2020年9月29日火曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十五回「羽運ぶ蟻(あり)」

予告しました、大河ドラマの脇道を愉しむ企画ですが、タイトルを考えてみました。今後はこのタイトルで、週一回のペースでお届けできればと思います。

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。
 図に乗って、ガイドツアーも企画するかもしれません。途中で企画が「沈voつ!」したり、どうなるか分かりませんが、どうぞお楽しみに〜。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

今回は、第二十五回「羽運ぶ蟻(あり)」2020.9.27放送分です。

◎概要
永禄9年(1566)あたりから同11年頃までの流れを筋書きにしており、話しの中心は将軍就任レースの緊張感を伝える内容になっていました。
 歴史上では、三好長慶が死去し、程なくして三好家中が分裂。三好三人衆 vs 松永久秀の争いになっていますが、そのあたりは、ちょっと違う取り上げられ方になっています。この三好と松永の争いに対して、池田勝正が三好方に付いたことから形成は一変。松永不利となり、松永は義昭を担ぎ、入京の手引きをしていたのが事実です。松永も始めは義栄を担いでいたのですが、ケンカの末に、「俺(松永)はこっち」になったのです。

◎足利義栄の将軍職就任
この足利義栄は、阿波国に居住していた足利氏で、足利家内部の闘争などにより、都落ちする(他にも理由が色々ある)などして日本各地に足利家が存続していました。その地域で闘争があった時、これらの足利氏は担がれて、戦争を有利に進めるために利用されるなどの動きがありました。
 それの三好氏版です。この義栄が将軍職に就くにあたって、池田衆は大きな貢献をしており、池田衆無しでは不可能だったと思われます。池田家は、三好氏の本流筋から嫁をもらい、三好一族扱いを受けていた特別な存在でした。また、その池田家は摂津国内では非常に裕福で、地域政治にも長けていました。当然、戦国の世ですから、軍事力も持ち4,000〜5,000程の動員は可能であったと考えています。
 将軍は本来、皇室を守るためにあるのですから、京都に入り、そこで宣下を受けるべきなのですが、戦乱で適当な場所が無いため、守りの固い摂津冨田の普門寺で将軍職就任を認める宣下を義栄は受けました。

◎明智光秀の身分
織田信長が美濃を平定し、その祝いになどに光秀が訪ねた折、家臣になる事を誘われるシーンがありました。
 細かな事は明らかになっていませんが、これは史実の通りに描かれており、光秀は織田信長が京都へ入った頃は幕臣の立場でした。ですので、直接の主人は将軍です。奉公衆(ほうこうしゅう)など将軍の近臣として活動していました。多分、実際は領知も無かったようですから動員兵力もほとんど無く、官僚的な仕事が主だったと思われます。
 将軍義昭が京都に入った頃は、ゼロからのスタートで、何の基盤もなく、24時間体制の仕事だったと思われます。権威の整理、お金の管理と創出、徴税、軍事の手配などなど、将軍義輝政権(表現は不正確)の立て直しに忙殺されていました。

◎松永久秀の立場
三好三人衆に対して、ほぼ敗北状態だったところに、織田信長の将軍義昭を奉じての上洛で、九死に一生を得た松永久秀でした。実際にはかつての栄光に陰りがあり、信長からは一目置かれつつも、厚遇はされていませんでした。天正5年(1577)に死亡するまでに久秀は、3回(最後は自刃)も信長に反逆し、その度に詫びを入れて降伏しています。
 今の流れで行くと、最後との矛盾が出ると思うのですが、このあたりはどのように描くのでしょうか。既に矛盾はあるのですが...。

◎近衛前久という人物
この人物は五摂家筆頭という名門貴族近衛家の当主でした。この時、関白という地位にあり、皇室の政治(天皇の補佐)の担当者でもありました。また、この近衛家は、藤原鎌足を祖とする一族の筆頭でもあり、同族の日野家とも親密でした。日野家からは親鸞を輩出しています。いわば日本の頂点に位置する家柄であり、当時の政治では、巨大な存在でした。そしてまた、摂津池田家も藤原一族ですので、この近衛家を支える一族でもあったのです。
 ですので、足利義栄を将軍とするため、三好一族から一目を置かれていた面もあります。対して池田家は、その流れの中で様々な権益を獲得し、拡げることもしていたようです。
 近衛前久は明かな三好派で、後に劣勢となって織田信長方の軍勢が京都へ入った時には、殺害を恐れて京都から落ちのびています。大坂の本願寺へ身を寄せていました。

◎幕府奉公衆三淵氏、細川氏、一色氏
三淵藤英、細川藤孝は兄弟です。一色藤長は、丹後国の守護大名一色氏の系譜で名門の出です。またこれらの人々は足利氏の支族でもありました。こういった名族が幕府を支えるため、本拠地から出向するようなカタチで仕えたり、没落してしまい、最後の血を将軍に託すといった、様々な謂われの人々が幕府の中枢に入っていました。
 池田家は京都にも屋敷を持ち、御家人格(ごけにんかく:江戸時代の旗本に相当)でしたので、幕府にも知られた存在でした。そのため、こういった人物と深く交わっていました。時には、幕府からの命令や依頼を受けるなどしていた筈です。

 

摂津富田「普門寺」
摂津富田「普門寺」
国の重要文化財「方丈」

◎次回のこと
次回はいよいよ、将軍義昭の上洛ですね。池田衆は三好方として奮戦します。名前くらいは出てくるかも! 


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