2025年6月7日土曜日

現存する摂津国豊嶋郡伏尾村(大阪府池田市伏尾町)に残る砦跡(仮称:伏尾イゴキ砦)

摂津国豊嶋郡伏尾村は、細河郷内にあり、平野部と山地の結節点にもあたります。いわば「出入口」で、非常に重要な立地です。また、ここは郡の境目(河辺・豊島郡)でもあり、その境目に沿って「妙見街道」が通るという、交通の要衝でもありあました。
 ここより北側の、丹波国や摂津国能勢郡といった地域に通じており、太古から交易が行われ、産出する鉱物や山の富を輸送する重要な、通路でもありました。
 視点を変えますと、室町時代末期に地域政権が成長する頃には、豊嶋郡を中心とした池田氏が勃興し、五月山の南側(大阪府池田市綾羽2)に城を構えて本拠とします。
 細河郷は、池田城の裏庭であり、五月山の北側にあたる事から、勢力を増大した池田氏は、同地域にも積極的に関与するようになり、管理下に置いたとみられます。
 その細河郷を構成する六ヵ村の一つである伏尾村には、久安寺という近衛天皇との繫がりを持つ真言宗系の大寺院があります。伏尾村は、久安寺との結びつきが強く、地域政権でもあった池田氏は、同寺とも共存・共栄関係を志向していたようです。

時は「戦国」、久安寺という宗教組織(今とは社会的立場が違う)も、武家である池田氏との関係性を保ち、戦乱を避ける工夫をしていたと考えられます。そのような視点で見れば、久安寺・伏尾村と周辺にも自衛のための城や砦跡が見られます。

その例の一つをご紹介します。

旧細河郷内を赤色立体地図で見ていると、気になる地形があり、更によく見ると、その形状も非常に気になります。
 立地的にも眼下に余野街道(摂丹街道)、その背後にも同じく余野街道と五月山へ上がる道に接続する通路があります。
 そして更にここは「イゴキ」との字で呼ばれ、久安寺に深く関係する場所で、「寺尾千軒」や流行病患者のための病院などがあったと伝わっています。
 そのような経緯もあり、ここは久安寺の一部でもあった場所ですので、戦国時代には伏尾村の南の入口としての概念があったのではないかと思われます。

 

大阪府池田市伏尾町にある砦跡と思われる場所

以下の赤色立体地図では、2ヶ所の赤色丸印をつけてありますが、本来はどちらも何らかの人工的な普請がされていたと思われます。しかし、今はこの地図の東(右)側部分は、レジャー施設として開発されており、痕跡は残っていませんでした。
 一方、西(左)側部分の小さな舌状丘陵には、土塁と曲輪、堀跡が残っており、ここは砦(城)として使われていた事が判明しました。
 地形としては、西側の余野街道側は絶壁で、天然の要害性を持ち、北と南側は谷です。東端に、今は集落が建っていますが、ここを画して、丘陵を一つの縄張りにしたようです。

赤色立体地図に映し出される砦と思われる地形(大阪府池田市伏尾町)

ちょっと詳しく見てみましょう。
 

仮称:伏尾イゴキ砦の縄張り拡大

この「仮称:伏尾イゴキ砦」と目される、一体的な地形を更に分割しています。北側の端に人工的な普請跡(曲輪)があり、東端の集落と繋がっています。逆側の南辺は崖で、こちら側のその先は緩やかな谷となるため、そこにも備えがされていたのではないかと思われます。
 再訪し、よく見る必要がありますが、地形的には南側にも曲輪のようなカタチが複数箇所みられます。
 西側は、急峻な崖のため、ここから攻める事は不可能ですが、そこに土塁を設けています。現在は、ゴミの投棄・放置場になっているのですが、今も戦国時代の痕跡をハッキリと残しています。

仮称:伏尾イゴキ砦の土塁の現状

仮称:伏尾イゴキ砦の東側の区切り

仮称:伏尾イゴキ砦の北側にある曲輪の様子

仮称:伏尾イゴキ砦の南側の曲輪

縄張りの東端集落の南側の様子で、手前の畑と家の間に谷がある

最後に、この場所との関係性を見るために、広域に赤色立体地図を見ておきたいと思います。地図中の赤色丸印は、人工的な普請を確認した所で、黄色丸印は、未踏査の場所ですが、施設など何らかの痕跡がありそうな立地です。

仮称:伏尾イゴキ砦北方の城・砦の配置想定


今は「伏尾台」として開発されてしまいましたが、この山の随所に砦・監視・避難所が設けられていたと考えられます。それは、久安寺の自衛体制でもあり、関所も設けて管理を兼ねて、経済活動(有料道路にして、道の管理も)の拠点になっていたのかもしれません。

さて、既述の「寺尾千軒や流行病患者のための病院」が、この「イゴキ」と呼ばれた場所にあったとされ、この削平地は久安寺の栄えていた頃に拓かれた跡ではないかと思われます。
 「仮称:伏尾イゴキ砦」は、それらを戦国時代に再利用されたものと思われます。室町末期の動乱期には、寺も自衛の必要があったため、要所には軍事的な施設と体制を取っていたと考えられます。
 それらは連絡の目的もありますので、要所から要所は直線的に結ばれて、監視のための眺望も確保された所に施設があるように思います。道を監視し、連絡と連携体制を基本的に考えて、施設を置いたと考えられるため、砦は、対岸の吉田村と久安寺につながる線を保っていたのではないかと思われます。


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2025年6月3日火曜日

摂津池田の五月山(大阪府池田市)に見られる特徴的な防御施設らしき普請跡。トーチカの原始的なカタチか!?

摂津池田城は、その背後が山で、この山を取られると、城内を俯瞰されることとなってしまい、城の「弱点」との通説が、特に検証される事なく、永年に渡り順送りとなっていました。しかしながら、この要素は、軍事面の知識では素人の私でさえも、戦いのプロフェッショナルであった武士集団の本拠が、何の策も講じない筈が無いと考えていました。
 この度、ご縁があって、その永年の疑問が解ける機会に巡り会い、やはり池田城を俯瞰される弱点の対策を施していた事が判りました。至る所に砦や監視所のような普請を行っていた跡を発見しました。それらは非常に広範囲で、多数存在しますので、近日にそれらをまとめて、記事にしていきたいと思います。
 また、村(集落)との連携もされていたと考えられ、共存関係で防御体制を構築していたとも思われ、この視点についても記事で触れていきたいと思います。

私が「池田城の本拠を守るために、五月山や細河地域などにも何らかの策を講じていた筈」と考えていたのは、北摂山塊に、池田城と同じような環境の要所はいくつかあり、他の場所では、その奥地(丹波・能勢方面など)から軍勢が下りて、平地へ出るような動きが度々見られるのですが、奥地からの街道を幾本も通す池田で、それがあまり見られず、池田城が攻められる頻度も他地域のそれと比べると非常に少ない事に注目していました。それは偶然ではなく、必然であり、防御体制を敷いていた為だと考えていました。

最近、城郭に詳しい方の案内で、五月山周辺、特に細河地域(大阪府池田市)を見て歩きましたが、やはり、その見立ては間違いではなかったと感じ、それらの痕跡を多数発見しました。
 今後、更に詳しく見、本当にそうなのかどうかの精査をも必要ですが、もしそれらが見立て通りなら、池田城の城としての概念そのものを大きく見直す必要があると思われます。
 その「大仕事」の前に、池田城の守備体制の一例として、特徴的な人工普請跡をご紹介しておきたいと思います。
 山の尾根の要所(ピークや分岐)に砦・監視所を作り、堀切や堀を設けている所が多数あります。物理(軍事)的に障害物を設けて、尾根沿いの上り下りをさせないようにしているようです。
 例えば、摂津池田氏の菩提寺である大広寺(大阪府池田市綾羽2)の西側、ここに娯三堂古墳があります。これを利用したと思われるトーチカ風の人工普請跡があります。一方を開け、三方を土塁で囲むような地形を作っています。これは、鉄砲や弓といった飛び道具の武器を使うには、身を隠して対応できるのではないかと考えられます。

大広寺から東側に尾根道下を通る山の道もあった

 
現地を見ると、トーチカの原始的なカタチのようにも思えますし、このような防御拠点があれば、その先に進むことが難しくなりますので、特に守備には有効ではないかと思われます。
 また、この場所は地形的に、一旦下って谷になり、再び地面が隆起して枝豆のようなカタチの尾根が南西方向に伸びる、独特な地形です。これが高低差を持ちつつ屏風のように連なっていますので、防御地形としてうまく活用されていたと考えられます。ちなみに、この尾根上に、巨大な茶臼山古墳があります。


左側は明治42年測図、右側は現代

 

娯三堂古墳砦は、その尾根の上部に位置し、その間を通る山道をも警戒する役割もあったと思われます。
 現在では池田市の上水道貯水タンクなどがあって、開発されてしまいましたが、この辺りは、そういった役割を帯びた施設があったと考えられます。

さて、池田城の守備施設らしき場所をもう一つ、ご紹介します。五月山の北側、細河地域にも、砦・城跡が多数見られます。集落は深い谷を境として形成されており、天然の要害を持ちつつ、豊かな水の供給源でもあります。五月山から、至る所で川に水が流れ、水には苦労が無いであろう事は、歩いていて実感します。
 中河原町・東山町の境目から、東山町側に入った場所に、ここにも三方を囲んだカタチの人工普請跡があります。ここは太平洋戦争時に、魚雷などを格納する地下壕があった場所ですので、それらの関連施設の可能性もあるのか、確認が必要ではあります。
 しかし、ここにも娯三堂古墳砦のような志向の形状で、痕跡があります。そのの場合は、尾根筋では無いのですが、五月山側に、山の中を等高線に沿った山道が数本あるため、東山村の南端を守る役割があったのかもしれません。

 

池田市東山町の集落はずれにある防御施設と思われる普請跡

 

五月山周辺には、このような片仮名の「コ」の字形(若しくは円形とも)の普請跡が複数あり、あまり他では見ることがありません。
 これはもしかすると、摂津池田氏の独自の発想で、守備体制を組んでいた事によるものかもしれませんが、他の地域でもあり、私が知らないのかもしれません。
 しかし、この構造は特に鉄砲を使って守備する場合、非常に都合が良いですし、屋根を設置すれば、雨風も凌げる長時間の駐屯場所としても使えるように思います。
 色々と不明な点も多いのですが、何れも自然にできた地形とは思えませんし、この地域でよく見かける「炭窯」というのも構造が違うように思います。


池田市中河原町に残る炭焼窯跡

五月山周辺で見られる片仮名の「コ」の字形の普請跡や尾根上のピークや分岐の要所には、多数の普請跡が見られ、やはり、池田城の背後を取られない防御体制が取られていたと考えられます。
 このために、摂津池田城は「難攻不落」を誇ったようですが、これを破ったのは、1568年(永禄11)秋の織田信長による足利義昭上洛戦の時だったと思われます。
 織田勢は50,000騎ともいわれる大軍で摂津池田城を急襲し、「陣山(横岡公園)」(明治42年の地図を参照)に本陣を置きます。しかし、この先には進めなかったとみられ、ここから西側は急に落ち込む細い谷道で、進めば谷の両側から攻められてしまいます。その位置に、娯三堂古墳砦がありました。近世城郭で見られる「桝形」のような構造だったのかもしれません。
 『信長公記』によると、10月2日に総攻撃を開始し、外構えに取りついて、一進一退の攻防となったようです。信長の馬廻り?水野金吾忠分?配下の梶川平左衛門高秀が戦死。同じく馬廻り魚住隼人・山田半兵衛が負傷して後退。
 この時は、攻め手の軍勢主力を池田城の南側から攻めさせたようですが、城方の抵抗が激しく、攻め手に欠いた織田勢は、町場に火をかけ始めたことから、和睦となったようです。双方に死傷者を出して、信長勢は重臣を失います。その時の合戦を舞台に描いた版画があります。

『真像太閤記画譜』に描かれた池田勝正と織田方武将梶川高秀
(東京大学大学院教育学研究科・教育学部図書館室所蔵資料)
 

また『同記』では、この城攻めの時、信長が「北の山」に陣を置いたとしている事から、これを今の感覚の「五月山」と解して、現在の通説になっています。

 しかし、実際には、今でいう五月山に上る事は、当時の状況では到底できず、「陣山」に進出して停止するのが限界だったと考えられます。この陣山も単独で守るには不十分な環境であり、そのために、短期決戦を計って、いわゆる武士らしからぬ「汚い手(放火)」を使ってでも、和睦に持ち込む方針であったと考えられます。かといって、安全圏で指揮を採ることは出来ず、大将は危険を顧みず前に出て、諸将を鼓舞しなければ、烏合の大軍が瓦解してしまいます。
 その当時の五月山は、山林が今よりも南側に拡がっており、丘陵地帯も山林であったため、その間を山道が縦横に走っています。今とは五月山の様相が全く違います。

昭和30年代の開発前の横岡公園付近(個人蔵)


また、この時、管領細川晴元の息六郎(後の昭元)や三好長逸など三人衆方の武将や将軍義栄方の要人なども池田へ避難していたようで、それ程に堅固な城と考えられていたエピソードの一つだと思います。

 

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2025年5月31日土曜日

摂津池田城の防御体制は、細河郷にも及んでいて現在認識されているよりも非常に広範囲である可能性が高い

細川六郎(昭元)と摂津池田氏についての関係性「元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状」をまとめていた途中で、脱線してしまい、池田の城郭の分野へ入り込んでしまいました。
 言い訳をさせていただきますと、山の中の城跡は、冬期のみの限定された調査になってしまう事から、そちらへ注力してしまいました。細川六郎と摂津池田氏の関係性について楽しみにされていた方には、大変申し訳けなく思います。必ず、事態(私の頭の中)の収拾をつけてまとめますので、少々お待ち下さい。

さて、今回の記事は、その摂津池田城についてです。五月山(大阪府池田市)北側を特に見たのですが、詳しい方に案内をしていただきますと、やはり、公的にもこれまで未知であった砦や城と思われる痕跡が無数にある事が判りました。今回知り得たそれらは、精査も必要ですが、村(集落)との関係や街道監視(管理)と密接に関係していると思われ、特に摂津池田城の背後にある五月山の裏庭(北側)には豊嶋郡・河辺郡の境目があり、その河辺郡の有力者である塩川氏と池田氏は戦国時代末期には、長期間に渡って敵対関係にありました。

そういった状況にもあり、五月山北側の細河庄(郷)は、摂津池田氏にとって、管理下に収める必要が是非ともあったと考えています。
 そのような想定で、2025年1月から赤色立体地図を元に、頻繁にそれと思しき場所を確認に訪れました。その想定としては、(1)豊嶋・河辺郡境、(2)街道の要所、(3)集落の近く、などには、必ず何らかの施設があるのではないかと考えました。

結果としては、想定通りにそれらしき痕跡がありました。自然に形成されたのではない人工普請跡が見られました。以下、簡単に上述の要素を(1)〜(3)の例にまとめてご紹介します。

(1)豊嶋・河辺郡境
郡境の豊嶋郡側に「陽松庵」があり、その北側の独立した山の頂きに城跡が確認できました。城跡から西側には妙見街道が走り、その城跡は、これを監視するために機能していたものと思われます。
 その直下に陽松庵がありますが、同庵の創建は1351年(観応2)京都天龍寺(臨済宗)を開いた夢窓疎石によると伝わり、その後の経過は不明ながら、1713年(正徳3)に天佳禅師を迎えて再興されています。
 今のところ、それらの伝承を補う資料は無いのですが、戦国時代の視点で見ると、その立地的には非常に重要でしたので、吉田村に関連する何らかの施設があったと考えられます。この東側には谷を挟んで突出した山が、かつては存在(開発により掃滅)し、そこが「オダノカイチ」と呼ばれる城跡とも伝わっています。吉田村自体が、小規模な拠点城であった可能性があると伝承や遺物、立地から考えられます。

陽松庵から続く山の頂上に城跡を確認

陽松庵の山の上にある城跡の位置関係

陽松庵上の山にある城跡から西側の妙見道を望む

(2)街道の要所
想定を戦国時代末期の池田氏支配下に当てています。その頃、摂津国豊嶋郡にあった久安寺は、大寺院に成長していたようで、その威光も相当な影響力であった事が想像されます。
 その久安寺には、内院として49院と堂塔があり、外院は東山町(大阪府池田市)に及び、神殿(田?)には総門が、また香華田や寺院僧堂も存在したと伝わっています。更に、吉田橋(池田市吉田町)の東(イゴキ)に、寺戸千軒や流行病患者のための病院、東山村に紫雲寺、木部村に蓮台寺、古江村に等覚寺などがあったとされています。それらの伝承は今のところ、少々時代の盛衰の時差はあるものの、細河庄が一時代の先進的地域であった事を物語っています。
 そんな久安寺には、戦国時代に於いても主要道の一つであった摂丹街道が通り、その途中にいくつもの里(山)道を交える重要な交通路でした。その通路を監視・管理する為とも思われる砦跡があり、尾根道を切断する巨大な堀切が今も残っています。
 この付近にそのような堀切がいくつかあり、軍事的な意味合いも持ちつつ、関所のような施設があったのではないかとも考えたりしています。

久安寺から余野川を挟んだ山にある摂丹街道を監視したと思われる施設の堀切

摂丹街道を監視したと思われる施設の位置関係 

堀切の現状(2025年3月撮影)

(3)集落の近く
豊嶋・河辺郡の境目である古江村(現池田市古江町)は、主要道である能勢街道を通し、その東側至近に片岡村があって、そこを妙見街道が通ります。その妙見道に豊嶋・河辺郡を結ぶ脇街道が複数交差しており、この付近は、交通の要衝となっていました。
 伝等覚寺と思しき寺跡のような痕跡がありました。片岡村の伝承として、戦国時代まで、村の上に「古御坊」と呼ばれる寺があり、それが戦乱で焼けてしまったので、その下の里に僧侶が降りてきて住み着いたので、その僧侶の名から「片岡」という集落名になったと伝わっています。
 しかし、この場所はそういった古刹があった事から、人や物が集まり、街道も次第に形成されたのではないかと考えられます。
 古江村側には、その西側至近の場所に猪名川が流れ、また、東西に伸びる長細い丘陵の突端が古江村付近で落ち込んだ間を能勢街道が通っています。その街道の対岸の山をも見通す場所に古江古墳がありますが、ここも戦国時代には砦として使われていたと考えられます。戦国時代、基本的に古墳は、軍事的な利用がされていたと考えられます。
 さて、そんな古江村から里道で谷筋を上る場所に、広い削平地と人工的な堀のような普請跡がありました。ここは有事の場合に、村人の避難場所であり、守りのための砦ではなかったかと考えられます。削平地は非常に広く、村人の他にも収容が可能な程、広い場所です。

そしてまた、その対岸、細河庄の中央部を余野川が流れ、古江村などからそれを超えた先に五月山があります。五月山を中心に見た場合、その北側、池田城からは北側背後にあたる重要な場所に中河原村があります。
 その中河原村の背後の山の中に平坦地を設けてあり、そこに村人の避難地があったのではないかと思われる場所があります。ここは、古代寺院があったと考えられる場所で、その跡地を使って、何らかの施設を整えていた可能性があり、人工的に造成された広い地形が残っています。近年それらは、植木畑にもなっていますので、その区別をつけることも課題です。

古代寺院跡地と推定される場所の平坦地の人工的普請跡

中河原社の位置関係

中河原社とその周辺に拡がる広大な削平地(2025年4月撮影)

人工的な普請が認められる跡地の位置

伝等覚寺と思われる場所などの位置関係

伝等覚寺跡(伝古御坊?)と思われる現状(2025年5月撮影)

一方で、摂津池田氏の本拠である、池田城は五月山南側にあり、なだらかに標高を下げつつ丘陵地を経て平らな地形となっていきます。
 池田城は、この地形を巧みに利用し、川や丘、谷を使って防御構想を組んでいたと考えられます。それに沿って城跡があり、また、史料上からもその範囲が想定されます。また、この川の外側にも縁故地や城館跡などを設けており、橋頭堡のようないくつも設定して、強固な防御態勢を敷いていたと思われます。

摂津池田城の南側の川を利用した防衛ライン構想の想定


追伸:今回、の調査では、 I さん、N さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。

 

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2025年5月5日月曜日

摂津国豊嶋(現大阪府池田市)・河辺郡(兵庫県川西市)境に存在した可能性のある砦跡を発見か!?

兵庫県川西市1丁目16から大阪府池田市古江町1にかけて見られる人工物の一部で、これは堀跡と思われます。高さは4〜5メートルほどあります。堀らしき写真は、赤色立体地図の赤色丸印内、矢印の方向から撮影しています。

この辺り、戦国時代には特に重要な要所でした。地形的には、ほぼ東西に伸びる標高100メートル程の丘陵(板かまぼこ状)の西端にあたり、その丘陵に河辺郡と豊嶋郡の境目があります。
 その丘陵最西端には、眼下に能勢街道と篠山街道が走り、それらの間を猪名川という大きな川(人馬などでの渡河は不可能)が流れています。また、今回の堀(砦)跡と思われるところから、東側至近に妙見街道を通しています。

戦国時代、豊嶋郡は池田氏が、河辺郡は塩川氏がおり、両者は戦国時代末期、敵対関係にありました。その事から、有事には街道を封鎖し、郡境を超える軍勢に備える必要がありました。また、ここには「古江」という集落があり、その集落を守る必要もあります。

そういった事から、非常に念入りな防御施設を拵える必要があったものと思われ、既述の赤色丸印、すぐ東(右)側には、丘陵南突端に広い平坦地があり、ここに兵を駐屯させられるような場を設けていた可能性もあります。要するに砦のようなモノがあったと想定されます。
 更に、今は宅地開発されてしまっている場所(池田市古江町1)は、尾根続きで西端まで伸びており、その最西端には、公的に把握された古江古墳があります。この古墳も、眼下を見下ろす監視所のような役割に使われており、一体化した概念が感じられます。

公的には把握されていない遺跡ですが、状況から考えて、ここには重要な軍事施設があっても良い環境です。今後も調べを深めていきたいと思います。

本日ご同行いただきました、郷土研究家の I(アイ)様、池田市史学会のM様のご案内とお話しは、大変意義深く、勉強になりました。ありがとうございました。

航空・衛星写真から見た現在の地表面の様子

1909年(明治42)当時の該当地域の地図

堀跡と思われる状況1   

堀跡と思われる状況2

大阪府池田市の文化財「古江古墳」から西を望む


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2025年2月28日金曜日

摂津の有力国人池田氏が、摂津国豊嶋郡細河庄に合法的な進出が成ったと考えられる史料

 現大阪府池田市の細河地域に古代寺院が存在した事について、摂津の豪族池田氏の史料を見直していましたら、判断の指標になりそうな重要な記述(史料)に気づきました。池田氏が摂津国豊嶋郡細河庄に合法的な進出が成ったと考えられる、史料です。
これは、権大外記で左大臣の鷹司家家来であった中原康富の日記『康富記』で、文安5年(1448)8月3日条にあります。『新修 池田市史』には、この記述について、背景と記述の意味が説明されています。
 それによると、この日、中原康富が鷹司邸に召された折、「摂津細河庄の本家職分を池田筑後守充正(政)と契約した」と聞かされて、康富はこれを頻りに止めたけども、お聞き入れなく、もったいなき次第なり。これは匡具(ただとも)の仕業によるものらしいが、佞臣(ねいしん)というべきなり。、と憤慨している記録のようです。
 また、続けて背景環境の解説では、細河庄の本家職すら得分化して、既に国人池田筑後守充正の代官請けとなっていた。、読み解いています。
さて、この後、池田家中では、一族で細河庄の受け持ちを分割しており、文明14年(1482)11月28日付で、中川原村は池田若狭守正種が受け持って、年貢を近衛家に納めています。(もちろん手数料(25%程)を差し引いています。)

久安寺も近衛家と関係の深い寺院ですので、同じ藤原系統である摂津池田家からも現場で支援を受けて、勢力拡大に一役買っていたのではないかと思います。久安寺の山門は、室町中期頃のものとされていますので、これは、この史料の動きと一致するものと思います。

本来、五月山北辺に栄えた古代寺院が、久安寺の隆盛と入れ替わったか、吸収されたのでしょう。更にこの動きの中で、池田氏は自らの氏寺である大広寺の末寺を入れて、支配強化を行っているように見えます。

ちなみに大広寺は、応永2年(1395)に創建されたとされています。五月山周辺は、見事に大広寺ネットワークが張り巡らされて、摂津池田氏と共存関係を築いていたように思われます。

 

『康富記』文安5年(1448)8月3日条

 
大澤山 久安寺山門(大阪府池田市)

塩増山 大広寺山門(大阪府池田市)


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2025年2月26日水曜日

長久3年(1042)に描かれた、摂津国豊嶋郡細河庄に存在した古代寺院跡(玉性院?)を発見か!?

非常に興味深い遺跡を発見したかもしれません。平安時代頃に存在したとされる、大規模寺院の跡が、今も残っていました。(これから更に調査を続けます。)
 大阪府池田市に伝わる細河庄境界絵図(長久3年:1042)について、これまでは、想像の範囲で、あまり確認もされていなかった(池田市教育委員会自体が、これは想像の社寺であるとの見解を述べています。え?調べた?)のですが、この絵図に描かれている五月山側にあった大寺院の跡が、今も残っている可能性があります。

絵図が描かれた長久3年とは、平安時代で、この当時、今は大寺院と考えられている久安寺の規模が小さく、その前身と思われる「安養院」として描かれています。
 これに対して、五月山側の現池田市木部町から東山町にかけて、大規模寺院の存在が描かれており、絵図中の「玉性院?」は、三重の塔が描かれる隆盛ぶりです。また、同市中川原町と思しき付近に、鳥居と建造物が描かれており、五月山北側山麓に、安養院(久安寺)よりも賑やかな宗教施設の様子が描かれています。

本日令和7年(2025)2月24日、どちらかというと、城跡を確認のために、専門性の高い方と一緒に見て回りました。そうする内、城と言うよりは、寺院ではないか、しかも、非常に規模の大きい寺であることを確認しました。
 その時には城では無く、寺院ではないか?、と感じただけだったのですが、それらをひと通り見終わって、手持ちの資料を確認する内に、この「細河庄境界絵図」の存在を思い出し、現地の感想と結び付きました。
※いわゆる、戦国時代にはこれらも防御施設そして利用されていたものと思われます。
 
この現池田市の細河地域は、研究する人も殆どおらず、資料も残っていません。ただ、非常に古い神社やお寺が多いという、感想の順送りが続いていただけでしたので、この気付きは、更なる思考の前進に繋がれば、非常に意義有ることと感じています。

後世に残すため、この調査を続けていきたいと思います。
 
 
長久3年(1042)摂津国豊嶋郡細河荘大絵図(部分) 池田市立歴史民俗資料館所蔵

池田市木部町と同中河原町との境界の谷にある古代寺院らしき跡


池田市中川原町にある中河原社鳥居


池田市中川原町にある中川原社の古代寺院跡を感じさせる特異な地形(後年は城跡?)


 
 

2024年10月30日水曜日

やはり、摂津池田家当主となった勝正は、先代の長正の嫡子(息子)ではなく、別の家系!

 いま連載中の「元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状」テーマに懸かる史料を調べ直しているのですが、その過程で発想があり、少し脱線です。
 これまでにも、何度かそれについてお伝えしていたのですが、確たる証拠がなく、また、池田勝正の先代の長正の資料が非常に少なかったこともあって、私の想像の域でした。

しかしながら、最近、長正の動きや家中での地位などが見えてきたこともあり、池田勝正との繫がりも、ある程度、具体的な推測が立てられるようになりました。
 やはり、私が直感的に感じていた通り、池田勝正は先々代の池田信正、続く長正とは別の家系から立てられた当主(惣領)の可能性が非常に高いと思われます。つまり、勝正は、長正の直接的な息子ではありません。

これについては、現在取り組んでいるテーマが終わりましたら、このテーマを詳しく記事にしたいと思います。

少々お待ち下さい。

 

 



2024年10月5日土曜日

細川六郎と三好三人衆(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

京都の中央政権を支えた阿波国に縁を持つ三好家が、三好長慶を筆頭に、歴代最大の版図を築くに至ります。しかし、永禄7年(1564)7月、その三好長慶は失意の内に亡くなります。
 その後、間もなく三好長慶を支えた一族家老・重臣同士の争いに発展し、結局は京都周辺に威勢を誇った三好氏も没落してしまいます。

その過程で、家名存続に腐心した三好三人衆(三好家家老格であり、家政中枢であった組織機構)と、伝統的権威であり室町幕府機構内の「管領」格であった細川六郎(家)について、考えてみたいと思います。

この管領(格を有する)細川家は、日本各地にあり、その細川家を担いで、地域権力とその統治機構があったようですが、今回の記事は、京都を中心とした(室町幕府直結の)細川管領家について、観察してみます。
 この京都に在所する足利将軍権威に含まれる管領職について、三好長慶を筆頭とする阿波三好家が深く関わり、支えていました。
 それらの実態については、複雑怪奇で、それらの説明は割愛します。ここでは特に、長慶の時代から元亀元年までの動きについて述べたいと思います。

例の如く、その流れについては、この記事の本文以下に、関連する出来事の一覧を掲示します。

状況からすると、阿波三好家からしても迷惑で、不可抗力的な悲劇なのですが、将軍家の同族争いと管領家の争いが連動して起こり、その権威構造の歯車が、その力で全て動いてしまうので、三好家としても引き込まれざるを得ない状況でした。それが長慶の代で概ね決着し、沈静化がある程度、進みました。

六郎(昭元)の父である管領細川晴元は、自らの失政で招いた混乱に抗いきれず、長慶という、かつての重臣に従わざるを得なくなります。

近江国(現滋賀県)朽木の将軍御所跡
天文20年(1551)12月、細川晴元方であり、近江国守護六角定頼・義賢父子と三好長慶が和睦する事となります。この時の条件について、管領晴元の嫡子である六郎を、現管領である細川氏綱の後、もしくは、然るべき時期に、晴元嫡子六郎を管領に就かせる条件で和睦を締結します。
 それにより、年が明けた天文21年1月に将軍義輝は、避難先の近江国朽木地域から京都へ戻ります。この折に、六郎も随伴していますが、その親である晴元は、剃髪して僧体(入道号永川)となり、出奔します。

この間暫く、駆け引き、争いがありますが、三好長慶が優位に状況を切り抜け、勢力を拡大していきます。
 弘治4年(1558)2月3日、細川六郎(この時、聡明丸)を摂津国芥川(山)城で、三好長慶は元服させます。この烏帽子親を晴元の敵対一族である現管領の細川氏綱が行いました。加えて、その月内に改元まで行い、元号を「永禄」として発布します。
 これは晴元の系譜を継がず、敵対する氏綱の系譜に組み込むという流れを作る事となり、この行為についての大きな反感を長慶は買いました。特に晴元擁護派の中心である、近江守護家六角氏(細川晴元の妻は六角定頼の娘で、両家は親類)が反発し、三好長慶に敵対する勢力を糾合して争う構えを見せます。

それに対抗して、三好長慶は管領の上位権力である将軍義輝に接近し、御相伴衆に取り立てられるように仕向けたりして、自らの地位を上昇させる策を講じます。また同時に、管領家も長慶の権力機構内に収めつつ、更にその上位権力との関係性を作り、自らの地位も上昇させる事で、敵の抵抗を政治戦略的に無力化する策に出ます。
 やはりこれは功を奏します。永禄2〜3年の河内南半国守護職畠山家の内紛鎮圧は、幕府の正規軍として三好長慶が行っています。しかし、それでも反抗は止まず、翌4年(1561)7月にも、長慶に対して包囲網を敷いて、近江六角承禎(義賢)が中心となって武力蜂起します。しかし、永禄7年7月、長慶はその鎮圧の半ばで死亡します。

少し時間を戻します。

京都吉田神社 
永禄6年(1563)という年は、京都周辺で疫病が発生していたとみられ、それを裏付ける史料があります。京都吉田神社の神主、兼右が、4月19日の事として記述しています。
※兼右卿記(上)P142

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上野民部大輔(信孝)、不例に就き、神道泰山府君祭事、上位(将軍)為、細川民部大輔(藤孝)以て仰せ出され了ぬ。既に急病也。諸道具5月3日中に調え難き旨申し入れ了ぬ。然者、(賀茂)在冨卿に仰せ出されるべく候云々。尤も然るべく候旨返答了ぬ。彼の病者十死一生也。若し平癒無き之時■天度く然るべく之間、此の分申し上げ了ぬ。
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この年に、細川晴元、同氏綱の両管領が死亡します。そして、長慶の跡取りであった三好義興も病没してしまい、親の長慶にとって、悲嘆に暮れる年となりました。この後、管領職は正式に承認された人物はなく、事実上「空位」となっていたと思われます。

さて、永禄7年(1564)、三好長慶亡き後、長慶実弟(十河一存)の養子先である十河家から養子を迎えて、家中政治の立て直しを図ります。
 三好家長慶跡目となった義継は、この時は(数えで15才)まだ若く、長慶を支えていた家老や重臣が同じくその新当主を支えました。しかし、司令塔であり、象徴であった当主長慶を不慮に失い、家臣団の意見が纏まらなくなります。
 永禄8年(1565)5月、三好勢は将軍義輝の暗殺を決行する暴挙に出、この年の内に三好三人衆という一族集団と新参であった松永久秀が対立し、内紛となります。もはや「天下取り」どころではなく、内紛の勝敗に明け暮れる事態に陥ります。
 このような事態は、三好家にとっては想定外であったでしょう。ですので、権力の整理や組織の象徴の奉戴など、次の段階の作業に着手する事ができず(構想はあったと思われる)に、内紛の処理に追われます。

足利義栄木像
将軍の殺害自体(主殺し)、当時でも非道な行為であり、これを実行するにあたっては、それに相当する(社会的な)行為の理由付けと準備が必要な筈です。これは思いつきではなく、構想があり、準備の上で行われたのだと思われます。また、『佐々木六角氏の系譜』では、この現役将軍の襲撃事件は近江守護六角氏家中で「(いわゆる)観音寺騒動」が起きたため、その間隙を衝いて実行されたと分析されており、やはり計画的である要素があったように思います。(阿波三好家による非道な暴挙は、これで二度目で、主君阿波国守護細川讃岐守氏之を三好長慶実弟の同名豊前守実休が天文22年(1553)6月に、殺害しています。)
 さて、この当時、将軍義輝を暗殺した直後、阿波足利家を将軍に立てるとの噂が広がっています。
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

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『言継卿記』5月19日条:
辰刻(午前7時〜9時)三好人数松永右衛門佐久通等、10,000計り以て俄に武家御所へ乱入之取り巻き、暫く戦い云々。奉公衆数多討死云々。(中略)阿州の武家御上洛有るべく故云々。(後略)
『フロイス日本史(中央公論社:普及版)』都において事態が進展した次第、および三好殿と奈良の(松永)霜台の息子が、公方様とその母堂、姉妹、ならびに奥方を殺害した次第条:
彼は若者である三好殿と、公方様を殺害し、阿波国にいる(公方様)の近親者をその地位に就かせる事で相談し、その者には公方の名称だけを保たせれば、それからは両名がともに天下を統治する(ことができると考えた)。
『足利季世記』光源院殿御最後之事条:
阿波御所様、三好三人衆、松永・篠原山城守を頼りに御頼みありて御上洛の御望みあり。先年より頻りに此の事ありけれども、長慶存生の中は、当公方様御馳走申して更に御請けなかりける、今長慶一期の後、子息幼稚なれば、一族衆を一偏に御頼みありければ、皆阿波御所え御一味申しけり。
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記述の、将軍義輝殺害後の三好家分裂は、約2年間に渡る抗争となりますが、これにより三好家の家運は傾きます。
 激しい内紛の中で、最終的には、三好三人衆方が競り勝って、阿波足利家の義栄(よしひで)を、正式な第14代室町将軍に就ける事に成功します。永禄11年2月8日の事です。
※言継卿記4-P211

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(前略)今夜将軍宣下、上卿出立要脚、伝奏於いて300疋之請け取り、澤路備前守入道之遣わす。同請け取り後日之遣わす。(中略)左馬頭源朝臣義栄宜しく征夷大将軍為し、兼ねて又聴着禁色すべく、予微頌、(後略)
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この争いの間、両者は公的・正当性の主張のシンボル(象徴)として、高位の人物を味方に付けようと腐心しています。
 松永久秀は、自身の行動の象徴として、三好家当主三好義継を奉戴していました。この関係は、両者が死亡するまで続く、堅いものでした。永禄10年2月に、三好家当主の義継は、松永久秀の元へ走ります。
※言継卿記4-P122、兼右卿記(下)P121、多聞院日記2(増補 続史料大成)P9など

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『兼右卿記(下)』2月16日条:
今夜亥刻(午後9〜11時)、三好左京大夫与松永弾正少弼一味せしめ云々。(後略)
『多聞院日記』2月18日条:
(前略)一、去る16日(2月16日)三好左京大夫堺にて宿所を替え了ぬ。松永弾正少弼と同心歟と河内国雑説之由也。いかが、大坂へ行き云々。
『言継卿記』2月17日条:
(前略)三好方池田内等昨日破れ云々。又大乱に及ぶべく、笑止之儀也。三好左京大夫(義継)、同山城守、安見等、摂津国遠里小野へ打ち出し云々。三好日向守、同下野守入道、石成主税助、和泉国境に之有り云々。松永弾正少弼(久秀)衆蜂起云々。池田之内75人引き破れ云々。(後略)
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対する三好三人衆は、将軍格を立てており、天下への戦略(号令)としては、義継を擁立するよりも戦略的には大きな意味があります。ですので、この奏功で、いずれ義継の事も解決できると考えていたのかもしれません。

漸くここから、細川六郎(後の昭元)の動きについて、触れていきたいと思います。歴代最長の前置きで、新記録達成です。すみません。 m(_ _)m

そんな状況でしたので、六郎は三好家中で保護されていたものの、弘治年間の元服以来、この動きの中で、史料としては表立って見られません。また、年齢も若く(三好義継とほぼ同年代)、政治的な動きもできなかったのかもしれません。永禄10年(1567)になり、ようやく六郎が史料上で確認できるようになります。
 本願寺宗法主(顕如)の光佐が、細川六郎に宛てて音信しています。具体的には不明ですが、何か重大事項を控えているような内容です。2月3日付の音信です。
※本願寺日記-下-P578

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肇年嘉祥、逐日尽際有るべからず。彌堅意任されるべく候。抑3種5荷進め入れ候。表祝儀計りに候。猶下間上野法橋申せしめるべく候。穴賢穴賢。
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更に、同年9月28日の事として、細川六郎が山城国大原口などの山科率分の今村氏受け持ち分を違乱している旨、公卿山科言継(ときつぐ)の日記に現れます。
※言継卿記4-P172

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10月2日条:
(前略)澤路隼人佑(言継被官)来たり。内蔵領率分東口之事、細川六郎(昭元)違乱云々。折紙持ち来たり。山城国大原口・粟田口山科率分今村(慶満)分事、上使差し越され上者、役銭等先々の如く彼の代沙汰致すべく由状件の如し。永禄10年9月28日 為房判(昭元奉行人飯尾) 諸役所中。承引能わず、上使追い返し云々。重ねて来たるべくの由申し云々。(後略)
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同年、本願寺の光佐が、念入りに年の暮れと新年の挨拶を細川六郎に送っています。この頃、六郎の年齢は数えで20才になっています。永禄10年暮れと明けた新年の音信です。
※本願寺日記-下-P581+583

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12月23日条:
歳暮嘉慶、尤も以て珍重候。仍て太刀一腰之推し進め候。猶下間上野法橋申すべく候。穴賢穴賢。
1月26日条:
春の吉兆、漸く事舊(旧)しと雖も候。尚以て休盡有るべからず、多幸多幸。仍て3種5荷之推し進め候。祝詞逐日重畳申し展べるべく候。穴賢穴賢。
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これは本願寺宗にとって、六郎が重要な人物であると認識していた証拠でもあると思われます。

芥川山城(撮影:2001年2月)
永禄11年(1568)には、三好三人衆が将軍義栄政権の体制整備を行っていたようで、管領(かんれい)格であった六郎もその政権内に据えて、安定の一要因にと考えていたのかもしれません。
 しかし、この年の秋、故将軍義輝実弟である足利義昭を奉戴した織田信長により、三好三人衆方に上洛戦を挑まれ、抗いきれずに将軍義栄政権は崩壊してしまいます。
 この時、細川六郎は摂津国芥川(山)城付近で、三好三人衆筆頭の三好長逸と共に迎え撃ちましたが、衆寡敵せずに敗走しています。
※言継卿記4-P273、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

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『言継卿記』9月29日条:
(前略)今日武家御所天神馬場迄御進発云々。先勢芥川之麓之焼き攻め云々。(後略)とある。
同月30日条:
(前略)今日、武家芥川へ御座移され云々。勝龍寺・芥川等之城昨夕之渡し、郡山道場今日之破れ、富田寺外之破れ、寺内調べ之有り。池田へ取り懸け云々。(後略)
『足利季世記』新公方様御上洛之事条:
(前略)同9月28日、信長は京都東福寺に着陣して石成主税助が楯籠もりし山城国西岡の勝龍寺城を攻めらるる、柴田修理亮と石成主税助終日合戦し、石成打ち負け50余人打ち取られ、叶うまじとや思いけん降参を請いければ、上意得られ一命を助けて城を請け取り、石成おば信長の手に加えらる。公方様には越水城へ御動座ありけり伊丹大和守親興は、越前国へ御使者を奉り御味方に参り御教書給わり所領3000貫給わり、兵庫頭になりければ、公方様の御手合いとて馳せ向かい、9月29日摂津国武庫郡河辺郡両郡を放火す。是れを聞きて三好方の高屋の城も飯盛城も自落しければ、畠山高政は初めより一乗院様の味方なれば、本領なればとて高屋城に打ち入りけり。同日、新公方様南方の御敵退治の為に御出張(中略)尾州(尾張国)衆、高槻・茨木へ陣取る。芥川城へは、故細川晴元一男六郎とて三好日向守籠もりけるが是れも叶わず明け渡しける。(後略)
『改訂 信長公記』信長御入洛十日余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備えらるるの事条:
(前略)29日、勝龍寺表へ御馬を寄せらる。寺戸寂照に御陣取。これに依って石成主税頭降参仕る。晦日、山崎御着陣。先陣は天神の馬場に陣取る。芥川に細川六郎殿、三好日向守楯籠もる。夜に入り退散。並びに篠原右京亮居城越水、滝山、是れ又退城。然る間、芥川の城へ信長供奉なされ、公方様御座を移さる。(後略)
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細川六郎は、一旦、三好三人衆勢と共に阿波国方面へ待避していたようですが、体制を立て直し、再び上洛(京都奪還)を目指した戦いの準備を行っていました。
 ちなみに、この三好三人衆勢が京都から落ちる時、将軍義栄は、その途上で死亡します。これはあまり記録が無いのですが、それは、長慶の前例の如く、喪の秘匿によるものと思われます。

それ故に、「戦(いくさ)」をより有利に展開するためにも求心力のある人物をより多く味方に付ける事は、非常に重要な課題となります。
 三好三人衆方にとって、六郎の価値が急騰していました。そんな状況を示す史料があり、これは六郎が、丹波国人へ上洛戦のためと思われる音信を行っています。永禄12年と推定される3月20日付けで、細川六郎が、丹波国人荻野(赤井)悪右衛門尉直正へ宛てています。なお、署名は「元」の一文字のみです。また、『近世公家社会の研究』によるとこの音信は、六郎が阿波国から発したものと推定されています。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37など

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先度染筆様体申し越し候。参着候哉。然者、行事、相催し候条、此の刻、別して忠節為るべく候。恐々謹言。
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丹波八木城跡(撮影:2201年10月)
もう一通、細川六郎と連なる動きをしている丹波国人内藤貞虎が、同国人赤井(荻野)悪右衛門尉直正宿所へ宛てて音信があります。これも同年と推定される3月23日付けの史料です。文中の「御屋形」とは、細川六郎を指していると考えられます。
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

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其れ以後久しく申し通さず候。仍って京表於いて、三好三人衆を始め利を失われ故、御屋形(六郎)播磨国へ至り御下向之条、我等も御共に罷り下り候。尤も切々書状以って申し承るべく候処に、遠路に付き、万事音無き迄に候。其れに就き、御使い為、同阿(不明な人物)差し遣わされ候。万ず御入魂肝要候。御屋形様対当され、数代御忠節、並び無き御家にて候条、此の砌引き立て申されるべく事専一候。拙者も不断御近所に之有る事候間、いか様之儀にても久しく仰せ越されるべく候。御文箱使い仕るべく候。次に(赤井)時家、未だ申し通さず候へ共、幸便候間、書状以って申し入れ候。苦しからず候者、御届け成られ候て給わるべく候。尚期して参拝之時を期し候条、事々懇筆に能わず候。恐々謹言。
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そして、永禄12年(1568)閏5月、三好三人衆勢は、実際に軍を動かして出陣しています。『多聞院日記』閏5月14日条に、その記述が現れます。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

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(前略)一、淡路(国)於いて喧𠵅有て、(三好)為三ノ矢野ノホウキ(伯耆守)以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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伝摂津中嶋城跡(撮影:2006年10月)
この後暫く、六郎に関する史料は見られなくなり、元亀元年(1570)の摂津国野田・福島合戦を迎えます。この年、六郎は満22才。
 その頃には、三好三人衆方も六郎の政治・軍事的価値を再認識しており、その動くところには、必ず「六郎」の記述が見られるようになります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P634

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元亀元年条:
(前略)旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ、摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭晴賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同備中守、同帯刀左衛門、同久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。(後略)
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この時は、細川晴元の一族同苗の典厩家(管領の分家で政賢流、右馬頭:摂津国中嶋城主)でもある晴賢の動向も記述されており、この頃の三好三人衆方はより強固に権威(権力)の利用とこだわりを見せています。この典厩家の晴賢は生没年が不詳ながら、六郎と比べると年齢がかなり上ですので、補佐的な実務への期待もあった可能性がありますね。もちろん、陣所が野田・福島ですので、中嶋はこの地域の中心地でもあります。それも意識していますね。
 また、六郎の存在を三好三人衆が活用しているのは、共闘するにあたり、近江国守護家の六角氏との関係を保つためでもあったと思われます。

このように、元亀元年頃には三好三人衆方にとって、管領格であった細川六郎は、組織の求心力を発揮し、団結の中心として、大きな役割を果たす人物となっていました。


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<天文20年から元亀元年8月の関連資料概要> =================
天文20年12月 -------------------
将軍義輝方六角義賢・定頼父子と細川氏綱方三好長慶の和睦会談が行われる
※戦国三好一族P139、三好長慶(人物叢書)P121、足利義昭(人物叢書)P87

天文21年 -------------------
 
1月28日 将軍義輝、入京
※言継卿記2-P443、群書類従20号(武家部:細川両家記)P612

弘治4年 -------------------
2月3日 細川晴元嫡子昭元、細川氏綱方三好長慶居城芥川山城にて元服
※群書類従20号(武家部:細川両家記)P615、戦国期歴代細川氏の研究P-347など
 
永禄4年 -------------------
7月 細川晴元方反三好長慶勢、各地で挙兵
※高槻市史1-P714、和泉市史1-P356、中世後期畿内近国守護の研究P222
 
永禄6年 -------------------
2月 池田長正死去
※池田市史1-P658
 
3月1日  細川晴元病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622など
 
4月19 将軍側近上野信孝、急病につき京都吉田神社神主兼右へ音信
※兼右卿記(上)P142

8月25 幕府方三好長慶嫡子義興没
 ※群書類従20(合戦部:細川両家記)P622

12月20 細川氏綱病没
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P623

永禄7年 -------------------
5月7日 幕府方三好長慶、弟の安宅摂津守冬康を殺害
※言継卿記3-P408

7月4日 幕府方三好長慶死亡
※細川両家記 (群書類従20:合戦部)P623
 
永禄8年 -------------------
5月19日 足利義栄上洛の噂が立つ
※言継卿記3-P502、フロイス日本史3(中央公論社:普及版)P312、足利季世記(三好記:改定 史籍集覧13別記類)P232など

8月2日 幕府方三好義継衆松永長頼、丹波国で戦死
※多聞院日記1(増補 続史料大成)P422、言継卿記3-P521

永禄10年 -------------------
2月3日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P578

9月28日 公卿山科言継、細川昭元の押領について音信を受け取る
※言継卿記4-P172

12月23日 本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P581

永禄11年 -------------------
1月26日 本願寺光佐、細川六郎昭元へ音信
※本願寺日記-下-P583

9/月29日 幕府方三好長逸勢、摂津国芥川山城などの拠点が落ちて敗走する
※言継卿記4-P273、足利季世紀(改定史籍集覧 第13冊)P246、改訂 信長公記(新人物往来社)P86など

永禄12年 -------------------
3月20日 三好三人衆方細川昭元、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、近世公家社会の研究P37

3月23日 三好三人衆方丹波国人内藤貞虎、同国人赤井直正宿所へ宛てて音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国遺文(三好氏編2)P245

閏5月7日 三好三人衆方細川六郎(昭元)、丹波国人赤井直正へ音信
※兵庫県史(史料編・中世9)P6、戦国期歴代細川氏の研究P127

閏5月14日 三好三人衆内で喧嘩が起きる
※ 多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

================= <年表おわり>


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2024年9月23日月曜日

併せて見るべき関連性の高い史料(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)

令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状(以下、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)について、その史料と併せて見るべき関連史料群をご紹介したいと思います。

これにより、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の理解を深める事になればと思います。前項目の「元亀元年当時の戦況」と重なる部分もありますが、視点が違いますので、併せてご覧いただければと思います。

また、前項目と同じく、この記事の本文下に関連する出来事の一覧を掲示します。

結果から言うと、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の意図するところの調略が成功していますので、この史料はその「指示書」という、証拠になろうかと思います。

さて、今回見る関連史料群は、調略が行われた事の実態を示しているとも言える集合体であり、細川六郎を支える人々や体制(構造)などの変化を見ることが出来るように思います。
 元亀元年8月、反幕府・織田信長方の中枢勢力である三好三人衆勢は、京都奪還を目論見、決戦を挑みます。摂津国野田・福島方面へ大挙上陸し、陣を展開します。
 しかし、両勢力が睨み合う最前線で、何と、中枢を担う人物が、幕府・織田信長方に投降します。

大坂石山本願寺推定地
8月28日、三好為三が投降し、その3日後の9月朔日、為三に近しい三木某なども投降しています。その翌日の2日には、三好三人衆方の陣中で喧嘩が起きています。

同月10日、幕府・織田勢は、三好三人衆勢に攻撃を開始し、次々と敵を圧倒していきますが、同12日、旗色を鮮明にした大坂本願寺勢が武力蜂起します。次いで、これに呼応した京都東側の同盟勢力(朝倉・浅井・六角氏)が、京都を目指して進みます。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P111

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志賀御陣の事条:
9月16日越前国の朝倉義景・浅井備前守長政、30,000計り近江国坂本口へ相働くなり。森三左衛門尉、同国宇佐山の坂を下々(おりくだり)懸け向かい、坂本の町はづれにて取り合い、纔千(わずか)の内にて足軽合戦に少々首を取り、勝利を得る。(後略)
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近江坂本城跡
同月16日、本願寺方は幕府方と停戦しますが、再び交戦が行われています。多分これは、この時に近畿地域に接近した台風によるものと思われます。台風が過ぎ去ると、再び戦闘は始まっています。その間、幕府・織田方は京都防衛を優先する策を打ち出し、野田・福島の戦線から後退して、その本陣としていた摂津中嶋城も放棄。京都に戻ります。
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

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元亀元年条:
(前略)一、同16・17日(9月)に鉄砲止められ候て和睦の噯い候へ共、相調わず由申し候。
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そんな最中の9月20日、寝返ってきた三好三人衆勢の中心人物である三好為三の知行地の暫定方針を信長は伝えています。一方でまた、これは細川六郎へ信長より提示された「池田領内二万石」の概念に含まれる要素だったのかもしれません
※池田市史(史料編1)P28

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摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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実際、将軍義昭政権は、知行地の配分どころでは無く、政権崩壊に繫がりかねない軍事的危機にあり、その対応に追われます。それは軍事面だけでは無く、徳政令(経済政策)や朝廷を動かした和睦対応などで、この年の暮れには、一時的な全面停戦を実現して、窮地を脱します。
 その頃の12月25日及び27日、三好三人衆方の同盟勢力である本願寺光佐が、それらの求心的人物である細川六郎に、歳末の挨拶を行っています。
※本願寺日記-下-P596

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27日付音信:
芳墨披閲本望此の事候。就中太刀一腰、馬一疋贈り給い候。悦びの至り為候。猶下間丹後法印頼総申し入れるべく候条、先ず省略せしめ候。穴賢。
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年が明けた元亀2年、その春から両陣の動きがあり、夏頃にはまた、双方で大規模な交戦が始まります。
 5月6日、幕府方に身を置いていた松永久秀が、旧誼の三好三人衆方へ寝返り、同時に三好義継も三好方へ復帰します。これは、三人衆方にとっては、同族分裂の終息を遂げた事となり、新たな求心力を得たカタチになります。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記(ビブリア54号)P33

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『多聞院日記』5月6日条:
(前略)一、奈良多聞山従り陣立て之在り。松永山城守久秀嫡子同苗金吾(久通)・竹内下総守秀勝立ち了ぬ。
『二條宴乗記』5月6日条:
天晴。陣立て、松永久通・竹内秀勝計り也。知れず者也。
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一方、幕府・織田方は、重要地域である摂津中嶋城を治めていた伝統的権威であった細川典厩家、藤賢の処遇について検討しています。6月4日、信長はその事を音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P458

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細川右馬頭藤賢身上の儀に付き、御内書の旨、頂戴致し候。連々公儀に対し奉り疎略無く候。然る間信長於も等閑存ぜず候。此の節領知以下前々如く、相違無きの様に上意加えられるべくの事、肝要存じ候。此れ等の趣き御披露有るべく候。恐々謹言。
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また、同月16日、三好為三の処遇についても検討を行っており、これについて暫定的な方針として、7月31日付けで、将軍義昭が内書を下して、為三の希望する所領について認めています。しかし、最初の要求よりは規模を小さくして、より具体的な内容になっています。
※織田信長文書の研究-上-P392、大日本史料10-6-P685

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6月16日付:
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者(摂津守護)伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭忠親へ了簡される事肝要候。
7月31日付:
舎兄三好下野守跡職並びに分に自り当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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摂津白井河原古戦場跡

8月28日、摂津国島下郡宿河原付近で大合戦(いわゆる白井河原合戦)があり、これに三好三人衆方池田勢が勝利しました。幕府方中心人物の一人であった和田惟政を始め、主要人物は戦死。茨木城など付近一帯は悉く池田勢が落として勢力下に収めました。これにより、山城国勝龍寺城付近が最前線となる状況にまで、幕府方は軍事的緊張を強いられます。
※言継卿記4-P523など

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『言継卿記』8月28日条:
戌午、天晴、時正、(前略)摂津国■郡山於軍之有り。和田伊賀守惟政討死云々。武家辺以ての外騒動云々。茨木兄弟以下300人討ち死に。池田衆数多打ち死に云々。三淵大和守藤英夜半■■城入り云々。
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摂津池田勢は、この合戦により、歴代の最大版図を得、同時に、三好三人衆方は池田勢の奮戦で、京都奪還が現実味を帯びる状況に好転します。

しかし、そんな中で、その年も暮れかかる12月17日、細川六郎(昭元)は配下を伴って、幕府・織田方に投降します。
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24

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十七日条:
細川六郎(昭元)出頭也。見物了ぬ。騎馬薬師(寺)・三宅・香西三騎也。馬廻り打籠也。七百計り之在り。祗侯の砌、官途右京大夫、又名乗り御字遣わされ、秋(昭)元云々。
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元亀3年が明けて、三好三人衆の中心人物である石成友通も幕府・織田方に投降してきます。細川昭元(六郎)が投降したことで、その周辺の人物が次々と連なって、付いてきました。織田信長が、石成主税助友通へ音信(朱印状)しています。
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127

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領中方目録:
一、山城国の内普賢寺・皆一職、一、同山田郷(現京都府相楽郡精華町内)皆一職、一、同上々野(現東寺領荘園のひとつ)三分の一、一、同富野郷御料所方・小笠原分除き之、一、同内野代官職、一、同壬生縄内、一、山城郡司、以上、右御下知の旨に任せ、領知全う相違有るべからずの状、件の如し。
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軍事的には、三好三人衆方が有利な状況でしたが、昭元を始めとする、この不調和は政治的な内部事情があっての事と考えられます。後の項目で、これについて示しますが、三好三人衆方は、いくつかの求心的要素(人物)をかかえており、その時々で、その重要度に偏りを見せたために、その扱いへの不満が表出したのではないかと思われます。

さて、幕府・織田方に迎えられた管領格の細川昭元(六郎:この時は右京大夫)は、3月24日に配下を引き連れて、信長に参候して挨拶を行います。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P123

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むしゃの小路御普請の事条:
(前略)3月24日、(中略)細川六郎(昭元)殿・石成主税助始めて、今度、信長公へ御礼仰せられ、御在洛候なり。今般大坂門跡より万里江山の一軸、並びに、白天目、信長公へ進上なり。
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この後、幕府方として、軍事的には不安定ではあったものの、伝統的な細川典厩家の城である中嶋城に、元の城主であった藤賢に加えて細川昭元も入れ、守らせたようです。
 しかし、三好三人衆方は、ここを再び攻撃します。中嶋城の細川藤賢・昭元は持ちこたえられずに和睦します。これについて、いくつかの記述や解説では、昭元が再び三好方になったとしているのですが、その後も、昭元と藤賢は、明らかに幕府方の立場です。

そんな中、この5月頃には、将軍義昭と織田信長の不和が表面化、両派が分かれ始めます。しかし、完全には乖離しておらず、付かず離れずの行動から心理的には葛藤があったと思われますが、それらは史料上から読み取るには複雑です。
 史料があっても、その人物の立場が把握できなければ、書いてある意味が全て実態の真逆の意味になりますので、人物の所属把握は非常に重要です。難しいのですが、行動の結果からすれば、それらの誤差は読み取る事ができるかもしれません。

6月2日付けの史料は、欠年ではあるものの元亀3年の状況を示していると考えられ、同じく欠年6月12日付の荒木村重の音信は、関連性があるものと考えられます。以下は、6月2日付け、幕府方細川昭元が、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信したもの。
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

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昨日者見廻り悦び入り候。仍て摂津国池田の人数、才覚を以て相越すべく旨、談合相申し由、一段祝着の至り候。明日上嶋(中嶋?豊嶋?)に至り、敵相動き由の条、尚以て馳走肝要候。恐々謹言。
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これらの史料から窺える状況からすると、摂津池田衆も三好三人衆方から少し距離を置き始めていたようです。昭元や石成友通が三好三人衆方から離れた事で、微妙な求心力の衰えが影響を及ぼしていたのかもしれません。

つい先日、令和6年9月6日に報道されました、熊本大学(永青文庫)による、織田信長から細川藤孝への書簡(元亀3年8月15日と推定)では、山城・摂津・河内国方面の有力国人を味方に引き入れるよう信長が依頼しています。
 この時点では決定的に将軍義昭と織田信長は決別しているようで、両者は、体制固めに動いています。
※熊本大学・永青文庫記者発表資料など
https://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/kouhou/pressrelease/2024-file-1/release240906.pdf

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八朔之祝儀為、(猶具一ト二ニ申し渉り候)委細承り候。殊に帷子ニ送り給わり候。懇切祝着之至り候。当年京衆何れも無音之処、初春も太刀・馬之給わり候間、例年表され之条、大慶候。仍って鹿毛之馬之進め候。乗心形の如く候歟。方々御辛労之由、併せて此の節候。南方辺之衆誰々寄らず、忠節抽んずべくに付きては、召し出され然るべく候。馳走簡要候。恐々謹言。
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この流れで、8月28日の事とする中嶋城をめぐる合戦(中川史料集:内容からしてこれは元亀3年の誤りであること確実)では、摂津池田勢が中嶋城の支援を行っていたらしい様子が浮かんできます。
※中川史料集P14

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太祖清秀公の条の元亀3年条:
8月28日夜、摂津国中嶋細川右馬頭藤賢が城中に出火あり。城の内外大いに騒動しければ、石山本願寺の砦より人数出して、中嶋の城を攻める。藤賢兼ねて将軍に昵近して、御所に相詰めける故、城中無勢にして、防戦に術を失い、城兵四方に散乱す。太祖(中川清秀)その頃、新庄に御在城故、早速御出馬ありしに、藤賢勢いは落ち散りて、本願寺の兵、早や城中に入れ替わりたるを、御手勢を以て即時に城を取り返さる。此の時石火矢を打ちけるに筒損じ中川淵兵衛重正(重継の子)面を焼きて、その痛み甚だしく程なく死す。太祖も側らにおはせしが御顔を損ぜらる。荒木村重も乗り付け御武勇を感じ、中嶋の城を預け参らせ、直ちに御入城有って藤賢が一跡御知行となる。
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そして、これを裏付ける様な、元亀3年9月2日付、本願寺光佐による細川昭元への音信内容は、実際に争うような事があり、何らかの交渉の実態を示していると考えられます。
※本願寺日記-下-P602

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芳墨披覧遂げ候。今度御城中於て不慮之次第、旨趣き具さに承り候。其れに就き軈て誓詞以て預け示し候。相応之儀如在有るべからず候。猶坊官下間頼廉申し入れるべく候。
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一方この頃、背反常無い三好為三は、将軍義昭派三好三人衆方に復帰したらしく、欠年10月13日付けで、聞咲なる人物に音信し、三人衆方の動向を伝える連絡を取っています。また為三は、同月7日付けで、将軍義昭からの内書を根拠にしたと思われる領知を獲得していたらしく、「代官之事」として、刀根分・茨木分を書き出しています。三好為三が、上御宿所(意味は不明)に宛てて音信しています。
※箕面市史(史料編6)P438

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代官之事:
一、刀根分、一、茨木分、以上。
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復元された安宅船
欠年11月13日付けの信長による将軍義昭側近曽我助乗への音信で、これも三好三人衆勢力の中心人物である安宅信康の扱いを検討しています。幕府・織田方へ投降する動きがあったようです。
※織田信長文書の研究-上-P584

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淡路国人安宅神太郎(信康)事仰せ聞かせられ候。尤も以て然るべく存じ候。去春以来之儀、其の聞こえ無く存ずる之由、一旦者余儀無く候。但し彼の雑掌共申し候趣き、一向難題之模様候し、其の分に至りては、果たして入眼不実に存じ候ける、万端を抛ち、此の節忠節抽んずべく之由、寔に神妙之至りに候。然る間領知方の儀、彼の方申し様聞き召し合わされ仰せ付けられるべく候。信長に於いては疎略存ずべからず候。此れ等之旨御披露有るべく候。恐々謹言。
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安宅氏は、淡路国の有力者を束ね、海上輸送も担う勢力であって、この離反は、三好方の衰退の大きな要因になったと考えられます。

12月頃、そんな中での摂津国中嶋城の奪還闘争は、将軍義昭方三好義継などが中心となって攻撃をしています。これは時期的には、甲斐守護武田信玄の京都を目指した西進が始まっており、将軍義昭がこれに呼応するための連絡路確保を行ったためと思われます。
 細川昭元は、三好義継と人質の交換を行い、誓詞も交わしていましたが、その和も破れて、再び交戦となっていました。

元亀2年12月の昭元の幕府・織田方への投降以来、その後も一族の苦境や上位権力である幕府の権力分裂などが起きて、多難ではありましたが、昭元は、その時の必要な事を実行し、分限を守って淡々と行動しているように見えます。
 この行動が、信長に信用され、信長の娘を娶り、加えて偏諱も得て、一族扱いを受けるまでになります。
 また、元亀3年3月以降、同族の典厩家である藤賢とも行動を共に(主に中嶋城の守備)させられますが、この藤賢は、永年に渡る管領争いを続けてきた宿敵でもある細川氏綱の家系であり、その人物とも違うこと無く折り合いをつけていた事は、この時代の非常に希な事であったかもしれません。勿論、一方の細川藤賢も、昭元をよく助け、行動したことも史料から伺えます。

しかし、そんな藤賢にも、将軍義昭から誘いがあったようです。甲斐武田の上洛に備えて、体制を強固にすべく、伝統的な幕府関係者を自らの味方になってもらうように、様々な手を講じていた事が判ります。12月10日付けで、将軍義昭が、側近の一色藤長へ内書を下しています。状況的に、この時の藤賢は昭元と行動している筈ですので、この調略は当然ながら昭元の耳にも入るでしょう。求心力を発揮する権威は、争うにあたっては必須条件です。
※福井県史(資料編2)P686

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前置き:
なおなお来春は朝倉義景礼に来るべく之由申し候。其れ以前に養生すべく用立てる事肝要候。将又来春右馬頭(細川藤賢)も相越し候やうに大坂(本願寺)へ申し調えるべく候。猶延広(不明な人物)申すべく候也。
本文:
諸労未だ験を得ず候由、一入心元無く候。急度養生加え、然るべく候。此の間之様、一向に油断候。分別せしむべく事肝要候。
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<元亀元年8月から元亀3年暮の京都周辺の戦況> =================
8/28 三好三人衆方三好為三など、幕府・織田信長方に投降
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、言継卿記4-P441など

9/1 三好三人衆方三木某など、幕府・織田信長方松永久秀に投降
※言継卿記4-P442

9/2 三好三人衆方の摂津国野田・福嶋陣所などで内紛発生
※言継卿記4-P442

9/10 幕府・織田信長勢、摂津国野田・福島城を攻撃開始
※改訂 信長公記(新人物往来社)P109、細川両家記(群書類従20:合戦部)P636

9/16 幕府・織田信長方、大坂本願寺と停戦
※細川両家記(群書類従20:合戦部)P638

9/20 織田信長、三好為三へ摂津国豊島郡の知行について音信(朱印状)
※池田市史(史料編1)P28、織田信長文書の研究-上-P417など

9/23 幕府・織田信長勢、摂津国方面から撤退
※言継卿記4-P448、細川両家記(群書類従20:合戦部)P638、改訂 信長公記(新人物往来社)P112

12/27 反幕府・織田信長方本願寺光佐、細川六郎(昭元)に音信
※本願寺日記-下-P596


【元亀2年】----------------
1/16 三好三人衆方本願寺光佐、細川昭元へ音信
※本願寺日記-下-P596

2/17 某永雄(所属不明)、近江国永源郷宿中へ宛てた音信で摂津の情勢を伝える
※戦国遺文(佐々木六角氏編)P318

5/6 松永久秀衆同名金吾・竹内秀勝勢、三好三人衆方として大和国多聞山城を出陣
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P237、二條宴乗記 (ビブリア54号) P33

6/4 織田信長、幕府衆細川藤賢(典厩)の知行地について細川藤孝へ音信
※織田信長文書の研究-上-P458

6/16 織田信長、幕府衆明智光秀に三好為三の処遇について音信
※大阪編年史1-P406、織田信長文書の研究-上-P392、織田政権の基礎構造(織豊政権分析1)P63

7/31 将軍義昭、三好為三に所領安堵の御内書を下す
※大日本史料10-6-P685 ←狩野文書

8/28 摂津国白井河原合戦
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P256、言継卿記4-P523、耶蘇会士日本通信-下-P137など

12/17 細川昭元、幕府へ出仕
※兼見卿記:第一(続群書類従完成会)P24


【元亀3年】----------------
1/26 織田信長、石成友通へ音信(朱印状)
※織田信長文書の研究(補遺・索引)P127、戦国遺文(三好氏編3)P22

3/24 細川昭元、織田信長へ参侯

※改訂 信長公記(新人物往来社)P123、戦国史研究76号-P13

4/14 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺惣衆中へ宛てて音信
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P89、戦国遺文(三好氏編3)P30、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P247


4/18 反幕府・織田信長方本願寺坊官下間正秀、近江国北部十ヶ寺衆惣中へ宛てて音信(返信)
※近江国古文書志1(東浅井郡編)P90、戦国遺文(三好氏編3)P31、本願寺教団史料(京都・滋賀編)P248

6/2 幕府方細川昭元、讃岐国人香西玄蕃助某へ音信
※瀬戸内海地域社会と織田権力P208

6/12 反幕府方三好三人衆派荒木村重、摂津国豊嶋郡春日社南郷目代今西宮内少輔へ音信
※豊中市史(史料編1)P125、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P13

8/28 将軍義昭方本願寺勢、幕府方摂津国中嶋城を攻める
※中川史料集P14


9/2 将軍義昭方本願寺光佐、細川昭元に音信
※本願寺日記-下-P602

10/7 将軍義昭方三好為三、上御宿所へ宛てて音信
※箕面市史(史料編6)P438

10/13 将軍義昭方三好為三、聞咲(所属不明)へ音信
※大阪編年史1-P459、戦国遺文(三好氏編2)P272

11/2 織田信長衆木下秀吉など、京都大徳寺各中に宛てて石成友通について音信(折紙)
※大徳寺文書1(大日本古文書:家わけ17)P54、豊臣秀吉文書集1-P19

11/13 織田信長、将軍義昭側近曽我助乗へ安宅信康について音信
※織田信長文書の研究-上-P584

================= <年表おわり>


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