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2026年4月6日月曜日

摂津国河辺郡多田院領であった摂津国善源寺庄(大阪市都島区)について

明治40年(1907)まで、この地にあった善源寺は、大阪市西区本田へ移転し、今はその跡地になっています。(同じ系譜なのかは不明)しかし、その寺名を冠する地名になる程の古刹で、奈良時代の行基建立寺院の一つと伝わっています。また、沢上江村には法皇山母恩寺があり、後白河法皇が、母待賢門院の菩提寺として建立しています。
 このように、この付近は古刹が多いのですが、経緯の判らない寺院も多く、この善源寺もその一つです。
 そしてまた、このあたりは善源寺庄という荘園で、建武4年(1337)7月、足利尊氏が源氏の宗廟多田院への信仰の証しとして、善源寺東方地頭職を寄進した事から多田院の領するところとなります。

しかしなぜ、足利尊氏は、この地を選んで多田院へ寄進したのでしょうか。先ずは、善源寺村について、見たいと思います。
※大阪府の地名1(平凡社)P621

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善源寺跡地に立つモニュメント
【善源寺村】
(都島区善源寺町1-2丁目、都島北通1-2丁目、本通3-5丁目、中通3丁目)
沢上江村の北に位置する細長い村で東は京街道、西は淀川に接する。村名ともなった善源寺については、奈良時代の行基建立寺院の一と伝え、「行基年譜」に天平2年(730)、行基が63歳の時、西城(成)郡津守村(現西成区)に建てたとある善源院が前身という。また「行基菩薩伝」には天平勝宝5年(753)7月2日「乗船下去善源寺、於寺内、以二千余蓮花荘厳自余」とみえる。平安時代、摂関家領榎並庄四至内に所領をもつものとして、天王寺(現天王寺区の四天王寺)とともに善源寺があり(「水左記」承暦4年6月25日条)、善源寺が榎並庄の近辺に存在したことがうかがえる。この寺との関係は明らかでないが、明治40年(1907)まで当地に黄檗宗善源寺があり、現在西区本田に移転。当村は榎並庄に含まれ、南北朝時代から多田院(現兵庫県川西市多田神社)領善源寺庄となった。多田神社文書ではおおかた西成郡とされているが、近世以降は東成郡に属する。天文(1532-55)頃、当村の本願寺門徒は、毎年石山本願寺(跡地は現中央区)に銭や白米を上納、付近には石山本願寺の本願寺出城もあった(→沢上江村)。
 元和元年(1615)から5年まで大坂藩松平忠明領、続いて幕府領となり、そのまま幕末に至ったとみられる。江戸時代初期の村高は中野村の項参照。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では575石余、元禄14年(1701)の摂津国村々石高書上帳では607石余となり、以後幕末まで変化はない。享保年間(1716-36)村民のなかには淀川筋に小舟を出して、往来の旅船に酒・餅などを売り、淀川煮売茶船の特権をもつ島上郡柱本村(現高槻市)の茶船持中にとがめられている(浜家文書)。天保8年(1837)大塩平八郎の窮民施行を受け、乱に連座して30日手鎖刑となった者は百姓惣八など15人(「出潮引汐奸賊聞集記」大阪市立博物館蔵)。当村から西成郡南長柄村(現大阪市北区)へは江戸中期頃善源寺渡があった(摂陽群談)。字八幡には応神天皇を祀る産土神社があったが明治42年桜宮に合祀。産土神社は長徳年間(995-999)源頼光の創建と伝え、境内には頼光の臣渡辺綱が馬を繋いだと伝える樹齢800年の駒繋のクスがあったが、第二次世界大戦時に被災して枯死。かつて正月に古い注連縄を焼き、新しい縄で氏子が綱引きをしたのちクスに巻くという神事があった。浄土真宗本願寺派字山心宗寺がある。
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次に、善源寺庄についてです。同庄園の所属行政区は、「欠郡中嶋」か「西成郡」かは、ハッキリとせず、その範囲も不明なところがあるようです。
※大阪府の地名1(平凡社)P621

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渡辺綱・駒つなぎの樟
【善源寺庄】

現都島区善源寺町付近にあった多田院(現兵庫県川西市多田神社)の庄園。建武4年(1337)7月、足利尊氏が源氏の宗廟多田院への信仰の証として諏訪三郎左衛門尉の欠所地であった善源寺東方の地頭職を寄進したことから多田院領となった(同月25日「足利尊氏寄進状」多田神社文書、以下同神社文書は個別文書のみ記す)。
 南北朝動乱のなかで、多田院が当庄の支配を推進していくには多大の困難を伴った。観応元年(1350)には、旧主の諏訪三郎左衛門尉の代官が違乱をはたらき、多田院住持は足利直義に訴えてそれを停止してもらわねばならなかった(同年12月18日足利直義書下)。また貞治5年(1366)6月9日には、西成郡守護の畠山義深が「中嶋善源寺」地頭職を多田院雑掌に去り渡す措置を講じている(畠山義深書下)。康暦2年(1380)この地頭職はまたもや近隣の者に押領され、管領斯波義将は守護渋川満頼に、違乱を停止するよう二度にわたって命じているが、押領の中心になったのは、赤松義則・楠木中務大輔の家人らで、多田院雑掌を追い出し狼藉をはたらいた(同年6月3日および7月16日足利将軍家御教書)。守護方からは下地を多田院雑掌に返還する措置をとったという報告があったものの、実際にはなかなか実源されなかったようで、永徳2年(1382)多田院雑掌は、善源寺庄西方地頭職について「度々尊行之処、尚以不事行」と訴えている(同年9月10日渋川満頼奉行人連署奉書)。西方地頭職がいつ多田院領になったか明らかでないが、東方地頭職と同じく諏訪三郎左衛門尉の欠所地で、室町幕府の将軍から寄進されたものと考えられる。明徳4年(1393)にも、幕府が西成郡守護結城満藤に対し、善源寺地頭職の多田院雑掌への返付を取計らえと命じるなど、侵略・押領が繰り返されていった(同年8月23日結城満藤尊行状)。
 こうした情勢のなかで、足利尊氏以下歴代将軍は多田院を将軍家祈祷所として崇敬し、多田院領の一つとして当庄にも積極的な保護を加えた。三代将軍義満は、応永元年(1394)11月12日、寺領や代々の給主寄付田畑山野などの知行を安堵する御判御教書を下し、以後義持・義教・義政がいずれも同内容の御判御教書を出している。また幕府は多田院領の段銭・棟別銭などを免除し、多田院の修造費に充てるようにした。善源寺庄も幕府から代々これらの負担を免除する御墨付を得ていたが、次第にその特権が侵害される情勢が進展していった。永享元年(1429)西成郡の守護赤松氏が大挙して当庄に入部し、百姓を譴責して段銭を取立てる事件が起こり、多田院の訴えを受けた幕府は、守護代薬師寺出雲入道に段銭徴収の禁止命令を出している(同年12月17日室町幕府奉行人奉書)。以後も、永享2年・同5年・文安2年(1445)と、幕府は段銭・兵庫砂掘人夫役・伊勢神宮役夫工米などの免除を令し、同4年11月9日には、善源寺庄に段銭以下諸役を免除し、守護使不入の地とする将軍家下知状を発している。やがて応仁・文明の乱が勃発すると、この事態はきわめて危機的なものとなっていった。文明14年(1432)3月22日付で、細川政元は多田院雑掌あてに奉書を出し、近年、敵方の乱入により善源寺地頭職が奪われ所務が行われなくなっているが、先規のように課役を免除するので領知を全うせよと述べている。だが、多田院の支配はこうした一片の奉書で完遂できる状態ではなく、その後しだいに衰微していったとみられる。天文年間(1532-55)には本願寺勢力が入り込み、善源寺・沢上江などの門徒は毎年の斎料を負担、また両村には本願寺の出城も設けられた(天文日記)。なお多田神社文書において善源寺は、文明14年3月22日の細川政元奉行人奉書に「欠郡善源寺村」とある以外ほとんど西成郡とされ、また「中嶋善源寺」とあるようにかつては西成郡中嶋のうちであったとも考えられる。北隣の友淵庄も同じく西成郡とされているが、付近が西成郡であったと断定はできない。「水左記」承暦4年(1080)6月25日条には、当地東方一帯に広がる榎並庄の四至内に所領をもつものとして善源寺の名がみえ、善源寺が榎並庄の近辺にあったことは確実であるが、寺そのものについては不明。
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善源寺庄や沢上江庄は、距離的にも近い本願寺教団の影響力が強く、また一時期、三好長慶実弟十河存保の代官地にもなっていました。しかし、天文22年(1553)頃に三好氏は、本願寺宗へ沢上江庄を返還したようです。
※本願寺日記(上)P704

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12月24日条:
(前略)三好筑前守へ、沢上江返付事就き、梅染十端之遣わす。又只音信為、綿十把之遣わす。松永弾正忠へ、沢上江事に就き、綿二十把之遣わす。塩田へ、同儀に就き、梅染三端之遣わす。又音信為、綿三把之遣わす。松山へ右の事就き、梅染め三端之遣わす。赤木兵部へ、同儀就き、綿二把之遣わす(是は松山他行之時之申し置き、一筆等之調べ出す。)。右使い為芝田之差し遣わす。頼資書状調え之遣わす。(後略)
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一応、善源寺村に隣接する、沢上江村についても見ておきます。
※大阪府の地名1(平凡社)P620

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浄土宗法皇山母恩寺
【沢上江村】

(都島区都島本町1-3丁目、中通1-3丁目、南通1-2丁目、中野町5丁目)
中野村の北にある狭長な村で、西は淀川。東端を京街道が通るが、集落は淀川寄りにある。「沢上江」と書いてカスガエと読むことについて「摂陽群談」は「世俗滓を澤に誤り」と記し、すでに本願寺10世証如の「天文日記」に「滓」(天文5年7月25日条)と「澤」(同6年7月25日条)の混用がみられる。慶長10年(1605)の摂津国絵図は「澤」の略字「沢」をもって「沢上江」と表記、江戸時代は一般的に「沢」が用いられるが、「摂津志」や「摂津名所図会」など「滓上江」と表記するものも多い。また元和初年の摂津一国高御改帳では「春日江」の字をあてる。観応元年(1350)3月27日付の売券(小杉榲邨採集文書)に「四天王寺御料沢上江庄」とみえ、南北朝期には四天王寺(現天王寺区)の寺領であった。室町時代には当地付近に本願寺教団の勢力伸長、「天文日記」天文5年(1536)7月25日条によれば、当村の門徒は善源寺・辻・放出(現鶴見区)の各村とともに毎年7月28日の斎日の勤仕として石山本願寺(跡地は中央区)に銭3貫・白米一石を上納していた。また、同年正月29日条には「従中山方、滓上江・善源寺焼跡に又従中嶋可構城之由候間、足軽を懸候条、為案内申候ツ」、同年8月8日条には「従山中蔵人、今度滓上江之城へ入城候とて五種五荷到来也」との記事があり、当地・善源寺付近に本願寺の出城があったが焼失したらしいこと、その城が直ちに再築されたことがわかる。同22年12月24日条には「三好筑前守へ就沢上江返付事、梅染十端遣之」とあり、当地を一時三好氏が領している。
 江戸時代には上・下2村に分けて記されることもあった(明暦元年の大坂三郷町絵図など)。領主の変遷および江戸初期の村高は中野村の項参照。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると高586石余、元禄14年(1701)の摂津国村々石高書上帳では666石余、以後幕末に至るまで変化がない。享保年間(1716-36)村人のなかには無断で淀川往来の船に餅・酒などを売る者があり、茶船持中から度々抗議を受けている(→網島町→中野村)。享和2年(1802)の大洪水で、河内国茨田郡西部八ヶ庄(現門真市)と、東成郡榎並庄(現都島区・城東区・旭区など)の水を淀川に落とすため、沢上江村の堤防を「態と切」しようとする者があったが、大坂市街の被害と風聞による混乱を恐れた町奉行はこれを許さず、ついに与力同心が銃口を向けて鎮圧するという事件があった(大阪市史)。「摂陽奇談」によれば文化5年(1808)当村百姓上田与一郎は伯耆産の白牛を買育て、嘉端として評判となった。また百姓上田孝太郎は大塩平八郎の洗心洞学塾(跡地は北区)に入塾し、天保8年(1837)の大塩の乱では檄文配布役を勤め死罪となった。当村でこの乱に連座して30日手鎖刑を受けた者は作兵衛ほか11人、過料刑となった者18人(「出潮引汐奸賊聞集記」大阪市立博物館蔵)。
 字寺の前の法皇山母恩寺は浄土宗の尼寺で、仁安3年(1168)後白河法皇が、母待賢門院の菩提寺として創建したと伝え、寺号は母后報恩の意。本尊阿弥陀如来立像は恵心僧都の作という(摂津名所図会)。同寺の尼僧は常に綿帽子を製し(摂陽群談)、「淀川両岸一覧」は「その色清白にして美を好す。もって名物とし世に名高し」と記す。寺はもと大伽藍を有し、寺域はほとんど一村に及んだというが、天正年間(1573-92)の兵火で衰微(大阪府全志)。母恩寺北東の鵺塚は、近衛天皇のとき源頼政(頼光と同族で摂津源氏)が御所で退治した(「平家物語」巻4)という「鵼」が漂着したので、祟りを恐れて埋めた所と伝えるが(摂陽群談)、大かたの地誌類はこの伝承に否定的で、「淀川両岸一覧」は「その事実詳らかならず、疑ふらく、いにしへ高貴の人を葬りし塚なるべし」と記す。
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そして次に、多田院についてみてみます。先述の「なぜ、善源寺庄を尊氏が、この地を選んで多田院へ寄進したのでしょうか。」の理由がここにあります。
※兵庫県の地名1(平凡社)P381

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多田院拝殿(2001年3月撮影)
【多田神社】

祭神は源満仲のほか頼光・頼信・頼義・義家。旧県社。当初多田院として創建されたもので、摂関家領多田庄とともに摂津源氏(多田源氏)の拠点となった。境内は国指定史跡。
[多田院の創建]
多田院は多田院鷹尾山法華三昧堂と称したといわれるが、中世の史料では確認できない。本尊は丈六釈迦如来。天禄元年(970)源満仲は嫡男頼光・次男頼親・四男頼信らとともに七堂伽藍を建立して多田院とし、比叡山の慈恵(良源)を導師とし堂塔供養を行った(歴代編年集成)。満仲は寛和2年(986)多田で出家、長徳3年(997)86歳で死去し、多田院に廟所が営まれた。平安時代末源平の戦の後、源頼朝は多田蔵人行綱を勘当し源氏一族の大内惟義に多田院を預けたが、行綱の家人は元のごとくとした(元暦2年6月8日「大江広元奉書案」多田神社文書、以下断りのない限り同文書)。大内氏もまた承久の乱で京方についたため失脚し、北条泰時は、摂津国多田院は君(源頼朝)の先祖の御領で古来守護不入の地であるとし(安貞2年9月14日北条泰時書状案)、初め泰時が管理し、ついで北条氏得宗領となった。
 文永9年(1272)頃恒念が勧進聖となって堂舎の修造に着手(同年9月5日得宗公文所奉行人連署奉書)、翌10年には得宗は多田院造営条々13条を定め(同年4月2日得宗公文所連署下知状)、建治元年(1275)得宗の信頼あつい鎌倉極楽寺の長老刃性が多田院の別当職ならびに勧進職に起用された(同年10月15日得宗公文所奉行人連署奉書)。それとともに多田院は従来の天台宗系から律宗奈良西大寺末となり、弘安4年(1281)本堂を中心に方10町が殺生禁断と定められ(同年4月18日得宗禁制案など)、また永仁6年(1298)定められた西大寺以下34ヵ寺からなる関東祈願所の「専随一」と称されている(元応元年7月25日工藤貞祐書下など)。
[鎌倉の堂舎]
弘安4年3月23日金堂復興がなって、西大寺の叡尊を導師として供養が行われた(金堂供養注進状・金堂供養供養曼荼羅供僧衆等交名)。正和5年(1316)10月13日に三重塔の供養が行われたが、その指図によれば、再建当時の伽藍配置は中央に金堂、左右に常行堂・法花堂という叡山西塔型であるが、南と北に南大門・学問所、後方東に経蔵、西に塔・鐘楼などがある変型で、境内の北東隅に拝殿つきの満仲の御廟があり、全体として氏寺的権威を示しているとされる(川西市史)。なお境内南西隅には「一庄の鎮守」「多田院惣社」の六所宮が拝殿つきで描かれている。修造はさらに千手堂・南大門と進められ、元徳3年(1331)頃南大門供養が行われたものとみられる(同年11月21日工藤貞祐行状など)。多田院修造のため、もともと多田庄の年貢の一部が充てられいたが、文永10年給主等田畠得分の半分を充てるよう得宗は命じており(後述の多田院御家人を除く)、正応6年(1293)には摂津国および丹後国の棟別銭(棟別10文)が許可され(同年正月19日官宣旨など)、さらに永仁6年から3年間多田庄の全年貢を、正安3年(1301)から2年間年貢の半分を修造料に充てている(永仁6年4月20日得宗公文所奉行人連署奉書など)。しかし多田庄政所や給人等の未進も多かったようで、得宗の意気込みにもかかわらず多田院の修造は結局長期を要し、得宗の滅亡直前に一応の完成をみた。
 なお多田院には他に往生院・地蔵院などの院坊があった。延慶4年(1311)僧住真は往生院住持職と田畠を尊阿弥陀仏に売渡し(同年3月11日住真売渡状)、同年僧源証(おそらく尊阿弥陀仏)は養子松若女に譲与した(応長元年7月16日源証譲状)。しかしこのうち灯油畠は正嘉3年(1259)頃から住持と作人との間に紛争があり、住持の進退であることを裁可していたが、再燃し、再び正和4年に多田院住持の安堵を得た(同年9月1日往生院灯油畠定書案)。のち貞和2年(1346)紀松若女は子息の祖恂房に譲り(同年2月紀松若譲状)、康安元年(1361)祖恂は多田院内地蔵院の円珠房に永代譲渡した(同年12月1日祖恂譲状)。往生院・地蔵院ともに多田院指図に記載がなく、境外の住房か。
多田院本殿(2001年3月撮影)
[足利氏の信仰と多田院鳴動]
足利尊氏による幕府の再興以後、足利将軍家の代々は曩祖満仲の氏寺として多田院と満仲廟所を深く信仰し、これを保護した。尊氏は建武4年(1337)7月25日善源寺(現大阪市都島区)東方地頭職を寄附し(足利尊氏寄進状)、延文3年(1358)尊氏の没後2代義詮によって遺骨が多田院に分骨された(同年6月29日足利義詮御判御教書)。これが先例となって義詮・8代義政・12代義晴・13代義輝の遺骨の分骨が確認できる。一方、将運若君誕生の節、多田院に神馬一疋を引進めて無事成長を祈願することも、史料の上では永享6年(1434)6代将軍義教の若君(のちの7代義勝)に始まり(同年8月1日室町幕府評定衆奉書)、戦国期に及んでいる。
 史料の上では貞治2年(1363)を初見に佐々木道誉が多田院と多田庄に大きな支配力をもち(同年6月5日佐々木道誉年貢寄進状)、多田庄に段銭や人夫役などを課して多田院堂舎の修造に励んでいる。道誉の権限は多田庄の分郡守護説が有力で、一時期赤松義則(守護代時則)に交替したほかは道誉の子孫が継承して宝徳元年(1449)頃に及んでいる。さらに幕府は摂津一国平均に臨時の段銭・棟別銭を課したとき、多田庄と周辺加納の庄や村についてはこれを免除し、修造料として多田院に寄附して独自に徴収させた。史料では至徳3年(1386)に始まり(同年6月7日室町将軍家御教書)、この慣例も戦国時代に及んでいる。関係史料は多数伝わり、多田院が実際に段銭を徴収した結解状も伝わる(文明18年多田庄段銭結解状など)。次に述べる狭義の寺領に対する将軍代替りごとの安堵など、通常の保護のうえに格別な助も加えられていたわけで、国人・土豪らの祈祷料田等の増加とあいまって、室町期は多田院の全盛期であったとみられる。なお文明16年(1484)5月10日9代将軍義尚は、「多田院廟前詠五十首和歌」を奉納している(群書類従)。
 こうした足利将軍の深い信仰を背景に、多田院鳴動が起こった。多田院鳴動とは満仲の廟所が音を発してゆれ動くといわれることで、鳴動があると多田院はただちに幕府に注進した。たとえば文明14年9月17日には、「御廟所 御鳴動注進之事 大動両度 9月14日亥刻、小動十箇度同刻、中動二度 同十五日戌刻、小動三度同十六日辰刻、右任御佳例、注進之状、如件」と注進されている(御廟所鳴動注進状案)。廟所の鳴動はもともと信仰の所産で、京都東山の将軍塚(坂上田村麻呂の墓という)などに平安期以来先例がある。「多田院縁起」などによれば、満仲は死に際して「吾没後神をこの廟窟に留め置き、弓箭の家を譲るべし。しかのみならず当院鳴動を以て、兼ねてまさに四海の安危を知見すべし」云々と遺誡したとされ、前九年の役や平家滅亡のときにすでに鳴動があったという。しかし遺誡もこれらの鳴動も史料上確認はできない。史料上の初見は応永22年(1415)で、同年11月16日の足利義持御判御教書には「鳴動事、為佳例上者、弥可抽祈祷精誠之状、如件」とあって、多田院住持宛に祈祷を命じている。「佳例」とは多田院鳴動にすでに先例があったのか、廟所の鳴動そのものが佳例なのかは明瞭ではないが、多田院鳴動に対する幕府の対応はこの頃では一定していないようで、応永22年が最初でないにしても遠からぬ時期に始まったようである。多田院鳴動は現存史料では17回知られ、最後は室町幕府滅亡直前の元亀3年(1572)頃である(年未詳10月1日足利義昭御内書。「後鑑」は元亀3年とする。)鳴動の注進があると将軍の御判御教書をもって多田院に祈祷を命ぜられるが、寛正5年(1464)から同時に馬一疋と銀剣を献じる(代銭の場合もある)のが慣例となった(「続史愚抄」同年11月1日条)。文明4年7月の鳴動には折からの応仁の乱と吉田兼倶の影響もあってか、将軍足利義政は大きな打撃をうけた。義政は多田院鳴動を「万代守護の権現」である満仲の怒りととらえ、これを鎮めるために兼倶に命じて神祇斎場(現京都市左京区)で義政の意中を敬白させるとともに廟所に銀剣・馬を奉献して祝詞を捧げた。宣命体の義政の祝詞から、満仲の神格化がうかがわれる。さらに義政は後土御門天皇に働きかけて、正四位下で死んだ満仲に従二位を追贈した。贈位の宣命と位記は勅使が下向して廟前で読み上げた(ともに現存)。贈位から勅使派遣のいきさつは、「親長卿記」などに詳しく記される。
[多田院領]
康正2年(1456)8月日足利義政袖判の寺領安堵状には「多田院本寺領並び御寄進代々給主寄進所々」として、前述の善源寺東方地頭職をはじめ鷹尾(惣社六所権現御灯油並御壇供料所、北畠殿寄進)・櫛作(上寺観音堂免、北畠殿寄進)・鎮守惣社六所権現免(北畠殿寄進)・猪淵村(毎日仏性米並び護摩供料、高師直寄進、現猪名川町)・原郷(現同上)地頭給内五反(御塔仏修理料、高師冬寄進)・多田郷内(佐々部方瓜生名、承仕給、仁木義長寄進)・山原村(本堂以下修理料、佐々木道誉寄進)・石道村(新田方並平居弥九郎跡屋敷内三段本堂寄進、赤松時則寄進)・紫合(本田方、談義料所、赤松時則寄進)の10所が記され、この寺領内の検断も寺家沙汰とされている。永禄12年(1569)5月30日この10所は足利義昭御判御教書によって安堵されており、戦国末まで維持された。一方、鎌倉後期以来、小規模田畠の加地子等の寄進も相次ぎ、寄進状は多数伝来する。寄進先はたんに多田院と記し、あるいは千部経料田など多田院の法会料所として寄進していることが多いが、戦国期には塩川氏・山問氏ら多田院御家人の系譜をひく国人・土豪らは、武運長久などを祈って満仲廟所の灯明料などに寄進することが多くなり、満仲廟所の信仰が高まっていることがうかがわれる。
[多田院御家人]

平家滅亡後、多田蔵人行綱が頼朝によって追放されたが、行綱の家人武士たちは御家人として安堵され、閑院内裏(京都御所)の大番役を命じられた(元暦2年6月10日中原親能奉書案)。承久の乱後、多田庄御家人の再編成が行われ、御家人には給田一町が与えられて安堵された(嘉禎4年5月14日多田庄庄務条々事書案)。この御家人の義務を明記した史料はないが、給田一町では一般的家人に比べて過少で、多田院警固など限定されたものであったと思われる。これが多田院御家人である。ただし多田院御家人は鎌倉幕府の公式名称ではなかったようで、嘉禎3年(1237)3月28日の北条泰時奉書案に多田院御家人とみえる以外に、鎌倉期の史料では、たんに御家人と記される。弘安4年8月21日多田院の御家人16名が連署して多田院の塔造営、十町四方の山河殺生禁断、小松池山狩猟禁断について誓っている。この請文の署名は法名・源姓などが多いが、弘安元年の金堂上棟引馬注進状や正和5年10月13日の多田院堂供養指図によると、塩河・山問・石道のほか、佐曾利・槻並・吉川・木器・森本・今北・高岡・平井・野間・能勢らの名がみえる。
 建武4年多田院御家人の評定衆13人には多田庄が多田院「御家人中」に勲功の賞として幕府から与えられたが、庄内の多田院当知行の田畠は違乱しないことなどを決定した「衆議」を多田院に申し入れている(同年4月8日多田院御家人連署申状)。鎌倉幕府の滅亡とともに御家人制は消滅したはじだが、もと御家人は自主的に組織を維持したのかもしれない。ただし「御家人中」の存在を示す史料はこの一点のみである。応安元年(1368)の多田院金堂修理供養に際し御家人は馬(代銭)を引進めたが、各御家人とも「塩河刑部大夫入道跡」のように「跡」をつけている(同年4月8日金堂供養御家人引馬注文)。室町幕府あるいは佐々木氏支配の多田庄では公式の御家人制は存在せず、鎌倉期の御家人の名跡を継承する意味と解される。ただし、南北朝期の軍忠状には髙橋茂宗(建武2年「髙橋茂宗軍忠状」書上古文書など)、森本為時(建武3年7月日「森本為時軍忠状」書上古文書など)のように、自ら多田院御家人と称している場合がある。それだけ名誉と考えられていたのであろう。もと多田院御家人の有力者は、こうした軍忠とともに多田庄の内外で領主権を拡大していったと考えられるが、鎌倉時代後期にすでに多田院御家人の筆頭的位置にあった塩川氏は、嘉吉元年(1441)の塩川秀仲、文明9年の塩川慶秀、さらに明応4年(1495)の塩川種満、永正3年(1506)の塩川太郎左衛門尉らが史料上から知られるが、多田庄および多田院に広範な支配権をもつようになっていた。
 多田院御家人で一向宗門徒のなかには石山合戦に参加する者があったという(「多田雪霜談」仁部家文書)。天正5年(1577)に石山本願寺(大坂御坊)に籠城する顕如に加勢している。これに対して織田信長は多田の地を塩川国満に支配させており、また織田信澄を遣わして多田院や天野山安楽寺(現猪名川町)を含む河辺郡・能勢郡・有馬郡の諸寺院を焼き払ったという。同14年羽柴秀吉による九州の島津氏征討に従軍した能勢氏の留守をねらって塩川国満は能勢氏の領内に攻め入ったが、このことが秀吉の怒りにふれ、国満は切腹し、塩川氏は滅亡した。また塩川氏に同調した御家人は、古来の屋敷地は所持を認められたものの、知行分は没収されたうえ、以後の多田院の怠りない守護を命じられたという(以上、多田雪霜談)。慶長19年(1614)11月上旬に多田院御家人は旧知行を回復する好機とみたか、大坂城攻撃のため摂津国中嶋(現大阪市北区など)に出陣し、多田銀山町を制圧しようとする大坂方の300余人と交戦しているが、農事を第一として弓矢・槍の訓練に遠ざかっていたため、もろくも打ち破られてしまった。
摂津名所図会に描かれた多田院(神社
[近世の多田院再興]
多田院は室町期には応永27年と永享2年の二度火災にあい、文明12年庄内御家人らの奉加を得て金堂を再興したものの、文亀3年(1503)当時塔婆はいまだ再興されず、同年8月日付で塔婆勧進疏が作成されている。塔婆は結局再興されず、豊臣秀頼による修復が伝えられるものの近世初頭には荒廃はさらに進んだと思われる。多田院別当の智栄は廟堂が大破して久しいのを憂い、寛文2年(1662)幕閣の理解を得るため古文書多数を携行して江戸に赴き、老中はじめ多くの要人の閲覧を得ている。同3年源氏の祖たる由緒をもって幕府が多田院を再興することが決定、四代将軍徳川家綱による多田院の再興事業は全境内の建物に及んで行われた。満仲・頼光の廟所や本殿(祭神は頼義・頼光・満仲・頼信・義家)・拝殿・八足門(隋身門)・釈迦堂・仁王門、その他が再興の対象とされた。普請は同5年に始まり、同7年に成就、同8年に正遷宮が行われた(多田院再興口上覚)。名称こそ依然多田院であるものの、廟所と本殿を中心とする多田権現として再生した。なお古例に従い多田院御家人は警護に参勤した。のち大風による破損の再修理を含めて諸建物の修復が続けられ、延宝9年(1681)に完成、10年余にわたる多田院再興は完了した。延宝8年7月智栄はこれを記念し厳有院殿(家綱)の石碑を建立。家綱の祖廟への敬心は、寛文5年の多田院への高500石の地(多田院村・新田村・東多田院村内)の寄進にもうかがえる(同11年多田院領寄進判物写)。
 元禄9年(1696)は源満仲没後七百年忌にあたり、五代将軍徳川綱吉を大壇主として社堂の修復を行い、同年4月に正遷宮、8月に東山天皇より多田権現社の勅号、次いで正一位神階の贈位があった。勅使の宣命読上げのとき満仲廟が鳴動したといわれ、翌10年満仲の尊影を開帳した(修復棟札写など)。なお元禄9年七百年忌祭のあと多田院御家人の惣代43人が江戸に出向いて由緒書を幕府に提出し、多田院御家人の復活を要望した。その結果、知行地の獲得はならなかったものの、苗字帯刀を許され、各種古文書・古記録から調べあげた82家を定数として、多田院御家人の称号が幕府公認となった。享保-元文期(1716-41)・天明期(1781-89)の社殿修復がある。寛文期・延宝期に再建された本殿・拝殿・随身門と多田神社文書492通(43巻)および寛文3年・貞享5年(1688)多田院文書修理目録三巻は国指定重要文化財。六所神社本殿・厳島神社本殿・東門(東高麗門)・西門(西高麗門)・南門は県指定文化財。明治初年の神仏分離に伴い多田院の寺号を廃し、多田神社となる。
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文中に「天禄元年、源満仲は、嫡男頼光、次男頼親、四男頼信らとともに七堂伽藍を建立して多田院とし、比叡山の慈恵(良源)を導師としてとして堂塔供養を行った。」とあります。
 そして当時、この善源寺に隣接していたと思われる八幡大神を祀っていた社地に立つ(伝頼光手植え)大樟の謂れと結び付きます。
 また、長徳年間に頼光が源氏の八幡大神を祀り、この地に産土神社を創建したのは、その父である満仲が出家し、長徳3年(997)86歳で死去した時期にあたります。何かの願掛けだったかもしれません。
※現地案内板

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八幡宮旧跡顕彰石碑
【渡辺綱・駒つなぎの樟】

ことあたりは、かつて善源寺荘と呼ばれ、大江山の鬼退治で有名な源頼光が支配する荘園でした。
 長徳年間(995-998)頼光は源氏の八幡大神を祀り、この地に産土神社を創建しましたが、そのとき頼光自らが、この樟(くす)を植えたといわれています。駒つなぎの呼び名は、頼光の四天王の一人で、この荘園の管理を任されていた渡辺綱が、この神社に詣でるとき、いつも馬をこの樟につないだためであると伝えられています。
 樹齢900年と推定される樟は、昭和のはじめに大阪府の天然記念物第一号に指定されましたが、残念なことに戦災にあい、現在は枯死状態になっています。
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この善源寺庄は、元々源頼光が支配する荘園だったのです。足利尊氏は、その源氏の祖である満仲を祀る多田院へ旧地を還したのです。400年程の時を経ていますが、当時もその調べが及んでおり、尊氏がこの地を寄進するに至ったのです。

今となっては伝承として語られていますが、史料上からも確認する事ができますので、もはや現実的な歴史的遺物として、更なる顕彰をしても良いように思います。

最後に、源頼光の四天王の一人といわれた、渡辺綱についての「出生古跡」が伝わりますので、ご紹介しておきます。
※摂陽群談(大日本地誌大系刊行会)P200

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渡辺津顕彰碑(2013年4月撮影)
【渡辺綱出生古跡】

武庫郡武庫庄村にあり。土俗、此所出生の旧地と云へり。洛陽東寺の門に於て、鬼神の腕を斬、第宅に帰り、戸を塞いで慎之。綱養育の伯母、爰に来て、其の恐しき腕を見と請ふ。綱不應之。伯母養育の昔を語り恨之。終に令見之。即鬼女と成て、榑風(はふ)を破り逃去。其謀取るる事を忌で、渡辺党の姓を継者、四阿屋造にして、榑風を造ざるの諺あり。因茲、当村の民家、皆悉く今に四阿屋造也。軍記に所載、武蔵国三田を産とす。亦渡辺の号は、今大坂の津に在て、西成郡に属し、如も座摩社前を指て、世俗渡辺屋敷と云へり。其の鬼神は、所謂茨木童子とする者也。童子も亦、河辺郡東留松村に旧栖あつて、前に論之。是猶爰に遠からず。各伝語詳也と云ども、未見其證其記。猶亦丹後国千丈嶽、酒顚童子退治発向の時、河辺郡北田原村、大井の薬師仏に願書を納ること、光明寺記に見えたり。此地より遠らず。暫く武庫庄に居住するや。亦藤原保昌旧栖、河辺郡平井村にあり。綱・公時・保昌の碑石、西畝野村小童子院内にあり。源満仲公より相伝り、頼光公相従之輩、多田の地辺の出生とするに、理あり。
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渡辺綱は、多田地域の出生と推察されています。小童寺(現兵庫県川西市)に今も綱の霊廟があります。そしてその末裔は「渡辺党」として渡辺津(天満橋から天神橋あたり)を中心に活動し、摂津国の中枢武士団として時代を生きています。