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2023年9月5日火曜日

「忍者を追う歴史学」と題して、磯田道史教授による最新の成果が発表されました。やはり摂津池田にもその名残があり、愛宕火(がんがら火祭)は接点がある可能性。

忍者の研究は非常に困難を究め、その特性からして、資料が出ません。ですから研究が進まず、想像の世界も多くあり、関心の高い分野でありながら学術研究の進まない、謎の領域でした。
 ところが、近年、忍者に関する史料が発掘(発見)され、この事で、一気に知見(調査)が前に進みました。多くの手がかりがあり、今後も関連した研究が続々と出されるでしょう。

以下の発表動画をご覧下さい。お馴染み、磯田先生による講演ですが、いつものように大変楽しく、しかし、しっかりと要点を押さえ、非常に興味深い内容です。

シリーズ「日本研究のトビラをひらく」:
【前編】「忍者を追う歴史学」磯田道史教授


シリーズ「日本研究のトビラをひらく」:

【後編】「忍者を追う歴史学」磯田道史教授

 

この研究成果を聞いていると、やはり摂津池田でも「忍者」の存在を感じざるを得ず、形跡もあるように思います。それは何かというと、この番組から感じるキーワードを先ず、上げてみたいと思います。

・甲賀、紀伊国雑賀、山伏、薬(そら耳)、鉄砲、城、木村姓などです。

以下、それぞれ、注記します。

【甲賀】
池田城下に「甲賀谷」という集落があり、過去に古老に聞いたところでは、近江甲賀から移って来た人々が住んだ地域であると、代々伝わっているとの事でした。また、この集落には、戦国時代に「甲賀伊賀守」という家老が、屋敷を構えており、この系譜の家が江戸時代には、酒造とその流通に関わっている事が判っています。

【紀伊国雑賀】
荒木村重は、織田信長政権から離叛した時、大坂本願寺と共に、雑賀地域の人々と、頻繁に連絡を行い、協働もしていた事が史料から判ります。また、池田筑後守勝正の子とされる「勝恒」が、天正年間に和歌山県東牟婁郡古座川町(旧池口村)に逃れて居住したとの伝承があり、これも雑賀との関係が深くあります。

【山伏】
摂津地域北部の山地には、霊山として多くの修行場があります。そのため、真言宗などの寺院も多く、山歩きをして心身を鍛えるギョウを行う僧も多く居りました。戦国時代の池田氏は、摂津国豊嶋郡を中心に治めましたが、その中心的な役割を果たしたのが箕面寺という寺でした。山伏姿で、護摩を焚いて祈祷をするギョウも日常的に行われていました。
 1644年(正保元年)に興ったと伝わる伝統祭事である愛宕火(がんがら火祭)は、特に城山町(現池田市)の催行する同祭事は、この名残を持つものかもしれません。

【薬】
実際には、番組中にこのワードは出ていませんが、聞こえたような気がします...。(^_^;) 忍者と言えば「薬」みたいなイメージもあります。
 近江国甲賀地域の縁なのか、池田の地味、多数の寺院、多くの街道を交え、都市として発達(市場機能)したからなのか、城塞都市、武士の集住地域など様々な要因で池田と薬との関係があったようにチラホラ、見聞きしています。
 平安時代、現池田市住吉辺りに薬草園があって、当時の中納言菅原峰嗣は、天皇の待医や薬草頭などをつとめた人で、時々いそこにも見廻りに来ていたようでした。また、太平洋戦争前の事、古老の話によると、五月山山麓に薬草園(シオノギ製薬)があったとのことです。今は、全く面影はありません。
 それから、近からず、遠からず気になるのは、伊丹製薬株式会社という会社が、大正2年に     初代伊丹太蔵氏が大阪市浪速区で薬店開設したのに始まり、現在に至っています。地理的には、無縁という感じもないのですが、池田と「薬」については今後も調べを進めます。やはり、薬と忍者というのも、非常に関係の深い繫がりです。

【鉄砲】
元亀2年(1571)の秋に勃発した、いわゆる白井河原合戦で、池田勢は300丁の鉄砲を多用し、和田惟政勢を壊滅させました。永禄10年(1567)の冬、奈良東大寺合戦時も池田勢は、その主力的一団として活動し、対する松永久秀勢と激戦を繰り広げていました。この時は、銃撃戦が主体で、池田勢は相当数の鉄砲を使用していたようです。池田衆は、鉄砲を運用し、多用する体制と技術を持っていたとみられます。

【城】
摂津国池田には、同国内の最大級の城がありました。戦国時代には池田氏が豊嶋郡を中心とした支配を行い、池田家当主は、惣領と称されていました。宣教師ルイス・フロイスの当時の報告書にも池田氏が紹介され、「富裕な家」であったと認識されており、兵の装備は行き届き、必要があれば何時でも一万の兵を采配できるともあり、戦国大名とも言って過言では無い勢力に成長していました。
 そんな池田氏は、それなりの規模の城を持ち、最終的には同国守護に任じられるために、幕府の政務所となるべく規模と郭式が調えられたと考えられます。
 城下には、甲賀谷と言われる集落もあり、拡大する都市を構成する様々な技能や役割りを持った人々が住みました。建設や土木といった技術系の人々も当然ながら、池田氏との関係を持っていたと考えられます。

【木村姓】
摂津国の一職大名となった荒木村重でしたが、当然ながら多くの家臣と被官を抱えていました。その中に木村弥一右衞門という人物が確認できます。池田氏時代にも多くの家臣と被官が居りましたが、木村姓は見られず、また、木村弥一右衞門についても、この一通にのみ登場する人物で、不詳です。
 時期的に、織田信長政権は、京都の外側地域の対応に腐心しており、京都周辺は、荒木村重に任せる政策が採られていました。その為、荒木村重の地域政権も急拡大しており、必要な人事は積極的に採用していたと考えられます。そのような事情の中で、木村弥一右衞門も荒木村重に抱えられたのでしょう。
 天正2年と推定されている4月3日付けの音信で、荒木村重から摂津国尼崎惣中へ宛てられています。内容は、新たに建設される町割りなどについての指示で、木村弥一右衞門は使者として、尼崎に赴いているようです。「長遠寺(じょうおんじ)普請之儀油断無く其の沙汰せしむべく候。」としています。
 やはり、甲賀衆は忍者としてももちろん、こういった普請や造作、土木についても長けた技術を持っていたようですから、この史料もそういった事と、もしかすると関係していたのかもしれません。
 この村重の治世の頃、または、それよりも少し後くらいの頃、甲賀伊賀守なる人物が、池田郷の地域政治に高位の人物として記録に表れます。この人物は、当時の史料にも見られる事から確かに実在しています。その名からして、甲賀地域に縁を持つ人物ではないかと思われます。

<<関連記事>>
灘酒 櫻正宗と正蓮寺・摂津池田の関係(はじめに)


ガリレオ Ch ガリレオ X 第194回:
【忍者とは何者か?】忍者の実像 最新研究が解き明かす真の姿


この番組では、「音もなく、嗅もなく、智名もなく、勇名もなし。その功、天地造化の如し。」と「忍び」の極意を伝えて締めくくってあります。本当に凄いことです。ひとつの修業であり、悟りを求める旅のようです。何やら教えを請う、永遠の宗教のようにも感じます。元来、武士もそのような精神があったようです。

【参考】
忍者の先進的な当時の最新科学力を現代科学で検証している興味深いコンテンツです。薬の調合や運用方法についても触れられています。

2022年9月27日火曜日

「公文書管理を考える」と題した国際日本文化研究センター准教授 磯田道史氏(いそだ みちふみ)の講演は、非常に勉強になります。

2018年6月、日本記者クラブにて、「公文書管理を考える」と題したシリーズの公聴会が行われた公開動画です。その4回目に、国際日本文化研究センター准教授 磯田道史氏(いそだ みちふみ)の講演が行われました。文書管理と、印判について歴史的経緯を発表されています。磯田氏は、永年に渡り、NHKの歴史番組を担当されていますので、ご存知の方も多いと思います。

非常に勉強になる講話ですので、皆さんのご参考のために紹介しておきます。

公文書管理について、如何に厳格に行われてきたのかを知る、非常に良いお話しです。今、私たちが目にすることができる、過去の文書は、それを守り続けてきたからであり、整理されていたからであり、また、正確に記録されていたから、過去を遡る事ができるのです。これそのものが、素晴らしい事だと思います。

また、今現在のように、過去は、簡単にどこそこの文書が閲覧できた訳ではなく、このことも、知っておくべき事だと思います。その意味では、文書管理の難しい時代、平和であった江戸時代においても、固有所蔵の文書を見ることは非常に難しく、それでも歴史編纂をを行う事は、非常に難しいことだったことが判ります。

過去の経緯を知り、私たちがこれを受け継いで、次の世代に渡す事は、大きな意義があり、非常に大切な事だと思います。

 



2022年9月24日土曜日

山城国西岡地域にあった勝龍寺城について、その地域公共性、公権の城としての研究

 京都府長岡京市は、歴史的遺物、事柄の保存活用に非常に熱心な地域の一つで、様々な取組を行っており、それを市民へ還元しつつ、活力ある地域活動に活かそうとされています。

その中の一つが、毎年11月に行われる「ガラシャ祭」です。1ヶ月程の期間を設けて、様々なイベントが行われ、中でもこのガラシャ祭は、そのファイナル的な大規模イベントです。長岡京の時代祭的要素もあり、長岡京市に所在した勝龍寺城の城主でもあった細川藤孝の息子、忠興とその妻のガラシャ(明智光秀の娘)を主人公に立てて行われます。それぞれの時代の一団が、市内のメインストリートを練り歩きます。

その勝龍寺城を地域の活性化拠点ともすべく、研究が続けられており、その成果を折々に還元して、城の復元施設や書籍などにまとめられています。
 近年、世界中を騒がせたコロナ禍により、このガラシャ祭も中止されており、本年(2022)は、3年ぶりの開催となり、長岡京市民も楽しみにされているようです。

その中止の期間の間、歴史分野では、イベントの代替企画として、研究者のリレートークや研究成果の講演が行われ、中止期間中も非常に有効的に対処されたと思います。出来ることを考えて、活力の縁が切れないようにうまく企画されたと思います。

 さて、その中止期間中に行われた講演で、非常に興味深い研究発表がありましたので、このブログでも紹介しておきたいと思います。
 中世から近世への移行期、また、これまで考えられていた幕府と地域住民の関係性、遠く離れて暮らす血族と地元の絆が、時代によって、どのように維持されてきたかを一次史料から明らかにされています。
 熊本へ国替えとなった細川家と、その細川家を支える、山城国西岡地域に縁を持つ家臣の関係を解かれています。素晴らしい成果で、これまでの大名像が一変する程です。

これは、私の研究対象である摂津国豊嶋郡池田にも近く、地域性の乖離も左ほど無いと思われますし、通念的には日本全体の文化だったのではないかと思われます。江戸時代の大名は、幕府によって、地縁を切られた、いわゆる「鉢植え大名」と考えられていたことが、大きく変わる事実だと思います。

繰り返しになりますが、摂津池田でも同様の事があったでしょうから、そういった視野も以て、今後は私の研究に活かせるようになり、大変勉強になりました。以下は、その講演の模様です。2時間弱ありますが、非常に有意義な研究成果ですので、是非ご覧下さい。

◎戦国時代の西岡と藤孝・光秀~熊本に伝わった古文書を中心に~
 熊本大学永青文庫研究センター長・教授の稲葉継陽氏
【概要】
戦国時代の乙訓・西岡には、現在につながる集落ごとに国衆(地侍)たちが割拠し、向日宮や勝龍寺城を核にして、ときに「惣国」と呼ばれる自治的組織を創出しました。そこに乗り込んできた細川藤孝は、西岡の国衆、そして地域社会とどう向き合ったのでしょうか。熊本藩主細川家や西岡国衆出身の細川家臣のもとに伝えられた貴重な古文書をもとにお話します。また、西岡時代の藤孝・光秀コンビの活躍についても紹介します。

(公式ユーチューブコンテンツより)