2026年8月13日木曜日

摂津国豊嶋郡福井・岡山(現大阪府豊中市)にあったとされる城は、原田城と一体化していたか

◎はじめに
この城の話しは聞いたことがあり、資料もいただいていたりしたのですが、気になりつつ時間だけが過ぎてしまいました。今は、私自身の知識が蓄えられた事もあり、推測のための材料も用意できるようになったので、この城について考えてみたいと思います。

この伝福井・岡山城については、地方史研究者の高市光男氏が『大阪春秋』127号で、取り上げられており、茶人・キリシタン武将であった古田織部に関連づけて述べられています。それを引用するには、長文ですので、文中の要素を適宜に取り上げつつ、私なりの視点も加えて、以下にまとめたいと思います。

明治42年(1909)測図
◎地誌にみられる福井・岡山村
先ずは、その土地の概要把握から始めたいと思います。
出典:大阪府全誌3(清文堂出版)P1248

--資料(1)-------------
【大字福井】
本地は古来豊嶋郡に属し、もの餘戸郷の内なり、原田庄、一に六車庄とも呼びし内にして福井村と称す。字地に城山・東城山といへるあり
 西法寺は字城山にあり、星野山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。本地の郷士に星野四郎大夫なるものあり、本願寺蓮如法主に帰依し、剃髪して了忍と称し、明応6年(1497)当寺を創立し、享保4年10月檀徒協力して之を再建せり。境内は271坪を有し、本堂・庫裏・書院・鐘楼・薬医門を存す。
 福井城跡は中央にあり、一堆の丘阜をなして俗に城山と呼べり。周囲は260間にして、今は民家相連なり、遺跡の認むべきものなく、復た其の興廃の縁由等も明らかならず。
 本地は寛文元年(1661)より麾下畠山飛騨守の采地となり、村高83石8斗2升は同氏世襲して同飛騨守に至り、明治元年(1868)5月24日の公布に依りて大阪府司農局の支配となる。又本石高外なる1石1斗6升1合(新田)は徳川氏代官の支配たりしが、同代官継承して斉藤六蔵に至り、明治元年の初めに御料となりて、桜井遠江守・九鬼長門守の当分取締に移り、同3年3月1日兵庫裁判所の管轄に転じ、同年5月23日大阪府司農局の支配となる。(中略)同12年2月10日豊嶋郡役所部内となり、同月21日、第16分画に属し、同13年7月2日岡山村・曽根村・服部村・長興寺村と五ヶ村連合し、同17年7月1日第13戸長役場の管理区域に入りて、同22年4月1日の町村制施行に至れり。

新修 豊中市史大字小字図を加工
【大字岡山】
本地は古来豊嶋郡に属し、もの餘部郷の内にあり、原田庄、一に六車庄と呼びし内にして岡山村と称す。字地に北の口・新町・南の口・辻野・西の口へといへるあり。田圃の間に一の坪・五の坪・六の坪・東六の坪・十の坪といへる小字あり、条里制の遺称ならん。
 西琳寺は字辻野にあり、応頂山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。中村治右衛門なるもの本願寺准如法主の弟子となり、宗善と法名して寛永5年(1628)に創立し、其の後大破せしを以て6世■(養?餈?)元檀家と協力して之を再建せり、境内は425坪5合を有し、本堂・庫裏・鐘楼・薬医門を存す。
 本地は寛永年間より麾下船越駿河守の采地となり、同氏世襲して同柳之助に至り、明治元年(1868)5月24日の公布に依りて大阪府司農局の支配に移り、同年7月北司農局に属し、同2年正月20日摂津県の管轄に換り、同年8月2日兵庫県の管轄に転じ、同4年8月同県第35区に編入せられ、同年11月20日大阪府の管轄となる。而して其の後の区画の変遷は、大字福井村に同じ。
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ちなみに、江戸時代に発行された『摂陽群談』に西琳寺と西法寺の記載がないのですが、なぜでしょうか?

続いて、現代に編纂されたいつもの地誌を見てみます。
出典:大阪府の地名1(平凡社)P271

--資料(2)-------------
大阪春秋127号より
岡山村(豊中市曽根東町2丁目、同4-5丁目):
曽根村芦田池の東、豊中台地の南端縁辺部にあり、東の福井村との境を南北に能勢街道(池田道)が通る。原田七郷の一村(元禄郷帳)。文禄3年(1594)の検地では原田郷10ヶ村で検地帳1冊が作成され、惣高3180石のうち岡山村分の高は203石余・反別18町2反余(享保2年「岡山村名寄帳」中村家文書)。慶長10年(1605)の摂津国絵図では当村や原田村など計5ヶ村の高3181石余のなかに含まれている。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では旗本船越領31石余。延宝5年(1677)6月には船越左門・同百助領136石余(野口家文書)。元禄11年(1698)4月には船越領203石余(同文書)。以後は幕末まで変化はない。産土神は原田神社、浄土真宗本願寺派西琳寺がある。

福井村(豊中市城山町1-2丁目、長興寺南2-3丁目、曽根東町6丁目、服部本町4丁目):

岡山村の東、豊中台地の南端縁辺部にあり、能勢街道(池田道)の東側に沿って集落がある。原田七郷の一村(元禄郷帳)。中世は春日社領垂水西牧六車郷に属し、正長元年(1428)11月日の南郷春日社新大般若会料田坪付帳(今西家文書)に、料田加地子米担当者として原田郷の福井村がみえる。慶長10年(1605)の摂津国絵図では当村や原田村など計5ヶ村の高3181石余のなかに含まれている。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では旗本畠山領83石余。以後幕末まで畠山氏の知行所であった。福井城跡と伝える所があるが、  詳細は不明。法華宗(本門流)藤井寺(とうせいじ)には「竜の頭」を用いる雨乞儀礼が伝えられている。降雨をつかさどる竜神の頭骨と伝え、寺宝として秘蔵されているが、外に出すと雨が降るといわれる。調査により日本産の牡鹿の頭骨と判明している(豊中市史)。ほかに浄土真宗本願寺派西法寺がある。
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福井・岡山両村は、原田七郷(「元禄郷帳」)に属しており、一体的な地縁があったようです。この内、福井村については、中世において六車郷(原田庄)に属していたとあります。『大阪府全誌』では岡山村も六車郷の内としていますが、『大阪府の地名』では、その記述がありません。また、両村の境は、その間を南北に通る能勢街道でした。
 新しい地誌では過去の記載が見直されているようなところを感じて気になります。これは、能勢街道があるために、どうしても分けて見てしまうのですが、元は一体のものではないでしょうか。街道を取り込んだ城か、居住区(集落)を城の機能とを分けて構成されていたのかもしれません。

豊中市の担当部署に尋ねてみると、「城山」としての対象ではあるけども、今のところ報告書を伴う発掘調査はなされていないとの回答でした。ですので、現段階で物理的な判断材料は得られず、文字情報からの想定に尽きます。

出土した十文字入り瓦(4点)
大阪春秋127号より
◎出土したキリシタン瓦と伝福井・岡山城を考える
それで、この記事の冒頭でご紹介した高市光男氏の記事「豊中に織部の城があった - キリシタン鬼瓦が語る謎 -」によると、昭和33年(1958)に豊中第四中学校の体育館建設工事中に十字紋の入った鬼瓦が出土した事により、ここにキリシタン教会のような施設があったのではないかと想定されています。それが禁教令などにより、破壊された折に廃棄された時、元の城の堀に投げ棄てられたと推測されています。
 その現場は、比高10メートル程の崖で、字名が「城山」と呼ばれており、この城が天正6年(1578)冬から始まる荒木村重の乱と関係した、有岡城の付城であり、原田城に城番として入っていた中川清秀やキリシタン大名の古田織部に端を発する可能性を述べられています。以下、少々長文ですが、該当部分を引用してみます。
出典:大阪春秋127号P81(ミステリー探訪:豊中に織部の城があった)

--資料(3)-------------
【なぜここにキリシタン瓦が?】
なぜ当地でこのような瓦が出土したのかと問われると、誰もがここにキリシタン大名がいて、禁教令で形成悪しとみて堀に投棄したものだろうと推測する。
 豊中市立第四中学の北側には10メートルほどの崖があり高台になっている。そこは字名「城山」と呼ばれている。『大阪府全志』(大正11:1922)には、中豊島村の項に次のような記述がある。

 ”福井城址は中央にあり、一堆の丘阜をなして俗に城山と呼べり。周囲は260間(約473メートル)にして、今は民家相連り、遺跡の認むべきものなく、復た其の興廃の縁由等も明らかならず。”
福井城の名は、福井村の名をもって編者がつけた仮の名であろう。明治時代に既に忘れ去られていたとみえる。その中心は岡山村・福井村・長興寺村の三村墓地となっている。古戦場だから墓地になったという伝承もある。墓地から五輪塔や一石五輪塔など戦国期の墓石が出ることがあり、墓地中央には「鏡地蔵」が祀られている。
 『新修 豊中市史古文書 古記録』
「原田郷村々由緒記録」の一部が収められている。この記録は1709年(宝永6)に死亡した原田村梨井の庄屋であった野口玄好の日記を隣村原田村中倉庄屋永田兵太が1730年(享保15)に書き写したものである。野口氏は、原田氏の跡を継ぎ城に居住した原田城主の子孫である。その中に次のような記録がある。
”一、曽根・岡山・勝部は天正年中より初家造いたし候所、其中曽根少古し、尤勝部・岡山元亀頃壱弐軒つつ有之由に候へとも、荒木氏御退治時当城より見付のかまひいに成によって家とりはらはれ、殊に岡山は古田左助殿御陣所に成候故猶もって無家、其の丸跡を開発して岡山村と号、依之土井之内と云、当城出丸也
一、福井村右之村より少し古、”
原田城推定復元図
『荘園物語』近くて身近な中世の豊中より
とある。当城出丸(出城)という当城とは原田城の意であろうが、原田城側の我田引水である。伊丹有岡城の荒木村重を討つわけだから、むしろ岡山から見付(見張)のために家を取り払ったと考えるべきであろう。村に1〜2軒しか家がないことは奇異に感ずるが、中世的な大家族制の時代、一族郎党下人に至るまで何十人で一家を成していたと考えれば納得がいく。
 岡山の西琳寺の寺伝によると、開基宗善は、戦乱の世に嫌気をなして、土民(百姓)になり中村治右衛門と称し岡山に住み、1573年(天正元)頃本願寺に入門。1628年(寛永5)97歳で没した。とすると、1531年(享禄4)ころの生まれである。また、西武庫村(現尼崎市)の土豪高寺氏系図「高寺家譜」(『伊丹史料叢書4 荒木村重史料』による)には、
”十二代高寺泰経 号市郎右衛門尉 天文6酉年9月4日卒 年63才 妹 摂州岡山村中村弥兵衛に嫁す”
とある。泰経は1474(文明6)ころの生まれ、その妹が中村家に嫁ぐのは1500年ころと推定される。信長が荒木攻めのため、古田左介(左助)等を出兵させるのは1578年(天正6)のことで、その時岡山村、おそらく福井村も家々が焼き払われたか、取り壊された。1995年(平成7)の阪神・淡路大震災で被害を受けた西琳寺も大修築がおこなわれたが、その時本堂床下から五輪塔等が数多く発見され、柱の土台石として使われていた物も多かった。中には火が入った五輪塔もあり焼き払われた可能性もある。
 福井の西法寺についても同様の伝がある。『豊中の史跡たずね描き』(平成6:1994)には西法寺について「浄土真宗本願寺派で、1534年(天文3)に福井村の現在地ち建立された。星野四郎太夫(法名釈了思)が裏山の砦の主人であったが、殺し合う武士をはかなみ、出家して開祖となった。」とある。『西法寺四百六十年の歩み』によると、2代3代とも名前も不明で、4代1630年(寛永7)に続いている。西琳寺と同じ運命にあったことがわかる。
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上記の資料(3)、「当城出丸(出城)という当城とは原田城の意であろうが、」と解釈されているのですが、これは、古伝書の通りに伝福井城(福井・岡山城)の事と思われます。また、「一堆の丘阜をなして俗に城山と呼べり。」から転じて「岡山」になり、それが別名「城山」だった...。

◎共通性がみられる奇縁
また、資料(3)にある、高寺市郎右衛門尉泰経についてですが、泰経は武庫郡に縁があり、これは石蓮寺村の興法寺と同郷です。この地域は、一連のつながりがあるようにも感じます。更に、泰経は兄弟で河原林越後守と共に戦って戦死したと伝わっています。これも、石蓮寺村に伝わる北河原氏と関係が深く、与作の妻は河原林越後守の娘です。
 福井村の歴史構成には、石蓮寺村と連動する所があり、それは相互に一体化した起源があるように感じられます。また、福井村にある西法寺の伝承についても星野四郎太夫が出家して「釈了思」となり、寺の開祖となったとあります。この星野氏は、荒木村重の家臣としても星野某(有岡城内の上臈塚砦へ滝川一益勢を引き入れた一団)が居り、星野氏は摂津池田の細河郷にルーツを持つ一派と共通点が見いだせます。非常に土着的な起源を纏わせる要素があります。池田氏が菩提寺の大広寺と一体化して統治機構を創出していたように、星野氏も親族による縁故関係を近隣に築いていたのかもしれません。星野姓はそれ程多くないですし、その姓名の起源はある程度限られてくるように思われます。

【参考】荒木村重の重臣でもあった摂津国人北河原氏(与作)について考える

豊中台地南端縁辺高低差の様子
◎福井・岡山村の地形と要害性
少し視点を変えてみます。この福井・岡山村というのは、東接する石蓮寺村と自然環境が似通っているばかりではなく、福井・岡山村は更に高い要害性を持っている事から、戦国時代には当然、何らかの策が講じられていた場所にあると考えられます。以下、要素をあげてみます。

○能勢街道の監視・管理の必要性があった
○吹田街道が穂積・服部村から東側へ分岐している
○原田村を中心とする原田庄(六車郷)は一体であった
○原田城と地理的に補完関係を維持する必要があった(南側への視界確保)
○原田と福井の間の曽根村付近に「本陣山」という小字がある
○豊中丘陵の水源を管理・保持する必要があった
○九名井の用水範囲
○垂水西牧の管理者である今西家の本拠地があり、その重要地域であること
○原田庄・田能村との水争い田あったこと
○河辺・豊嶋との郡境が近かったこと


これらの要素は、戦国時代において先鋭化する事から、領土保全について重要地域であったと考えられます。そのため、高市氏が想定されている、荒木村重の乱に伴う古田織部の築城よりも前に、既に城があったとも想定が可能かと思われます。

原田村絵図
『荘園物語』近くて身近な中世の豊中より
◎主陣地としての原田城を考える
時代降って、天正6年(1578)冬翌年秋にかけて、高市氏は、この重要地域に、織田信長の古くからの従臣でもある美濃国衆の古田氏が入れられていたと考えられています。古田氏は中川清秀の妹を娶っており、且つ、信長の目付的役割も持っていました。
 有岡城を攻める時、その周辺の街道を封鎖し、要所には付城を置きます。その一つが、元々あった原田城で、これを大きく改修して陣城とし、ここに中川清秀が入っていました。また、太平洋戦争前、陸軍がこの平野で演習を行った時、原田城跡あたりの木に登って、伊丹方面の友軍へ手旗信号で通信を行っています。両所の間は、4キロメートル程の距離です。

この原田城は、地形的に、南北に伸びる半島の先端で、高さを下げています。それより高さを持つ桜塚方面に何らかの工夫をしていたのかもしれません。加えてここは、東西南北への交差点でもあり、能勢街道も合流しています。豊中台地上の重要地点です。
 また、この豊中台地の南端であり、能勢街道を通す福井・岡山地域は、南側の中嶋方面から北上を阻む為には要害が必要な場所であったと考えられます。同台地全体を一つの防御陣地とする事ができます。
 ちなみに、天正2年(1574)7月の崇禅寺合戦の折、荒木村重勢は小曽根村方面から南下。渡し場を経由して神崎川を渡り、中嶋内十八条村を更に南下して、崇禅寺方面に向かっています。

◎原田城と一体化した、伝福井・岡山城

このように有岡城を対象とした場合には、その正面となる原田城が主要な陣となりますが、それを支えるための陣地構成・体制としてはやはり、伝福井・岡山城も必要であったと考えられます。これは、有岡城攻めに限らず、池田・伊丹氏の対立が長期間続いていた時代にあって、郡境を守るためには、同様の軍事要素が必要であったと考えられます。
 それ故に、天正6年冬から始まる有岡攻めは、既存施設の再利用だった。若しくは、荒木方であった施設を攻め落として、原田城と同様に織田方が利用したものと考えられます。また、福井・岡山城があったと考えられている根拠ともなっている地籍図を以下に示します。
出典:新修 豊中市史 通史1 豊中市大字小字図より

新修 豊中市史(通史1)豊中市大字小字図を加工
福井・岡山方面からは、能勢街道と、もう一つの重要な道である箕面街道を分岐させています。この街道は、ほぼ真北に伸び、豊中台地を一旦出て、谷に下りた少路・野畑村を経て、刀根山丘陵を越えて西国街道に接続します。この野畑村は、西国街道からの分かれ道を複数接続させており、要衝でもありました。刀根山には織田方の陣城もありました。

 一方、南側には穂積・服部村から小曽根村を経由し、東側へ向けて吹田街道を分岐させています。距離にして1キロメートル程で、目と鼻の先です。台地からは、ここも俯瞰できます。荒木の乱当時、先ずは、大坂本願寺との連絡・補給線を絶つ必要があるので、当然ながら福井・岡山地域は最重要地点になります。
 乱は長期化し、軍事的視点では、「1年近くをよく持ちこたえた」となりますが、経営的には、その間の収穫は途絶します。加えてその地の収穫のための水源や設備も失っており、地盤を持つ人々や武将は、友軍からの補給で食いつないでいるに過ぎません。

軍事行動は、政治目標の達成手段ですので、守るにしても、この軍事の全体構想(計画)が、勝算が高くなければならず、そうでなければ知行を得ている武士も、生産をする農民も、それに関わる領民も、一年間にも及ぶ無収入には耐えられません。
 包囲も籠城も、最終的に相手の経済破壊か、経済を保護するための籠城かの衝突(戦争)です。軍事は、政治の一部ですので、その目標達成までの軍事方策から、様々な意図が読み取れるように思います。

新修 豊中市史より
◎農業生産に必要不可欠な「水」の重要性について

ここで、水の大切さについて、この当時と現代社会の捉え方に少々の違いがありますので、「水」について用水・水利を考えておきたいと思います。
 伝福井・岡山城のある所は、春日社領垂水西牧の管理者である今西家の本拠の至近に位置します。また、その用水を石蓮寺村・寺内村から引いています。
 一方、原田・岡山村などの耕作地は、「九名井(くめい)」の用水路を通じて、猪名川から取水しています。これについて、ご紹介します。
出典:とよなか歴史・文化財ガイドブックP50

--資料(4)-------------
【九名井】
九名井(原田井)は、伊丹市下河原の猪名川から取水し、伊丹市の酒井・森本・岩屋、尼崎市田能、豊中市の勝部・原田・桜塚・曽根・岡山の耕作地を潤した用水路です。
 大和国(奈良県)興福寺の僧尋尊が記した『大乗院寺社雑事記』には、寛正2年(1461)に六車庄(原田庄)と田能村(尼崎市)との間で水争いが起きたことが記され、すでに室町時代後半には九名井が存在していたことが確認できます。九名井は中世史料では「久米井」と表れますが、江戸時代になると「九名井」と書かれます。「九名」という漢字が当てられた由来は、原田村など9か村の地を潤していたことによるともいわれます。
 戦後、原田・曽根・岡山の住宅地化が進み九名井の役割は次第に低下していますが、九名井は数百年にわたり豊中中西部の村々の重要な水源となっていました。勝部では千里川と交差しますが、千里川は天井川で高い位置を流れているため、その下にトンネルが掘られ九名井が通っています。
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この九名井は、室町時代後半には存在していたことが確認されています。豊中台地の南端は、用水水系の境目でもあり、運営や管理において、繊細な地域でした。

◎水の大切さを知る聞き取り調査
また、水の重要さについての民間感覚を知ることのできる貴重な聞き取り記録がありますので、ご紹介しておきます。
出典:とよなかの史跡・余話(水とくらし・街道など)P76

--資料(5)-------------
九名井(勝部地区)
とよなか歴史・文化財ガイドブックより
【原田の用水について語る】
洗堰の保守と清掃の日は、4月末になっていて、その日は水利組合の組合員全部の農家から、鋤簾(じょれん:川や用水路を浚える道具のことで、竹のめの入った鍬の形をしているもの。水の中から砂利や砂のみを浚うのに使う道具)、竹雙木(たけそうき)、鍬などを持って集まりました。この日は農家から男頭(おとこかしら)が大勢集まるので、「百人普請」といっていました。原田からは50人程度が出かけました。だからこうした普請の全体指揮は、水利組合員の人数・反別の最も多い原田の区長が執っていました。
 洗堰は、猪名川を幅200メートル程の長さで築かれています。蛇籠はあらかじめ神津村(口)酒井の竹屋が頼まれて編んでいました。猪名川の両岸には竹藪が多かったので、材料の竹は簡単に手に入ったものです。蛇籠は一つの長さが約2間(3メートル60センチ程)あり、河原の小石を中に詰めると、それを打ち込んである松の木の杭の間に水の流れを止めるように並べて置いていきます。だいたい一ヶ所に四段くらい積みます。旱魃は水不足になり、水の一滴は血の一滴といわれるほどの問題になることがありました。それは水争いになるということで、各村々にとっては米の取れ高を左右する重大事でした。このような場合、慣行水利権というものがあり、どこにどのように流すか、決まっていました。旱魃になると、田が枯れないように一滴に水でも確保しようとして、水を流す樋門の開け閉めをめぐって争いになることもありました。
 明治30年(1897)から大正5年(1916)までかかって裁判で和解した歴史もあります。この時の裁判は和解になったのですが、九名井の一つ岩屋村では裁判費用に困り、夜なべ仕事に草履(わらじ)を作り、それを売って費用を捻出した家もあったと聞いています。水利権を持っている方は、下流に対して強く、下の田の人は、上田(かみだ)の家に頼んで分水してもらうのが普通ですが、日照りになり水不足が続くと、慣行通りにならないことが起きるということで、なんとかして田が枯れないようにお互いの助け合いもよくしたものです。特にむかしは米作りが主な所得でしたから、用水は飲み水とは比べものにならないほど重要で、「生まれてきても、水下(みずしも)に生まれるな」と言うほど、水は生き死にを決めるものであり、嫁にとつぐのも水下には行かさないといわれたものです。今は田が無くなってきて、住宅がいっぱい建っています。これまでのように猪名川からの用水のことを心配したり、水不足で騒いだりするようなことはなくなりました。
(1995年9月聞き取り:原田元町「豊中市立教育研究所:研究紀要第100号 第二集『聞き書き』水とくらし」)
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そこには、大変興味深い記述があります。「用水は飲み水とは比べものにならないほど重要で、「生まれてきても、水下(みずしも)に生まれるな」と言うほど、水は生き死にを決めるものであり、嫁にとつぐのも水下には行かさないといわれたものです。」と、水への強烈な想いを知ることができます。
 このような社会と文化は、つい最近まで続いていましたが、近年は急速にこのような伝統的生活から離れつつあり、理解も遠のきつつあります。

◎まとめ
現実があり、軍事行動は、その中にありますので、それは「経世済民」の大きさと深さを、どこまで考えているのかが、勝敗の結果に直結しています。それが協力者を得る重要な要素です。
 戦争は、領内(領民)経済をどのように担保するのかの力量であり、決して個人の取り分や分け前だけの問題ではなく、社会的地位により、その目標と役割は変化していきます。逆に考えれば、攻められる側は、命と全てをかけた抗戦ですので、死力を尽くして挑んできます。
 戦術は、この間の駆け引きですので、城や合戦場所には、大きな意味があると思われます。その意味では、伝福井・岡山城の存在探索は、重要な視点になると感じています。同城は、それらの状況を考えた時に想定できるのは、やはり原田城と補完関係を持つ、一体的な城として、荒木村重の乱以前から存在したのではないでしょうか。

新修 豊中市史 通史1より
例えば、原田城跡からどちらに向いて視界が開けているのかを示した解析図があります。それによれば、原田城からは、やはり主に西向きで、東から南側は死角が多くあります。
 それからまた、原田村から曽根・福井・岡山村の字名を確認すると「本陣山」という小字名があります。ここは今の「ウェリス豊中曽根」という集合住宅のある一帯で、曽根村の東側に隣接(若しくは村の一部)する立地です。かつてここに、陣所があったことが想定されます。また、その北側には「二ノ丸」という小字もあります。

資料(3)でご紹介した、原田城主の子孫である野口氏が語った「殊に岡山は古田左助殿御陣所に成候」とは、この本陣山ではないでしょうか。また、「荒木氏御退治時当城より見付のかまひいに成によって家とりはらはれ」とは、原田城と同様に、拡張して再利用したのではないかと思われます。
 この事から、やはり原田城の死角を補うように南側への監視施設を設けていた事をうかがわせ、伝福井・岡山城は存在して、豊中台地の南側縁辺を警戒する意図があった可能性は高いように思われます。
 江戸時代になっても、この地は旗本の領地(畠山飛騨守(福井)・船越駿河守(岡山))として明治維新まで政策として維持されており、やはり、要地として認識されていたことは間違いないように思います。

大阪府豊中市曽根西町2丁目11付近が、小字「本陣山」

曽根村内の地図記号「卍」が法華寺の位置:明治42年(1909)測図


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