2025年10月21日火曜日

河内国の武将小寺美濃守高仲と飯島三郎右衛門と高井田村(現東大阪市)のこと

自分の中の記憶の点が結びついて、線から面になることが時々あります。地域の歴史案内板にある「由緒」が、その私の切れた思考と想定の線を繋いでくれます。
 河内国の戦国武将小寺美濃守高仲(現東大阪市布施付近)と同じく弓術の達人であった飯島三郎右衛門(現東大阪市岩田町)が、同国高井田を通じて、荒木村重との関係性にヒントを与えてくれました。

明治末期頃の地図
◎放出街道は摂津・河内の国境線
旧放出(はなてん)街道を南下していくと、旧深江村(現大阪市東成区深江南3丁目)あたりが、摂津と河内の国境に行き着きます。ここで奈良街道とも交差しており、この付近は重要な場所でした。それについて、東大阪市による説明板が立てられていますので、ご紹介します。

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河内国と摂津国境(令和5年3月:東大阪市):
この児童公園の場所は、明治5年(1872)に高井田本村の西端に鎮座する延喜式内社の鴨高田神社へ合祀されるまで、西高井田の村社として八幡神社(祭神は品陀別命 = 応神天皇)が祀られていた所です。この神社跡の西側、大阪市側の深江との間を南北に通る道を境にして、東大阪市と大阪市の市境が続いています。
 この市境は、古代より江戸時代まで引き継がれてきた河内国(若江郡、渋川郡)と摂津国(東成郡)の国境となってきた古道の一つです。この国境は、場所によっては、周辺より約1mも高くなった堤状の道で、北は森河内の方へのびていました。南の足代村以南はやや屈曲した国境となっていますが、この国境堤は、北は茨田郡から南は平野郷まで続き、剣畷と呼ばれた堤にあたっており、ここを通る道は剣街道(放出街道)と呼ばれていました。
 平安時代の記録に”大同元年(806)10月に河内国と摂津両国堤を定める『日本紀略』”とありますが、深江と西高井田との間の堤道は、この時に定められた国堤の名残と思われます。
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今もここは、大阪市と東大阪市の境になっています。

◎摂津守護荒木村重領の境目、摂津・河内国
戦国時代、荒木村重が織田信長政権下にあって摂津と河内北半国の守護を務めていた頃、摂津の国境として、このあたりも管理していた筈です。ただ、時の政治状況により、統治領域の事態は動くようで、村重が河内北半国(若江以北)も信長から任されていたと思われますので、軍事的な緊張度合は低かったのではないかと思われます。村重統治時代は、比較的穏やかな国境だったと思われます。

◎高井田村地で戦死した武将小寺高仲

さて、既にご紹介したように、ここを南北に通る放出街道は国境も兼ねており、深江村に西接して西高井田村があります。同村には、今も念唱寺(融通念仏宗)という寺があり、同寺に足代(村)の豪族小寺美濃守高仲の墓地と祠が建てられていたと伝わります。高仲は、織田信長と戦い、高井田地域で戦死(高井田の戦い)したようです。東大阪市による念唱寺についての案内板には、以下のようにあります。

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阿弥陀坐像は平安時代作
西高井田と念唱寺(平成5年1月:東大阪市):

念唱寺は融通念仏宗の寺院で、寺のある場所は、戦国の世、石山本願寺に味方して織田信長と高井田の戦いで討死にした、足代の豪族小寺美濃守高仲の墓地があり、祠が建てられて、毘沙門天がまつられていたといわれます。
 本山大念仏寺発行の「融通念仏宗年表」によると、寛文8年(1668)に、河州西高井田村毘沙門堂を寺院化して念昌寺としたことが記され、寺としての始まりを知ることができます。寺はその後衰退の時期もありましたが、寺の本尊の天蓋には、宝暦12年(1762)「施主 当寺中興浄恵大徳」また、瓔珞(ようらく)にも明和5年(1768)のこととして「再興浄恵法師」とあり、浄恵(安永9年没)という僧の時に、寺の再興が図られたことがわかります。
 本堂の奥中央に、本尊の阿弥陀三尊像が安置され、阿弥陀座像は、腹前で定印を結ぶ像高75.7cmの一木造りで、全体に後世の彫り直しで、相当に改変されていますが、平安時代の仏像で、両脇侍像は江戸時代前期頃と推定されています。
 脇にある厨子内の毘沙門天立像も大きく改変された像で、像高67cm、寄木造、玉眼嵌入(ぎょくがんがんじょう)の室町時代頃と推定されています。
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それから、近隣にもう一つ寺があったらしく、しかしこちらは残念ながら、明治時代に廃寺となったようです。その興りなど、今のところ調べていませんが、法華宗の聖源寺という寺があり、その跡に石碑が今も立っています。「ぐるり関西」というウェブサイト(https://gururinkansai.com/nensyoji.html)から引用します。

---(資料3)----------------
かつてあった法華宗聖源寺のこと(ぐるりん関西):
ウェブサイト上の観光案内コンテンツ『ぐるりん関西』によると、念唱寺の前にある「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑は、聖源寺ゆかりの遺物で、側面に「東足代村、聖源寺享保12年(1722年)」とあります。聖源寺は明治時代に廃寺となったようです。
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この聖源寺は、東足代村に縁があるゆです。足代村といえば、先ほどの小寺高仲も足代出身の武将との事でしたので、この西高井田地域は、小寺(足代)氏の支配する所だったかもしれません。

撮影:2005年5月
◎河内国岩田村地で戦死した武将飯島三郎右衛門

それから、同じ東大阪市の旧岩田村にあたる場所に、弓術の達人であった戦国武将飯島三郎右衛門の墓があり、同氏も高井田村出身でした。その墓はその伝戦死地にあるようです。ここにも東大阪市と岩田町文化財保存会による案内板があり、以下のように紹介されています。

---(資料4)----------------
飯島三郎右衛門の墓(平成9年3月:東大阪市・岩田町文化財保存会):
飯島三郎右衛門は市内高井田村の生まれで、幼少の頃より弓道が得意で成人して、戦国の武将織田信長に仕えました。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は、その子秀頼に仕えました。元和元年(1615)5月「大坂夏の陣」の若江、八尾付近の戦いで、木村長門守重成に属して徳川軍と戦い、相手方の武将山口伊豆守重信に槍で突かれ、この地で戦死しました。重成、重信ともに戦死するという壮烈な戦いであったといいます。三郎右衛門の長男三吉(さんきち)は殉死をとげ、妻及び母も自刃したが、乳母に助けられた次男が成人した後、この地と高井田に父の墳墓を建てたと伝えられています。
 また、三郎右衛門戦死のこの地は、沼地で大小の用水の集合地であり、若江村と岩田村を結ぶ「雁戸樋橋(かりんどひばし)」という細い橋がありましたが、今も道路の下には昔と変わること無く、楠根川にそそぐ水が流れています。
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◎河内国高井田村(現東大阪市)について
高井田村は、長瀬川曹沿いであり、奈良街道も通す要地でしたので、大きな村でした。高井田村の概要を以下に示します。
※大阪府の地名2(平凡社)P981

---(資料5)----------------
高井田元町付近(撮影:2017年4月)
高井田村(東大阪市高井田、高井田(本通1-6丁目、西1-6丁目、東1-4丁目、中1-6丁目)、長栄寺1-2丁目):

森河内村の南にある。近世には若江郡に属したが、当地の鴨高田神社が渋川郡の同名式内社に比定されるので、古代には渋川郡であったかもしれない。東の村境を長瀬川が流れる。暗峠越奈良街道が東西に走る。正保郷帳の写しにみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(1673-81)河内国支配帳とともに高1711石余、幕府領。天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳では同高で、京都所司代戸田忠昌領。元文2年(1737)河内国高帳では1817石余、幕府領。宝暦10年(1760)には幕府領(瀬川家文書)、幕末にも幕府領。文久元年(1861)の村方様子大概帳(塚本家文書)の署名者は庄屋4・年寄8で、4村か、本郷と3つの枝郷に分かれていたと考えられる。高持百姓は103軒。農間余業は白木綿織。大和川付替え以後用水が不足し、夏に10日も照り続けば干害となった。悪水は西方の平野川へ落ちているが、淀川の水位が高くなった時には逆流して田畑が冠水した。前掲大概帳によると、村の南東から南・西・北にかけて延長1650間の内除堤を自普請でつくっているが、淀川・大和川からの出水に備えたものであろう。長瀬川を航行する井路川剣先船を宝永2年(1705)に村民が6艘所有していたが、のちに2艘に減少した。天明3年(1783)から他の4ヵ村とともに松原宿の費用の46パーセントを負担した(布施市史)。産土神は鴨高田神社。真宗仏光寺派西運寺、新真言宗長栄寺、真宗大谷派楊山念正寺、真宗仏光寺派本光寺、融通念仏宗念唱寺がある。
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続いて、高井田村に関係の深い高井田庄についてです。
※大阪府の地名2(平凡社)P981

---(資料6)----------------
高井田庄:
山城石清水八幡宮領の庄園。「吾妻鏡」元久元年(1204)8月21日条に「石清水八幡宮領河内国高井田」とみえ、将軍家の祈祷料所として地頭職をとどめ、八幡宮の沙汰とされている。のち永仁5年(1297)6月日付善法寺尚清処分帳(石清水文書)では、宮一若(入江通清)に譲られ、応長元年(1311)12月15日付善法寺尚清処分状写(同文書)によると、このとき検校職とともに権別当康清に譲られた。応永27年(1420)には当庄下司・公文・年預三職が石清水八幡宮寺雑掌に付され(同年8月28日「畠山満家尊行状」同文書)、長禄3年(1459)には高井田ほかが阿子々丸(善法寺享清)に付されている(同年12月30日「畠山義就尊行状」同文書)。所在地は従来大県(おおがた)郡高井田(現柏原市)一帯とされてきたが(荘園志料)、明確な根拠はなく、高井田庄に郡名を冠した史料もない。一方、当地若江郡高井田の鴨高田神社はもと八幡宮といい、かつて高井田の字西高井田に品陀別命社北の町にも八幡神社があった(大阪府全志)。また「河内志」の鴨高田神社の項によれば、当地一帯は石清水八幡宮と関係が深かったようである。断定はできないが、高井田庄は当地一帯と考えてよかろう。なお所在地不明の石清水八幡宮極楽寺領高井田小庄もある(保元3年12月3日「官宣旨」石清水文書)。これも大県郡高井田に比定する説があるが(大阪府史)、同地は大和川に面した平地のない場所なので、低湿ではあるが平地の広がる当地付近と考えられる。
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◎山城国石清水八幡宮領と鴨高田神社

この高井田庄は、山城国石清水八幡宮領でした。西高井田村にも八幡社がかつてはあり、明治時代に鴨高田神社に合祀されています。西高井田村の旧神社地は、今は小さな公園になっており、北隣りに念唱寺があります。
 このことから、西高井田村までが高井田庄域であったことが判ります。その鴨高田神社について、概要を示します。
※大阪府の地名2(平凡社)P982

---(資料7)----------------
鴨高田神社(撮影:2017年4月)
鴨高田神社(現東大阪市高井田):

「延喜式」神名帳に載る渋川郡の小社「鴨高田神社」に比定される。現在の祭神は須佐之男命、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇。旧郷社。「続日本後紀」承和3年(836)5月19日条に「河内国人散位鴨部船主、武散位同姓氏成等賜姓賀茂朝臣、速須佐之雄命之苗裔也」とあり、河内国と鴨氏との関係が知られるところから、当地に鴨氏がおり、同氏が奉祭した社とも考えられる。中世の状況は不明だが、「河内志」には「中古以此地、供山州八幡神祭料因称八幡宮」とある。当地一帯に山城石清水八幡宮領高井田庄があったと考えられ、当社も同八幡宮と関係が深かったと思われる。慶長20年(1615)大坂夏の陣で兵火に遭い、数年後再建されたという(大阪府全志)。「河内名所図会」によると、北隣の長栄寺の鎮守で八幡宮と称し、高井田村の産土神。例祭は9月15日。境内地に水神の小祠があるが、旱魃になると長栄寺住職が参って祈祷をし、その後村人とともに辻々の地蔵を巡拝して雨乞いをしたという(布施市史)。安永年間(1772-81)悪疫が流行した折、神職久左衛門が1月9日から10日断食祈祷して全村厄を免れた。これにちなみ毎年1月9日大弓による悪魔降伏の式を行ってきたが(大阪府史蹟名勝天然記念物)、昭和10年(1935)頃絶えたらしい。拝殿前の狛犬の台座銘によると、寛政(1789-1801)頃宮座の存したことも知られる。明治5年(1872)村内西高井田の品陀別命社、同40年同じく北の町の八幡社を合祀し、品陀別命(応神天皇)が祭神に加わった
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石清水八幡宮 東谷橘本坊跡
◎戦国武将荒木村重と山城国石清水八幡宮

既述の守護格戦国武将荒木村重は、この石清水八幡宮とも親しげに音信を交わしており、村重の領内にあった八幡宮領をより良く保つため、互いの友好を深めたのでしょう。
 村重が、石清水八幡宮内橘本坊に宛てた音信があります。2月28日付、天正3年と推定されるものです。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P18

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此の表出陣に就き、両所御香水頂戴せしめ候。殊更に味(物事の意味やおもしろみ・おもむき)茶菓子贈り給わり、御懇ろ之至りに候。開陣之刻、申し述べるべく候。恐々謹言。
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大坂本願寺跡地(撮影:2014年1月)
大坂本願寺を孤立・封鎖のため、天正2年(1574)から翌年夏にかけて、摂津・河内国内の本願寺方とそれに味方する三好三人衆方などの勢力を一気に制圧する作戦を織田信長が命じています。
 資料(8)は、この動きの中で、石清水八幡宮が、国単位の地域統治者であった荒木村重に誼を通じたものと思われます。

◎戦国武将小寺高仲の戦死時期
話しを元に戻し、やっとテーマの核心です。河内の戦国武将小寺高仲が、信長勢との戦いで戦死したとの伝承は、いつのことなのか考えてみます。
 信長が足利義昭を奉じて入京するのは永禄11年(1568)秋です。そして、近畿を概ね平定、特に河内地域においては、天正3年夏頃です。その間にいくつかの地域毎の小競り合いはありますが、特に激しい闘争は、天正2年夏頃から翌年夏頃にかけてです。
 以下、ざっとその間の流れと出来事を書き出してみます。

---(資料9)----------------
【天正2年】
7/31   織田信長方細川藤孝勢、河内国三箇城(現大東市)を攻める
9/18   織田信長方細川藤孝勢、河内国堀溝(現寝屋川市)など飯盛山城下で交戦
9/21   本願寺坊官下間頼廉など、河内国人宇治彦右衛門尉跡目(現門真市)へ感状を下す
9/24   織田信長、河内国萱振(現八尾市)での功名に対して細川藤孝へ感状下す
9/29   織田信長方細川藤孝、某へ河内国飯盛城下(現四條畷市)の交戦などについて音信
10/20 織田信長衆明智光秀など、紀伊国根来寺在陣衆中へ河内国南部での戦況を音信
11/16 織田信長勢開陣する
【天正3年】
2/28   織田信長方荒木村重、八幡山(山城国男山の異称)橘本坊へ音信(返信)
3    織田信長、摂津国平野庄へ禁制を下す(朱印状)
3/15  足利義昭衆大和孝宗、甲斐守護武田勝頼一族穴山信君宿所へ河内国の戦況を音信
3/22  織田信長、細川藤孝へ本願寺攻めの兵動員について音信
4/1  織田信長、河内国内などに徳政令を出す
4/6  織田信長、京都から河内国へ向けて出陣して八幡へ陣を取る
4/7  織田信長、河内国若江城に入る
4/13  織田信長、摂津国天王寺へ移陣
4/14  織田信長勢、摂津国大坂本願寺周辺へ押し寄せて苅田などを行う
4/19  織田信長勢、摂津国新堀城・河内国高屋城を落とす
4/21  足利義昭方本願寺門徒衆の河内国萱振勢、織田信長へ人質を出す
4/21  織田信長、京都へ戻る
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大阪町中並村々絵図
(承応・寛文頃:1652-73)
◎小寺氏と飯島氏は河内国に生まれ、河内国で戦死

河内国の平定戦の中で、高井田に近い地域での戦いは、天正2年の秋です。小寺高仲は、この時の高井田の戦いで戦死した可能性があります。
 もちろん他の年月の可能性はありますが、概ねの確率の高さを示しておき、後年の研究の深まりに期待したいと思います。

それから、弓術の達人であった飯島三郎右衞門は、信長方として転戦したと伝わっているようですので、もし三郎右衞門が、この頃の戦いに参加しているなら両者は、敵味方の関係でもあった筈です。三郎右衞門は信長方で、攻める側です。三郎右衞門の戦死時期からすると、両者の世代に少し開きがあるかもしれません。

高井田庄は、永年に渡り石清水八幡宮領で、村もそこに属していましたから、その時期には信長など、時の統治者と友好を保って、領地経営の安定化を図ろうとしていたと思われます。資料(8)の村重とのやり取りは、そんな状況が想定できます。

戦国武将である小寺氏も飯島氏も河内国に生まれて、同国内で戦死しています。どのような想いで戦っていたのでしょうか。

 

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