2023年1月5日木曜日

【後編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要

 質問があり、その回答旁々、FBにだけ投稿していた記事をこちらにも掲載しておきたいと思います。白井河原合戦についてのダイジェスト版(後編)です。ご活用下さい。

先日お伝えしました、白井河原合戦(大阪府茨木市耳原(みのはら)付近)の続報です。幕府の重臣、将軍義昭の側近であった高槻城主和田惟政が、8月28日の合戦で戦死し、その後の流れをお伝えします。
大将の和田惟政が、三好三人衆方摂津池田衆に討たれ、瞬く間に近隣周辺は、池田方の手に落ちてしまいます。池田衆は、和田惟政やその主立った武将の首を持って、高槻城などに押し寄せます。その首を城外から見せつけるように掲げ、歓喜の声を上げたとフロイスの報告にはあります。首は、色々な場所、見せる必要のある城に持っていったようです。
 フロイスはこの時、合戦場から12キロメートル離れた、河内国三箇(サンガ)の教会(現大阪府大東市)にいたところで、この報に接したようです。何が起きているのかを確認するために、高山飛騨守のもとに使いを遣り、その日の午後には戻って、詳細を聞いたとしています。この日、朝から晩まで銃声を聞き、飯盛山(城)に上ると、2日2晩、高槻方面が燃えるのを認めたとあります。
しかしながら高槻城は、辛うじて落城を免れています。
以下は、その確認を元に、フロイスが報告を送っている内容です。


『耶蘇会士日本通信』1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰条
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(前略)総督(和田惟政)の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)総督の首級は、他の武士一同(主な和田方武将)と共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり。
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そして以下は、時系列で白井河原合戦が終息するまでを一覧にします。11月頃までは、戦闘状態が続いていました。土地勘は地図をご参照下さい。
 総合的には池田勢が勝利し、三好三人衆方が京都に迫る勢いでした。加えて、松永久秀など、奈良方面から北上する三好三人衆方一派もありました。更に、近江国方面からも朝倉・浅井勢が京都を覗う動きを見せていました。大坂本願寺も三好三人衆方です。
この情況で、摂津池田衆は、本拠の豊嶋(てしま)郡から、東側に大きく版図を広げることとなり、歴代池田家の最大の領域を手に入れます。


<8月>---------------
 28 幕府衆三淵藤英、夜半に摂津国高槻城へ入る
 29 三好三人衆方池田勢、白井河原周辺の諸城を攻撃を始める
<9月>---------------
   1   摂津池田勢、摂津国茨木城とその領内を攻撃
   2   摂津池田家家臣中川清秀、摂津国茨木城を領知する
   5  摂津池田勢、大挙して摂津国高槻城を攻める
   6   池田勢、戦闘に敗北
   9   摂津国高槻の攻防について交渉が整い、一時的に停戦となる
 中 摂津池田衆内吹田氏、摂津国吹田城に復帰?
 11 織田信長、近江国三井寺へ入る
 12 織田信長、比叡山を焼き討つ
 13 織田信長入京
 24 幕府衆明智光秀勢、摂津国(高槻)へ出陣
 25 幕府衆一色藤長など、摂津国(高槻)へ出陣
<10月>---------------
 10 摂津国池田家臣の中川清秀、摂津国欠郡新庄城へ入る
   9   摂津国高槻の付城に三好三人衆方三好左京大夫義継が入る?
 14 織田信長、幕府衆細川藤孝へ山城国勝竜寺城の普請について音信
 26 織田信長勢先鋒、京都へ入る
<11月>---------------
   8   摂津池田衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
 14 織田信長、摂津守護伊丹忠親へ通路封鎖を行うよう通達
 15 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
 17 但馬守護山名祐豊、丹波国へ侵攻

 


 

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