2020年10月3日土曜日

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十六回「三淵の奸計(かんけい)」放送前の先回り企画

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。


第二十六回「三淵の奸計(かんけい)」2020.10.4放送分

大河ドラマ「麒麟がくる」勝手に予測、先回り企画です。この回は、タイトルと予告を見るにつけ、足利義昭を奉じた織田信長勢が上洛戦を勝利で終えて、入京。そこで一区切りになるのではないかと思います。

細かな事は脇に置き、上洛戦とその後、将軍義昭政権黎明期では、池田衆が大活躍しています。ドラマを愉しむための予備知識としてご活用いただくと、劇中の状況がより良く掴めると思いますので、その頃の出来事をご紹介しておきたいと思います。以下、池田衆の活躍する主要エピソードを抜き出して説明します。
 時間軸としては、上洛戦を行った永禄11年(1568)の秋から同13年3月までの、越前朝倉氏討伐の直前までの出来事です。

◎概要
織田信長は、足利義昭の将軍就任の願いに応じ、軍勢を大挙し京都へ向かいます。最終的にこの軍勢は五万程になったとされ、これ程の軍勢を迎え撃てる大名は、この当時はどこにもいなかったでしょう。
 織田信長の常套手段はいくつかあります。よく見ると、いつも同じ手です。また、信長は情報を非常に重視しており、不具合は直ぐに修正して、対応します。
 また、決して猪突猛進ではありません。非常に慎重で、いくつもの策を講じて事にあたります。準備が周到です。また、原理と理念を重視し、それをなんとしても守ろうとします。
 それは、この上洛戦でも発揮されます。信長は、足利義昭を奉じて美濃の岐阜を発ち京都へ向かいますが、その通路の情報を集めてました。また、戦いは稔りの秋と限っていたことでしょう。そのためには、世間を驚かせる軍容を調える必要があります。これらを準備し、一気に実行した戦いでした。決して弱い勢力ではなかった三好三人衆でしたが、戦の準備も調えることができず、一旦、撤退の策を選んだようです。

特に大きな反撃を受けることも無く進んだのですが、唯一、摂津の池田衆だけは数日間に及ぶ反撃を行い、一矢を報いています。しかし、池田勝正は降伏して上洛戦は終わります。
 足利義昭・織田信長は入京を果たし、間もなく、義昭は京都で将軍宣下を受けます。その後、室町幕府の立て直しに向けて、東奔西走、24時間の活動を強いて、休む間もなく活動します。池田衆は将軍義昭に登用され、守護格を任じられます。池田衆は大きな期待を寄せられ幕府再興に尽力します。

以下、要素毎に解説します。

 

<永禄11年>--------------------
◎春 足利義栄の将軍就任後

東大寺転害門に残る銃弾痕
東大寺転害門に残る銃弾痕
足利義栄が将軍となったのは、2月8日でした。元々は一体化していた三好方組織も、三好一族と松永久秀とに分かれ、争いが始まっていました。その争いの勝敗が決したと世間の認識が整い、将軍就任が認められました。ただ、三好方と松永方の戦いは続いており、松永の本拠であった奈良多聞山城が落ちたのは、足利義昭が上洛する直前まで持ちこたえていました。ですので、この間、三好方は主に奈良へは軍勢を入れ続けなければならず、別の変化に対応することは、余裕があるとはいえない状況でした。奈良市中では銃撃戦が毎日のようにあり、今の奈良公園のあたりは最前線の主戦場でした。今も古い建物には、この時の銃弾痕が残ります。


松永久秀は、劣勢に耐えつつ、織田信長と音信を行っており、足利義昭上洛の準備も同時に進めていました。また、将軍となった義栄はなかなか入京できず(9月には入洛)、摂津富田の普門寺から動けませんでした。京都には適当な居所が無いためでもありますが、しかし、本来は武門の棟梁は天皇を護る役目がありますので、これは一番重要な仕事ができていないことになります。
 それでも三好三人衆方は、主要人物を京都に入れ、幕府機構を何とか再開・維持しようと試みており、主要人物は頻繁に京都入りをしていました。そんな中で、池田紀伊守正秀という人物が、近衛前久邸を訪ねています。酒宴もあったと記録されています。池田家は京都に屋敷も持っていました。

日が経つにつれ、夏頃には足利義昭の入京の情報が入り始め、8月には三好方が近江守護の六角氏と対策協議を行っています。六角氏は将軍義栄を支持していた勢力でした。

◎秋 足利義昭を奉じた織田信長の上洛戦
池田城跡公園
池田城跡公園
7月25日、足利義昭は美濃国の立政寺(りゅうしょうじ)に入り、ここで織田信長と対面します。この時にはもう、信長は全ての準備も終わり、スケジュールを説明するほどの最終段階だったでしょう。間もなく、信長は足利義昭を奉じて軍勢を出陣させ、翌月7日には、隣国近江の佐和山城に入っています。この時は、浅井長政もこの上洛戦に協力していますので、ここまでは安全に移動が可能でした。
 既に情報は入り、守護六角氏の本拠観音寺山城を攻める時には、内部分裂状態にあった、六角方の重臣が織田方に寝返り、難攻不落の城もあっけなく落ちました。
 三好方は、この城を頼りにしていたため、軍勢をここで足止めできると考えていたようです。六角方は一度は織田方を撃退したものの、結局は翌月の13日に落城します。

この情報は直ぐに京都へ入り、大混乱となります。また、同時に松永久秀の元にも入っていました。足利義昭も奈良興福寺一乗院門跡(当主)であった経歴から、諸方に向けて音信をし、織田方の軍事行動を支援していました。
 この勢いに驚いた朝廷は、織田信長に禁中(御所)警固を命じます。信長はこの上洛の年からの名乗りが「弾正忠(だんじょうちゅう)」でこれは、警察に相当する役職です。これを見ても、用意周到です。

先だって、23日、足利義昭の側近細川藤孝、近江国人甲賀の和田惟政が京都へ入ります。その2日後、最先頭の兵が京都へ入り始めます。また、この頃には、主要な人物は京都を落ちていきます将軍義栄、その関係者である水無瀬親氏などの公卿です。三好方の主要な人物も退却を始めていました。
 京都に近い勝竜寺城には、三好方の石成友通(いわなりともみち)が居て、交戦しましたが直ぐに突破されてしまいます。芥川山城(高槻市)付近でも同じでした。敗走した三好方の人々は、一旦池田城を目指したようです。池田城下は街道を多く交差させていたため、ロータリーのようになり、どこに向かうにも一旦は安全な城に入るという状況だったようです。
 そういう緊迫した状況にあって、人々がもたらす情報も池田城に入り、池田勝正は防戦体制を整えていたことでしょう。

さて、素朴な疑問がありますよね。皆逃げるのに池田勝正だけはなぜ、戦ったかという疑問。これには理由があります。三好勢の本拠は、四国や淡路島で、そこへ逃れる事ができたのですが、池田衆は地場勢力ですから、逃れる場所がありません。ですので、戦わざるを得なかったのです。
横岡公園から西側を望む
横岡公園から西側を望む

9月30日、池田城の織田信長の軍勢が池田城を包囲し、合戦が始まります。この時、信長も池田まで出てきており、陣を敷きます。今の池田市五月ヶ丘にある横岡公園がその陣と考えられます。ここからは、池田城がほぼ俯瞰できて、山へ通じる主要道も封鎖できる絶好の位置です。ここから西側へは急激に地形を下げ、展望は良好です。

 この池田城合戦で池田勝正は激しく抵抗し、信長の親衛隊が戦死、大けがをするなどして後退しました。そのため、力押しは止めて、城下を放火するという策に出、これをもって池田勝正は、10月2日に降伏を申し出て合戦は終わります。3日間の闘争でした。
 この池田城の戦いをもって、上洛戦は決着がつき、織田信長の一連の軍事行動は終わります。池田勝正は翌日、芥川山城の足利義昭・織田信長を訪ねています。
 18日、足利義昭は京都にて将軍宣下を受けて、第十五代室町将軍となります。22日、将軍義昭が禁裏(天皇)へ参内し、この時の警固に池田勝正は市中警固役を担っています。24日、池田勝正は将軍へ参内し、摂津守護を任されています。
 元々池田家は将軍義晴の代から御家人(江戸時代の旗本)格を得ており、将軍を護る任を命ぜられていたため、これはその流れに沿ったものでした。しかし、守護となれば、更に社会的地位が上がり、歴代池田家当主の中でも勝正は最高の社会的地位を得たことになります。ちなみに、守護とは今の府・県知事に相当します。
 池田家にとって、一旦は敵対したものの、敗軍して浪人すること無く、中央政権側に取り立てられてのですから、秋の稔りは全て失うことはありませんでした。それは家臣にとってこの上ない安堵となったでしょう。しかし、安心ばかりではなく、これに期待する幕府側の思惑があったのです。

一方、第十四代足利義栄はどうなったのかというと、京都を落ちのびて、阿波国本拠へ戻る途中の鳴門撫養(むや)で腫れ物を患って死亡しています。しかしこれは、松永久秀の暗殺説もあったりします。不自然な点が多いためです。

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<永禄12年>--------------------
◎正月 六条本圀寺合戦

六条本圀寺跡に残る門
六条本圀寺跡に残る門
この合戦は、5日から7日にかけて行われています。三好三人衆が再び将軍を殺害する可能性もある行動でしたが、何としても京都を護る将軍の役目だけは堅持すべく、重要な戦いでした。しかし、京都に適当な城は無く本圀寺という法華宗のお寺を将軍は居所としていました。明智光秀などの側近もここに居り、この戦いに側近衆は奮戦し、少数で見事に将軍の命を守りました。
 一方の池田勝正も救援にかけつけて勇敢に戦い、将軍を護る任務を果たしました。しかし後年の書物では、池田勝正が間抜けで、逃亡したとのウソが書かれており、当時の史料を見ると、この防戦に中心的役割を果たしていたことがわかります。

三好方は、第十四代将軍義栄を失い、求心力を欠いてしまいましたが、京都での活動が長く、まだまだ勢いはありました、時を移さず反撃の準備を調え、京都の奪還を画策していました。和泉国方面までは上洛戦の手が及ばず勢力も温存していましたし、堺でも三好方に組みする勢力が多くありました。
 年末から既に軍事行動を起こしており、京都を目指して各地で合戦が起き始めていました。それらの動きが、想定以上の早さで北上し、正月には京都間近の河内国枚方まで達しています。これらの情報は既に池田家にも入っており、準備はしていたようです。京都奪還のための相当数の兵で攻め上っていました。五千を超える兵数だったようです。
 1月4日には、三好方の軍勢が京都東福寺に陣取りを行い、京都市中は再び騒然となります。池田衆は将軍義昭を護るため、池田を出発しますが、この時高槻に居た入江氏が三好方に組みしたため、西国街道が塞がれ、大きく迂回することになりました。島本町大沢方面を通り、長岡京方面へ出る道を通り、京都へ向かいました。この当時は積雪もあり、非常に時間がかかったようです。

1月5日、京都六条にあった本圀寺を三好勢が襲います。しかし、西から池田勝正・伊丹忠親などの軍勢が迫って、手勢を割かなければならず、本圀寺に居た明智光秀などの少数の兵は、それも利用しながら奮戦しました。織田信長もこの報に接すると単騎で京都に向かい、10日に京都へ入っています。

1月7日夜、この日の午後に決着がついたらしく、池田勝正は細川藤孝などとともに勝竜寺城に入りました。桂川方面から池田勢は駆けつけましたが、桂川は水深深く、流れも早いために人の力では制御不可能ですが、当時の記録では西から切り込み、七条あたりで合戦になったようです。また、幕府などの重要人物は、池田城を目指して避難しており、池田城は当時からも堅固な城との認識があったものと思います。また、10日に信長が京都へ入った折、守りの備えが堅固なことに感心し、池田紀伊守正秀を褒めたという記述があります。

織田信長は、三好方の勢力が未だ侮りがたいとして、直ちにそれらに加担した勢力の討伐戦を行います。同時に、将軍の居所たる城の必要性を痛感し、二条城の建設を行います。これらに池田衆は経済的・労働的負担を強いられていました。


◎夏 播磨・但馬国攻め
但馬山名氏の居城子盗山城跡
但馬山名氏の居城子盗山城跡


三好勢力の討伐と幕府の経済基盤を確保するために、旧地の回復を企図して行動します。但馬国の生野銀山は当時からも有名な鉱山で、これの権益を手に入れるべく、山名氏の討伐の名目を立てます。
 この時も二万の大軍勢を整えて出陣します。池田勝正もこれに従軍して、主要な役割りを果たします。10日程で、18ヶ所の城を落としました。また、播磨国へ入る名目は、幕府方につく勢力の救援で、播磨国龍野の赤松氏支援でした。一方、山名氏討伐は、具体的な背反が見当たりませんが、要は、生野銀山を取り手に入れるためです。この軍事行動で、一応の目的は達して引き揚げますが、誤算が生じました。支援していた龍野赤松氏が、青山の戦いに負けてしまいます。三好方だった黒田官兵衛にです。
 そのため、退路を断たれる恐れが生じ、急遽、幕府軍は但馬から撤退し、播磨国を経由して、それぞれ本拠地へ戻りました。

◎秋 播磨国へ再び出陣

播磨国庄山城跡(現姫路市)
播磨国庄山城跡(現姫路市)
夏の出陣が目的達成不十分であったため、現地勢力の要請もあって再び同方面へ出陣する事になりました。これにも池田勝正は出陣しています。この頃の室町幕府は、友好勢力を維持するため、要請に応えて行動しつつ、自らの利益も実現するような行動をしていました。
 当時の播磨国など西側の方面は関係が複雑で、三好方に加担する勢力とそれに敵対する勢力が、自己防衛政策を軸にしたまだら斑模様の勢力状態にありました。例えば、黒田官兵衛が属する小寺家は置塩城の赤松氏の家老で三好方、それに敵対する龍野の赤松氏は幕府方、その西の勢力、備前国浦上・宇喜多氏は三好方、更に西の毛利氏は幕府方などという、混沌とした状況でした。瀬戸内海を挟んで、対岸に三好勢力があるため、小さな勢力は強い勢力に結びつきやすい状態になってしまいます。

状況的には、毛利氏が突出した勢力であっため、主にそこを中心として同じ勢力の支援をし、かたまりを作ろうとしていたようです。幕府に加担する龍野赤松氏を支援し、同族の争いを終わらせて統一を手伝おうとしていたようです。
 10月、池田勝正は再び播磨に出陣し、室山城(現たつの市)などの周辺を攻め落として引き上げています。この時は、海側の街道を通って進んだようです。
 またこの時、池田衆の一派が鵤莊内(揖保郡太子町)を乱暴し、斑鳩寺の懸け仏を持ち去ったという史料があります。経緯は不明ですが、そういったこともあったようです。ケンカか何かがあったのでしょうか?

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<永禄13年>--------------------
◎正月 諸国へ京都参内への触れを出す

将軍義昭を中心に室町幕府の再興を願って東奔西走しつつ、敵味方を判別するための方策も思いつくようになります。将軍を敬い忠誠を誓うために上洛せよと、諸大名に触書を出します。これに応えない者は、当面の敵と判別できることになります。ここに越前朝倉氏の名も見えます。また、朝倉氏に拉致軟禁されていた若狭国守護家の武田孫犬丸元明の名もあります。事実上不可能なことを突きつけ、攻め込む口実にしていた面もあると思います。
 この触れを出して間もなく、名指しされた大名は京都へ入り、将軍へ挨拶を行います。この中には池田勝正の名もありました。将軍への謁見と、様々な土産を献上し、誼を通じました。
 一方で、早くも織田信長と将軍義昭の不破が表面化しており、同じ時期に一旦の和解をしています。これ以前にも度々不和があり、周辺が心配するような状況も度々ありました。

◎3月  将軍義昭・織田信長、朝廷から越前朝倉氏征伐の勅許を得る
1日、織田信長は天皇から勅許を得て、朝倉討伐を行う事が認められます。これにより、錦の旗を立てた幕府軍を朝倉氏との戦いに利用できました。私戦では無く公戦となり、見方の離叛者を出す可能性を低くし、相手の謀反も誘うことができます。また、近隣の小勢力が幕府・織田信長方に従うようになります。
 更に、改元も予定し、その行軍中に「元亀」と改元する手はずも整えていました。また、出陣に合わせて、京都で建設中の二条城も完成させる予定でした。同時に、禁裏(宮中)の紫宸殿の修復も完成させました。

この動きに池田衆も動員されることになっており、摂津国内で最有力であった池田家は幕府方の中心的軍事勢力として三千の軍勢を出陣させました。幕府は立て直しを始めたばかりで、これ程の軍事力を持った単独の勢力は京都周辺にはなく、池田家が最大の勢力でした。しかし、池田家にとっては、度々の軍事動員が大きな負担でもありました。

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2020年9月29日火曜日

織田信長が使った「天下布武」のハンコから始まった近世と中世の終わり。その意味、意識、社会、城について。

最近、役所のハンコの廃止について、連日ニュースになっていますが、このハンコについて、織田信長は特別な意味を込めてあらゆる文書に使いました。
 しかし、それは大きな意味がありました。ハンコとは何か。署名からハンコに変わった意味。一つの時代が終わり、始まりました。また、社会の仕組み、城の仕組みまで変えてしまった、意識の変化がそこにありました。

その意味でも、織田信長は非常に独創的で、時代を的確に主導するに相応しい能力を備えていたといえるのではないかと感じています。

そんなハンコについて、テレビや雑誌などでお馴染みの千田嘉博先生が、大変分かりやすく、的確な研究結果を披露されていますので、抜粋してご紹介します。
 今起きている社会的な動きが、思慮の浅いものではなく、ハンコの持つ意味そのものをしっかりと考え、ある方向に導くためにも一つの教養になろうかと思います。

シンポジウム 織田信長と謎の清水山城[記録集] 2002年3月発行 / サンライズ出版
◎基調講演:戦国時代の城 / 千田嘉博

---(文書形式と城の構造)-------------------------
さて、重大な意味といいましたが、それを読み解いていくために古文書を見てみたいと思います。城のあり方が大きく変化した天文(てんぶん)期を境に各地の戦国大名が出した文書の形式も大きく変わっていきました。戦国大名が出した文書を見ると、文書の最後に大名の名前があって、その下に花押、つまりサインをするタイプ(「判物:はんもつ」)と、文書の最後に名前を書いて、信長の「天下布武」のような印を押すタイプ(「印判状:いんばんじょう」)がありました。印を押したものは印だけで名前を記さなかったものもあります。
 例えば、私が教育委員会に呼ばれて講演に出かける場合、一応勤め人ですから私の博物館長に、教育長さんから「千田さんを派遣して下さい」という書類を出していただきます。その書類があってはじめて「行ってよろしい」ということになるのですが、殆どの場合、私はもちろん、館長も、依頼して下さった教育長さんとは個人的な面識がありません。
 それではなぜ博物館で「行ってよろしい」ということになるのかといいますと、教育委員会から送られてきた書類に教育長の印、赤いハンコが押されているからです。個人的な人間関係が全く無くても、そのハンコが押してあることで、公式の書類として通用するのです。

私たちが役所に行って証明書をもらう時も、特に市長さんや町長さんとお茶を飲んだことは無く、全く親しくなくても、市長印や町長印が押してあれば通用します。どんな人なのか知らないのに、その人の証明や判断に従う、というのはよく考えると奇妙なことです。しかし、それは私たちが個人的な関係の上で役所との関係をもっているのではなくて、組織的・官僚的な政治機構があって、市長さんや町長さんの権威を認めているから通用するのです。
 さらに凄いことに、どこの役所(あるいは会社)でも同じだと思いますが、ハンコというのは市長さんや町長さんが「よしわかった」といって全ての市長印・町長印を押しているのではありません。実際には誰か他の人がハンコを押すのです。サインは必ず本人でなくてはいけませんが、印は本人でなくても大丈夫なのです。政治機構ができあがっていれば、誰かがハンコを押せば教育長さん本人が押してなくてもちゃんと通用してしまうわけです。
 こうした花押(サイン)がある文書と印の押してある文書との違いは、現代社会だけではなく戦国時代の文書にも共通しました。
 先にもいいましたように花押というのは本人のサインですから、本人以外は書けないわけです。花押がある文書でないと信じられない、従えない、という社会は、政治機構ではなく、文書を出した人と受け取った人との個人的な親密感や信頼関係を基盤にしたことが明らかです。印を押した文書が通用する社会は人間関係ではなく官僚的な政治機構が基盤になっていたといえます。
 足利将軍邸など武士の館で会所という特異な建物が出現し個人と個人の人間関係をうまく構築する努力を重ねていたことは、将軍や大名達の遊びや文芸活動という文化史的な意味だけで捉えたのでは正しく評価したことになりません。これまで注目されてきませんでしたが、会所が室町時代に成立し、江戸時代の初頭には消滅したことの意味は、政治機構の変化との関係で解釈するべきです。ここでの議論に即して言えば、印を押した印判状を出すようになった大名は、会所で家臣達と横並びの人間関係を深めている場合ではなかったのです。
 判物から印判状へという文書形式の変化は先に上げましたように天文期を境に進んでいきました。早い遅いはありましたが、列島の各地で判物が少なくなり、印判状が増えていきました。そしてそれと連動して拠点城郭のかたちは並立型から求心型へと変化したのです。大名と家臣が個人と個人の信頼関係を基盤にして結ばれている時は、大名だけがみんなから超越した曲輪に住むというのは都合がよくありません。
 ところが印判状が出せる官僚的機構が確立してくると、大名を頂点とした政治機構が整って、より明確な序列ができあがります。また山城の階層的な空間にそれぞれの屋敷地を配置していくことは、そうした大名を中心とした序列をつくり出すのに絶好の装置でもありました。つまり天文期を境にした大きな変化は求心的な城への転換、大名と家臣との関係を基盤にした連携から政治機構を基盤にした権力へ、という様々な動きが一体となって実現したものだったことがわかるのです。
 そして、こうした変化は山城を中心に展開していきました。なぜ各地の大名が山城を拠点にしていったのかという大問題は、戦術や乱世の激化というだけではなく、中世から近世への社会構造や政治機構の大きな変革に裏打ちされていたのです。
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千田先生の素晴らしいご研究だと思います。


織田信長禁制
天下布武印の入った織田信長朱印状(禁制)

池田筑後守勝正花押
池田筑後守勝正花押

荒木村重花押
荒木村重花押

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大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画 第二十五回「羽運ぶ蟻(あり)」

予告しました、大河ドラマの脇道を愉しむ企画ですが、タイトルを考えてみました。今後はこのタイトルで、週一回のペースでお届けできればと思います。

大河ドラマ『麒麟がくる』の隙間を愉しむ企画
池田筑後守勝正さん、いらっしゃ〜い!どうぞどうぞ。

これにより、多くの皆さまに、池田の長い歴史に興味を持っていただき、文化財への関心を持っていただくきっかけになればと思います。
 図に乗って、ガイドツアーも企画するかもしれません。途中で企画が「沈voつ!」したり、どうなるか分かりませんが、どうぞお楽しみに〜。

※この企画は、ドラマ中の要素を独断と偏見で任意に抜き出して解説します。再放送・録画を見たり、思い出したりなど、楽しく番組をご覧になる一助にご活用下さい。

今回は、第二十五回「羽運ぶ蟻(あり)」2020.9.27放送分です。

◎概要
永禄9年(1566)あたりから同11年頃までの流れを筋書きにしており、話しの中心は将軍就任レースの緊張感を伝える内容になっていました。
 歴史上では、三好長慶が死去し、程なくして三好家中が分裂。三好三人衆 vs 松永久秀の争いになっていますが、そのあたりは、ちょっと違う取り上げられ方になっています。この三好と松永の争いに対して、池田勝正が三好方に付いたことから形成は一変。松永不利となり、松永は義昭を担ぎ、入京の手引きをしていたのが事実です。松永も始めは義栄を担いでいたのですが、ケンカの末に、「俺(松永)はこっち」になったのです。

◎足利義栄の将軍職就任
この足利義栄は、阿波国に居住していた足利氏で、足利家内部の闘争などにより、都落ちする(他にも理由が色々ある)などして日本各地に足利家が存続していました。その地域で闘争があった時、これらの足利氏は担がれて、戦争を有利に進めるために利用されるなどの動きがありました。
 それの三好氏版です。この義栄が将軍職に就くにあたって、池田衆は大きな貢献をしており、池田衆無しでは不可能だったと思われます。池田家は、三好氏の本流筋から嫁をもらい、三好一族扱いを受けていた特別な存在でした。また、その池田家は摂津国内では非常に裕福で、地域政治にも長けていました。当然、戦国の世ですから、軍事力も持ち4,000〜5,000程の動員は可能であったと考えています。
 将軍は本来、皇室を守るためにあるのですから、京都に入り、そこで宣下を受けるべきなのですが、戦乱で適当な場所が無いため、守りの固い摂津冨田の普門寺で将軍職就任を認める宣下を義栄は受けました。

◎明智光秀の身分
織田信長が美濃を平定し、その祝いになどに光秀が訪ねた折、家臣になる事を誘われるシーンがありました。
 細かな事は明らかになっていませんが、これは史実の通りに描かれており、光秀は織田信長が京都へ入った頃は幕臣の立場でした。ですので、直接の主人は将軍です。奉公衆(ほうこうしゅう)など将軍の近臣として活動していました。多分、実際は領知も無かったようですから動員兵力もほとんど無く、官僚的な仕事が主だったと思われます。
 将軍義昭が京都に入った頃は、ゼロからのスタートで、何の基盤もなく、24時間体制の仕事だったと思われます。権威の整理、お金の管理と創出、徴税、軍事の手配などなど、将軍義輝政権(表現は不正確)の立て直しに忙殺されていました。

◎松永久秀の立場
三好三人衆に対して、ほぼ敗北状態だったところに、織田信長の将軍義昭を奉じての上洛で、九死に一生を得た松永久秀でした。実際にはかつての栄光に陰りがあり、信長からは一目置かれつつも、厚遇はされていませんでした。天正5年(1577)に死亡するまでに久秀は、3回(最後は自刃)も信長に反逆し、その度に詫びを入れて降伏しています。
 今の流れで行くと、最後との矛盾が出ると思うのですが、このあたりはどのように描くのでしょうか。既に矛盾はあるのですが...。

◎近衛前久という人物
この人物は五摂家筆頭という名門貴族近衛家の当主でした。この時、関白という地位にあり、皇室の政治(天皇の補佐)の担当者でもありました。また、この近衛家は、藤原鎌足を祖とする一族の筆頭でもあり、同族の日野家とも親密でした。日野家からは親鸞を輩出しています。いわば日本の頂点に位置する家柄であり、当時の政治では、巨大な存在でした。そしてまた、摂津池田家も藤原一族ですので、この近衛家を支える一族でもあったのです。
 ですので、足利義栄を将軍とするため、三好一族から一目を置かれていた面もあります。対して池田家は、その流れの中で様々な権益を獲得し、拡げることもしていたようです。
 近衛前久は明かな三好派で、後に劣勢となって織田信長方の軍勢が京都へ入った時には、殺害を恐れて京都から落ちのびています。大坂の本願寺へ身を寄せていました。

◎幕府奉公衆三淵氏、細川氏、一色氏
三淵藤英、細川藤孝は兄弟です。一色藤長は、丹後国の守護大名一色氏の系譜で名門の出です。またこれらの人々は足利氏の支族でもありました。こういった名族が幕府を支えるため、本拠地から出向するようなカタチで仕えたり、没落してしまい、最後の血を将軍に託すといった、様々な謂われの人々が幕府の中枢に入っていました。
 池田家は京都にも屋敷を持ち、御家人格(ごけにんかく:江戸時代の旗本に相当)でしたので、幕府にも知られた存在でした。そのため、こういった人物と深く交わっていました。時には、幕府からの命令や依頼を受けるなどしていた筈です。

 

摂津富田「普門寺」
摂津富田「普門寺」
国の重要文化財「方丈」

◎次回のこと
次回はいよいよ、将軍義昭の上洛ですね。池田衆は三好方として奮戦します。名前くらいは出てくるかも! 


2020年5月6日水曜日

戦国時代に河内国河内郡豊浦村に移住した鯰江氏一派、中村孫四郎代官屋敷跡(現東大阪市豊浦町)について

枚岡中央公園にある中村代官屋敷跡碑
前から気になっていたので、東大阪市豊浦町にある「中村孫四郎代官屋敷跡」を訪ねてみました。今は市民の憩いの場、普通の公園になっています。自転車でブラブラ、出かけてみました。行きは上り坂で息も上がり気味ですが、帰りは下り坂で、風を受けながら進めます。

今は平凡な公園となってしまった中村代官屋敷跡ですが、ここは非常に重要な場所で、村の中央部を南北に東高野街道が、東西に暗峠越奈良街道が通るという、重要な街道の交差点にあたります。平和になった江戸時代には、管理や監視のため、名族の系譜を引く人々がこの地を治めることになったようです。
 一方で、常に臨戦態勢であった戦国時代にも、そういった地勢もあって城などがあり、重要な役割を担った事でしょう。
 河内国は一時的に、近江守護の六角氏が権益を得て(若江郡の若江城)治めていた時代があるとされていますので、近江国方面の関係が結構あります。

先ずは、この代官屋敷跡について、関連資料の紹介です。東大阪市教育委員会が発行している歴史と文化財のガイドブックがあります。
※東大阪市の歴史と文化財(改訂版)- わが街再発見 -(平成15年3月版)P131

屋敷跡古図 ※東大阪市の歴史と文化財より
(資料1)-----------------------
◎徳川本陣と中村代官屋敷跡
枚岡中央公園は、徳川家康の本陣となった中村四郎右衛門の屋敷跡です。絵図によると、公園の北側、東側にも屋敷地が広がっていました。最近(昭和末期)まで公園の西南隅に隣接して、みごとな石垣を持つ周濠が残っていました。中村家は系図によると、宇多天皇より17代目を高昌と呼び、近江国愛知郡鯰江城に居城していたので鯰江氏と呼ばれていました。
 その四代の孫が中村唯正で室町時代の後半、豊浦村に浪跡して姓名を中村四郎右衛門と改め、孫にあたる正教は、慶長19年(1614)大坂冬の陣の時、徳川秀忠に、翌年の夏の陣には、家康に本陣として屋敷を提供し、自らも大坂への道案内もしました。
家康からの下賜品記錄 ※東大阪市の歴史と文化財より
これによって徳川幕府から平岡郷(豊浦村一帯)に下された制札には、平岡郷に、軍勢は狼藉、放火をするなと書かれています。河内の多くの村は戦火に遭いましたが、豊浦村一体は焼失しませんでした。夏の陣の宿陣は、5月5日菖蒲の節句であったため、正教は河内の特産木綿を「菖蒲木綿」として家康に献上したところ、「勝布」「尚武」に通じるとして家康から感謝状が下され、それ以外にも刀、盃等が家康からの拝領の品として中村家に伝えられました。屋敷内の宝庫には拝領之御品納置候と記され、例年4月17日に、これらを人々に見せたと伝えられています。
 豊浦村は天領であったため中村氏は「中村代官」と呼ばれ、村の庄屋として、奈良街道と東高野街道が交差する要衝の地を支配していました。
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続いて、お馴染みの「大阪府の地名」です。こちらは「東大阪市の歴史と文化財(改訂版)」よりも前に刊行されていますが、豊浦村に焦点を当てていますので、若干内容が違います。特に「大坂夏の陣」については、徳川家康の行動経緯が詳しく解説されています。読み比べてみて下さい。
※大阪府の地名2(平凡社)P958

(資料2)-----------------------
◎豊浦村(現東大阪市豊浦町・東豊浦町・箱殿町・新町・高殿町・鳥居町)
生駒山地西麓のかなり急な扇状地にある。北は額田村、東は暗峠で大和国に続き、西は恩智川を隔てて松原村。中央部を南北に東高野街道が、東西に暗峠越奈良街道が通る。「とよら村」とも呼ばれた(寛文10年覚「大阪府全志」所収)。字名に箱殿・髪切(こうぎり)・鳥居・宝蔵新家・峠などがあり、髪切は枝郷。古代河内郡豊浦郷(和名抄)の地。
(中略)
 慶長20年(1615)の大坂夏の陣の時、5月6日に星田(現交野市)に着陣した徳川家康は、そこで合戦の下知をしようとしたが、戦況が急速に展開したので豊浦に陣替えをし、翌日に天王寺(現天王寺区)へ出陣した(元和先鋒録)。豊浦在陣の時、宿舎の中村家が菖蒲木綿を献上したのに対し家康は「為端午之祝儀、単物二到来、喜思召候也。」と礼状(中村家旧蔵文書)を残した。正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高590石余で、旗本小林藤兵衛領、小物成として山年貢米3石余、山年貢銀179匁2分(幕府領)。
 元文2年(1737)河内国高帳・明治2年(1869)河内国高付帳では高591石余で小林領590石余、幕府領8斗余(小物成)。天保郷帳には枝郷髪切13石余が載る。天保11年(1840)には油稼人が3人いて、近隣の村々から菜種を買い求めていた(中西家文書)。同12年には木綿寄屋2軒があった(大阪木綿業誌)。明暦元年(1655)奈良街道に松原宿が置かれ、松原村と水走村で駅所御用を勤めていたがその負担に耐えきれず、寛文10年(1670)額田村と豊浦村にも人馬役負担が命じられた(大阪府全志)。
 産土神は枚岡神社。浄土真宗本願寺派光乗寺・融通念仏宗浄国寺がある。暗峠西口にある日蓮宗梅龍山勧成院は永正2年(1505)日証の創建(大阪府全志)。元禄7年(1694)、芭蕉が暗峠を通った際、句を残し、寛政11年(1799)芭蕉百年遠忌の追福として峠道に句碑が建立され(河内名所図絵)、現在勧成院に移築されている。
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この家康の行動についてですが、慶長年間の大坂の陣の際に、摂津池田の村役上層部の人々が暗峠へ酒や軍資金を届けて、禁制を貰い受けたということになっています。
 「元和先鋒録」など関連資料を調べれば良いのですが、慶長19年(1614)と翌年の大坂の陣では、両度とも家康は暗峠を使っておらず、京都から東高野街道を使って河内国へ入っています。

このあたり、少々検証が必要なのかもしれません。歴史を暴くという意味では無く、後年に勘違いされているところがあるのかもしれないという意味で、です。

後日また、詳しく調べて続報を出したいと思います。

2020年5月4日月曜日

摂津国池田に田地を寄進した河内国豪族恩智左近とその一族・城などについて考える

最近、池田勝正の生きた時代から少し枠(時代)を拡げて、色々な事物を見ています。その中で、摂津国池田の寿命寺へ田地寄進状を下した、恩智左近や足利尊氏について、ちょっと興味を持っています。その興味の行きつく先は、細河庄の大寺院、久安寺でもあります。

恩智城跡公園
この記事は、本格的に調べる前の、備忘録(メモ)的ですが、状況が整えば、しっかりとした、内容に拡張したいと思います。

さて、先述の恩智左近ですが、厳密に言えば、左近とは何代か続いての名乗りともなりますが、今のところ「左近」と言えば通念では一人です。この人物は、今の大阪府八尾市恩智地域で顕彰されており、その「左近」の伝墓もあります。この人物は、鎌倉時代末期から南北朝時代頃に活動した人物で、地元では諱を「満一」としています。また、左近は楠木正成に属して八臣の一人ともされている名族です。恩智氏は、恩智神社の社家の末裔で、恩智神社参道の長い石段の基を調えたのも左近と伝わっています。
 しかし、摂津池田寿命寺に伝わる寄進状の恩地左近は「政忠」で、日付も建武2年(1335)9月11日付けとなっています。活動年代に矛盾はありません。因みに、翌年7月9日付けで、足利尊氏が同寺に恩賞(感状)状を下しています。恩地左近の史料を以下にあげます。なお、この書状の形式は「直状」で、この人物が更に上位権力の意向伝達を行う形式です。
池田市史(史料編1:原始・古代・中世)P14

(史料1)-----------------------------
前置:寿命寺薬師堂仏 聖米田一所事
本文:合三段 摂津国山本庄十四条三里七坪号細間利。右の件、田三段於者、天下大平奉る為、領家安穏所、庄内豊饒願い成るに就き、寄進令め所也。万(よろず)雑公事停止、向後更に違乱有るべからず之状件の如し。
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さて、現在の八尾市恩智に目を移します。

その恩智左近が築いたとされる恩智城跡があります。今は恩地城跡公園となり、市民の憩いの場になっています。この城は、楠木正行の供をして四條畷合戦で戦死(正平3年(1348)8月)し、その戦死と共に城も落城しと伝わるようです。
 この楠木正成と摂津池田氏とも繫がりがあり、この縁で何らかの作用があったのかもしれませんが、今は調べが進んでおらず、後の項に譲ります。
日本城郭大系「恩智城」より
城の眼下には、南北に走る当時の重要道である東高野街道を通し、東には奈良へ通じる重要な道をいくつも持っていました。現地を見ると、立地は摂津池田城とも似たところがあります。
 また、今はもう変わってしまいましたが、東高野街道を更に20丁(更に500メートル)程西へ進む(坂を下る)と、大和川付け替え前は重要な水運でもあった川幅の広い恩智川が流れて(北流する)いました。
 川と丘陵で狭くなった道や平坦地を睨む好立地に城と集落がありました。後背は、山道で大和国信貴山や竜田方面など、縦横に道を交差させており、交通の要衝との結節点でもありました。

最近、八尾市史が新しくなり、また、国の史跡ともなった大発見「由義寺(弓削寺)跡」の発掘もあり、歴史に対する意識が高まりつつあるようです。故に、資料の発掘も盛んになるでしょう。
恩智神社本殿
これまでは、恩智左近のみの焦点が永年続き、史料の発掘も進みませんでしたが、左近以降の恩智氏の動向についても、少しずつ明らかになっています。
 例えば、河内国守護に仕えて上層内衆として活動していた恩智氏の史料などもあり、それらが解明されています。河内国守護畠山尚順内衆の恩智真成が、河内国南河内郡叡福寺太子僧坊年預中へ宛てて音信(直状)したものがあります。
※畿内戦国期守護と地域社会P30

(史料2)-----------------------------
羽咋庄之内、太子田段銭之事、尋ね申すと雖も、往古御免許之筋目に従り分け仰せられ之間、御判之旨に任せ、免除せしめ候。弥々相違有るべからず候者也。仍って状件の如し。
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こういった研究成果から、名族であった恩智氏は、栄枯はありながらも断絶はせず、地域権力として生き延びていたと思われます。また、先述の地政学的にも重要地域であったため、城や集落としての重要性は低下することは無かったと思われます。

また後日、このあたりのことを調べて記事にしますので、少々お待ち下さい。

2020年3月8日日曜日

明智光秀も度々利用した余野街道上に存在した、池田市伏尾町の八幡城が巨大であった可能性について

現在の池田市伏尾町にあった八幡城について、詳細は判っていないのですが、その城が巨大であった可能性を考えている方がいます。
 池田郷土史学会会員の岩垣 正氏による調査で、縄張り図が描かれ、それによる全容想定図も描かれています。氏は学生時代に日本画を専攻され、それ故にこのような図を描くことも可能でした。
※図の制作者様には許可をいただいて掲載しております。

摂津八幡城想定復元図:岩垣 正氏

摂津八幡城縄張想定図:岩垣 正氏

調査時の現地の状況

池田郷土史学会による数度の踏査と、業界でも有名な専門家による実地見聞も行われています。八幡城は現在も調査中ですが、その専門家の判断によると、今のところ城なのかどうか判断がつかないとのことです。もう少し詳しく必要要素の発掘と現地調査が必要なようです。ただ、一部は寺の施設ではないかと判断されていました。

そういうった現状ですが、個人的には、ここにこのような城があっても不思議では無いと感じています。
 というのは、享禄年間から天正年間始めまでの摂津国池田周辺の動きを見ていますが、池田家が隆盛した天文年間から永禄の三好長慶政権時代特に、丹波国方面から池田へ敵が南下する例があまりありません。河辺郡あたりに南下する例が集中していることに、違和感を持ていました。もっとも、池田家は「余野街道(池田道、亀岡道とも)」沿いに影響力を拡げ、止々呂美、余野、木代などの地に婚姻、代官地などを持っていた影響もあったと思われます。
 それに比べて芥川や西岡方面は、丹波方面から敵方勢力が度々降りてきて、山城・摂津国で打ち廻りました。池田方面の、このような動きが少ないのはどうしてなのか、永年に渡って疑問に感じていました。
※三好長慶が京都防衛のため、芥川山城に拠点を構えるようになると、この地域への南下は無くなる。
 しかしながら、こういった城があるならば、それは私の疑問を解いてくれます。これ程の城があるならば、軍勢が丹波国(余野)方面から南下することは不可能です。

また、摂津池田衆の主体が滅び、代わって荒木村重の統治下に移ると、丹波国方面へは池田を通って入ることも多くなるようです。それもやはり、このような施設が途上にあれば、軍事・政治的に大きな意味と利便性があるからです。
 明智光秀の丹波攻めでは、度々池田を通路に使っています。また、天正三年の丹波国撤退の折、池田を通って退却しています。

それからもう一つの大きな要素は、久安寺という大寺院の存在です。このお寺は、戦国の争乱で荒れ、また、忌まわしい明治の廃仏毀釈によってそれまでの宝物や資料の大多数を毀損してしまい、残った遺物が殆どありません。それ故に、口伝と仏像などの遺物、僅かに残った形跡から再生・復元推定するしかありません。しかし、状況証拠から必然は見えてくるものと思われます。その久安寺についても、近日、詳しく検証したいと思います。

この久安寺は、行基の創建から天皇の勅願寺としての由緒を持ちます。ですので、巨大な宗教組織、施設が豊島郡(池田)の北部に存在したことは確実です。当然これに、池田氏も対処する必要があり、地域政治を執る上で、協調なり上下関係なりが存在したことは想定できます。
 それがどういったものだったのか、当時の必然性は、今のところ不明ですが、非常に興味深い要素が細河郷い存在していたことだけは確かです。これまでにあまり、これへの思索が行われていないようですので、少しこだわって掘り下げてみたいと思っています。

最後に、以下、「八幡城」について、先行する研究資料を上げておきます。

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】
  • 八幡城址は北方東野山にあり、楕円形をなし、周囲大凡八丁の地にして、東西南の三面は久安寺川之を囲繞(いじょう)し、北方は低地にして壕渠の形を為せり。土壇は今も尚存して、俚俗は之を城山と呼び、多田満仲の家臣藤原仲光此に居り、後播磨守と称する者の籠もりし所なりと伝うれども、其の氏名年紀などは詳らかならず。また廃絶の年月の如きも知るに由なし。山に麗水あり、城兵の用いしものなりという。
     本地は延宝年間より徳川氏代官の支配となり、同代官継承して斎藤六蔵に至る。其の後の管轄及び区画の変遷は、大字吉田に同じ。【大阪府全志】
  • 同郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城後に播磨守在城と云へり。氏年歴所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是即ち城郭の用水也と云へり。【摂陽群談】

 

※念のため、これらの出典は、後で付け加えたものではなく、公開当初からあるものです。そのような卑怯な事は絶対にしません。私は常に、論拠を以て話す姿勢は崩しません。分からないことは、想定として記述しています。

2019年12月27日金曜日

池田市綾羽にある伊居太神社と摂津池田氏について

既述の記事「戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺社」からの抜粋です。また、関連する地域も同様に抜粋します。池田市綾羽にある伊居太神社について、再度、考えてみたいと思います。近日に池田市と尼崎市の伊居太神社も訪ね、追加記事も掲載します。

◎伊居太神社:いけだじんじゃ(池田市綾羽)
  • 五月山の西麓部に鎮座。祭神は「日本書紀」応神天皇37年・41年条にみえ、日本に機織・裁縫の技術を伝えた工女の一人穴織大神といい、ほかに応神天皇・仁徳天皇を祀る。「延喜式」神名帳の河辺郡七座のうちの「伊居太神社」に比定される。旧郷社。社伝によると応神天皇41年渡来して以降穴織は、呉織とともに機織・裁縫に従事、同時にその技術の指導に努めたが、応神天皇76年9月両工女は没した。仁徳天皇は両工女の功に対して、その霊を祀る社殿を建立、穴織の社を秦上社、呉織の社を秦下社と称したのが当社の始まりという。
     その後も代々天皇の崇敬を受け、延暦4年(785)には桓武天皇の勅により社殿が再建され、応神・仁徳両天皇が相殿として祀られるようになったという。
     延長年間(923-931)には兵乱で社地を失ったが、天禄年間(970-973)多田満仲が再興、以来武将の社殿修造が続いたといわれる。後醍醐天皇は宸翰を秦上社と秦下社に与え、以来秦上社は穴織大明神と称し、秦下社は呉服大明神というようになったと伝える。
     下って慶長9年(1604)豊臣秀頼の命によって片桐且元が社殿を造営した(大阪府全志)。同座地は旧豊嶋郡域で、前述の式内社伊居太神社の河辺郡とは矛盾する。これについて「摂津志」は「旧、在河辺郡小坂田に(中略)池田村旧名呉織里、以固有呉織祠也。中古遷建本社于此、因改里名曰伊居太又改社号曰穴織」と、もともとは河辺郡小坂田(現兵庫県伊丹市)にあったが、中古、当地に遷祀されたとの伝えを記す。一説に、その時期は南北朝時代で池田氏によって遷祀されたという(「穴織宮拾要記」社蔵)。なお現兵庫県尼崎市下坂部に式内社伊佐具神社に隣接して伊居太神社があり、当社が現在地に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所の塚口村(現尼崎市)に近いことから、この地域に鎮座地があったともいわれる(川西市史)。
     末社として両皇大神宮・猪名津彦神社などがある。伊名津彦神社などがある。猪名津彦神社は文化12年(1815)に字宇保の稲荷社(現猪名津彦神社)の床下の石窟より出てきた骨を納めて祀ったといわれている。例祭は10月17日。古くは1月14・15日の両日、長い大綱で綱引きを行ったといわれている。本殿は全国で例のない千鳥破風三棟寄せの造りである。境内には観音堂があったが、栄本町に移転。本尊として十一面観音像が祀られていた。なお呉服神社の近くに姫室とよばれる古墳があったが、これは穴織を葬った地と伝えている。【地名:伊居太神社】
  • 伊居太神社蔵の『穴織宮拾要記(あやはのみやしゅうようき)』にある記述に、「九月塚口村(現尼崎市塚口)へ御輿祭礼ニハ四十二人ハ家々之将束騎馬にて出る、両城主(池田・伊丹)ハ警護之供也。此祭事ハ清和天皇御はじめ被成候。天正之兵乱二御旅所も焼はらい神領も取りあげられ田ニ成下され共当ノ字所之者池田山と云名残りより、其後世治り在々所々ニ家作り、四年めニ九月十七日麁相成御輿を造り、池田・渋谷・小坂田としてむかし之総て還幸をなす所ニ、伊丹やけ野ひよ鳥塚と云所ニて所之百姓大勢出、むかし之勝手ハ成間敷と云、喧嘩してはや太鼓打棒ニて近在より出、御輿打破られ帰り、是より止ニ成り...(以下略)」
     この記述をみるかぎり、9月は塚口村への御輿の御渡りは清和天皇の時代からの重要な祭事で、当時の有力者池田氏と伊丹氏等が後援して、42軒の神人が騎馬装束で供をするならわしであったのが、荒木村重の乱で御旅所が焼き払われ神領も取り上げられた。だが、塚口には池田山という字名も残っているので、世間も治まって4年目になるので(天正9年:1581)新たに御輿をつくり、復興最初の神事として9月17日、塚口の池田山をはじめ、昔の習わしに従って所々の地を回り、伊丹の南のひよ鳥塚(現伊丹市伊丹6丁目)までやってくると、付近の百姓が出て、早太鼓を打ち鳴らし近在の人々を大勢集め棒などで御輿を打ち壊し従供等と喧嘩となり、以前のような勝手なふるまいを許さないと神幸を妨害した。結果それ以後神幸は実施されなくなってしまった。
     清和天皇は別として、天正の乱あたりからおおよそ60年後に書かれたと思われるので、かなり信頼してもよいのではないかと思う。伊居太神社にとっては、塚口神幸は重要な意味があったのだろう。(後略)。【池田郷土研究 第17号:伊居太神社と池田山古墳】 
  • 現池田市の伊居太神社は、麻田 茂氏の研究によれば、(1)式内伊居太神社の原鎮座地は、塚口の池田山ではないか。(2)阿知使主等が停泊した地は、古代海が伊丹段丘の東側猪名川沿いに深く入り込んだ地(伊丹には絲海の名が残る)塚口の池田山付近が考えられる。(3)池田山古墳は猪名川水系古墳群で最古。(4)伊居太神社の祭神は塚口古墳群(猪名川水系古墳群)を築造した氏族集団の祖が池田山古墳の主。(5)古代猪名川水系の両岸は同一生活圏。、としている。【池田郷土研究:「伊居太神社と池田山古墳」:麻田 茂】 
  • 猪名川を圧迫するように東から西へ張り出した五月山の山麓に伊居太神社が立地し、池田の町の防衛上も重要な場所にある。伊居太神社のすぐ西側の眼下に街道を通し、この街道はすぐ北にある木部付近で能勢・妙見・余野街道(摂丹街道)と分岐する。逆に言えば、北部地域からの街道が伊居太神社眼下で合流する。
     また、伊居太神社からは、五月山山上へ通じる山道が3本程ある。池田城からも伊居太神社への道がある。その途次に、的場と云われた場所がある
     中世の戦国領主にとっての祭祀の場所は必ず必要であるし、その主催者としての素養も地域を束ねるには必要とされていた事が近年の研究では注目されてもおり、戦国時代に大きな勢力を持つに至った池田氏にとっても、同様であったであろう事が推察できる。そういった関係もあってか、室町時代と伝わる寺宝も多く所蔵している。その中に、眉間部分を鉄砲で撃ち抜かれたような穴が開いた、錆びた雑賀兜がある。こういった寺宝がある事から見ても、池田城主とのつながりをうかがえるし、当社の宮司は、池田城主の家臣と伝わる家柄でもある。
     ただ、荒木村重の乱(天正元年頃と同6年〜7年)で火災などに見舞われ、それ以前にあったかもしれない文書などは残っていないのが悔やまれる。
    追記:神社蔵の兜は、鎧兜を研究している研究者にも有名な兜であるが、神社側はこれを「朝鮮兜」として展示している。一見して判るし、これは朝鮮兜の類いではない事を断言できるが、なぜそのように表記するか尋ねたところ、韓国の研究者が神社を訪ねたおり、この兜を朝鮮兜だとしたところから、以来そのようにしているとの事だった。
     それを聞いた筆者は、色々な意味で、恐ろしさと憂いを感じた。この兜は、歴史群像シリーズ 図説 戦国時代の実戦兜にも載録されているが、そこでも朝鮮兜では無いと断言している。【俺】
  • 小括として、伊居太神社は、河辺郡尼崎に近い池田山古墳あたりまで謂われを持ち、当時もそれらを意識していたと思われる事から、この根源(核)である伊居太神社の命脈を池田家に持つことは、関連地域の領有や関わりの根拠になり得、それを保持する意味は十分にある。
     池田勝正の時代、尼崎本興寺に宛てて禁制(永禄8年10月15日付)を下す程の実力を持つようになる。こういった転機で、地域に様々な影響力を持ちやすくなるようになるのだろうと思う。池田氏側に、その正当化の種を元々持っている訳なのだから。
     その後に興る、荒木村重の勢力は池田氏時代の要素を否定せずに抱え込む事で、穏やかに領地を拡げていく事ができる。そういった経緯は、荒木村重の乱によって、徹底的に破壊され、伊居太神社や春日社などの関係社は、その後に再び元の姿に戻そうとしたようだが、時代と諸権力(権威)がそれを許さず、池田・荒木氏が統治した時代、世の移り変わりを『穴織宮拾要記』が記録しているのではないかと思う。春日社も池田ブランドを利用して、失地回復図ったのではないかと思われる。【俺】

    大正時代頃の伊居太神社 本殿

    大正時代頃の伊居太神社 拝殿

    ◎小坂田村:おさかでんむら(大阪空港敷地内となり現在住所表記なし)
    • 猪名川左岸の氾濫原にあり、中村の東に位置する。北は豊島郡今在家村・宮之前村(現大阪府池田市)、東は同郡麻田村(現同府豊中市)。「延喜式」神名帳に載る河辺郡「伊居太神社」はもと当村内に鎮座していたが、南北朝期に摂津池田に移転したとも(「拾要記」伊居太神社文書)、文和3年(1354) に当村内に同社末社を勧請したとも伝承する(享保4年「伊居太神社棟札」正智寺蔵)。当村の伊居太神社の祭神は「日本書紀」応神天皇条にみえる機織技術を 伝えた渡来縫工女の穴織で、穴織の実名小坂が地名の由来と伝承する(前掲棟札)。足利尊氏が同社を再興した頃、小坂田は荒地になっていたともいう(「穴織宮拾要記」)。豊島北条の条里が敷かれ、かつては条里遺構がよく残り五の坪などの小字もあった(享保16年「村絵図」小坂田文書)。
       文禄3年 (1594)矢島久五郎によって検地が行われたという(「上知に付庄屋日記」小坂田文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高305石余、初め幕府領、元和元年 (1615)旗本太田領、寛永11年(1634)太田康茂が改易になり幕府領に戻ったと思われる。寛文2年(1662)旗本服部氏(貞仲系)に300石が分知されて相給となり、明治維新を迎えた(伊丹市史)。(中略)。
       明治15年(1882)の戸数52、人口262(呉布達丙七号)。産土神は伊居太神社。 伊居多神社とも書き穴織大明神と称した。浄土真宗本願寺派正智寺と正福寺があった(前掲村明細帳)。正智寺は寛永14年正西の代に木仏免許、正福寺は同年 教西の代に木仏・寺号免許という(末寺帳)。
       昭和11年(1936)からの大阪第二飛行場の建設で大部分が敷地になり、同15年からの拡張に伴い住民は移転した。かつての集落は現在の空港ビル付近にあたる。伊居太神社は現池田市の同名社に合祀、正智寺は同市井口堂3丁目に移転した。【地名:小坂田村】
    • この小坂田村にも荒木姓があり、この村の移転の折、桑津村に移ったとの事。その荒木さんにお話しを聞く機会があり、荒木村重について伝わっている話しを聞いた。有岡城での戦いの時(天正6年の謀反の時か)、有岡からの途中、小坂田で馬を替えて池田へ向かった。、との話しが伝わっているらしい。また、地面を掘ると、かわらけや須恵器のようなものがたくさんあって、それを投げ割って遊んでいた。、との体験談もお聞きした。その時にメモは取らず、自分の記憶に頼っているため、若干記憶違いがあるかもしれないが、色々と戦国時代の言い伝えもあるらしい。場所的に西国街道と能勢街道の等距離にあり、村の規模も比較的大きいため、小坂田村は重要な役割を持っていたのかもしれない。

    ◎塚口村と池田山古墳(尼崎市塚口本町)
    • 塚口村は、森村の北に位置し、北は御願塚村(現伊丹市)。字名に安堂寺・明神・又太郎免・楽馬・上慶長・下慶長・西塩辛・東塩辛・山廻・花折があった。中世から塚口御坊(現真宗興正派正玄寺)の地内町として栄えた。
       文明15年(1483)9月に本願寺蓮如が有馬温泉(現神戸市北区)での湯治の帰路に猪名野・ 昆陽池(現伊丹市)を経て神崎に向かっているが、その途中塚口に立ち寄り、「塚口ト云フタカキトコロニ輿ヲタテ、遠見シケルホドニ、アマリノオモシロサ ニ、シバラク休憩シケリ」と述べている(「本願寺蓮如摂州有馬湯治記」広島大谷派本願寺別院文書)。蓮如との関係は明確ではないが、正玄寺は応永16年(1409)創建の寺伝を持ち、文明3年7月に本堂が焼失、同6年に経豪が下向して再建されたと伝える。塚口には同寺を中心として碁盤目状の道筋が通り、方2町の周囲をめぐる土塁と濠の一部が現存しており、戦国期以降に発達した地内町と同様の景観を今に伝えるが、成立に至る経過や町の様相、一向一揆との関係などは不詳。かつて城山・城ノ内の地名があったという。
       天正6年(1578)11月に荒木村重が籠城する有岡城(現伊丹市)を包囲する織田信長方の陣所の一つに塚口郷がみえ(「中川氏御年譜付録」大分県竹田市立図書館所蔵)、12月11日には丹羽長秀らが同郷に砦を築いて在番する事が定められた(信長公記)。丹羽長秀らの軍勢が配置され、翌7年4月の配置替えの際にも同様に陣所となっている(中川氏御年譜付録)。9月27日には織田信長が陣中見舞いのため塚口の長秀の陣所に立ち寄った(信長公記)。有岡城落城後の同8年には信長から禁制が下付され(同年3月日「織田信長禁制」興正寺文書)、同 10年10月には、山崎合戦に勝利した羽柴秀吉が禁制を与えている(同月18日「羽柴秀吉禁制」同文書)。(後略)。【地名:塚口村】
    • 池田山古墳のあった塚口一帯は、その名の通り、かつては大小の古墳が点在し、大正年間でも20余基を数えた。そのうち最大のものが当墳で、市街地化によってほとんどが姿を消し、当墳も昭和13年(1938)頃には痕跡すらとどめなくなった。大正末年の記録では南西向きの前方後円墳で、全長約71メートル、後円部径約52メートル、前方部の幅約25メートル。一部に周濠の跡を残す。主体部は竪穴式石室であったらしい。鏡・刀剣・土器などが出土し、5世記前半の築造。【地名:池田山古墳】

    ◎下坂部村:しもさかべむら(尼崎市下坂部)
    • 久々知村の東に位置し、古代部民坂合部の居住地であったかと推定されている(尼崎市史)。文安2年(1445)の興福寺東金堂庄々免田等目録帳(天理大学附属天理図書館蔵)に雀部寺領として大嶋庄・浜田庄とともに下坂部庄がみえ、田数は62町7反小であった。(中略)。
       当地の伊居太神社の社名は「延喜式」神名帳に河辺郡の小社としてみえる。旧豊島郡域の大阪府池田市綾羽2丁目に同名社があり、「摂津志」はもとは河辺郡小坂田村(現伊丹市)にあったものが中古池田の地に遷祀されたとの伝えを記す。この説は有力であるが、同社が池田に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所が当地に近い塚口であることから、当地を小坂田に比定し、本来の鎮座地であったとする説もある(川西市史)。【地名:下坂部村】

    2019年8月25日日曜日

    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(戦国武将甲賀谷長正という人物像の輪郭)

    今のところ、甲賀谷又左衛門尉正長についての直接的な史料は限定的ですが、様々な断片的資料を集めてみると、旧池田(荒木)家中の人々の動きから推測もできるように思えます。今現在、甲賀谷正長について判っていることから、以下にまとめてみたいと思います。

    摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
    ◎甲賀伊賀守とのつながり
    池田での古老の話しによる(西暦2000年頃の)と、その方の小さい頃から「甲ヶ谷」の人々は、近江国甲賀(現甲賀市)から移り住んで来た、と聞き伝わっているようです。前述の通り『穴織宮拾要記 末』の記述(資料7)には、甲ヶ谷には「甲賀伊賀守」という家老が居たとあり、この人物は甲賀地域出身の人物と考えられます。この人物が住む地域であった事から「甲賀谷」という呼び名がついたのだろうと考えられます。
     甲賀地域出身者は、特に「土木技術」に優れた技能を持ち、破壊と普請(造作・造成)が常の時代にあっては、これらの人々は各地で大切にされたのではないかと思われます。現代のように、公的機関としての学校の無い時代には、技術伝承を徒弟制度の中で、一族や衆がそれを保持しています。それらの事も含め、甲賀谷正長は、地名を冠する程この甲ヶ谷に深くつながる人物である事が想定できます。婚姻や血縁もあったりするかもしれません。「名は体を表す」と云われる程、意味の無い名乗りは、全く考えられないからです。
     また、一方で、尼崎長遠寺での行動を見ると、多宝塔や客殿などに棟札を上げているところを考慮すると、木工・大工技術に優れた人物であった可能性もあります。
     現甲賀市域には優れた建築物が多く存在し、安土城もそういった技術に頼って完成した経緯を考えると、土木・建設に優れた才能を発揮した人物であった可能性も考えられます。
     もしかすると、呉春酒造の酒蔵梁の書き付けにある「甲賀谷仁兵衛・助兵衛」は、甲賀谷正長と関係の深い人物かもしれません。また、元禄10年の池田村絵図に記録されている「甲賀谷」の大工5名は、正に仁兵衛と助兵衛、その人です。呉春酒造の梁に縁起を書いたのもその人です。

    伝法正蓮寺の寺紋と摂津池田の甲賀谷氏
    大阪市此花区伝法の海照山 正蓮寺の寺紋「巴藤」
    寺院はたいてい、宗派に属している事が多いので、宗紋を持っています。それに加えて、そのお寺にゆかりの深い紋を持っています。ですので、2つの紋がある事が多いのです。時にはそれ以上の事もありますが、たいてい、そういう構成になっています。伝法の正蓮寺は、日蓮宗ですので、「井桁に橘」紋を宗紋として掲げてあります。そしてもう一つ、寺紋は「巴藤」です。
     摂津池田家の本姓は「藤原」でした。時代の習慣としての行動と判断は、同族の結合が信用の繫がりの拠(よりどころ)です。ですので、藤原系とのつながりは、自分を守ることであり、助け合いであるのです。現代社会のように戸籍制度もありませんし、学校、警察もありません。現代のように、公的な信用醸成の制度はありません。そうであれば、どうしても信用の拠は、血統的なつながりに頼るところが大きくなります。
     故に、摂津池田氏の場合、どうしても藤原氏とのつながりが深くなり、接点も藤原氏の同族結合となっていきます。また、例えば、池田や伊丹といった名乗りは、時代やその時の個別環境により、変化します。荒木村重が池田家中に所属した時は、荒木と池田姓を使い分けていました。
     しかし、その家系が持つ紋は、あまり変化しません。ただ、功名があった時や所属によって下される紋はあったようですが、「一族」を示す紋は変わることがありませんし、それが一族生存の基本です。家紋は自分と家族の起源を示す、非常に大切な印なのです。現代の日本国国旗と同じです。
     歴史的な調査で「紋」は、探求の手がかりとして、非常に有力です。
     正蓮寺を創建した甲賀谷正長は、この寺の起源ですので、やはり甲賀谷氏の「巴藤」紋を用いたのではないかと思われいます。そうすると、甲賀谷氏は、藤原氏にゆかりの一族となります。前述のように、甲賀谷氏は元々近江国甲賀にあったようですが、そのルーツは「藤原氏」であった縁で、池田家につながりを持つようになった可能性が考えられます。

    ◎「正」の通字を持つ意味
    摂津池田家は、元々「藤原」性です。また、その一族当主は「筑後守」を名乗り、諱(いみな)に「正」の字を持ちます。これは、通字(つうじ)といって、これを継いでいるかどうかで区別があります。更に、「正」の字が諱の上か下か、でも違いがあります。例えば、勝正、信正、知正などが、下正(したまさ)といい、正詮、正久、正秀などが、上正(うえまさ)といいます。
     時代によって、違いもあるようですが、傾向からすると、下正は、惣領家(当主)とそれに近い人々が用い、家老など、少し本家筋とでもいいましょうか、少し血の遠いと思われる家系は、上正を用いているように思います。
    甲賀伊賀守屋敷跡(2001年頃撮影)
    さて、今回注目している甲賀谷正長も、正の字を持ち、しかも上正です。甲賀伊賀守は、家老との伝承ですので、池田家のその当時の慣習を踏襲したと思われる形跡があります。
     伝承されていた、甲賀から来た人々は、時の流れの中で池田家と婚姻などで縁を深くし、「正」の字を得たのかもしれません。正長の生きた時代は、池田家も滅びて(滅びつつあった)しまい、戦国時代も終盤でしたので、その時代に必要な名前に変えて行きます。「甲賀」と「正」を残すことの意味があたのでしょう。また、正長は「左衛門尉」という官途も名乗っており、位は正六位から従六位です。一般人ではありません。
     伝法の正蓮寺では、「甲賀谷正長は武士」と伝わっていますが、これは正確な伝わり方をしているのではないかと思われます

    ◎没年の推定
    尼崎市教育委員会による『長遠寺所蔵甲賀谷氏関係資料』によれば、寛永14年(1637)6月27日付の鐘楼棟札に、「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也 願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」とあることから、この頃に正長は死亡していることが窺えます。
     また、同資料の元和9年(1623)5月付けの本堂棟札に、「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」によれば、長遠寺本堂を寄進しているようです。本堂はその寺の中心建築物ですから、相当な費用も必要だと思います。この頃には事業(実際の生業は不明)も順調で、そういった行いのできる環境が整っていたものと想像されます。この頃の池田は、酒造業が盛況で、活気に包まれていたころでもあります。
     一方で、この翌々年(1625)、伝法の正蓮寺を創建しますので、少し前からそういった取り組みの準備もしていたのかもしれません。
     ちなみに、同資料をもう少し見ると、元和元年(1615)9月5日付で、正長が長遠寺に「日蓮曼荼羅本尊(尼崎市指定文化財)」を寄進していますが、この時の裏書きに「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)」とあって、改元を機に、隠居して息子なる人物に当主を譲っているようです。この頃から法名(法号の日寶は、元和4年11月17日か)を正蓮と名乗っているようです。
     正長の息子は、「貞勝」を名乗っているようで、正長はその後見役となっていたのでしょう。息子は「正」の通字を継がず、「貞勝」となっているのは、池田は京都所司代の支配管轄で、この時の筆頭は板倉勝重・重宗でしたので、その板倉氏と何らかの関係があるのかもしれません。今のところ想像ですが...。

    気になる記述の残像
    これは予備的な要素として書き残しておきたいと思います。『穴織宮拾要記』は、池田の町の復興や成り立ちについて、非常に重要な記述が多い、資料としての価値が大変高いものですが、全文翻刻されておらず、今は断片的な翻刻をつなぎ合わせる中での判断です。これは、池田の町のみならず、伊丹や周辺地域に様々な影響を及ぼす、非常に重要な文書です。
     そこに記述されている一説に、気になる要素があります。「資料3」にあるのですが、- 秀吉公・秀頼公之御時より池田ハ御代官所成ル、片桐市正御預り牧治右衛門池田支配ノ時、右之屋敷本養寺へ寄付せられ候。町人も城之用聞五軒伊丹へ引、又帰り候。 - とあって、先にご紹介した五家老との関係はどれ程あったのか、非常に気になるところです。
     この「城ノ用聞き五軒」とは、商業的要素のみならず、様々な要望を引き受けるため、非常に信頼の厚い人物で有り、組織であったと考えられます。現代は、社会現象の事柄を細かく分類していますが、当時はそれ程、細かに分ける必要もなく、商業であれ、建設であれ、戦争であれ、用聞きとは要望に応える商社のような存在であたっことでしょう。これに甲賀谷氏も関わっていたかもしれません。それが気になります。
     一方で、池田郷は、その地理的位置から非常に重要な場所であり、社会に軍事的な不安定要素がある間は、幕府の直轄領として、池田家をはじめとした旧ブランドの台頭を警戒し、その胎動を許しませんでした。徳川幕府は池田に代官所を置き、村役との連携をとる体制で地域支配を行いました。
     しかし、地域政治を進める上では、事実上、絶縁させる訳にもいかず、ある程度の許容の中で、円滑な運びも計る必要があると思います。そういう中で、選別しながら有用な取り込みを行うなど、無害化されたブランドの許容(活用)は存在したと考えられます。

    ◎正長が活躍した背景
    池田では古くから酒造が行われていたと伝わっており、池田郷内の最も酒造高のあった満願寺屋は、その代表でした。その始まりは、応仁年間(1467 - 69)頃といわれるものがあります。古来、酒造は寺で、生産されていましたので、満願寺屋という名の通り、池田の酒造のキッカケも寺に関わるものと思われます。池田郷の西北西約4キロメートルのところに、満願寺という古刹があります。
     この境内の発掘調査の結果では、平安時代末頃には寺院があったと確認されており、寺記によると神亀年間(724 - 29)に千手観音像を祀ったのに始まるとされています。池田家も満願寺に寄進などを行い、つながりも持っています。
     これが何らかの縁で、交通の要衝である池田へ移り、根付いたものと思われます。戦国時代を経て、江戸時代になる頃には、荒廃した郷土復興が盛んになっていきます。その過程で酒造業も活気を呈します。
    池田村宛禁制(松平武蔵守:池田利隆のこと)
    大坂冬の陣(1614)のために河内・大和国境の暗峠(くらりとうげ)に進んだ徳川家康に、池田酒・物資・軍資金を献じて、池田の立場表明(味方となる)をいち早く行ったことから、その後に保護を受けるようになったとされます。(※1)これは郷内保護のための禁制を受けるためで、その時の禁制が残って(他に板倉伊賀守の副状も)います。池田村役の庄屋菊屋助兵衞、年寄牧屋五兵衛、同淡路屋新兵衛などが付き添い、陣中見舞いを献上しています。池田村は慶長年間より正保頃まで、庄屋1人・年寄2人(安永4年2月2日文書)がいたようです。池田は重要な場所であったため、徳川幕府の直轄領(天領)でした。
     戦国時代は、禁制を発行する側であった池田が、今度は、受ける側に変わっていました。もはや、池田には地域権力が存在していませんでした。
     しかし、それまでの地域ブランド力と地勢が、他の地域とは違う価値をもっており、単なる禁制拝受ではありませんでした。そのことは、酒造業にとっても、大いなる恩恵となりました。間もなく、徳川政権から大坂の陣の戦勝の礼として、池田酒に銘を贈り「養命酒」としました。これが特権化もしつつ、その後、池田での酒造が年々盛んとなり、元禄期(1688 - 1704)には最盛期を迎えます。
     そういった行動の中心的役割を果たしていたのが、旧池田家中、荒木家中の人々で、甲賀谷正長もその一人であったと思われます。平和になりつつあるとはいえ、江戸の幕藩体制が盤石となるのは、徳川将軍3代目の家光の頃(元和〜寛永期:1615 - 44)であり、それまでは日本各地で争乱も止みませんでした。ですので、政治と武力は一体的に考え、行動する必要がまだまだあった時代でした。
     一方で、徳川幕府によって、武力の台頭を許さない社会への圧迫を加えつつある中で、世が安定しはじめており、経済活動が日本各地で盛んとなっていました。ですので、政治・経済・軍事をうまく使い分けて活動できた池田武士が活躍する場もあり、その能力を持っていた一人が甲賀谷正長だったのかもしれません。
    ※1:永年、満願寺屋の禁制について、徳川家康の陣所である奈良暗峠に池田酒を献上した事として、エピソードが通説化していましたが、私が改めてこの流れを検証したところ、事実とは少し違うところを発見しました。池田衆が訪ねたのは、尼崎の松平(池田)武蔵守利隆をだったと思われます。利隆の母は摂津茨木城主中川清秀の娘であり、摂津池田家とは、非常に縁の繫がりが太い関係性があった人物です。詳しくは、以下の過去記事にありますので、ご参照下さい。
     
    甲賀谷正長と伝法及び尼崎のつながり
    甲賀谷正長と伝法及び尼崎のつながりですが、それらはやはり、「酒造」と「日蓮宗信仰」ではないかと思います。日蓮宗は町屋と町衆を布教対象にしており、そういった点で、人々の集まる町には自然と縁が深くなります。
     ちなみに、正長と関わっている法華宗系の寺院(池田の本養寺、尼崎の長遠寺)は、京都六条本圀寺の六条門流です。伝法の正蓮寺は、その流れの中で創建されています。
     また、酒は輸送が重要であり、これも町や輸送の拠点との結びつきが強くなります。その意味で、尼崎・伝法は、輸送の拠点であり、地縁と人と宗教が、持ちつ持たれつの関係で調和が取れていたのだと思われます。伝法は、特に酒の輸送で発展した町で、池田・伊丹の酒造の発展と両輪で成長したともいえる歴史を持っています。(資料4「伝法村」の下線部分を参照下さい。)また、伝法は元々交通の要衝で、戦国時代には、城や砦が置かれていたとの伝承もある程です。同地は輸送の大動脈であった瀬戸内海が西側に開けている訳ですから、どの時代も自然と重要視される地理となっています。
     そういった古今東西、森羅万象をうまく使い分け、池田の酒造などの産業育成、町の発展を担った中心的な人々が活躍した時代が、甲賀谷正長の生きた時代だったのだと思います。


    尼崎 長遠寺 甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の墓






    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(戦いの無い平和な時代の池田と甲賀谷氏を考える)

    図1:元禄期の酒屋・炭屋の分布図
    池田も伊丹も尼崎も、戦いの無くなった世で、復興を遂げていきます。その過程で池田は満願寺屋を中心とした酒造業が隆盛し、一大産業化して町の復興を牽引します。池田酒は、その品質がもてはやされ、江戸でもブランドとなっていきます。池田酒について以下にご紹介します。
    ※江戸下り 銘醸 池田酒と菊炭(池田市立歴史民俗資料館)

    (資料9)-----------------------
    【池田の酒造業の発展】
    池田の酒造業は、満願寺村(川西市)から応仁年間(1467 - 69)、池田に移って酒造業をはじめた満願寺屋にはじまるといわれている。家伝によれば、宝暦14年(1764)時点ですでに、「2〜300年以前より酒造仕候様に相聞へ」といい、慶長19年(1614)、大坂冬の陣で家康が暗峠に陣した際、池田の銘酒を献じ、そのために朱印状が授けられたという。
    表1:摂泉十二郷の江戸積入津樽数
    物事の始まりをよく古く表現することは、古来から常に行われてきたことなので、これをもって池田の酒造業の始まりとするわけにはいかないが、室町時代終わりごろには、既に町屋が形成されるなど、早くからひらけた土地であったため、酒造業の始まりも、戦国時代末期から安土・桃山時代ごろまで遡ることができるものと推定されている。
     江戸時代に入り、幕府の酒造統制政策のもと、池田は「往還の道筋、市の立つ処」として酒造業がみとめられ、朱印状の庇護もあって、伊丹と並ぶ銘醸地へと発展したのである。

    ◎池田酒 豊島郡池田村に造之、神崎の川船に積しめ、諸国の市店に運送す、猪名川の流れを汲で、山水の小清く澄を以て造に因って、香味勝て、如も強くして軽し、深く酒を好者求之、世俗辛口酒を伝へり。(「摂陽群談」元禄14年刊)
    ◎池田、伊丹の売り酒、水より改め、米の吟味、麹を惜しまず、・・・・・軒を並べて今の繁盛、・・・・・大和屋、満願寺屋、賀茂屋、清水屋、此の外次第に栄えて、上々吉諸白、・・・・・。(井原西鶴「織留」)

    このほか、池田の酒を紹介した当時の書物は、枚挙にいとまがない。
     明暦3年(1657)の酒造株設定時には、42株、13,640石がみとめられ、元禄期には、60株を超えた。江戸積銘醸地の中でも中心的存在で、元禄10年(1697)、池田から江戸へ下った酒は、28,238駄 = 56,576樽にものぼる。これは、この年の江戸下り酒総入津髙の8.8%を占め(表1参照)、まさに、近世池田酒造業の全盛期であった。
     このころの酒屋の分布状況をみてみると(図1参照)、そのほとんどが東・西本町(現栄本町)に集中している。池田屈指の酒造家満願寺屋や大和屋も、東本町(現在のコミュニティセンターから職業安定所付近)にあった。
    図3:江戸時代・池田酒の商標
    満願寺屋は「小判印」「養命酒」、大和屋は「山印」「滝ノ水」を醸造し、江戸の人々の評判も高かったという。伊居太神社(綾羽2丁目)には、全盛期の元禄14年、酒屋六尺中から奉納された井戸が残っている

    【池田酒造業の衰退】
    幕府の酒造統制が緩和され、灘をはじめとする新興酒造地が登場してくると、池田はだんだん遅れをとるようになった。その後の酒造政策によって若干の変動はみられるものの、池田が占める江戸積入津樽数の割合は減少の一途をたどり(表1参照)、酒造株のなかでも休株のものが目立ってきた。
     衰退の要因には、いくつか指摘されている。その一つは、池田が海岸線から遠く、江戸積みには不利な条件であったことである。江戸時代を通じ、猪名川通船願いが何度となく出されるが、その都度、池田をはじめ周辺諸駅の馬借らが反対し、実現しなかった。天明4年(1874)、ようやく許可されたが、それは、下河原(伊丹市) - 戸野内(尼崎)間に限られていた。
    池田から江戸までの輸送経路と運賃
    したがって、池田の酒荷はまず、牛馬で広芝、あるいは神崎・下河原へ運ばれ、そこで小型廻船(小廻し)に積み替えられ、安治川・伝法まで送られたのち、再び樽廻船に積み替えられて江戸まで廻送された。このことは、単に運賃が余分にかかるというだけではなく、駄送では輸送量も限られ、なんといっても二度の積み替え作業で、江戸着までに多くの日数を要することが大きな問題であった。酒荷は、特に迅速性が要求されるものであっただけに、海岸沿いの灘にくらべ、奥まった地の池田は不利であった。
     第2点としては、酒造技術(水車精米・仕込方法)改良の遅れがあげられる。灘では、近世中期から、既に水車精米を採り入れていたのに対し、池田や伊丹では、依然、足踏み精米にたよっていた。明治期に入ると、木部の水車場を利用していたことが知られているが、いつ頃から水車による精米が始まったか定かでない。文化年間(1804 - 18)にも、木部の水車場が米搗きに使用されていた記錄があるが、酒造業との関係は詳らかではなく、仮に酒造米の精白に使用されていたとしても、灘方面の急流を利用した水車に比べ、その精白度や精白量は低かったと思われる。
     仕込技術の面では、薄物辛口への好みの変化に対応し、文化・文政期、灘では、米1石に対し水1石の仕込方法に成功しているのに対し、池田では、米1石に対する水は5割弱に過ぎなかった。
    呉春酒造酒蔵梁の書付(元禄14年 甲賀谷仁兵衛)
    第3点目は、在郷町池田の特権のよりどころであった朱印状が、官没収されてしまったことである。この「朱印状事件」は、安永3年(1774)、満願寺屋が大和屋からの借金300両の返済を拒否したことに端を発し、朱印状の下付先が満願寺屋か池田村かの争いへと発展、ついに、安永5年、満願寺屋の借財返済と朱印状官没収が命じられたものである。特権のよりどころを失った池田は、酒造業だけでなく、在郷町の機能全体としてもかげりをみせるようになったと訴えている。
     このほか、酒造家が金融業へ一部資本を転換するようになったことなども要因の一つにあげられている。こうした諸条件が重なって、やがて、江戸積酒造体制から脱落し、酒造株の質入れや売買が行われ、「出造り」が一般化していった。
     以上のような発展、衰退の歴史のなかにも、新旧酒造家の交代がみられる。元禄期ごろ、上位を占めていた小部屋、菊屋、満願寺屋に替わり、江戸時代後期は、甲字屋、綿屋などが成長してくる。これら新興酒造家の中には、酒造技術の改良に努め、辛口薄物の酒の量産化を実現したものもいる。しかし、こうした動きが池田の酒造業の復興までに至らなかったのは、これら酒造家が、純粋に酒造経営を行っていたのではなく、貸金を主とし、酒造業を行っていたという点にあったといわれている。仕込技術では、遅れを取らずとも、原料の酒米の多くを質入米に頼っていたことが、酒の品質を左右したのではないかと考えられている。
    -----------------------(資料9おわり)
    ※文中の酒造家小部屋とは、「小戸」か。

    少々長い引用でしたが、酒造と輸送は両輪ですから、効率のよい輸送(出荷)をどのように確保するのかは、非常に重要な問題です。この池田の一大産業の勃興に、池田の武士や元の住人が戻って従事するようになっていたようです。酒造最大手の満願寺屋は、当主の名を「荒城九郎右衛門」といい、「荒城」との字を充ててありますが、これはやはり「荒木」であろうと思われます。また、他の荒木一派も「鍵屋」という屋号で酒造業を営んでいたり、他にも池田家中の武士であった酒造家もありました。
     一方で、それに関連する役割を持つ者も当然いた事でしょう。荒木村重は没落して後、摂津国守護職であった頃の役目の延長で、鋳物師統括に関する取り計らいをしていたらしい史料もあります。
    ※中世鋳物師史料P141

    (資料10)-----------------------
    先刻申し入れ如く候。彼の知行分の儀、荒木弥四郎村基存分に成り候者、知行分存知候間、重馬之かい料の儀、進められるべく申しの由、松台(不明な人物)仰されるべく候。恐々謹言。
    -----------------------(資料10おわり)

    上記は年記を欠く、3月26日付の文書で、宇■真清、公卿真継久直宿所へ宛てて音信されているものです。宇■真清とは、■が欠字ですが、これは宇保という人物と思われ、宇保は今の池田市内にある地域の「宇保」の有力者と考えられます。この地域にも宇保姓の武士が居た事は、当時の発行文書からも明かです。また、真継久直とは、あまり地位の高くない公卿ですが、日野家に関係し、全国の鋳物師の統括を担っており、この頃は、一元化を推し進めている途上でした。その流れの中での文書です。

    このように、甲賀谷正長も池田の家老的重職を務める役の家系にあったようですから、その政治力や人脈を活かした、時代時代の役割りがあったのだろうと思われます。
     先にも述べたように、正長は長遠寺の復興や正蓮寺の創建に、中心的な役割りを果たしており、それに伴う経済的支援もしていることから、相当な経済力も持っていたことは明かです。甲賀谷という、いち地域から町全体の政務(まつりごと)を行う地位に昇っていたのかもしれません。

    最後の桶職人 武呂氏(池田酒と菊炭より)
    ちなみに、甲賀谷正長の名乗りの起源であった、江戸時代の甲ヶ谷の様子について、資料をご紹介します。
    ※大阪府の地名1(平凡社)P316

    (資料11)-----------------------
    【甲賀谷町(現池田市城山町・綾羽1丁目)】
    東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
    -----------------------(資料11おわり)

    甲賀谷は、近年まで大工職をはじめ、職人の多い町として知られていて、この江戸時代の流れが、その時代に沿いながら地域の定形文化が続いていたといえます。




    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(摂津池田出身の甲賀谷氏の出自が武士であったであった可能性)

    池田家中(若しくは荒木家中)にあった甲賀谷正長も、その流れの中で、自身の役割りと能力を生かして活動していたと思われます。甲賀谷氏と深い繫がりがあると考えられる「甲賀伊賀守」についての記述を参考までにご紹介しておきます。
    ※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

    (資料7)-----------------------
    一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
    ※■=欠字
    -----------------------(資料7おわり)

    摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
    上記は伝聞資料ではありますが、ある程度正確に記述されていると考えられます。また、時代もハッキリと記されていませんが、本拠地機能を拡大・移転させるにあたり、荒木村重が伊丹の有岡城を稼働させた天正3年頃を区切りに記述したものと考えられます。
     個人的には、荒木村重が池田家から身を起こして地域勢力の主導権を確立して行く中での統治・支配体制(軍事的にも)ではないかと考えています。
     当時の発行史料から見れば、池田一族が中心であった頃の統治機構(池田四人衆:家老)はこのメンバーでは無い事が明らかです。
     記述にある「池田の城伊丹へ引さる先」とは、天正3年秋以降の事を指すと思われますが、流れとしては、天正元年の8月頃に、村重を「摂津守護に目す(正式では無いが)」公言があったようで、それを元に様々な状況変化が起きています。
     織田信長の期待通りに行動した村重は、天正3年8月頃に「摂津守」を正式任官し、名実共にその座に就いています。その頃には、地域政権の体制ができていたようですが、そこに至るまでの黎明期には、地域に影響力のある人物を立てざるを得ませんので、村重に理解のある旧池田勢力を活用したのだろうと思われます。それが記述に見られる、「右五人之家老町ニ住ス」顔ぶれだったのかもしれません。
     本拠機能が伊丹の有岡城に移ってからも、池田でのこの体制は続いたと思われます。「池田と伊丹は一対の城」と記述されてもおり、池田は非常に重要視されていましたので、配置の人選も念を入れたものになっていたことでしょう。

    また、天正6年秋、荒木村重が織田政権から離叛し、池田の町に戦火が及んだ様子が伝承されていますので、以下にご紹介します。
    ※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 本』)

    (資料8)-----------------------
    一、天正之乱■当国大形在々所々三日三夜之内中二焼き払われ方々へ逃げちらし金銀たくわへ有人は他国二住ス也。一、此時池田之人々他国へ行も有、池田山のうしろ丸尾はばと云所二小屋かけ住、折々里へ下り耕作つくり住人八十余有、雨降時ハ長櫃二置かがみ住人も有、作り付たる田を伊丹より夜ル来刈とらるる人も有。
    ■ = 欠字
    -----------------------(資料8おわり)

    このように、織田政権から離叛した荒木村重は、滅ぼされてしまいます。伊丹や池田、尼崎など主要な都市は攻め落とされて、町も大きな被害を受けました。
     池田の町の「甲賀谷」とは、甲賀伊賀守をはじめとした、甲賀地域から人々が移り住んだことがキッカケで地名となったと思われます。その地に関わりの深い人物が、甲賀谷氏であろうことは、自然な流れとして起きた事と考えられます。

    しかし、その後、織田信長も斃れますが、時代は大きく動き、日本国全体は武力統一されて平和な世が訪れます。