※大阪府全誌3(清文堂出版)P1106
-----------------
【大広寺】
大広寺は池田山の半腹にあり、塩増山と号し、曹洞宗総持寺末にして釈迦牟尼仏を本尊とす。昔此の山中に一池あり、其の水に満干のあること海潮の如くなりしも、堂宇を創建するに当たりて之を埋めしかば、其の旧跡を伝えんが為め塩増山の山号を附せしをいふ。応永2年(1395)池田筑後守充正の創建にして、天嵓禅師の開基なり。降て元禄7年(1694)16世雪峰に至り、檀徒と協力して堂宇を再建増築し、更に一層の荘厳を極め、隷寺40余院の多きに達し、塔中には陽春庵・泉福院・明悟院の3坊舎ありしも、明治の初め2院は他に退転して(泉福院は大阪に、明悟院は豊中村大字新免に移転)、今は陽春庵の剰せるのみ。境内は2531坪を有し、本堂・庫裏・方丈・知客寮・経蔵・鐘楼堂・土蔵・発心門・薬医門及び開山堂・鎮守堂を存す。寺宝に伝運慶作の釈迦・文殊・普賢の3蔵、伝牧渓筆瀧見観音の墨画一幅、横川景三書望海亭記一幅、大明進士梅厓の書一幅、宸翰和歌等あり。塔中陽春庵に作者不詳の聖観音立像一体あり、監査状附なり。寺地は高爽にして清浄濯麗、池田の市街を瞰下し、豊能の沃野を一眸中に収め、仰げば池田山の蒼翠は堂尖を厭し、寺は中空に懸かれるが如し。此の境裡に望海亭あり、亭は文明年中僧山祥の創営に係り、幾多の詩人墨客をして風月の娯を壇にし、詩膓を悩ましめし所なれども、已(しまい)に廃絶に帰して今は残礎を存し、一碑之を表せり。碑は天保12年の建設なり。又池田筑後守充正の墓あり。充正は文明14年(1482)10月24日に逝きて、大広寺殿玉堂祖金大禅定門と法謚せらる。
-----------------
| 大広寺山門(2000年頃撮影) |
この文を読むと若干の違和感があります。大広寺は池田充正が菩提寺として応永2年に創建し、その充正は文明14年に亡くなります。その間、87年間あります。この長期間は理解の範囲でしょうか。年記の間違いか、もう一人そこに居るような気がします。
また、江戸時代中頃の元禄11年(1698年)から編纂を開始、同14年(1701年)完成・発行された、その時点までの状況を知ることができる史料がありますので、ご紹介します。
※摂陽群談(大日本地誌大系刊行会)P299
-----------------
摂津国豊嶋郡にあり。山号塩増山、文明年中、池田城主藤(ママ:藤原か)筑後守営建、曹洞禅寺と成る。同姓備後守石碑其の部に然り。
-----------------
しかし、多くの古刹と同じく、栄枯盛衰が大広寺にもあり、池田氏の菩提寺であるだけに、池田家の解体と同時に運命を供にしています。
一方で、中世以前から存在している寺院は、地域自治の中心でもあり、大広寺は池田氏の地域統治とも相関していた事から、池田家の解体後も地域自治への影響力の大きさ故に存続します。しかし、構成要素は変化していきます。寺そのものも「家」制度と同様の営みを続けています。
さて、その大広寺の画期は、少なくとも3回あります。
![]() |
| 大広寺鐘楼堂(2000年頃撮影) |
(1)天正年間初頭、池田家中から荒木村重が台頭し、暫くの間、対立しつつ最終的に主従が入れ替わる。このため、それまでの大広寺と池田家とのつながりを懐柔する政策も採られたと考えられ、村重の拠点を伊丹(有岡)へ移したと同時に大広寺も移転させられている。
(2)慶長年間の中頃、池田備後守知正が大広寺を元の場所に復興
荒木村重が織田信長に謀反した事から滅ぼされ、豊臣政権下で池田郷の復興を行う。その重点要素として、池田一族の精神的より所である大広寺の復興を始めた。
(3)元禄7年(1694)、本堂などを再建して子院も招致
徳川政権下で、池田郷も復興を遂げている。酒造の町として活況を呈し、再び池田の栄華を見直す復古的な様相も呈す。
◎各画期の概要
(1)の時代は、戦国時代の真っ只中で最も激しい闘争を続けていた事もあり、その変化は穏便ではなかったと考えられます。池田家体制の解体後、その影響力を弱めて、大広寺は荒木村重の統治政策の一部として都合のよいように変化させられたと考えられます。
(2)の時期には、荒木村重時代に徹底して破壊された池田家による地域統治、また、縁故地を復興させるべく、池田知正を中心として取り組みに着手していましたが、知正の系譜自体は、池田家の中心から少々遠い事もあって、その求心力が弱かったと考えられます。加えて、そのような試みの中で、時代が変わり、徳川治世下となって地政学的要地である池田郷は、独自の地域政治は否定され、池田氏は元の地域から排除されてしまいます。
(3)の時期には徳川時代となり、天下泰平時代が訪れると、日本全国で商業活動が盛んとなって、好景気に沸きます。経済的に豊かになった事で、池田郷も復興し、寺社もそれにあやかる事となります。また、「島原の乱」後、徳川幕府は、キリスト教への警戒を強めたため、寺請制度を施行します。
寛文11年(1671)には、ほぼ制度が完成していたと考えられており、そのために、全国で寺の数は不足します。この時勢のため、大広寺も復興と拡大を続けたと考えられます。元は、池田氏の個人的な寺でしたが、この頃には、本質的な成り立ちも変わってしまっていたと考えられます。
◎大広寺に存在した3つの塔頭
先にあげた資料『大阪府全誌』でじゃ、塔中(頭)として、陽春庵、泉福院、明悟院があったとされています。この塔頭とは何かというと、禅宗寺院が主に制度(慣習)化していたようです。参考までに、その概要を引用しておきます。
※ウィキペディア:塔頭(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%94%E9%A0%AD)
-----------------
中国の禅寺では本来、住持を隠退した者は、東堂・西堂の僧堂で雲水たちと共同生活をする決まりとなっていた。時代が降ると、大寺の中に小庵を結びそこに住する者が現れるようになったが、一禅僧一代限りの措置であった。
そのような中国の慣習が日本に伝わると、開山など、禅寺にとってとりわけ重要な人物の墓所としての塔頭・塔院と同一視されて永続的な施設となり、日本独自の塔頭という存在が認知されることとなった。さらに時代が降ると塔頭はより広義的なものになり、墓所だけでなく高僧が住んでいた小庵やゆかりのある地に、その偉業を後世に伝えるために設立されるようになり、禅宗に限定されたものでもなくなっていった。
室町時代、五山では庵居の風習が盛んになり、多くの塔頭が作られた。やがて塔頭を拠り所に門徒が僧兵などを集めて勢力を持つようになり、幕府は塔頭造営を規制したこともある。安土桃山時代に入ると、各地の大名が自身が教えを受ける僧の隠居所を寄進して小寺院と称する例が増え、これらも後に塔頭とされた。そのためこうした塔頭は寺院としてだけではなく、住居としての側面も持つ。
塔頭は由来に示すとおり末寺の1つで独立した寺ではなかったが、塔頭由来の師の門下として門徒の格別の崇敬を集めて独自に檀那を持ち寺領を抱えて経営するまでになり、実質的にはその門派の独立した一寺としての発展をみた。明治時代以降は末寺になって独立している場合が多いが、大規模な塔頭を多く抱える大寺院の領内では、さながら寺院の立ち並ぶ一つの街のような光景を見ることができる。この例としては京都府の大徳寺などが著名である。
-----------------
大広寺は、池田氏の政治体制と一体化しており、統治機構としても機能していましたので、五月山周辺などを中心に領内に多くの末寺を保持していました。
その中でも塔頭は、大広寺組織運営の中心となる、武家で言うところの「家老」のような役割を持つ、中枢組織でした。それが、3つの塔頭でした。
しかし、それらは、同時期に成立した訳ではなく、最終的に3つになったのであり、時代により、制度の変化や役割の変化があったためと思われます。この変化の起点が、大広寺の画期とも相対しているところがあります。
![]() |
| 大広寺塔頭泉福院の施設に 身を寄せていたとされる 連歌師肖柏 |
それらの創立時期を見てみます。
(a)泉福院(文明年間以前創建)------------
調査中
------------
(b)陽春庵(元亀3年5月創建)------------
別々の時代に、別々の状況で書かれた伝記に奇妙な一致がある。大広寺塔頭の一つである陽春寺に伝わる内容と現箕面市新稲の池田助一氏所蔵文書の内容とが、ほぼ一致する部分がある。文字表記の違いはあるが、「イチリン:一麟・一輪」なる人物は、大広寺へ高位の僧侶として記述されている。池田助一所蔵文書の一輪は、池田四人衆の一人である池田十郎次郎正朝の弟としている。他方、陽春寺伝での一麟は、その系譜は記さないものの、大広寺塔頭の創建・開基の人物となっている。また、元亀3年5月頃は、池田氏の支配領域が歴代最大となり、同時に京都中央政権が分裂し始めて、政治・軍事面での対応の難しい時期であった。そのため、領内支配体制の強化の意味もあり、大広寺塔頭を増やした可能性もある。『池田町便覧社寺及名勝旧跡』陽春寺条:大広寺塔頭の一院にして、元亀3年5月、僧一麟創立して自ら開基と為り始め陽春庵と称せしが、明治11年庵を改めて寺と為せり。寺宝に聖観音立像一躯あり、作者詳らかならざれども其の彫刻の優逸なるを以て監査状を有せり。(後略)とある。また、『池田郷土研究』21号内記事:池田城主久宗と信正をめぐって「池田助一氏の所蔵文書」条、(前略)上野殿御子息(池田信正の実弟同苗(上野)上野介久正の子)関東へ下られ候は14歳の時なり、同道池田ノ家中星野左衛門尉・山脇勘右衛門と申せし人(以下、傍注あるも判読不能)此の時の大広寺の和尚は一輪和尚と申し、此の一輪は池田四人衆の内、十郎次郎(正朝)の弟なり。(後略)とある。
------------
| 豊中市にある現在の明悟院(2026年撮影) |
寺伝として『大阪府全志』に記述がある。明悟院(摂津国豊能郡豊中村)字岡上町にあり、柳田山と号し、曹洞宗大広寺末にして白衣観世音を本尊とす。天正2年10月僧明仙の創立なり。当時池田の大広寺にありて、其の塔頭たりしが、明治11年7月、布教上の便宜に依りて当所に移転せり。境内は108坪を有し、本堂兼庫裏・薬医門を存す。、とある。天正2年の創立当時は、大広寺内に塔頭として成立したらしいので、池田氏の菩提寺として存続していた同寺の、新体制としての動きの可能性もある。同年、池田氏の家政は解体されて一族が散逸しており、池田家中から台頭した荒木村重の治世下で、再編が行われていたと思われる。また、同年11月に伊丹城が落城を落とした村重は、同地に本拠を移した。その折に大広寺も移転させられた(有岡城構成集落に「大広寺村」がある)とある事から、その動きとも関係があると考えられる。江戸時代に編纂された当時(元禄11年(1698年)から編纂が始められ元禄14年(1701年)に完成)の地誌である『摂陽群談』には明悟院の現在地に、その同寺の記述は無いため、その頃には存在しておらず、その後に『豊中市仏教会70周年誌』や『豊中の史跡をたずね描き』に伝わるような、動きがあったのかもしれない。しかし、『豊中市仏教会70周年誌』の伝承には、戦国時代に起源を持つ伝承も伝わっているが、どこと結びつくのかは、今のところ不詳。元禄年間以降、現明悟院のあるあたりに、大広寺と縁のある寺庵が建てられ、明治時代になって、そこに明悟院が移ったのではないかと考えられる。そういう経緯の中で、明悟院の本寺である大広寺について、『全志』を見ると、(前略)隷寺40余院の多きに達し、塔頭には陽春庵(寺)・泉福院・明悟院の3坊ありも、明治の初め2院は他に退転して(泉福院は大阪に、明悟院は豊中村大字新免に移転)、今は陽春庵(寺)剰せるのみ。(後略)とある。これらの要素を考え併せると、明悟院は新興であったようである。そして同院は、大広寺及び池田氏の縁故地に移った可能性があり、豊中村大字新免村については、永正4年9月21日付で、摂津国人池田五郎某が新免村の代官職を得た記録(『後法成寺関白記』)に現れる。『豊中市仏教会70周年誌』明悟院条、戦国時代に流れ矢にあたり亡くなった主人の霊を弔うために建てられた寺。(後略)とある。『豊中の史跡をたずね描き』明悟院条、昔、岡町に田中庄兵衛(屋号は米屋)という大きな庄屋が住んでいた。そして小作人から小作料(年貢米)の売買と醸造を業としていた。何年か経つ内に家業が大きく栄えてきたので、先祖に感謝する気持ちと、先祖の霊をなぐさめるために、寄進して建てられた曹洞宗の尼寺である。
------------
![]() |
大広寺に残る血天井(2000年頃撮影) |
次いで、陽春庵で、元亀3年(1572)5月の創立と伝わります。この時期は池田家中が再び荒れ始め、京都の中央政権も将軍義昭と織田信長が鋭く対立し始める時期にあたります。逆の見方をすると、池田家中の安定期の最晩年と言うことになります。
池田領内の統治機構強化の必要性があり、塔頭を増やした可能性もあります。実際、この頃の池田氏の支配地域は、過去最大になっています。この陽春庵には、池田氏の血族が入っているらしい事からもそれは窺えます。
そして、一番新しい塔頭は、天正2年(1574)10月創立の明悟院です。創立当初は、大広寺内にて成立しています。この時期は、池田家中から台頭した荒木村重が池田氏に代わって、その領内を統治していた頃です。同年7月に崇禅寺での大合戦、3ヶ月後の11月、遂に伊丹城を落とし、直ちに同地へ村重は本拠機能を移すべく築城を始めています。この移転の中で、大広寺も伊丹へ移転させたと伝わっており、大広寺の大きな転換点でもある時期で、体制の変更があったと考えられます。
◎まとめ
大広寺の大きな流れとしては、上記(1)〜(3)がありますが、中でも戦国期には波瀾万丈の大動乱を経ています。「大広寺」の名は存続し続けていますが、その間に大きな変化を伴っています。それは(a)〜(c)の文明年間から天正年間初頭までの期間に、塔頭の動きからも組織に変化が起きている様子が窺えます。
何につけても同様ですが、対象は常に変化している事に注意して、思い込みで見ない事は非常に重要だと思います。本質を見誤ってしまいます。



