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2026年7月26日日曜日

荒木村重の重臣でもあった摂津国人北河原氏(与作)について考える

摂津国と河内国北半分を領した戦国大名荒木村重の重臣として活動していたとみられる北河原氏は、あまり資料が無く、個人的にも気になっていた人物(一族)です。その本拠地は川辺郡の伊丹城のすぐ北側にあった北河原村と考えられています。
※兵庫県の地名1(平凡社)P410

明治42年(1909)測図当時の北河原村
--資料(1)---------------
北河原村(伊丹市北河原、北伊丹2丁目、北本町3丁目):
伊丹郷の北側、猪名川と駄六川に挟まれた低湿地にある。北川原村とも(延宝5年「巡見絵図」篠木家蔵ほか)。慶長国絵図に村名がみえ、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では天津北河原(あまつきたがわら)とする。正保国絵図(京都府立総合資料館蔵)は「天津ノ内北河原村」「天津村」と天津村を枝郷とする。天津村を含んだ石高は慶長国絵図435石余、摂津一国御改帳325石余、正保郷帳328石余。摂津一国御改帳では幕府領建部与十郎預地、寛永3年(1626)大坂城代阿部正次領となり、慶安元年(1648)幕府領に戻り、同2年大坂城番安部信盛(武蔵岡部藩)領。延宝6年(1678)分家の旗本安部領となり明治維新を迎える(伊丹市史)。天保5年(1834)猪名川対岸の森本村が水不足のため同川からの取水溝を深く掘ったが、当村が溝を埋めたことから争論になり近隣の村が仲裁に入り内済した(「天保凶作記録」小坂田村文書)。明治15年(1882)の戸数24・人口108(県布達丙7号)。産土神は郷町の野宮(現猪名野神社)で天津村とともに神事割を負担(「正心調法記」武田家文書)、元禄16年(1703)神輿が巡行している(有岡庄年代秘記)。江戸後期には大和大峰山の行者講があり講田をもっていた(「行者講勘定帳」「道中控」行者講文書)。講は昭和16年(1941)に中断したが、同32年に再興された。ほかに八幡宮があったが大正4年(1915)猪名野神社に合祀。浄土宗来迎寺がある。
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◎摂津国川辺郡の北河原氏に関する故地が豊嶋郡石蓮寺村にもある
永年、私も上記のような知識のままだったのですが、猪名川・藻川を東に渡った豊嶋郡側にも、北河原氏の故地があることを、最近知りました。
※大阪府全誌3(清文堂出版)P1284

明治42年(1909)測図当時の石蓮寺村
--資料(2)---------------
摂津国豊嶋郡小曽根村大字石蓮寺条:
(前略)興法寺は字蓮垣内にあり、利生山と号し、真宗西本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。当国川辺郡橘御園庄今福里に、六孫王経基の後裔源道悟なるものあり、承元元年(1207)3月圓光大師教化の際に発心剃髪し、ついで見真大師に帰依して道宗と法名し、同地に一宇を創立したるも、元亀元年(1570)8月石山戦争の時、織田氏の家臣来たりて同里を焼きければ、遁れて本地に来たり、乱定り後堂宇を再建せしもの即ち当寺にして、後慶長10年(1605)住職祐宗檀徒の協力を得て之を再建せり。境内は302坪を有し、本堂・庫裏・書院・土蔵・鐘楼・薬医門を存す。
【北河原与吉兵衛の宅址、北河原与茂作の墳】
北河原与吉兵衛の宅址は西方にあり。東西32間・南北33間の地なり。氏は荒木村重の家臣なりしが、同僚と隙ありて本地に隠れ、居を此に占めしという。其の子北河原与茂作の墳は、また人家の西端竹林中にあり、周囲30間・高さ1丈余りの封土にして、裡(うら)に多宝塔に似たる一個の石碑ありて文字なし。与茂作荒木氏の滅びし後、池田備後守に仕え慶長2年(1597)朝鮮の役に従いて屢(しばしば)軍功を立てしが、一日身に不祥のことあり、自覚して曰く、我命旦夕に迫るの兆しならんと。即ち鬢髪(びんぱつ)を剪り、義子本阿弥に告げて曰く、我已(以て)不吉の兆しあり。外土の枯骨となるらん。汝凱旋帰朝するを得ば、之を遺族に附与せよとて決別し、其の身は軍に臨み、奮戦数合、被矢恰も蝟毛(いもう:ハリネズミの毛)の如く、流血淋漓(りんり:滴り落ちる様)歩する能わず、終いに斃る。実に8月23日なり。本阿弥養父の遺物を持して郷に帰り、具に其の状を一家に語り、其の頭髪を此に埋めて其の冥福を祈りしと。事は載せて北河原氏の旧記にあり。(後略)とある。
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この具体的な場所が不明なのですが、興法寺が慶長10年(1605)に移ってきたとある事から、この辺り一帯は欠所地のようになっていて、そこが北河原氏の縁故地かとも考えたのですが、『大阪府全誌』では、両方の存在要素を記述してあるため、別々のものとも思われます。字石蓮寺村の西方とあった、やはり村内の西側という事なのだろうと考えると、若竹池に沿ったあたりなのかもしれません。この池より西は、低地で谷となっており、それを経て福井集落があります。

ここでちょっと、もう一つ別の地誌で石蓮寺村についてみてみます。
※大阪府の地名1(平凡社)P276

--資料(3)---------------
石蓮寺村(豊中市若竹町1-2丁目、服部緑地):
小曽根村の北にあり、同村の枝郷(元禄郷帳)。村域は千里丘陵を含み、集落(若竹町1丁目)は丘陵から低地に移った菰ヶ池・中池・若竹池の東側に展開している。村名の基となった寺院石蓮寺は天平年間(729-749)創立と伝え(大阪府全誌)、その寺跡が現若竹町1丁目に残る。天正7年(1579)3月13日、滝川一益が摂州石蓮寺郷中に対し禁制を出しており(渡辺家文書)、小村の形成が認められる。慶長10年(1605)の摂津国絵図には「関連寺」がみえるが単独の村高は不明。元和初年の摂津一国高御改帳では小曽根村1885石余の中に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳に村名がみえ、高20石余。領主の変遷は小曽根村に同じ。村高が少なく、面積は合わせて1町6反余。しかし他村高持分が多く、服部村2石余、北条村(きたじょうむら)2斗余と5ヶ村計135石余に達している(宝暦8年「村明細帳」今西家文書)。これは当村の戸数が多いのにかかわらず耕地が少なく、集落部分だけが南へ突出していて集落周辺が他村耕地によって囲まれていたためである。前掲村明細帳によると家数80、うち高持67、水呑13。鍛冶屋3、樫屋3、紺屋2、医者2、牛12。天竺川に沿った丘陵上に山ノ池(南北西側で103間、東西北側で82間)という巨大な溜池が存在しており、貞治元年(1362)にはすでに築造されていた(豊中市史)。浄土真宗本願寺派興法寺は「永禄年中摂州川辺郡橘御園之庄今福村より当村へ引寺仕候」という(前掲村明細帳)。
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新修 豊中市史(古文書・古記録)より

ここには、北河原氏についての記述はありませんが、この村に隣接している巨大な池は、貞治元年(1362)には既に築造されていた事がわかり、用水についての重要な役割を持っていたであろう事が判ります。

◎北河原氏が実在した事を証明する史料
さて、そんな環境で生きた北河原氏ですが、武士としての活動を資料から見たいと思います。当時の一次史料が少ないながら存在します。年記を欠きますが、天正3年(1575)以降(村重が「摂津守」を名乗るのは天正3年8月以降であるため)と推定される、中川清秀から「北但」への音信があります。この「北但」とは、個人的に北河原氏ではないかと推定しています。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P27

--資料(4)---------------
観世彦右衛門尉豊次知行分之儀、荒摂(荒木摂津守村重)申し付けられ候間、筋目を以って其の分為るべく候。貴様百姓中此の通り申し付けるべく候。恐々謹言。
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続いて、同じく北河原氏へ宛てた毛利輝元一族小早川隆景からの音信です。天正7年(1579)と推定される2月28日のものです。
※伊丹史料叢書2(伊丹中世史料)P118

--資料(5)---------------
未だ申し通さずと雖も候。啓せしめ候。抑も荒木摂津守村重公儀に奉対され、御忠勤之故、存じ之外大利を得本望候。此の方之儀、追々出勢せしめ之条、御本意■有るべからず候。其の内所々堅固御才覚専一候。向後別して申し談ずべく候。恐々謹言。
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また、非常に気になる一次史料があります。荒木村重の先代、すなわちその父の可能性がある荒木信濃守勝重なる人物が、北河原氏らしき「北與」に宛てて音信しています。文中に「善」なる人物も現れ、これも北河原氏の一族だと思われます。年記未詳の2月14日の音信(返報)です。
※豊中市史(史料編1)P126

--資料(6)---------------
前置き:尚々善(北河原右善?)へも以別帋可申入候へ共、御意得候て御演説所仰せ候。
本文:如仰久敷不申承不断御床敷令存候。折節御懇御状本望之至候。随而此間者弥介(村重)方に長々逗留仕候。内々に我等も可参心中之候処難去用所共候て不参御残多存候。此由北右へも被仰候て可給候。次以前承候南郷(摂津国垂水西牧)知行分事、勝正折帋之儀も可相調候へ共、無紛儀候者、可為有様候之絛可御心安候。殊に彼庄之事者同美(荒木美作守宗次)存知之由にて候之間、被仰様体委可申聞候。其方之儀不苦候者、北右善へ被成御同道、ふと御出奉待候。我等もやかて可参候。急申候間此外不申候。恐々謹言。
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先ず、この史料の年代比定をしないといけないのですが、結論から言いますと、永禄8年(1565)かその前年ではないかと思われます。

詳しくは、過去記事の「荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について」をご覧下さい。

◎北河原氏の地域武士としての終焉
このように、北河原氏は、荒木村重と行動を共にし、実在していた事は確かな人物です。その他、北河原氏についての記述は、いわゆる軍記物に度々登場します。『信長公記』に有岡(伊丹)城が落ちた後、村重一党が処刑されますが、その内訳に北河原氏の家族が記述されています。天正7年冬の事です。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P281

--資料(7)---------------
伊丹城相果たし、御成敗の事条:
(前略)12月16日、辰の刻(午前7〜9時)車一両に二人づつ乗りて、洛中をひかせられ候次第。(中略)五番(35歳)宗察娘(伊丹源内ことを云ふなり)伊丹安大夫女房、此の子8歳。(17歳)瓦林越後守娘、北河原与作女房。(中略)此の外、車三両には子供御乳付々7〜8人宛て乗られ、上京一条辻より、室町通り洛中をひかせ、六条河原まで引き付けらる。(後略)
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◎北河原氏の地域武士としての活躍
それから、武士としての活躍が、『陰徳太平記』に記述され、内容も詳しい事から身分の高い人物であった事をうかがわせます。元亀2年(1571)8月のことです。
※陰徳太平記3(東洋書院)P268

--資料(8)---------------
白井河原合戦並びに高槻荊木両城合戦之事条:
(前略)相続く士には、中川瀬兵衛、池田久左衛門、安部野仁右衛門、星野左衛門尉、山脇加賀守、同源太夫、野村丹後守、藤井加賀守、荒木善太夫、同善兵衛、伊丹勘左衛門、瓦林越後守、秋岡次郎太夫、本庄新兵衛、粟生伊織、安都部弥一郎、北河原新五同与作同与一右衛門、福田午介、佐伯庄右衛門等皆武功度々の勇者にて、何れも足軽の大将也。(後略)
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同太平記から、天正年間の別の出来事を引用します。
※陰徳太平記4(東洋書院)P134

--資料(9)---------------
荒木村重属信長並村重讐敵事条:
(前略)折しも天正元年(1573)、(中略)荒木村重は兼ねて此の謀を聞きたりける故、荒木善太夫、同善兵衛、佐伯庄右衛門、安部仁右衛門、山脇加賀守、同源太夫、星野新左衛門等に下知して、一人も残さず討ち果たす。渠等が家人一人村重に切り懸かりけるを、村重時節(おりふし)白井河原にて蒙りたりし手疵の癒えざりければ、矢手に刀を刺しけるを、弓手にて抜き打ちに切り殺しけり。尚も余党共池田に在りければ、即時馬に打ち乗り押し寄せける間、中川瀬兵衛、河原林越後守、藤井加賀守、安部仁右衛門、安部弥一郎、佐伯庄右衛門、星野新左衛門、山脇加賀守、同源太夫、福田午助、北河原新五同与作、秋岡次郎太夫、本庄庄右衛門、大田河内守、毛利兵吉、門田民右衛門、大藪新右衛門、荒木新右衛門、同太郎右衛門等、各々策鐙(むちあぶみ)を合わせて馳せ続き、刹那が間に池田へ着き、残党の館へ押し寄せ押し寄せ、悉く打ち果たす。
(中略)
同2年(1574)荒木村重が舅北河原三河守は、伊丹兵庫頭か第一の家臣なりけるか、其の頃伊丹に荒木矛楯に及びければ、兵庫頭三河守に対し掌に疑心を抱きけるか、されとも伊丹か家人ども多く三河守か一族又は外戚のものともなれば、兵庫頭も左右なく渠を討事も叶わずとかく思案に煩いて有りけるが、今一人の家人野間勘太夫を近附け三河守定めて味方の謀策などを皆聟(むこ)の荒木に告知らすらんと覚ゆるは如何に。去りとて歴然たるしるしのなからんには誅せん事も世の舌頭の謗(そし)りあり。所詮汝等が所業にもてなして渠を追い出し候へと下知しければ、野間勘太夫承りてやがて伊丹市正・同越中守兄弟が内談して其の面々の宿意に詫(こぞっ)てついに北河原を追い出しけるを、三河守は聞ゆる剛の者なれば追い返して散々に戦いける。三河守第三の舎弟北河原市允とて当年20歳の若武者大太刀引き提げ馳出し戦いけるが、向かう敵20人迄ぞ切り倒しける。爰にへんじて右衛門というもの長刀振りてかかりければ、市正屹(きっ)と見て誠に蟷螂か龍車に向かうとは汝が事なり。我に合わぬ敵なぢといえども、相手をきらうにあらざればかかれ勝負を決すべしといいもあへず飛びかかって細首中に打ち落とす。其の兄与吉は六島か男子生け捕り人質として各一所に切り破り、池田勝入を頼りてありけるが、其の後猪名寺に城を構えて伊丹を攻めんと擬議しけり。伊丹兵庫頭此のよしを聞きて、同3月中旬猪名寺へ逆寄せにして攻めける間、三河守も打て出、数人切り伏せ比類無き働きすといえども多勢の敵に叶わずして終いに其の所にて討死す。かかりける所に荒木謀臣の為に討たれたりという風説ありければ、北河原のもの共弥々力落とし妻子悉く茨木へ落ち行けり。村重聞きて安からざる事に思い鎧とって打ち懸け、続きやもの共とて馳出しければ、例の中川等のものとも追々に馳せ着き伊丹の城へ押し寄する。池田よりも2000余人加勢しける間、伊丹叶わずと思い城を開けて逃げ去りける。かくて北河原の一党悉く村重の手に属す。(後略)
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文中にある「茨木へ落ち行けり」との条件は、早くとも元亀2年(1571)10月頃以降から、この状況は天正元年(1573)夏頃まで成立します。続けて記述は「池田よりも2000余人加勢」ともあるので、天正元年(元亀4年:改元は7月28日)以降、村重が伊丹城を落とす直前の天正2年頃の動きを割と正確に伝えているかもしれません。
 一方で、上記の軍記物である『信長公記』『陰徳太平記』にも、北河原与作は共通して現れます。その他一族の人物名も見られ、それらは若干の差はあるものの、人物名は概ね正しく伝わっているのかもしれません。

開発前の今西氏屋敷周辺
ふるさとの思い出(107)写真集豊中
◎まとめ
映画「黒牢城」は荒木村重が主役で、その周辺人物として北河原与作も取り上げられています。資料をみると、この人物は実在したのかもしれません。また、この家系は「与」を通字としているようです。荒木一族にも「与兵衛尉」など「与」を通字にしている一派もみられ、両者は何らかの共通点があったのかもしれません。
 北河原氏のこの豊嶋郡への関連は、小曽根村に奈良春日社領垂水西牧目代今西家が、池田氏と荒木氏は、代々密接に関わっています。また、この今西家の第36代春房の妻は明智光秀の娘で、同時代に村重と、この三者は縁続きとなっています。村重の嫡子村次の妻も明智光秀の娘です。
 そのため、池田氏から村重の時代に移っても、田畑の用水確保地として重要であった石蓮寺村(東隣の寺内村も同様)に、重臣であった北河原氏の一派を置いていた可能性があります。
 村重が織田信長との闘争に敗れ、地域を去った後、その欠所地に興法寺が入って用水管理の何らかの役を代行したのかもしれません。この石蓮寺村が重要視されていたと考えるのは、天正7年3月13日付で、滝川一益が同郷中に宛てて禁制を下しています。
※新修 豊中市史(古文書・古記録)P274

--資料(10)---------------
当手軍勢甲乙人等、乱暴狼藉一切非分之事、堅く停止せしめ訖ぬ。若し違犯の輩於て者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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そして、同地には、その後も度々禁制が下されています。天正10年(1582)6月7日付の明智光秀、慶長5年(1600)9月23日付の福島正則など連署、慶長19年(1614)10月18日付の松平(池田)利隆、同年10月付の板倉勝重、同年同月18日付の豊臣秀頼、同年11月6日付の羽柴(森)忠政、同年同月13日付の徳川家康、同年12月11日付の酒井忠世など連署があり、この地がいかに重要であったかが判ります。
 『新修 豊中市史』のよると、石蓮寺村は豊中台地の南端にあり、すぐ南は低地となっているので、大坂城、尼崎、生駒山が見晴らせたと思われます。東は吹田村や淀川・神崎川の川筋の村々に隣接し、多田銀山と大坂を繋ぐルート近くにも位置していました。、と分析されています。
 また、西接している福井村にも城があったと伝わり(現豊中市城山町)、その遺物もみられます。このような地勢は、室町・戦国時代にも変わること無く、重要な地であった事は間違いありません。ですので、伝承にある「隙ありて本地に隠れ、居を此に占めしという」とは、北河原氏は、元々ここに居た可能性もあるように思われます。

明治42年(1909)測図当時の集落位置関係