2020年3月8日日曜日

明智光秀も度々利用した余野街道上に存在した、池田市伏尾町の八幡城が巨大であった可能性について

現在の池田市伏尾町にあった八幡城について、詳細は判っていないのですが、その城が巨大であった可能性を考えている方がいます。
 池田郷土史学会会員の岩垣 正氏による調査で、縄張り図が描かれ、それによる全容想定図も描かれています。氏は学生時代に日本画を専攻され、それ故にこのような図を描くことも可能でした。
※図の制作者様には許可をいただいて掲載しております。

摂津八幡城想定復元図:岩垣 正氏

摂津八幡城縄張想定図:岩垣 正氏

調査時の現地の状況

池田郷土史学会による数度の踏査と、業界でも有名な専門家による実地見聞も行われています。八幡城は現在も調査中ですが、その専門家の判断によると、今のところ城なのかどうか判断がつかないとのことです。もう少し詳しく必要要素の発掘と現地調査が必要なようです。ただ、一部は寺の施設ではないかと判断されていました。

そういうった現状ですが、個人的には、ここにこのような城があっても不思議では無いと感じています。
 というのは、享禄年間から天正年間始めまでの摂津国池田周辺の動きを見ていますが、池田家が隆盛した天文年間から永禄の三好長慶政権時代特に、丹波国方面から池田へ敵が南下する例があまりありません。河辺郡あたりに南下する例が集中していることに、違和感を持ていました。もっとも、池田家は「余野街道(池田道、亀岡道とも)」沿いに影響力を拡げ、止々呂美、余野、木代などの地に婚姻、代官地などを持っていた影響もあったと思われます。
 それに比べて芥川や西岡方面は、丹波方面から敵方勢力が度々降りてきて、山城・摂津国で打ち廻りました。池田方面の、このような動きが少ないのはどうしてなのか、永年に渡って疑問に感じていました。
※三好長慶が京都防衛のため、芥川山城に拠点を構えるようになると、この地域への南下は無くなる。
 しかしながら、こういった城があるならば、それは私の疑問を解いてくれます。これ程の城があるならば、軍勢が丹波国(余野)方面から南下することは不可能です。

また、摂津池田衆の主体が滅び、代わって荒木村重の統治下に移ると、丹波国方面へは池田を通って入ることも多くなるようです。それもやはり、このような施設が途上にあれば、軍事・政治的に大きな意味と利便性があるからです。
 明智光秀の丹波攻めでは、度々池田を通路に使っています。また、天正三年の丹波国撤退の折、池田を通って退却しています。

それからもう一つの大きな要素は、久安寺という大寺院の存在です。このお寺は、戦国の争乱で荒れ、また、忌まわしい明治の廃仏毀釈によってそれまでの宝物や資料の大多数を毀損してしまい、残った遺物が殆どありません。それ故に、口伝と仏像などの遺物、僅かに残った形跡から再生・復元推定するしかありません。しかし、状況証拠から必然は見えてくるものと思われます。その久安寺についても、近日、詳しく検証したいと思います。

この久安寺は、行基の創建から天皇の勅願寺としての由緒を持ちます。ですので、巨大な宗教組織、施設が豊島郡(池田)の北部に存在したことは確実です。当然これに、池田氏も対処する必要があり、地域政治を執る上で、協調なり上下関係なりが存在したことは想定できます。
 それがどういったものだったのか、当時の必然性は、今のところ不明ですが、非常に興味深い要素が細河郷い存在していたことだけは確かです。これまでにあまり、これへの思索が行われていないようですので、少しこだわって掘り下げてみたいと思っています。

最後に、以下、「八幡城」について、先行する研究資料を上げておきます。

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】
  • 八幡城址は北方東野山にあり、楕円形をなし、周囲大凡八丁の地にして、東西南の三面は久安寺川之を囲繞(いじょう)し、北方は低地にして壕渠の形を為せり。土壇は今も尚存して、俚俗は之を城山と呼び、多田満仲の家臣藤原仲光此に居り、後播磨守と称する者の籠もりし所なりと伝うれども、其の氏名年紀などは詳らかならず。また廃絶の年月の如きも知るに由なし。山に麗水あり、城兵の用いしものなりという。
     本地は延宝年間より徳川氏代官の支配となり、同代官継承して斎藤六蔵に至る。其の後の管轄及び区画の変遷は、大字吉田に同じ。【大阪府全志】
  • 同郡伏尾村久安寺山内にあり。多田満仲公の家臣藤原仲光在城後に播磨守在城と云へり。氏年歴所伝未詳。山の原に麗水あり。井水の部に記す。是即ち城郭の用水也と云へり。【摂陽群談】

 

※念のため、これらの出典は、後で付け加えたものではなく、公開当初からあるものです。そのような卑怯な事は絶対にしません。私は常に、論拠を以て話す姿勢は崩しません。分からないことは、想定として記述しています。

2019年12月27日金曜日

池田市綾羽にある伊居太神社と摂津池田氏について

既述の記事「戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺社」からの抜粋です。また、関連する地域も同様に抜粋します。池田市綾羽にある伊居太神社について、再度、考えてみたいと思います。近日に池田市と尼崎市の伊居太神社も訪ね、追加記事も掲載します。

◎伊居太神社:いけだじんじゃ(池田市綾羽)
  • 五月山の西麓部に鎮座。祭神は「日本書紀」応神天皇37年・41年条にみえ、日本に機織・裁縫の技術を伝えた工女の一人穴織大神といい、ほかに応神天皇・仁徳天皇を祀る。「延喜式」神名帳の河辺郡七座のうちの「伊居太神社」に比定される。旧郷社。社伝によると応神天皇41年渡来して以降穴織は、呉織とともに機織・裁縫に従事、同時にその技術の指導に努めたが、応神天皇76年9月両工女は没した。仁徳天皇は両工女の功に対して、その霊を祀る社殿を建立、穴織の社を秦上社、呉織の社を秦下社と称したのが当社の始まりという。
     その後も代々天皇の崇敬を受け、延暦4年(785)には桓武天皇の勅により社殿が再建され、応神・仁徳両天皇が相殿として祀られるようになったという。
     延長年間(923-931)には兵乱で社地を失ったが、天禄年間(970-973)多田満仲が再興、以来武将の社殿修造が続いたといわれる。後醍醐天皇は宸翰を秦上社と秦下社に与え、以来秦上社は穴織大明神と称し、秦下社は呉服大明神というようになったと伝える。
     下って慶長9年(1604)豊臣秀頼の命によって片桐且元が社殿を造営した(大阪府全志)。同座地は旧豊嶋郡域で、前述の式内社伊居太神社の河辺郡とは矛盾する。これについて「摂津志」は「旧、在河辺郡小坂田に(中略)池田村旧名呉織里、以固有呉織祠也。中古遷建本社于此、因改里名曰伊居太又改社号曰穴織」と、もともとは河辺郡小坂田(現兵庫県伊丹市)にあったが、中古、当地に遷祀されたとの伝えを記す。一説に、その時期は南北朝時代で池田氏によって遷祀されたという(「穴織宮拾要記」社蔵)。なお現兵庫県尼崎市下坂部に式内社伊佐具神社に隣接して伊居太神社があり、当社が現在地に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所の塚口村(現尼崎市)に近いことから、この地域に鎮座地があったともいわれる(川西市史)。
     末社として両皇大神宮・猪名津彦神社などがある。伊名津彦神社などがある。猪名津彦神社は文化12年(1815)に字宇保の稲荷社(現猪名津彦神社)の床下の石窟より出てきた骨を納めて祀ったといわれている。例祭は10月17日。古くは1月14・15日の両日、長い大綱で綱引きを行ったといわれている。本殿は全国で例のない千鳥破風三棟寄せの造りである。境内には観音堂があったが、栄本町に移転。本尊として十一面観音像が祀られていた。なお呉服神社の近くに姫室とよばれる古墳があったが、これは穴織を葬った地と伝えている。【地名:伊居太神社】
  • 伊居太神社蔵の『穴織宮拾要記(あやはのみやしゅうようき)』にある記述に、「九月塚口村(現尼崎市塚口)へ御輿祭礼ニハ四十二人ハ家々之将束騎馬にて出る、両城主(池田・伊丹)ハ警護之供也。此祭事ハ清和天皇御はじめ被成候。天正之兵乱二御旅所も焼はらい神領も取りあげられ田ニ成下され共当ノ字所之者池田山と云名残りより、其後世治り在々所々ニ家作り、四年めニ九月十七日麁相成御輿を造り、池田・渋谷・小坂田としてむかし之総て還幸をなす所ニ、伊丹やけ野ひよ鳥塚と云所ニて所之百姓大勢出、むかし之勝手ハ成間敷と云、喧嘩してはや太鼓打棒ニて近在より出、御輿打破られ帰り、是より止ニ成り...(以下略)」
     この記述をみるかぎり、9月は塚口村への御輿の御渡りは清和天皇の時代からの重要な祭事で、当時の有力者池田氏と伊丹氏等が後援して、42軒の神人が騎馬装束で供をするならわしであったのが、荒木村重の乱で御旅所が焼き払われ神領も取り上げられた。だが、塚口には池田山という字名も残っているので、世間も治まって4年目になるので(天正9年:1581)新たに御輿をつくり、復興最初の神事として9月17日、塚口の池田山をはじめ、昔の習わしに従って所々の地を回り、伊丹の南のひよ鳥塚(現伊丹市伊丹6丁目)までやってくると、付近の百姓が出て、早太鼓を打ち鳴らし近在の人々を大勢集め棒などで御輿を打ち壊し従供等と喧嘩となり、以前のような勝手なふるまいを許さないと神幸を妨害した。結果それ以後神幸は実施されなくなってしまった。
     清和天皇は別として、天正の乱あたりからおおよそ60年後に書かれたと思われるので、かなり信頼してもよいのではないかと思う。伊居太神社にとっては、塚口神幸は重要な意味があったのだろう。(後略)。【池田郷土研究 第17号:伊居太神社と池田山古墳】 
  • 現池田市の伊居太神社は、麻田 茂氏の研究によれば、(1)式内伊居太神社の原鎮座地は、塚口の池田山ではないか。(2)阿知使主等が停泊した地は、古代海が伊丹段丘の東側猪名川沿いに深く入り込んだ地(伊丹には絲海の名が残る)塚口の池田山付近が考えられる。(3)池田山古墳は猪名川水系古墳群で最古。(4)伊居太神社の祭神は塚口古墳群(猪名川水系古墳群)を築造した氏族集団の祖が池田山古墳の主。(5)古代猪名川水系の両岸は同一生活圏。、としている。【池田郷土研究:「伊居太神社と池田山古墳」:麻田 茂】 
  • 猪名川を圧迫するように東から西へ張り出した五月山の山麓に伊居太神社が立地し、池田の町の防衛上も重要な場所にある。伊居太神社のすぐ西側の眼下に街道を通し、この街道はすぐ北にある木部付近で能勢・妙見・余野街道(摂丹街道)と分岐する。逆に言えば、北部地域からの街道が伊居太神社眼下で合流する。
     また、伊居太神社からは、五月山山上へ通じる山道が3本程ある。池田城からも伊居太神社への道がある。その途次に、的場と云われた場所がある
     中世の戦国領主にとっての祭祀の場所は必ず必要であるし、その主催者としての素養も地域を束ねるには必要とされていた事が近年の研究では注目されてもおり、戦国時代に大きな勢力を持つに至った池田氏にとっても、同様であったであろう事が推察できる。そういった関係もあってか、室町時代と伝わる寺宝も多く所蔵している。その中に、眉間部分を鉄砲で撃ち抜かれたような穴が開いた、錆びた雑賀兜がある。こういった寺宝がある事から見ても、池田城主とのつながりをうかがえるし、当社の宮司は、池田城主の家臣と伝わる家柄でもある。
     ただ、荒木村重の乱(天正元年頃と同6年〜7年)で火災などに見舞われ、それ以前にあったかもしれない文書などは残っていないのが悔やまれる。
    追記:神社蔵の兜は、鎧兜を研究している研究者にも有名な兜であるが、神社側はこれを「朝鮮兜」として展示している。一見して判るし、これは朝鮮兜の類いではない事を断言できるが、なぜそのように表記するか尋ねたところ、韓国の研究者が神社を訪ねたおり、この兜を朝鮮兜だとしたところから、以来そのようにしているとの事だった。
     それを聞いた筆者は、色々な意味で、恐ろしさと憂いを感じた。この兜は、歴史群像シリーズ 図説 戦国時代の実戦兜にも載録されているが、そこでも朝鮮兜では無いと断言している。【俺】
  • 小括として、伊居太神社は、河辺郡尼崎に近い池田山古墳あたりまで謂われを持ち、当時もそれらを意識していたと思われる事から、この根源(核)である伊居太神社の命脈を池田家に持つことは、関連地域の領有や関わりの根拠になり得、それを保持する意味は十分にある。
     池田勝正の時代、尼崎本興寺に宛てて禁制(永禄8年10月15日付)を下す程の実力を持つようになる。こういった転機で、地域に様々な影響力を持ちやすくなるようになるのだろうと思う。池田氏側に、その正当化の種を元々持っている訳なのだから。
     その後に興る、荒木村重の勢力は池田氏時代の要素を否定せずに抱え込む事で、穏やかに領地を拡げていく事ができる。そういった経緯は、荒木村重の乱によって、徹底的に破壊され、伊居太神社や春日社などの関係社は、その後に再び元の姿に戻そうとしたようだが、時代と諸権力(権威)がそれを許さず、池田・荒木氏が統治した時代、世の移り変わりを『穴織宮拾要記』が記録しているのではないかと思う。春日社も池田ブランドを利用して、失地回復図ったのではないかと思われる。【俺】

    大正時代頃の伊居太神社 本殿

    大正時代頃の伊居太神社 拝殿

    ◎小坂田村:おさかでんむら(大阪空港敷地内となり現在住所表記なし)
    • 猪名川左岸の氾濫原にあり、中村の東に位置する。北は豊島郡今在家村・宮之前村(現大阪府池田市)、東は同郡麻田村(現同府豊中市)。「延喜式」神名帳に載る河辺郡「伊居太神社」はもと当村内に鎮座していたが、南北朝期に摂津池田に移転したとも(「拾要記」伊居太神社文書)、文和3年(1354) に当村内に同社末社を勧請したとも伝承する(享保4年「伊居太神社棟札」正智寺蔵)。当村の伊居太神社の祭神は「日本書紀」応神天皇条にみえる機織技術を 伝えた渡来縫工女の穴織で、穴織の実名小坂が地名の由来と伝承する(前掲棟札)。足利尊氏が同社を再興した頃、小坂田は荒地になっていたともいう(「穴織宮拾要記」)。豊島北条の条里が敷かれ、かつては条里遺構がよく残り五の坪などの小字もあった(享保16年「村絵図」小坂田文書)。
       文禄3年 (1594)矢島久五郎によって検地が行われたという(「上知に付庄屋日記」小坂田文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高305石余、初め幕府領、元和元年 (1615)旗本太田領、寛永11年(1634)太田康茂が改易になり幕府領に戻ったと思われる。寛文2年(1662)旗本服部氏(貞仲系)に300石が分知されて相給となり、明治維新を迎えた(伊丹市史)。(中略)。
       明治15年(1882)の戸数52、人口262(呉布達丙七号)。産土神は伊居太神社。 伊居多神社とも書き穴織大明神と称した。浄土真宗本願寺派正智寺と正福寺があった(前掲村明細帳)。正智寺は寛永14年正西の代に木仏免許、正福寺は同年 教西の代に木仏・寺号免許という(末寺帳)。
       昭和11年(1936)からの大阪第二飛行場の建設で大部分が敷地になり、同15年からの拡張に伴い住民は移転した。かつての集落は現在の空港ビル付近にあたる。伊居太神社は現池田市の同名社に合祀、正智寺は同市井口堂3丁目に移転した。【地名:小坂田村】
    • この小坂田村にも荒木姓があり、この村の移転の折、桑津村に移ったとの事。その荒木さんにお話しを聞く機会があり、荒木村重について伝わっている話しを聞いた。有岡城での戦いの時(天正6年の謀反の時か)、有岡からの途中、小坂田で馬を替えて池田へ向かった。、との話しが伝わっているらしい。また、地面を掘ると、かわらけや須恵器のようなものがたくさんあって、それを投げ割って遊んでいた。、との体験談もお聞きした。その時にメモは取らず、自分の記憶に頼っているため、若干記憶違いがあるかもしれないが、色々と戦国時代の言い伝えもあるらしい。場所的に西国街道と能勢街道の等距離にあり、村の規模も比較的大きいため、小坂田村は重要な役割を持っていたのかもしれない。

    ◎塚口村と池田山古墳(尼崎市塚口本町)
    • 塚口村は、森村の北に位置し、北は御願塚村(現伊丹市)。字名に安堂寺・明神・又太郎免・楽馬・上慶長・下慶長・西塩辛・東塩辛・山廻・花折があった。中世から塚口御坊(現真宗興正派正玄寺)の地内町として栄えた。
       文明15年(1483)9月に本願寺蓮如が有馬温泉(現神戸市北区)での湯治の帰路に猪名野・ 昆陽池(現伊丹市)を経て神崎に向かっているが、その途中塚口に立ち寄り、「塚口ト云フタカキトコロニ輿ヲタテ、遠見シケルホドニ、アマリノオモシロサ ニ、シバラク休憩シケリ」と述べている(「本願寺蓮如摂州有馬湯治記」広島大谷派本願寺別院文書)。蓮如との関係は明確ではないが、正玄寺は応永16年(1409)創建の寺伝を持ち、文明3年7月に本堂が焼失、同6年に経豪が下向して再建されたと伝える。塚口には同寺を中心として碁盤目状の道筋が通り、方2町の周囲をめぐる土塁と濠の一部が現存しており、戦国期以降に発達した地内町と同様の景観を今に伝えるが、成立に至る経過や町の様相、一向一揆との関係などは不詳。かつて城山・城ノ内の地名があったという。
       天正6年(1578)11月に荒木村重が籠城する有岡城(現伊丹市)を包囲する織田信長方の陣所の一つに塚口郷がみえ(「中川氏御年譜付録」大分県竹田市立図書館所蔵)、12月11日には丹羽長秀らが同郷に砦を築いて在番する事が定められた(信長公記)。丹羽長秀らの軍勢が配置され、翌7年4月の配置替えの際にも同様に陣所となっている(中川氏御年譜付録)。9月27日には織田信長が陣中見舞いのため塚口の長秀の陣所に立ち寄った(信長公記)。有岡城落城後の同8年には信長から禁制が下付され(同年3月日「織田信長禁制」興正寺文書)、同 10年10月には、山崎合戦に勝利した羽柴秀吉が禁制を与えている(同月18日「羽柴秀吉禁制」同文書)。(後略)。【地名:塚口村】
    • 池田山古墳のあった塚口一帯は、その名の通り、かつては大小の古墳が点在し、大正年間でも20余基を数えた。そのうち最大のものが当墳で、市街地化によってほとんどが姿を消し、当墳も昭和13年(1938)頃には痕跡すらとどめなくなった。大正末年の記録では南西向きの前方後円墳で、全長約71メートル、後円部径約52メートル、前方部の幅約25メートル。一部に周濠の跡を残す。主体部は竪穴式石室であったらしい。鏡・刀剣・土器などが出土し、5世記前半の築造。【地名:池田山古墳】

    ◎下坂部村:しもさかべむら(尼崎市下坂部)
    • 久々知村の東に位置し、古代部民坂合部の居住地であったかと推定されている(尼崎市史)。文安2年(1445)の興福寺東金堂庄々免田等目録帳(天理大学附属天理図書館蔵)に雀部寺領として大嶋庄・浜田庄とともに下坂部庄がみえ、田数は62町7反小であった。(中略)。
       当地の伊居太神社の社名は「延喜式」神名帳に河辺郡の小社としてみえる。旧豊島郡域の大阪府池田市綾羽2丁目に同名社があり、「摂津志」はもとは河辺郡小坂田村(現伊丹市)にあったものが中古池田の地に遷祀されたとの伝えを記す。この説は有力であるが、同社が池田に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所が当地に近い塚口であることから、当地を小坂田に比定し、本来の鎮座地であったとする説もある(川西市史)。【地名:下坂部村】

    2019年8月25日日曜日

    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(戦国武将甲賀谷長正という人物像の輪郭)

    今のところ、甲賀谷又左衛門尉正長についての直接的な史料は限定的ですが、様々な断片的資料を集めてみると、旧池田(荒木)家中の人々の動きから推測もできるように思えます。今現在、甲賀谷正長について判っていることから、以下にまとめてみたいと思います。

    摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
    ◎甲賀伊賀守とのつながり
    池田での古老の話しによる(西暦2000年頃の)と、その方の小さい頃から「甲ヶ谷」の人々は、近江国甲賀(現甲賀市)から移り住んで来た、と聞き伝わっているようです。前述の通り『穴織宮拾要記 末』の記述(資料7)には、甲ヶ谷には「甲賀伊賀守」という家老が居たとあり、この人物は甲賀地域出身の人物と考えられます。この人物が住む地域であった事から「甲賀谷」という呼び名がついたのだろうと考えられます。
     甲賀地域出身者は、特に「土木技術」に優れた技能を持ち、破壊と普請(造作・造成)が常の時代にあっては、これらの人々は各地で大切にされたのではないかと思われます。現代のように、公的機関としての学校の無い時代には、技術伝承を徒弟制度の中で、一族や衆がそれを保持しています。それらの事も含め、甲賀谷正長は、地名を冠する程この甲ヶ谷に深くつながる人物である事が想定できます。婚姻や血縁もあったりするかもしれません。「名は体を表す」と云われる程、意味の無い名乗りは、全く考えられないからです。
     また、一方で、尼崎長遠寺での行動を見ると、多宝塔や客殿などに棟札を上げているところを考慮すると、木工・大工技術に優れた人物であった可能性もあります。
     現甲賀市域には優れた建築物が多く存在し、安土城もそういった技術に頼って完成した経緯を考えると、土木・建設に優れた才能を発揮した人物であった可能性も考えられます。
     もしかすると、呉春酒造の酒蔵梁の書き付けにある「甲賀谷仁兵衛・助兵衛」は、甲賀谷正長と関係の深い人物かもしれません。また、元禄10年の池田村絵図に記録されている「甲賀谷」の大工5名は、正に仁兵衛と助兵衛、その人です。呉春酒造の梁に縁起を書いたのもその人です。

    伝法正蓮寺の寺紋と摂津池田の甲賀谷氏
    大阪市此花区伝法の海照山 正蓮寺の寺紋「巴藤」
    寺院はたいてい、宗派に属している事が多いので、宗紋を持っています。それに加えて、そのお寺にゆかりの深い紋を持っています。ですので、2つの紋がある事が多いのです。時にはそれ以上の事もありますが、たいてい、そういう構成になっています。伝法の正蓮寺は、日蓮宗ですので、「井桁に橘」紋を宗紋として掲げてあります。そしてもう一つ、寺紋は「巴藤」です。
     摂津池田家の本姓は「藤原」でした。時代の習慣としての行動と判断は、同族の結合が信用の繫がりの拠(よりどころ)です。ですので、藤原系とのつながりは、自分を守ることであり、助け合いであるのです。現代社会のように戸籍制度もありませんし、学校、警察もありません。現代のように、公的な信用醸成の制度はありません。そうであれば、どうしても信用の拠は、血統的なつながりに頼るところが大きくなります。
     故に、摂津池田氏の場合、どうしても藤原氏とのつながりが深くなり、接点も藤原氏の同族結合となっていきます。また、例えば、池田や伊丹といった名乗りは、時代やその時の個別環境により、変化します。荒木村重が池田家中に所属した時は、荒木と池田姓を使い分けていました。
     しかし、その家系が持つ紋は、あまり変化しません。ただ、功名があった時や所属によって下される紋はあったようですが、「一族」を示す紋は変わることがありませんし、それが一族生存の基本です。家紋は自分と家族の起源を示す、非常に大切な印なのです。現代の日本国国旗と同じです。
     歴史的な調査で「紋」は、探求の手がかりとして、非常に有力です。
     正蓮寺を創建した甲賀谷正長は、この寺の起源ですので、やはり甲賀谷氏の「巴藤」紋を用いたのではないかと思われいます。そうすると、甲賀谷氏は、藤原氏にゆかりの一族となります。前述のように、甲賀谷氏は元々近江国甲賀にあったようですが、そのルーツは「藤原氏」であった縁で、池田家につながりを持つようになった可能性が考えられます。

    ◎「正」の通字を持つ意味
    摂津池田家は、元々「藤原」性です。また、その一族当主は「筑後守」を名乗り、諱(いみな)に「正」の字を持ちます。これは、通字(つうじ)といって、これを継いでいるかどうかで区別があります。更に、「正」の字が諱の上か下か、でも違いがあります。例えば、勝正、信正、知正などが、下正(したまさ)といい、正詮、正久、正秀などが、上正(うえまさ)といいます。
     時代によって、違いもあるようですが、傾向からすると、下正は、惣領家(当主)とそれに近い人々が用い、家老など、少し本家筋とでもいいましょうか、少し血の遠いと思われる家系は、上正を用いているように思います。
    甲賀伊賀守屋敷跡(2001年頃撮影)
    さて、今回注目している甲賀谷正長も、正の字を持ち、しかも上正です。甲賀伊賀守は、家老との伝承ですので、池田家のその当時の慣習を踏襲したと思われる形跡があります。
     伝承されていた、甲賀から来た人々は、時の流れの中で池田家と婚姻などで縁を深くし、「正」の字を得たのかもしれません。正長の生きた時代は、池田家も滅びて(滅びつつあった)しまい、戦国時代も終盤でしたので、その時代に必要な名前に変えて行きます。「甲賀」と「正」を残すことの意味があたのでしょう。また、正長は「左衛門尉」という官途も名乗っており、位は正六位から従六位です。一般人ではありません。
     伝法の正蓮寺では、「甲賀谷正長は武士」と伝わっていますが、これは正確な伝わり方をしているのではないかと思われます

    ◎没年の推定
    尼崎市教育委員会による『長遠寺所蔵甲賀谷氏関係資料』によれば、寛永14年(1637)6月27日付の鐘楼棟札に、「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也 願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」とあることから、この頃に正長は死亡していることが窺えます。
     また、同資料の元和9年(1623)5月付けの本堂棟札に、「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」によれば、長遠寺本堂を寄進しているようです。本堂はその寺の中心建築物ですから、相当な費用も必要だと思います。この頃には事業(実際の生業は不明)も順調で、そういった行いのできる環境が整っていたものと想像されます。この頃の池田は、酒造業が盛況で、活気に包まれていたころでもあります。
     一方で、この翌々年(1625)、伝法の正蓮寺を創建しますので、少し前からそういった取り組みの準備もしていたのかもしれません。
     ちなみに、同資料をもう少し見ると、元和元年(1615)9月5日付で、正長が長遠寺に「日蓮曼荼羅本尊(尼崎市指定文化財)」を寄進していますが、この時の裏書きに「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)」とあって、改元を機に、隠居して息子なる人物に当主を譲っているようです。この頃から法名(法号の日寶は、元和4年11月17日か)を正蓮と名乗っているようです。
     正長の息子は、「貞勝」を名乗っているようで、正長はその後見役となっていたのでしょう。息子は「正」の通字を継がず、「貞勝」となっているのは、池田は京都所司代の支配管轄で、この時の筆頭は板倉勝重・重宗でしたので、その板倉氏と何らかの関係があるのかもしれません。今のところ想像ですが...。

    気になる記述の残像
    これは予備的な要素として書き残しておきたいと思います。『穴織宮拾要記』は、池田の町の復興や成り立ちについて、非常に重要な記述が多い、資料としての価値が大変高いものですが、全文翻刻されておらず、今は断片的な翻刻をつなぎ合わせる中での判断です。これは、池田の町のみならず、伊丹や周辺地域に様々な影響を及ぼす、非常に重要な文書です。
     そこに記述されている一説に、気になる要素があります。「資料3」にあるのですが、- 秀吉公・秀頼公之御時より池田ハ御代官所成ル、片桐市正御預り牧治右衛門池田支配ノ時、右之屋敷本養寺へ寄付せられ候。町人も城之用聞五軒伊丹へ引、又帰り候。 - とあって、先にご紹介した五家老との関係はどれ程あったのか、非常に気になるところです。
     この「城ノ用聞き五軒」とは、商業的要素のみならず、様々な要望を引き受けるため、非常に信頼の厚い人物で有り、組織であったと考えられます。現代は、社会現象の事柄を細かく分類していますが、当時はそれ程、細かに分ける必要もなく、商業であれ、建設であれ、戦争であれ、用聞きとは要望に応える商社のような存在であたっことでしょう。これに甲賀谷氏も関わっていたかもしれません。それが気になります。
     一方で、池田郷は、その地理的位置から非常に重要な場所であり、社会に軍事的な不安定要素がある間は、幕府の直轄領として、池田家をはじめとした旧ブランドの台頭を警戒し、その胎動を許しませんでした。徳川幕府は池田に代官所を置き、村役との連携をとる体制で地域支配を行いました。
     しかし、地域政治を進める上では、事実上、絶縁させる訳にもいかず、ある程度の許容の中で、円滑な運びも計る必要があると思います。そういう中で、選別しながら有用な取り込みを行うなど、無害化されたブランドの許容(活用)は存在したと考えられます。

    ◎正長が活躍した背景
    池田では古くから酒造が行われていたと伝わっており、池田郷内の最も酒造高のあった満願寺屋は、その代表でした。その始まりは、応仁年間(1467 - 69)頃といわれるものがあります。古来、酒造は寺で、生産されていましたので、満願寺屋という名の通り、池田の酒造のキッカケも寺に関わるものと思われます。池田郷の西北西約4キロメートルのところに、満願寺という古刹があります。
     この境内の発掘調査の結果では、平安時代末頃には寺院があったと確認されており、寺記によると神亀年間(724 - 29)に千手観音像を祀ったのに始まるとされています。池田家も満願寺に寄進などを行い、つながりも持っています。
     これが何らかの縁で、交通の要衝である池田へ移り、根付いたものと思われます。戦国時代を経て、江戸時代になる頃には、荒廃した郷土復興が盛んになっていきます。その過程で酒造業も活気を呈します。
    池田村宛禁制(松平武蔵守:池田利隆のこと)
    大坂冬の陣(1614)のために河内・大和国境の暗峠(くらりとうげ)に進んだ徳川家康に、池田酒・物資・軍資金を献じて、池田の立場表明(味方となる)をいち早く行ったことから、その後に保護を受けるようになったとされます。(※1)これは郷内保護のための禁制を受けるためで、その時の禁制が残って(他に板倉伊賀守の副状も)います。池田村役の庄屋菊屋助兵衞、年寄牧屋五兵衛、同淡路屋新兵衛などが付き添い、陣中見舞いを献上しています。池田村は慶長年間より正保頃まで、庄屋1人・年寄2人(安永4年2月2日文書)がいたようです。池田は重要な場所であったため、徳川幕府の直轄領(天領)でした。
     戦国時代は、禁制を発行する側であった池田が、今度は、受ける側に変わっていました。もはや、池田には地域権力が存在していませんでした。
     しかし、それまでの地域ブランド力と地勢が、他の地域とは違う価値をもっており、単なる禁制拝受ではありませんでした。そのことは、酒造業にとっても、大いなる恩恵となりました。間もなく、徳川政権から大坂の陣の戦勝の礼として、池田酒に銘を贈り「養命酒」としました。これが特権化もしつつ、その後、池田での酒造が年々盛んとなり、元禄期(1688 - 1704)には最盛期を迎えます。
     そういった行動の中心的役割を果たしていたのが、旧池田家中、荒木家中の人々で、甲賀谷正長もその一人であったと思われます。平和になりつつあるとはいえ、江戸の幕藩体制が盤石となるのは、徳川将軍3代目の家光の頃(元和〜寛永期:1615 - 44)であり、それまでは日本各地で争乱も止みませんでした。ですので、政治と武力は一体的に考え、行動する必要がまだまだあった時代でした。
     一方で、徳川幕府によって、武力の台頭を許さない社会への圧迫を加えつつある中で、世が安定しはじめており、経済活動が日本各地で盛んとなっていました。ですので、政治・経済・軍事をうまく使い分けて活動できた池田武士が活躍する場もあり、その能力を持っていた一人が甲賀谷正長だったのかもしれません。
    ※1:永年、満願寺屋の禁制について、徳川家康の陣所である奈良暗峠に池田酒を献上した事として、エピソードが通説化していましたが、私が改めてこの流れを検証したところ、事実とは少し違うところを発見しました。池田衆が訪ねたのは、尼崎の松平(池田)武蔵守利隆をだったと思われます。利隆の母は摂津茨木城主中川清秀の娘であり、摂津池田家とは、非常に縁の繫がりが太い関係性があった人物です。詳しくは、以下の過去記事にありますので、ご参照下さい。
     
    甲賀谷正長と伝法及び尼崎のつながり
    甲賀谷正長と伝法及び尼崎のつながりですが、それらはやはり、「酒造」と「日蓮宗信仰」ではないかと思います。日蓮宗は町屋と町衆を布教対象にしており、そういった点で、人々の集まる町には自然と縁が深くなります。
     ちなみに、正長と関わっている法華宗系の寺院(池田の本養寺、尼崎の長遠寺)は、京都六条本圀寺の六条門流です。伝法の正蓮寺は、その流れの中で創建されています。
     また、酒は輸送が重要であり、これも町や輸送の拠点との結びつきが強くなります。その意味で、尼崎・伝法は、輸送の拠点であり、地縁と人と宗教が、持ちつ持たれつの関係で調和が取れていたのだと思われます。伝法は、特に酒の輸送で発展した町で、池田・伊丹の酒造の発展と両輪で成長したともいえる歴史を持っています。(資料4「伝法村」の下線部分を参照下さい。)また、伝法は元々交通の要衝で、戦国時代には、城や砦が置かれていたとの伝承もある程です。同地は輸送の大動脈であった瀬戸内海が西側に開けている訳ですから、どの時代も自然と重要視される地理となっています。
     そういった古今東西、森羅万象をうまく使い分け、池田の酒造などの産業育成、町の発展を担った中心的な人々が活躍した時代が、甲賀谷正長の生きた時代だったのだと思います。


    尼崎 長遠寺 甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の墓






    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(戦いの無い平和な時代の池田と甲賀谷氏を考える)

    図1:元禄期の酒屋・炭屋の分布図
    池田も伊丹も尼崎も、戦いの無くなった世で、復興を遂げていきます。その過程で池田は満願寺屋を中心とした酒造業が隆盛し、一大産業化して町の復興を牽引します。池田酒は、その品質がもてはやされ、江戸でもブランドとなっていきます。池田酒について以下にご紹介します。
    ※江戸下り 銘醸 池田酒と菊炭(池田市立歴史民俗資料館)

    (資料9)-----------------------
    【池田の酒造業の発展】
    池田の酒造業は、満願寺村(川西市)から応仁年間(1467 - 69)、池田に移って酒造業をはじめた満願寺屋にはじまるといわれている。家伝によれば、宝暦14年(1764)時点ですでに、「2〜300年以前より酒造仕候様に相聞へ」といい、慶長19年(1614)、大坂冬の陣で家康が暗峠に陣した際、池田の銘酒を献じ、そのために朱印状が授けられたという。
    表1:摂泉十二郷の江戸積入津樽数
    物事の始まりをよく古く表現することは、古来から常に行われてきたことなので、これをもって池田の酒造業の始まりとするわけにはいかないが、室町時代終わりごろには、既に町屋が形成されるなど、早くからひらけた土地であったため、酒造業の始まりも、戦国時代末期から安土・桃山時代ごろまで遡ることができるものと推定されている。
     江戸時代に入り、幕府の酒造統制政策のもと、池田は「往還の道筋、市の立つ処」として酒造業がみとめられ、朱印状の庇護もあって、伊丹と並ぶ銘醸地へと発展したのである。

    ◎池田酒 豊島郡池田村に造之、神崎の川船に積しめ、諸国の市店に運送す、猪名川の流れを汲で、山水の小清く澄を以て造に因って、香味勝て、如も強くして軽し、深く酒を好者求之、世俗辛口酒を伝へり。(「摂陽群談」元禄14年刊)
    ◎池田、伊丹の売り酒、水より改め、米の吟味、麹を惜しまず、・・・・・軒を並べて今の繁盛、・・・・・大和屋、満願寺屋、賀茂屋、清水屋、此の外次第に栄えて、上々吉諸白、・・・・・。(井原西鶴「織留」)

    このほか、池田の酒を紹介した当時の書物は、枚挙にいとまがない。
     明暦3年(1657)の酒造株設定時には、42株、13,640石がみとめられ、元禄期には、60株を超えた。江戸積銘醸地の中でも中心的存在で、元禄10年(1697)、池田から江戸へ下った酒は、28,238駄 = 56,576樽にものぼる。これは、この年の江戸下り酒総入津髙の8.8%を占め(表1参照)、まさに、近世池田酒造業の全盛期であった。
     このころの酒屋の分布状況をみてみると(図1参照)、そのほとんどが東・西本町(現栄本町)に集中している。池田屈指の酒造家満願寺屋や大和屋も、東本町(現在のコミュニティセンターから職業安定所付近)にあった。
    図3:江戸時代・池田酒の商標
    満願寺屋は「小判印」「養命酒」、大和屋は「山印」「滝ノ水」を醸造し、江戸の人々の評判も高かったという。伊居太神社(綾羽2丁目)には、全盛期の元禄14年、酒屋六尺中から奉納された井戸が残っている

    【池田酒造業の衰退】
    幕府の酒造統制が緩和され、灘をはじめとする新興酒造地が登場してくると、池田はだんだん遅れをとるようになった。その後の酒造政策によって若干の変動はみられるものの、池田が占める江戸積入津樽数の割合は減少の一途をたどり(表1参照)、酒造株のなかでも休株のものが目立ってきた。
     衰退の要因には、いくつか指摘されている。その一つは、池田が海岸線から遠く、江戸積みには不利な条件であったことである。江戸時代を通じ、猪名川通船願いが何度となく出されるが、その都度、池田をはじめ周辺諸駅の馬借らが反対し、実現しなかった。天明4年(1874)、ようやく許可されたが、それは、下河原(伊丹市) - 戸野内(尼崎)間に限られていた。
    池田から江戸までの輸送経路と運賃
    したがって、池田の酒荷はまず、牛馬で広芝、あるいは神崎・下河原へ運ばれ、そこで小型廻船(小廻し)に積み替えられ、安治川・伝法まで送られたのち、再び樽廻船に積み替えられて江戸まで廻送された。このことは、単に運賃が余分にかかるというだけではなく、駄送では輸送量も限られ、なんといっても二度の積み替え作業で、江戸着までに多くの日数を要することが大きな問題であった。酒荷は、特に迅速性が要求されるものであっただけに、海岸沿いの灘にくらべ、奥まった地の池田は不利であった。
     第2点としては、酒造技術(水車精米・仕込方法)改良の遅れがあげられる。灘では、近世中期から、既に水車精米を採り入れていたのに対し、池田や伊丹では、依然、足踏み精米にたよっていた。明治期に入ると、木部の水車場を利用していたことが知られているが、いつ頃から水車による精米が始まったか定かでない。文化年間(1804 - 18)にも、木部の水車場が米搗きに使用されていた記錄があるが、酒造業との関係は詳らかではなく、仮に酒造米の精白に使用されていたとしても、灘方面の急流を利用した水車に比べ、その精白度や精白量は低かったと思われる。
     仕込技術の面では、薄物辛口への好みの変化に対応し、文化・文政期、灘では、米1石に対し水1石の仕込方法に成功しているのに対し、池田では、米1石に対する水は5割弱に過ぎなかった。
    呉春酒造酒蔵梁の書付(元禄14年 甲賀谷仁兵衛)
    第3点目は、在郷町池田の特権のよりどころであった朱印状が、官没収されてしまったことである。この「朱印状事件」は、安永3年(1774)、満願寺屋が大和屋からの借金300両の返済を拒否したことに端を発し、朱印状の下付先が満願寺屋か池田村かの争いへと発展、ついに、安永5年、満願寺屋の借財返済と朱印状官没収が命じられたものである。特権のよりどころを失った池田は、酒造業だけでなく、在郷町の機能全体としてもかげりをみせるようになったと訴えている。
     このほか、酒造家が金融業へ一部資本を転換するようになったことなども要因の一つにあげられている。こうした諸条件が重なって、やがて、江戸積酒造体制から脱落し、酒造株の質入れや売買が行われ、「出造り」が一般化していった。
     以上のような発展、衰退の歴史のなかにも、新旧酒造家の交代がみられる。元禄期ごろ、上位を占めていた小部屋、菊屋、満願寺屋に替わり、江戸時代後期は、甲字屋、綿屋などが成長してくる。これら新興酒造家の中には、酒造技術の改良に努め、辛口薄物の酒の量産化を実現したものもいる。しかし、こうした動きが池田の酒造業の復興までに至らなかったのは、これら酒造家が、純粋に酒造経営を行っていたのではなく、貸金を主とし、酒造業を行っていたという点にあったといわれている。仕込技術では、遅れを取らずとも、原料の酒米の多くを質入米に頼っていたことが、酒の品質を左右したのではないかと考えられている。
    -----------------------(資料9おわり)
    ※文中の酒造家小部屋とは、「小戸」か。

    少々長い引用でしたが、酒造と輸送は両輪ですから、効率のよい輸送(出荷)をどのように確保するのかは、非常に重要な問題です。この池田の一大産業の勃興に、池田の武士や元の住人が戻って従事するようになっていたようです。酒造最大手の満願寺屋は、当主の名を「荒城九郎右衛門」といい、「荒城」との字を充ててありますが、これはやはり「荒木」であろうと思われます。また、他の荒木一派も「鍵屋」という屋号で酒造業を営んでいたり、他にも池田家中の武士であった酒造家もありました。
     一方で、それに関連する役割を持つ者も当然いた事でしょう。荒木村重は没落して後、摂津国守護職であった頃の役目の延長で、鋳物師統括に関する取り計らいをしていたらしい史料もあります。
    ※中世鋳物師史料P141

    (資料10)-----------------------
    先刻申し入れ如く候。彼の知行分の儀、荒木弥四郎村基存分に成り候者、知行分存知候間、重馬之かい料の儀、進められるべく申しの由、松台(不明な人物)仰されるべく候。恐々謹言。
    -----------------------(資料10おわり)

    上記は年記を欠く、3月26日付の文書で、宇■真清、公卿真継久直宿所へ宛てて音信されているものです。宇■真清とは、■が欠字ですが、これは宇保という人物と思われ、宇保は今の池田市内にある地域の「宇保」の有力者と考えられます。この地域にも宇保姓の武士が居た事は、当時の発行文書からも明かです。また、真継久直とは、あまり地位の高くない公卿ですが、日野家に関係し、全国の鋳物師の統括を担っており、この頃は、一元化を推し進めている途上でした。その流れの中での文書です。

    このように、甲賀谷正長も池田の家老的重職を務める役の家系にあったようですから、その政治力や人脈を活かした、時代時代の役割りがあったのだろうと思われます。
     先にも述べたように、正長は長遠寺の復興や正蓮寺の創建に、中心的な役割りを果たしており、それに伴う経済的支援もしていることから、相当な経済力も持っていたことは明かです。甲賀谷という、いち地域から町全体の政務(まつりごと)を行う地位に昇っていたのかもしれません。

    最後の桶職人 武呂氏(池田酒と菊炭より)
    ちなみに、甲賀谷正長の名乗りの起源であった、江戸時代の甲ヶ谷の様子について、資料をご紹介します。
    ※大阪府の地名1(平凡社)P316

    (資料11)-----------------------
    【甲賀谷町(現池田市城山町・綾羽1丁目)】
    東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
    -----------------------(資料11おわり)

    甲賀谷は、近年まで大工職をはじめ、職人の多い町として知られていて、この江戸時代の流れが、その時代に沿いながら地域の定形文化が続いていたといえます。




    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(摂津池田出身の甲賀谷氏の出自が武士であったであった可能性)

    池田家中(若しくは荒木家中)にあった甲賀谷正長も、その流れの中で、自身の役割りと能力を生かして活動していたと思われます。甲賀谷氏と深い繫がりがあると考えられる「甲賀伊賀守」についての記述を参考までにご紹介しておきます。
    ※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

    (資料7)-----------------------
    一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
    ※■=欠字
    -----------------------(資料7おわり)

    摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
    上記は伝聞資料ではありますが、ある程度正確に記述されていると考えられます。また、時代もハッキリと記されていませんが、本拠地機能を拡大・移転させるにあたり、荒木村重が伊丹の有岡城を稼働させた天正3年頃を区切りに記述したものと考えられます。
     個人的には、荒木村重が池田家から身を起こして地域勢力の主導権を確立して行く中での統治・支配体制(軍事的にも)ではないかと考えています。
     当時の発行史料から見れば、池田一族が中心であった頃の統治機構(池田四人衆:家老)はこのメンバーでは無い事が明らかです。
     記述にある「池田の城伊丹へ引さる先」とは、天正3年秋以降の事を指すと思われますが、流れとしては、天正元年の8月頃に、村重を「摂津守護に目す(正式では無いが)」公言があったようで、それを元に様々な状況変化が起きています。
     織田信長の期待通りに行動した村重は、天正3年8月頃に「摂津守」を正式任官し、名実共にその座に就いています。その頃には、地域政権の体制ができていたようですが、そこに至るまでの黎明期には、地域に影響力のある人物を立てざるを得ませんので、村重に理解のある旧池田勢力を活用したのだろうと思われます。それが記述に見られる、「右五人之家老町ニ住ス」顔ぶれだったのかもしれません。
     本拠機能が伊丹の有岡城に移ってからも、池田でのこの体制は続いたと思われます。「池田と伊丹は一対の城」と記述されてもおり、池田は非常に重要視されていましたので、配置の人選も念を入れたものになっていたことでしょう。

    また、天正6年秋、荒木村重が織田政権から離叛し、池田の町に戦火が及んだ様子が伝承されていますので、以下にご紹介します。
    ※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 本』)

    (資料8)-----------------------
    一、天正之乱■当国大形在々所々三日三夜之内中二焼き払われ方々へ逃げちらし金銀たくわへ有人は他国二住ス也。一、此時池田之人々他国へ行も有、池田山のうしろ丸尾はばと云所二小屋かけ住、折々里へ下り耕作つくり住人八十余有、雨降時ハ長櫃二置かがみ住人も有、作り付たる田を伊丹より夜ル来刈とらるる人も有。
    ■ = 欠字
    -----------------------(資料8おわり)

    このように、織田政権から離叛した荒木村重は、滅ぼされてしまいます。伊丹や池田、尼崎など主要な都市は攻め落とされて、町も大きな被害を受けました。
     池田の町の「甲賀谷」とは、甲賀伊賀守をはじめとした、甲賀地域から人々が移り住んだことがキッカケで地名となったと思われます。その地に関わりの深い人物が、甲賀谷氏であろうことは、自然な流れとして起きた事と考えられます。

    しかし、その後、織田信長も斃れますが、時代は大きく動き、日本国全体は武力統一されて平和な世が訪れます。




    2019年8月24日土曜日

    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(伝法(大阪市此花区)について)

    正長自身が法名を「正蓮」と名乗り、それが寺号となっている正蓮寺は、現在此花区伝法にありますが、正長とは何の関係も無いところに建てられるはずがありません。これ程までに経済的に、心情的に支援できるからには、相当に強い結びつきがあったのではないかと考えられます。その「伝法」という場所について、引用してみます。
    ※大阪府の地名1(平凡社)P747

    (資料4)-----------------------
    現在の正蓮寺の様子(2019年撮影)
    【伝法村】 此花区伝法1 - 6丁目
    中津川が下流の中州によって伝法川と正蓮寺川に分流する地に位置し、伝法川の北岸を北伝法(伝法北組)、南岸を南伝法(伝法南組)と称した。南東側は四貫島村。地名は仏教伝来にちなむとか、鳥羽上皇が紀州高野山に伝法院を建立する時、その用材を船積みした地であるからなどの里伝がある。
     当地は、中世末期には中津川河口の湊として交通の要衝となっており、伝法口とも称された。「陰徳太平記」によると石山本願寺を攻める織田信長が、「伝法」に武将を配置している。また慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、大坂城に籠もる豊臣方が当地に砦を築いたともいわれる(大阪市史)。諸川船要用留所収の慶長8年付徳川家康の過書中宛朱印状写に過書船発着地の一つとして当地があげられている。同10年の摂津国絵図には「テンホ」とみえる。元和元年(1615)大坂藩松平忠明の支配下で船手加子役を賦課され、同6年には大坂御船手(小浜氏)の支配下となり、船番所も設置された。寛永11年(1634)から加子扶持7石を支給されている。寛文10年(1670)幕府領となったことにより加子役はそのままで、年貢も賦課されるようになった(西成郡史)。当地が行政的に村となったのはこれ以後のことで、それ以前は大坂に準じて幕府直轄都市の扱いを受けていたと思われる。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領となっている。以後幕末に至る。享保20年(1735)摂河泉石高帳によると130石余、流作地4石余。加子役は屋敷を単位に賦課され、南北両伝法に185軒の公事屋敷があった。ところが天明年間(1781 - 89)町を単位に賦課する方法に改められ、当時、当地辺りに成立していた八か町、すなわち北伝法上之町に35役、同中之町40役、同下之町30役、南伝法上之町42役、弥右衛門開の内八軒町6役、南伝法下之町12役、五右衛門開5役、十三軒町15役が課せられた。なおこの加子役の賦課率は村小入用の割付にも適用され、享保8年以降は村小入用の6割は加子役に、4割は村高に割付られたという(西成郡史)。
    埋め立てられている正蓮寺川(2019年撮影)
    大坂市中の河川を回漕する上荷船・茶船のうち、当村上荷船は最も古い由緒をもつ七村上荷船の一つに数えられている。年次は未詳だが船極印方(「海事史料叢書」所収)によると、上荷船45艘をたばねる組頭一人が南伝法に、同45艘の組頭二人と同44艘の頭一人が北伝法にいた。正保期(1644-48)上方から江戸への下り酒が伝法廻船で積み出され、万治元年(1658)佃田屋与治兵衛が北伝法上島町で江戸積の廻船問屋を開業、寛文年中、中島屋小左衛門・小山屋源左衛門・堂屋藤兵衛が酒樽専門の江戸積問屋を開業、元禄年中(1688 - 1704)には綿屋治兵衛・大鹿屋九兵衛・宮本弥三兵衛・薬屋新右衛門らも加わって、その数を増やした(「船法御定並諸方聞書」同書所収)。それに用いられた伝法船は従来の菱垣廻船よりも迅速に回漕したため「小早」と称され、やがて酒樽以外の商品も積み込んで菱垣廻船に対抗した。これが享保期以降、樽廻船と呼ばれるようになった(「菱垣廻船問屋規錄」同書所収)。樽廻船はとくに伊丹・池田の酒造業の発展に対応して繁栄した。しかし当地においては貞享元年(1684)安治川の開削によって河港としの繁栄を順次安治川沿岸に奪われ、当時船数700余・家数800余・人数3500余と栄えていたのに対し、天明年間には船数200余・家数400・人数1900余に減少したといわれる(西成郡史)。もっともその頃当地には廻船業の他に酒株37・醤油造株3・樽屋26・運送屋3・寒天曝屋4・籠屋2・竹屋2・畳屋2・家および船大工9・紺屋4・質屋4・寺子屋4・商人73・医師4・按摩17・社人3・僧尼道心者35などがあり、小都市の景観を呈していた。また、伝法川に設けられた船渡しは「伝法の渡し」とよばれ、尼崎に至る街道に通じて、大名参勤の通路となっていた。
     当地には鴉宮(からすのみや)・澪標(みおつくし)住吉神社、浄土真宗本願寺派浄泉寺・西光寺、真宗大谷派慶善寺、浄土宗宝泉寺・西念寺、日蓮宗正蓮寺、単立(浄土真宗系)安楽寺がある。鴉宮はもと伝法の船問屋が祀った「伝母頭神社」といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、三羽の鴉が水先案内をしたことから現社名に改称したと伝える。川名の由来ともなった正蓮寺では8月26日に川施餓鬼を行う。「伝法の施餓鬼」とよばれ、天神祭とともに浪速の夏の二大行事とされている。明治10年(1877)当村は南伝法村・北伝法村に分村した。なお、天保郷帳に弥右衛門開18石余と「助太夫・五右衛門開」77石余がみえるが、うち弥右衛門開と五右衛門開は当村に近い伝法川上流中州に開かれた地で、助太夫開は大野村(現西淀川区)に接して開かれた新田である。
    -----------------------(資料4おわり)

    上記のように伝法は、交通の要衝で、古くから開けていた場所であるようです。当然、その地勢環境(素質)は、長い間受け継がれ、戦国時代にも重視された場所で、伝法から北側に2〜3キロメートルのところには、大和田城があって、それぞれ尼崎街道でつながっていました。
     また、港の機能として、近代時代まで尼崎あたりが大型船の出入りに向いており、大坂よりも尼崎が港として賑わいがあったようです。大坂は、土砂の堆積で海底が浅く、大型の船の航行には不便だったようです。
     それ故に尼崎は古くから港として機能しており、人や物が集まって、それらの活動に相対して古刹も多くあるようです。その内のひとつ、甲賀谷長正長と関係の深い尼崎の大尭山 長遠寺について資料を引用します。
    ※兵庫県の地名1(平凡社)P446

    (資料5)-----------------------
    大尭山 長遠寺
    【長遠寺】
    江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった
     開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
    16世紀の尼崎(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-)
    さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
     江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
     本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
    -----------------------(資料5おわり)

    また、正長の信仰の篤さを知る事ができる、長遠寺へ寄進するなどした関係資料一覧を以下にあげます。
    ※尼崎市立文化財収蔵庫(同市教育委員会 歴博・文化財係)様からのご提供資料

    (資料6)-----------------------
    資料名
    年代
    内容等
    1
    多宝塔棟札
    慶長11年
    「願主甲賀谷又左衛門尉正長敬白」
    2
    多宝塔棟札
    慶長12年
    「甲賀谷又左衛門尉正長(花押)
    3
    日桓曼荼羅本尊
    慶長13年1月2日
    裏書「授与甲賀谷又左衛門尉正長」
    4
    客殿棟札
    慶長18年4月6日
    「大願主甲賀谷又左衛門造之」
    5
    日蓮書状
    (乙御前母御書)
    元和元年9月5日
    裏書「元和元乙卯暦九月五日
    願主甲賀谷又左衛門法名正蓮(花押)
    6
    日蓮曼荼羅本尊
    元和元年9月5日
    裏書「元和元乙卯暦九月五日施主又左衛門(花押)
    7
    日桓曼荼羅本尊
    元和4年11月17日
    裏書「甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶授与」
    8
    日厳曼荼羅
    元和8年3月11日
    裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
    9
    日聡曼荼羅
    元和8年3月11日
    裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
    修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
    10
    日円題目
    元和8年3月11日
    裏書「摂州尼崎長遠寺常住本尊
    修補之施主甲賀谷又左衛門正長」
    11
    本堂棟札
    元和9年5月
    「願主甲賀谷又左衛門尉法号正蓮日寶建之□」
    12
    甲賀谷正蓮書状
    8月14日
    長遠寺宛
    13
    鐘楼棟札 
    寛永14年6月27日
    「為正蓮日寶遺言所建立之鐘楼同也
    願主大坂法華甲賀谷又左衛門尉貞勝」
    -----------------------(資料6おわり)

    尼崎は、軍事的・経済的にも重要でしたので、時の大名は尼崎を重要視していました。池田家中から成長した荒木村重も織田信長政権下で地域勢力として伸張し、尼崎も支配下に置きます。村重は、摂津国全域と河内国の北半分を担い、統治しました。





    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(瑞光山 本養寺(大阪府池田市)について)

    日蓮宗(法華)の特徴は、主に町屋と町衆を布教対象としていたため、周辺地域の拠点的特徴も持っていた池田に、日蓮宗の布教拠点(寺院)があったのも、それは自然なことと言えるのかもしれません。以下、池田の本養寺について、ご紹介します。
    ※大阪府の地名1(平凡社)P316

    (資料2)--------------------
    瑞光山 本養寺(2001年頃撮影)
    【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
    日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
     元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
     なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
    --------------------(資料2おわり)

    また、池田での『穴織宮拾要記 末』による伝承では、荒木村重が池田城を畳み、本拠機能を伊丹へ移したときに、本養寺も伊丹へ移したとしています。しかし、場所など伊丹での実態状況が不明です。江戸時代に再び池田へ戻ったとされるまでの間はよくわかっていません。
     町衆と深く結びつく宗教で、歴史も永く、池田では大きな寺院でもあったことから、本拠を移すにあたって行動を伴にすることは、何ら不自然ではありません。
     ちなみに、法華宗も日蓮宗も日蓮上人を宗祖としています。本山の違いがあって、宗派が別れています。時代を経る中で、考え方の違いで派生していきました。元々は法華宗と呼ばれていたようです。

    また、天正3年頃に池田から伊丹へ本拠機能を移した時の伝承記錄に、本養寺のことが記述されています。『町並調査報告書』など、いくつかの資料からの引用です。
    ※(1)北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P32(『穴織宮拾要記 末』)、(2)荒木村重史料(伊丹史料叢書4)P136(『穴織宮拾要記 本』)

    (資料3)-----------------------
    (1)しかし荒木村重は間もなく、本養寺・大広寺を伊丹へ移し、町人も「城之用聞五軒伊丹へ引き」「池田之城をたたみ百姓二歩せ」(以上『末』)、本拠を伊丹へ移した。
    (2)一、今ノ本養寺屋敷ハ池田ノ城伊丹へ引さるさき家老池田民部屋敷也。(中略)一、大広寺・本養寺二箇寺伊丹へ引跡二も小寺建置、旦那ノ内身体よろしき人死候時ハ伊丹へ和尚呼二行也。本養寺ハ元円住坊山二有、留守坊主ノ名円住坊と云候故、今畠ノ字円住坊山と云、伊丹崩候後池田二二ヶ寺被帰候。秀吉公・秀頼公之御時より池田ハ御代官所成ル、片桐市正御預り牧治右衛門池田支配ノ時、右之屋敷本養寺へ寄付せられ候。町人も城之用聞五軒伊丹へ引、又帰り候
    -----------------------(資料3おわり)

    このような伝承記錄があるのですが、伊丹市側では本養寺のこの動きについて把握されてされておらず、詳細は不明です。場所なども判っていません。もしかすると伊丹にある日蓮宗滋霔山 本泉寺に何らかの関係があるのかもしれませんが、それも不明です。






    ◎参考記事:摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(海照山 正蓮寺(此花区伝法)について)

    前回は、大尭山長遠寺(現尼崎市)を中心に、甲賀谷正長と池田のつながりについて、考えてみたのですが、今回は特に、日蓮(法華)宗系の池田やその周辺の関係寺院に範囲を拡げて調べてみました。先ずは、大阪市此花区にある正蓮寺についてです。
    ※伝法 正蓮寺発行の『正蓮寺概史』より

    (資料1)-----------------------
    【正蓮寺略縁起】
    寛永2年(1625)篤信の武家、甲賀谷又左衛門が、毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。そこで、日泉上人を開山とし又左衛門を開基として、大方の協力を得て建てた草庵が、今の正蓮寺のおこりであります。寺号の正蓮寺は、甲賀谷又左衛門の予修(よしゅ:生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。)、正蓮日宝禅定門より、また山号の海照山は、御尊像が海を照らした事から名付けられたものであります。
     大阪の代表寺院25ヶ寺の内に数えられた正蓮寺は、惟うに権門の庇護に依り建立された寺ではなく、土着の一無名人の発願にて創立された庶民的な寺院であります。創建以来来伝燈絶えずして信徒参集し、寺門興隆して現在は第26世を踏襲するに至っております。
    第7世 寂行院 日解上人墓
    【伝法の川施餓鬼】
    享保6年(1721)、当山第7世、寂行院日解上人は、日蓮大聖人が海中にて衆生済度せられた功徳を継承せんとて、川供養の行事をはじめられたのが、いまの伝法の川施餓鬼であります。創始以来、正蓮寺川に棚を作り色々な供物をして、有無両縁の万霊を供養して参りました。摂津名所図絵に記されている様に、数百曳の船団で参拝者が群集したしました。地元の伝法・高見・四貫島の各家では、遠近より親類縁者を招いて精霊をお祀りし、法要の後は各船団は棚を片付けて船遊びに興じてお祭り騒ぎになるのが常でした。陸では数百の露店が賑わい、名物の枝豆・竹ごま・焼鳥屋などが繁昌し、全く天神祭をしのぐ程の盛大な大阪の夏を締めくくる行事でした。夕刻、船団も引き揚げ露店も終わる頃には涼風も吹く時期でもあり、「暑い夏には天神祭、あついあついも施餓鬼まで」と、今日までの夏の風物詩として語り継がれ親しまれて参りました。古来より仏法経典の渡来した最初の浜とも云われる伝法の地であります。仏事が盛大に行われて来たのも当然のことと思われます。昭和46年には、川施餓鬼創始250年の記念大法要を厳修いたしました。殊に現在は、区内に奉賛会が組織され、更には浪速全般に亘る参拝会の活躍は、誠に有り難いことでもあります。ただ、昭和42年頃より正蓮寺川の汚濁が甚だしくなった為、川渡御は新淀川に移すことになりました。平成26年度に「正蓮寺の川施餓鬼」として大阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
    -----------------------(資料1おわり)

    正蓮寺さんに直接尋ねたところ、水害などで寺の文書などが流出してしまい、石仏など一部の遺物や口伝しか残っていないとの事で、今のところ、これ以上の直接的な手がかりはありません。

    さて、上記の略縁起中の記述について、少し注目しておきたいと思います。甲賀谷正長は「武家」と伝わっており、やはり池田での伝承記述『穴織宮拾要記 末』にある甲賀伊賀守に系譜を持つ人物の可能性が高いように思われます。
    摂津池田の伝家老屋敷位置(道路は元禄10年絵図による)
    また、「たまたま京都から来られた修行僧、唯性院日泉上人がこれを御覧になり、間違い無く日蓮大聖人の御尊像であることを認められました。」との件について、池田城下には本養寺という日蓮(法華)宗のお寺があります。室町時代の創建で、近衛家ともつながり、京都の大寺院である本圀寺から開山の住持を迎えています。
     甲賀谷正長が、池田の本養寺を通じて日蓮(法華)宗に接していたのなら、京都から来た唯性院日泉上人とも接点はあるでしょう。ですので、この正蓮寺縁起中の話しの環境は、時代の事実に沿って、概ね整っています。
     それから、「毎夜海中にて光を発するものを見つけ、網を入れたところ、お木像が上がって来たので、邸内にお祀りしていました。」の記述は、池田に海はありませんので、他のどこかでの出来事でしょう。邸内とは、池田の屋敷かもしれませんが、判別不明です。しかし、いつも身近なところに海があり、夜に起こる現象を度々見ることができるのですから、その辺りに定住するなどしていた可能性が窺えます。いくつかの屋敷を持っていたのかもしれません。
     後に延べますが、甲賀谷正長は、武士としての経験を活かした政治的活動や運送、酒造に関わる生業で、移動することが多かったのではないかと今のところ推定しています。


    海照山 正蓮寺
    〒554-0002 大阪府大阪市此花区伝法6丁目4−4





    此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(はじめに)

    摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?」の記事に続いて、同じテーマでもう少し調べを深くしてみました。この記事の中心である、甲賀谷又左衛門尉正長についてですが、その行動からして、日蓮宗(法華)への信仰を深くしている人物である事がわかります。要素を区切って、深く掘り下げていきたいと思います。

    詳しくは、以下の記事をご覧下さい。

    はじめに
    海照山 正蓮寺について
    瑞光山 本養寺について
    伝法(大阪市此花区)について
    摂津出身の甲賀谷氏の出自が武士であったであった可能性
    戦いの無い平和な時代の池田と甲賀谷氏を考える
    戦国武将甲賀谷長正という人物像の輪郭

    【参考記事】摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?
    【参考記事】『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について

    2019年8月22日木曜日

    何と!米原正義先生がお使いの史料を入手。

    ネットで「蔭凉軒日録」を購入しました。これは単なる購買行動で、説明にその事があった訳ではありません。ただ、鉛筆による線引き多数とありました。ですので、全巻揃いのわりには、お買い得な価格でした。

    米原正義先生宛の音信ハガキ
    数日後、それらが手元に届き、状態の確認とか、史料の具合を見ていました。確かに鉛筆の線引きが沢山あり、「随分研究熱心な人だな」と思って見ていました。付箋も沢山付いていました。パラパラとページをめくっていましたら、ハガキが挟んでありました。崩し字だったこともあって、あまりよく見ずに、ゴミ箱へ一旦捨てました。
     しかし、古そうなハガキで、ハガキ1枚が40円の時代です。何となく気になって、宛名を見ると「米原正義」とありました。あれ、見覚えのある名前。誰だったかな...。暫くして、戦国史研究の大先生である事を思い出し、裏に書いてある通信内容を読んでみました。確かに歴史史料に関する事が書かれています。同名別人ではありません。確かに國學院大學名誉教授の米原先生です。

    こんなことがあるんですね。驚きました。それを知って、もう一度、史料を確認してみると、そりゃそんな先生の史料なんだから、最初の私の印象も当然ですね。
     どんな風に、研究されているのかと思い、線引きされている様子を見ていました。やっぱり私の方法と同じ、史料中から人物の行動を具に追い、それを抜き出して他の動きと照合する。これをどのくらい精緻に行うか。それしか、研究の方法は無いようです。少し嬉しかったです。私は誰に教えて貰った訳では無いのですが、手探りでやっていただけに、その方法があながち間違いでは無かったこと。

    無数の線引があり、重要部分は赤線
    最近、本当に文化財の破壊が激しく、また、保護や活用の最前線にいる人の深層認識(自治体の担当者や委員)に触れ、非常に杜撰(ずさん)であること。それを改善しようともしない現実を目の当たりしに、少々めげていたところもあった中での出来事です。
     それも、見つけたハガキの日付にとても近い日に史料を受け取り(同じ日だったらドラマチックだったけど...)、何だか暑中見舞いを受けたようなタイミングでした。

    写真のように、もの凄く沢山の線引きがあるので、消しゴムで消しています。何年ぶりに消しゴムをこんなに使うだろう。消さずに、先生の情報を活用すればいいのですが、やっぱりこれ程に沢山あると、私の視点が定まらず、少し邪魔になりますので、消したいと思います。後で消せるように鉛筆で書かれているのも、そういう配慮だと思います。私は私の視点で、史料上の要素を追いたいと思います。

    それにしても驚きました。本当に驚きました。もの凄く希なご縁だと思います。これからも私の研究を頑張ります。