2020年11月7日土曜日

戦国時代の社会的身分

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

 

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。


今回は、大河ドラマ「麒麟がくる」のはみ出し企画です。ちょっと文が長くなってしまいました。ご興味ある方は、お読み下さい。同時に、画像は説明資料ですので、ご理解の一助にご活用下さい。


今や時代劇はNHKだけしか、番組制作はできなくなりました。ある機会があり、大学を卒業したばかりの若者と話しをしていたら、「時代劇は見たことがありません」との答え。若干ショックでした。もう、そんな時代です。教えないのだから、そうなるのも当然です。これから先は、そのような時代が到来することを思い知った出来事でした。

さて、そんな昭和な、そんな時代劇を見て育った時代の方々に贈る、時代劇話しです。

テレビ時代劇であれ、映画であれ、その当時の日本人には、ミドルネームのような呼称があることに気付いている人も多いと思います。ど真ん中の話題では、明智十兵衛(尉)光秀です。この十兵衛は、正式には兵衛尉(ひょうえのじょう)という社会的身分を伴っています。  十は、オリジナルです。その家に伝わる系譜だったり、その人自身に冠するものです。例えば、三や五の数字、義や助などの漢字があります。ちなみに、助だと助兵衞になってしまうので、要注意です。余談ながら、柳生十兵衛もそうですね。
 今も歌舞伎役者とか、落語家などは、襲名制があり、相撲も階級があります。こういった伝統的な分野には今も見られますね。

もっと身近には、「職能給一覧表」という、毎月の給与の基準に、こういった制度や概念が今も社会秩序を支えています。

その他、遠山の金さんは、杉良太郎などが演じた人気番組でした。金さんとは、遠山金四郎景元のことで、江戸町奉行の名奉行として名を残している人物です。この人物の官名は「左衛門尉」でした。ドラマの中で、番組後半の法廷(白州)での登場シーンでは必ず、「遠山左衛門尉様のおな〜り〜」と声が発せられます。この人物も「尉」です。
 それから、池田勝正は、筑後守(ちくごのかみ)、荒木村重は、信濃守から摂津守へ官名を変えています。

このミドルネームみたいな、この官名(名乗り)、実は当時の社会ではとっても意味があるのです。日本人が、つい最近まで使っていた、社会の指標であったり、判断の基準にもしていたり、社会秩序であった制度です。今も皇室、宮内庁では使われています。
 この社会的身分により、天皇陛下や将軍、地域の殿様などといった、重要人物にどの距離まで近づけるかの基準にもなりますし、就ける職種も制限があったりします。官職表をご覧下さい。

官職表の縦には、一〜十位までの位階があり、五位以上が殿上人といって、屋敷の座に上がれます。それ以下は、廊下やその向こう側までしか近づけません。
 これに対し、横並びは、役職です。例えば、織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った頃、元は地方官(国司)である尾張守を名乗っていましたが、京都に上洛する途中で、「弾正忠(だんじょうちゅう / じょう)」という官位に名乗りを変更しています。これは今で言うところの、警察庁長官に相当します。

再度、官職表をご覧下さい。弾正台という役職には、正六位のところに大忠・小忠があり、小忠は六位の下です。位には上下あります。いずれにしても、六位は、あまり身分は高くありません。ですので、織田信長は、普通は天皇の近くに姿を晒すことすらできません。例外もあったでしょうが、基本的には、こういった環境は厳格に守られていました。ですので、後年、織田信長が社会的身分を急に上昇させるのは、そういった制度があったためです。

一方、筑後守、信濃守といった国司職の名乗りです。国割り図をご覧下さい。江戸時代まで、日本は合衆国制的な仕組みで国が成り立っていました。国は66ヶ国ありました。その国にそれぞれ国司がおり、これを束ねるの長官が「守(かみ)」で、その副官が「介(すけ)」です。江戸時代は、少し習慣が変わりますが、室町時代には、そういった倣いになっていました。
 国司の種類は、大国・上国・中国・小国と分かれており、小国の最高位は従(じゅ)六位、中国は正六位、上国は従五位下、大国は従五位でした。国司である限り、最高位は従五位までで、辛うじて、廊下より上での立ち位置です。

では、池田勝正はどうでしょう。筑後守です。筑後は、上国ですので、従五位下です。信濃守も同じですね。ですので、この官名をもつ両者は、対等に話しができます。
 はたまた、三淵藤英はどうでしょうか。藤英は大和守で、従五位、細川藤孝は兵部大輔(ひょうぶのたいふ)で、正五位下で、三淵よりちょっと上位です。

そしてこれらは、適当に名乗っているわけではなく、天皇から許される位です。人事権でもあります。また、これは将軍が取り次いで申請します。当然ながら、これらは費用が発生し、同時に、その名乗りが相応しいのか、また、その官位に空きがあるのかを審査し、就任の可否が下されます。
 朝廷、幕府(将軍)にとっては、実際には、重要な収入源でもあったと同時に、権威でもありました。また、これらは受ける側にとって、地域政治や家中政治には有効的に機能していました。もちろん、「並み」や「相当」といった間隔で、公式とは言えなくても、それと看做される環境があって、名乗る事もあったようです。しかし、自称「課長」では、格好が悪いし、信用度も低いので、お金を積み、社会的貢献度を重ねて、多くの人が正式な官位を手に入れようとします。

ああ、明智光秀の「十兵衛尉」の解説を忘れていました。兵衛は「兵衛府」で、「尉」は、大尉と小尉がありますね。この役職には右と左があります。織田信長と同じく、大であっても最高位は従六位です。これは信長と同じ社会的地位です。
 後に光秀は「日向守」を名乗りますが、それでも「正六位下」です。ちょっとだけ、地位は上昇しました。同じ頃、羽柴秀吉は筑前守です。身分は「従五位下」です。秀吉は光秀よりもワンランク上です。

少し長くなりました。もし、ご興味のある方は、参考にして下さい。

 

国・県対照表
国・県対照表


国・県対照と五畿七道
国・県対照と五畿七道


官位相当表
官位相当表

 

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