2026年6月16日火曜日

割と最近まで、大阪では「そうは、桑名の焼き蛤」とは言わず、「ドッコイそうは、左専道の不動」と言っていた。大阪市城東区諏訪1丁目にある左専道不動尊の歴史

明暦元年(1655)大坂三郷町絵図
(大阪歴史博物館所蔵)
近年、急速に街の姿を変えつつあります。私は、この大阪市城東区諏訪1丁目で生まれ育ちました。その頃は、昭和時代の末であり、まだまだ文化の変容速度も遅く、人の移動も小規模であったので、それ以前の町並み、地域の精神文化も残っていた時代でした。
 私が、昭和・平成・令和と生きる中で、この先を考える時、やはり、できる限り知っている事を書き残したいと考える程、文化の根本が変わりつつあります。新しく建てる家の様式を見ても、これまでと、これからは、全く違います。左専道(させんどう)という地名そのものも無くなってしまいました。

しかし、この日本国に生まれ、育ったからには、その先人が成してきた事を知り、継いでいく事も、今を生きる私達の役割の一部であると感じています。その一つとして、摂津国欠郡(大阪市城東区諏訪1丁目)にあった左専道不動尊について、ご紹介します。
 
先ずは、現地に建てられている、城東区役所による案内板の内容をご紹介します。
※させん堂不動寺案内板より

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山門(2026年4月撮影)
不動明王を本尊とする真言宗の寺院です。豊臣秀吉が大坂城を築城したとき、現在の生國玉神社のあたりにあった不動堂取り壊され、慶長7年(1602)に東成郡木野村において再建されたと伝えられます。その後、水害に見舞われ、宝暦9年(1759)に現在の場所へ移されました。
 江戸時代の書物「摂津名所図会大成」に「左専道不動」としてその名が見え、日々参拝の人が絶えなかったといわれ、広く信者を集め、とりわけ正月28日の「初不動」には多くの人々が参詣し、たいへんな列が絶えないほどの賑わいを見せていたそうです。現在は大阪四不動尊詣の「東方不動尊」として、東方を担っています
 天明2年(1782)の銘が刻まれた梵鐘は、美術史上保存の必要があるとして、戦時中も供出を免れました。なお、させん堂不動寺は令和6年(2024)に大阪市の都市景観資源に登録されました。
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◎江戸時代の左専道村の様子を旅日記からみる
その他、続いて、できるだけ手持ちの資料を紹介したいと思います。江戸時代、関藩士池田正樹が明和8年(1771)当時に、大坂を探訪した見聞録を書き残しており、それを現代語で紹介している単行本があります。
※大坂見聞録(渡邊忠司著)P122

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後藤家前(2005年4月撮影)
写真右は、かつて川だった
左専道不動: 
近世の大坂には、既に述べたように、現在のピクニックやハイキングと同じような言葉に野行き・山行きがあった。物見遊山である。池田正樹の江口探訪はまさに野行きであるが、一口に物見遊山とは言えないような周到さで、大坂三郷の郊外を歩き回っている。北の天満・曽根崎、東の玉造から中道・深江、南の寺町から天王寺へ、また長町から今宮戎、天下茶屋へ出ると、辺りはすぐに田園地帯であっただろう。その東や東北東に向かって行った所に、春には梅や菜の花で知られた左専道不動や野崎観音があった。正樹はここにも訪れている。
 明和8年(1771)2月10日の記録は、さきに触れた江口の里の記録につながるが、その冒頭には、江口の里への野行きの前に左専道不動を訪れたことが記されている。

”2月10日昼時より、茶専道不動(御城より東一里斗に有)へ参詣す。山号後藤山三友寺といふ。寺内狭し。本堂に額あり、不動尊と書り。支那大成筆なり。”
この不動尊は東成郡左専道村(城東区諏訪)にあった。「どっこいそうは左専道の不動」という語呂合わせでも親しまれ、旧暦正月28日の初不動も賑わったという。由来では最初は木野(この)村(生野区)に創建され、後藤山不動寺といったが、宝暦9年(1759)、水害のために左専道村に移転、寺号も後に友三寺となったが、昭和17年(1942)にもとの寺号に復したとする(『大阪府の地名』平凡社)。
 ところが、正樹は明和8年の時点で、深沢某の言うこととして、
"右寺はむかしより有之にもあらず。近年まで俗家にて、後藤友三郎と云うものの家に有之。参詣の者ある時は、亭主麻上下を着て出たりしといへり。”
と記す。これによると、寺は後藤友三郎の家にあったとしているから、さきに宝暦9年に左専道村に移転したとあるのは後藤氏の家の中への移転であったことになる。
本堂(2026年4月撮影)
 また『浪花のながめ』は「この辺りに桃の花咲りにハ老若男女群をなす」と桃の花の名所であることと、同時に寺の由来をも記している。それによると本尊の不動明王は最初百姓徳右衛門が信心していた石像であったが、「家の小座敷に安置し奉りしを諸人きき伝えに参、心願の趣きを帳面にしるし、毎日ご加持をなし」たことから、徳右衛門も髪を剃ってさらに丹精を込めるようになり、寺号も後藤山友三寺としたと伝える。
 いずれも始まりが個人の家とすることや、寺号が一致している。『浪花のながめ』は安永7年(1778)の刊行であるから、『難波噺』の記録より少し後である。寺号の一致を考えると、宝暦9年の移転は、後藤氏の家の中といえそうである。それゆえの友三寺である。
 旧暦2月といえば桃の花の咲く頃でもある。日和がよければ快適な野行きになったであろう。正樹は土産に深江の菅笠でも買って帰ったであろうか。
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摂津名所図会にある
左専道不動尊
◎名所として描かれた左専道不動尊

「させん堂不動寺案内板」の元になっている資料もご紹介します。ちなみに寛政年間(1789-1801年)絵図では、門前に川が流れています。
※摂津名所図絵(臨川書店)上P335

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左専道不動: 
左専道村にあり。初めは農夫徳右衞門が家に安置しける。近年後藤山三友寺といふ不動堂を建て、これを本尊とす。むかし当村の医師に後藤友三郎といふあり、此の人開発しけるにやあらん。尚異説聞こゆ。
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◎戦前の地誌をみてみる

続いて、だいたいの地誌の基本資料になっている、大阪府全志をご紹介します。
※大阪府全志3-P296(大正11年11月初版発行)

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東成郡城東村左専道条:
三友寺は字里中にあり、後藤山不動院と号し、真言宗山階派勧修寺末にして不動明王を本尊とする。慶長7年宗寛の創立にして天王寺の正祐寺に属し、木野村にありしが、其の地は水害あるを以て、宝暦9年(1759)8月27日九世善戒当所に移りて勧修寺末となる。本尊は世に左専道の不動と称し、世俗に己の意思に反して相手方の為さんとする行為を抑止するときの語に「ドッコイさうは左専道の不動」と附け加へて呼べるは、当不動にして、其の名高し。境内は270坪を有し、本堂・庫裏・座敷・玄関・鐘楼堂・土蔵・薬医門を存す。
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三友寺内は小学校だった時代も
◎左専道村の概要

この三有寺のある左専道村は、摂津・河内の国境にある村で、今も大阪市と東大阪市の境目の集落です。摂津国内で最東端の地です。その左専道村について概要を以下にご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P630

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左専道村(大阪市城東区諏訪1-4丁目、永田2-3丁目、東中浜5-6丁目、同8-9丁目):
天王田村の東、長瀬川左岸にあり、東は河内国森河内村(現東大阪市)。深江村(現東成区)で奈良街道(暗峠越)から分かれた摂河国境沿いの道が、村の東端を通って剣道へと続く。集落は村域北東隅に位置し、南方にある12間四方の墓地は行基が開いたと伝える。また延喜元年(901)太宰権師として筑紫へ左遷された菅原道真が、途中立ち寄ったのが当村諏訪明神の森といい、村名の由来説話がある(大阪府全志)。中世は四天王寺(現天王寺区)領新開庄(現東成区)に含まれたとみられる。
旧放出街道
 文禄3年(1594)の欠郡内佐専道御検地帳写(諏訪神社文書)によると、村高448石(うち12石余荒地)・反別33町4反余。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領。その後幕府領となったが、寛文5年(1665)村高の内400石が旗本稲富領となり幕末に至る。稲富領を東組と称し、残る幕府領を西組とよんだが、西組は幕末には京都所司代領(役知)。元禄11年(1698)治水のため村域大和川の外島(中州)が取り払われ(大阪市史)、宝永元年(1704)の大和川付替えで川は水量が減少して大部分の川床は開発された。享保20年(1735)以降成立の村明細帳(諏訪神社文書)は、特定年の村明細帳ではなく書式・類例を記したものであるが、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳と同じ451石余が記され、稲富領400石のうち下田93石余・畑299石余・永荒7石余、幕府領51石余のうち田50石余・永荒1石余とある。また宝永5年、永田村と共同で笹関新田(現鶴見区)のうち1畝8歩の地を銀101匁余で布屋九右衛門より、幅2間半・長さ52間半の用水路を銀188匁余で鴻池新七より購入したこと、当村は砂交じりの水損場で麦は不作であること、年貢の津出しは剣先船を利用したこと、村保有の小船は14艘で下肥の運搬や農通いに使用したことなどがわかる。主要井路に橋本・西河原・高野田の各井路があった。享保20年の摂河泉石高帳で、村高464石余のうち6石余が新田とされるのは、購入した笹関分か。
諏訪神社

 諏訪神社は建御名刀美命・八坂刀売命を祀る。前掲村明細帳に引く元禄5年の寺社相改帳によると宮座65人、うち年長の9人が社務をつかさどり、禰宜・神子はいない。古来武家の尊崇厚く、豊臣秀吉奉納と伝える獅子頭一対が残る。後藤山不動寺は真言宗山科派。慶長7年(1602)宗寛により木野(この)村(現生野区)に創建されたが、水害のため宝暦9年(1759)当地に移転、のち友三寺(ゆうさんじ)と改称したが昭和17年(1942)現寺号に復した。不動明王を本尊としたので左専道不動とよばれ、正月28日は初不動といって参詣人が多く(浪華の賑ひ)、桃の名所としても知られた(浪花のながめ)。大阪では「そうはさせない」というとき、語呂合わせに「ドッコイそうは左専道の不動」ということがあった(大阪府全志)。万峯山大通寺は融通念仏宗。ほかに慶長7年頃左専道惣道場として創建されたという真宗大谷派林照寺、浄土宗地蔵庵がある。
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国境の道:放出街道
(左)摂津国、(右)河内国
◎戦国時代の左専道
特に戦国時代には、国境は緊張状態にあったり、友好的に、その境を意識しない程の穏健な状態もあったと思われます。戦国時代に登場する左専道村の例もご紹介しておきます。天文3年(1534)10月13日の事として、大坂本願寺日記にみえます。ちなみに、ここでは左専道村を「河内国」に属しているかのように表記しています。
※石山本願寺日記(下)P232

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上野玄蕃頭・太融寺より河内サセ堂(左専道)へ陣取。薬師寺二郎左衛門(下文中断)。同朝、周防主計汁振る舞い。
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◎三友寺が元あった東成郡木野(この)村について
戦国時代も終わりつつある慶長年間(1596-1615年)、三友寺は時代と自然に翻弄されますが最終的に、左専道村に落ち着きます。
 そんな三友寺のあった木野村についても見てみます。近年は集落の境目が不明瞭になりましたが、元々の村の歴史を、長文ですが敢えて掲載しておきます。
※大阪府の地名1(平凡社)P645

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(左)明治41年測量
一体化しつつある木野村(赤色丸印)
木野村(生野区鶴橋1-3丁目、桃谷2-3丁目、東成区東小橋1-3丁目・玉津2-3丁目、天王寺区下味原町・船橋町・玉造元町など):

東成郡に属し、北は中道村(現東成区)・玉造村(現天王寺区)、西は小橋村(現同上)。集落は平野川左岸の自然堤防上にある。「摂津名所図会大成」には、「五榎木山 木村にあり往古大樹の榎木五株ありしより斯ハ号せしが、土俗誤りて上野山といひ、五榎木村といへるを、後世略して木村といふとぞ」とある。なお、「摂津名所図会」は「五榎山(うへのやま)」を比売許曾(ひめこそ)神社(現東成区)のもとの御旅所とする。
 正和4年(1315)10月9日付の摂津国守護使沙弥道覚請文(離宮八幡宮文書)によると、「天王寺領木村庄住人七郎男並得願法師等」が、津料と号して山城石清水八幡宮の大山崎神人から荏胡麻を押取ったのを返却するよう命じられている。これが木村の地名のみえるはやい例で、当時四天王寺(現天王寺区)領であった。大山崎神人は鎌倉時代から諸関免除の特権をもち荏胡麻の購入・油の販売の独占権を諸国に拡大しようとしたが、応永4年(1397)5月26日の室町幕府管領署判下知状(同文書)は、摂津の「道祖小路」、天王寺(現天王寺区)、木村、住吉・遠里小野(現住吉区)および近江の「小秋(脇)」の住人らが大山崎神人の特権を侵して荏胡麻油の製造・販売するのを禁じるとともに、油器を破却するよう命じている。しかし、その後の応永21年・翌23年にも、摂津守護細川満元が木村の住人らの荏胡麻油の製造・販売を停止する書下状(同文書)を出しており、木村の油生産がますます盛んになっていたことを物語っている。木村の油商人は、興福寺大乗院・春日神社の寄人となって油座をつくり、また河内誉田(こんだ)八幡宮(現羽曳野市)にも灯油を献納するなど、寺社保護によって商業活動を有利に展開しようとした。この点について、「大乗院自社雑事記」の文明12年(1480)正月27日条に「木村座衆ハ河内誉田八幡宮定灯御油致其沙汰」とみえ、さらに、木村座衆は春日神木の入洛や帰座のとき大和符坂の油座に従い供奉するのが習わしであり、すでに応安-康暦(1368-81)の春日神木入洛のさいにその例が確立していた旨を記している。したがって、少なくとも鎌倉末期頃には春日神社との間に木村油座が形成されていたと推定され、前記の正和4年の荏胡麻押取事件も、たんなる強奪事件ではなく、その背後に大山崎神人との油の生産・販売をめぐる対立関係が伏在していたものと考えられる。
 南北朝時代から室町期にかけて、新座である木村の油商人が南都への積極的な販売策を推進したため、本座の符坂油座との間にしばしば係争を惹起するに至った。以下、雑事記によってその一端をうかがうと、明徳2年(1391)符坂座が、木村座衆が春日神木供奉の代物を未納したのを理由として興福寺に訴え、南都における木村座の商売を3名に制限する措置に出たため争いとなり、その後いったん和解が成立したが、嘉吉元年(1441)に再発するなど、両者はたえず競合関係を維持しつつ文明年間に至ったという(文明12年正月27日条・同年2月15日条など)。文明11年9月に、符坂座が木村座の法華寺での商売を𠮟るべからずとして商品を押取したことに端を発してまた抗争が勃発し、双方が興福寺の門跡や六方衆に働きかけて争い、いったん、六方衆は木村座の南都での販売を止め、木村座の進納すべき油を符坂座に納入するよう命じたが、その納入額が僅少であったため、ついに同13年11月11日の六方集会において、法華寺での商売は双方とも禁じるが、「奈良中・国中売買事、不定人数之多少、如先々可買之」と決議し、いままでどおりの商売を認めた。(文明11年9月12日条、同12年2月5・12・15日条、同13年11月22日条など)。その後両座の争いがどのようになったか詳らかでない。なお、油生産以外にも、同4年に四天王寺の門前市である浜市(現天王寺区)で「木村布座」が布を販売して公事料を納めており、また「木村松売」がいたことも知られるなど(「天王寺執行政所引付」東京大学史料編纂所所蔵)、手工業生産と商業活動が盛んであったことをうかがわせる。
 当地は文明9年9月28日に畠山義就と畠山政長の合戦場となっており、「長興宿禰記」同日条に「摂津国欠郡於木村合戦」とある。同書によると、当時欠郡に属していたことが知られる。また、明応2年(1493)3月に将軍足利義稙(義材)が畠山義就を討つため河内方面へ出陣したさいの明応2年河内御陣図(福智院家文書)のなかに「木村」がみえ、戦略上の重要地点であったことが知られる。事実、この直後に起こった細川政元のクーデターに当たって、政元方の丹波守護代上原元秀が当村付近に布陣している(「大乗院寺社雑事記」同年閏4月19日条)。
 慶長10年(1605)摂津国絵図では木野村とみえる。元和初年の摂津一国高御改帳では「木村小指」として534石余、元和元年(1615)から同5年まで大坂藩領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では幕府領。延宝検地以前の高を示す天和3年(1683)頃の摂津国御料私領村高帳では501石余、幕府領。元禄郷帳でも幕府領で、享保20年(1735)摂河泉国高帳では600石余、幕末には幕府領。「摂津志」に「属邑一」とあり、前掲摂津一国高改帳の「小指」村域北部の小集落東小橋(現東成区)がこれにあたると思われる。東小橋は近世を通じて木野村のうちに含まれたと思われ、明治16年(1883)独立した(東成郡史)。字都東(つど)にある彌栄神社(祭神は素戔嗚命・仁徳天皇)はもと牛頭天王社と称し、延宝5年現社号に改称、大正2年(1913)岡の御館(みたち)神社を合祀。同6年までは、祭祀は10余戸の宮座の年番によって行われた。同字に浄土真宗本願寺派香閣山宗玄寺がある。
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今も残る絵図にある左専道不動尊への参道
この道の突き当たりに不動尊がある
◎様々な人の手によって守られた三友寺が今も残っている

木野村は自治志向のある村で大村で、また、三友寺は慶長7年(1602)の創立という比較的古い寺ですし、天王寺の正祐寺末ともあります。
 加えて木野村は、戦国時代には度々陣所となっており、三友寺が水害で被害を受けるような低地にあったとも考え難いようにも思えます。何か他の理由があって、後藤家が身受けしたのかもしれません。

特に前近代では、封建制度からの慣習が強く残り、まだまだ閉鎖的な地域社会でもあり、更に寛文11年(1671)までに制度が完成したとみられる寺請制度により、その自由度が無い中での寺の移転ですから、幕府などの上位行政組織への届出が必要なはずです。その際は、関係性や経緯を審議の上で、許可がされている筈ですから、何の関係も無いという事は無いはずです。

この先については、また資料を見つけ次第、追加したいと思います。以上のような経緯を辿った後藤山三友寺は、今も当日の姿のまま参拝できる都会の中の貴重なお寺です。地域で大切に守りたいものです。


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明治18年の摂津・河内国境を中心とした周辺の様子(国境の放出街道が南北に通る)


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