)資料に、そのヒントがあり、今回ちょっとまとめてみました。

箕輪村周辺は、このような経緯がある場所ですし、鎌倉時代には庄園も設置されていますので、織田信長が登場する戦国時代末には、小土豪なども居たはずです。同村内の聞称寺境内には、五輪塔の残欠が多数見られ、関連性を感じさせます。
 それから、箕輪村に隣接する本庄村では、大坂の陣によって検地帳を失っており、また、同村の浄福寺創建は天正3年(1575)と伝わっています。この頃から、慶長20年(1615)頃までの戦乱の続く時代には、防御的に、交通網としても川を利用していたのではないかと思います。
 視野を広げると、箕輪村周辺は、概ね江戸時代を通じて幕府領でもありますから、重要な地域であった事も間違い無く、そういう面をみても、戦国時代には村や一族で守るためにも、そういった武士のような存在もなければ、政治・軍事的対処ができなかった思います。地頭の置かれた所でもあり、政所のような機能やブランドを残していた可能性もありますね。

想像は色々と膨らみます。

 

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東大阪市箕輪・古箕輪にある八幡宮のルーツを考えてみる(はじめに )


神社は集落の歴史そのものです。なぜ、その村には、その神様が祀られているのか、今となっては、それらの由来は忘れられつつあるように思います。
 生活と共に信仰があり、大切にされてきた、人々の精神や心の拠としての神社です。

私の住む土地の神様は、なぜ「八幡宮」なのか。それについて調べたり、教えてもらったことをまとめてみました。この取組が何かのお役に立てたらと思います。

 

  1. 河内国若江郡箕輪村・古箕輪村の産土神「八幡宮」についての小考
  2. 河内国若江郡(東大阪市)古箕輪集落の中心部は島だった!?
  3. 河内国若江郡長田村の八幡宮(長田神社)
  4. 東大阪市(河内国)古箕輪集落の北側で隣接する加納村について考える
  5. 河内国河内郡中新開村について
    ※過去記事:戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)
  6. 中世の摂津国大坂周辺の地形について(東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡)


新しくなった古箕輪八幡宮本殿

2020年5月6日水曜日

戦国時代に河内国河内郡豊浦村に移住した鯰江氏一派、中村孫四郎代官屋敷跡(現東大阪市豊浦町)について

枚岡中央公園にある中村代官屋敷跡碑
前から気になっていたので、東大阪市豊浦町にある「中村孫四郎代官屋敷跡」を訪ねてみました。今は市民の憩いの場、普通の公園になっています。自転車でブラブラ、出かけてみました。行きは上り坂で息も上がり気味ですが、帰りは下り坂で、風を受けながら進めます。

今は平凡な公園となってしまった中村代官屋敷跡ですが、ここは非常に重要な場所で、村の中央部を南北に東高野街道が、東西に暗峠越奈良街道が通るという、重要な街道の交差点にあたります。平和になった江戸時代には、管理や監視のため、名族の系譜を引く人々がこの地を治めることになったようです。
 一方で、常に臨戦態勢であった戦国時代にも、そういった地勢もあって城などがあり、重要な役割を担った事でしょう。
 河内国は一時的に、近江守護の六角氏が権益を得て(若江郡の若江城)治めていた時代があるとされていますので、近江国方面の関係が結構あります。

先ずは、この代官屋敷跡について、関連資料の紹介です。東大阪市教育委員会が発行している歴史と文化財のガイドブックがあります。
※東大阪市の歴史と文化財(改訂版)- わが街再発見 -(平成15年3月版)P131

屋敷跡古図 ※東大阪市の歴史と文化財より
(資料1)-----------------------
◎徳川本陣と中村代官屋敷跡
枚岡中央公園は、徳川家康の本陣となった中村四郎右衛門の屋敷跡です。絵図によると、公園の北側、東側にも屋敷地が広がっていました。最近(昭和末期)まで公園の西南隅に隣接して、みごとな石垣を持つ周濠が残っていました。中村家は系図によると、宇多天皇より17代目を高昌と呼び、近江国愛知郡鯰江城に居城していたので鯰江氏と呼ばれていました。
 その四代の孫が中村唯正で室町時代の後半、豊浦村に浪跡して姓名を中村四郎右衛門と改め、孫にあたる正教は、慶長19年(1614)大坂冬の陣の時、徳川秀忠に、翌年の夏の陣には、家康に本陣として屋敷を提供し、自らも大坂への道案内もしました。
家康からの下賜品記錄 ※東大阪市の歴史と文化財より
これによって徳川幕府から平岡郷(豊浦村一帯)に下された制札には、平岡郷に、軍勢は狼藉、放火をするなと書かれています。河内の多くの村は戦火に遭いましたが、豊浦村一体は焼失しませんでした。夏の陣の宿陣は、5月5日菖蒲の節句であったため、正教は河内の特産木綿を「菖蒲木綿」として家康に献上したところ、「勝布」「尚武」に通じるとして家康から感謝状が下され、それ以外にも刀、盃等が家康からの拝領の品として中村家に伝えられました。屋敷内の宝庫には拝領之御品納置候と記され、例年4月17日に、これらを人々に見せたと伝えられています。
 豊浦村は天領であったため中村氏は「中村代官」と呼ばれ、村の庄屋として、奈良街道と東高野街道が交差する要衝の地を支配していました。
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続いて、お馴染みの「大阪府の地名」です。こちらは「東大阪市の歴史と文化財(改訂版)」よりも前に刊行されていますが、豊浦村に焦点を当てていますので、若干内容が違います。特に「大坂夏の陣」については、徳川家康の行動経緯が詳しく解説されています。読み比べてみて下さい。
※大阪府の地名2(平凡社)P958

(資料2)-----------------------
◎豊浦村(現東大阪市豊浦町・東豊浦町・箱殿町・新町・高殿町・鳥居町)
生駒山地西麓のかなり急な扇状地にある。北は額田村、東は暗峠で大和国に続き、西は恩智川を隔てて松原村。中央部を南北に東高野街道が、東西に暗峠越奈良街道が通る。「とよら村」とも呼ばれた(寛文10年覚「大阪府全志」所収)。字名に箱殿・髪切(こうぎり)・鳥居・宝蔵新家・峠などがあり、髪切は枝郷。古代河内郡豊浦郷(和名抄)の地。
(中略)
 慶長20年(1615)の大坂夏の陣の時、5月6日に星田(現交野市)に着陣した徳川家康は、そこで合戦の下知をしようとしたが、戦況が急速に展開したので豊浦に陣替えをし、翌日に天王寺(現天王寺区)へ出陣した(元和先鋒録)。豊浦在陣の時、宿舎の中村家が菖蒲木綿を献上したのに対し家康は「為端午之祝儀、単物二到来、喜思召候也。」と礼状(中村家旧蔵文書)を残した。正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高590石余で、旗本小林藤兵衛領、小物成として山年貢米3石余、山年貢銀179匁2分(幕府領)。
 元文2年(1737)河内国高帳・明治2年(1869)河内国高付帳では高591石余で小林領590石余、幕府領8斗余(小物成)。天保郷帳には枝郷髪切13石余が載る。天保11年(1840)には油稼人が3人いて、近隣の村々から菜種を買い求めていた(中西家文書)。同12年には木綿寄屋2軒があった(大阪木綿業誌)。明暦元年(1655)奈良街道に松原宿が置かれ、松原村と水走村で駅所御用を勤めていたがその負担に耐えきれず、寛文10年(1670)額田村と豊浦村にも人馬役負担が命じられた(大阪府全志)。
 産土神は枚岡神社。浄土真宗本願寺派光乗寺・融通念仏宗浄国寺がある。暗峠西口にある日蓮宗梅龍山勧成院は永正2年(1505)日証の創建(大阪府全志)。元禄7年(1694)、芭蕉が暗峠を通った際、句を残し、寛政11年(1799)芭蕉百年遠忌の追福として峠道に句碑が建立され(河内名所図絵)、現在勧成院に移築されている。
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この家康の行動についてですが、慶長年間の大坂の陣の際に、摂津池田の村役上層部の人々が暗峠へ酒や軍資金を届けて、禁制を貰い受けたということになっています。
 「元和先鋒録」など関連資料を調べれば良いのですが、慶長19年(1614)と翌年の大坂の陣では、両度とも家康は暗峠を使っておらず、京都から東高野街道を使って河内国へ入っています。

このあたり、少々検証が必要なのかもしれません。歴史を暴くという意味では無く、後年に勘違いされているところがあるのかもしれないという意味で、です。

後日また、詳しく調べて続報を出したいと思います。

2016年10月4日火曜日

近江国佐々木一族にゆかりの河内国河内郡の霊松山西光寺(現東大阪市)

浄土真宗本願寺派 霊松山 西光寺
筆者の住んでいるところに、浄土真宗本願寺派の霊松山西光寺というお寺があります。同寺は室町時代にその興りを持つ古いお寺で、その創建に近江国の名族佐々木氏につながる伝承があります。
 先ず西光寺について、公式な研究に基づく資料をご案内します。
※大阪府の地名2 P968

(資料1)-----------------------
◎西光寺(東大阪市吉原)
浄土真宗本願寺派、山号霊松山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると永正5年(1508)正善は、俗名を佐々木(大原)重綱といい、江州佐々木氏の一族で、文明年中(1469-87)戦乱を避け当地に移住。久宝寺村(現八尾市)にいた蓮如に帰依して出家し、今米村の中氏の援助で当地に道場を創設したという。もとの山号は好月山という。現寺号となったのは正保4年(1647)。当寺の住持藤井氏は豊臣方の武将木村重成の縁者で、重成も幼少の頃から当寺に出入りしている。その子、門十郎は藤井家の養子となり、代々当地一帯の六郷庄の大庄屋を務めた(大阪府全志)。
-----------------------(資料1終わり)

それから、西光寺で直接お聞きしたところによると、佐々木氏が河内国内に入国したキッカケは、福万寺城への入城だったらしいとの事です。それについて、その伝承を裏付ける資料があるので、ご紹介します。
※日本城郭全集9 P143

(資料2)-----------------------
◎福万寺城(八尾市福万寺町)
福万寺の三十八(みとは)神社の境内が城址である。文和年間(1352-55)、近江守護佐々木氏の一族の佐々木二郎盛恵が居城した。その後、廃城となり、その後に三十八神社を建てた。(吉田 勝)
-----------------------(資料2終わり)

この福万寺城は、発掘などがされておらず不詳ですが、福万寺地域には慥かに伝承が残るようです。そしてこの城は、その名の通り福万寺村にあり、その村については以下のようにあります。
※大阪府の地名2 P1015

(資料3)-----------------------
◎福万寺村
河内郡に属する。玉串川沿いの若江郡山本新田の東にあり、村の北半は東方恩地川まで、南半は恩地川を越えて更に東方に延びる。耕地は碁盤目状の区画を持ち、古代条里制の遺構とみられる。十三街道が通る。村名となった福万寺は、いつ頃の寺で、いつまであったか不明。
 「河内志」は古跡として廃福万寺をあげる。産土神の三十八神社の地は、鎌倉時代に佐々木盛綱の孫佐々木二郎盛恵の拠った福万寺城跡と伝える
 村高は、正保郷帳の写と見られる河内国一国村高控帳で1,184石余り。文禄3年(1594)12月、村高のうち52石余りが北条氏規領となり(北条家文書)、以後狭山藩北条領として幕末に至る。残りは寛永11年(1634)大坂町奉行曽我古祐領となり、曽我領として幕末に至る。曽我氏の陣屋は当村にあった。
-----------------------(資料3終わり)

福万寺城及び福万寺村にある資料と西光寺の項目内容とは、人物名や時代が異なっていますが、近江国佐々木氏は、鎌倉から室町時代にかけて大きな勢力を持つに至ります。
【参考サイト】
河内福万寺城(お城の旅日記)
福万寺城跡(兵どもが夢の跡)

それから、それを裏付けると思われるもう一つの資料をご紹介します。河内郡の隣りの若江郡に、若江城があったのですが、この城にも佐々木氏に関する伝承があります。
※日本城郭大系12 P109

(資料4)-----------------------
◎若江城(東大阪市若江本町)
若江城の名が歴史上記録された時期は、大きく二つの時期に分けられる。最初は創築者畠山氏の時代、第二の時期は天文(1532-55)から天正(1573-92)年間である。
 若江城は、高屋城を本拠とする河内守護畠山氏が築城し、代々守護代遊佐氏を置いて領国守護にあたらせた城であった。創築年代は明確ではないが、南北朝争乱のようやくおさまった、明徳・応永年間の早い時期、畠山基国の時と推定されている。
(中略)
天文初年、若江城は近江守護佐々木六角氏麾下の若江下野守兼俊の居城であった。天文6年、若江兼俊は佐々木氏に背き、大軍によって当城を包囲された。このため、兼俊およびその父円休は、降伏開城し、高野山に追放された。跡には堀江河内守時秀が城主として配された。その後城主は、若江河内守実高(天文11年頃)、若江下野守行綱(同21年6月没)、堀江河内守実達(弘治3年(1557)6月没)、山田豊後守定兼(永禄4年(1561)9月没)と替わった。この山田定兼は、近江・河内両国で5,000貫を領していたという。
(後略)
-----------------------(資料4終わり)

ちなみに、福万寺城は若江城に近く、郡毎にあった城の時代に敵対したり、はたまた、何か連携するような関係にあったかもしれません。そして福万寺の北東方向には、池島城跡もあります。
 また、上記の「資料4」にある、天文初年頃、本願寺の当主などの日記『証如上人日記』『私心記』にもやはり近江国佐々木氏関連の記事が多く見られます。この当時、本願寺教団の本拠地は、今の大阪城と同じ場所にあり、その当主がが佐々木氏を重要人物の動きとして日記に書き残しています。佐々木氏とその関係者が、大坂や近隣に来たり、直接音信したりもしています。

それから、歴史の専門機関などへ聞いてみると、河内地域には近江国にゆかりを持つ場合も少なからずようです。しかし、この西光寺のそれについては未知だったとの事でした。
 いずれにしても、伝承というのは割と正確な方向性を持っていると感じているのが、個人的な経験です。根も葉もない、捏造的なものは殆ど出会った事がありません。日本人は昔から正直だったのです。

さて、西光寺と佐々木氏についてですが、そのキッカケとなった福万寺城は、八尾市域にあり、西光寺は東大阪市内にあります。その現代の行政界が、真相に近づくための感覚を益々阻んでいるところがあります。これについて、現在の東大阪市になる前の旧河内市の変遷過程の歴史をご紹介します。
※大阪府の地名2 P967

(資料5)-----------------------
◎旧河内市地区
東大阪市域のうち主に玉串川流域を占め、律令制以来の河内郡の西部と若江郡の北東部にあたる。河内市は昭和42年(1967)枚岡市・布施市と合併して東大阪市となった。中央部を玉串川が北西流し、近鉄奈良線が東西に通る。
 古代には河内湖の入江が広がり、朝廷に供御の魚類を貢進する「河内国江厨」が設けられた。平安時代にはこれに代わって大江御厨が設置され、中世には水走氏が在地領主として御厨一帯に勢力を伸張、室町時代には年貢物の流通にも関係して活躍した
 近世には、宝永元年(1704)の大和川付け替えにより水量の減少した玉串川、分流の菱江川・吉田川の川床、新開池に新田が開発された。
 明治22年(1889)の町村制施行により、河内郡東六郷村・英田村・三野郷村、若江郡若江村・玉川村・西六郷村・北江村が成立。同29年中河内郡の成立により同郡に所属。
 昭和6年東西の六郷村と北江村が合併して盾津村が成立し、同18年町制施行。同年玉川村が町制施行。同30年この2町3村が合併して河内市が成立。同年境界変更で福万寺・上之島(明治22年成立の三野郷村の一部)が八尾市に編入された
-----------------------(資料5終わり)

この行政界の変遷を見ると、昭和30年(1955)に福万寺地域は八尾市に編入されていて、それまで何千年と河内郡にあって、同郷的な感覚を維持してきた吉原村と福万寺村は、はじめて分断されたともいえるのです。今でも市や村が違えば、そこに住む人々の帰属意識は大きく違いますが、時を遡る程、やはり大きく違います。
 ですので、吉原村内の西光寺の創建と福万寺村内の福万寺城に、佐々木氏が関わっているのは、必然性の高い理由があると考えられる訳です。多分、佐々木氏が河内国河内郡を領知(地)した事による入郡であったのだろうと考えられます。
西光寺内の灯篭にある「平四ツ目結」紋
また、西光寺を訪ねてみると、寺紋は「平四ツ目結」で、近江佐々木六角氏と同じです。これもまた、伝承を裏付ける有力な要素です。
 それから、お寺の建物を見ると、少し違和感があります。浄土真宗系のお寺とは屋根の形状が違うのです。お寺の方のお話しによると、同寺は天台宗から改宗しており、屋根の形状は、その経緯を語るもの、との事です。
 元の山号は「好月山」で、現寺号となったのは、正保4年(1647)と伝わっている事から、その時に改宗があったのかもしれません。ただ、現在の本堂の屋根の形状との関係がどういう経緯があるのかは不明です。本堂の建設は、その後のような感じもしますし...。
追伸:西光寺は大和川付け替え事業の中心人物であった今米村の中氏とのつながりが深いお寺でもあり、その付け替え工事の関係で亡くなった方々も中氏がこのお寺で供養したとの事です。

さて、天台宗といえば、比叡山ですので、やはり近江国佐々木氏とのつながりを感じさせます。詳しい事は不明ですが、時代によっての変遷が、文字に尽くされていないところがあるようです。
 色々な地域の歴史を見ていると、村全体が改宗する事により、その村にあるお寺も変わります。こういった事例が時々あります。吉原村の西光寺もそのような事があったのでしょう。

それにしても、河内国に根付いた近江国の名族佐々木氏一派の歴史が今も残るというのは、大変興味深いです。

【追伸】
福万寺城跡と伝わる、現在の八尾市福万寺にある、三十八神社です。このあたりは微高地で、西側に玉串川に隣接しています。また、俊徳街道と十三街道が玉串川を渡ってスグ、集落で合流(現福万寺公民館南西角)し、東進します。寺内町・環濠集落である有力集落「萱振(かやふり)」へも通じています。勿論、玉串川は水運の用を成しており、交通の要衝でもありました。川湊的な要素もあったでしょう。
 ちなみに、現在の玉串川は、いわゆる水尾川で、新大和川開削によって干上がった後の現象で、川の底の最小限の流れで、後年にこれを農業用に灌漑したようです。玉串川の川幅は広く、
 さて、こちらの三十八神社は清掃が行き届き、大変気持ちの良い場所です。地域の方々に大切にされていることが、訪れるとわかります。また、この付近は条里制の痕跡が今も残り、生駒山脈を間近に見ながら、畑や田んぼを眺めると、古の空間に浸る事のできる貴重な場所たと思います。
 
 
三十八神社

玉串川堤道(北方を望む)


2016年10月1日土曜日

戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)

筆者の住んでいるすぐ近くに、「中新開(なかしんかい)」というところがあります。そこは、古くからある村で、村には諏訪神社が祀られています。
 諏訪神社があるという事からも判るように、この中新開村は信濃の国の諏訪大社とつながりがあります。この村は信州から移ってきた人々が開いた土地です。神社の本殿に残されていた古文書により、天文元年(1532)に人々が移ってきた事が伝えられています。
 それは戦国時代です。神社と村の由来が、東大阪市(教育委員会)により案内されていましたので、ご紹介します。
 
(資料1)-------------
諏訪神社は、本殿内に残されていた古文書によって、天文元年(1532)信濃国諏原(すはら)之庄の住人諏訪連(すわのむらじ)の子孫らが当地に村を開き、諏訪大明神、稲荷大明神、筑波大権現の三柱を勧請したとされています。
 現在はその中で諏訪大明神をまつる一社だけが残され、覆屋の中に大切に保存されています。この本殿は一間社流造、柿葺きで、社殿の規模のわりに柱や梁などの部材が太く、木鼻の細部とともに室町様式をひくと考えられます。いっぽう、庇や身舎(もや)の四周には写実的な花鳥彫刻をもつ蟇股(かえるまた)をいれるなど、桃山様式の華やかさも混在するという特色を持っています。
 この本殿は、海老虹梁に江戸時代の様式がみとめられ、部材の多くもこの頃のものと見られる事などから、室町時代に建立されたのち、江戸初期に大改修が行われたと考えられますが、建立年代が明らかで、市内に現存する最古の建築であるとともに、中新開の歴史を伝える貴重な記念物であることから、昭和49年(1974)3月25日に市の文化財(建造物)に指定されました。
平成16年3月 東大阪市
-------------(資料1終わり)

東大阪市中新開にある諏訪神社
秋になると祭りがあり、周辺各村(集落)から「地車(だんじり)」が繰り出し、賑やかに祝いますが、中新開村からももちろん地車が出されます。やはり由来が信州という事もあってか、その衣装が少し違います。浴衣のような衣装で、近隣の村とは一線を画す文化があります。
 さて、河内国の中部は、江戸時代中期に行われた大和川付け替え工事で、それまでとは大きく地形が異なります。
 現在出回っている大和川付け替え以前の地形をある程度精密に描いた地図がないかと色々探してみましたが、細かなところは省略してあるものが多く、復元レベルの地図は未だにありません。ですので、大和川の付け替えが完了した、宝永元年(1704)以前から存在する村を頼りに地形から推定して、細かな部分を再現させるしかありません。
 そういう意味では、中新開村の歴史というのはとても参考になります。大和川が開かれる172年前に、信州から今の中新開地域へ人々が移ってきているのですから、ここはその頃も陸地だった事が判明します。
 以下、『大阪府の地名2(平凡社)』東大阪市の項目から中新開村に関する記述を抜粋してみます。

(資料2)-------------
◎中新開村
河内郡に属し、吉原村の南にある。大和川付け替えまでは東方を吉田川、西方を菱江川が流れ、両川の氾濫原に立地したため、低湿地が多かった。正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高215石余、幕府領、小物成として葭年貢銀7匁2分。寛文2年(1662)からは大坂城代青山宗俊領があり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では大坂城代太田資次領で215石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳も同じ。貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で218石余。慶応元年(1865)より京都守護職領(役知)、文政8年(1825)には菜種1.7石を芝村に売っている(額田家文書)。

◎新開庄
中新開一帯にあった庄園。「明月記」嘉禎元年(1235)正月9日条に「暁更禅室被下向河内新開庄(金吾供奉)」とみえる。弘安4年(1281)3月21日、鎌倉幕府は関東祈願所である高野山金剛三昧院に「河州新開庄」を寄進し、同院観音堂領としてこれを安堵した(「関東御教書」金剛三昧院文書)。同6年5月日の金剛峯寺衆徒愁状案(高野山文書)によると、悪党が金剛三昧院の寺庫を破って兵粮に充てようとしたので、同院は河内国新開庄・紀伊国由良庄の庄官らを招集して寺庫を守護させたという。鎌倉後期、西園寺家領であったようであるが(「公衡公記」正和4年3月25日条、建武2年7月21日「後醍醐天皇綸旨」古文書纂)、建武新政のもとで楠木正成が当庄を領有しており、湊川合戦で正成が討死した直後、足利尊氏は「河内国新開庄(正成跡)」を御祈祷料所として東寺に寄進した(建武3年6月15日「足利尊氏寄進状」東寺百合文書)。尊氏は続いて当庄に対する狼藉の停止を命じ(同年12月19日「足利尊氏御教書」同文書)、これを受けた河内国守護細川顕氏が当庄における兵粮米の徴収を止めるよう下知したが(同4年6月11日「細川顕氏下知状」同文書)、もとの領主西園寺家の愁訴により同家に返付され、改めて東寺に備後国因島と摂津国美作庄が寄進されている(東宝記)。
-------------(資料2終わり)

それから、この中新開村が属していた河内郡についての資料を以下にあげてみます。出典は、中新開村と同じです。

(資料3)-------------
◎河内郡
「和名抄」にみえ、訓は国名に同じ。北は讃良(さらら)郡、西は若江郡、南は高安郡に接し、東は生駒山地で大和国に接する。古代・中世では郡の北西部、若江郡との間に深野池などの湖沼・湿地が存在し、可耕地は現在よりかなり狭小であったと思われる。「古事記」雄略天皇段の歌謡に「日下江の入江の蓮花蓮身の盛り人羨しき■(呂?)かも」とある日下江は、その湖沼の一部であろう。この湖沼と、それへ流入する玉串川(吉田川)が若江郡と当郡の境界であったと思われる。現在の行政区では、ほぼ東大阪市の東半部(もとの枚岡市の全域と河内市の東部)と八尾市の一部。

【古代】
(略)「大阪府の地名2」の「河内郡」の項目をご覧下さい。

【中世】
大江御厨に関係し、当地方の代表的中世領主として活躍するのが水走(みずはや)氏である。水走氏は平安時代末頃、当郡域の水走(現東大阪市)を開発した季忠を祖とし、当郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、当郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに、枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、当郡一帯を支配した。源平争乱時には当主康忠は鎌倉御家人となり本領を安堵されている。
 また日下(草香)を本拠地とする武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わっている。鎌倉時代郡内に奈良興福寺領法通寺庄(現東大阪市)、高野山金剛三昧院領新開庄があり、南北朝期には足代庄(現東大阪市・生野区)も史料に登場する。
 新開庄は弘元の乱の功によって、一時楠木正成の所領となったが、湊川合戦の後足利尊氏に没収され、祈祷料所として京都東寺に寄進された。しかしその後も楠木氏の本拠に近い当郡には南朝の勢力が及び、正平5年(1350)北畠親房は足代庄を教興寺(現八尾市)の祈祷料所としている。
 延文4年(1359)新将軍足利義詮が南朝方に侵攻した時、南朝軍の水走氏らは北朝軍に降伏、続く南朝軍の反撃では、河内守護代椙原入道が水走の城に籠もって戦った。
 このように当郡は南北朝両勢力拮抗の地域として度々戦場となった。室町時代から戦国時代にかけても戦乱の場となる事が多かったが、これは隣接する若江郡の若江城(現東大阪市)が、河内守護所として河内の政治的中心地であったことによる。

【近世】
豊臣秀吉によついわゆる太閤検地は、文禄3年(1594)に行われ、同年の日付を有する日下村・横小路村などの検地帳が伝わる。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳によれば、当郡は21村・石高14,616石5斗5升、うち田方17,013石2斗4升1合・畑方3,872石4斗3升6合、山・葭年貢高30石9斗3合、ほかに小物成として山年貢銀787匁4分4厘・山年貢米8石8斗6升・葭年貢銀192匁3分・「作相」麦41石4斗・枚岡明神領京銭20貫文。
 同控帳によると所領構成は、幕府領6,117石余・大坂町奉行曽我古祐領4,016石余・大和小泉藩片桐領2,039石余・旗本石河勝政領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が多い。元禄郷帳によれば26村・15,229石余。
 宝永元年(1704)秋に大和川の付け替えが終わると、翌2年から深野池の池床や大和川諸流の川床・堤敷などの干拓・開墾が始まり、当郡内にも河内屋南新田・川中新田(現東大阪市)が成立、これらは幕府領に組み入れられた。元文2年(1737)の河内国高帳では、25村・高約16,025石。内訳は幕府領約7,724石・小泉藩領約1,868石・旗本石川領1,000石・旗本彦坂領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が散在。天保郷帳では29村・高16,077石5斗。

【近代】
明治4年(1871)7月の廃藩置県により郡内は、堺・小泉両県に分属したが、同年11月全部堺県となる。同13年河内郡・若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡の六郡連合の八尾郡役所(のち丹北高安渋川大県若江河内郡役所と改称)が若江郡寺内村大信寺(現八尾市)に設けられた。
 同14年大阪府に所属。同22年の町村制施行に際し、若江郡の加納・玉井新田の2村(現東大阪市)を編入のうえ、日根市村・大戸村・枚岡村・枚岡南村・池島村・東六郷村・英田村・三野郷村(現東大阪市・八尾市)が成立。
 同29年当郡及び若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡と志紀郡の一部(三木本村)が合併して中河内郡となる。
-------------(資料3終わり)

それらの要素の関係性から、中新開村付近を流れていた流域を推定してみると以下のようになるのではないかと思います。
 ただし、どうも、時代による自然環境の違いで水際の位置が変わったり、小規模な開発などで、いくつかの段階があるようです。図は、大和川付け替え後に行われた大規模な開発の領域と、それ以前の水際を分けてあります。大和川付け替え以前の開発は、明確な資料無く、個人推定です。
<図の変化概要>
初期の新田開発(紫色)→ 大和川付け替え後の開発(青色)→ 現代の地図 → 中世の水際推定

明治後期から現在の地図へ変化(紫色は最も早い開発)

大和川付け替え後の新田開発については、詳しく判っていますので、判断に迷う事はありません。しかし今のところ、それ以前の開発と思われる川田村のあたりがよく判らず、水際が読めていません。この川田村のあたりからもう少し東側に水が入り込んで、水際が東にあった可能性もあります。
 また、地図の右上にある「加納村」は、西加納、下加納と分かれていて、川田村は後年に独立したのかもしれません。それと、加納村は、地形的に素直に区分けするなら河内郡になろうかと思いますが、若江郡に所属しています。
 吉原村あたりの水際と湿地が加納村との境を分断するような環境であったため、そのような郡境であったのだろうと思います。もしかすると加納村は島のようになっていたのかもしれません。
 現在の栗原神社(式内社で鎮座地は動いてないらしい)付近から東側は、殆ど平坦地で、新開池と考えられる地域と海抜もほぼ同じです。ここには府道168号線が通りますが、その道を東方向に進むと「今米2丁目交差点」あたりから「川中北口交差点」にかけて、緩やかに地形が高くなり、「焼肉いちばん」のあたりでピークになっています。そこから更に東に進むと若干、下りつつ、300メートルほど先に恩智川があります。
 ただ、新開池や深野池へ流れ込む川は、天井川が多く、周囲より2〜3メートル程高くなっているようで、海抜が低いから川の跡という訳でもないところがあるようで、そこは判断が難しいところです。

大和川付け替え後の新田開発図
さて、そういう現在の状況も鑑みると、吉原村から東側は新開池からの水が入り込み、池状、または湿地になっていたのではないかと思われます。
 なおかつ、その高さより高い位置に川筋がある、恩智川が氾濫すると西側へ流れ込んで来るような環境にあったのではないかと思います。
 少し、参考に中野村についての解説をご紹介しておきます。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

(資料4)-------------
 若江郡に属し、南は菱江村、西は本庄村・横枕村。村の形は「く」の字形で、自然堤防上に位置する。この事から考えて、かつて横枕西方を流れる菱江川から分かれて、新開池に流入する川があり、当村はその川床を開発して成立した可能性がある
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では、高380石余、幕府領。享保15年(1730)大坂城代土岐頼稔領となり、寛保2年(1742)頼稔の上野沼田入封以降同藩領。
 元文2年(1737)河内国高帳では407石余で以降高の変化なし。元禄14年(1701)の諸色覚帳(西村家文書)によると10年間の平均免二ツ六分八厘。家数60・寺1、人数324。余業は、男は木綿糸・日用稼ぎ、女は木綿稼ぎ。産土神は山王権現宮(現存せず)であった。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。真宗大谷派西善寺がある。
【追伸:東大阪市公式サイト「歴史散策:C地区:荒本〜吉田」
中野村の日吉神社は、江戸時代以前には現在の高倉墓地のところにあったと伝えられ、もと大山咋命(おおやまくいのみこと)をまつっています。安産の御守札を出していて、村中で難産する人はなかったということです。
-------------(資料4終わり)

『大阪府の地名』でも、上記の地図の紫色部分に川があった可能性を示唆しています。やはり自然地形として、ここに川があっために、若江郡と河内郡との境にしたと考える方が自然だと思います。
 また、想像を少し逞しくすると、地形の高低差はそれほど極端ではありませんので、この川は浅く、葦や葭が生い茂る湿地のような感じだったかもしれません。
 
それから、常に移動を必要とする現代生活からは、このような環境は不便に思えますが、戦国時代には寧ろ、その逆の感覚で、外敵を寄せ付けない環境を村の周囲に持つ方が、財産や村の防御の面で、都合が良かったのです。また、水辺や湿地から受ける自然の恩恵は、生活を支えるためには好都合でもあったのです。もちろん、水辺は舟での交通や輸送という意味では、それも村にとっては恩恵といえる要素です。ただ、水害は困りますよね。
【出典】大和川付け替え後の新田開発図:国史跡・重要文化財 鴻池新田会所HPより

筆者は特に戦国時代の後期の五畿内地域(山城・大和・摂津・河内・和泉国)周辺を専門にしていますので、そのあたりの時代に興味があります。その当時の河内中部地域の地形についても調べています。
【参考サイト】
付け替えられた大和川
300年、人・ゆめ・未来 大和川
国史跡・重要文化財 鴻池新田会所

今も旧集落地域を歩くと、興味深い立地や水害への備えが家の造りから解ります。地形そのものやそういった歴史的な痕跡が手がかりとなって、川の跡が判ったりするのも感慨深いです。
 それから、これらの川が境になって郡が分かれてもいます。菱江川の東が河内郡で、西側は若江郡です。戦国時代には、郡が違うと領主も違うので、共有している利益・利害も違ったりします。そういう何か、川を挟んで睨み合うような、不幸な出来事も長い歴史の中で何度かあったかもしれません。

今年放映されている「真田丸」の時代にも河内国はこういう状況にありました。地図の下(南側)にある 暗峠奈良街道は、大坂の陣の合戦でも徳川家康が通った道です。また、大坂城の攻防戦では、若江郡も戦場になって、合戦が行われていますので、隣接する河内郡も巻き込まれたものと思われます。

2010年1月20日水曜日

明智光秀も陣を取った、戦国時代の史料に現れる森河内村(現東大阪市)と左専道村(現大阪市城東区諏訪1-2丁目)について

明治時代中頃の地図
東大阪市森河内(現西・東の長瀬川沿い)というところは、今や都会の一部ではありますが、このあたりは非常に昔の面影の残る貴重な地域です。
 この「森河内」は、前近代時代頃まで交通の要衝で、陸路・水運が交差する地域でした。また、戦国時代末期には大坂石山本願寺(城)にも近く、本願寺宗の影響力の強いところでした。そんな立地から、戦国時代には度々この森河内が拠点として利用され、争奪戦も繰り広げられています。

摂津国の戦国大名荒木摂津守村重も三好義継が自刃した天正元年(1573)以降、中河内地域から北側を領有している事から、村重と森河内地域も村重と何らかの関連を持っているかもしれません。

さて、いつものように、先ずは、大阪府の地名2(平凡社)にある「東大阪市」の森河内村の記述を抜粋してみます。
※大阪府の地名2-P981

(資料1)-------------------------------
森河内村(現東大阪市森河内:本通1-3丁目、西1-2丁目、東1-2丁目、森河内、古川町、島町)
森河内村域東部に見られる旧家
河内国若江郡に属し、東は稲田村・川俣村。大和川付替えまでは、新開池から西流してきた流れに村の北東で楠根川が、北西部で長瀬川が各々合流していた。「私心記」の天文3年(1534)3月10日条に「御厨・杜河内セメ落候」とある。同年10月11日条には「河内(丹下備後)森河内へ陣取候」とみえ、同月20日条によると細川晴元方と石山本願寺(跡地は現中央区)との合戦が「森河内之南」で行われている
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の本多忠朝が布陣した(譜牒余録)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(1673-81)河内国支配帳・天和元年(1681)河州各郡御給人村高付帳いずれも高582石余で幕府領。
 宝永2年(1705)から、大和川付替えで水量の減少した長瀬川の川床に新喜多新田が開発され、村域が二分された。元文2年(1737)河内国高帳では高438石余、幕府領。宝暦10年(1760)には幕府領(瀬川家文書)。幕末にも幕府領。
 楠根川の在郷剣先船を元禄5年(1692)には1艘所有していたが、享保5年(1720)には既に手放していた(布施市史)。産土神は八幡神社、真宗仏光寺派竜華山称光寺・同派宝樹山法林寺・融通念仏宗寿量山圓通寺がある。
-------------------------------(資料1おわり)

それから、森河内村の産土神は八幡神社のようですが、その社伝によると、本殿は室町時代末期まで遡るとの事で、村人は勿論、村に陣取った明智光秀など、武将も武運を祈願して詣でたかもしれません。
 また、上記(資料1)に見られる「私心記(ししんき)」とは、本願寺宗の中核的な寺であった順興寺(じゅんきょうじ:現枚方市)の実従(さねみち)の日記で、その実従は、蓮如上人の末子にあたる人物です。
この私心記に、森河内方面であった合戦の様子が記述されているのですが、天文年間(1532-55)の始めの頃は、時の管領(将軍の執政職)細川晴元が、法華宗徒や本願寺宗徒と戦いを繰り広げ、「天文法華の乱」などとも呼ばれる、京都とその周辺で政治と宗教の集団が武力で争い合うという、大変な混乱があった時期でした。
 軍事的劣勢を補うために、管領細川晴元が本願寺宗を味方につけて、敵を制圧したのですが、今度はその本願寺宗と晴元が対立し、それに対抗するために晴元は、法華宗と手を結んで制圧しようとします。
 そして何と、それから間もなく、その法華宗とも晴元は対立し、弾圧するという、もの凄い歴史です。

そんな中、森河内方面の記述が「私心記」に見られます。それらは天文3年(1534)の記事として記録してあります。
※石山本願寺日記-下-P227、232

(史料1)-------------------------------
3月10日:
御厨屋・森河内攻め落とし候。又、やがて摂津国天王寺へ廻り候。(同国)高津展渡辺焼き候。
10月11日:
河内(註:丹下備後守)森河内へ陣取り候。早々也。見物する也。
10月20日:
早々より河内国へ敵出張候。此の方より民部少輔打ち出し候。玄蕃頭同前。仍って森河内之南方於合戦。利運也。敵数輩打ち取り候也。(後略)。
-------------------------------(史料1おわり)

森河内村の東側に通る南北の道
また、同じ頃、森河内に接するようにある摂津国欠郡(東成郡)左専道村の記述も見られます。天文3年(1534)の10月13日の事として記録してあります。この時、左専道は河内国に属すような記述になっていますが、勘違いや書き間違いかもしれません。
 ただ、戦国時代は国境や郡境が、勢力の強弱などにより動きますので、もしかするとこの頃の左専道は河内国に含まれていたかもしれません。天王寺領新開庄に含まれ、一体化していれば、国境の判断は迷うところですね。
※石山本願寺日記-下-P232

(史料2)-------------------------------
上野玄蕃頭・太融寺より河内サセ堂(左専道)へ陣取。薬師寺二郎左衛門(下文中断)。同朝、周防主計汁振る舞い。
-------------------------------(史料2おわり)

左専道村を東西に走る道
実は、筆者はこの左専道村に生まれ育ち(父の代で移り住んだ)、母方の祖母が森河内の新地に住んでいましたので、このあたりの地理には詳しいのです。
 しかしながら、『地名』にある、詳しい歴史の流れについて、小さな頃から知っていた訳でもありませんので、近年になって知り得た事もあります。
 私が聞いた話しとして、両親が結婚した昭和39年(1964)頃、上記にある明治時代の地図のように、まだ多くが田畑だったようです。その後の経済成長で、この地域も急速に街の様子が変わった事が窺えます。

さて、上記の古地図からも判るように、森河内村と左専道村は接するように集落があるのですが、その間を割るように街道があり、それが中高野街道(放出街道)で、この道が摂津・河内の国境にあたります。
中高野街道(放出街道)
地図は北を上にして、西側が摂津国で、その東側が河内国です。大和川付替え以前は、長瀬川の水量が多く、森河内村の新地は大和川開削後の開発で開かれたりして、様子が変わったようです。

ちなみに、森河内村と関係が深い左専道村についても『大阪府の地名1(平凡社)』の「大阪市城東区」にある記述を紹介しておきます。
※大阪府の地名1-P630
 
(資料2)-------------------------------
左専道村(大阪市城東区諏訪1-4丁目、永田2-3丁目、東中浜5-6丁目、同8-9丁目)
天王田村の東、長瀬川左岸にあり、東は河内国森河内村(現東大阪市)。深江村(現東成区)で奈良街道(暗峠越)から分かれた摂河国境沿いの道が、村の東端を通って剣道へと続く。集落は村域北東隅に位置し、南方にある12間四方の墓地は行基が開いたと伝える。また延喜元年(901)太宰権師として筑紫へ左遷された菅原道真が、途中立ち寄ったのが当村諏訪明神の森といい、村名の由来説話がある(大阪府全志)。中世は四天王寺(現天王寺区)領新開庄(現東成区)に含まれたとみられる。
大阪市指定の保存樹
文禄3年(1594)の欠郡内佐専道御検地帳写(諏訪神社文書)によると、村高448石(うち12石余荒地)・反別33町4反余。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領。その後幕府領となったが、寛文5年(1665)村高の内400石が旗本稲富領となり幕末に至る。稲富領を東組と称し、残る幕府領を西組とよんだが、西組は幕末には京都所司代領(役知)。
 元禄11年(1698)治水のため村域大和川の外島(中州)が取り払われ(大阪市史)、宝永元年(1704)の大和川付替えで川は水量が減少して大部分の川床は開発された
 享保20年(1735)以降成立の村明細帳(諏訪神社文書)は、特定年の村明細帳ではなく書式・類例を記したものであるが、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳と同じ451石余が記され、稲富領400石のうち下田93石余・畑299石余・永荒7石余、幕府領51石余のうち田50石余・永荒1石余とある。また宝永5年、永田村と共同で笹関新田(現鶴見区)のうち1畝8歩の地を銀101匁余で布屋九右衛門より、幅2間半・長さ52間半の用水路を銀188匁余で鴻池新七より購入したこと、当村は砂交じりの水損場で麦は不作であること、年貢の津出しは剣先船を利用したこと、村保有の小船は14艘で下肥の運搬や農通いに使用したことなどがわかる。主要井路に橋本・西河原・高野田の各井路があった。享保20年の摂河泉石高調で、村高464石余のうち6石余が新田とされるのは、購入した笹関分か。
 諏訪神社は建御名刀美命・八坂刀売命を祀る。前掲村明細帳に引く元禄5年の寺社相改帳によると宮座65人、うち年長の9人が社務をつかさどり、禰宜・神子はいない。古来武家の尊崇厚く、豊臣秀吉奉納と伝える獅子頭一対が残る。
後藤山不動寺
後藤山不動寺は真言宗山科派。慶長7年(1602)宗寛により木野(この)村(現生野区)に創建されたが、水害のため宝暦9年(1759)当地に移転、のち友三寺(ゆうさんじ)と改称したが昭和17年(1942)現寺号に復した。
不動明王を本尊としたので左専道不動とよばれ、正月28日は初不動といって参詣人が多く(浪華の賑ひ)、桃の名所としても知られた(浪花のながめ)。大阪では「そうはさせない」というとき、語呂合わせに「ドッコイそうは左専道の不動」ということがあった(大阪府全志)。
 万峯山大通寺は融通念仏宗。ほかに慶長7年頃左専道惣道場として創建されたという真宗大谷派林照寺、浄土宗地蔵庵がある。
-------------------------------(資料2おわり)

上記(資料2)の文中にある、「南方にある12間四方の墓地は」とある部分、左専道の旧村域の南側にはそのような墓地は見たことがなく、「北方」の間違いではないかと思います。明治時代の地図にも集落の北西端に墓地の地図記号が見られ、南にはありません。

そして、これら両村の歴史を見ると、重要な街道を接し、また、大河にも接していた事で、水路の利用もしていたとの事で、水陸の要衝であった事がわかります。また、江戸時代を通じてほぼ幕府領で、時代が変わっても要地として把握されていた事がわかります。

時代は降って、織田信長の時代。この時の本願寺宗は、自衛的戦争を織田方(室町幕府が機能していた頃に始まった。)に対して起こします。この戦争は、その勃発から10年の長期戦になりますが、その時も森河内は重要な拠点となり、両者の争奪戦となっています。
 ちなみに、森河内は本願寺宗の本拠である大坂を守るための支城としての機能を果していました。その時の史料を一部、ご紹介します。天正5年と考えられる、10月20日付けで、織田信長から筒井順慶に送った音信です。
※織田信長文書の研究-下-P324、(新)大阪市史5(史料編)P196
 
(史料3)-------------------------------
(明智)惟任日向守光秀用所申し付け、自余(他所、丹波国)へ差し遣わし候。一途(いちず:決着する)之間、森・河内城之方に自身相越し、用心等堅固に覚悟せしめ、摂津国大坂へ通路並びに夜待ち以下の事、聊かも油断あるべからず也。
-------------------------------(史料3おわり)

融通念仏宗寿量山圓通寺
(史料3)は、奈良興福寺の衆徒から戦国大名化した筒井順慶についての史料です。文中には、「森」「河内」と分けて記されているのですが、この頃、森口(現守口市)と森河内に陣を構築しており、両所の事を同時に言っているのかもしれませんが、単純に「森河内」かもしれません。いずれにしても森河内は、この頃までには織田方の配下ですので、そのように理解しても差し支えは無いと思います。

次ぎにまた、関連史料をご紹介します。天正6年(1576)と思われる11月3日付けで、明智光秀が、所属不明の佐竹出羽守某宿所へ宛てて出した音信です。
※亀岡市史(資料編2)P28

(史料4)-------------------------------
来る12日、南方に至り御出馬されるべく候由、仰せ出され候之間、丹波国亀山之普請相延べ候。然者油断無く陣用意専用候頃、鉄砲・楯・柵・縄・俵之儀、10日以前に河内国森河内に相着かれるべく候。我等は11日に彼の地へ罷り越すべく候条、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
-------------------------------(史料4おわり)

この頃には森河内に、更なる強固な陣を構築しようとしている様子がわかります。柵を巡らせ、俵や楯を並べた陣地を作ろうとしていた事がわかります。また、鉄砲も配備していたようです。
 光秀は、佐竹出羽守某にそれらを11月10日までに森河内に運び入れるよう指示し、光秀自身が翌11日に着いたら、作業を始められるように、段取りを組んでいたようです。

現在の長瀬川(東向)
戦国武将として有名な明智光秀や筒井順慶も森河内村に入っていたことは、これらの当時に書かれた手紙(史料)から確実です。やはり前述のように、ここは重要な街道を通し、水運も押さえる必要から、名だたる人物を入れて管理しています。
 また、私の研究の領域外ではありますが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の本多忠朝が布陣しているようですね。

この森河内・左専道あたりは最近、住宅の建設も盛んになりつつありますので、急速に町並みを変えつつあります。景色が一変する前に、ご興味のある方は、散策されてもそういう中世の面影を楽しめると思います。