2023年1月14日土曜日

摂津国河辺郡(現兵庫県川西市)にあった、新田(多田)城を考えてみる

ずっと気になっていた地域を訪ねました。令和5年の初詣に兵庫県川西市平野にある、平野神社を訪ねました。気持ちの良い素晴らしい神社でした。その折のブラ歩きで、新田城跡も知る事ができました。
 荒木村重の統治や天正6年の村重の織田信長政権から離叛した事による争乱について知るための非常に重要な地域です。また、細河庄との境界の情況について、その周辺情況も、しっかり見ておかないといけないので、気になっていました。

兵庫県川西市にあった、新田(にった:しんでんとも)城は、凄い城でした。塩川氏が山下に本拠機能を移す以前は、新田城が塩川氏の拠点城でした。あまり調べずに、別の場所を目的に訪ねた折に、偶然、気になった所がその城跡だったので、よく調べて、近日に再訪したいと思います。その下調べ的に、このこの記事を出しておきます。

いつものように、以下、村と城についての資料をご紹介します。
※日本城郭大系12(新田城)P330
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新田(しんでん)城は、別名「多田城」ともいい、旧多田新田村にあった。この地の東側に塩川が流れ、西側から南側に猪名川が流れて村の東南隅で合流している。広義の新田城とは、この二つの川に挟まれた地を指し、承平年間頃、源(多田)満仲およびその御家人(多田御家人)が集落を作り、代々住んでいた所という。
 しかし、一般的にいわれている狭義の新田城は、このうちでも特に軍事的な防御施設のあった所で、東部塩川沿いの丘陵部をさしている。この付近は、多田御家人中でも有力者であった塩川氏が代々守り”常の城”を置いていたが、天正年間(1573-92)の伯耆守国満の時、北方の山下城を本城とした。この頃も新田城は存続していたらしく、同6年(1578)の荒木村重の叛乱によって多田城・多太神社をはじめ、付近一帯が焼き打ちに遭っている。「明治8年新田村地字図(『川西市史』所収)」には、城跡の中心部に「城山」「城山ノ下」「城ノ下」「東堀」などの字名が見られ、昭和30年頃まで、田畑の土手に等間隔に並んだ疎石が残っていて、城壁跡といわれていた。現在、丘陵上は宅地化され、多田グリーンハイツとよばれているが、南麓に奥行き5-10メートルの削平段が数カ所と、下方に幅6メートル・深さ5メートルの竪堀跡と思われるものが残っている。
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新田城山公園という公園があるのですが、そこから東向きに丘陵を利用した城であるようです。また、塩川を超えた直ぐ東側にもある上津城と連動した機能を持っていたと考えられており、両城の間にある、塩川と能勢、妙見方面へ通じる重要な街道を監視するようにそれぞれ立地します。

続いて、地史としての、いつもの平凡社の地名シリーズ該当記事です。
※兵庫県の地名1(川西市新田村)P384
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新田村(現川西市新田1-3丁目、平野2丁目、多田院1丁目、向陽台1-2丁目、緑台2丁目、新田)
多田院村の東、猪名川と塩川にほぼ囲まれて立地する。多田の開発に伴う地名と考えられ、元禄11年(1698)の国絵図御用覚(多田神社文書)に「ニッタ」の訓がある。

 享徳元年(1452)12月29日の沙弥本立売渡状(同文書)に「多田庄新田村」とあり、多田院千部経中に村内高岡西窪を3石5斗で売渡している。文明8年(1476)高岡仲明が多田院御堂修理料として新田村内の木村屋敷前の田を寄進している。(同年10月8日「高岡仲明寄進状」同文書)。
 「細川両家記」によれば、永正16年(1519)秋、細川高国は都を立ち、越水城(現西宮市)の救援のため小屋・野間(現伊丹市)や新田・武庫川に陣取り、澄元方との合戦に及んだという。明けて1月、今度は澄元方が小屋や新田に陣取り、合戦したという。
 天文16年(1547)又六兵衞が多田院に羅漢供田として「新田村之内馬場」垣内加地子4斗を寄進している(同年7月6日「又六兵衞寄進状」多田神社文書)。この内馬場を現猪名川町域の内馬場とすると広域すぎて妥当ではない。
 天正10年(1582)9月1日の多田院・新田村際目注記案(同文書)によると、当時、新田村が東順松下町の際まで自領内として押領したため、多田院と新田村との間で境目論争が起きた。寺家より往古の支証を出し、塩川城に新田村在所の年寄どもや寺家僧衆が登城し、双方の言い分を聞いた上で、上寺の東は三間ほど、北は山の際の横大道・平野への横道を限って寺領内とするという裁定となった。

 なお、弘治4年(1558)山問頼秀は長谷乙浦山に関する平居・新田両村の山手代を万願寺に寄進している(3月11日「山問頼秀寄進状」万願寺文書)。
 城山之中にあったとされる新田城は、多田城ともいい、塩川氏の居城とされる。のち国満のとき、山下に新たな城を築き移ったと伝える。現在遺構は消滅したが、城跡中心付近には城山・城山ノ下・城ノ下・東堀などの字があったといわれる。
 慶長国絵図に村名がみえ、平野村と併記されるが、村高は116石余であろう。領主の変遷は、寛文2年(1662)まで矢問村と同様で、同5年以降は多田院領として幕末に至る(川西市史)。寛文5年、四代将軍徳川家綱は、多田院社領として新田村の116石余を含む500石を寄進、同11年の社領寄進の将軍判物(写、多田神社文書)がある。多田院領の当村など三ヵ村では、享保9年(1724)に風損による年貢米25石余の引下げをはじめ、同17年に虫害による同じく62石余、元文5年(1740)には洪水により、明和8年(1771)には干損のため、天明2年(1782)には水害などと災害による減免を出願してきたが、天明6年には前代未聞の凶作として年貢引方を願出ている(清水平文書)。浄土宗宝泉寺がある。
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『兵庫県の地名1』中で、「のち国満のとき、山下に新たな城を築き移ったと伝える。」との伝聞が伝えられ、加えて、『日本城郭大系12』には、「天正年間(1573-92)の伯耆守国満の時、北方の山下城を本城とした。この頃も新田城は存続していたらしく、同6年(1578)の荒木村重の叛乱によって多田城・多太神社をはじめ、付近一帯が焼き打ちに遭っている。」と、焦点を絞り込んでいます。
 天正年間に移ったキッカケは、山下付近で、鉱山開発が行われたために、本城を移したと思われます。荒木村重が天正元年から、織田信長権力の下で信任を受けて頭角を顕し、実質的な摂津国守護になっていたため、次第に国内が平定される中で、軍事・経済分野においても再構成がされつつありました。
 これも伝聞の範囲で今は収まっているのですが、『兵庫県の地名1』川西市笹部村の項目には、天正2年に河辺郡笹部村を分離して山下町を作ったとされ、この山下に城(元々支城などがあったのかも)を作り、町には吹場が集約されて鉱山関係者の居住地としたとあります。
 織田政権下で成長した荒木村重権力の下に入った塩川氏が、状勢の変化により、拠点を移したと思われます。因みに、この年、荒木村重もそれまでの拠点であった池田城を畳み、伊丹に新たな城を築いて、ここを本城としています。有岡城です。村重の領内は、天正2年から翌年にかけて、大規模な軍事拠点の再編成が行われていますので、多分これに伴う動きが、新田城から山下城への変遷にも関わると考えられます。

ということで、ザッと思いつく所をまとめてみました。また、詳しく現地を訪ねて、地形などを見たいと思いますので、その折にまた、この記事を補足します。

 

 
 

2023年1月5日木曜日

【後編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要

 質問があり、その回答旁々、FBにだけ投稿していた記事をこちらにも掲載しておきたいと思います。白井河原合戦についてのダイジェスト版(後編)です。ご活用下さい。

先日お伝えしました、白井河原合戦(大阪府茨木市耳原(みのはら)付近)の続報です。幕府の重臣、将軍義昭の側近であった高槻城主和田惟政が、8月28日の合戦で戦死し、その後の流れをお伝えします。
大将の和田惟政が、三好三人衆方摂津池田衆に討たれ、瞬く間に近隣周辺は、池田方の手に落ちてしまいます。池田衆は、和田惟政やその主立った武将の首を持って、高槻城などに押し寄せます。その首を城外から見せつけるように掲げ、歓喜の声を上げたとフロイスの報告にはあります。首は、色々な場所、見せる必要のある城に持っていったようです。
 フロイスはこの時、合戦場から12キロメートル離れた、河内国三箇(サンガ)の教会(現大阪府大東市)にいたところで、この報に接したようです。何が起きているのかを確認するために、高山飛騨守のもとに使いを遣り、その日の午後には戻って、詳細を聞いたとしています。この日、朝から晩まで銃声を聞き、飯盛山(城)に上ると、2日2晩、高槻方面が燃えるのを認めたとあります。
しかしながら高槻城は、辛うじて落城を免れています。
以下は、その確認を元に、フロイスが報告を送っている内容です。


『耶蘇会士日本通信』1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰条
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(前略)総督(和田惟政)の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)総督の首級は、他の武士一同(主な和田方武将)と共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり。
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そして以下は、時系列で白井河原合戦が終息するまでを一覧にします。11月頃までは、戦闘状態が続いていました。土地勘は地図をご参照下さい。
 総合的には池田勢が勝利し、三好三人衆方が京都に迫る勢いでした。加えて、松永久秀など、奈良方面から北上する三好三人衆方一派もありました。更に、近江国方面からも朝倉・浅井勢が京都を覗う動きを見せていました。大坂本願寺も三好三人衆方です。
この情況で、摂津池田衆は、本拠の豊嶋(てしま)郡から、東側に大きく版図を広げることとなり、歴代池田家の最大の領域を手に入れます。


<8月>---------------
 28 幕府衆三淵藤英、夜半に摂津国高槻城へ入る
 29 三好三人衆方池田勢、白井河原周辺の諸城を攻撃を始める
<9月>---------------
   1   摂津池田勢、摂津国茨木城とその領内を攻撃
   2   摂津池田家家臣中川清秀、摂津国茨木城を領知する
   5  摂津池田勢、大挙して摂津国高槻城を攻める
   6   池田勢、戦闘に敗北
   9   摂津国高槻の攻防について交渉が整い、一時的に停戦となる
 中 摂津池田衆内吹田氏、摂津国吹田城に復帰?
 11 織田信長、近江国三井寺へ入る
 12 織田信長、比叡山を焼き討つ
 13 織田信長入京
 24 幕府衆明智光秀勢、摂津国(高槻)へ出陣
 25 幕府衆一色藤長など、摂津国(高槻)へ出陣
<10月>---------------
 10 摂津国池田家臣の中川清秀、摂津国欠郡新庄城へ入る
   9   摂津国高槻の付城に三好三人衆方三好左京大夫義継が入る?
 14 織田信長、幕府衆細川藤孝へ山城国勝竜寺城の普請について音信
 26 織田信長勢先鋒、京都へ入る
<11月>---------------
   8   摂津池田衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
 14 織田信長、摂津守護伊丹忠親へ通路封鎖を行うよう通達
 15 三好三人衆方松永久秀、摂津国へ出陣
 17 但馬守護山名祐豊、丹波国へ侵攻

 


 

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【前編】白井河原合戦(1571(元亀2)の摂津郡山合戦)概要

質問がありましたので、FBにだけ投稿していた記事をこちらにも掲載しておきたいと思います。白井河原合戦についてのダイジェスト版(前編)です。ご活用下さい。  

近年、少しずつ知られるようになりました、白井河原合戦(大阪府茨木市耳原(みのはら)付近)ですが、この合戦は、単なる地域戦ではなく、将軍義昭・織田信長政権に対して、政局を変える事になった大戦でした。
 「白井河原合戦」とは、後年につけられた名前で、毛利家中でまとめられた『陰徳太平記』や豊後竹田家の中川家でまとめられた一家記(中川史料集)などで使われた言葉です。その時の既述が、順送りで現代に伝わっています。当時は、「郡山合戦」「宿久河原合戦」と呼ばれ、概ね実際と近い場所を呼称としています。
 合戦場所の呼称、江戸時代に書かれた、物語風の脚色が、白井河原に焦点を当てるため、幣久良山(てくらやま)眼下の川が主戦場のように意識されているのですが、これは事実からすると、違います。
主戦場は、あくまで幣久良山から西側の約2キロ程の地点です。幕府方大将の和田惟政は、ここで戦死しました。和田惟政の一団約200名は、三好三人衆方池田勢の鉄砲300丁の斉射を受けて、対戦した時点で、ほぼ壊滅状態でした。池田方は、囮として前哨させた荒木村重一千名程を前に立て、和田方を引き出し、西側に出てきたところで、丘に隠していた二千名が現れ、ここで鉄砲の斉射が行われます。
以下、当時の様子の記録、抜粋です。


『耶蘇会士日本通信』1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰
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(前略)翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)
 総督(和田)は大臚勇猛にして、部下には五畿内中最も鎗に長じ、又、武術に達したる武士200人を有せしが、時なかりしを以て当時、城内に在りし700人の兵士を率いて急に出陣するの外なかりき。(中略)敵が如何に多数なりとも少しも恐れず、新城に達する前約半レグワ(約2キロメートル)の所にて敵を認め、一同を下馬せしめ、徒歩にて来れる其の子の後陣を待たず、彼の200人を率いて敵を襲撃せり。
 彼は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。
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この結果、和田方は、地域統治ができなくなり、そのまま一気に、京都への侵攻が現実味を帯びました。その結果、京都防衛の拠点、勝龍寺城(京都府長岡京市)の大幅な防備強化を行い、現在の城の形態は、この頃に起源があるとの見解を示しています。
また、この大合戦の周辺環境も将軍義昭・織田信長政権の空白で、弱り目でした。以下、箇条書きです。

  • 伊勢長島での本願寺門徒の蜂起(5月) ※本願寺衆の各地での蜂起
  • 松永久秀の反幕府行動の活発化(5月)
  • 幕府方毛利元就死亡(6月)
  • 六角承禎など近江国内で活動を活発化(7月)
  • 比叡山焼き打ち(9月)

この情況で、白井河原合戦は行われており、後に明智光秀によって起こされる「本能寺の変」に近い意図がありました。相手の弱り目で、大挙決戦を挑む。池田衆は多分、この情況(将軍義昭・織田政権の)を情報として知っており、この大きな流れを作っていたのが、近衛前久でした。この時は、大坂本願寺内に居り、全体を繋ぐ役割と地位にいたようです。

兎に角、この白井河原合戦前後で、地域統治のための多くの人材を失い、将軍義昭・織田信長政権は、京都確保が難しくなり、9月の比叡山焼き打ちは、この事態打開のため、強硬策に出たと考えられます。戦争は、人材を失う事が策としての難点です。

 


 

 


 

 

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2022年10月29日土曜日

何と!真言宗御室派大日寺に、戦国時代の武将松永久秀崇拝の毘沙門天が安置されている!よく知っているところだったのに、知りませんでした!

摂津池田家の事とは、直接的な関係が薄いのですが、接点が無くもありません。摂津国内の東南端の地域で新開池に沿う、水際の港町であり、「渡し」がありました。
 また、ここは元亀元年(1570)の本願寺宗蜂起の折に、支城があった場所とも伝わります。川沿いに、南東に一里程先の摂津国森河内村の砦と連携していたと思われます。
 こんな要地ですので、大坂の陣の時もここに陣所が置かれ、それを巡って合戦もありました。

これらの要素について、遠からず、近からず、摂津池田との関係も無くはありません。

さて、この鴫野という場所は、私が子供の頃によく行った場所であり、様子をよく知っています。友達もいました。八剱(やつるぎ)神社のお祭りにも行き、地蔵盆にも行き、楽しい思い出もあります。
 令和3年(2021)の正月の初詣に、思い立って、久しぶりに八剱神社を詣でました。子供の頃とは違う視点で色々なものを見ると、何と!八剱神社に隣接する大日寺は、松永久秀が崇拝していた毘沙門天像が安置されているとのこと。とても驚きました。
 新開池は、深野池を経て、河内国飯盛山城につながっており、城から直接的に大阪湾に出る事ができる大動脈を活用して、戦国時代には、周辺地域が大変栄えました。
 松永久秀が崇拝した毘沙門天(像)とは、そういった情況によるご縁があったての事でしょう。

以下、大日寺に掲示してある、城東区役所による看板の内容です。

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弘仁年間(810〜824)、弘法大師様巡錫(じゅんしゃく)の折、鴫野に園女という女性がおり、既に二児を出産したものの、再び難産を経ねばならぬことは死の思いがいたしますと、お大師様にお助けを願ったところ、世の女性の難産を除くために一刀三礼の大日如来の像を刻み、大日寺を建立されたといわれています。
 大日寺は鴫野の村寺として、村の人達に大切に守られてきました。豊臣秀吉も大坂城築城の折、鬼門除けにお詣りをし、境内で休憩を取ったと伝えられています。江戸時代に編纂された書物「摂陽群談」「摂津名所図会大成」にも「大日堂」としてその名が見え、「子安の大日」として広く信仰されたことが記されています。摂津の国中の人が参拝して賑わい、毎月二十一日にはお大師様詣りの人々が一日中絶えなかったそうです。
 本堂にはご本尊子安大日如来(秘仏)のほか、如意輪観音、弘法大師、不動明王、阿弥陀如来、釈迦如来、役小角行者、女神等が並び、戦国時代の武将松永弾正少弼久秀崇拝の毘沙門天も安置されています。
 境内には小ぶりながら大坂冬の陣時代よりさらに古い時代のものではないかといわれる宝篋印塔もあります。
 ご宝物に徳川五代将軍綱吉の息女がお産の折、安産のお礼に奉納したと伝わる葵紋入りの戸帳、紀州徳川家より寄進されたと伝わる、お香入れ江戸時代の大般若経六百巻などがあります。
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それから、この大日寺のある鴫野村について、基本的な情報をいつもの様に、平凡社の地名シリーズから抜粋してご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)城東区鴫野村条

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(現)城東区鴫野西1〜5丁目、鴫野東1〜3丁目、中浜1丁目、東中浜1丁目
新喜多新田の南にある。宝永元年(1704)に大和川が付け替えられ、新喜多新田が開発されるまでは、村の東から北へ大和川が流れ、北は今福村・蒲生村に対していた。村域東端の旧川沿いに集落がある。また、村西端で平野川・猫間川が合流、鴫野橋の下手で寝屋川に注ぐ。村北の川筋には剣先船の船着き場があった。「熊野詣日記」に、応永34年(1427)足利義満の側室北野殿の一行が熊野参詣の帰路「しきののわたり」を船で渡ったことがみえ、水上交通の要津であったことをうかがわせる。天文20年(1551)2月16日、本願寺証如の一行は「シキノツツミ」へ土筆取りに出かけており(天文日記)、当地付近は石山本願寺(跡地は現東区)の勢力下にあったとみられる。元亀元年(1570)に始まった石山合戦の時には本願寺側の五十一ヵ所の端城のひとつが置かれ(信長公記・陰徳太平記)、城中では食糧の時給が図られ、付近の門徒農民は本願寺に兵糧を献じたと伝える(城東区史)。しかし城の位置・守将などは不詳。慶長19年(1614)大坂冬の陣には、今福堤とともに鴫野堤にも西軍の柵が設置され、大野治長の銃隊長井上頼次の兵二千余人が守った。11月26日、東軍上杉景勝は四千人の兵を率いて鴫野口に迫り、井上頼次は戦死、柵は東軍が奪った。しかし今福堤の後藤基次隊の援護により西軍は再び柵を奪回、更に28日には東軍堀尾勢が鴫野口を攻撃、29日、西軍は鴫野・今福の営舎を焼き払って備前島(現都島区)に退いた(大坂御陣覚書・長沢聞書ほか)。
 文禄3年(1594)に検地が行われ、当時の村高714石余・段別51町3反余(田方47町5反余・畑方2町8反余・屋敷地8反余)、総反別に占める上田・中田の割合約8割(延宝7年「村検地帳」八剱神社蔵)。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領、その後幕府領のまま幕末に至ったとみられる。元和初年の摂津一国高御改帳には「志宜野村」とみえ高736石余。延宝7年(1679)の検地帳によると、同年の新検により村高は991石余・反別73町2反余となった。また名請人102人のうち隣村中浜村からの入作21人。当村百姓81人のうち100石以上の高持ちが1人、20石から100石が11人、5石から20石が29人、5石以下40人(うち1石以下15人)。なお村高はこの後若干減少。寛政4年(1792)5月、大雨で田が冠水、役所へ報告したところ、排水用の惣踏車人足調達法の不備を指摘され、高持・小作126人が始末書を提出した(川原家文書)。周2町以上の池に角田池・ツキウス池・新五郎池など41池があり、池底の泥土は肥料となったという(東成郡誌)。鴫野橋付近には悪水状樋があったが、慶応2年(1866)の大雨で破損した時には、奈良街道(暗峠越)以北の平野川・寝屋川に囲まれた村々が浸水した(近来年代記)。鴫野橋(現東区の新鴫野橋)は長さ29間余・幅2間の公儀橋で(文化3年増修改正摂州大阪地図)、京橋から筋鉄門を経てこの橋を渡ると当村と一部地続きの弁天島(明治2年当村に編入。現東区)に至る。弁天島から寝屋川南堤を通って当村集落部に至る道からは、北西方面に有馬富士が見え(浪花のながめ)、「浪華の一奇」(摂陽奇観)といわれた。
 鎮守社の八剱神社は、速素戔嗚命ほか五神を祀る。大坂冬の陣では、東軍佐竹義宣の陣所が置かれ、兵火で社殿を焼失したという。真言宗御室派大日寺は同社の神宮寺と考えられ、空海の創立と伝える。本尊大日如来は安産の守りとされ、子安の大日と号した。至徳山聞通寺は真宗大谷派で霊松寺とm号したという。梅影山来通寺も真宗大谷派、松樹山光曜寺は真宗仏光寺派。「摂陽群談」には村内に源頼光が戦勝を祈願したという袋中庵を記すが、「摂津名所図会大成」には廃されて旧跡もわからないとある。
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本当に、この出会いには驚き、年初から縁起の良い発見とご縁でした。しかも、宝栄山 大日寺の宗旨は、真言宗御室派で、私の家の宗派です。これが、一番のご縁だった...。

この小さな記事が、またどこかと繫がり、次第に大きな縁になって行くのでしょう。どんな事でも結局は、ひとつの流れになっていますね。これからもコツコツと目標に向かって糸を紡いでいきたいと思います。

 

 






2022年10月26日水曜日

高山ユスタと摂津余野・池田氏の関係を考える

 高山ユスタ生誕地の碑が大阪府豊能町余野に建てられています。ここは中世、余野氏が居城したといわれる余野城があったところでもあります。余野氏は在地の有力者で、周辺の野間氏や能勢氏とともに「能勢の三総領」と称されていた能勢一族衆でした。
 そんな余野氏が、摂津池田氏と高山右近とを結びつけていたとする記録が残っています。当時、日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスなどによって見聞きした出来事が記録されており、有名な『フロイス日本史』にまとめられています。

第三十九章「沢・余野及び大和国十市城の人々の改宗について」の中で、高山マリアとユスタの事が詳しく記されています。文が長いので、関係記述のみ箇条書きにしておきます。
 

  • そこには比丘尼(ビクニ)が大勢いた。そのうちの幾人かは、クロダ殿(余野蔵人)の奥方の親戚であった。奥方(マリア)は、その家柄からいえば、まことに高貴な人で、池田殿(当主は長正?勝正?)と称して、その国の最大の殿の一人の正当な娘であった。池田殿の家は天下に高名であり、必要とあればいつでも五畿内きっての極めて優秀な、万全の装備の整った一万の軍隊を戦いに繰り出したものであった。
  • この奥方の長女(ユスタ)と結婚(相手は当時13~4才の高山右近殿)した。
    ※高山右近は、1552年(天文21)生まれとされるので、1565年(永禄8)頃の結婚と考えられる。
  • 織田信長が、荒木との戦いの結果、信長は、池田の所領全部を他の諸侯に与え、この奥方の所領であった余野もその中にあった。その結果、彼女は追われて、困り果てたあまり高槻へ行った
  • 右近殿と彼女(マリア)の娘ユスタとが、高槻城主となっていた時、この母親(マリア)はもう大人になっていた息子達と、彼女が二度目の夫(蔵人殿の弟)から得た小さな他の子供達に伴われて、高槻に来たのであった。
  • 彼女(マリア)を襲った病気によって、デウスが彼女を御許にひきとりたもうた時、彼女はやっと四十歳くらいであった。
  • 信長が殺されたのと同じ年(1582年:天正10)に、その後継者である羽柴筑前殿が越前の国に攻め入って...。
    ※羽柴秀吉が越前国を攻めたのは、天正11年であるので、山崎合戦(天正10年6月)と混同しているのかもしれない。
  • マリアの年長の息子二人と、その年にキリシタンとなっていた彼女の夫(蔵人殿の弟)も一緒に同じ戦争で死んだので、マリアには三人の娘が残るばかりになった。皆キリシタンで...。
    ※賤ヶ岳の戦い(1583年:天正11)を経て、北ノ庄城の本拠で柴田勝家は自害して、一連の戦いは終わる。主要な衝突は賤ヶ岳合戦であり、この戦いでは、摂津国衆として高山右近・中川清秀が出兵し、その内清秀が戦死。その中に余野氏も含まれたのかもしれない。


とあって、その当時の様子を詳しく知る事ができます。
 また、この一連の高山マリア・ユスタに関する記述の中では、摂津池田氏の事についても興味深く記されています。マリアは、後に高山を名乗るようになったとしています。マリアは、四十歳くらいで亡くなっているようです。

永禄7年(1564)正月、余野城主余野氏が、縁戚にあたる高山飛騨守ダリオ(右近の父)の紹介を受けた、日本人宣教師ロレンソを城内に招き、城内に人を集めて宗教論争が展開されました。そして論争を終え、これを期に「蔵人殿」は、妻・子・兄弟・家臣など53名とともに受洗したと記録されています。
 余野には今もその城跡の梺に「オヤド」と呼ばれる小字があり、ここにかつては客を止める施設があったと考えられています。この場所で「宗教論争」が行われたと地元の研究家は考えておられます。そこに碑が建てられています。

追伸:永禄11年(1568)10月2日の織田信長による池田城総攻撃で、池田方として討死した足軽組頭「高山門内」は、この池田家と余野家から高山家に繋がる関連の人物だったのだろうかと少し気になっています。

 

 

大阪府豊能町余野にある高山ユスタ生誕地碑


大阪府豊能町にある摂津余野古城跡


大阪府豊能町高山にある伝高山マリア墓(摂津池田城主娘)

2022年10月17日月曜日

摂津池田家中の有力な家系、筑後守家と遠江守家について

1570年(元亀元)6月18日、摂津池田家中で内訌が発生し、官僚機構でもある池田四人衆の内、惣領池田筑後守勝正親派であった、池田豊後守正泰、同周防守正詮が殺害されて、事態は紛糾。勝正自身が城を出る程に深刻化しました。
 四人衆の構成員でもあった、豊後守正泰と周防守正詮が死亡したのは、その原因が定かではありません。勝正を裏切ったことにより、勝正自身が殺害したのか、勝正と対立する誰かによって殺害されたのか、真相は分からないのですが、私は、後者の理由によるものではないかと思います。反勝正派によって、勝正の側近が殺害されたと見ています。

また、この内訌後、間もなく、「民部丞」を名乗る人物が、勝正の後任として活動していることが見られ、これは池田家中の政変の度に見られる、遠江守家と民部丞家の人物であることから、この時ももう一つの有力家系である、遠江守家と民部丞家の台頭(活用とも)があったと思われます。
 殺害について、遠江守家グループを支持する人々による同意もあったと思われます。これにより、当主の殺害を避けつつ、家中での勝正親派を粛正し、強い意味を内外に表明したのだと思います。

時間を遡れば、勝正の惣領擁立自体も、四人衆権威の影響が大きく、勝正の惣領就任時の1563年(永禄6)3月にも内訌があり、四人衆の内、池田山城守基好、同十郎次郎正朝など8名が殺害されています。
 新たな惣領の就任時には、反勢力の整理が行われていた経緯もあるように思われます。

勝正の場合、惣領そのものの殺害が行われなかったのは、やはり、当時も主殺しは外聞が悪く、池田家の将来にも関わるブランド力の毀損に繋がる事を考えての事だと思います。もちろん、人情もあったでしょう。

勝正の動きを総合的に見れば、その前の惣領(信正・長正)に比べると、四人衆による後見の影響力が強い惣領権力であったと思われます。
 一方の四人衆は、自己の富裕と家系の存続は、運命共同体であり、この池田家を存続させなければ、自身の栄誉はありません。
 そのため、対外的な要因と、家中の欲求との整合性を合致させる必要があり、家中に対して、決断に対する説得力を帯びさせる工夫が必要になります。それが両立できなければ、承服されません。

特に家中騒動という、非常事態で常に表出するのが、筑後守系と遠江守系の有力両家の補完対処です。これは、実力のぶつかり合いと競争で、その時を凌ぐというよりは、四人衆という官僚組織が創設されてからは、半ば、お決まりのパターンのようになって、入れ替えが行われているように感じる情況も見られます。これは、深刻な家中対立を避ける意味があったのかもしれません。加えて、対外対応(混乱が長期化すれば攻め込まれるなどの懸念も)でもあり、家中の説得でもあったのではないかと思われます。
 現代社会でも使われる「二大政党政治」のような感覚かもしれません。

池田家を構成する人々に説明し、組織存続を図る基本要素を、方策を用いてその場を治めるには、この二大勢力の使い分けは、有効であったと思われます。これが、池田家政の官僚化の中で現れた現象ではないかと思われます。
 池田家が富裕になり繁栄するにあたり、上位権力との結びつきも年々深まるようになっていました。幕府の官僚機構との接点(天文21年2月13日付の本願寺日記では、飯尾新七郎なる人物が記録され、池田十郎兵衞の弟で、与力である。、としています。)もあった可能性もあり、制度の取り込みも行って、池田家中での応用も行われていたのかもしれません。
 次第に家政機関による内政の技術力も向上していたと考えられ、権限の集中や、より権威を高める動きもあったと思われ、惣領を決める上で、四人衆の権力体としての発言力の高まりが想定できます。

1570年(元亀元)6月、惣領筑後守勝正追放直後の7月、9月、11月に見られる「民部丞」による禁制は、池田家権力とも親密な場所である重要度を考えても、様式も踏襲されており、惣領格の人物です。しかしそれが、一旦廃されたと思われる動きを経て、再び元亀3年11月に民部丞が幕府に惣領として申請されて許されるに至っては、家中の権力の整理が行われたと思われます。その頃、池田四人衆を改め、欠員2名を補充せずに荒木村重を加えた3名体制となっていたのですが、この三人衆が、分裂します。血縁を持つ池田一族と新参の荒木村重などとの対立が深刻化します。
 民部丞を惣領として立て、遠江守も、池田家の重要人物として史料に見られるようになり、活動している様子がわかります。
 記録としては、対外的な文書によるものから類推する事になりますが、対外的な行動の前に、必ず身内での合意を取り付ける必要がある事から、それらは、一体化した行動であり、対外的なやりとりの文書の中に、その様子を読み取ることができると、考えるべきでしょう。

 

池田城跡公園(大阪府池田市)

摂津池田城の想像模型 



2022年10月14日金曜日

摂津池田家惣領家(筑後守)の幼名は「太松丸」である可能性

数年間、サボっていた調べ事も、最近また、気持ちが向くようになり、このやりかけた調べ事をなんとか終わらせて、後世の役に立つカタチにしなければと思うようになりました。
 自分自身の興味を書き綴り、自分の頭の中を整理しつつ、皆さんに紹介するというスパイラルを作るのも、良いように思います。

さて、今回は、池田家惣領家系の筑後守の幼名は「太松丸」読み方が判りません。「たしょうまる」でしょうか。「たしょうがん」という薬みたいな呼び方では無かったとは思います。さて例えば、こんなシーンを想像してみましょう。
 小さな子が、何か良くないことをしようとして、その親が声をかけます。「これ、ふとまつまる(太松丸)!」...。ちょっと違う気がします。一方、「これ、たしょうまる(太松丸)!」これならシックリ来るような気がしますよね。こんなのファンタジーの世界ですが...。

近年すっかり、馬部隆弘先生のファンになり、色々と論文を読んでいます。馬部さんは凄いです。もの凄く深い。そして広い。私がこれまでに疑問に思って放置していたことが、馬部先生のお陰で、次々と解け、目が覚め、暗闇で光を見るような心地です。

そんな喜びに包まれる中で、この気付きも永年の疑問にヒントを与えてもらった要素の1つです。史料を三つご紹介します。
※以下それぞれの史料中、「太松丸」の記載は赤色文字で強調表示してあります。

--(A:永正5年(1508)8月10日)----------------------------
毎々申し遣わし候。其の方儀、油断無く相調えられるべく事肝要候。此の方の事は、別儀無く候。猶与利弥三郎(不明な人物)申すべく候。謹言。
※細川六郎澄元、摂津国人三宅出羽守、宿久若狭守、瓦林九郎左衛門、原田豊前守入道、福井三郎、池田太松丸、芥河豊後守入道宛の音信
【出典】新修広島市史6(資料編 その1:知新集)P222、戦国期細川権力の研究P207
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--(B:天文17年(1548)6月29日)----------------------------
一、大門役 波多野孫四郎・香西越後守、一、小門役 芥川孫十郎・山中橘左衛門尉、一、裏門役 池田太松丸、一、楽屋奉行 山中新佐衛門尉、一、惣奉行 塩川伯耆守・三好宗三、一、御進物奉行 飯尾上野介・茨木伊賀守、一、供物奉行 垪和道祐・高畠伊豆守・田井源介・平井丹後守・波々伯部伯耆守、一、御膳奉行 波々伯部伯耆守・中條五郎左衛門尉、一、諸衆相伴 波多野孫四郎・長塩民部丞、一、御走衆相伴 山中新左衛門尉、一、侍雑司相伴 豊田弾正忠、一、御酒奉行 安久良紀伊守・筒井神介・穂積右衛門尉、一、蝋燭奉行 吉阿、一、御折奉行 平井丹後守・飯尾越前守、一、御茶湯(御前) 伊阿、一、惣茶湯 残り同朋衆(但今度者御寺の、以下欠)、一、灯台請取 作阿・慶阿、一、年行事 長塩民部丞・柳本孫七郎、一、御成門 飯田蔵人・撫養掃部助、一、官女間 安成若狭守・秋山勘解由左衛門尉、一、兵庫間、嶋田若狭守・中村加賀守・第十加賀守、御対面所 澤田新左衛門尉・鶏冠井六介、一、十八間 波々伯部源五郎・望月太郎左衛門尉、一、三間 入江四郎左衛門尉・中村式部丞・山本与四郎、一、屏中門番 藤岡三河守・原田孫九郎・待井孫七郎・竹田六八・中澤与五郎・竹田修理亮・今井八郎左衛門尉・石柴左京進・藪田左馬允・友成与五郎。

【出典】戦国期細川権力の研究P443、続群書類従35(武家部)P221(『天文(十)七年細川御成記』「御成役者日記」条)
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--(C:天文17年(1548)8月12日)----------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正:宗田)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者、三好宗三(政長)相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物(ぞうもつ:隠す・賄賂を受け取る・盗んだもの・不正手段によって得た物)相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木ノ本に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政長父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、細川晴元方近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言。

【出典】戦国遺文(三好氏編1)P79など
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(A)の史料は、細川六郎澄元が、摂津国人三宅出羽守、宿久若狭守、瓦林九郎左衛門、原田豊前守入道、福井三郎、池田太松丸、芥河豊後守入道へ宛てて音信したものです。
 この時期、管領細川氏家督を巡り、激しい内部闘争を繰り広げており、細川澄元方として池田城を頼み、籠城していたのですが、池田家中の有力者で同族の遠江守正盛が、寄せ手の細川高国方に内通したため、池田城は陥落しました。城主(惣領)である筑後守貞正は、切腹して果てました。
 しかし、嫡子や妻など近親者は落ちのびています。この筑後守嫡子(太松丸)など、澄元方の摂津国人に宛てて細川澄元本人が、池田城陥落直後に音信しています。

(B)の史料は、天文17年6月に将軍義晴が、管領細川晴元邸を訪ねた時の記録です。
 この頃、管領細川晴元(澄元嫡子)が、側近の三好政長の讒言を真相確認をせずに聞き入れ、晴元の中心でもあった、この当時の池田家当主、筑後守信正を切腹させてしまいます。突然の切腹で、思い通りの後継者も育っていない中で、、急遽、惣領として立てられたのが「太松丸」でした。筑後守信正は、晴元邸で切腹させされており、その晴元邸に将軍義晴が訪問するという伝統的示威行事に、太松丸は晴元の近臣としての役目を課されていました。その時の記録です。

(C)の史料は、天文17年8月、三好筑前守長慶が、細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉元継・高畠伊豆守長直・田井源介長次・平井丹後守直信へ宛てて音信したもので、長慶が定頼に、三好政長の排除を求めたものと考えられています。
 この一件の真相は、娘を池田信正に嫁がせており、三好政長は姻戚上の義理の父の立場にありました。それを理由に、非常に裕福であった池田家の財産を我が物にしようとする素行があり、日頃から晴元の権力を利用して、池田家の権利などを掠め盗る動きがあったようです。
 これに耐えかねた池田家中は、同じ管領格の細川氏綱(高国弟)が台頭してきた事から、そちら側に未来を見出して離叛します。自衛措置とも言えるでしょう。しかし、タイミング悪く、その行動(蜂起)は鎮圧されてしまいます。信正は、これまでの貢献も考慮して、一度は赦免されたものの、責任を問われて切腹を命じられます。
 この晴元の行動に対して、この当時から重すぎるとの批判があり、摂津国人衆の間で波紋が拡がっており、晴元権力に対する大規模な反発が起きました。これについて、三好政長の同族であった三好長慶が、細川晴元の義父である近江守護六角定頼へ訴え出た時の史料です。

これらの史料により、惣領筑後守家に家督の問題が起きた時には「太松丸」の名が見られる事がわかります。ただ、一応は嫡子での相伝ではあるのでしょうが、その基本を守れない場合には、養子での血縁維持を行っていたのかもしれません。「太松丸」の名乗りは、父母が必ずしも一致せず、その時の事情で襲名するという可能性もあるのかもしれません。
 また、父親が同じでも母親が違う、いわゆる「腹違い」といった情況もあると思います。

それはさておき、この場合の家督選定は、晴元の信頼厚い三好政長の血縁に近い人選を強要されたと考える事は、不自然では無いように思います。不本意ながらも要求された条件を受け入れたにもかかわらず、池田家からの希望を受け入れなかったと、この文面から読み取れるように思います。その後、世論の支持と三好長慶の保護もあり、池田家中は三好政長の一派を池田家から追放しています。
 更につけ加えるならば、当主と一心同体化した、官僚機構(この事態で、もう一つの権力体となった)であった池田四人衆が、家政体制護持のために、別の家督適格者(孫八郎:遠江守家系か)を立てて、「太松丸」擁立派池田長正と対立して、暫くの間、対立構図が続きます。双方に正統を名乗る勢力が並立する期間が出現します。

摂津池田家惣領池田筑後守長正についてトップへ戻る


上京の右京大夫・典厩屋敷付近(2017年撮影)

2022年9月27日火曜日

「公文書管理を考える」と題した国際日本文化研究センター准教授 磯田道史氏(いそだ みちふみ)の講演は、非常に勉強になります。

2018年6月、日本記者クラブにて、「公文書管理を考える」と題したシリーズの公聴会が行われた公開動画です。その4回目に、国際日本文化研究センター准教授 磯田道史氏(いそだ みちふみ)の講演が行われました。文書管理と、印判について歴史的経緯を発表されています。磯田氏は、永年に渡り、NHKの歴史番組を担当されていますので、ご存知の方も多いと思います。

非常に勉強になる講話ですので、皆さんのご参考のために紹介しておきます。

公文書管理について、如何に厳格に行われてきたのかを知る、非常に良いお話しです。今、私たちが目にすることができる、過去の文書は、それを守り続けてきたからであり、整理されていたからであり、また、正確に記録されていたから、過去を遡る事ができるのです。これそのものが、素晴らしい事だと思います。

また、今現在のように、過去は、簡単にどこそこの文書が閲覧できた訳ではなく、このことも、知っておくべき事だと思います。その意味では、文書管理の難しい時代、平和であった江戸時代においても、固有所蔵の文書を見ることは非常に難しく、それでも歴史編纂をを行う事は、非常に難しいことだったことが判ります。

過去の経緯を知り、私たちがこれを受け継いで、次の世代に渡す事は、大きな意義があり、非常に大切な事だと思います。

 



2022年9月24日土曜日

山城国西岡地域にあった勝龍寺城について、その地域公共性、公権の城としての研究

 京都府長岡京市は、歴史的遺物、事柄の保存活用に非常に熱心な地域の一つで、様々な取組を行っており、それを市民へ還元しつつ、活力ある地域活動に活かそうとされています。

その中の一つが、毎年11月に行われる「ガラシャ祭」です。1ヶ月程の期間を設けて、様々なイベントが行われ、中でもこのガラシャ祭は、そのファイナル的な大規模イベントです。長岡京の時代祭的要素もあり、長岡京市に所在した勝龍寺城の城主でもあった細川藤孝の息子、忠興とその妻のガラシャ(明智光秀の娘)を主人公に立てて行われます。それぞれの時代の一団が、市内のメインストリートを練り歩きます。

その勝龍寺城を地域の活性化拠点ともすべく、研究が続けられており、その成果を折々に還元して、城の復元施設や書籍などにまとめられています。
 近年、世界中を騒がせたコロナ禍により、このガラシャ祭も中止されており、本年(2022)は、3年ぶりの開催となり、長岡京市民も楽しみにされているようです。

その中止の期間の間、歴史分野では、イベントの代替企画として、研究者のリレートークや研究成果の講演が行われ、中止期間中も非常に有効的に対処されたと思います。出来ることを考えて、活力の縁が切れないようにうまく企画されたと思います。

 さて、その中止期間中に行われた講演で、非常に興味深い研究発表がありましたので、このブログでも紹介しておきたいと思います。
 中世から近世への移行期、また、これまで考えられていた幕府と地域住民の関係性、遠く離れて暮らす血族と地元の絆が、時代によって、どのように維持されてきたかを一次史料から明らかにされています。
 熊本へ国替えとなった細川家と、その細川家を支える、山城国西岡地域に縁を持つ家臣の関係を解かれています。素晴らしい成果で、これまでの大名像が一変する程です。

これは、私の研究対象である摂津国豊嶋郡池田にも近く、地域性の乖離も左ほど無いと思われますし、通念的には日本全体の文化だったのではないかと思われます。江戸時代の大名は、幕府によって、地縁を切られた、いわゆる「鉢植え大名」と考えられていたことが、大きく変わる事実だと思います。

繰り返しになりますが、摂津池田でも同様の事があったでしょうから、そういった視野も以て、今後は私の研究に活かせるようになり、大変勉強になりました。以下は、その講演の模様です。2時間弱ありますが、非常に有意義な研究成果ですので、是非ご覧下さい。

◎戦国時代の西岡と藤孝・光秀~熊本に伝わった古文書を中心に~
 熊本大学永青文庫研究センター長・教授の稲葉継陽氏
【概要】
戦国時代の乙訓・西岡には、現在につながる集落ごとに国衆(地侍)たちが割拠し、向日宮や勝龍寺城を核にして、ときに「惣国」と呼ばれる自治的組織を創出しました。そこに乗り込んできた細川藤孝は、西岡の国衆、そして地域社会とどう向き合ったのでしょうか。熊本藩主細川家や西岡国衆出身の細川家臣のもとに伝えられた貴重な古文書をもとにお話します。また、西岡時代の藤孝・光秀コンビの活躍についても紹介します。

(公式ユーチューブコンテンツより)




2022年8月20日土曜日

彼ら在地領主達は、なぜ室町時代になって「国人」と呼ばれるようになったのであろうか。『備後の山城と戦国武士』に大きな気付きがありました。

 私が続けている、摂津国人池田筑後守勝正について、関係史料を追い続けています。しかし、在野でもあり、いわゆる素人ですので、その道の勉強をされた方とは、まだまだ知識量の足りないところが多々あります。また、基本的な知識も無い場合があります。あるのは、情熱だけです。
 そういうところを補うためには、やはり学ばなければなりません。その道の先生に教えを請う。先行する諸先輩方に教えを請う。既刊の書物から学ぶ。それらから知識を得るしかありません。

リンゴが落ちて、重力に気付いたように、自分自身が、そのレベルに無ければ、リンゴが落ちたとしても、何も気付きません。自分自身が学んでいなければ、何を見ても、言われても気付きません。だから、知りたければ、学ぶしかありません。

さて、私が史料を読む中で、そういうこともあると思います。知識がないために、気付いていないこと。理解していない事。それをできるだけ小さくしたいと思っています。
 時々は、業界の先生方の論文を読んだり、地域の資料館などで行われる企画展の関連出版物などで、専門家の解説を参考にさせていただき、その意味に気付く事も多々あります。

やはり、当時の法・習慣・宗教などについて、もっと学ばなければと感じます。法によって人々は活動し、宗教によって、精神的な営みを続けているからには、文書の意味、建築物の意匠の意味、生活道具の意味が正確に読み取れません。
 その意味で、今回手に入れた『備後の山城と戦国武士 - 田口 義之著 -』は、私にとって大変気付きの多い著作でした。
 私の一族は、備後国神石郡の出莊で、備後国のことについても興味を持っており、その意味で、購入しました。また、田口氏は憧れの先生でもあるため、どうしても欲しい本でした。(残念ながらこの本は絶版で、今は入手が困難になっています。)

その中で、私の研究にも非常に有用で重要な一節があり、それを改めて意識する論稿がありましたので、忘れないように、該当部分を引用させていただき、ご紹介したいと思います。国人領主の誕生と法について、非常に端的に分かりやすくまとめられています。
 私の中では、当時の法的な分野は、関心が中途半端になっていた要素でした。大切な要素だと思います。

以下、部分引用させていただきます。少し長めです。
※『備後の山城と戦国武士』 備陽史探訪の会 会長 田口 義之著 葦陽文庫刊 平成九年初版発行(現在在庫無し)

---(引用部分)---------------------------
第二章 室町時代の備後
 備後の国人 - 国人領主制の成立と室町幕府 - 
より

◎国人
室町、戦国時代でよく使われた言葉に、「国人」「国衆」がある。国人とは在地の有力武士のことで、守護等外来の支配者と違い、その国生え抜きであることを示したもの。戦国大名毛利氏も英雄元就以前は、安芸国人の一人に過ぎなかったことは有名である。
 むろん、国人は室町時代に入って突然現れたものではない。鎌倉時代の「地頭」「下司」等が南北朝の内乱を戦い抜く中で、一段と強力な在地領主として姿を現したものである。
 だがなぜ、彼ら在地領主達は、室町時代になって「国人」と呼ばれるようになったのであろうか。在地領主という点では、前代の地頭達と似たような存在に思えるのだが、実はこの点に深い意味があるのである。

◎相続法の変化
このことを明らかにするためには、「南北朝の内乱」を一つの節目とした、武士団の変質を理解する必要がある。
 一つは相続法の変化である。鎌倉時代の典型的相続法は「分割相続法」と呼ばれるものであった。これは兄弟にまんべんなく所領を譲与するもので、所領を分与された一族は、惣領(本家)である嫡子の指揮のもと、団結して事にあたった。いわゆる「惣領制」である。
 しかし、代々分割相続によって所領が細分されて行くと、一族を束ねるべき惣領の手元に残される所領は非常に狭いものになってしまい、持続が困難になって来た。又、土地を分与された庶家(分家)も惣領の力が弱まれば、その桎梏(しっこく)から逃れ、独立しようとした。
 そこで、惣領家の力を強め、惣領制を再編するために採られたのが「嫡子単独相続法」であった
 備後地毘莊(じびのしょう:比婆郡高野町から庄原市北部にかけて存在した荘園)を本拠とした山内首藤氏の例では、鎌倉末期の元徳2年(1330)3月、惣領山内通資(みちすけ)は、嫡子通時(みちとき)に「譲状」を与え「庶子等に(所領を)相い分つべしと雖も、分限狭小の間、相分せしめるに於ては上の御大事に逢うべからざるに依って通時一人に所領を譲るものである」と述べ、嫡子単独相続制を断行している。
 この場合、「分限狭小」がその理由に挙げられているが、その真のねらいは、惣領の力を強化し、自立しつつある庶家を再び自己の支配下に収めようとしたものに他ならない。
 この結果、現れたのが庶家の「被官化」、庶家が惣領家の家臣となって行く現象である。

◎庶家の被官化

田総莊(たぶさ:甲奴郡総領町一帯に存在した荘園)の地頭、田総長井氏の場合を眺めてみよう。
 田総氏は鎌倉幕府創業の功臣大江広元の嫡流長井氏の一族で、鎌倉中期に、その祖長井重広が備後国田総莊地頭職を獲得し、在名を取って「田総」を号した。重広から四代目の直干(なおひろ)の代には、備後に本拠を移し、以後戦国時代末までの在地の有力武士として活躍している。
 『田総文書』によると、貞和2年(1346)の「田総重継譲状」では、すでに嫡子単独相続法を採っており、以後代々本領は嫡子一人に相伝されている。そして、重継の曾孫広里は、室町時代初期の応永34年(1427)正月、嫡子時里に「置文」を認(したた)め、一族に対する惣領の権限を定めている。この中で広里は、
 「一、おとと共之事、一所にても候へ ゆつりせす候。その器量によんて扶持あるへく候。」
 と述べ、嫡子(時里)以外の子息には所領を分与せず、能力(器量)に応じて給分を与えるようにせよと言っている。この場合、庶家達の地位は、明らかに惣領の被官の立場に転落している
 又、以前に分家した庶家に対しても、惣領の支配権は強化されている。
 「一、親類共之中ニ格別之譲をもんて、惣領之衆儀ニちかい候ハバ、その支證立ましく候。身の扶持にて候間、中(仲)をたかわれ候ハバ、給分の事にて候間、御計たるへく候。」
 つまり、所領を分与された庶家も、惣領の命令に違背する場合は、遠慮無く所領を没収せよ、庶家の所領も惣領から「給分」として与えられているに過ぎない、というのである。「給分」とは、主君が家臣に対して与える給与のことである。
 ということはどういうことか、田総氏の場合、室町時代初期には庶子や庶家をそれまでの対等に近い存在から、給分を与える被官(家臣)の地位に引きずり降ろし、総領権を著しく強めていることがわかるのである
 この惣領制の変質と強化は、周辺の弱小武士をも巻き込んだ地域再編成となって現れた

◎一円所領の形式
土豪の被官化と一円所領の形式がそれである。
 土豪(地侍)は、地頭クラスより一まわり小規模な在地領主達で、「名字」を持ち、荘園の下級荘官、或いは有力百姓を指す言葉である。土豪は元々独立して荘園領主と結んでいたのであるが、先に述べたように有力在地領主惣領家が権力を強化すると、その武力に押され、彼等の被官となって行った。
 戦国時代、田総氏の被官森戸弾正忠実泰(さねやす)は、田総莊内井原城(甲奴郡惣領町下領家)に拠って主君田総氏の一翼を担ったが、この森戸氏なども田総莊内森戸村を名字の地とした土豪に相違無く、田総氏惣領家の勢力伸張にともなってその支配下に入った者に違いない
 もちろん、これらのことに対しては、荘園領主側の抵抗もあったが、有力在地領主達は武力を背景に土豪を手なづけると共に、「地頭請」「下地中分(したじちゅうぶん)」等様々な方法によって荘園の土地そのものも自己の支配下に収めていった。
 田総氏が採ったのは下地中分である。下地中分とは、荘園の土地を領家の支配下とし地頭の支配下に二分し、互いに干渉しないようにするもの。田総氏は嘉元3年(1305)領家と「和与状」をとりかわし、田総莊の主に西半分を地頭分として、排他的な一円所領とすることに成功した。

◎国人領主
田総氏のように庶家や土豪を自己の被官として所領を排他的に支配する在地領主のことを「国人領主」という
 そして、彼等がその領主制を確立したのが南北朝の内乱期であった
 山内首藤氏や田総氏の場合、国人領主化は鎌倉時代末期には達成されているが、彼等の場合はやや特殊な例である。山内首藤氏が備後に本拠を移した原因は東国の本領が余りにも狭小だったためで、田総氏の場合も、同氏自身の所領は備後国内に限定されており、いわば備後が本拠だったからである。
 では、一般の武士達はどうだったのか。彼等は全国各地に分散して所領を持ち、王朝国家(京都の公家政権)、鎌倉幕府という中央権力によってその権利を保障され、所領を維持してきた。しかし、南北朝の内乱はそれを不可能にした。王朝国家は分裂し、鎌倉幕府は滅亡してしまい、武士達は自己の所領を守るのは自分の力だけ、という厳しい現実に直面したのである。
 こうなると力の分散は致命的である。生きんがためにはどこか一ヵ所の所領に一族の力が集中し、その確保に全力をあげる必要があった。むろん、本拠地以外の所領は放置する以外にすべはない。山内首藤氏もこの内乱で、備後以外の所領は他の武士に押領され「不知行」となっている。
 又、この内乱は、南朝(公家一統)か、北朝(幕府の復興)か、というイデオロギーの対立でもあったが、このことは独立を目指す庶家達に絶好の口実を与えた。惣領家に不満を持つ庶家は、惣領が北朝方ならば南朝方に走るというように、堂々と自立を宣言できたのである。このため惣領家は自己の力を強化する必要に迫られ、分割相続制をやめ、単独相続制を採用したのである。いきおい、庶家は惣領家の被官と化し、土豪もその下に系列化された
 一円所領の形成も内乱のため、比較的容易に達成された。荘園領主の力が著しく弱体化していたからである。

そこで元に戻って、有力在地領主はなぜ「国人」と呼ばれたのか、考えてみよう。
 原因は、彼等の所領が備後なら備後一円内に限定されるようになったからである。つまり、前代鎌倉時代までは、全国各地に所領を持ち、「御家人(将軍の家来)」、或いは「非御家人(御家人以外の武士)」としか呼びようがなかった武士(在地領主の意)達も、自らの所領が一国内に限られるに従って、某国の住人、「国人」、或いは「国衆」と呼ばれるようになったのである。
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『備後の山城と戦国武士』 備陽史探訪の会 会長 田口 義之著