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2026年8月13日木曜日

摂津国豊嶋郡福井・岡山(現大阪府豊中市)にあったとされる城は、原田城と一体化していたか

◎はじめに
この城の話しは聞いたことがあり、資料もいただいていたりしたのですが、気になりつつ時間だけが過ぎてしまいました。今は、私自身の知識が蓄えられた事もあり、推測のための材料も用意できるようになったので、この城について考えてみたいと思います。

この伝福井・岡山城については、地方史研究者の高市光男氏が『大阪春秋』127号で、取り上げられており、茶人・キリシタン武将であった古田織部に関連づけて述べられています。それを引用するには、長文ですので、文中の要素を適宜に取り上げつつ、私なりの視点も加えて、以下にまとめたいと思います。

明治42年(1909)測図
◎地誌にみられる福井・岡山村
先ずは、その土地の概要把握から始めたいと思います。
出典:大阪府全誌3(清文堂出版)P1248

--資料(1)-------------
【大字福井】
本地は古来豊嶋郡に属し、もの餘戸郷の内なり、原田庄、一に六車庄とも呼びし内にして福井村と称す。字地に城山・東城山といへるあり
 西法寺は字城山にあり、星野山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。本地の郷士に星野四郎大夫なるものあり、本願寺蓮如法主に帰依し、剃髪して了忍と称し、明応6年(1497)当寺を創立し、享保4年10月檀徒協力して之を再建せり。境内は271坪を有し、本堂・庫裏・書院・鐘楼・薬医門を存す。
 福井城跡は中央にあり、一堆の丘阜をなして俗に城山と呼べり。周囲は260間にして、今は民家相連なり、遺跡の認むべきものなく、復た其の興廃の縁由等も明らかならず。
 本地は寛文元年(1661)より麾下畠山飛騨守の采地となり、村高83石8斗2升は同氏世襲して同飛騨守に至り、明治元年(1868)5月24日の公布に依りて大阪府司農局の支配となる。又本石高外なる1石1斗6升1合(新田)は徳川氏代官の支配たりしが、同代官継承して斉藤六蔵に至り、明治元年の初めに御料となりて、桜井遠江守・九鬼長門守の当分取締に移り、同3年3月1日兵庫裁判所の管轄に転じ、同年5月23日大阪府司農局の支配となる。(中略)同12年2月10日豊嶋郡役所部内となり、同月21日、第16分画に属し、同13年7月2日岡山村・曽根村・服部村・長興寺村と五ヶ村連合し、同17年7月1日第13戸長役場の管理区域に入りて、同22年4月1日の町村制施行に至れり。

新修 豊中市史大字小字図を加工
【大字岡山】
本地は古来豊嶋郡に属し、もの餘部郷の内にあり、原田庄、一に六車庄と呼びし内にして岡山村と称す。字地に北の口・新町・南の口・辻野・西の口へといへるあり。田圃の間に一の坪・五の坪・六の坪・東六の坪・十の坪といへる小字あり、条里制の遺称ならん。
 西琳寺は字辻野にあり、応頂山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。中村治右衛門なるもの本願寺准如法主の弟子となり、宗善と法名して寛永5年(1628)に創立し、其の後大破せしを以て6世■(養?餈?)元檀家と協力して之を再建せり、境内は425坪5合を有し、本堂・庫裏・鐘楼・薬医門を存す。
 本地は寛永年間より麾下船越駿河守の采地となり、同氏世襲して同柳之助に至り、明治元年(1868)5月24日の公布に依りて大阪府司農局の支配に移り、同年7月北司農局に属し、同2年正月20日摂津県の管轄に換り、同年8月2日兵庫県の管轄に転じ、同4年8月同県第35区に編入せられ、同年11月20日大阪府の管轄となる。而して其の後の区画の変遷は、大字福井村に同じ。
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ちなみに、江戸時代に発行された『摂陽群談』に西琳寺と西法寺の記載がないのですが、なぜでしょうか?

続いて、現代に編纂されたいつもの地誌を見てみます。
出典:大阪府の地名1(平凡社)P271

--資料(2)-------------
大阪春秋127号より
岡山村(豊中市曽根東町2丁目、同4-5丁目):
曽根村芦田池の東、豊中台地の南端縁辺部にあり、東の福井村との境を南北に能勢街道(池田道)が通る。原田七郷の一村(元禄郷帳)。文禄3年(1594)の検地では原田郷10ヶ村で検地帳1冊が作成され、惣高3180石のうち岡山村分の高は203石余・反別18町2反余(享保2年「岡山村名寄帳」中村家文書)。慶長10年(1605)の摂津国絵図では当村や原田村など計5ヶ村の高3181石余のなかに含まれている。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では旗本船越領31石余。延宝5年(1677)6月には船越左門・同百助領136石余(野口家文書)。元禄11年(1698)4月には船越領203石余(同文書)。以後は幕末まで変化はない。産土神は原田神社、浄土真宗本願寺派西琳寺がある。

福井村(豊中市城山町1-2丁目、長興寺南2-3丁目、曽根東町6丁目、服部本町4丁目):

岡山村の東、豊中台地の南端縁辺部にあり、能勢街道(池田道)の東側に沿って集落がある。原田七郷の一村(元禄郷帳)。中世は春日社領垂水西牧六車郷に属し、正長元年(1428)11月日の南郷春日社新大般若会料田坪付帳(今西家文書)に、料田加地子米担当者として原田郷の福井村がみえる。慶長10年(1605)の摂津国絵図では当村や原田村など計5ヶ村の高3181石余のなかに含まれている。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では旗本畠山領83石余。以後幕末まで畠山氏の知行所であった。福井城跡と伝える所があるが、  詳細は不明。法華宗(本門流)藤井寺(とうせいじ)には「竜の頭」を用いる雨乞儀礼が伝えられている。降雨をつかさどる竜神の頭骨と伝え、寺宝として秘蔵されているが、外に出すと雨が降るといわれる。調査により日本産の牡鹿の頭骨と判明している(豊中市史)。ほかに浄土真宗本願寺派西法寺がある。
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福井・岡山両村は、原田七郷(「元禄郷帳」)に属しており、一体的な地縁があったようです。この内、福井村については、中世において六車郷(原田庄)に属していたとあります。『大阪府全誌』では岡山村も六車郷の内としていますが、『大阪府の地名』では、その記述がありません。また、両村の境は、その間を南北に通る能勢街道でした。
 新しい地誌では過去の記載が見直されているようなところを感じて気になります。これは、能勢街道があるために、どうしても分けて見てしまうのですが、元は一体のものではないでしょうか。街道を取り込んだ城か、居住区(集落)を城の機能とを分けて構成されていたのかもしれません。

豊中市の担当部署に尋ねてみると、「城山」としての対象ではあるけども、今のところ報告書を伴う発掘調査はなされていないとの回答でした。ですので、現段階で物理的な判断材料は得られず、文字情報からの想定に尽きます。

出土した十文字入り瓦(4点)
大阪春秋127号より
◎出土したキリシタン瓦と伝福井・岡山城を考える
それで、この記事の冒頭でご紹介した高市光男氏の記事「豊中に織部の城があった - キリシタン鬼瓦が語る謎 -」によると、昭和33年(1958)に豊中第四中学校の体育館建設工事中に十字紋の入った鬼瓦が出土した事により、ここにキリシタン教会のような施設があったのではないかと想定されています。それが禁教令などにより、破壊された折に廃棄された時、元の城の堀に投げ棄てられたと推測されています。
 その現場は、比高10メートル程の崖で、字名が「城山」と呼ばれており、この城が天正6年(1578)冬から始まる荒木村重の乱と関係した、有岡城の付城であり、原田城に城番として入っていた中川清秀やキリシタン大名の古田織部に端を発する可能性を述べられています。以下、少々長文ですが、該当部分を引用してみます。
出典:大阪春秋127号P81(ミステリー探訪:豊中に織部の城があった)

--資料(3)-------------
【なぜここにキリシタン瓦が?】
なぜ当地でこのような瓦が出土したのかと問われると、誰もがここにキリシタン大名がいて、禁教令で形成悪しとみて堀に投棄したものだろうと推測する。
 豊中市立第四中学の北側には10メートルほどの崖があり高台になっている。そこは字名「城山」と呼ばれている。『大阪府全志』(大正11:1922)には、中豊島村の項に次のような記述がある。

 ”福井城址は中央にあり、一堆の丘阜をなして俗に城山と呼べり。周囲は260間(約473メートル)にして、今は民家相連り、遺跡の認むべきものなく、復た其の興廃の縁由等も明らかならず。”
福井城の名は、福井村の名をもって編者がつけた仮の名であろう。明治時代に既に忘れ去られていたとみえる。その中心は岡山村・福井村・長興寺村の三村墓地となっている。古戦場だから墓地になったという伝承もある。墓地から五輪塔や一石五輪塔など戦国期の墓石が出ることがあり、墓地中央には「鏡地蔵」が祀られている。
 『新修 豊中市史古文書 古記録』
「原田郷村々由緒記録」の一部が収められている。この記録は1709年(宝永6)に死亡した原田村梨井の庄屋であった野口玄好の日記を隣村原田村中倉庄屋永田兵太が1730年(享保15)に書き写したものである。野口氏は、原田氏の跡を継ぎ城に居住した原田城主の子孫である。その中に次のような記録がある。
”一、曽根・岡山・勝部は天正年中より初家造いたし候所、其中曽根少古し、尤勝部・岡山元亀頃壱弐軒つつ有之由に候へとも、荒木氏御退治時当城より見付のかまひいに成によって家とりはらはれ、殊に岡山は古田左助殿御陣所に成候故猶もって無家、其の丸跡を開発して岡山村と号、依之土井之内と云、当城出丸也
一、福井村右之村より少し古、”
原田城推定復元図
『荘園物語』近くて身近な中世の豊中より
とある。当城出丸(出城)という当城とは原田城の意であろうが、原田城側の我田引水である。伊丹有岡城の荒木村重を討つわけだから、むしろ岡山から見付(見張)のために家を取り払ったと考えるべきであろう。村に1〜2軒しか家がないことは奇異に感ずるが、中世的な大家族制の時代、一族郎党下人に至るまで何十人で一家を成していたと考えれば納得がいく。
 岡山の西琳寺の寺伝によると、開基宗善は、戦乱の世に嫌気をなして、土民(百姓)になり中村治右衛門と称し岡山に住み、1573年(天正元)頃本願寺に入門。1628年(寛永5)97歳で没した。とすると、1531年(享禄4)ころの生まれである。また、西武庫村(現尼崎市)の土豪高寺氏系図「高寺家譜」(『伊丹史料叢書4 荒木村重史料』による)には、
”十二代高寺泰経 号市郎右衛門尉 天文6酉年9月4日卒 年63才 妹 摂州岡山村中村弥兵衛に嫁す”
とある。泰経は1474(文明6)ころの生まれ、その妹が中村家に嫁ぐのは1500年ころと推定される。信長が荒木攻めのため、古田左介(左助)等を出兵させるのは1578年(天正6)のことで、その時岡山村、おそらく福井村も家々が焼き払われたか、取り壊された。1995年(平成7)の阪神・淡路大震災で被害を受けた西琳寺も大修築がおこなわれたが、その時本堂床下から五輪塔等が数多く発見され、柱の土台石として使われていた物も多かった。中には火が入った五輪塔もあり焼き払われた可能性もある。
 福井の西法寺についても同様の伝がある。『豊中の史跡たずね描き』(平成6:1994)には西法寺について「浄土真宗本願寺派で、1534年(天文3)に福井村の現在地ち建立された。星野四郎太夫(法名釈了思)が裏山の砦の主人であったが、殺し合う武士をはかなみ、出家して開祖となった。」とある。『西法寺四百六十年の歩み』によると、2代3代とも名前も不明で、4代1630年(寛永7)に続いている。西琳寺と同じ運命にあったことがわかる。
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上記の資料(3)、「当城出丸(出城)という当城とは原田城の意であろうが、」と解釈されているのですが、これは、古伝書の通りに伝福井城(福井・岡山城)の事と思われます。また、「一堆の丘阜をなして俗に城山と呼べり。」から転じて「岡山」になり、それが別名「城山」だった...。

◎共通性がみられる奇縁
また、資料(3)にある、高寺市郎右衛門尉泰経についてですが、泰経は武庫郡に縁があり、これは石蓮寺村の興法寺と同郷です。この地域は、一連のつながりがあるようにも感じます。更に、泰経は兄弟で河原林越後守と共に戦って戦死したと伝わっています。これも、石蓮寺村に伝わる北河原氏と関係が深く、与作の妻は河原林越後守の娘です。
 福井村の歴史構成には、石蓮寺村と連動する所があり、それは相互に一体化した起源があるように感じられます。また、福井村にある西法寺の伝承についても星野四郎太夫が出家して「釈了思」となり、寺の開祖となったとあります。この星野氏は、荒木村重の家臣としても星野某(有岡城内の上臈塚砦へ滝川一益勢を引き入れた一団)が居り、星野氏は摂津池田の細河郷にルーツを持つ一派と共通点が見いだせます。非常に土着的な起源を纏わせる要素があります。池田氏が菩提寺の大広寺と一体化して統治機構を創出していたように、星野氏も親族による縁故関係を近隣に築いていたのかもしれません。星野姓はそれ程多くないですし、その姓名の起源はある程度限られてくるように思われます。

【参考】荒木村重の重臣でもあった摂津国人北河原氏(与作)について考える

豊中台地南端縁辺高低差の様子
◎福井・岡山村の地形と要害性
少し視点を変えてみます。この福井・岡山村というのは、東接する石蓮寺村と自然環境が似通っているばかりではなく、福井・岡山村は更に高い要害性を持っている事から、戦国時代には当然、何らかの策が講じられていた場所にあると考えられます。以下、要素をあげてみます。

○能勢街道の監視・管理の必要性があった
○吹田街道が穂積・服部村から東側へ分岐している
○原田村を中心とする原田庄(六車郷)は一体であった
○原田城と地理的に補完関係を維持する必要があった(南側への視界確保)
○原田と福井の間の曽根村付近に「本陣山」という小字がある
○豊中丘陵の水源を管理・保持する必要があった
○九名井の用水範囲
○垂水西牧の管理者である今西家の本拠地があり、その重要地域であること
○原田庄・田能村との水争い田あったこと
○河辺・豊嶋との郡境が近かったこと


これらの要素は、戦国時代において先鋭化する事から、領土保全について重要地域であったと考えられます。そのため、高市氏が想定されている、荒木村重の乱に伴う古田織部の築城よりも前に、既に城があったとも想定が可能かと思われます。

原田村絵図
『荘園物語』近くて身近な中世の豊中より
◎主陣地としての原田城を考える
時代降って、天正6年(1578)冬翌年秋にかけて、高市氏は、この重要地域に、織田信長の古くからの従臣でもある美濃国衆の古田氏が入れられていたと考えられています。古田氏は中川清秀の妹を娶っており、且つ、信長の目付的役割も持っていました。
 有岡城を攻める時、その周辺の街道を封鎖し、要所には付城を置きます。その一つが、元々あった原田城で、これを大きく改修して陣城とし、ここに中川清秀が入っていました。また、太平洋戦争前、陸軍がこの平野で演習を行った時、原田城跡あたりの木に登って、伊丹方面の友軍へ手旗信号で通信を行っています。両所の間は、4キロメートル程の距離です。

この原田城は、地形的に、南北に伸びる半島の先端で、高さを下げています。それより高さを持つ桜塚方面に何らかの工夫をしていたのかもしれません。加えてここは、東西南北への交差点でもあり、能勢街道も合流しています。豊中台地上の重要地点です。
 また、この豊中台地の南端であり、能勢街道を通す福井・岡山地域は、南側の中嶋方面から北上を阻む為には要害が必要な場所であったと考えられます。同台地全体を一つの防御陣地とする事ができます。
 ちなみに、天正2年(1574)7月の崇禅寺合戦の折、荒木村重勢は小曽根村方面から南下。渡し場を経由して神崎川を渡り、中嶋内十八条村を更に南下して、崇禅寺方面に向かっています。

◎原田城と一体化した、伝福井・岡山城

このように有岡城を対象とした場合には、その正面となる原田城が主要な陣となりますが、それを支えるための陣地構成・体制としてはやはり、伝福井・岡山城も必要であったと考えられます。これは、有岡城攻めに限らず、池田・伊丹氏の対立が長期間続いていた時代にあって、郡境を守るためには、同様の軍事要素が必要であったと考えられます。
 それ故に、天正6年冬から始まる有岡攻めは、既存施設の再利用だった。若しくは、荒木方であった施設を攻め落として、原田城と同様に織田方が利用したものと考えられます。また、福井・岡山城があったと考えられている根拠ともなっている地籍図を以下に示します。
出典:新修 豊中市史 通史1 豊中市大字小字図より

新修 豊中市史(通史1)豊中市大字小字図を加工
福井・岡山方面からは、能勢街道と、もう一つの重要な道である箕面街道を分岐させています。この街道は、ほぼ真北に伸び、豊中台地を一旦出て、谷に下りた少路・野畑村を経て、刀根山丘陵を越えて西国街道に接続します。この野畑村は、西国街道からの分かれ道を複数接続させており、要衝でもありました。刀根山には織田方の陣城もありました。

 一方、南側には穂積・服部村から小曽根村を経由し、東側へ向けて吹田街道を分岐させています。距離にして1キロメートル程で、目と鼻の先です。台地からは、ここも俯瞰できます。荒木の乱当時、先ずは、大坂本願寺との連絡・補給線を絶つ必要があるので、当然ながら福井・岡山地域は最重要地点になります。
 乱は長期化し、軍事的視点では、「1年近くをよく持ちこたえた」となりますが、経営的には、その間の収穫は途絶します。加えてその地の収穫のための水源や設備も失っており、地盤を持つ人々や武将は、友軍からの補給で食いつないでいるに過ぎません。

軍事行動は、政治目標の達成手段ですので、守るにしても、この軍事の全体構想(計画)が、勝算が高くなければならず、そうでなければ知行を得ている武士も、生産をする農民も、それに関わる領民も、一年間にも及ぶ無収入には耐えられません。
 包囲も籠城も、最終的に相手の経済破壊か、経済を保護するための籠城かの衝突(戦争)です。軍事は、政治の一部ですので、その目標達成までの軍事方策から、様々な意図が読み取れるように思います。

新修 豊中市史より
◎農業生産に必要不可欠な「水」の重要性について

ここで、水の大切さについて、この当時と現代社会の捉え方に少々の違いがありますので、「水」について用水・水利を考えておきたいと思います。
 伝福井・岡山城のある所は、春日社領垂水西牧の管理者である今西家の本拠の至近に位置します。また、その用水を石蓮寺村・寺内村から引いています。
 一方、原田・岡山村などの耕作地は、「九名井(くめい)」の用水路を通じて、猪名川から取水しています。これについて、ご紹介します。
出典:とよなか歴史・文化財ガイドブックP50

--資料(4)-------------
【九名井】
九名井(原田井)は、伊丹市下河原の猪名川から取水し、伊丹市の酒井・森本・岩屋、尼崎市田能、豊中市の勝部・原田・桜塚・曽根・岡山の耕作地を潤した用水路です。
 大和国(奈良県)興福寺の僧尋尊が記した『大乗院寺社雑事記』には、寛正2年(1461)に六車庄(原田庄)と田能村(尼崎市)との間で水争いが起きたことが記され、すでに室町時代後半には九名井が存在していたことが確認できます。九名井は中世史料では「久米井」と表れますが、江戸時代になると「九名井」と書かれます。「九名」という漢字が当てられた由来は、原田村など9か村の地を潤していたことによるともいわれます。
 戦後、原田・曽根・岡山の住宅地化が進み九名井の役割は次第に低下していますが、九名井は数百年にわたり豊中中西部の村々の重要な水源となっていました。勝部では千里川と交差しますが、千里川は天井川で高い位置を流れているため、その下にトンネルが掘られ九名井が通っています。
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この九名井は、室町時代後半には存在していたことが確認されています。豊中台地の南端は、用水水系の境目でもあり、運営や管理において、繊細な地域でした。

◎水の大切さを知る聞き取り調査
また、水の重要さについての民間感覚を知ることのできる貴重な聞き取り記録がありますので、ご紹介しておきます。
出典:とよなかの史跡・余話(水とくらし・街道など)P76

--資料(5)-------------
九名井(勝部地区)
とよなか歴史・文化財ガイドブックより
【原田の用水について語る】
洗堰の保守と清掃の日は、4月末になっていて、その日は水利組合の組合員全部の農家から、鋤簾(じょれん:川や用水路を浚える道具のことで、竹のめの入った鍬の形をしているもの。水の中から砂利や砂のみを浚うのに使う道具)、竹雙木(たけそうき)、鍬などを持って集まりました。この日は農家から男頭(おとこかしら)が大勢集まるので、「百人普請」といっていました。原田からは50人程度が出かけました。だからこうした普請の全体指揮は、水利組合員の人数・反別の最も多い原田の区長が執っていました。
 洗堰は、猪名川を幅200メートル程の長さで築かれています。蛇籠はあらかじめ神津村(口)酒井の竹屋が頼まれて編んでいました。猪名川の両岸には竹藪が多かったので、材料の竹は簡単に手に入ったものです。蛇籠は一つの長さが約2間(3メートル60センチ程)あり、河原の小石を中に詰めると、それを打ち込んである松の木の杭の間に水の流れを止めるように並べて置いていきます。だいたい一ヶ所に四段くらい積みます。旱魃は水不足になり、水の一滴は血の一滴といわれるほどの問題になることがありました。それは水争いになるということで、各村々にとっては米の取れ高を左右する重大事でした。このような場合、慣行水利権というものがあり、どこにどのように流すか、決まっていました。旱魃になると、田が枯れないように一滴に水でも確保しようとして、水を流す樋門の開け閉めをめぐって争いになることもありました。
 明治30年(1897)から大正5年(1916)までかかって裁判で和解した歴史もあります。この時の裁判は和解になったのですが、九名井の一つ岩屋村では裁判費用に困り、夜なべ仕事に草履(わらじ)を作り、それを売って費用を捻出した家もあったと聞いています。水利権を持っている方は、下流に対して強く、下の田の人は、上田(かみだ)の家に頼んで分水してもらうのが普通ですが、日照りになり水不足が続くと、慣行通りにならないことが起きるということで、なんとかして田が枯れないようにお互いの助け合いもよくしたものです。特にむかしは米作りが主な所得でしたから、用水は飲み水とは比べものにならないほど重要で、「生まれてきても、水下(みずしも)に生まれるな」と言うほど、水は生き死にを決めるものであり、嫁にとつぐのも水下には行かさないといわれたものです。今は田が無くなってきて、住宅がいっぱい建っています。これまでのように猪名川からの用水のことを心配したり、水不足で騒いだりするようなことはなくなりました。
(1995年9月聞き取り:原田元町「豊中市立教育研究所:研究紀要第100号 第二集『聞き書き』水とくらし」)
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そこには、大変興味深い記述があります。「用水は飲み水とは比べものにならないほど重要で、「生まれてきても、水下(みずしも)に生まれるな」と言うほど、水は生き死にを決めるものであり、嫁にとつぐのも水下には行かさないといわれたものです。」と、水への強烈な想いを知ることができます。
 このような社会と文化は、つい最近まで続いていましたが、近年は急速にこのような伝統的生活から離れつつあり、理解も遠のきつつあります。

◎史料に見える福井・岡山村の豪族などの有力者
春日社領の管理者(神人)である今西家の年貢の記録「御神供田服部村御内検帳事(天文5:1536)」に、福井の与三郎・同次郎衛門・同弥三郎・同九郎二郎・同藤五といった人々の名がみられます。また、「南郷御供米切出分注文(天文15)」には、福井勘兵衛という人物の給分(代理徴収)として1石があげられており、その後の同家の記録には、福井村出身者の名が度々記録されています。
 一方、岡山村にも同様の有力者が存在したと思われ、「御神供米方々算用状(天正4:1576)」に、岡山の孫九郎の名が現れます。ここには、原田孫衛門の名も見えますが、福井村出身者の名はありません。
 この記録に現れる「福井」とは、嶋下郡(現大阪府茨木市福井)ではなく、記録の特徴からして、近隣の集落が多く、遠方の給人の場合は、いちいち注記がある規則性もあり、豊嶋郡の福井であると考えられます。
 それからまた、当時の一次史料に原田氏と共に福井三郎なる人物の名が記されています。永正5年(1508)と比定される、8月10日付の管領格細川澄元が池田太松丸などの有力者へ宛てた音信です。
出典:新修広島市史6(資料編 その1:知新集)P222、戦国期細川権力の研究P207+234、歴史研究(戎光祥出版)724号P77

--資料(5)-------------
宛先:摂津国人三宅出羽守、宿久若狭守、瓦林九郎左衛門、原田豊前守入道福井三郎、池田太松丸、芥河豊後守入道
内容:毎々申し遣わし候。其の方儀、油断無く相調えられるべく事肝要候。此の方の事は、別儀無く候。猶与利弥三郎(不明な人物)申すべく候。謹言。
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この中で、原田豊前守入道に続く福井三郎なる人物は、原田氏の近親者としての福井氏である事を感じさせます。この場合の「福井」は、同じ宛先として、三宅出羽守・宿久若狭守も見える事から、嶋下郡である可能性もありますが、書き分けられていると思われ、やはり豊嶋郡の「福井」であろうと考えられます。
 やはり、嶋下郡福井・岡山村には有力者が居り、しかも原田氏と一体的な関係性も感じさせる人的つながりも割と古い時代から持たれていたと考えられます。

◎まとめ
現実があり、軍事行動は、その中にありますので、それは「経世済民」の大きさと深さを、どこまで考えているのかが、勝敗の結果に直結しています。それが協力者を得る重要な要素です。
 戦争は、領内(領民)経済をどのように担保するのかの力量であり、決して個人の取り分や分け前だけの問題ではなく、社会的地位により、その目標と役割は変化していきます。逆に考えれば、攻められる側は、命と全てをかけた抗戦ですので、死力を尽くして挑んできます。
 戦術は、この間の駆け引きですので、城や合戦場所には、大きな意味があると思われます。その意味では、伝福井・岡山城の存在探索は、重要な視点になると感じています。同城は、それらの状況を考えた時に想定できるのは、やはり原田城と補完関係を持つ、一体的な城として、荒木村重の乱以前から存在したのではないでしょうか。

新修 豊中市史 通史1より
例えば、原田城跡からどちらに向いて視界が開けているのかを示した解析図があります。それによれば、原田城からは、やはり主に西向きで、東から南側は死角が多くあります。
 それからまた、原田村から曽根・福井・岡山村の字名を確認すると「本陣山」という小字名があります。ここは今の「ウェリス豊中曽根」という集合住宅のある一帯で、曽根村の東側に隣接(若しくは村の一部)する立地です。かつてここに、陣所があったことが想定されます。また、その北側には「二ノ丸」という小字もあります。

資料(3)でご紹介した、原田城主の子孫である野口氏が語った「殊に岡山は古田左助殿御陣所に成候」とは、この本陣山ではないでしょうか。また、「荒木氏御退治時当城より見付のかまひいに成によって家とりはらはれ」とは、原田城と同様に、拡張して再利用したのではないかと思われます。
 この事から、やはり原田城の死角を補うように南側への監視施設を設けていた事をうかがわせ、伝福井・岡山城は存在して、豊中台地の南側縁辺を警戒する意図があった可能性は高いように思われます。
 江戸時代になっても、この地は旗本の領地(畠山飛騨守(福井)・船越駿河守(岡山))として明治維新まで政策として維持されており、やはり、要地として認識されていたことは間違いないように思います。

大阪府豊中市曽根西町2丁目11付近が、小字「本陣山」

曽根村内の地図記号「卍」が法華寺の位置:明治42年(1909)測図


2026年7月26日日曜日

荒木村重の重臣でもあった摂津国人北河原氏(与作)について考える

摂津国と河内国北半分を領した戦国大名荒木村重の重臣として活動していたとみられる北河原氏は、あまり資料が無く、個人的にも気になっていた人物(一族)です。その本拠地は川辺郡の伊丹城のすぐ北側にあった北河原村と考えられています。
※兵庫県の地名1(平凡社)P410

明治42年(1909)測図当時の北河原村
--資料(1)---------------
北河原村(伊丹市北河原、北伊丹2丁目、北本町3丁目):
伊丹郷の北側、猪名川と駄六川に挟まれた低湿地にある。北川原村とも(延宝5年「巡見絵図」篠木家蔵ほか)。慶長国絵図に村名がみえ、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では天津北河原(あまつきたがわら)とする。正保国絵図(京都府立総合資料館蔵)は「天津ノ内北河原村」「天津村」と天津村を枝郷とする。天津村を含んだ石高は慶長国絵図435石余、摂津一国御改帳325石余、正保郷帳328石余。摂津一国御改帳では幕府領建部与十郎預地、寛永3年(1626)大坂城代阿部正次領となり、慶安元年(1648)幕府領に戻り、同2年大坂城番安部信盛(武蔵岡部藩)領。延宝6年(1678)分家の旗本安部領となり明治維新を迎える(伊丹市史)。天保5年(1834)猪名川対岸の森本村が水不足のため同川からの取水溝を深く掘ったが、当村が溝を埋めたことから争論になり近隣の村が仲裁に入り内済した(「天保凶作記録」小坂田村文書)。明治15年(1882)の戸数24・人口108(県布達丙7号)。産土神は郷町の野宮(現猪名野神社)で天津村とともに神事割を負担(「正心調法記」武田家文書)、元禄16年(1703)神輿が巡行している(有岡庄年代秘記)。江戸後期には大和大峰山の行者講があり講田をもっていた(「行者講勘定帳」「道中控」行者講文書)。講は昭和16年(1941)に中断したが、同32年に再興された。ほかに八幡宮があったが大正4年(1915)猪名野神社に合祀。浄土宗来迎寺がある。
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◎摂津国川辺郡の北河原氏に関する故地が豊嶋郡石蓮寺村にもある
永年、私も上記のような知識のままだったのですが、猪名川・藻川を東に渡った豊嶋郡側にも、北河原氏の故地があることを、最近知りました。
※大阪府全誌3(清文堂出版)P1284

明治42年(1909)測図当時の石蓮寺村
--資料(2)---------------
摂津国豊嶋郡小曽根村大字石蓮寺条:
(前略)興法寺は字蓮垣内にあり、利生山と号し、真宗西本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。当国川辺郡橘御園庄今福里に、六孫王経基の後裔源道悟なるものあり、承元元年(1207)3月圓光大師教化の際に発心剃髪し、ついで見真大師に帰依して道宗と法名し、同地に一宇を創立したるも、元亀元年(1570)8月石山戦争の時、織田氏の家臣来たりて同里を焼きければ、遁れて本地に来たり、乱定り後堂宇を再建せしもの即ち当寺にして、後慶長10年(1605)住職祐宗檀徒の協力を得て之を再建せり。境内は302坪を有し、本堂・庫裏・書院・土蔵・鐘楼・薬医門を存す。
【北河原与吉兵衛の宅址、北河原与茂作の墳】
北河原与吉兵衛の宅址は西方にあり。東西32間・南北33間の地なり。氏は荒木村重の家臣なりしが、同僚と隙ありて本地に隠れ、居を此に占めしという。其の子北河原与茂作の墳は、また人家の西端竹林中にあり、周囲30間・高さ1丈余りの封土にして、裡(うら)に多宝塔に似たる一個の石碑ありて文字なし。与茂作荒木氏の滅びし後、池田備後守に仕え慶長2年(1597)朝鮮の役に従いて屢(しばしば)軍功を立てしが、一日身に不祥のことあり、自覚して曰く、我命旦夕に迫るの兆しならんと。即ち鬢髪(びんぱつ)を剪り、義子本阿弥に告げて曰く、我已(以て)不吉の兆しあり。外土の枯骨となるらん。汝凱旋帰朝するを得ば、之を遺族に附与せよとて決別し、其の身は軍に臨み、奮戦数合、被矢恰も蝟毛(いもう:ハリネズミの毛)の如く、流血淋漓(りんり:滴り落ちる様)歩する能わず、終いに斃る。実に8月23日なり。本阿弥養父の遺物を持して郷に帰り、具に其の状を一家に語り、其の頭髪を此に埋めて其の冥福を祈りしと。事は載せて北河原氏の旧記にあり。(後略)とある。
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この具体的な場所が不明なのですが、興法寺が慶長10年(1605)に移ってきたとある事から、この辺り一帯は欠所地のようになっていて、そこが北河原氏の縁故地かとも考えたのですが、『大阪府全誌』では、両方の存在要素を記述してあるため、別々のものとも思われます。字石蓮寺村の西方とあった、やはり村内の西側という事なのだろうと考えると、若竹池に沿ったあたりなのかもしれません。この池より西は、低地で谷となっており、それを経て福井集落があります。

ここでちょっと、もう一つ別の地誌で石蓮寺村についてみてみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P276

--資料(3)---------------
石蓮寺村(豊中市若竹町1-2丁目、服部緑地):
小曽根村の北にあり、同村の枝郷(元禄郷帳)。村域は千里丘陵を含み、集落(若竹町1丁目)は丘陵から低地に移った菰ヶ池・中池・若竹池の東側に展開している。村名の基となった寺院石蓮寺は天平年間(729-749)創立と伝え(大阪府全誌)、その寺跡が現若竹町1丁目に残る。天正7年(1579)3月13日、滝川一益が摂州石蓮寺郷中に対し禁制を出しており(渡辺家文書)、小村の形成が認められる。慶長10年(1605)の摂津国絵図には「関連寺」がみえるが単独の村高は不明。元和初年の摂津一国高御改帳では小曽根村1885石余の中に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳に村名がみえ、高20石余。領主の変遷は小曽根村に同じ。村高が少なく、面積は合わせて1町6反余。しかし他村高持分が多く、服部村2石余、北条村(きたじょうむら)2斗余と5ヶ村計135石余に達している(宝暦8年「村明細帳」今西家文書)。これは当村の戸数が多いのにかかわらず耕地が少なく、集落部分だけが南へ突出していて集落周辺が他村耕地によって囲まれていたためである。前掲村明細帳によると家数80、うち高持67、水呑13。鍛冶屋3、樫屋3、紺屋2、医者2、牛12。天竺川に沿った丘陵上に山ノ池(南北西側で103間、東西北側で82間)という巨大な溜池が存在しており、貞治元年(1362)にはすでに築造されていた(豊中市史)。浄土真宗本願寺派興法寺は「永禄年中摂州川辺郡橘御園之庄今福村より当村へ引寺仕候」という(前掲村明細帳)。
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新修 豊中市史(古文書・古記録)より

ここには、北河原氏についての記述はありませんが、この村に隣接している巨大な池は、貞治元年(1362)には既に築造されていた事がわかり、用水についての重要な役割を持っていたであろう事が判ります。

◎北河原氏が実在した事を証明する史料
さて、そんな環境で生きた北河原氏ですが、武士としての活動を資料から見たいと思います。当時の一次史料が少ないながら存在します。年記を欠きますが、天正3年(1575)以降(村重が「摂津守」を名乗るのは天正3年8月以降であるため)と推定される、中川清秀から「北但」への音信があります。この「北但」とは、個人的に北河原氏ではないかと推定しています。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P27

--資料(4)---------------
観世彦右衛門尉豊次知行分之儀、荒摂(荒木摂津守村重)申し付けられ候間、筋目を以って其の分為るべく候。貴様百姓中此の通り申し付けるべく候。恐々謹言。
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続いて、同じく北河原氏へ宛てた毛利輝元一族小早川隆景からの音信です。天正7年(1579)と推定される2月28日のものです。
※伊丹史料叢書2(伊丹中世史料)P118

--資料(5)---------------
未だ申し通さずと雖も候。啓せしめ候。抑も荒木摂津守村重公儀に奉対され、御忠勤之故、存じ之外大利を得本望候。此の方之儀、追々出勢せしめ之条、御本意■有るべからず候。其の内所々堅固御才覚専一候。向後別して申し談ずべく候。恐々謹言。
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また、非常に気になる一次史料があります。荒木村重の先代、すなわちその父の可能性がある荒木信濃守勝重なる人物が、北河原氏らしき「北與」に宛てて音信しています。文中に「善」なる人物も現れ、これも北河原氏の一族だと思われます。年記未詳の2月14日の音信(返報)です。
※豊中市史(史料編1)P126

--資料(6)---------------
前置き:尚々善(北河原右善?)へも以別帋可申入候へ共、御意得候て御演説所仰せ候。
本文:如仰久敷不申承不断御床敷令存候。折節御懇御状本望之至候。随而此間者弥介(村重)方に長々逗留仕候。内々に我等も可参心中之候処難去用所共候て不参御残多存候。此由北右へも被仰候て可給候。次以前承候南郷(摂津国垂水西牧)知行分事、勝正折帋之儀も可相調候へ共、無紛儀候者、可為有様候之絛可御心安候。殊に彼庄之事者同美(荒木美作守宗次)存知之由にて候之間、被仰様体委可申聞候。其方之儀不苦候者、北右善へ被成御同道、ふと御出奉待候。我等もやかて可参候。急申候間此外不申候。恐々謹言。
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先ず、この史料の年代比定をしないといけないのですが、結論から言いますと、永禄8年(1565)かその前年ではないかと思われます。

詳しくは、過去記事の「荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について」をご覧下さい。

更にもう一つ。これも年記未詳の史料で、6月13日付けの音信です。天文年間後半(1554年か)以降のものではないかと思われます。三好筑前守長慶の奉行人ともされる人々の中に、北河原長盛という人物がみられます。
 史料は、寺町通以・東村治清・北河原(瓦)長盛・石成主税助友通が、上孫左(不明な人物)・摂津国三島江柱本惣中へ宛てて音信しています。
※高槻市史3(史料編1)P222

--資料(7)---------------
御折紙披閲せしめ候。仍て堤足之島之事、即ち披露申し候処、彼方従り申され於者、御上使出され、有様仰せ付けられるべく之旨候。其の間之儀者、猶以て堅く押し遂げられるべく候。相替え儀候者、注進有るべく候。恐々謹言。
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【資料7】は【資料6】の時代を更に溯ると思われ、北河原氏は史料上は目立たないながらも、当時は各所で取り立てられる有能な人物だったようです。

◎北河原氏の地域武士としての繁栄の終焉
このように北河原氏は、荒木村重と行動を共にし、実在していた事は確かな人物です。その他、北河原氏についての記述は、いわゆる軍記物に度々登場します。『信長公記』に有岡(伊丹)城が落ちた後、村重一党が処刑されますが、その内訳に北河原氏の家族が記述されています。天正7年冬の事です。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P281

--資料(8)---------------
伊丹城相果たし、御成敗の事条:
(前略)12月16日、辰の刻(午前7〜9時)車一両に二人づつ乗りて、洛中をひかせられ候次第。(中略)五番(35歳)宗察娘(伊丹源内ことを云ふなり)伊丹安大夫女房、此の子8歳。(17歳)瓦林越後守娘、北河原与作女房。(中略)此の外、車三両には子供御乳付々7〜8人宛て乗られ、上京一条辻より、室町通り洛中をひかせ、六条河原まで引き付けらる。(後略)
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上記によると、北河原与作の妻は、瓦林越後守の娘だったようで、重臣同士の姻戚関係が結ばれ、強固な団結体制が窺えます。また、『大阪府全誌』にある伝承によると、北河原氏は荒木氏の滅亡後、池田備後守知正に仕えたとあります。本人は落ち延びたのでしょう。ちなみに、この池田備後守は、荒木久左衛門と同一人物と考えられ、彼も落ち延びています。
 更にまた、同じく池田備後守に仕えたと伝わる上月(赤松)十大夫政重なる人物が存在します。政重が22歳の時、天正17年(1589)に、親戚を因んで池田備後守被官となったようです。この上月氏は池田の「五人之家老」の一人で、上月角■(右?)衛門と浅からず関係があったと思われ、地域社会に影響力のあった人物と思われます。川辺郡荒牧の上月氏に続いていると考えられます。

詳しくは、「池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆」の過去記事をご覧下さい。

◎北河原氏の地域武士としての活躍

それから、武士としての活躍が、『陰徳太平記』に記述され、内容も詳しい事から身分の高い人物であった事をうかがわせます。元亀2年(1571)8月のことです。
※陰徳太平記3(東洋書院)P268

--資料(9)---------------
白井河原合戦並びに高槻荊木両城合戦之事条:
(前略)相続く士には、中川瀬兵衛、池田久左衛門、安部野仁右衛門、星野左衛門尉、山脇加賀守、同源太夫、野村丹後守、藤井加賀守、荒木善太夫、同善兵衛、伊丹勘左衛門、瓦林越後守、秋岡次郎太夫、本庄新兵衛、粟生伊織、安都部弥一郎、北河原新五同与作同与一右衛門、福田午介、佐伯庄右衛門等皆武功度々の勇者にて、何れも足軽の大将也。(後略)
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同太平記から、天正年間の別の出来事を引用します。
※陰徳太平記4(東洋書院)P134

--資料(10)---------------
荒木村重属信長並村重讐敵事条:
(前略)折しも天正元年(1573)、(中略)荒木村重は兼ねて此の謀を聞きたりける故、荒木善太夫、同善兵衛、佐伯庄右衛門、安部仁右衛門、山脇加賀守、同源太夫、星野新左衛門等に下知して、一人も残さず討ち果たす。渠等が家人一人村重に切り懸かりけるを、村重時節(おりふし)白井河原にて蒙りたりし手疵の癒えざりければ、矢手に刀を刺しけるを、弓手にて抜き打ちに切り殺しけり。尚も余党共池田に在りければ、即時馬に打ち乗り押し寄せける間、中川瀬兵衛、河原林越後守、藤井加賀守、安部仁右衛門、安部弥一郎、佐伯庄右衛門、星野新左衛門、山脇加賀守、同源太夫、福田午助、北河原新五同与作、秋岡次郎太夫、本庄庄右衛門、大田河内守、毛利兵吉、門田民右衛門、大藪新右衛門、荒木新右衛門、同太郎右衛門等、各々策鐙(むちあぶみ)を合わせて馳せ続き、刹那が間に池田へ着き、残党の館へ押し寄せ押し寄せ、悉く打ち果たす。
(中略)
同2年(1574)荒木村重が舅北河原三河守は、伊丹兵庫頭か第一の家臣なりけるか、其の頃伊丹に荒木矛楯に及びければ、兵庫頭三河守に対し掌に疑心を抱きけるか、されとも伊丹か家人ども多く三河守か一族又は外戚のものともなれば、兵庫頭も左右なく渠を討事も叶わずとかく思案に煩いて有りけるが、今一人の家人野間勘太夫を近附け三河守定めて味方の謀策などを皆聟(むこ)の荒木に告知らすらんと覚ゆるは如何に。去りとて歴然たるしるしのなからんには誅せん事も世の舌頭の謗(そし)りあり。所詮汝等が所業にもてなして渠を追い出し候へと下知しければ、野間勘太夫承りてやがて伊丹市正・同越中守兄弟が内談して其の面々の宿意に詫(こぞっ)てついに北河原を追い出しけるを、三河守は聞ゆる剛の者なれば追い返して散々に戦いける。三河守第三の舎弟北河原市允とて当年20歳の若武者大太刀引き提げ馳出し戦いけるが、向かう敵20人迄ぞ切り倒しける。爰にへんじて右衛門というもの長刀振りてかかりければ、市正屹(きっ)と見て誠に蟷螂か龍車に向かうとは汝が事なり。我に合わぬ敵なぢといえども、相手をきらうにあらざればかかれ勝負を決すべしといいもあへず飛びかかって細首中に打ち落とす。其の兄与吉は六島か男子生け捕り人質として各一所に切り破り、池田勝入を頼りてありけるが、其の後猪名寺に城を構えて伊丹を攻めんと擬議しけり。伊丹兵庫頭此のよしを聞きて、同3月中旬猪名寺へ逆寄せにして攻めける間、三河守も打て出、数人切り伏せ比類無き働きすといえども多勢の敵に叶わずして終いに其の所にて討死す。かかりける所に荒木謀臣の為に討たれたりという風説ありければ、北河原のもの共弥々力落とし妻子悉く茨木へ落ち行けり。村重聞きて安からざる事に思い鎧とって打ち懸け、続きやもの共とて馳出しければ、例の中川等のものとも追々に馳せ着き伊丹の城へ押し寄する。池田よりも2000余人加勢しける間、伊丹叶わずと思い城を開けて逃げ去りける。かくて北河原の一党悉く村重の手に属す。(後略)
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文中にある「茨木へ落ち行けり」との条件は、早くとも元亀2年(1571)10月頃以降から、この状況は天正元年(1573)夏頃まで成立します。続けて記述は「池田よりも2000余人加勢」ともあるので、天正元年(元亀4年:改元は7月28日)以降、村重が伊丹城を落とす直前の天正2年頃の動きを割と正確に伝えているかもしれません。
 一方で、上記の軍記物である『信長公記』『陰徳太平記』にも、北河原与作は共通して現れます。その他一族の人物名も見られ、それらは若干の差はあるものの、人物名は概ね正しく伝わっているのかもしれません。

開発前の今西氏屋敷周辺
ふるさとの思い出(107)写真集豊中
◎まとめ
映画「黒牢城」は荒木村重が主役で、その周辺人物として北河原与作も取り上げられています。資料をみると、この人物は実在したのかもしれません。また、この家系は「与」を通字としているようです。荒木一族にも「与兵衛尉」など「与」を通字にしている一派もみられ、両者は何らかの共通点があったのかもしれません。
 北河原氏のこの豊嶋郡への関連は、小曽根村に奈良春日社領垂水西牧目代今西家が、池田氏と荒木氏は、代々密接に関わっています。また、この今西家の第36代春房の妻は明智光秀の娘で、同時代に村重と、この三者は縁続きとなっています。村重の嫡子村次の妻も明智光秀の娘です。
 そのため、池田氏から村重の時代に移っても、田畑の用水確保地として重要であった石蓮寺村(東隣の寺内村も同様)に、重臣であった北河原氏の一派を置いていた可能性があります。そもそも【資料6】によると、永禄8年頃には「北与」が南郷を知行しています。
 村重が織田信長との闘争に敗れ、地域を去った後、その欠所地に興法寺が入って用水管理の何らかの役を代行したのかもしれません。この石蓮寺村が重要視されていたと考えるのは、天正7年3月13日付で、滝川一益が同郷中に宛てて禁制を下しています。
※新修 豊中市史(古文書・古記録)P274

--資料(11)---------------
当手軍勢甲乙人等、乱暴狼藉一切非分之事、堅く停止せしめ訖ぬ。若し違犯の輩於て者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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そして、同地には、その後も度々禁制が下されています。天正10年(1582)6月7日付の明智光秀、慶長5年(1600)9月23日付の福島正則など連署、慶長19年(1614)10月18日付の松平(池田)利隆、同年10月付の板倉勝重、同年同月18日付の豊臣秀頼、同年11月6日付の羽柴(森)忠政、同年同月13日付の徳川家康、同年12月11日付の酒井忠世など連署があり、この地がいかに重要であったかが判ります。
 『新修 豊中市史』によると、石蓮寺村は豊中台地の南端にあり、すぐ南は低地となっているので、大坂城、尼崎、生駒山が見晴らせたと思われます。東は吹田村や淀川・神崎川の川筋の村々に隣接し、多田銀山と大坂を繋ぐルート近くにも位置していました。、と分析されています。
 また、西接している福井村にも城があったと伝わり(現豊中市城山町)、その遺物もみられます。このような地勢は、室町・戦国時代にも変わること無く、重要な地であった事は間違いありません。ですので、伝承にある「隙ありて本地に隠れ、居を此に占めしという」とは、北河原氏は、元々ここに居た可能性もあるように思われます。隠れるといっても、伊丹城や北河原村から直ぐそこの距離ですから。

明治42年(1909)測図当時の集落位置関係


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2022年8月13日土曜日

摂津原田城についてのご紹介(城主(土豪)とともに城館の変遷がわかる遺構としては大変貴重)

16世紀後半の推定復元図
16世紀後半の推定復元図
摂津国豊嶋郡内にあった、原田城について、詳しく取り上げていなかった事に今さら気付き、先ずは記事を作った次第です。
 それについて、豊中市教育委員会発行の『原田城跡(豊中市指定史跡)・旧羽室家住宅(国登録有形文化財)』という案内パンフレットが、非常に端的に、簡潔にまとめられて分かりやすいので、こちらから抜粋してご紹介できればと思います。

摂津原田氏とその城について考える」という、特集も中途半端に終わっており、これを機に、完成させたいと思います。

原田氏は、能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場するのが、1279年(弘安元)のようで、池田氏とほぼ同時期に頭角を表して来るようです。原田氏は北から南下、池田氏は南から北上して、最終地に定着するという、イメージです。また、応仁の乱を経て、次第に経済・軍事力の差がつき、池田勝正が池田家の惣領となる1563年(永禄6)頃には、池田家の被官的情況に変化しています。また、池田勝正も原田城に度々入っていて、池田とは一心同体の存在であったようです。姻戚関係なども持っていていたのかもしれません。非常に親密な行動を互いに取っており、池田城が攻められたり、落城する時には、運命を共にすることも多くありました。

個人的に思うのは、推定復元図は印象的ですが、私が史料を見ていく中では、若干違和感も感じなくは無いです。しかし、どこかの情況で、このような視覚化は必要ですから、その均衡を保つのは至難とも言えますね。それもこれも、科学の継続が答えを出してくれることでしょう。兎に角、今後に期待です。

さて、そんな原田城について、以下、案内パンフレットの内容です。
※文章・絵・写真の全ては、案内パンフレットからです。

◎はじめに
原田城跡(北城)は、1963年(昭和38)、当時の豊中市文化財保護規則により市史跡に指定され、1987年(昭和62)の豊中市文化財保護条例の施行にともなって、あらためて市史跡に指定された中世城館です。
 「城」というと、天守閣がそびえ立つ江戸時代の城郭、あるいは山そのものを要塞にする戦国時代の山城をイメージすることでしょう。しかし、原田城跡はそうした大規模な城郭ではなく、原田・曽根一帯を中心に活動した土豪原田氏の居城で、いわゆる「小規模城館」と呼ばれるものです。


◎北城と南城

原田村には、北城と南城という二つの城がありました。江戸時代末期に作成された絵図(『文政七年原田村絵図』)を見ると、原田村の中に南城跡を示す四角形の堀跡が描かれています。南城は、発掘調査によって16世紀後半に内堀と外堀が掘削されたことが確認され、その範囲と位置が推定されています。
 一方、北城については「北城跡」と記され、その一帯には松林が描かれています。北城についても発掘調査によって鎌倉時代に築かれたことがわかってきました。

◎北城の構造

北城は、豊中台地南西端の丘陵にあり、南西に広がる平野を一望できる絶好の位置に立地します。その丘陵の東側には、南北140m・東西120mの城域を示すように、「ヨ」字状の外堀が巡らされています。丘陵先端にある約50m四方の主郭部は、荒木村重の乱が起きた16世紀後半に、幅15m・深さ5mもある内堀を巡らすなど、大規模な改修を行って守りを固めています。
出土した巨大な堀跡
 主郭部の内側には、現在でも高さ1.5m〜2.8m・幅5〜10mの土塁が残っているほか、東側と南側にもその痕跡が確認されています。
 主郭内部の発掘調査では、数多くの柱穴や疎石痕が確認されており、土豪の居宅に相応しい家屋が建てられていた可能性があります。また、焼けた壁土や廃棄された土坑、3層にわたる焼土層があることから、数回の火災があったと考えられます。
16世紀後半:荒木村重の乱の頃

◎北城の築城と原田氏

原田氏は、1279年(弘安元)に能勢一帯に君臨した多田院御家人の一員として、はじめて記録(『多田神社文書』)に登場します。一方、北城は13世紀後半から14世紀初頭のうちに築かれたことが、発掘調査で出土した遺物から推定されています。
 1344年(康永3)に、原田氏は大炊寮(おおいりょう)の所領である六車御稲(むぐるまみいな)の年貢を押領するなど、徐々にその力を蓄えていきます。15世紀中頃には原田一帯を支配する土豪に成長すると共に、室町幕府の管領(将軍の補佐役)で、摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれ、戦乱の世に巻き込まれていくことになります。
16世紀中葉から後半頃の勢力図

◎北城の廃城とその後の原田氏

1547年(天文16)、細川氏の内紛で細川氏綱側についた原田氏は、その敵である細川晴元の大軍に攻められ、北城は落城しました。これにより北城は廃城し、興廃していったことが推測されます。16世紀後半には南城の堀が掘削されていることから、これ以降、原田氏は南城を中心に活動していたとみられます。
 また、荒木村重の乱では、織田信長方の古田織部と中川清秀が北城に陣を構えたようです。1994年(平成6)に行われた発掘調査からは、16世紀後半に大改修が行われ、一時的に城として使われたことが明らかとなっています。
 慶長年間(1596〜1615)には、北城・南城とも廃城し、原田氏の多くは豊後国直入(なおいり:大分県竹田市)などへ移り、現地には土塁や堀跡、伝承だけが残されました。

◎原田城跡のもつ意義
戦国時代には、織田信長のように華々しい活躍が伝えられる武将が多くいます。それら戦国武将の活躍を支えた人々の中には、中世の村を基盤に活動する土豪たちがいました。原田氏も、戦乱の世に生きた土豪の一人でした。
 このような土豪たちは記録の中に数多く見出され、豊中市内では芝原(柴原)・熊田(熊野田)・利倉など、村の名前を冠した土豪が知られています。彼らが活動の拠点とした城館で、堀の配置が復元できる事例は、大阪府内では原田城跡以外にはあまりなく、さらに城主である土豪とともに城館の変遷がわかるものは、今のところ他に見られないことから、原田城跡は非常に貴重な史跡であると言えます。


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2015年2月11日水曜日

摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)

今も戦国時代も「お金」です。それのみで社会は構成されていませんが、やっぱりお金は、生活する上で重要な要素である事は、現代社会と同じです。ただ、戦国時代と現代との違いは、問題解決に武力行使を含めて解決するかどうか、です。
 そんなお金の事について、摂津池田家が、どのように収入を得ていたのかを考えてみたいと思います。ちょっとした経済学みたいなものですので、全てを網羅するのは難しいですが、少しずつ記事にしてご紹介するつもりです。

元亀2年(1571)の8月28日に、摂津池田家と和田伊賀守惟政が白井河原合戦(現茨木市郡付近)を行います。これに関連して興味深い動きがあります。
 白井河原合戦に至るまでには伏線があり、幕府方の和田惟政が同伊丹忠親と共に池田領へ侵攻します。特に和田勢は幕府からの支援も得て(というか幕府として)、千里丘陵の南北から攻め込んでいます。5月から8月上旬にかけて、特に南に力を割いて侵攻し、豊嶋郡の中南部を占領し、瀬川の南側辺りまで進みます。
豊中市小曽根に残る今西家
豊嶋郡中南部には、春日社の目代今西家があり、その管理地がある所です。ここは摂津池田家にとっても代官請けを任されている場所であり、重要な収入源のひとつです。
 元亀2年5月から8月の動きは、攻められる三好三人衆方池田家にとっては、重要な地域が切り取られる深刻な事態です。これは解りやすい明確な状況です。
 しかし一方で、元の摂津池田家当主で、幕府方武将としての池田勝正が、7月から8月にかけて、この地域に入っている事は明らかです。細川藤孝・三淵藤英と共に池田城周辺をも攻撃しています。
 そんな中、三淵藤英が春日社目代今西家へ宛てて禁制を下しています。永年の池田家との関係がありながらも、前年まで池田家当主であった池田勝正に禁制を求める事なく、南郷社家目代(今西家)は、7月26日付けで三淵から禁制を受けています。
※新修豊中市史(古文書・古記録)P273、豊中市史(史料編1)P122

-(史料1)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱妨狼藉之事、一、竹木剪り採り之事、付き立ち毛(農作物)苅り取り事、一、非分課役相懸け事、付き寄宿免除事、放火事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
-------------------------

そして、それには副状というか、附則のような補足の約束が付けられ、今西家に対して特別な配慮がされています。今西氏も判断に迷い、護るべきものへの憂慮を深めて、苦渋した事でしょう。7月26日付けで、三淵が春日社目代へ宛てて判物を下しています。
※豊中市史(史料編1)P123

-(史料2)-------------------------
御土居屋敷(今西屋敷)の儀、往古従り陣無きの由候。只今の儀者日暮れの間、向後之引き懸け成すべからず候。恐々謹言。
-------------------------

三淵が、禁制と判物を今西家に下す前、和田惟政が「摂州豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現原田神社)」に宛てて、禁制を6月23日付けで下しています。今西家への禁制と内容(項目)は同じです。
 ちなみに、和田から三淵にこの地域の主将が変わっているのは、和田は大和方面への対応も行っていたためで、7月頃は奈良へも出陣して、筒井順慶などの支援を行っています。
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史3(史料編1)P432

-(史料3)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り放火事、一、山林竹木剪り採り事、右條々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
-------------------------

現在の原田神社
さてしかし、これらの規範概念に附則を加えて、三淵は今西家に配慮している訳です。今西家にとっては、これまで永い間に渡って代官請の契約をしていた池田家が分裂し、敵味方となって争っているのですから、判断に迷うのは当然でしょう。しかも、それが自分の管理地内で起きている訳です。
 そして三淵が7月26日に禁制を発行した僅か6日後の8月1日付けで、新項目を加えて、三淵が新たな禁制を摂津豊嶋郡牛頭天王(現原田神社:大阪府豊中市中桜塚)へ宛てて発行しています。
 陣取りについての不測の事態を警戒しているようで、これらを正式に条文に入れるよう、今西家の周辺地域からも要望が出されていた事が判ります。
※豊中市史(史料編1)P122、新修豊中市史(古文書・古記録)P273

-(史料4)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱入、一、狼藉事、一、竹木剪り採り事、一、陣取りに付き殺生の事、一、矢銭・兵糧米相懸け以下非分課役事、一、国質・所質請け取り沙汰事、一、敵味方選らずべく事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
-------------------------

史料4の最後の条文、一、敵味方選らずべく事、とは、戦争に巻き込まれる事を何としても避けたいとの意思が伝わってきます。

一方、この場に確実に居た池田勝正についてですが、今西家はなぜ勝正に禁制を求めなかったかというと、一般的には、実効性が低いと見たためという方向性で考えるでしょう。
 しかし、その一番の原因は、この時の幕府(織田信長)による、地域利権の整理(経済政策)の動きが大きく作用しているとも考えられます。多分これは、幕府が一旦、池田家の領地を接収したものと考えられます。
 幕府が制圧し、その地域を欠所として接収し、その後に幕府が認めた権利というカタチで給分を然るべき者に下します。これは複雑で不安定な権利の整理を行い、中央集権的に管理を強化する政策です。

もし、白井河原合戦が和田惟政の勝利となり、垂水庄が幕府方に占領されていれば、勝正が再びこの地を幕府より与えられていた事でしょう。
 8月2日、池田城に対する相城(原田城などを再利用か)へ池田勝正が入ったのは、そういう意味があったと思われます。
※大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)

-(史料5)-------------------------
『元亀2年記』8月2日条:
晴、晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守勝正入城。
-------------------------

明治時代頃の原田城跡の様子
原田地域は、伊丹・吹田との連絡のために非常に重要な場所で、伊丹城へは手旗や光(鏡)、狼煙などで連絡が可能です。目視も十分にでき、戦前の軍事演習では、原田の丘陵から手旗で伊丹方面の友軍に連絡をしていたようです。幕府方は地縁のある勝正がここを守るのは適任と考えたのでしょう。もちろん、原田地域の有力者であった、原田氏とその関係者もそこには多く居ます。
 勝正と行動を共にしていた細川藤孝は、事態を楽観的に捉えていたようで、勝正と別れて勝龍寺城に戻り、翌日には歌会に出座したりしています。史料を見ても、確かに幕府方が有利で、そういう判断をしたのも無理はありません。
 しかし、三好三人衆方池田家は、この頃に着々と反撃の準備を行っていた事もまた、事実です。
 
さて、この時期の池田家は、どちらにしても、上位権力の体制内での勢力となってしまいますから、その上位政権の政策や意思に従う事になります。
 将軍義昭・織田信長政権についての政策研究は、脇田修氏や橋本政信氏の研究をお読み頂ければと思います。大変詳細に分析されていて、興味深い概念提示がされています。私はその説に大いに影響を受けています。

摂津池田家に対する領地の接収は、この時が始めてではありません。それらは追々ご紹介しますが、池田家が将軍義昭政権下に入ってから度々あり、それに耐えきれなくなった池田家中が、当主勝正に不満を抱き、内訌に至ったものと考えられます。
 尤も、その一点では無く、いくつかの要素があっての内訌理由ですが、不満の火種は経済問題であった割合が大きかったと思われます。生活が圧迫される、景気が悪くなる事は、解りやすい大きな問題である事は、今も昔も変わりませんから。





2014年3月15日土曜日

摂津原田氏とその城について考える(その1:元亀4年以前の摂津国原田城について)

原田城は池田氏の本拠地である摂津国豊嶋郡の中南部にあって、非常に重要な地域でした。そしてここには重要な街道も多くあり、また、その西側には猪名川、南側には神崎川も流れていて、それらの川は郡境で、原田は「境」に囲まれた地域でもありました。

さて、少し史料上に出てくる原田城を見てみましょう。年代順に並べてみます。

天文10年(1541)11月4日、細川晴元の重臣であった木沢長政が敵対するようになり、晴元方池田信正の関連地域を攻めます。この時に原田城を攻めたようです。ちなみにこれが、豊中市教育委員会によるところの原田城の記述に関する初見です。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P605

-史料(1)------------------------------
(前略)。同11月4日に打ち立て、池田城・原田城は三好方と一味なるにより、先原田城へ取り懸け責る所に、三宅出羽守、京の晴元へ帰参の噯い有るにより、木沢方聞き、原田城打ち置いて、一夜陣取りて河内へ帰られける。
-------------------------------

続いて、天文16年(1547)2月9日から細川晴元勢が原田城を攻め、同月20日に落しています。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P607

-史料(2)------------------------------
2月9日に四国衆、淡路衆、三好衆、畠山総衆、同遊佐、同木沢大和守、同弟都合30,000余騎にて摂津国原田城を取り巻ければ、則ち城内難儀なり。三好宗三(政長)を頼み噯いに成りて同20日に城を明け渡し也。
-------------------------------

それから近年、ちょっと興味深い戦国時代の人々の感覚的な要素が、研究で指摘されるようになっています。河内国守護畠山氏も含め、奈良・和歌山方面の研究を主にされている、田中慶治氏の著作の中で興味深い分析をされています。その興味深い一節を引用します。
※中世後期畿内近国の権力構造P282

-参考(1)------------------------------
中世後期の(大和国)宇智郡には、一郡・惣郡という意識があったものと思われる。この一郡・惣郡という意識が、宇智郡に独自性・独立性を与え、惣郡一揆の成立に影響を及ぼしたものと思われる。
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と見解が述べられています。これは、大変興味深い研究結果です。ただ、これが学会全体に認められた概念になっているのかどうかで、公的な認識は変わってくると思いますが、しかし、私も池田家の動きを見る中で、こういった気概が、その地域で活動する人々の中に無ければ、結束ができないと考えています。
 結束ができないと言うことは、集団での行動や経済活動、都市の形成と維持の全てができないと考えているからです。現代と違い、法律も行き届かず、個人の利益や自由、安全などを集団に委ねる必要があった室町時代では、現代よりもこういった結束意識は強かったと思います。また、そうでなければ、集団からはじき出された個人は、とうてい生きていけません。集団への帰属意識は半ば、生きるための基本的意識であったように思います。
 摂津池田家との意識の差がどのくらいあるのかという問題点があるのかもしれませんが、畿内地域での感覚は、それ程大差が無いように思います。田中慶治氏の研究は大変参考になりました。

さて、原田城に関する史料の紹介に戻ります。これは直接的な史料では無いのですが、天文18年(1549)1月24日に、細川晴元衆三好政長勢が、摂津国多田の陣から南下し、池田領内を放火するなどして打ち廻ります。市庭とは、池田城下の市場との見解もあるのですが、もう少し広範に打ち廻っていた可能性もあります。西国街道沿いの市場集落や原田方面にも及んでいたかもしれません。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P609

-史料(3)------------------------------
(前略) 一、同1月24日に三好入道宗三政長、摂津国多田衆引き催し候て、池田市庭放火する也。
-------------------------------

同年4月28日、細川晴元衆三好政長勢が、自分の息子が籠もる摂津国榎並の城の援護のために尼崎方面を放火などして打ち廻ったようです。この動きについては池田は重要な位置関係にありますので、何らかの役割を果たしていたのかもしれません。この時、晴元が一庫城に入り、後巻きに着いたのを確認して、政長は伊丹城から出陣しています。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P610

-史料(4)------------------------------
(前略)、同28日に取り出で打ち廻し、摂津国武庫郡中西宮まで放火させられたり。此の時淡路衆、尼崎に在陣候つれ共、無人数にて其の夜中に越水へ加わられけり。
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原田城跡の比高差の様子
同年8月24日から細川晴元に敵対する同族同苗の氏綱に与する三好筑前守長慶が、細川晴元方の拠点の一つになっている伊丹城を攻め始めます。この時、伊丹城の四方に向かい城を築いて持久戦体制を取ります。これに池田衆も参加していて、森本(現兵庫県伊丹市森本)に入ります。
 ちなみに、森本方面から真東に原田城があり、こことの距離は半里(約2キロメートル)程です。人間が歩いても30分程、馬なら10分足らずでしょう。また、視界も開けていて、ハッキリと見える距離で、手旗など信号も色々と送る事ができて、連絡が可能です。
 実際、戦前にこのあたりの平野で、度々陸軍の軍事演習が行われており、原田城跡あたりの高台の木に上って、伊丹方面の友軍に手旗信号で連絡を行っていた記録もあるようです。
 ですので、この一連の軍事行動でも原田城は、重要な役割を果たしていたいと考えられますが、直接的な史料は見当たりません。あくまで推測するしかないのですが、状況証拠を集めると、その推測の妥当性は高くなるように思います。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P611

-史料(5)------------------------------
一、伊丹城計り堅固也。同8月24日より対城拵え、東方は森本に池田衆、南は富松、前田城(場所不明)に淡路国衆、西は御願塚に三好方衆、乾は昆陽城に小河式部丞籠もられたり。此の分に候へども伊丹城より同郷へ夜々手遣いして百姓痛(?)と申し候也。とかく月日を送る也。(後略)。
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天文22年(1553)8月18日、丹波国に出陣中の池田衆の留守を衝いて、再度、細川晴元方である塩川国満勢が池田領内に入って打ち廻ります。この時は多分、池田城の周辺を打ち廻っただけで、それより南下する事はなかったと思われます。この頃には晴元方は、随分劣勢で、攻めたとしても大規模ではなかったようです。しかし、池田と一対の城である原田城も緊張感をもって備えていたことでしょう。
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P613

-史料(6)------------------------------
一、同8月18日、細川晴元方の牢人衆多田・塩川方衆一味して池田表へ打ち出され候といえども、存分成らずして、則ち明くる日帰る也。
-------------------------------

その後しばらくは、豊嶋郡の原田城下に差し迫った危機はないように思われ、あるにしても、その周縁部での事のように思われます。そのため、原田城に関連する項目は見当たらず、永禄9年(1566)まで時は下ります。
 5月28日、足利義昭擁立派であり、松永弾正少弼久秀与力である伊丹親興などの軍勢が、足利義栄擁立派三好三人衆方の池田勝正領内に攻め入ります。この時も池田勝正が軍勢を率いて堺へ出陣をしていた隙を突いての、池田領内の侵入で、陽動作戦のようでした。池田衆は敵の10分の1の300で反撃し、14名の武将を討ち取っています。
 多分、この時も池田衆の主力が堺へ出陣していたことから、その間の領内の防衛については、それぞれの城が連携していたいと思われます。概ね、池田城と連携する原田城も何らかの役割を果たしていた事でしょう。
※続群書類従29号 下 (雑部:永禄九年記)

-史料(7)------------------------------
6月9日条:
去月28日、伊丹・塩川・中島等人衆(数)3,000計り、池田押し寄せ、市場中付け散々相戦い、池田衆300計り切り出し、伊丹同道2人、塩川内衆彼是12人打ち取り云々。
-------------------------------

そしてその2年後の同11年9月30日、足利義昭擁立派である織田信長が、大挙して摂津国へ攻め入ります。池田衆は三好三人衆方として、城を頼みに唯一の籠城戦を展開し、敵に一矢を報います。
 しかし、大軍に囲まれ、救援の見込みもなく、勝正は奮戦したものの3日後には開城を余儀なくされます。
※言継卿記4-P273、多聞院日記2(増補 続史料大成)P91、群書類従20(合戦部:細川両家記)P629、信長公記(現代思潮社)P91

-史料(8)------------------------------
『言継卿記』9月30日条:
(前略)。今日武家摂津国芥川へ御座移され云々。勝竜寺・芥川の城などの城昨夕之渡し、郡山道場今日之破れ、富田寺外之破れ、寺内調え之有り、池田へ取り懸け云々。(後略)。
『多聞院日記』9月30日条:
(前略)。一、摂州悉く焼き払い、河州高屋まで今日は焼き払い了ぬ。山城国稲八妻昨夜退城了ぬ。城州、摂州、河州、隙開け、急度当国(大和国)へ人数越すべく歟。(後略)。
『細川両家記』
一、同9月30日に織田上総介信長50,000人計りで池田城取り巻き。火水と攻められ候処、城の内より切り出で14人討ち取り、其の外に手負い数百人之有る由候。(後略)。
『信長公記』信長御入洛十余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備えらるるの事条:
(前略)。10月2日に池田の城、筑後守居城へお取りかけ、信長は北の山に御人数を備えられ、御覧候。水野金吾内に隠れ無き勇士梶川平左衛門尉とてこれ在り。並びに御馬廻の内魚住隼人・山田半兵衛尉、是れも隠れ無き武篇者なり。両人先を争い、外構えに乗り込み、爰にて、押しつ押されつ、暫くの闘いに、梶川平左衛門、腰骨を突かれて罷り退き、討ち死に也。魚住隼人も爰にて手を負い、罷り退かる。ヶ様に厳しく候の間、互いに討ち死に数多これ在り。終に火をかけ、町を放火候也。 (後略)。
-------------------------------

この時、原田城も当然ながら、何らかの役割を果たしていた筈ですが、数万の軍勢ともなれば、到底手には負えません。友軍の三好三人衆勢も総崩れとなり、大混乱で、そんな中で池田衆・原田衆は、それぞれ城に籠もって身を守るのが精一杯だったろうと思われます。
 その後池田衆は、三好一族ではありながら、将軍となった足利義昭政権に取り立てられ、摂津の守護職を任される事となります。池田家は勝正の代で、歴代最高の社会的地位を得て、家中の人々もこの重責に応えようと懸命に働きますが、報わる事なく、次第に家中の思いの違いが、統制が乱れにつながっていきます。

元亀元年6月18日、遂に当主である池田勝正を追放するに至る内訌が発生します。この一連の騒動の記録に、原田城が登場します。
 この内訌で勝正は、池田城を追われるのですが、京都へ向かう途中に、原田城へ立ち寄った可能性が、記録から推察ができます。
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634
 
-史料(9)------------------------------
『言継卿記』6月19日条:
摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞、(後略)。
『多聞院日記』6月22日条:
去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内2人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守長逸以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
『細川両家記』:
一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。(後略)。
-------------------------------

勝正は、能勢街道を大坂方面へ向かったとしていますが、この途中に原田城があります。多分勝正は、一旦、原田城に入ったのではないかと思われます。
原田城の土塁跡
また更に、能勢街道上には、刀根山(現豊中市刀根山)の寺内町もあり、ここには池田家の祈願所でもある高法寺がありました。ここにも、一旦、入ったかもしれません。
 『言継卿記』では、刀根山を経て大坂方面へ向かった、との記述があるのですが、多分、勝正はその伝聞記録の通りの動きをしただろうと考えています。
 というのは、池田衆は近江国での「姉川の合戦」のため、同国高島郡へ軍勢を率いて出陣する予定があった事から、不測の事態が生じた事を知らせる必要があったため、勝正は原田城へ入った可能性も低くは無いと考えています。身を守るためもあっただろうと思います。
 池田家中で内訌があった事が、京都に報じられると、すぐ様、幕府は反応しています。
※言継卿記4-P424

-史料(10)------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。(後略)。
-------------------------------

そして、同月28日、摂津守護であり、将軍義昭の側近である和田惟政が、敵となった池田領内に侵攻を始めます。原田城下といってもよい領域である小曽根春日社に宛てて、6月28日付けで惟政は、禁制を発行します。
 同日、三好三人衆勢は吹田へ上陸し、原田城下は戦闘地域となり、最前線となります。そして翌月6日、吹田城で交戦があり、幕府・織田信長方が勝って、吹田城は確保されました。
 しかし互いの勢力が、原田・吹田方面とその周辺地域に軍勢を繰り出すなど一進一退で、優劣の判断がつき難い状況でした。
 そのため、その去就を巡って、原田城内でも様々な話し合いが行われていたと想像されます。そんな中、原田の西方川辺郡の猪名寺付近で交戦が行われます。8月13日の事です。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-史料(11)------------------------------
一、同8月13日淡路衆安宅勢相催し候て伊丹辺へ打ち廻る也。池田も一味して罷り出候也。然るに伊丹城より100人計り猪名寺と云う処へ出られ候。寄せ手、此の衆へ取り懸かり、高畠辺にて4〜5人池田衆が*討ち取り、打ち帰られ候也。淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也。
-------------------------------
◎注意:『細川両家記』での「へ」は、「が」としての意味合いで文中に用いる傾向があり、意味が通りやすいように、適宜書き換えています。

同月25日、遂に原田城内で動きが出ます。織田信長が、再び大軍を摂津国方面へ入れた事も原因かもしれません。
 原田家中の主要勢力が、原田城を焼いて、池田城へ入ったと記述があります。城を焼くくらいですから、大多数の総意だと思われますが、いずれにしても、この原田家の人々の動きは、三好三人衆方に加わる事を決し、見込みの無い籠城よりは、より展望の開ける方法を選んで行動したことは、間違いない事でしょう。
※言継卿記4-P440

-史料(12)------------------------------
8月25日条:
一、早旦飛鳥井中将、同烏丸弁、辰刻(午前7時〜9時)藤宰相等摂津国へ出陣云々。同織田弾正忠信長出陣。3,000計り之有り。両三日陣立ての衆40,000云々。一、摂津国原田の城自焼せしめ、池田へ加わり云々。
-------------------------------

これにより、三好三人衆方池田家の防衛戦は北側へ後退し、多分、瀬川あたりの川が境界になったのだろうと思われます。
 明けて9月8日、伊丹忠親・和田惟政連合勢は、共同して池田領内の市場などを放火したりして、打ち廻ります。これは状況からして、西国街道沿いの東・西市場村を指すのかもしれません。
※言継卿記4-P443

-史料(13)------------------------------
9月9日条:
(前略)。池田衆取り出で、摂津国川辺郡伊丹へ取り懸かり、伊丹兵庫助忠親取り出で、同和田伊賀守惟政出合い、池田へ迎え入り、市場焼き云々。(後略)。
-------------------------------

8月25日に原田城が放棄され、この後に幕府方が入って、拠点化目的で再利用したとも考えられます。原田城は、地政学的にも要地であり、また、天然の要害性も持っており、利用しないはずはありません。
 元亀元年9月13日、大坂本願寺が、幕府・織田信長方に対して、組織的に敵対する事を明らかにした事で、一気に形成は逆転してしまい、この年の暮れ、幕府・織田方は劣勢を解消するために、それら諸勢力と一時的に和睦を結びます。

しかし翌2年、6月頃から再び摂津国豊嶋郡方面では、交戦が活発に行われるようになります。6月10日、吹田城が再び和田惟政によって落とされます。
※言継卿記4-P502

-史料(14)------------------------------
6月11日条:
(前略)、昨日摂津国和田伊賀守惟政吹田へ取り懸かり打ち果たし云々。首57上げ云々。但し親は遁げ云々。
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更に同月23日には、豊嶋郡牛頭天王へ宛てて、惟政が禁制を発行します。また、翌月26日、翌8月1日には、幕府衆三淵藤英が、南郷目代今西家などに宛てて禁制を発行しています。当番制などで、和田惟政から三淵藤英へ担当の交代があったようです。
※豊中市史(史料編1)P122

-史料(15)------------------------------
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り放火事、一、山林竹木剪り採り事、右條々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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この方面はまた、一進一退の戦闘の最前線になります。
 しかし、この時は幕府方が優勢だったようで、そしてまた、前年のように瀬川付近にまで攻め入っている様子が窺えます。7月下旬から翌月初旬にかけて、将軍義昭側近の細川藤孝が、池田勝正と共に池田城を攻めています。
 しかし、この時は池田城に打撃を与えることはできず、勝正は原田城に入って、その後の警戒を行う任務に就きます。藤孝は、居城の勝竜寺城に戻ります。記述からは、原田へ新たに付城を拵えたとも受け取れます。
※大日本史料第10編之6(元亀2年記)P701

-史料(16)------------------------------
8月2日条:
晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守入城。
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その後間もなくの8月28日、三好三人衆方の池田衆が反撃に出て、白井河原での決戦を行い、幕府方の和田惟政を打ち負かして大勝します。この合戦で、勢力図が大きく塗り変わり、池田家の歴代では最大の版図を獲得します。戦争で得た領土としては、これが最大だったのではないかと思います。また、惟政やその被官が多数死亡したした事により、池田衆は元の領地を取り戻しただろうと思われます。
 そういう状況になりましたので、勝正は原田城を退いて、必要な対策を講じる活動などをしつつ、最終的には京都へ戻るなどしたのだろうと思われます。

白井河原合戦後の原田城は、三好三人衆方池田家領に復し、最前線では無くなりましたので、元亀4年(1574)までの数年間は、短いながらも戦争の無い日が続きます。その事もあって、城に関する史料は見られなくなります。
 
次は、将軍義昭が京都から追放され、織田信長による新たな中央政治が始まった天正元年以降の摂津原田城について見ていきたいと思います。




2012年2月15日水曜日

摂津原田氏とその城について考える(はじめに)

摂津国の有力国人であった池田氏と、関係の深い同国の豪族原田氏、そして、その原田氏の居城であった原田城については、中々資料がありませんね。
 幸い、豊中市の教育委員会が原田城の発掘を続けてくれているので、そういった報告書が発行されるたびに、考古学の観点から進展しているように思います。また、今西家文書などもしっかりと再検討の視角を設けて、新たな手法で提起したりするなど、大変すばらしい活動を続けていると私は感じています。また、発掘も地道に続けられ、成果も積み上げられています。

私は池田勝正との関係で、原田城と原田氏を見ているのですが、その時代の動向については、直接的な史料は、あまり多くはありません。しかし、その数少ない史料を見ると、興味深い事が判ります。
 勝正が当主となるころには、家格の差と共に経済的な差も開き、池田周辺の豪族はそこに引き寄せられるカタチで被官化していたようですので、原田氏もそういった関係となっていたのだろうと思います。

先に述べたように、原田城は原田氏の城ですので、その大きさやカタチは、原田氏の立場や役割に相対しています。ですので、物理的な発掘で判ることと、文献から見える原田氏の活動の両方を見る事で、正確にその事象や事柄(発掘された遺物も含め)の意味が捉えられるという訳です。

原田城と原田氏は、池田家との関係も深いため、その動きを追う中で、原田氏とその城の事も少し様子が判るようになると思います。
 それらを順に説明したいと思いますが、分かりやすくするために城と原田氏を分けて、私の調査結果(終わり無く進行中ですが...)をご紹介したいと思います。ご興味のある方はご覧下さい。

それらの説明を、以下の要素から説明したいと思います。
 
(1)摂津原田城について その1:元亀4年(1574)以前
(2)摂津原田城について その2:天正元年(1574)以降
(3)考古学・発掘調査から見た原田城
(4)摂津原田氏について
(5)戦国大名中川清秀に仕官した原田氏について