2017年3月29日水曜日

天正4年5月、天王寺砦救援の軍議で織田信長の命令に異儀を立てた荒木村重

四天王寺
独裁的で、なんびとにも畏れられていたかのような、怖いイメージのある織田信長ですが、そんな信長の命令を荒木村重は、理由を述べて、それを請けなかったエピソードがあります。
 天正4年5月、織田信長が出席の上で、軍議が開かれました。本願寺勢に包囲されている天王寺砦の明智光秀・佐久間信盛などを救援するためです。
 この時は本願寺方の勢い強く、天王寺砦の陥落が心配され、非常に切迫した状況でした。既に塙直政(原田備中守)一族など、名だたる武将が戦死し、この勝ちに乗じて、天王寺砦が多数の本願寺勢に攻囲されていました。

以下、その時の様子を『信長公記』から抜粋し、ご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P193

(資料1)----------------------------------
【原田備中、御津寺へ取出討死の事】
(前略)
5月3日、早朝、先は三好笑岩、根来・和泉衆。2段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取り寄せのところ、大坂ろうの岸より罷り出で、10,000計りにて推しつつみ、数千挺の鉄砲を以て、散々に打ち立て、上方の人数崩れ、原田備中手前にて請止(うけとめ)、数刻相戦うと雖も、猛勢に取り籠められ、既に、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、丹羽小四郎、枕を並べて討ち死になり。其の侭、一揆ども天王寺へ取り懸かり、佐久間甚九郎、惟任日向守、猪子兵介、大津伝十郎、江州衆、楯籠もり候を、取り巻き、攻め候なり。其の折節、信長、京都に御座の事にて候。則ち、国々へ御触れなさる。
----------------------------------(資料1 終わり)

これは本願寺方が瀬戸内海を通じて、毛利方から補給と支援を受けていた事から、このルートを断つために、織田信長がその封鎖を行う中で起きた闘争です。それについて、再び信長公記の抜粋をご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P193

(資料2)----------------------------------
【原田備中、御津寺へ取出討死の事】
4月14日、荒木摂津守・長岡兵部大輔・惟任日向守・原田備中4人に仰せ付けられ、上方の御人数相加えられ、大坂へ推し詰め、荒木摂津守は、尼崎より海上を相働き、大坂の北野田に取出(砦、以下同じ。)を推し並べ、3つ申し付け、川手の通路を取り切る。惟任日向守・長岡兵部大輔両人は、大坂より東南守口・森河内両所に、取出申し付けられる。原田備中守は、天王寺に要害丈夫に相構えられ、御敵、ろうの岸・木津両所を拘(かか)え、難波(なにわ)口より海上通路仕り候。木津を取り候へば、御敵の通路一切止め候の間、彼の在所を取り候へと、仰せ出さる。天王寺取出には、佐久間甚九郎正勝、惟任日向守光秀おかれ、其の上、御検使として、猪子兵介、大津伝十郎差し遣わされ、則ち御請け申し候。
(後略)
----------------------------------(資料2 終わり)

楼の岸跡
そんな中での想定外の出来事が起き、織田信長はこれに緊急対応した訳です。信長はこういう時、対応が非常に迅速ですし、自ら先頭に立ち、戦死も厭わず行動します。
 対応が遅ければ相手が有利になりますし、第2・第3の被害が自軍に及び、益々状況が悪化します。心理的にも不利になり、戦意が萎えます。

信長は、原田備中守が戦死した事を知ると、直ぐさま陣触れを出し、京都を発ちます。河内国若江城に入り、ここで情報収集と準備を整えます。これは天王寺砦の後詰めの役割りも兼ねます。若江から天王寺までは、ほぼ直線に真西の方向で、距離も2里(8キロメートル)余りの至近距離です。この時の様子です。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料3)----------------------------------
【御後巻再三御合戦の事】
5月5日、後詰として、御馬を出だされ、明衣の仕立纔(わず)か100騎ばかりにて、若江に至りて御参陣。次の日、御逗留あって、先手の様子をもきかせられ、御人数をも揃へられ候と雖も、俄懸の事に候間、相調わず、下々の者、人足以下、中々相続かず、首(かしら)々ばかり着陣に候。然りと雖も、5、3日の間をも拘(かか)えがたきの旨、度々注進候間、攻め殺させ候ては、都鄙の口難、御無念の由、上意なされ、
(後略)
----------------------------------(資料3 終わり)

公記にもあるように、出陣が急な事であり、人数が揃いません。現代の信長イメージとは少し違うような感じがしますね。
 この時期、信長は政治的にも優位に立ち、社会的地位も上昇させ、全体の戦況も余裕が無かった訳ではありません。それでもこのような状態ですし、信長といえどもいつでも行動の強制ができる訳でもなかったようです。
 信長は勝たなければならない「戦」には「必ず勝つ」という事を強く認識し、その通りの結果をもたらします。また、救わなければならない対象も同じで、見捨てる事もありません。
 この時も、その通りの行動を取り、味方を救援に成功します。そして、2次被害も何とか食い止める事ができました。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料4)----------------------------------
清水坂(この付近では良質な水が湧く)
【御後巻再三御合戦の事】
かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣、上意に候。
 爰にて、各々御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く寄り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は二段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大阪城戸口まで追いつき、首数2,700余討ち捕る。是れより大坂四方の砦々に、10ヶ所の付城仰せつけらる。
 天王寺には佐久間右衛門尉信盛、甚九郎、進藤山城守、松永弾正、松永右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定番として置かれ、又、住吉浜手に要害拵え、真鍋七五三兵衛、沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。
(後略)
----------------------------------(資料4 終わり)

しかし、こんな時に荒木村重は、軍議の席で織田信長の作戦構想に異儀を立て、独自の見知を述べて、信長に認めさせます。
 この時、村重にとっても当面の危急は脱した状態で、さ程の苦しさ(政治・軍事的に)は無かったと見られますが、なぜこのような態度になったのでしょうか。

この頃、村重はそれまでの「信濃守」から「摂津守」の官途を叙任しており、これは信長の計らいや尽力もあった筈ですが、「それとこれとは別」といった態度にも見えなくはありません。
 織田政権の緊急事態に応えてこそ、日頃の恩に報いる事だと一般的には感じますが、村重には村重の立場があり、視点と考えがあったのでしょう。また、敵の数が多く、苦戦が予想されるため、自分の側の被害を避けたりする事を考えたのかもしれません。
 村重はこの2年前、摂津国内の中嶋・崇禅寺付近で合戦を行い、大きな損害を出しています。同じ事を繰り返す訳にはいかないと、考えていたかもしれません。

いずれにしても、村重は信長の命令を断り、後詰に徹する旨を述べ、尼崎から北野田、木津方面にかけての北方向から本願寺に備え、西方向にも警戒する陣構えを担当することになりました。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料5)----------------------------------
【御後巻再三御合戦の事】
(前略)
5月7日、御馬を寄せられ、15,000ばかりの御敵に、纔(わず)か3,000ばかりにて打ち向はせられ、御人数三段に御備えなされ、住吉口より懸けらせられ候。
 御先一段 佐久間右衛門尉、松永弾正(山城守)、長岡兵部大輔、若江衆。
 爰にて、荒木摂津守に先を仕り候へと、仰せられ候へば、我々は木津口の推へを仕り候はんと、申し候て、御請け申さず。信長、後に先をさせ候はで御満足と仰せされ候へき。
(後略)
----------------------------------(資料5 終わり)

摂津国内での合戦ですし、役割りからして村重が主たる軍勢を担うのは、当然の事だったと思います。
 しかし、村重のこの時の行動が不自然にも感じられ、後に村重は信長に対する謀反を起こした事から、『信長公記』の作者である太田牛一は、対比的に扱い、その出来事を特記したのかもしれません。

とに角、信長はこの緊急事態を打開しなければならない事を強く意識していましたので、自ら先頭に立って指揮する事を決します。そして、何とか危急を脱する事はでき、明智光秀や佐久間正勝などの武将は討死を免れました。
※信長公記(新人物往来社)P195

(資料6)----------------------------------
安居神社から北方向を望む
【御後巻再三御合戦の事】
(前略)
かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰(ここ)かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣き、上意に候。爰にて、各御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く取り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は2段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大坂城戸口まで追いつき、首数2,700余討ち捕る。是れより大坂四方の塞々(とりでとりで)に、10ヶ所の付城仰せつけらる。天王寺には、佐久間右衛門尉信盛、甚九郎、進藤山城守、松永弾正、右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定盤として置かれ、又、住吉浜手に要害拵え、まなべ七五三兵衛・沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。
 6月5日、御馬を納められ、其の日、若江に御泊まり、次の日、眞木嶋へお立ち寄り、井戸若狭守に下され、忝き次第なり。二条妙覚寺に御帰洛。翌日、安土に至りて御帰陣。
 (後略)
----------------------------------(資料6 終わり)

それからまた、「天王寺砦とはどこか」という事ですが、わかりやすくまとめられている資料がありますので、ご紹介します。
※大阪府の地名1-P681

(資料6)----------------------------------
勝鬘院の多宝塔
天王寺砦跡(天王寺区伶人町・逢阪1丁目)
織田信長が築かせた城。城跡については月江寺付近とする説(摂津志)があるが、四天王寺の西、勝鬘院と茶臼山の間の上町台地西端に北ノ丸、中ノ丸、南ノ丸の小字が残り、この地は西が急崖で城地として最適の条件にある。江戸時代中頃とみられる石山合戦配陣図(大阪城天守閣蔵)にも、四天王寺に西接して「サクマ玄蕃サカイノ道ヲフサク」と記されている。
 天正4年(1576)3月、本願寺顕如は織田信長に反旗を翻し、石山本願寺に籠もって抗戦を始めた。信長は明智光秀・細川藤孝・原田直政・荒木村重らに命じて攻撃態勢を整え、天王寺口の攻め手を原田直政として城砦を構えさせた。
 本願寺側が木津(現浪速区)と楼ノ岸(現中央区)に砦を築いて、木津川を通じて海上と連絡をとっているのを知った信長は、まず木津川口の占拠を命じ、同年5月3日、原田直政・筒井順慶らに攻撃させた。しかし本願寺門徒の勢力は強く、木津川口の戦で原田直政は敗死、直政にかわって天王寺には明智光秀が布陣した。
 敗戦の報を受けた織田信長は、京都を発って、若江城(跡地は現東大阪市)に入り、5月7日には若江を出て天王寺へ救援に向かった。『信長公記』には「天王寺砦」とあるので、まださほど堅固な城郭ではなかったとみられる。信長は激戦の後、天王寺砦に拠る明智光秀と合流することに成功、門徒勢を石山本願寺の木戸口まで追撃したが、その堅塁を抜くことはできず、長期包囲戦術をとることにした。
勝鬘院に隣接する大江神社の坂
天王寺砦の増強も図られ、早くも5月9日、信長は摂津国平野庄(現平野区)中に「天王寺取立之城普請」のため用材などについて奔走するよう指令している。
 天王寺砦には佐久間信盛・同正勝父子と松永久秀が定番として詰めたが、翌5年8月、松永久秀の背反後は佐久間父子がもっぱら当たることとなった。大軍による長期の攻撃にもかかわらず、信長はついに武力で石山本願寺を落とすことができず、正親町天皇の調停という形で前関白近衛前久らを勅使として本願寺に派遣、和議によって石山を退去させようとした。和議の約定が成立した天正8年3月17日付けで信長は血判した覚書七ヵ条(本願寺文書)を出したが、その第二条で、顕如らが石山本願寺から退去するに先立って、まず信長方の軍勢が「天王寺北城」(天王寺北方にある信長方の付城)から撤兵し、近衛前久らと入れ替わると誓っている。
 和議が成立し、顕如は4月9日、紀州鷺森へ去り、退去を拒んでいた教如らも、ついに8月2日、信長に石山本願寺を明け渡した。その直後の8月中旬、信長は天王寺城の定番である佐久間父子の罪状ををあげて剃髪させ、高野山に追放した。罪状の冒頭で、佐久間父子が天王寺城に在城した5年間になんの戦功もあげず、「取出」(天王寺城)を堅固にさえしておればやがて信長の威光で退散するだろうと考えていたのは、武士道にもとるものである、と叱責している点が注目される。佐久間父子の追放後、天王寺城は壊された。
----------------------------------(資料6 終わり)

若江城跡
村重は、天正4年4月までは、天王寺砦にも出入りしていた可能性もあっただろうと思いますが、5月の軍議は、河内国若江城で行われたようです。また、信長公記では「住吉口」から天王寺の本願寺勢を攻めたようです。軍議の後、配置につくために各所へ進んだと思われます。村重は、河内国内を北上し、摂津国内へ入って木津川口へ向かったと思われます。

この天王寺での合戦の約2ヶ月後、足利義昭を奉じた毛利輝元勢が大船団を組んで、大坂の本願寺方に物資を搬入。この時、木津川口にて大海戦があり、織田方は大敗を喫します。村重も水軍を率いてこれに参戦しているようです。
 詳しくはわかりませんが、村重は早い段階からこの毛利方の動きを掴んでいたため、天王寺砦の戦いでは、木津川口や北野田方面を固めることを具申したのかもしれません。
 上記で記述の、村重が信長の命令を請けなかった理由のもう一方の推測としては、これも成り立つかもしれません。本質的には、村重に下された官途である「摂津守」の意味は、やはり摂津国の知事ですから、その中で起きる事については、主体的に行動することが求められ、期待されることが一般的感覚だったと思います。その意味では、村重のこの行動が、少々の不審を買ったことも否めないのではないかと思います。

この後の約2年間は、織田方の瀬戸内海の制海権はやや不利となり、一方の本願寺方にとっては物資補給のメドも立ちました。両軍共に、作戦の再構築が必要になったようです。


2017年3月23日木曜日

摂津池田家当主よりも地位の高い池田播磨守正久という人物について

摂津国内の有力国人であった池田氏は、その活動範囲の広さから様々な史料が残っています。ただ、それらは断片的で、連続性が無いために、関連性の判断が非常に難しいところがあります。

今回ご紹介する、池田播磨守正久の書状もそのひとつです。いつもの様に、先ずその史料からご紹介します。年記未詳で、無神(10)月20日付けで、今西宮内小輔(春憲)宿所へ宛てたものです。
※池田市史(史料編1)P25、豊中市史(史料編1)P115、春日大社南郷目代今西家文書(本文編)P446

(史料1)----------------------------
前置き:尚々納所仕候様々御馳走所給候。尚此者可申候間、不能懇筆候。
本文:此間不申通御床敷存候。仍去年も以書状申候代物之儀、急度被成御馳走候而可給候。若貴所被仰儀、無同心之体候者、此方へ可被成御引付候。催促付可申候。但寄井筒屋其方へ不被借候哉。こい(乞い)可申候はば、御報に委細可承候。御隙之時進入御奉待候。恐々謹言。
----------------------------(史料1 終わり)

年記未詳の史料という事からその比定なのですが、個人的には『春日大社南郷目代今西家文書』の推定も参考にし、今のところ天文16年(1547)と考えていますが、これについては他の年代の可能性もあります。しかし、確証無く、流動的なところがあります。

それで、その年代比定の理由ですが、宛先である「今西宮内小輔」の活動時期は、天文から天正に渡り活動していて、池田家当主の信正・長正・勝正の3代を跨ぎます。ですので、この視点では、殆ど年代推定の幅を狭めることができません。
 次に、文の内容ですが、「尚々納所仕候様に御馳走所給候」や「仍去年も以書状申候」「若貴所被仰候儀無同心之体候者、此方へ可被成御引付候」などの部分は、天文15年に南郷目代今西家から大規模な代官請けを得た池田家が、今西家との関係を繋ごうとしていた行動で、池田信正失脚中の家政に関する動きと考えてみました。
 この史料のように池田正久は、家政の一端を担って活動していたのかもしれませんが、残念ながら、他に正久の史料は見当たらず、この件についての詳細は不明です。

更に、正久の官名である「播磨守」ですが、これは山陽道(8カ国)に属する大国(他に上国・中国・小国の区別あり)の扱いです。この大国は、地位にすると「従五位」で、池田家当主の「筑後守」の地位「従五位下」を上回るもので、播磨守は一段地位の高い人物となります。
 池田家中には、従五位下を上回る地位の人物は見当たらず、池田正久は家中で一番地位の高い人物という事になります。一般的には、こういう社会的地位を家中の者が得る時には、当主を超えない範囲で地位の配分(栄典授与・論功)が行われますが、何らかの特別な手柄を立てて地位を得ていくという可能性も無い訳ではありません。
 しかし、そういった場合は家中が割れて敵味方となり、激しく争う場合や、家を出た者が別の有力者に属して出世したような場合などに見受けられたりします。

いずれにしても、池田正久の地位の高さの実用性は、当主が健在で正常な家政運営が行われている間には、可能性として低いように思われます。
 それにあたる時期としては、天文16年6月25日に細川氏綱を擁立した池田家が管領細川晴元に背いて降伏し、恭順していた頃(信正は隠居し、宗田との入道号を名乗ったらしい)、即ち、池田家中が主体的で正常な家政を執り行えなくなっていた時期の正久の行動と考えてみました。

ちなみに、この池田家が細川晴元に対して恭順している時期に、池田家にとって大きな出来事がありました。
 池田信正は、義理の父である三好政長を通して晴元に謝罪し、一応は許されていました。政長は、晴元の最側近でもあり、その流れで接点を活かすことは自然な見立ててです。しかし、池田家にとって予想外だったのは、親類として保護するどころか、政長が池田家中の政治に介入を始め、財産なども不当に取り上げる行動に出た事でした。
 信正の妻は、三好政長の娘で、それにつながる一派が池田家中に居て、諍いが起きていたようです。
 もしかすると、池田正久は三好政長一派である可能性もあるにはあります。何事も有利に運ぶために、社会的地位を高くする方法もあるのかもしれません。そうだとすると、姓名も「三好」だった可能性もありますね。これは今のところ、筆者の空想レベルなのですが...。
 
それから、個人的には訝しんでいるところもあるのですが、この播磨守正久が池田勝正の父と推定する研究者もあるようです。その根拠も今のところは、希薄ですが、こちらが完全否定する程の材料も無いといったところです。

また、文中に「但寄井筒屋其方へ不被借候哉」との表現が見られます。「井筒屋」とは商人らしき人物ですが、この井筒屋について、関係無いとは思うのですが、池田の郷土史に井筒屋が関連していますので、一応、参考までにあげてみたいと思います。
※『わたしたちの郷土 -文学に現れた遺跡と人物-』より

(資料2)----------------------------
昭和30年代の池田本町の井筒屋跡写真
写真:昭和30年代の池田本町の井筒屋跡
【井筒屋跡】
本町いづつやの2階に住む豊年の新米坊主呉春(自筆の大黒天図署名より)
天明元年(1781)当時、存充白と名乗っていた松村呉春は京都から蕪村門の先輩、川田田福の好意に甘え池田の本町にあるその出店井筒屋の2階に移り住むこととなった。
 翌天明2年の年頭に当たり全てを新しくしようと考え、池田の古名、呉服で春を迎えるのだから呉服の呉と春とを結びつけて、呉春と呼ぶことにした。時に31才。
 本町井筒屋云々の署名は天明2年9月、呉春が池田荒城氏(満願寺屋)の転居祝いに贈った大黒天図に残されたものであるが、その頃はまだ丸坊主になって日が浅かったので、自分でも珍しくこんな称えをしたものらしい。一説には本町通、現紅屋呉服店ともいう。
【川田田福】
田福は、井筒屋庄兵衛と称した京都の人で呉服商を営み、池田本町に出店を持っていたので、池田と因縁が深い。田福は蕪村について俳諧を学び、その門下の中でも尊敬に値する人物であった。田福は謡曲、蹴鞠にも興味を持ち、また絵画をもよくしたようである。池田の高法寺に川田祐作居士遺愛碣というのが建っているが、これは荒木李𧮾の撰木で弟の荒木梅閭の筆である。
----------------------(資料2 終わり)

さて、史料1の文の内容は、少し音信が途絶えたが、去年も書状で伝えた「代物」の事、必ずの取り計らいを期待する。もし、そちらでそれに同意しない者があれば、催促を行うので、こちらへ報せてもらいたい。ただし、井筒屋よりそちらへ借りられるか。乞う事があれば、報せにより承る。状況次第に進めてもらい、それを待つ。、というような旨で伝えており、「代物」についての用件のようです。代物とは「銭」の事なのかもしれません。
 この音信の時期は、10月ですので、米の収穫時期です。前置きにある文は、その事のようです。しかし、それとは別に、去年から代物の事について伝えているようです。それを南郷目代の今西宮内少輔にも協力を求めているのは、上位の権力からの用件なのかもしれません。

池田正久についての史料は、この1点しか見当たらず、不明なところも多いのですが、今後も調査を続けていきたいと思います。



2017年3月20日月曜日

荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について

近年、知名度も高くなってきた摂津国の戦国大名荒木村重ですが、それはやはり、織田信長方の武将としての活躍が大きな要因でしょう。もちろん、大河ドラマで取り上げられたり、ゲームや漫画などへの露出もあるでしょう。ここ最近は、加速度的です。
 しかし一方で、この荒木村重という人物は、不明なところも多くあって「謎の武将」といったイメージも強いようです。特に、織田方の武将として名前が知られる前の活動については、殆ど知られていません。
 
筆者はどちらかというと、その前の摂津国の国人大名であった池田勝正の動きを研究している事もあって、その重なりが、この村重(家系)の黎明期から成長期にあたり、自然と並列研究のようになっています。
 それらも追々、お伝えしていきたいと考えているのですが、今回は以前から個人的に気になっていた、村重の父の可能性がある荒木信濃守勝重なる人物が、摂津国人らしき「北與」なる人物に宛てた史料がありますので、ご紹介したいと思います。年記未詳の2月14日の音信(返報)です。
※豊中市史(史料編1)P126

(史料1)-------------------------------
前置き:尚々善へも以別帋可申入候へ共、御意得候て御演説所仰候。
本文:如仰久敷不申承不断御床敷令存候。折節御懇御状本望之至候。随而此間者弥介方に長々逗留仕候。内々に我等も可参心中之候処難去用所共候て不参御残多存候。此由北右へも被仰候て可給候。次以前承候南郷(摂津国垂水西牧)知行分事、勝正折帋之儀も可相調候へ共、無紛儀候者、可為有様候之絛可御心安候。殊に彼庄之事者同美存知之由にて候之間、被仰様体委可申聞候。其方之儀不苦候者、北右善へ被成御同道、ふと御出奉待候。我等もやかて可参候。急申候間此外不申候。恐々謹言。
-------------------------------(史料1 終わり)

先ず、この史料の年代比定をしないといけないのですが、結論から言いますと、永禄8年(1565)かその前年ではないかと考えています。以下、その理由を述べます。

この音信の宛先である「北与」とは、北河原氏と考えられ、同氏は摂津国川辺・豊島郡境付近の豪族とされています。また、文中の「弥介(やすけ)」とは、荒木村重を指すと考えられる事から、弥介を名乗っていたらしい元亀2年(1571)以前から永禄6年(1563)頃までの期間が想定されます。
 他方、「勝正折帋之儀」とは、荒木勝重の上位者である事が伺え、永禄6年2月の当主長正死亡後から元亀元年6月19日の勝正追放までの間が想定できます。なお、永禄4年9月9日には、南郷目代の今西家によって、勝正に対する特別な祝儀が贈られているため、その頃から勝正に代替わりとなったか、南郷の特別(主要)な管理を行うようになった可能性もあります。

更に文中の「同美」とは、荒木美作守宗次を指すと考えられ、その活動時期を見ると、永禄5年4月に荒木美作守が摂津国箕面寺に宛てた禁制の副状(池田長正に対する)を発行し、同年2月23日に南郷に関する問題解決のための音信を受けたりもしています。宗次の史料は、永禄8年2月以降は見られなくなります。当主の交代と共に、荒木美作守にも地位に変化を生じさせたものと思われます。

それらの状況を考え併せると、この史料は、宗次の史料上の活動が見られなくなる頃(池田長正の死亡による当主交代)に近い時期、永禄7年の池田家と今西橘五郎・宮内少輔(春房?)とのやり取りに関係のある史料と想定しています。

さて、文中に登場する人物名の補足をしておきたいと思います。文中には北河原一族の人物名が複数人出てきます。「北與=与右衛門?」「善=善右衛門?」「北右=右衛門?」「北右善=右衛門?と善右衛門?の両者をまとめて書いた」といった具合に、人物名を略して書いています。この件について、何度もやり取りしているためです。

文の内容を見ますと、「荒木信濃守は北河原方へ向かうつもりで、弥介方に長々逗留しており、やがて北与・右・善の3名とも合流し、南郷知行分の懸案解決を図る予定である。これについては、荒木美作守がよく知っているので、委しく申し聞き、事の次第がハッキリすれば、現当主池田勝正から証文を発行してもらうつもりなので安心するように。」との旨を伝えており、信濃守勝重は、当主勝正の奉行人のような行動をしていた事が判ります。
 前当主池田長正の家老荒木美作守から同名信濃守勝重が役を引き継ぎ、活動をしていた一端がこの史料から読み取れるように思います。

そして、折紙発給者の荒木信濃守勝重とは、その名から考えて、「弥介」の後に「信濃守」を名乗る村重に関係が深い人物と思われ、その名の一字に「重」の字を持っています。また更に、勝正と関わると考えられる「勝」の字も持ち、両者に深い関係を持つ人物と推定できます。
 この事から「弥介」すなわち後の村重は、当主勝正から見ると系図的には一世代下であろうことも判明します。この時点で村重は官名を持たず、その父と考えられる勝重が「信濃守」を名乗っているからです。また、概ね「紀伊守」「遠江守」などの官名は、それを代々継ぐ家系があって、当主がその官名を名乗ります。

ただ、荒木信濃守勝重についての史料は、今のところ、この1点のみで、他の活動については不明です。どの時点、どういう理由で勝重が、その地位を譲る事になったのかは、今後も見ていきたいと思います。



2016年11月26日土曜日

戦国武将荒木村重が、摂津国守護職を任された頃(荒木地域政権)の重臣と被官たち

戦国武将荒木村重が、織田信長から摂津国守護職を目され、地域政権を始動(後に正式に任される)した天正元年(1573)以降の重臣・被官と思しき人物を、筆者のノートから簡単にとまとめてみました。まだ途中で、初期的なものですが、皆さんの何かの参考になればと思い、アップしてみます。

以下は、史料・軍記物などに見える人物ですが、地域政権内でどんな役割りを担い、それぞれの人物の地位はどのあたりか、という細かなところまでは今のところ分別していません。
 ですので、以下の一覧の順番もそのようにご理解いただければと思います。また、米印部分は、史料に見られる年月日です。
 大体のところは、荒木一族が政権中枢(重臣)ではあるのですが、細かなところは分類途中ですので、随時、整理していきたいと思います。

<荒木村重の被官>-------------------
  • 荒木重堅       ※天正3.9、同年.11.26、天正4.8.11、天正5.9.29、天正6.2
  • 荒木志摩守(元清)  ※天正6.11.14、天正7.3
  • 荒木与兵衛尉     ※天正元年.6.12、天正4.8.21、天正7.12.16
  • 荒木新丞(同名志摩守兄の息子渡辺四郎の弟) ※天正7.12.16
  • 荒木越中守      ※天正7.6.4、同年6.20、同年12.16
  • 荒木新五郎右衛門尉  ※天正7.12.12 
  • 荒木(本名藤田?監物丞?)重規(重綱) ※天正7.1.20
  • 伊丹安大夫      ※天正7.12.16
  • 伊丹宗○(宗察か。伊丹源内) ※天正7.6.20、同年12.16
  • 伊丹九兵衛      ※天正7.9.11
  • 伊丹新七       ※天正6.11.24、天正7.3.5
  • 宇保真清       ※天正5.3.26(天正11年頃か)
  • 宇保対馬守      ※天正2.3.15、同6.11.22
  • 観世彦右衛門尉(宗拶?・豊次?) ※天正3.9.26、天正6.28、同年.2.16、同年.2.17
  • 観世又三郎(宗拶弟) ※天正2.3.15、同6.11.22
  • 木村弥右衛門尉    ※天正2.4.3、天正6.1.29
  • 高山右近とその一族  ※天正2.7.14、天正3.9.26、天正4.8.21、天正5.11.23
  • 中川清秀       ※天正3.4.12など多数。
  • 石田伊予守      ※天正2.11.10、天正3.12.23、天正6.11.24
  • 石田主計       ※天正7.7.26
  • 北河原(但馬守?)  ※天正3.9.25、天正7.2.28
  • 北河原与作      ※天正7.12.16
  • 塩川伯耆守      ※天正4.12.14、天正7.4.18
  • 塩川伯耆守貞清    ※天正7.4.28
  • 塩川勘十郎      ※天正7.3.14
  • 芝山源内       ※天正3.12.22、天正6.1.29、同年12.1?
  • 芝山次大夫      ※天正6.12.8
  • 池肥某(池田肥後守?・豊前守?) ※天正4.8.21
  • 池田監物丞正遠    ※天正6年11.22
  • 池田和泉守      ※天正7.12.1、同年12.16
  • 池田三郎右衛門    ※天正6.11.24、天正7.3.5
  • 池田(荒木)久左衛門 ※天正7.11.19、同年12.16
  • 池田教正       ※天正2.4.11
  • 栗山佐渡守      ※天正2.4.11
  • 藤井加賀守敦秀    ※天正4.8.21
  • 森弥次某       ※天正4.8.21
  • 中美(中野美作守か) ※天正4.8.21
  • 中野又兵衛      ※天正6.12.8
  • 中西小八郎      ※天正6.11.24、天正7.3.5
  • 中西新八郎      ※天正7.10.15
  • 安部仁右衛門     ※天正6.12.1、同年.12.3
  • 安見新七郎      ※天正4.6、天正5.4.6、天正6.10.1
  • 篠河甚兵衛尉長次   ※天正5.3.25
  • 富松重晴       ※天正4.8.3 
  • 上野某        ※天正7.9.1
  • 築山市兵衛尉     ※天正5.5.18
  • 波々伯部伯耆守    ※天正5.12.6、天正7.12.16
  • 瓦林越後守      ※天正元年.12.10、天正4.8、天正6.1.30、同年11.8、同年.11.14、天正7.6.20、同年12.16
  • 樋口         ※天正6.2.16
  • 村田因幡守      ※天正7.12.16
  • 吹田因幡守      ※天正7.12.16
  • 渡辺勘大夫(同名四郎の父) ※天正6.11.24、天正7.12.16
  • 渡辺四郎       ※天正7.12.16
  • 渡辺八郎       ※天正6.11.24、天正7.3.5
  • 牧左衛門尉      ※天正7.12.16
  • 坂中主水       ※天正6.11.24、天正7.3.5
  • 野村丹後守      ※天正7.10.15
  • 平井久右衛門     ※天正6.12.8
  • 麻植新右衛門尉    ※天正7.6.4
-------------------(一覧おわり)

2016年11月10日木曜日

荒木村重の重臣であった瓦林越後守は、池田育ち(生まれ)か!?

天正7年(1578)12月16日、京都六条河原で行われた荒木村重一族・重臣家族の処刑に、瓦林越後守娘(北河原与作女房)の名が見られます。以下、その処刑の時の様子についての資料をご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P280

(資料1)------------------------
【伊丹城相果たし、御成敗の事】
(前略)
12月16日、辰の刻(午前7〜9時)、車1両に2人づつ乗りて、洛中をひかせられ候次第。
1番(20歳計り)吹田、荒木弟(17歳)野村丹後守後家、荒木妹。
2番(15歳)荒木娘、隼人女房、懐妊なり。(21歳)たし。
3番(13歳)荒木娘、だご、隼人女房妹。(16歳)吹田女房、吹田因幡守娘。
4番(21歳)渡辺四郎、荒木志摩守の兄息子なり。渡辺勘大夫娘に仕合わせ、則ち養子とするなり。(19歳)荒木新丞、同じく弟。
5番(25歳)宗察娘(伊丹源内ことを云うなり)伊丹安大夫女房。此の子8歳。(17歳)瓦林越後守娘、北河原与作女房。
6番(18歳)荒木与兵衛女房、村田因幡守娘なり。(28歳)池田和泉守女房。
7番(13歳)荒木越中守女房。たし妹。(15歳)牧左衛門女房。たし妹。
8番(50歳計り)波々伯部伯耆守。(14歳)荒木久左衛門むすこ自然(じねん)。
此の外、車3両には子供御乳付付7・8人宛て乗られ、上京一条辻より、室町通り洛中をひかせ、六条河原まで引き付けらる。
(後略)
------------------------(資料1おわり)

「資料1」に記載されている順番は、必ずしも荒木一族を筆頭に下る上位順という訳でも無いようで、今のところその規則性は不明です。ただ、組織内の主立った重要人物とその家族である事は間違いありません。
参謀本部陸軍部測量局の地図(北河原村付近)
記述によると、瓦林越後守と北河原与作とは、姻戚関係にあったようです。この北河原氏は、有岡城の北東方向の至近にある北河原村を中心として活動する土豪と考えられ、北河原氏に関する史料も残っています。
 この北河原村は西国街道から枝分かれし、600メートル程南下したところにある、有岡城の北から入る直前の集落です。

一方、今回のテーマの瓦林越後守について見てみると、筆者は西市場村(現池田市)を中心として活動していた可能性を考えており、この西市場村は西国街道の至近にある重要な場所に立地していました。また、ここには城があったと伝えられています。西市場城です。
 以下、村と城についての資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P322

(資料2)------------------------
【西市場村】(現池田市豊島北1・2丁目、荘園2丁目、八王子2丁目)
神田村の東にあり、村の南側を箕面川がほぼ西流。古代の豊嶋郡郡家の所在地を当地とする説、「太平記」巻15(大樹摂津国豊嶋河原合戦事)に記される豊島河原を当地の箕面川原にあてる説などがあるが、いずれも憶測にすぎない。
 元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)などによると、当村にある市場古城に観応年間(1350-52)瓦林越後守が拠ったという。地名は中世の定期市に由来すると考えられるが、史料上の確認は得られていない。
 慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえる。江戸時代を通じて旗本船越領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高303石余とあるが、天和3年(1683)頃の摂津国御料私領村高帳では202石余となっており、以後幕末まで同高となっている。溜池として西市場池があったが、現在は埋め立てられ、市民総合スポーツセンターとなっている。
------------------------(資料2おわり)

豊嶋河原古戦場跡(戦前の箕面川の様子)
続いて、西市場城についてのいくつかの資料をご紹介します。推定地は、現池田市豊島北です。出典は文末に示します。

(資料3)------------------------ 
◎西市場にあって、東西180メートル、南北157メートル、周囲700メートルの地域が城跡で、現在は畑地あるいは宅地となって、なんら見るべきものはない。しかし、地形やや高く、南北西の3面に水田を巡らして溝渠の状をなしている。土地の人はこれを堀と呼んでいる。当城は観応年間(1350-52)、瓦林越後守が築いて拠った城地という。【日本城郭全集9(人物往来社)】
◎『北豊島村誌』には「西市場の西、役場の北方、現在”濠”と呼ばれている一段低く細長き田によって囲まれている地がそれか」とあり、周濠を回した館城かと思われるが、現在ではまったく消失。『摂津志』には「瓦林越後守所拠」とあるが、その歴史については未詳。【日本城郭大系12(新人物往来社)】
------------------------(資料3おわり)

また、西市場城の南側の至近距離、箕面川を跨いだ対岸にも今在家城があったと伝わっていますので、それについての資料も参考までにご紹介します。
※日本城郭全集9(人物往来社)P41

(資料4)------------------------
【今在家城】(当時:池田市今在家町)
北今在家の西南にある。天文より天正年間(1532-91)まで、池田城の支城として池田氏の一族が守備していた。
------------------------(資料4おわり)

池田城を本城とする周辺の要所との支城関係については「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(池田城と支城の関係を考える)」をご覧いただければと思います。

さて、このように地域的には北河原村と西市場村は西国街道沿いの要地であり、また、それらの立地も池田城や伊丹城にとっては、重要な地域でもありました。
参謀本部陸軍部測量局の地図(西市場村付近)
上記「資料3」にもあるように、西市場城の城主は瓦林越後守であったと伝わっているようで、その年代は曖昧なところがあるようですが、これが荒木村重の重臣であった同名の人物ではないかと思われます。時代としては、天文から天正年間だろうと思います。
 勿論、伝承の時制が正しく、同名で同じ官途の別人という可能性は、ゼロでは無いのですが、今のところ、筆者の調べている範囲で、その整合性を考えてみます。

瓦林氏は、摂津国武庫郡の瓦林城を中心として活動した国人土豪ですが、その瓦林城の史料上の初見が、建武3年(1336)とされています。また、『瓦林正頼記』にあるように、永正年間(1504-21)頃に瓦林氏は最盛期であったようです。その後、三好長慶が越水城に本拠を構えるようになると、次第に独立性を低下させ、その配下に組み込まれた勢力に変化したのではないかと思われます。
 いつ頃の事かはハッキリとしませんが、三好家中の分裂(三好長慶没後)に相対するように、瓦林家中が分裂したようです。長慶の側近であった松永久秀の重臣として、瓦林三河守や同名左馬允重秀などが見られます。
 ちなみに、元亀元年(1570)9月28日、瓦林三河守は三好三人衆方篠原長房の軍勢に攻められて、一族郎党106名と共に戦死し、瓦林氏宗家は絶えたと考えられます。
 天正5年(1575)12月1日、織田信長が京都等持院雑掌へ宛てて朱印状を発行していますが、これは、等持院が元々持つ摂津国瓦林・野間などの地域の年貢を直接収納する事を認める内容で、この頃には、本拠地においても瓦林氏の活動実態が存在しなかったと考えられます。以下、その資料です。
※織田信長文書の研究(下巻)P338、天龍寺文書の研究P315

(資料5)------------------------
等持院領摂津国瓦林・野間・友行名所々散在事、数通の判形・証文帯し之上者、直務相違有るべからず、然る者近年拘え置く之積もり分早速院納、次ぎに臨時課役等、有るべからず之状件の如し。
------------------------(資料5おわり)

瓦林氏の盛衰は、上記のような流れですので、瓦林家としての「本家(本流)」という核を持ち、一族が有機的に機能している間、つまり、瓦林家が栄えてい時代には、他家へ一族の者が身を寄せるような可能性は低いだろうと思います。池田家中に見られる瓦林氏は、同家の勢力が衰えるような事が無ければ、その必然性はありません。
 家中の内紛などで対立した同族一派が外界の敵対勢力に入るという事例もあったと思いますが、それらの詳しいことは現時点では、残念ながらわかりません。

さて、ここで池田家中での瓦林氏の活動をご紹介します。文書は短いのですが、その内容に20名が署名している文書です。また、この史料の年記は不明ですが、個人的には、元亀2年(1571)と推定しています。6月24日付けの文書です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503など

(資料6)------------------------
内容:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名者:小河出羽守家綱(不明な人物)、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫数秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■萱野助大夫宗清、池田勘介正行、宇保彦丞兼家
※■=判読不明文字。
------------------------(資料6おわり)

上記の「資料6」では、瓦林加介某という人物が、池田家中の主要な人物として、連名で署名しています。この加介が、後に「越後守」に身分を上昇させ、荒木村重の重臣に取り立てられるようになった可能性が高いと思われます。
 ただ、いわゆる軍記物ではしばしばその名が見られるものの、池田家中での瓦林氏の一次資料は、この1点のみであるため、断定するには少々の心細さもあります。

しかしながら、奈良春日社南郷目代(荘官)の今西家に伝わる帳簿には、永享元年(1429)8月日の記録に「河原林方」との記述が見られます。
 今西氏は、寿永2年(1183)に摂関家の荘園「垂水西牧」が、春日社に寄進されたのを契機に、現地管理のために派遣された目代です。しかし、その管理方法は時代により変化します。室町時代から戦国時代になると、地域の自立化が進み、武士や有力者の台頭で、独自管理が難しくなり、春日社などの荘園領主層は、地域の有力者(主に武士)に税の徴収などを委託するようになります。
荘園の仕組(西牧江坂郷の場合)
それを「代官請(だいかんうけ)」といいますが、池田氏はこの代官請を周辺の領主からいくつも任されて、収納の代行業務も行っていました。もちろん、池田氏は25パーセントほどの手数料も貰っています。
 この永享という時代には、既に池田氏は既に存在していますが、まだ西牧内の給人の一人(番や番子)で、飛び抜けて大きな勢力には成長していない、発展途上にある段階でした。そんな時代の記録ですので、河原林氏と池田氏は、横に並んだ給人同士といった感じだったのでしょう。
 両者の接点として、興味深い史料です。また、そういう意味で、 この記録は史料上の河原林氏の初見です。
 それから、この河原林氏は、瓦林越後守に直接つながるかどうかは、今のところ不明ですし、この後の今西家の同記録(毎年の記録が残っている訳ではない)では見受けられず、一時的な事だった可能性もあります。
【図の出典】
◎荘園物語 - 遠くて身近な中世豊中 -(豊中市教育委員会 2000年刊)
※図のキャプション:室町時代には、春日社から現地管理のために今西氏が派遣される。有力名主を番頭に、他の名主を番子とし、番頭22人で番を組んで4つの番で年貢の納入を分担した。

時代は下って、「春日社領垂水西牧御柛供米方々算用帳(御柛供米方々算用状)」という天正4年(1576)の記録の中に「瓦林越後(守)方」との記述が見えます。
※豊中市史(史料編2)P494

(資料7)------------------------
 一、垂水之新左衛門扱
伊和寺分半分也
 2石1斗5升5合 池田將監方
同人弁
 2石8升7合
伊和寺分半分也
  2石1斗5升5合 瓦林越後(守)方
蔵納に仕候
------------------------(資料7おわり)

瓦林越後守は、垂水西牧内に給人としての活動も行っていた事がわかります。

一方で、瓦林越後守は、堺商人の天王寺屋宗及の茶席に顔を出していたようで、茶会記の記録で見かけられます。その部分を抜き出します。
※茶道古典全集8(淡交社)

(資料8)------------------------
◎天正元年(1573)12月10日条:
(前略)同 日昼 摂津国瓦林越後守、関本道拙
一、炉にフトン 長板に桶・合子、二ッ置、(後略)
◎天正6年(1578)1月30日条:
耳徳、瓦林越後守、瀧本坊 3人
炉にフトン、後に手桶、備前水下、(後略)
------------------------(資料8おわり)

上記「資料8」では、単なる茶席への出座では無く、その顔ぶれや時期が政治史にとっても重要な意味を持ちます。
 その視点で、天正元年12月10日の茶席について見ると、この時の瓦林越後守は、もしかすると、池田方での行動だった可能性があります。この茶席の前後を見ると、池田清貧斎(紀伊守)正秀が度々茶席に出ており、清貧斎が所持していた名物茶器までもが茶席で披露されるなどの動きが見られます。
 実は、村重が地域勢力の主導者になってから茶席に顔を出すのは、天正4年6月6日に、天王寺屋宗及に招かれてからで、意外な事にそれ以前は、記録に見られません。その被官の名前さえも見られず、それまでは全て、池田清貧斎の名前です。
 また、軍事的にも、村重が摂津国内で優勢になるのは、天正2年11月に伊丹城を落とした後で、少なくともそれ以前は、織田方が五畿内地域で優勢ではありますが、反織田方勢力を圧倒していた程ではなかった状況だと思われます。
 それらの状況を鑑みると、天正元年12月の瓦林越後守の茶会出席は、この時の所属としては、池田方だったかもしれないとも考える訳です。ただハッキリしている事は、この時点で「越後守」の官途を名乗っていた事は間違いありません。

次に、荒木村重の重臣として行動している時期の瓦林越後守に関する資料をご紹介します。村重が織田政権から離反して直ぐの頃、(天正6年と考えられる)11月8日付けで、本願寺宗坊官下間刑部卿法眼頼廉が、備前・美作国大名の宇喜多和泉守直家宿所へ宛てて音信している資料です。
※兵庫県史(史料編・中世9)P476

(資料9)------------------------
諸警固、一昨日6日摂津国木津浦に至り御着岸候。当寺(大坂石山本願寺)大慶此の事候。仍って摂津国表之儀、先書申し入れ候へき。定め而相達すベく候。荒木摂津守村重自り、證人為息女並びに父子血判之誓詞越し置かれ候。即ち同国欠郡中嶋表付城共破却候。瓦林越後守、是の者此の間当寺へ之使者に候。是れも人質為実子両人、神文等到来候。此の方之儀は此の如く相卜(うらなって選び定める。望む、期待する。)候間、御心安されるべく候。将又、(毛利被官)乃美兵部丞宗勝・同児玉就方に荒木村重往来之様、御留守に自り懇ろに伝達為すべく候之間、■申すに及ばず候。其の外方々吉事迄候。現形すべく候間、追々申し伸べるべく候。然者、此の節頓に陸路之御働き肝心に候。猶、後喜を期し候。恐々謹言。
※■=欠字。
------------------------(資料9おわり)

次は、同年の同じ状況下で、同月14日に毛利輝元一族小早川隆景が、同被官粟屋元種へ音信した資料ですが、同日付で同じ人物へ宛てた資料がもう一通あります。そちらは長文なので、以下は短い方をご紹介します。また、元種はこの時、摂津国方面を担当していたようです。
※兵庫県史(史料編・中世9)P476

(資料10)------------------------
追々申し上げ候。一、度々申し上げ候1,000貫之儀、いよいよ差し急がれるべく候。御油断無き之由候間、御上せ待ち奉り候。一、荒木摂津守村重所へ、今度御味方御祝着之段、御使者早々差し上せられ候儀、肝心に候。一、御太刀・銘物・銀子100枚、是者、軽々と仰せ遣わされ分たるべく候と聞き申し候。息新五郎(荒木村次)、並びに今度一味に成り仕り候荒木志摩守元清・河原(瓦)林越後守、両3人へ者、荒木村重への御祝儀御儀定随われ、仰せ付けられるべく候。天下之大忠之致す之間、題目浅からず候。各御談合過ぐべからず候。恐惶謹言。
------------------------(資料10おわり)

村重が、織田政権から離反し、足利義昭方勢力へ復帰するにあたり、人質を差し出して(何らかの事情で、実際には大坂本願寺へ人質を送っている)いるようです。
 それについて、地域勢力を主導する村重が、忠誠の証として実子を入れる事は当然というか、自然な流れだと思いますが、それに加えて、村重と同族の同苗志摩守元清と瓦林越後守も実子を人質に差し出しています。村重と同族の元清についても同上の理由で理解できます。しかし、瓦林越後守は、その流れからすると特異であると思います。
 一方で、対外的に信用を繋ぐためには、権力の中心人物が重要人物を人質として出すというのは、一般的理解としては、自然な事と思われます。
 則ち、瓦林越後守は権力中枢にあって、村重の側近としての地位であった事が、この人質差し出しの行動から判断できるのではないかと思います。

さて、視点を池田家時代に戻します。

そもそも、今も昔も、人間の社会的関係、組織内の個人の役割りや地位は、信用と信頼関係があってこそ附属するもので、それらは急に成せるものではありません。そこに至るまでの数々の実績があって、更に発展・強化されていくのが摂理です。
 この瓦林越後守についても、村重の地域政権の活動の前に得ていた、信用と実績があってこそですし、その視点無くしては、事実の解明も進まないと思います。

西市場城跡の付近(2001年頃撮影)
西市場城についての伝承の通り、そこが池田家中の瓦林氏の本拠だったとすると、戦争になれば常に最前線になる可能性が高い、常に緊張感のある地域であったと思われます。
 そういう環境ですので、池田本城に対する支城的な役割りを持っていたと考えられる要地でもありました。また、地名が示すように「市場」があったと考えられ、且つ、西国街道という官道(国道)に沿った集落であり、経済・軍事的には非常に重要な位置付けでした。
 ちなみに、この付近は「豊島冠者故居(てしまかじゃこきょ)」とも伝わっていて、池田氏の祖にあたる一族が盤踞したところともされています。元歴(げんりゃく)から文治(ぶんじ)年間(1184-90)の頃、鎌倉幕府の開幕前の時代です。
 そんな重要な地域ですので、「資料4」にあるように今在家城の存在も伝承としてあります。西市場城からすると、箕面川の対岸の南側です。西国街道を意識した施設だったのでしょう。
 こちらは、西市場城よりは具体的な伝承で「池田城の支城として池田氏の一族が守備していた」とされています。池田氏の一族とは、もしかすると瓦林氏を指しているのでしょうか?時期も天文から天正年間とし、正に今回のテーマの指向性と合致しています。自然に、また必然として、今在家城は西市場城と協働する施設であったと考えられます。
 ただ、こちらも発掘調査などは行われていませんので、公的な知見は得られていません。ですので、「存在すれば」という事になりますが、伝承は残っているという事実はあるのです。

それから、色々な史料を読んでいると、しばしば池田領内に敵が攻め入る状況が見られるのですが、この西市場城の直ぐ南を流れる箕面川が、領域の結界(防衛線)になっていたと思われます。
 池田長正時代(1550頃-1564)後半には、池田本城を中心とした支配領域が拡大し、次の勝正の代にもそれが引き継がれて、安定・固定化します。そのひとつの目安として、自然要害であり、水の支配の象徴である「川」、箕面川が境界になったのではないかと考えられます。
現在の箕面川の様子(2001年頃撮影)
そして、その箕面川は猪名川と合流し、その猪名川は池田からすると、東側の要害です。(猪名川については、早い段階でそういった概念が創出されて、今では定着しています。)それらの川に囲まれた地域は、広義の意味では「城内」的な、いわば池田の「庭」のような感覚の領域であったと思われます。
 実際には、池田家はそれらの川を大きく越えた領域を支配しており、豊嶋郡全域を中心として、西は川辺郡の一部、東は嶋下郡の一部、北は、能勢郡の部分を支配していました。
 更に京都や堺、摂津国平野郷などに屋敷を持つなどして出先機関を有し、余野などの交通の要衝の有力者とも姻戚関係を持つなどし、最盛期には摂津国内で、最大の勢力を誇るまでに成長していました。
 そんな環境の中で最前線とも言える緊張地域に本拠を置いていた池田家中の瓦林氏にとっては、このように年々拡大する支配領域のお陰で、次第に西市場城の瓦林氏も緊張状態が低下し、相対的に豊かにもなっていった事と思われますが、そこに至るまでの瓦林氏の貢献は小さくは無く、それについての池田家中での信用度は大きく育っていったのではないでしょうか。
 それが「資料6」に署名している瓦林加介某で、後に同一人物が「越後守」の官途を得て、活動していたと考えられます。また、同資料に署名する人々は、地域統括もしていたらしき人物で、藤井権大夫数秀は「加賀守」を後に名乗り、現箕面市中北部地域を、萱野助大夫宗清は同市萱野地域一帯を、また、神田才右衛門尉景次は現池田市神田地域一帯、宇保彦丞兼家は同市宇保地域一帯など、各氏はそれぞれの地域の有力者でした。
 そしてまた、これらの人物は、ほとんどが荒木村重政権に吸収されていて、引き続いて、地域統括の役割りを担っていたものと考えられます。

さて、西市場村を本拠としていたとされる瓦林氏は、いつ頃からそこに入ったか、詳しいことは解りませんが、池田家中に、瓦林氏が存在した事は史実として明らかですし、その瓦林家が何代か続く中で「越後守」の官途を代々名乗った可能性もあります。はたまた、栄典授与での、瓦林家にとって前例の無い官途叙任だった可能性もあります。
 いずれにしても、先述のように、外来の人物が直ぐに、組織の信用を得る事は難しいでしょうから、西市場村での一定期間の活動は、あったのだろうと思います。瓦林氏が一時期、上位権力と結びついた時代もあったことから、そういう人脈を活かした活躍をしたのかもしれません。

ですので、伝承にあるように、観応年間の結びつきも全く事実無根とは言えない可能性があります。同時に、悪意無く、時代の記憶違いである可能性もあります。
 他方、城そのものがあったかどうかは、発掘調査など公的な知見は得られていないので、何とも言えないところがありますが、文献から見ると、上記のように筆者が提示した可能性が考えられると思います。

この瓦林越後守については、荒木村重が主導する地域政権、また、近畿の政治史にとっても重要な人物ですので、今後も文献的にも物理的にも事実を確定させていく事が望まれます。今後に期待し、自らも今後また、関心を持って掘り下げて行きたいと思います。


2016年10月26日水曜日

元亀元年(1570)8月13日、摂津国河辺郡の猪名寺付近(現尼崎市)で行われた「猪名寺合戦」について

元亀元年(1570)6月18日、摂津守護池田家中で内訌が発生し、池田家は三好三人衆方となりました。幕府は有力勢力を失いましたが、この敵である三好三人衆にとっては、その真逆の力を得る事となりました。
 しかし、三好三人衆方の池田衆は、南への連絡路が無く、当初はこれを早急に開く必要を生じさせていました。猪名寺合戦は、この目的で画策されたと考えられます。実際の合戦時期は、微妙に目的要素の優先度が入れ替わっているですが、複合的な必要性で合戦に至ったと思われます。
 それから、永禄12年4月に伊丹氏は、幕府から河辺郡潮江庄代官職を認められている事から、同地域を三好三人衆方に侵される状況にあって、不十分ながらもこれらの排除のために出陣したとも考えられます。 加えて、猪名寺合戦直前の7月12日付けで、伊丹忠親が尼崎本興寺に宛てて禁制を下していますので、尼崎の保護・確保のために取った軍事行動でもあると思われます。
 そしてその交戦の場となった、猪名寺村についての資料を下にあげます。
※兵庫県の地名1(平凡社)P478

(資料1)---------------------------
参謀本部陸軍部測量局の地図(猪名寺部分)
【猪名寺村】
田能村の西に位置し、北は大坂道で伊丹郷町下市場村(現伊丹市)、北東部を猪名川と分かれたばかりの藻川が流れる。正和5年(1316)の作と推定される行基菩薩行状絵伝(家原寺蔵)に、奈良時代に僧行基が建立した「猪名寺給孤独園」が描かれる。明徳2年(1391)9月28日の西大寺末寺帳(極楽寺文書)に猪名寺がみえる。
 元亀元年(1570)8月13日、尼崎に在陣していた淡路の安宅勢が伊丹方面に軍勢を繰り出したのに対し、織田方の伊丹城から猪名寺に軍勢が出され、高畠(現伊丹市)で合戦が行われている(細川両家記)
 慶長国絵図に猪名寺とみえ、高432石余。元和3年(1617)の摂津一国御改帳には猪名寺村と記され高422石余、幕府領(建部与十郎預地)。寛文6年(1666)大坂定番米津田領となり、天和4年(1684)幕府領、同年2月松平乗次領、元禄6年(1693)幕府領、同7年松平乗成領となり、宝永元年(1704)幕府領となったが、延享3年(1746)三卿の田安領となり明治に至る(尼崎市史)。
真言宗 法園寺(真言宗御室派)
用水は猪名川水系三平井・猪名寺井掛り(同書)。宝永7年の村明細書(西沢家文書)によれば、文禄3年(1594)に片桐市正の奉行で検地を実施。家数83、うち高持百姓43・柄在家日用働40、人数407、寺は真言宗・一向宗各1、氏神は伊丹にある。地面取実1反につき米は、1石3、4斗より2石、木綿300目を1斤にして7、80斤より100斤余、麦1石6、7斗、小麦6、7斗。田畑合計39町4反余。馬5・牛16。耕作のほか伊丹酒屋で日用。切畑村(現宝塚市)領長尾山山子村として山手銀を納め草を刈っていた(「長尾山山子村々山手銀届」和田家文書)。
 伊丹郷町明細帳(武田家文書)によると郷町の氏神野宮(現伊丹市猪名野神社)の氏子で、神事費用を負担している。同社は延喜4年(904)当村から現在地に移されたと伝える。明治12年(1879)調の寺院明細帳によれば、真宗本願寺末法光寺、真言宗仁和寺法園寺(真言宗御室派)がある。
猪名寺廃寺跡周辺の地形の勾配差(南東辺)
法園寺は、和銅年間(708-715)行基開基と伝え、天正7年(1579)焼失により廃寺。宝暦8年(1758)定暠再興、明治6年無檀のため伊丹金剛院に廃合されたが、同15年再興。明応(1492-1501)末年頃と推定される宝篋印塔残欠(基礎)がある。西沢家は代々庄屋役を勤めた家柄で、寛永13年(1636)をはじめとする2,650余点の文書を所蔵。
藻川西岸の標高約11メートルの段丘上に猪名寺廃寺がある。昭和27年(1952)・同33年に発掘が行われ、法隆寺式の伽藍配置であることが判明。金堂は凝灰岩切石による壇上積基壇。創建瓦は川原寺式のものが含まれ白鳳期と考えられている。南方500メートルには猪名野古墳群や、瓦・緑釉土器等の出土した中ノ田遺跡などがあり、為名氏の寺院とみられている。
---------------------------(資料1おわり)

上記資料(1)によると、猪名寺村内にある法園寺は、天正6年冬からはじまった荒木村重の乱により、翌年には兵火を受けて焼失したと伝わっているようです。やはりこの時も伊丹を守るための出丸や砦のような役割りがあったのか、猪名寺村が攻められたのでしょう。元亀の猪名寺合戦の時も、同じような位置付けにあったのではないでしょうか。

猪名寺合戦を考える時に、少し周辺状況を俯瞰してみます。

池田家の内訌から10日後の6月28日、三好三人衆勢力が摂津国吹田へ上陸し、京都・大坂の水運の要所を制しました。
 これに関連のある動きとして、7月付けで、池田民部丞が山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下しています。これは池田勝正の後任当主かもしれないのですが、今のところ詳しくは解りません。なお、同一人物が、9月付けで摂津国河辺郡多田院に、11月5日付けで同国豊嶋郡箕面寺へ宛てて禁制を下しています。
 これらは何れも、既に池田家当主が禁制を下した実績がある場所で、また、先方から禁制を求められる程の名の通りと実力があったと考えられます。

さて、話しを猪名寺村付近の地域動静に戻します。

猪名寺廃寺段丘東側の藻川。正面は五月山。
吹田に上陸した三好三人衆勢を、幕府・織田信長勢力が攻撃し、7月6日に吹田周辺で交戦しています。その間に、摂津守護伊丹忠親は、尼崎を押さえるために動き(後巻きの意味もあったでしょう)、同月12日付けで尼崎本興寺へ宛てて禁制を下していいる事は、先にも述べたところです。
 この後、同月下旬頃からは、三好三人衆勢の動きが活発化します。27日から翌月5日までは、時系列を参照願うとしまして、9日、三好三人衆方で淡路衆の安宅信康勢は、兵庫から尼崎へ進んでいます。
 この安宅勢と池田衆が、伊丹方面へ進み、交戦となりました。この頃の伊丹城は、後に荒木村重が改修して有岡城とする前であり、基本的な防衛プランは共通していると察せられますが、中世的な、防御要素が散在する状況だったと思われます。
 そのため、街道を通し、周囲より小高い地形を成す猪名寺は重要な防衛拠点だったとも思われます。また、猪名寺の東を流れる藻川・猪名川は、川幅が広く、通常は水嵩も左程高くないために徒渉が可能です。江戸時代にも橋は架けない(防衛上の意味もあるが)方針が採られていたようです。
 
猪名川・藻川の渡河可能推定
この渡河できる地点と街道、渡しの場所などを詳しく検証しているサイトがあるので、そこから図を引用させていただきます。このサイトは、羽柴秀吉の「中国大返し」から天王山の合戦への道程と経緯を深く掘り下げられています。
【出典サイト】「少し歴史の話」へ ようこそ!:少し調べ物をしたら、「歴史」のツボに嵌ってしまった!!
※ご注意:これらの資料を引用させていただくにあたって、情報元の方にご連絡しようとサイト内を探したのですが、連絡先がなく、引用元の明記を以て、ご挨拶に代えさせていただきます。もし、不都合がありましたら、当方までご連絡いただきたく、お願い致します。

猪名寺合戦について『細川両家記』に記述があります。安宅勢が尼崎から北上し、伊丹城周辺を打ち廻りましたが、池田衆もこれに呼応して伊丹方面へ出陣した模様です。池田衆は、後巻きの役割だったのかもしれません。これを見た伊丹勢は、100名程が城から出て応戦しようとし、猪名寺辺りまで出た所で交戦となって、池田衆もこれに加わったようです。伊丹勢は劣勢となって押し返され、池田衆が高畠辺(有岡城縄張内の南部にある高畑村と関係するか)あたりで、4〜5名を打ち取り、伊丹衆は城へ退いた、としています。細川両家記の「猪名寺合戦」の模様を以下にご紹介します。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

(資料2)---------------------------
一、同8月13日淡路衆安宅勢相催し候て伊丹辺へ打ち廻る也。池田も一味して罷り出候也。然るに伊丹城より100人計り猪名寺と云う処へ出られ候。寄せ手、此の衆へ取り懸かり、高畠辺にて4〜5人池田衆が*討ち取り、打ち帰られ候也。淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也。
※『細川両家記』での「へ」は、現代感覚の「が」としての意味合いで文中に用いる傾向があるように思われる。
---------------------------(資料2おわり)

この交戦により、三好三人衆方がこの方面では優位を確保し、伊丹の孤立化を図る事ができたと思われます。
 文中の「淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也」とは、淡路衆の兵庫から尼崎への陣替えが、尼崎惣中の外だったという状況だったかもしれません。考えられるのは、本興寺と同じ日蓮宗ですが、より三好三人衆方に縁が深い長遠寺のある別所村でしょうか。
 伊丹方が7月12日付けで本興寺に宛てて禁制を下しているので、この時までは尼崎本興寺などに伊丹衆が居て、猪名寺の交戦で優位となった安宅衆がその勢いを借って、本興寺の伊丹衆へも攻撃し、尼崎を制圧したのかもしれません。
慶長国絵図を元に地形と街道の関係を推定復元
また、当時の伊丹と猪名寺との地形を考えるための参考になる図があるので、引用させていただきます。慶長国絵図を元に、地形と街道の関係を推定復元されています。猪名川を渡河するための道が何本かあり、それらを使って池田衆が、伊丹城攻めのために、進軍したのかもしれません。
【出典サイト】「少し歴史の話」へ ようこそ!:少し調べ物をしたら、「歴史」のツボに嵌ってしまった!!
 ちなみに、田能村出身の武士の田能村氏は、どちらかというと池田氏よりの関係だったらしく、そういう環境を利用して進軍したり陣を取ったりしたと考えられます。

一方、この頃の河内国方面では、8月17日に古橋城(現門真市)が落ちましたが、ここは兵站基地でもありました。ここに伊丹方の軍勢が150名程入っていた(三好義継方からも150名)のですが、攻撃によりほぼ全滅しています。
 これは、この10日程後の記録として史料に現れる、幕府・織田信長方勢力の陣取り場所である「天満森」への物資供給の準備だったと思われます。この時の古橋城は、兵粮の集積を行っていたとの記述があります。

さて、このように一旦は三好三人衆方が優勢となりましたが、態勢を立て直した織田信長は、決戦のために大挙して摂津国欠郡天満森へ入り、三好三人衆方の拠点である野田・福島を攻める準備を整えました。
 この動きにより、幕府・織田方勢力は勢いづき、三好三人衆勢を圧倒するかに見えましたが、9月13日に大坂の石山本願寺が蜂起し、形勢は逆転します。同月23日、信長は天満森から撤退を決めて開陣、兵の多くは防衛のために京都へ退き、近江国へも軍勢を割く必要性に迫られました。
 同月27日、三好三人衆方の篠原長房勢が兵庫へ上陸した事を機に、再び三好三人衆勢の攻勢が強まります。尼崎や西宮、堺などの大坂湾岸は三好三人衆方が実効支配するに至りました。

しかし、織田信長が禁裏を動かし、天皇による調停が呼びかけられると、三好三人衆を始めとした同盟勢力がこれに応じてしまい、信長は劣勢を仕切り直す事に成功しています。

最後に、以下、元亀元年(1570)の池田家内訌後からの猪名寺合戦に関係する要素を時系列に並べてみます。

(資料3)---------------------------
 【1570年(元亀元)】
6/18  池田家中で内訌発生
6/18  将軍義昭、近江国高島郡への出陣延期を通知する  
/19  池田勝正、将軍義昭へ状況を報告
6/19  将軍義昭、近江国高島郡への出陣再延期を通知する 
6/26  三好三人衆方三好長逸・石成友通が池田城に入ると風聞
6/26  池田勝正、将軍義昭と面会
6/27  将軍義昭、近江国高島郡への出陣を中止する
6/28  摂津守護和田惟政、同国豊嶋郡小曽根春日社へ宛てて禁制を下す
6/28  三好三人衆勢、摂津国吹田へ上陸
7       摂津国河辺郡荒蒔城を荒木村重などの池田衆が攻める?
7     三好三人衆方池田民部丞、山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下す
7/6   幕府・織田勢、吹田で交戦
7/12  摂津守護伊丹忠親、尼崎本興寺へ宛てて禁制を下す
7/27  三好三人衆方三好長逸、摂津国欠郡中嶋へ入る
7/29  三好三人衆方安宅信康勢、摂津国兵庫に上陸
8/2   三好三人衆など、山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下す
8/5   三好三人衆勢、河内国若江城の西方へ付城を構築
8/9   三好三人衆方安宅信康勢、尼崎へ陣を移す
8/13  摂津国猪名寺合戦
8/17  三好三人衆勢、河内国古橋城を落とす
8/25  織田信長、摂津国へ出陣
8/25  三好三人衆方摂津国原田城(池田氏に属す)が自焼する
8/27  池田勝正など幕府・織田信長勢、摂津国欠郡天満森へ集結
9     三好三人衆方池田民部丞、摂津国河辺郡多田院へ禁制を下す
9/3   三好三人衆方三好長逸など、池田城を出て野田・福島の陣へ入る
9/8   摂津守護伊丹忠親・和田惟政、池田領内の市場を打ち廻る
9/10  織田信長、野田・福島城を攻撃
9/11  織田勢、欠郡中嶋内の畠中城を落とす
9/12  織田勢、野田・福島城を総攻撃
9/13  本願寺宗、幕府・織田信長に対して蜂起
9/23  幕府・織田勢、摂津国方面から総退却
9/27  三好三人衆方篠原長房勢、兵庫に上陸して越水城を攻める
9/28  三好三人衆方篠原勢、尼崎へ移陣
10/8  三好三人衆方篠原勢、伊丹勢を攻撃
10/10 三好三人衆方三好長治、尼崎本興寺内貴布祢屋敷へ宛てて禁制を下す
10/10 三好三人衆方篠原実長など、尼崎本興寺西門前寺内に宛てて禁制を下す

10/15 織田信長、伊丹忠親へ守備を堅くするよう音信
10/下  三好三人衆方篠原勢、越水城を落とす
11    三好三人衆方池田衆の中川清秀など、池田周辺諸城を攻める?
11/5  三好三人衆方池田民部丞、摂津国箕面寺に宛てて禁制を下す
11/7  三好三人衆方篠原長房、堺に入る
11/21 織田信長、三好三人衆と停戦して開陣する
12/8  幕府・織田信長、三好三人衆と和睦する
12/13 幕府・織田信長、浅井・朝倉方と和睦する
12/24 幕府・織田信長、石山本願寺と和睦する
---------------------------(資料3おわり)



2016年10月22日土曜日

摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

大尭山長遠寺
兵庫県尼崎市に大尭山長遠寺(ぢょうおんじ)という古刹があり、そこに甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の、特別に顕彰された墓があります。
 今のところ不明な事が多いのですが、この人物は同寺を再建した大檀越(おおだんおつ(だんおち):寺や僧に布施をする信者や檀家の事。)として墓(正長:台上院正蓮日寳大居士、妻:清冷院妙蓮日禅大姉)と碑が祀られています。
 今のところ、判る範囲をお伝えしておきますと、長遠寺内にある多宝塔(尼崎市内唯一、国指定重要文化財)を慶長12年(1607)に、甲賀谷正長が施主となって建立し、元和元年(1615)9月5日、日蓮書状(乙御前母御書)を日蓮筆曼荼羅本尊(まんだらほんぞん)と共に長遠寺へ寄進、同9年5月、本堂を造営するなどしています。
【参考】尼崎市公式ホームページ:日蓮書状(乙御前母御書)
 また、この正長の嫡子(二男以下か)と思われる文左衛門が、現此花区伝法にある同じ日蓮宗の海照山正蓮寺を寛永年間(1624-44)に創建(寛永2年(1625)と伝わる)しており、甲賀谷氏の日蓮宗への信仰の篤さと忠誠心を知る事ができます。

「甲賀谷」という名字、「正長」という諱は何か摂津国池田郷と関係しているように感じます。また、この長遠寺は、荒木村重とも関係が深いお寺でもあります。
 という事からしても、甲賀谷夫妻と摂津池田は、浅からぬ縁があるように思うのですが、今のところその確定的な資料もありませんが、以下、筆者がそのように感じる根拠としての史料をご紹介しておきたいと思います。下記は、長遠寺についての資料です。
※兵庫県の地名1(平凡社)P446

(資料1)-----------------------
甲賀谷正長夫妻の墓
【長遠寺】
江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった。
 開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
甲賀谷正長の墓の説明碑
さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
 江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
 本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
-----------------------(資料1おわり)

それから、同寺がどういう立地環境にあったのか、中世の尼崎の様子を復元している研究がありますので、抜粋してご紹介します。
※地域史研究(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-):中世都市尼崎の空間構造(藤本誉博氏)より

(資料2)--------------------
16世紀の尼崎(推定復元図):図4
3. 一六世紀の様相
(前略)
尼崎惣社である貴布祢神社(★せ)は、当該期には本興寺の西、近世尼崎城の西三の丸に立地していた。本興寺の西門前は、尼崎城建設の際に城下町へ移転したが、その町は「宮町」と呼称されていた。宮町とは貴布祢神社の門前に由来すると考えられる。貴布祢神社の門前と本興寺の西門前とが重なる立地になっており、貴布祢神社と本興寺は、ほぼ隣接する位置関係であった。本興寺は貴布祢神社の領域に寺領を広げる動きを見せていた。貴布祢神社の宮町が本興寺の門前に組み込まれた契機は、先述の本興寺による尼崎惣中への資金援助であった可能性もあろう。
 また、本興寺と同じ法華宗である長遠寺(○17)は、市庭の南東に立地し、三好氏の後に畿内に勢力を伸ばした織田権力を背景に寺内を構えた。おそらく、市庭や辰巳に挟まれた比較的開発の遅れていた所に寺地が設定されたのであろう。また、信長の配下の荒木村重は長遠寺に総社貴布祢神社の祭礼諸職を進退するよう定めている。これら三好氏、織田氏の動向を鑑みると、当該期の武家権力は、法華宗の特定の寺院を媒介して尼崎への関与を強める支配方式をとっていたと考えられる
(中略)
当該期は真宗や法華宗の勢力が拡大し、寺院の増加や寺内を構える動向が確認できた。また、法華宗寺院を介した武家権力の尼崎支配の動きも確認できる。
(中略)
長遠寺の寺内は先行して発展していた市庭・辰巳・別所の町場からはずれ、開発が遅れていたであろう場所に建設されている。
 長遠寺建設に際しては、信長(村重)権力は市庭や辰巳の「年寄中」や「尼崎惣中」に建設の指示を出しているが、これらの共同体は個々の地区、あるいは尼崎全体といった地縁的な領域で結成されていた組織であろう。これまでの考察で、尼崎の都市空間は特定の寺院に依拠して成立したのではなく、立地性や交通・流通の様相に依拠して形成されてきた側面が大きいことを指摘してきた。これらの地縁的共同体は、個々の寺院に依拠しない尼崎の都市空間を基盤にしたと考えられる
(後略)
--------------------(資料2おわり)

長遠寺は尼崎に古くからあったものの、中心部に移るにあたっては、荒木村重(織田信長政権)の支援を受けつつ実現した背景もあったようです。やや直接的とは言い難いところもありますが、この点から見ても、やはり縁としては、荒木村重を介して摂津池田とも浅からず繫がっていると言えます。
 そしてその甲賀谷という名字ですが、池田城下に「甲賀谷(甲ヶ谷):こかだに」と呼ばれた集落が古くからありますので、それについての資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料3)--------------------
【甲賀谷町(現池田市城山町)】
東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
--------------------(資料3おわり)

ちなみに、甲ヶ谷町についての言い伝えでは、「甲賀」から移り住んだ人々の町と伝わっているようで、「子どもの頃からそう言われてきた」と、古老にお話しを伺いました。私がそれを聞いたのは、西暦2000年前後だったと思います。
 また、甲賀谷町の北西500メートル程のところに、長遠寺と同じ日蓮宗本養寺があり、こちらも参考としてあげておきます。同寺も京都本圀寺の関係を持ちます。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料4)--------------------
【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
 元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
 なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
--------------------(資料4おわり)

資料4の文中に、「近衛様御寺」との記述がありますが、荒木村重が台頭する前に、摂津国池田で勢力を誇った池田氏の本姓は「藤原」でしたので、藤原氏の筆頭の近衛家とは親密で、活動の基本をやはり「藤原家」の因縁に置いていたと言えます。
 それから、戦国時代頃の伝承記録として、先にご紹介した「甲賀谷町」に「甲賀伊賀守」なる人物が、家老として池田城下に居住していたとあります。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

(資料5)--------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
--------------------(資料5おわり)

なお、甲賀谷氏の直接的な史料は見当たらず、最も原典的と思われる『穴織宮拾要記』でも、伝承資料という資料環境ではありますが、甲賀谷正長が、池田郷と関係を持っていたであろう必然性は、記述の資料群からしても非常に高いのではないかと感じています。

昭和初期の甲ヶ谷周辺の記憶復元図
それからまた、戦国時代の池田城下に「甲賀伊賀守」と思しき人物が居たとされる伝承について、家老という立場であるからには、身分の高い人物と思われ、池田家中の政治にも主要な役割りを担っていたと考えられます。
 池田家の人々は、代々「正」を通字として用い、「長」も通字として使用している人物が多く見られます。加えて、池田郷は江戸時代になると、元々あった地場産業の酒造や花卉栽培業、それから、地の利を活かして、炭などを扱う問屋が集中する商業都市に成長します。
 戦国時代に兵火で荒れ果てた郷土の復興のために、没落した池田氏も重要な役割を担っていました。先ず、旧地の回復のために、池田知正や実弟光重が尽力している様子が記述されています。これまでに池田家が領有していた地域に、祭事を復活させて神輿を繰り出し、地域住民に知らしめようとしたり、郡など境界にある社寺に寄進や奉納物を納めたりして、旧地回復につなげようとする動きを続けていました。
 しかし、皮肉なことに池田は、軍事的にも、商業的にも重要な立地にあったため、徳川幕府では、直轄地として統治する方針が打ち出されて、池田家の復興を阻みました。そのため、池田知正などの後継者による、池田家の旧地復活の目論見は果たせずに終わりました。

しかし一方で、池田氏による地域統治の復古は上位権力から否定されましたが、それに代わって、商業の振興は盛大となって、経済的な復興は遂げていきます。
 ある意味、江戸時代ともなれば、流通経済(商業)ですので、流通拠点との関係づくりが必要になります。池田から大坂を始めとした諸都市へ出荷・流通させるためには、尼崎という海への出入口は、重要な位置付けとなります。
 池田にとって、江戸時代という新たな時代を迎えるにあたり、刀を算盤に持ち替えて、時代を切り拓いた人々も多くありました。その一人が甲賀谷正長であり、家業を興し、財を成したのかもしれません。
 
尼崎市の担当部署に、この甲賀谷正長の事を尋ねてみたのですが、今のところ手がかりは得られませんでしたが、これらの事を伝え、情報があればご教示いただけるよう、お願いしている次第です。今後、何か判明した事があれば、また皆さんにお伝えしたいと思います。


追記:甲賀谷又左衛門尉正長について、詳しく調べてみました。以下の参考記事をご覧下さい。

◎参考記事:此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察


2016年10月4日火曜日

近江国佐々木一族にゆかりの河内国河内郡の霊松山西光寺(現東大阪市)

浄土真宗本願寺派 霊松山 西光寺
筆者の住んでいるところに、浄土真宗本願寺派の霊松山西光寺というお寺があります。同寺は室町時代にその興りを持つ古いお寺で、その創建に近江国の名族佐々木氏につながる伝承があります。
 先ず西光寺について、公式な研究に基づく資料をご案内します。
※大阪府の地名2 P968

(資料1)-----------------------
◎西光寺(東大阪市吉原)
浄土真宗本願寺派、山号霊松山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると永正5年(1508)正善は、俗名を佐々木(大原)重綱といい、江州佐々木氏の一族で、文明年中(1469-87)戦乱を避け当地に移住。久宝寺村(現八尾市)にいた蓮如に帰依して出家し、今米村の中氏の援助で当地に道場を創設したという。もとの山号は好月山という。現寺号となったのは正保4年(1647)。当寺の住持藤井氏は豊臣方の武将木村重成の縁者で、重成も幼少の頃から当寺に出入りしている。その子、門十郎は藤井家の養子となり、代々当地一帯の六郷庄の大庄屋を務めた(大阪府全志)。
-----------------------(資料1終わり)

それから、西光寺で直接お聞きしたところによると、佐々木氏が河内国内に入国したキッカケは、福万寺城への入城だったらしいとの事です。それについて、その伝承を裏付ける資料があるので、ご紹介します。
※日本城郭全集9 P143

(資料2)-----------------------
◎福万寺城(八尾市福万寺町)
福万寺の三十八(みとは)神社の境内が城址である。文和年間(1352-55)、近江守護佐々木氏の一族の佐々木二郎盛恵が居城した。その後、廃城となり、その後に三十八神社を建てた。(吉田 勝)
-----------------------(資料2終わり)

この福万寺城は、発掘などがされておらず不詳ですが、福万寺地域には慥かに伝承が残るようです。そしてこの城は、その名の通り福万寺村にあり、その村については以下のようにあります。
※大阪府の地名2 P1015

(資料3)-----------------------
◎福万寺村
河内郡に属する。玉串川沿いの若江郡山本新田の東にあり、村の北半は東方恩地川まで、南半は恩地川を越えて更に東方に延びる。耕地は碁盤目状の区画を持ち、古代条里制の遺構とみられる。十三街道が通る。村名となった福万寺は、いつ頃の寺で、いつまであったか不明。
 「河内志」は古跡として廃福万寺をあげる。産土神の三十八神社の地は、鎌倉時代に佐々木盛綱の孫佐々木二郎盛恵の拠った福万寺城跡と伝える
 村高は、正保郷帳の写と見られる河内国一国村高控帳で1,184石余り。文禄3年(1594)12月、村高のうち52石余りが北条氏規領となり(北条家文書)、以後狭山藩北条領として幕末に至る。残りは寛永11年(1634)大坂町奉行曽我古祐領となり、曽我領として幕末に至る。曽我氏の陣屋は当村にあった。
-----------------------(資料3終わり)

福万寺城及び福万寺村にある資料と西光寺の項目内容とは、人物名や時代が異なっていますが、近江国佐々木氏は、鎌倉から室町時代にかけて大きな勢力を持つに至ります。
【参考サイト】
河内福万寺城(お城の旅日記)
福万寺城跡(兵どもが夢の跡)

それから、それを裏付けると思われるもう一つの資料をご紹介します。河内郡の隣りの若江郡に、若江城があったのですが、この城にも佐々木氏に関する伝承があります。
※日本城郭大系12 P109

(資料4)-----------------------
◎若江城(東大阪市若江本町)
若江城の名が歴史上記録された時期は、大きく二つの時期に分けられる。最初は創築者畠山氏の時代、第二の時期は天文(1532-55)から天正(1573-92)年間である。
 若江城は、高屋城を本拠とする河内守護畠山氏が築城し、代々守護代遊佐氏を置いて領国守護にあたらせた城であった。創築年代は明確ではないが、南北朝争乱のようやくおさまった、明徳・応永年間の早い時期、畠山基国の時と推定されている。
(中略)
天文初年、若江城は近江守護佐々木六角氏麾下の若江下野守兼俊の居城であった。天文6年、若江兼俊は佐々木氏に背き、大軍によって当城を包囲された。このため、兼俊およびその父円休は、降伏開城し、高野山に追放された。跡には堀江河内守時秀が城主として配された。その後城主は、若江河内守実高(天文11年頃)、若江下野守行綱(同21年6月没)、堀江河内守実達(弘治3年(1557)6月没)、山田豊後守定兼(永禄4年(1561)9月没)と替わった。この山田定兼は、近江・河内両国で5,000貫を領していたという。
(後略)
-----------------------(資料4終わり)

ちなみに、福万寺城は若江城に近く、郡毎にあった城の時代に敵対したり、はたまた、何か連携するような関係にあったかもしれません。そして福万寺の北東方向には、池島城跡もあります。
 また、上記の「資料4」にある、天文初年頃、本願寺の当主などの日記『証如上人日記』『私心記』にもやはり近江国佐々木氏関連の記事が多く見られます。この当時、本願寺教団の本拠地は、今の大阪城と同じ場所にあり、その当主がが佐々木氏を重要人物の動きとして日記に書き残しています。佐々木氏とその関係者が、大坂や近隣に来たり、直接音信したりもしています。

それから、歴史の専門機関などへ聞いてみると、河内地域には近江国にゆかりを持つ場合も少なからずようです。しかし、この西光寺のそれについては未知だったとの事でした。
 いずれにしても、伝承というのは割と正確な方向性を持っていると感じているのが、個人的な経験です。根も葉もない、捏造的なものは殆ど出会った事がありません。日本人は昔から正直だったのです。

さて、西光寺と佐々木氏についてですが、そのキッカケとなった福万寺城は、八尾市域にあり、西光寺は東大阪市内にあります。その現代の行政界が、真相に近づくための感覚を益々阻んでいるところがあります。これについて、現在の東大阪市になる前の旧河内市の変遷過程の歴史をご紹介します。
※大阪府の地名2 P967

(資料5)-----------------------
◎旧河内市地区
東大阪市域のうち主に玉串川流域を占め、律令制以来の河内郡の西部と若江郡の北東部にあたる。河内市は昭和42年(1967)枚岡市・布施市と合併して東大阪市となった。中央部を玉串川が北西流し、近鉄奈良線が東西に通る。
 古代には河内湖の入江が広がり、朝廷に供御の魚類を貢進する「河内国江厨」が設けられた。平安時代にはこれに代わって大江御厨が設置され、中世には水走氏が在地領主として御厨一帯に勢力を伸張、室町時代には年貢物の流通にも関係して活躍した
 近世には、宝永元年(1704)の大和川付け替えにより水量の減少した玉串川、分流の菱江川・吉田川の川床、新開池に新田が開発された。
 明治22年(1889)の町村制施行により、河内郡東六郷村・英田村・三野郷村、若江郡若江村・玉川村・西六郷村・北江村が成立。同29年中河内郡の成立により同郡に所属。
 昭和6年東西の六郷村と北江村が合併して盾津村が成立し、同18年町制施行。同年玉川村が町制施行。同30年この2町3村が合併して河内市が成立。同年境界変更で福万寺・上之島(明治22年成立の三野郷村の一部)が八尾市に編入された
-----------------------(資料5終わり)

この行政界の変遷を見ると、昭和30年(1955)に福万寺地域は八尾市に編入されていて、それまで何千年と河内郡にあって、同郷的な感覚を維持してきた吉原村と福万寺村は、はじめて分断されたともいえるのです。今でも市や村が違えば、そこに住む人々の帰属意識は大きく違いますが、時を遡る程、やはり大きく違います。
 ですので、吉原村内の西光寺の創建と福万寺村内の福万寺城に、佐々木氏が関わっているのは、必然性の高い理由があると考えられる訳です。多分、佐々木氏が河内国河内郡を領知(地)した事による入郡であったのだろうと考えられます。
西光寺内の灯篭にある「平四ツ目結」紋
また、西光寺を訪ねてみると、寺紋は「平四ツ目結」で、近江佐々木六角氏と同じです。これもまた、伝承を裏付ける有力な要素です。
 それから、お寺の建物を見ると、少し違和感があります。浄土真宗系のお寺とは屋根の形状が違うのです。お寺の方のお話しによると、同寺は天台宗から改宗しており、屋根の形状は、その経緯を語るもの、との事です。
 元の山号は「好月山」で、現寺号となったのは、正保4年(1647)と伝わっている事から、その時に改宗があったのかもしれません。ただ、現在の本堂の屋根の形状との関係がどういう経緯があるのかは不明です。本堂の建設は、その後のような感じもしますし...。
追伸:西光寺は大和川付け替え事業の中心人物であった今米村の中氏とのつながりが深いお寺でもあり、その付け替え工事の関係で亡くなった方々も中氏がこのお寺で供養したとの事です。

さて、天台宗といえば、比叡山ですので、やはり近江国佐々木氏とのつながりを感じさせます。詳しい事は不明ですが、時代によっての変遷が、文字に尽くされていないところがあるようです。
 色々な地域の歴史を見ていると、村全体が改宗する事により、その村にあるお寺も変わります。こういった事例が時々あります。吉原村の西光寺もそのような事があったのでしょう。

それにしても、河内国に根付いた近江国の名族佐々木氏一派の歴史が今も残るというのは、大変興味深いです。

【追伸】
福万寺城跡と伝わる、現在の八尾市福万寺にある、三十八神社です。このあたりは微高地で、西側に玉串川に隣接しています。また、俊徳街道と十三街道が玉串川を渡ってスグ、集落で合流(現福万寺公民館南西角)し、東進します。寺内町・環濠集落である有力集落「萱振(かやふり)」へも通じています。勿論、玉串川は水運の用を成しており、交通の要衝でもありました。川湊的な要素もあったでしょう。
 ちなみに、現在の玉串川は、いわゆる水尾川で、新大和川開削によって干上がった後の現象で、川の底の最小限の流れで、後年にこれを農業用に灌漑したようです。玉串川の川幅は広く、
 さて、こちらの三十八神社は清掃が行き届き、大変気持ちの良い場所です。地域の方々に大切にされていることが、訪れるとわかります。また、この付近は条里制の痕跡が今も残り、生駒山脈を間近に見ながら、畑や田んぼを眺めると、古の空間に浸る事のできる貴重な場所たと思います。
 
 
三十八神社

玉串川堤道(北方を望む)


2016年10月1日土曜日

戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)

筆者の住んでいるすぐ近くに、「中新開(なかしんかい)」というところがあります。そこは、古くからある村で、村には諏訪神社が祀られています。
 諏訪神社があるという事からも判るように、この中新開村は信濃の国の諏訪大社とつながりがあります。この村は信州から移ってきた人々が開いた土地です。神社の本殿に残されていた古文書により、天文元年(1532)に人々が移ってきた事が伝えられています。
 それは戦国時代です。神社と村の由来が、東大阪市(教育委員会)により案内されていましたので、ご紹介します。
 
(資料1)-------------
諏訪神社は、本殿内に残されていた古文書によって、天文元年(1532)信濃国諏原(すはら)之庄の住人諏訪連(すわのむらじ)の子孫らが当地に村を開き、諏訪大明神、稲荷大明神、筑波大権現の三柱を勧請したとされています。
 現在はその中で諏訪大明神をまつる一社だけが残され、覆屋の中に大切に保存されています。この本殿は一間社流造、柿葺きで、社殿の規模のわりに柱や梁などの部材が太く、木鼻の細部とともに室町様式をひくと考えられます。いっぽう、庇や身舎(もや)の四周には写実的な花鳥彫刻をもつ蟇股(かえるまた)をいれるなど、桃山様式の華やかさも混在するという特色を持っています。
 この本殿は、海老虹梁に江戸時代の様式がみとめられ、部材の多くもこの頃のものと見られる事などから、室町時代に建立されたのち、江戸初期に大改修が行われたと考えられますが、建立年代が明らかで、市内に現存する最古の建築であるとともに、中新開の歴史を伝える貴重な記念物であることから、昭和49年(1974)3月25日に市の文化財(建造物)に指定されました。
平成16年3月 東大阪市
-------------(資料1終わり)

東大阪市中新開にある諏訪神社
秋になると祭りがあり、周辺各村(集落)から「地車(だんじり)」が繰り出し、賑やかに祝いますが、中新開村からももちろん地車が出されます。やはり由来が信州という事もあってか、その衣装が少し違います。浴衣のような衣装で、近隣の村とは一線を画す文化があります。
 さて、河内国の中部は、江戸時代中期に行われた大和川付け替え工事で、それまでとは大きく地形が異なります。
 現在出回っている大和川付け替え以前の地形をある程度精密に描いた地図がないかと色々探してみましたが、細かなところは省略してあるものが多く、復元レベルの地図は未だにありません。ですので、大和川の付け替えが完了した、宝永元年(1704)以前から存在する村を頼りに地形から推定して、細かな部分を再現させるしかありません。
 そういう意味では、中新開村の歴史というのはとても参考になります。大和川が開かれる172年前に、信州から今の中新開地域へ人々が移ってきているのですから、ここはその頃も陸地だった事が判明します。
 以下、『大阪府の地名2(平凡社)』東大阪市の項目から中新開村に関する記述を抜粋してみます。

(資料2)-------------
◎中新開村
河内郡に属し、吉原村の南にある。大和川付け替えまでは東方を吉田川、西方を菱江川が流れ、両川の氾濫原に立地したため、低湿地が多かった。正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高215石余、幕府領、小物成として葭年貢銀7匁2分。寛文2年(1662)からは大坂城代青山宗俊領があり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では大坂城代太田資次領で215石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳も同じ。貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で218石余。慶応元年(1865)より京都守護職領(役知)、文政8年(1825)には菜種1.7石を芝村に売っている(額田家文書)。

◎新開庄
中新開一帯にあった庄園。「明月記」嘉禎元年(1235)正月9日条に「暁更禅室被下向河内新開庄(金吾供奉)」とみえる。弘安4年(1281)3月21日、鎌倉幕府は関東祈願所である高野山金剛三昧院に「河州新開庄」を寄進し、同院観音堂領としてこれを安堵した(「関東御教書」金剛三昧院文書)。同6年5月日の金剛峯寺衆徒愁状案(高野山文書)によると、悪党が金剛三昧院の寺庫を破って兵粮に充てようとしたので、同院は河内国新開庄・紀伊国由良庄の庄官らを招集して寺庫を守護させたという。鎌倉後期、西園寺家領であったようであるが(「公衡公記」正和4年3月25日条、建武2年7月21日「後醍醐天皇綸旨」古文書纂)、建武新政のもとで楠木正成が当庄を領有しており、湊川合戦で正成が討死した直後、足利尊氏は「河内国新開庄(正成跡)」を御祈祷料所として東寺に寄進した(建武3年6月15日「足利尊氏寄進状」東寺百合文書)。尊氏は続いて当庄に対する狼藉の停止を命じ(同年12月19日「足利尊氏御教書」同文書)、これを受けた河内国守護細川顕氏が当庄における兵粮米の徴収を止めるよう下知したが(同4年6月11日「細川顕氏下知状」同文書)、もとの領主西園寺家の愁訴により同家に返付され、改めて東寺に備後国因島と摂津国美作庄が寄進されている(東宝記)。
-------------(資料2終わり)

それから、この中新開村が属していた河内郡についての資料を以下にあげてみます。出典は、中新開村と同じです。

(資料3)-------------
◎河内郡
「和名抄」にみえ、訓は国名に同じ。北は讃良(さらら)郡、西は若江郡、南は高安郡に接し、東は生駒山地で大和国に接する。古代・中世では郡の北西部、若江郡との間に深野池などの湖沼・湿地が存在し、可耕地は現在よりかなり狭小であったと思われる。「古事記」雄略天皇段の歌謡に「日下江の入江の蓮花蓮身の盛り人羨しき■(呂?)かも」とある日下江は、その湖沼の一部であろう。この湖沼と、それへ流入する玉串川(吉田川)が若江郡と当郡の境界であったと思われる。現在の行政区では、ほぼ東大阪市の東半部(もとの枚岡市の全域と河内市の東部)と八尾市の一部。

【古代】
(略)「大阪府の地名2」の「河内郡」の項目をご覧下さい。

【中世】
大江御厨に関係し、当地方の代表的中世領主として活躍するのが水走(みずはや)氏である。水走氏は平安時代末頃、当郡域の水走(現東大阪市)を開発した季忠を祖とし、当郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、当郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに、枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、当郡一帯を支配した。源平争乱時には当主康忠は鎌倉御家人となり本領を安堵されている。
 また日下(草香)を本拠地とする武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わっている。鎌倉時代郡内に奈良興福寺領法通寺庄(現東大阪市)、高野山金剛三昧院領新開庄があり、南北朝期には足代庄(現東大阪市・生野区)も史料に登場する。
 新開庄は弘元の乱の功によって、一時楠木正成の所領となったが、湊川合戦の後足利尊氏に没収され、祈祷料所として京都東寺に寄進された。しかしその後も楠木氏の本拠に近い当郡には南朝の勢力が及び、正平5年(1350)北畠親房は足代庄を教興寺(現八尾市)の祈祷料所としている。
 延文4年(1359)新将軍足利義詮が南朝方に侵攻した時、南朝軍の水走氏らは北朝軍に降伏、続く南朝軍の反撃では、河内守護代椙原入道が水走の城に籠もって戦った。
 このように当郡は南北朝両勢力拮抗の地域として度々戦場となった。室町時代から戦国時代にかけても戦乱の場となる事が多かったが、これは隣接する若江郡の若江城(現東大阪市)が、河内守護所として河内の政治的中心地であったことによる。

【近世】
豊臣秀吉によついわゆる太閤検地は、文禄3年(1594)に行われ、同年の日付を有する日下村・横小路村などの検地帳が伝わる。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳によれば、当郡は21村・石高14,616石5斗5升、うち田方17,013石2斗4升1合・畑方3,872石4斗3升6合、山・葭年貢高30石9斗3合、ほかに小物成として山年貢銀787匁4分4厘・山年貢米8石8斗6升・葭年貢銀192匁3分・「作相」麦41石4斗・枚岡明神領京銭20貫文。
 同控帳によると所領構成は、幕府領6,117石余・大坂町奉行曽我古祐領4,016石余・大和小泉藩片桐領2,039石余・旗本石河勝政領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が多い。元禄郷帳によれば26村・15,229石余。
 宝永元年(1704)秋に大和川の付け替えが終わると、翌2年から深野池の池床や大和川諸流の川床・堤敷などの干拓・開墾が始まり、当郡内にも河内屋南新田・川中新田(現東大阪市)が成立、これらは幕府領に組み入れられた。元文2年(1737)の河内国高帳では、25村・高約16,025石。内訳は幕府領約7,724石・小泉藩領約1,868石・旗本石川領1,000石・旗本彦坂領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が散在。天保郷帳では29村・高16,077石5斗。

【近代】
明治4年(1871)7月の廃藩置県により郡内は、堺・小泉両県に分属したが、同年11月全部堺県となる。同13年河内郡・若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡の六郡連合の八尾郡役所(のち丹北高安渋川大県若江河内郡役所と改称)が若江郡寺内村大信寺(現八尾市)に設けられた。
 同14年大阪府に所属。同22年の町村制施行に際し、若江郡の加納・玉井新田の2村(現東大阪市)を編入のうえ、日根市村・大戸村・枚岡村・枚岡南村・池島村・東六郷村・英田村・三野郷村(現東大阪市・八尾市)が成立。
 同29年当郡及び若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡と志紀郡の一部(三木本村)が合併して中河内郡となる。
-------------(資料3終わり)

それらの要素の関係性から、中新開村付近を流れていた流域を推定してみると以下のようになるのではないかと思います。
 ただし、どうも、時代による自然環境の違いで水際の位置が変わったり、小規模な開発などで、いくつかの段階があるようです。図は、大和川付け替え後に行われた大規模な開発の領域と、それ以前の水際を分けてあります。大和川付け替え以前の開発は、明確な資料無く、個人推定です。
<図の変化概要>
初期の新田開発(紫色)→ 大和川付け替え後の開発(青色)→ 現代の地図 → 中世の水際推定

明治後期から現在の地図へ変化(紫色は最も早い開発)

大和川付け替え後の新田開発については、詳しく判っていますので、判断に迷う事はありません。しかし今のところ、それ以前の開発と思われる川田村のあたりがよく判らず、水際が読めていません。この川田村のあたりからもう少し東側に水が入り込んで、水際が東にあった可能性もあります。
 また、地図の右上にある「加納村」は、西加納、下加納と分かれていて、川田村は後年に独立したのかもしれません。それと、加納村は、地形的に素直に区分けするなら河内郡になろうかと思いますが、若江郡に所属しています。
 吉原村あたりの水際と湿地が加納村との境を分断するような環境であったため、そのような郡境であったのだろうと思います。もしかすると加納村は島のようになっていたのかもしれません。
 現在の栗原神社(式内社で鎮座地は動いてないらしい)付近から東側は、殆ど平坦地で、新開池と考えられる地域と海抜もほぼ同じです。ここには府道168号線が通りますが、その道を東方向に進むと「今米2丁目交差点」あたりから「川中北口交差点」にかけて、緩やかに地形が高くなり、「焼肉いちばん」のあたりでピークになっています。そこから更に東に進むと若干、下りつつ、300メートルほど先に恩智川があります。
 ただ、新開池や深野池へ流れ込む川は、天井川が多く、周囲より2〜3メートル程高くなっているようで、海抜が低いから川の跡という訳でもないところがあるようで、そこは判断が難しいところです。

大和川付け替え後の新田開発図
さて、そういう現在の状況も鑑みると、吉原村から東側は新開池からの水が入り込み、池状、または湿地になっていたのではないかと思われます。
 なおかつ、その高さより高い位置に川筋がある、恩智川が氾濫すると西側へ流れ込んで来るような環境にあったのではないかと思います。
 少し、参考に中野村についての解説をご紹介しておきます。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

(資料4)-------------
 若江郡に属し、南は菱江村、西は本庄村・横枕村。村の形は「く」の字形で、自然堤防上に位置する。この事から考えて、かつて横枕西方を流れる菱江川から分かれて、新開池に流入する川があり、当村はその川床を開発して成立した可能性がある
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では、高380石余、幕府領。享保15年(1730)大坂城代土岐頼稔領となり、寛保2年(1742)頼稔の上野沼田入封以降同藩領。
 元文2年(1737)河内国高帳では407石余で以降高の変化なし。元禄14年(1701)の諸色覚帳(西村家文書)によると10年間の平均免二ツ六分八厘。家数60・寺1、人数324。余業は、男は木綿糸・日用稼ぎ、女は木綿稼ぎ。産土神は山王権現宮(現存せず)であった。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。真宗大谷派西善寺がある。
【追伸:東大阪市公式サイト「歴史散策:C地区:荒本〜吉田」
中野村の日吉神社は、江戸時代以前には現在の高倉墓地のところにあったと伝えられ、もと大山咋命(おおやまくいのみこと)をまつっています。安産の御守札を出していて、村中で難産する人はなかったということです。
-------------(資料4終わり)

『大阪府の地名』でも、上記の地図の紫色部分に川があった可能性を示唆しています。やはり自然地形として、ここに川があっために、若江郡と河内郡との境にしたと考える方が自然だと思います。
 また、想像を少し逞しくすると、地形の高低差はそれほど極端ではありませんので、この川は浅く、葦や葭が生い茂る湿地のような感じだったかもしれません。
 
それから、常に移動を必要とする現代生活からは、このような環境は不便に思えますが、戦国時代には寧ろ、その逆の感覚で、外敵を寄せ付けない環境を村の周囲に持つ方が、財産や村の防御の面で、都合が良かったのです。また、水辺や湿地から受ける自然の恩恵は、生活を支えるためには好都合でもあったのです。もちろん、水辺は舟での交通や輸送という意味では、それも村にとっては恩恵といえる要素です。ただ、水害は困りますよね。
【出典】大和川付け替え後の新田開発図:国史跡・重要文化財 鴻池新田会所HPより

筆者は特に戦国時代の後期の五畿内地域(山城・大和・摂津・河内・和泉国)周辺を専門にしていますので、そのあたりの時代に興味があります。その当時の河内中部地域の地形についても調べています。
【参考サイト】
付け替えられた大和川
300年、人・ゆめ・未来 大和川
国史跡・重要文化財 鴻池新田会所

今も旧集落地域を歩くと、興味深い立地や水害への備えが家の造りから解ります。地形そのものやそういった歴史的な痕跡が手がかりとなって、川の跡が判ったりするのも感慨深いです。
 それから、これらの川が境になって郡が分かれてもいます。菱江川の東が河内郡で、西側は若江郡です。戦国時代には、郡が違うと領主も違うので、共有している利益・利害も違ったりします。そういう何か、川を挟んで睨み合うような、不幸な出来事も長い歴史の中で何度かあったかもしれません。

今年放映されている「真田丸」の時代にも河内国はこういう状況にありました。地図の下(南側)にある 暗峠奈良街道は、大坂の陣の合戦でも徳川家康が通った道です。また、大坂城の攻防戦では、若江郡も戦場になって、合戦が行われていますので、隣接する河内郡も巻き込まれたものと思われます。

2016年9月17日土曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(細河庄内の東山村と武将山脇氏について)

摂津国豊嶋郡細河郷内の東山村(現大阪府池田市)は、室町時代の応仁・文明の乱以降、成長し始めた池田家にとって、次第に政治・軍事面においても重要な関係に深化します。その東山村からは、山脇氏が頭角を現し、池田氏と姻戚関係も結び、池田一族として家政の一翼を担っていきます。
 また、その拠点としての池田城を守るための防御構成も年々強固なものに成長させていきます。同時に、政治・経済的な支配も拡がり、その意味でも五月山と細河郷、そして東山村は、大変重要な位置付けともなります。
 そうなると、自然と城郭化していくものと思われますが、今のところ、公式に城郭に関する調査もされていませんので、想像の域を脱する事はありませんが、全く無かったとは言えない資料も断片的に見出せます。そういった可能性もご紹介できればと思います。

そして、摂津国内の最大勢力を誇った池田家も内紛を繰り返し、遂には解体となりますが、その池田家を継ぐ事になったのが山脇系池田氏であり、池田家の歴史を見る上でも、この東山村の歴史を掘り下げておく事は重要です。
 今ある資料や筆者の見聞きした事など、ひとまずそれらを包括的にまとめ、今後の研究に繋げていきたと思います。

<概要>
先ず始めに、他の項目と重複しますが、現在既に論説されている東山村とそれに関する寺社を示してみたいと思います。なお、東山村が含まれるより大きな地域単位としての細河郷(細川庄)については、先に公開しました当ブログの「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)」をご覧下さい。

◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。
 
各項目の出典は、○○(県名)の地名【地名】、新修池田市史(○巻)は【新市史○巻】、池田町史(第一篇:風物誌)が【池田町史】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。

(資料1)-------------
◎東山村(池田市東山町)
東山村の見取図(新修池田市史より)
中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。
 慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。
 村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】

◎真宗 東本願寺末 返照山 円城寺(池田市東山町)
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とする。天文14年(1545)4月西念の創立なり。慶応4(1868)1月29日、火災に罹り焼失し、明治元年住職知成檀家と協力して、之を再建せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:円城寺】
  • 細河谷と呼ばれ、久安寺川の両側に広がる一帯の植木の郷の起源は、350年から400年に遡る正保年間(1644-48)及び更に天文年間(1532-55)にも至ると言われています。
     その東北山側に東山(町)があります。日照時間の短い湿度と日陰と赤土を生かした「東山の鉢挿」は、有名なサツキ・ツツジの特産地として知られています。(サツキツツジは池田の市花となっています。)この様な集落の佇まいに、円城寺の古寺がひっそりと歴史を刻んでいます。
     東山バス停の地蔵堂を過ぎ、しばらくして右折れし、なだらかな山麓の坂道を数分登ると左手に石垣を巡らせた円城寺があります。その裏手には、同寺の経営される細河保育園があって、元気な子ども達が寂しさを和らげてくれます。
     円城寺の開創は天文14年(1545)、僧西念によると伝えられます。当主(住職)は17代目となるので、少なくとも500年以上になる寺です。しかし残念な事に、明治元年、この寺に仮寓していた乞食の失火によって堂宇全てが焼失し、貴重な文書・遺物が失われてしまいました。けれども本尊の阿弥陀仏と仏画は辛うじて持ち出され、現在拝むことができます。
     本尊・仏画はよく修復されて、仮本堂ながらも立派に祀られています。秘められた歴史の遺品として、まだまだ調査の必要な寺院です。特に本尊の台座は、他に見られない重厚な造りとなっています。【改訂版 池田歴史探訪:円城寺】
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗東本願寺末である。天文14年僧西念の創立なりと伝へらる。【池田町史:円城寺】

◎曹洞宗 大広寺末 瑠璃光山 東禅寺(池田市東山町)
  • 字上条にあり。瑠璃光山と号し、池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とする。僧正行基の創建に係り、紫雲寺と号せしが後、屢々兵燹(へいせん)に罹りて廃絶せしを、慶長9年(1604)2月、僧東光、其の旧蹟に一草庵を結びて再興し、今の寺名に改む。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:東禅寺】
  • 東禅寺へは少々体力が必要です。円城寺から上へ右手(南へ)にとると、少し下って薬師堂のある広場に出ます。ここから左手(山手)を更に集落の急な坂道を登りつめた台場にひっそりと古寺が佇みます。
     当寺の開創は、慶長9年(1604)、僧「東光」と伝えられます。また、元「紫雲寺」で、行基菩薩の開創とも伝えられています。現在の建物は古いものではありませんが、今の住職が中興の祖から7世にあたりますので、開創からは20世にもなり、400年を越える歴史のある古寺と言えます。本堂の釈迦如来のほかに、この寺の宝物は観音堂に安置されている四躯の仏像です。何れも池田市重要文化財として指定されています。(中略)。
     本堂の鬼瓦に揚羽蝶が見られますので、織田氏・尾張池田氏との関わりがあるかもしれません。池田の埋もれた歴史がこの寺にもあると思います。境内に引かれた涌水は、渇き疲れを癒やす甘露として、知る人ぞ知る名水です。墓地の歴代の住職の墓石は重厚感があります。また、同寺には石造美術品として、宝篋印塔があり、応永2年(1395)の銘が刻まれています。【改訂版 池田歴史探訪:東禅寺】
  • 東山字上絛にあり、瑠璃光山紫雲寺と号し、曹洞宗総持寺末である。【池田町史:東禅庵】
    ※池田町史の編纂当時、東禅寺は「東禅庵」であったらしい。表記は東禅庵としている。

◎愛宕神社(東山神社)
  • 東山の氏神は、普段は「愛宕さん」と愛情を込めてよばれている愛宕神社で、白馬にまたがった神神像のご神体(元禄8・1695の作という)がある。しかし、一方で吉田にある細川神社の氏子でもあって、人々は二重氏子になっていることになる。
     愛宕神社には禰宜講があり、勧請の状況や宮座の存在をうかがわせるが、詳細な記録は残されていない。禰宜は現在11人で、かつては終身であったが、昭和56年以降は、80歳定年制に切り替えられた。禰宜になるには百姓株の男子であれば誰でも良いとはいえ、年配者である事が求められ、推挙を受けて禰宜になる時には婚礼のような儀式を行った。禰宜講に入る事を「イリクー(入組)」とよぶ。
     愛宕神社の祭祀日は、昭和55年の申し合わせにより、原則として毎月24日に決められた。村祭や正月、2月の節分、4月と6月の節供などで祝祭日が重なる時は、それに合わせて変更する事になっている。24日の祭祀は、当番の禰宜が祭主となって勤め、神主を招く事はしない。したがって、禰宜の奉仕は年間12回にもなる。(中略)。
     直会(なおらい)は、禰宜講で行い、昭和50年(1975)頃まで続いた。正月、節分、麦初穂(7月5日)、愛宕(9月21日)、松立て(12月24日)の年に5回であった。
     現在、初穂料として、百姓株の氏子は年間に麦初穂200円、米初穂300円を納める。財産による年貢は、若干の相違はあるが、7,000円ぐらいである。【新修池田市史:東山(氏神と祭)】
-------------

既述のように東山村は、寛永・正保期(1624-48)の摂津国高帳での村高は541石余で、細河郷内では最も大きな石高を有しています。残念ながら人口に関する記録が見当たりませんが、石高に比例した人口であったと思われます。明治期の地図では、近隣の集落と比べても集落範囲が大きく表されています。
 また、東山村は五月山山塊北側の一段高くなった段丘に村が拡がっており、寛永・正保期には植木栽培が盛んであった記録があるようです。植木栽培は細河郷では古くから行われており、江戸時代にも絶える事無く行われていた事が判ります。

<交通>
東山村の眼下に余野街道があり、その脇にある余野川を挟んで、北方の低山の尾根上には、妙見道も望む事ができる眺望が開けています。この妙見道を目安として、河辺郡と豊嶋郡の境があり、河辺郡北部には多田源氏の系譜を持つとされる塩川氏が勢力を持っていました。
 また、東山村は、その余野街道を北から南下すると、平野部の入口にあたる場所でもありました。更に、村からその背後にあたる五月山には、何本もの山道(やまみち)があり、一旦、山に上がれば、南側の秦野村や新稲(現箕面市)、北東部の勝尾寺や高山村(現豊能町)方面へも行き来できました。

<多田院御家人塩川氏と細河郷>
摂津国河辺郡北部(現兵庫県川西市など)の山下城(一庫城)を本拠とした塩川氏は、多田院御家人の筆頭として、多田庄と能勢郡に影響力を持ちました。同庄は、他にあまり例のない程の広さを持ち、しかもその内に多田銀山(現兵庫県猪名川町)を含みます。また、能勢郡内(現大阪府)にも鉱山があり、その採掘に使われた間歩跡が、今も多数残っています。
 鎌倉時代から室町時代の応仁・文明の乱頃までは、塩川氏の勢いが強く、細河郷もどちらかというとその影響を受けていたようで、細河郷内での伝承記録にもその断片が見られます。その頃は、五月山が実質的な河辺郡との境になっていたかもしれません。参考として、多田源氏に関する資料を少しご紹介したいと思います。

(資料2)-------------
◎臨済宗 天龍寺末 薔薇山 松雲寺(池田市中川原町)
  • 字下門にあり。薔薇山と号し、臨済宗天龍寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とす。観応2年(1351)10月の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:松雲寺】
  • JA大阪北部細河支店の裏側を山手に少し登ると、松雲寺があります。細い参道へ入ると、苔むす石垣の上に真っ白な築地が続きます。しっとりとした石畳を踏んで進むと、すぐ山門に着きます。
     苔と下草に覆われた境内は、静寂そものです。正面に五月山を借景に本堂がひっそりと佇んでいます。「天龍寺派居士林道場」と書かれた木札が掛けられ、いかにも禅宗の寺らしく心落ち着く雰囲気です。
     現在の本堂は、昭和46年に建てられたものですが、創建は南北朝時代の禅僧夢想国師(疎石)で、600年以上の歴史を持つ古刹です。ご本尊は釈迦牟尼仏で、江戸時代末期の作と伝えられています。
     当寺は地元旧家である一樋家(多田御家人の系譜を持つ)の菩提寺としても関わりがあります。南側にある墓地には、歴代住職の墓石をはじめ、歴史を感じさせる古い墓石が並び、夜には怖くて近付けないような昔のままの雰囲気もあります。
     境内で心を静めて「禅定」の瞑想に、ひととき浸るのもここまで足を運ぶ甲斐があるのではないでしょうか。【改訂版 池田歴史探訪:松雲寺】
  • 中河原字下門にあり、薔薇山と号す。臨済宗天龍寺末なり。【町史:松雲寺】
◎真宗 西本願寺派 八幡山 如来寺(池田市古江町)
  • 古江字片岡にあり。八幡山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。本地住人岡本源之丞(了信)、本願寺良如法主に帰依し、寛文2年(1662)檀徒と協力して創立せり。(大阪府全志)
  • 八幡山と号し、寛文元年3月、開基釈了信の所有地に創立。(同寺所蔵 如来寺寺院規則)
  • 第1代寛文元年(1661)8月19日、亡 了信 創立時の如来寺は「片岡惣道場」であって、寺号は宝暦・明和(1751-72)頃に成立したらしい。(歴代住職表)
     良如法主(1612-62) 真宗本願寺派13世 諱は光円。12世准如上人第7子。
  • 八幡山 豊能郡伏尾村久安寺山内にあり。往昔、応神帝影向の山頭を以て、八幡山を称す。【池田市内の寺院・寺社摘記:如来寺】
     
  • 如来寺は、江戸前期の寛文元年(1661)本願寺13世の良如上人に帰依し、僧「了信」となった岡本源之丞ほか10数人の檀徒が建立した寺です。本堂は建立当時のもので、修復を重ねつつ300年以上も護持されて現在に至っています。(中略)。
     お寺のすぐ上は妙見街道となっています。「能勢の妙見さん」へのお参りの人々が絶えず往来しました。今は池田市立児童館となっている所に、古江の旧家森家の屋敷がありました。森家は肥後熊本細川藩の家老を先祖とする家柄で、この場所で漢方薬院として施薬・医療を業としました。妙見さんへ参る人々などの憩いの茶店が軒を並べ、中には体調を崩す人もあり、薬院は重宝され随分と流行りました。こうしてこの辺りは森家ゆかりの人、多田源氏落ち武者「ふるごんぼう」と呼ばれた古江御坊信仰の人等が集まり、邨が出来て賑やかになりました。やがて森家の財力によって檀那寺が建てられ、如来寺の前身となりました。この寺の殆どのものが森家の寄進によるもので、屋根瓦には森家の家紋である九曜星(肥後細川家の家紋)の紋が使われています。森家の菩提寺としての如来寺の墓地には歴代住職をはじめ、森家累代の墓があります。
     ちなみに箕面公園滝道に「森 秀次」の銅像があります。氏は、府会議員時代に、箕面山を密教の神聖な山として公園化に反対する人々を説得し、尽力されました。銅像は、公園の生みの親としての功績を讃えられたものです。氏はその後、国会議員となられ、大正15年(1926)に72歳で逝去されました。【改訂版 池田歴史探訪:如来寺】
    ※参考サイト:森秀次像は三度作られた
  • 古江字片岡にあり、八幡山と号し、真宗西本願寺にあり。【町史:如来寺】
◎真宗 東本願寺末 大雲山 専行寺(池田市中川原町)
  • 字南絛にあり。大雲山と号し、真宗東本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。万治2年(1659)正貞の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:専行寺】
  • 国道から少し入るだけで旧街道は交通もまばらで、気持ちを落ち着きます。この中川原は、細河植木の集散地で、近くには細河園芸農協市場もあります。街道に沿う専行寺は、日当たりが良く、明るい境内は夏には、蓮の花が咲き、仏心が和みます。
     このお寺の創建は、万治2年(1659)、僧「正貞」と伝えられ、340年を越える古刹です。本堂も再建されていますが、修復を重ね270年を経る建物です。本尊は阿弥陀如来立像で、室町時代後期の作と思われます。(中略)。
     当寺の紋は笹りんどうで、多田源氏の紋と同じです。多田神社または、多田源氏家人と関わりがあるものと思われます。古江「如来寺」の建立に功績のあった、森家の先祖、肥後熊本細川藩家老であった人が、はじめは「専行寺」に入り、間もなく古江の片岡で森家を興して、如来寺を建てたと伝わります。
     昔、専行寺は門徒の信仰の寺としてだけではなく、寺子屋としても一円の郷の子ども達が集まり、学びました。この寺子屋は、明治7年(1874)、細郷小学校として、現在の細河小学校の前身として移転しました。浄土真宗の寺院は、世俗的で、民衆に慕われやすい道場の色彩があります。門徒が心を合わせ、苦労を重ねて寺を建て、何百年も維持されてきた努力は、美しく、尊いものです。【改訂版 池田歴史探訪:専行寺】
  • 字南條にあり、大小(雲?)山と号し真宗東本願寺末なり。【町史:専行寺】
-------------(資料2 終わり)

細河郷にはこういった、多田院御家人とのつながりが、断片的にいい伝えられています。
 また、やはり地勢柄、細河地域は旧河辺郡や能勢郡地域との交流が絶えず、婚姻や商売などで今もつながっており、時代を経ても変わらない、不変の摂理があるようです。

<村の民俗と伝承資料>
東山村はそんな環境と歴史を持ちますが、更に地域を掘り下げ、村の民俗と伝承資料を以下にあげてみます。村の人々が寺院をどのように捉えて信仰しているかがわかる資料をご紹介します。
※新修池田市史 第5巻 P309

(資料3)-------------
かつてのドウノマエの様子(新修池田市史より)
【東山村の寺院と民間の信仰】
東山村の寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった
 東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。
 保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
 ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。
 また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。【新市史5巻:東山】
-------------(資料3 終わり)

もう一つ資料をご紹介します。東山村の人々の生活について、聞き取り調査が行われています。「垣内と講」についてです。もしかすると、東山村は植木栽培など、多様な産業があって、村全体で農業を営むような共同体ではなかったのかもしれません。
※新修池田市史 第5巻 P306

(資料4)-------------
【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
 相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
 ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
-------------(資料4 終わり)

<東山村と秦村との関係を示す伝承資料>
更に、興味深い伝承資料をご紹介します。今は所在が判らないようですが、法園寺(ほうおんじ:現池田市建石町)というお寺に「赤松氏上月十大夫政重」という人物の塔婆があって、そこに刻まれた碑文が池田町史(1939年発行)に紹介されています。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

(資料5)-------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

赤松氏上月十大夫政重之塔

寛永19年(1642)午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士

宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。

享保7年(1722)壬寅9月12日
※■=欠字
-------------(資料5 終わり)

この伝承によると、上月政重が3歳の時(元亀元年:1570)に、三好・荒木勢に居所を襲われて、乳母によって助け出され、母方である豊嶋郡畑村の石尾下野守方へ逃れたとあります。その後、成長した政重は22歳の時、親戚の誼で、池田備後守知正に取り立てられたとの経緯が記されています。
 また、この知正は池田家の当主を継いでいますが、慶長9年(1604)3月18日、49歳で死去します。この年に、東山村の東禅寺も再興されており、これはやはり何らかの繋がりがあっての事だと思われます。

<東山村と池田氏との強いつながり>
この知正の死去の前、子がなく無嗣であったために、弟の子三九郎を養子として迎えますが、三九郎は、慶長10年7月28日、18歳の若さで死亡します。
 池田家の断絶の憂き目を救うため、三九郎の父(知正弟)である弥右衛門尉光重が家督を継ぎます。光重は、間もなく備後守の官途を名乗り、戦乱で荒廃した池田郷とその周辺の復興にあたります。
 さて、池田家の家督を継いだ光重ですが、東山村を本拠としていた人物である事が「池田城主池田系図」などに記されており、東山村での有力者山脇氏に連なる人物と考えられます。
 一方、この山脇家には家伝(系図)が残り、池田城主との強いつながりがあった事を記しています。永正5年(1504)の池田合戦を中心に既述されています。
※池田郷土研究 第8号(池田郷土史学会刊)P16

(資料6)-------------
○正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士。
○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
-------------(資料6 終わり)

この永正5年の合戦については『細川両家記』という軍記物に記述があり、内容は、多少の誤差はあるものの、大筋で山脇家の家伝と一致しています。
※細川両家記(群書類従第20号:合戦部)P585

(資料7)-------------
永正5年戌辰4月9日、(前略)。摂津国池田筑後守(貞正)は、細川澄元方をして我城に楯籠也。細河高国聞召、其の儀ならば退治有べきとて、同5月初の頃高国方の細川典厩尹賢を大将にて猛勢推寄ける処に、筑後守は物の数ともせずして戦うといえども、池田遠江守、高国へ参られければ、寄せ手は是れに機を射て、5月10日に堀を埋めさせ、厳しく攻めければ、城の中より思い思いに切って出、同名諸衆20余人腹を切り、雑兵70余人討ち死に也。国中に同心する者無きに、かように振る舞いける事よ。大剛の者哉と感ぜぬ人こそなかりけれ。
-------------(資料7 終わり)

この時の池田家当主は、貞正(さだまさ)ともされますが、今も池田市にある大広寺に貞正以下、主立った武士が逃げ入り、そこで切腹します。重臣などもそこで果てたようです。その貞正が切腹した時の床板を大広寺本堂入口の天井板として使い、それが「血天井」として今に伝わっています。
大広寺入口の天井にある「伝血天井」
それから、この時の貞正一行の行動は、自分の家族を非難させるための行動だったと考えられ、大広寺の脇からは、五月山へ上がる山道が幾筋かあり、その道を伝って貞正の妻と子は東山村へ逃れたものと思われます。池田城もこの時、自焼(じやけ)していますので、最後の抵抗をして、時を稼いだのかもしれません。
 貞正の妻と長男の三郎五郎、それに弟の正重を叔父の池田正能などが護り、城を出たようです。一行は、東山村の山中(大山谷之口山林)に貞正の首を埋め、妻と弟正重は山脇氏を名乗って隠れ住んだとしています。また、貞正の妻は、山脇家出身ではないかと推定する研究者もおられます。
 長男三郎五郎は、その後に東山村を出て、身寄りを頼って有馬郡下田中へ更に逃れたようです。

<別の山脇系池田氏の活動痕跡>
堺商人の今井宗久の音信に、気になる人物が見出せます。これは、永禄12年(1569)のもので、その時の池田家当主であった勝正が、播磨・但馬国方面へ出陣している留守中に池田覚右衛門・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906

(資料8)------------- 
態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
-------------(資料8 終わり)

この池田覚右衛門なる人物は、この史料の他には見当たりませんので詳しくは解らないところもあるのですが、音信の内容からして、当主勝正の重臣であったり、側近的人物であった事は確かです。
 そしてこの、覚右衛門なる人物は、先に紹介しました「資料4」にある、「かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。」の角右衛門講に相当する可能性があるかもしれません。それらの講の多くは、人の名前に由来するようですし、「講」とは、そこに縁や利益を共にする人々が集まる組織でもあります。「角」と「覚」の違いはありますが、角右衛門講とは、池田覚右衛門に由来し、そこに関係した人々の集団だったのではないかと思われます。もちろん地縁も含めての事だと思います。
 それからまた、西暦2000年頃だったと思いますが、個人的に東山村で、山脇氏や戦国時代の頃の事について何人かにお話しをお聞きした事があります。その時、「先祖は武士だったが、武士を辞めて帰農したり、武士を続ける人は他の場所へ移った。」など、言い伝えがあるようです。
 それについては、「資料3」にある、「慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。」にある伝承と同一線上の要素ではないかと感じます。
 慶長9年とは、東山村に縁の池田知正が死去した年ですし、その時に大広寺末の禅寺である東禅寺が、その地の豪族・庄屋の協力で開創(再興)する訳です。これらの複数要素の重なりは、単なる偶然では無いと思います。知正の墓は大広寺に今もあるのですが、その出身地である地元でも知正を弔うような気持ちがあっての動きではないかと思います。

<知正が池田家家督を継いだ理由>
池田家本流からは少し離れた一族であったと考えられる山脇系池田氏が、なぜ名族池田家を継ぐ事になったかといえば、天正年間の2度の大乱が、非常に致命的で、池田とその周辺を破壊し尽くし、人も社会も全て失う程の戦争であったためと考えられます。
 徹底した破壊は、人同士のつながりも絶ち、恨みすらも生まれます。人が死に、財産も失えば、人を束ねる事も難しくなり、組織も財力もある外来勢力に太刀打ちできなくなります。
 実際にはどうだったのか、まだまだ判らない事もありますが、感状の縺れもあり、それまでの統治者であった池田氏の本流が、逆に戻りづらい環境になっていたのかもしれません。若しくは、池田氏の本流が本当に滅びてしまったのか。
 とは言え、復興にあたっては、地域を束ねる求心力は必要ですので、本流よりは少し離れますが、他の候補よりはより本流に近い血脈を持つ東山村の山脇系池田氏から知正が選ばれたのかもしれません。
 本流の池田家当主は代々「筑後守」を名乗りましたが、知正は「備後守」を名乗り、明らかにそれまでの池田氏のつながりとは区別されています。知正の後を継いだ弟の光重も、同じく備後守です。
 知正や光重は、荒廃した池田を復興させようと色々と手を尽くそうとしていた事も史料を読めばわかります。大広寺を旧地に戻し、少しずつ整備を行おうとしていたと思われ、その頃の建物や梵鐘、肖像画などが残っています。他にも色々な行動をしているのですが、ここでは書き切れませんので、別項で紹介したいと思います。
 知正が池田家を継いだ頃は、時代が大きく変わろうとしていた時であり、大乱でヒト・モノ・コトを立ち直れない程に失い、それでも地域の求心力として当主を努めた人物であったのかもしれません。
 実質的にこの2人が、最後の池田氏だったと言えます。その後の池田郷と細河郷は、徳川幕府の直轄地として統治されるようになり、商業の町となって、地域の主導者排除されるようになって、忘れられていきます。

<出土遺物からの戦国時代細河郷の想像>
少し遡って、細河郷は、永禄・元亀年間(1558-73)頃になると、池田氏の影響下に入っていた事と思われます。それ以前の天文年間(1532-55)には同地で影響力を強めていた可能性も十分にあります。その裏付けとも考えられるのが、いくつかの寺の寺伝に「兵火による焼失」が見えます。また、昭和46年(1571)4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に、主に室町時代に流通していた多量の古銭が出土しています。(総合計18,317枚)「伝承」は、ある程度、正確に記述されているのではないかと思われます。
 やはり、この遺物の出土状況からみても、細郷が戦乱に遭っていた事が想定できます。これらは当時としては資産であり、地中に埋められていたのは、戦乱を避けるための「避難」のためであったと考えられます。
※参考:1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。

<細河郷に伝わる戦国時代の痕跡>
東山村の向かい側、西側に吉田村があり、ここにも戦国時代の痕跡を示す伝承があります。吉田村にある細川神社付近には、本は武士であったと伝わるお宅もあり、個人的に色々お話しを伺った時には、槍なども見せてもらった事があります。
 村の北西側に山塊が拡がり、その尾根上に妙見道が通ります。この道が河辺郡と豊嶋郡の境で、非常に重要な場所でもありありました。
※新修池田市史 第5巻 P318

吉田村の見取図(新修池田市史より)
(資料9)-------------
【集落】
植木・盆栽の生産の集落があるのは、祠堂の南あたりである。ヒノミヤグラ(火の見櫓)の立つ所に吉田町公民館がある。そこが、このあたりの集落の中心である。この集落の入口にあたる所には、地蔵堂があり、トンドバともいう。付近には吉田公園があり、大きな椋の木がある。この土地はモレチ(漏れ地)である。
 集落のある場所から久安寺川にかけては、松などの植木の苗木が栽培されている。その苗床をノラとよぶ。このあたりは、オシロダニ(お城谷)とよばれ、織田信長の城があったと伝えられる。織田信長が治めていた時代の遺構とされる「信長の手水鉢」があった。いずれも現在は、道路拡張のため埋まってしまっている。またオダノカイチ(織田の垣内)とよばれる土地がある。そこにも織田信長が治めていた時代の城の遺構と伝えられる石垣の跡があったが、これも伏尾台の住宅開発ですっかりなくなってしまった。
-------------(資料9 終わり)

また、伏尾村のあたりから吉田村を経て山塊が伸びて、その終端の南面に古江村があります。その途上に片岡集落があります。
 この古江・片岡集落付近では、余野川と猪名川が合流し、妙見道と多田道、能勢街道(篠山道)も村内に通す要所です。また、既述の通り、妙見道が河辺郡と豊嶋郡の境でした。
 こういった環境ですので、やはりここには、戦国時代の痕跡があり、言い伝えられています。
※新修池田市史 第5巻 P333

(資料10)-------------
【古御坊】
村の墓のもう一つ高い所に、古御坊というお寺があったという。今でもそこは、古御坊と伝えられている。戦国時代に池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。そこに寺男としておった人が片岡某という人で、寺が焼かれて行き場が無いので、ここに降りてきて住み着いたという。その片岡某の名前からここを片岡といっていた。江戸時代は古江村字片岡といわれていた。
-------------(資料10 終わり)

古江村の見取図(新修池田市史より)
この伝承にある古御坊といわれたお寺の詳しい事はわかりませんが、池田城と何らかのつながりがあったものと思われます。
 同じような例で、今の大阪大学のあるあたりに待兼山という丘陵部があり、ここに能勢街道が通っていました。その場所に高法寺(現池田市綾羽)というお寺があったのですが、このお寺は池田城主とのつながりが深く、天正年間(1573-92)の荒木村重の乱で、織田信長方に焼かれたとの伝承を持ちます。このお寺は、平時はやはり、池田・伊丹城の施設の一部として機能していたと考えられます。
 その例にもあるように、古江の「古御坊」も交通の要衝で、郡境にあり、しかも一方の河辺郡には常に争っている塩川氏の勢力下ですので、軍事施設ではない「寺」を於いて、緩衝対策を取って警戒していたものと想像もできます。

<寛永諸家系図伝に見られる池田知正と光重>
 最後に、系図に見られる池田知正をご紹介してみます。江戸時代には、幕府によって公的系譜の編纂事業を2回(こまかなものも色々ある)行っていますが、『寛永諸家系図伝(家譜)』は、その最初です。
 寛永18年(1641)から事業に着手され、同20年9月に完成しています。これを経て、更に幕府はその精度を高めるべく寛政11年(1799)に『寛政重修諸家譜』が編纂が始められ、文化9年(1812)に完成して将軍に献上されました。これらは、幕府運営(統治)の基礎資料とすべく作成されましたが、それぞれに特徴や利点、不備があります。
 この資料を見比べてみると、『寛政重修諸家譜』には、摂津池田家の記載がありません。これは既に没落した家である事と、地方豪族の系譜はあまり重視しない分類方針であったためのようです。この頃、時代的に身分制度が定着し、武家社会優位の風潮になっていた事もあるのかもしれません。
 さて、もう一方の 『寛永諸家系図伝』には、あまり詳細ではないものの、摂津池田氏の記載があります。中でも今回は、知正の家系の記述を見てみます。ちなみに、この中では「清和源氏頼光流」の「池田」姓として伝えています。

(資料11)-------------
【重成(知正)】
久左衛門 備後守 生国 摂州。
摂州豊嶋郡のうち神田村・細川村にて2,780余石を領す。
 織田信長の命により、荒木摂津守村重に属して与力となる。村重敗亡の後、秀吉、重成を召し出され、本領神田村・細川村を領して、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。其の後東照大権現(徳川家康)に仕え奉る。
 慶長5年(1600)、奥州御陣に供奉の時、上方の騒動により、大権現小山より上方へ御進発の御供いたし、御帰陣の後、御加増ありて5,100余石の地を領す。同8年、病死。

【重信(光重)】
弥右衛門 備後守 生国 同国。
父重成(知正)と同じく秀吉に仕う。
 慶長5年、奥州御陣の時、重成と同じく供奉す。同8年、大権現(家康)の命により、父の遺跡を継ぎ、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。駿州府中にひとりの神子(みこ)あり。人を誑かして金銀を多く借り取る。重信(光重)が家人の関弥八郎にも又借りて是れを与う。その後、金銀を貸したる主より神子に返弁すべきの由はたり(?:諮り。ルビは徴とあり、糾明の意。)ければ、、我借る所の金銀は悉く弥八郎これを取りて、神子が元にはこれなしと云うにより、各々此の事を重信も知るべきの由を訴ふる時、大権現御鷹野あそばされ、江戸に趣(赴)かしめたまふ時、重信供奉す。駿府に還御の後、この事の評議ある故、重信いささか知らざるの旨じき(直)に訴訟を捧ぐる故、その難を免かるると雖も、直訴致したる罪により御勘気を蒙り、所領を没収せらる。その後も大権現これを哀れみ給いて、重信が旧領の古米並びに家財等を給いて、富士のふもと法命寺に籠居す。
 大坂両度の御陣に、仰せによりて有馬玄蕃頭豊氏手に属して彼の地に赴く。大坂御帰陣以後、大権現しばしば御無礼の御気色ある故、遂に御前へ召し出されず。
 寛永5年(1628)5月19日、病死。法名同休。

【重長】
久左衛門 生国 摂州。
父と共に流浪して、有馬豊氏に付き従う。豊氏、重長が事を酒井雅楽頭忠世並びに大僧正天海を以って言上しければ、則ち御免を蒙る。
 寛永11年(1634)より、将軍家(家光)へ召し使はる。同12年、御小姓組となる。同15年、御切米を給わる。
 家紋 三木瓜。
-------------(資料11 終わり)

それぞれ諱(いみな)が歴史史料とは違って記述されているのですが、その内容は直ぐにそれと判ります。また、知正について、この系図では「民部丞」を名乗っていない事になっています。
 それともう一つ、気になるところがあります。この池田知正の家系を「清和源氏頼光流」としてあり、藤原流では無い事です。池田家本流の家系は「藤原」である事が史実として明白ですので、やはり細河郷東山村の池田氏は、別系譜である事が明確にされているようです。
 こうなるとやはり、家紋というのも自ずとメボシが立ち、これまで流布されている、摂津池田家の家紋は「三木瓜」ではなく、本紋としてはやはり「藤」をモチーフにした家紋であろうと思われます。つまり、『寛永諸家系図伝』の清和源氏頼光流の摂津池田重成(知正)系の紋が三木瓜であって、本流の池田家系はそれとは別の紋、藤原を示す家紋を使用してものと考えられます。
 それからまた、参考までに、知正の行動についてですが、羽柴(豊臣)秀吉時代にも各地に転戦しており、さ程多くはありませんが、兵を率いて出陣しています。天正10年(1581)5月からの備中高松城攻めでは、蛙ヶ鼻付近に布陣し、天正12年3月からの美濃国小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍の後ろ備(合計10,000)の右翼に90程の兵を率いて参陣しています。

<まとめ>
このように、東山村にそのものが残っていなくとも、忘れられるなどして、特に意識される遺物が無いとしても、その周辺地域には少なくない戦国時代の痕跡が残っています。もちろん、これまで見たように、僅かながら東山村にも、池田城と池田氏とは、細くない、いや、強いつながりを持つ痕跡を残しています。また、村から輩出される人物も、少なからず史料上に見られ、池田家の歴史に深く関わっています。
 やはり筆者は、戦国時代には東山村にも、村を護るための施設や仕組み、組織などがあったと感じます。「資料4」にもあるように、実際に東山村の垣内の一つのミナミンジョを「ユバジョ」とよんでいる習慣があり、これは「弓場所」ではないかとする消極的な推定がされています。
 ちなみに池田城跡の字名で「ユンバ」とよばれるところがあり、ここは「弓場」であったと伝えられています。弓は戦国時代の主力武器でしたので、練習をするための広場があったと考えられます。 


細河地域は、その北側の止々呂美地域に新名神高速道路の出入口が設置され、この先、開発が急速に進む事と思われます。その事で、益々時代に必要な発展をしていくのだろうと思います。そういった状況の中で、この思索が、今後の研究の何かの役に立てばと願います。