1625年に山邑家は、酒造業界へ新たな参入をした画期だったのかもしれません。創醸とはいえ、正蓮寺とのエピソードを考えると、それ以前から酒造りは行われており、品質と量の確保ができるレベルであったからこそ、正蓮寺開創に多量の酒を提供できたものと思われます。
元禄年間過ぎ頃まで、酒造については、池田郷が酒の大規模生産地でした。その後は次第に生産地が増えますが、それまでにはかなりの時間を経ています。池田郷を中心として、関連要素の年譜をあげてみます。
荒木村重が織田政権から離叛した事により、織田勢に攻められ、池田の町は大きな被害を被ります。その荒廃から復興までの流れと、池田の町と周辺の人・事・物に関する出来事を一覧にしてみます。
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1578年 荒木村重領内池田郷へ織田信長勢が池田城下へ攻め入り打ち廻る
1579年 池田の町の再建が始まる
1582年 織田信長暗殺される
1584年 尾張小牧・長久手の戦いに池田知正が従軍
1584年 伊居太神社の神輿が再び出る
1589年 上月十大夫政重、池田備後守知正へ仕官
1592年 小坂前町を境に二分して、新たに中之町を作る
1595年 池田の町に大火が起こる
1600年 関ヶ原合戦、池田知正が徳川家康に従軍する
1604年 池田知正死亡
1605年 池田三九郎死亡(その父である光重が知正の跡を継ぐ)
1609年 池田備後守光重、摂津池田大広寺へ知正などの肖像画、釣鐘、10石の寺領を寄進
1613年 関弥八郎の不祥事に連座して、池田光重が失脚(駿河国法命寺へ蟄居)
1614年 大坂冬の陣、池田光重が有馬豊氏客将として参陣
1615年 大坂冬の陣
1616年 徳川家康没
1624年 大坂の町割りが概ね調い、人口は28万人と推定される
1625年 摂津国西成郡伝法の正蓮寺開創
1625年 摂津国河辺郡荒牧の「荒牧屋」創業
1628年 甲賀谷正長没か
1642年 上月政重没
1644-48 伝法から江戸への下り酒が積み出される(正保年間)
1658年 佃田屋が、江戸摘みの廻船問屋開業
1661-73 大坂の町づくりが概ね完成(河口整備含む)(寛文年間)
1661-73 摂津国西成郡伝法にて酒樽専門の江戸積問屋を開業(寛文年間)
1670年 伝法が幕府領となる
1684年 安治川開削により、伝法の輸送環境が不利となる
1688-1704 大鹿屋などが加わり、輸送業者の数が増加。(元禄年間)
1697年 池田の町絵図が作成される
1696年 摂津池田郷に、本養寺再建される(池田の主要な寺院が随時復興)
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創醸からの間、荒牧屋は、池田郷との関係を強くしていたのだろうと思われます。池田酒は、江戸へも出荷する程の量ですから、提携関係を保ち、製造から輸送まで、協働していたのではないでしょうか。
池田の酒造業は、次第に衰退するとはいえ、元禄年間をピークとして、その後も暫く、池田酒は北摂地域で独占的に江戸積入津樽数を維持しますので、莫大な稼ぎであったと思われます。
池田郷は幕府の直轄地でもあり、様々な政治的便宜を得たりするなど、他地域には無い優位性があったと思われます。
このピーク時の元禄10年(1697)に作成された、その当時の町の様子を記録した絵図が残っています。戦乱で失ったものを次々と取り戻し、寺社などは、この頃に再建されます。復興にとどまらず、町は拡大もしていた事と思われます。
元禄時代よりも少し前、正保元年(1644)に、愛宕火が、池田の町で興ります。これは民間から発生したもので、これに対して京都の愛宕神社から苦情が寄せられて訴訟となりますが、池田郷は幕府領でもあり、これを京都所司代板倉勝重が事を収めます。
このエピソードは、町に活気があり、社会的上位の苦情も覆す程の勢いも感じさせる事から、やはり酒造業を中心とする産業の活況を挫かない配慮があったのかもしれません。
「摂泉十二郷の江戸積入津樽数」の内訳を見れば、確かに、徐々に池田の酒造生産高は衰えています。しかし、元禄10年の池田郷の独占状態から、次の統計年である天明6年までは、100年近く時差があります。一世代20年として、5世代程の期間が空いていますので、その間に何があったのかは、精査する必要があります。池田郷の酒の生産量自体は6割以上減少していますので、それは、気になるところです。
その過程で、荒牧屋は、1717年に新たな取り組みで、更に時代に対応する決断に至ったのでしょう。この時、池田郷の優位性が崩れており、新天地を求めたのかもしれません。
もう、この頃になると、人も世も変わり、それまでとは違う価値判断を余儀なくされていたのでしょう。池田との関係性も薄れつつあったのかもしれません。
池田酒史の中で、櫻正宗の前身である「荒牧屋」の名は見られませんが、どこかに未知の資料があるのかもしれません。
1911年頃の荒牧周辺地図 ※赤丸印が荒牧村 |
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