2024年5月18日土曜日

豊後竹田の中川家の家老となった、摂津武士の戸伏氏について

ちょっと気になっているのですが、あまり深く調べる事も無く、時間が過ぎてしまいました。最近また気になり、備忘録として記事にしておきます。

現在は静かな町外れの住宅地ともなっている、大阪府茨木市戸伏町の集落ですが、戦国時代、この村出身の武士がいたようです。

元々は、永禄9年に、池田勝正がこのあたりで合戦をしたという伝承記録があり、それが気になったのがキッカケで戸伏村を知りました。その関連資料を以下にご紹介します。
※よみがえる茨木城(茨木町故事雑記)P163

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永禄9年(1566)10月20日、池田筑後守勝正茨木城に発向し、芥川城主中村新兵衛高次に与して長田河原に陣し、高槻之城主入江左近将監等と相戦う。入江は富田之間に陣し、中村は総持寺村門河堤に陣す。入江・中村等敗北し、勝正は茨木城に帰陣す。
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上記に出てくる人物名は、実在しますし、この頃、ちょうど勝正は「筑後守」を名乗りはじめた時期でもあります。この時、合戦の行われた「長田河原」とは、茨木市大住町付近のようで、この場所は戸伏村(郷)の範囲内です。戸伏村について、いつもの大阪府の地名を以下に抜粋して、ご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P188

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戸伏村(茨木市戸伏町、大住町、末広町)

赤色四角囲みの村が戸伏村を構成する集落(村)
茨木村の東、安威川右岸に位置。鎌倉時代初期頃は公家久我家の所領で、年月日未詳の久我家領目録(久我家文書)に摂津国「戸伏領」がみえる。文和元年(1352)2月18日の総持寺領散在田畠目録写(常称寺文書)によると、戸伏村字丸坪・字門田に総持寺の寺領があり、総持寺散在所領取帳写(同文書)の文安2年(1445)正月17日請取分にも戸伏のうちにあったとみられる総持寺領が記される。室町時代には相国寺(現京都市上京区)領戸伏庄があり、「鹿苑日録」長享元年(1487)8月12日条に「当寺領摂州戸伏上下村」に対し守護段銭免除の折紙が室町幕府より出された記事がみえる。また同書延徳元年(1489)正月11日条に、戸伏庄先庄主大蔵寺栄監寺が再任をもとめてきたので、任料100疋で補任状を発給している。なお応仁・文明の乱後のものとみられる摂津国寺社本所領並奉公方知行等目録(蜷川家文書)には三条侍従中納言家(三条西実隆か)領として「院御庄内(溝杭・茨木・鮎河・戸伏)」がみえ、当時は不知行となっていた。
 慶長10年(1605)摂津国絵図には「戸臥村」とあり高63石余。元和初年の摂津一国高御改帳によると高槻藩内藤信正領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳には「戸伏村(庄村・中村・橋内村・牟礼村)」として1071石余が記され、京都所司代板倉重宗領。以後重宗の子重郷・重形と引き継がれ、天和元年(1681)重形の領地替で幕府領となった。享保19年(1734)以降の領主の変遷は中ノ城村に同じ。なお前記摂津国高帳にみえる庄村以下4村は戸伏村の枝郷で(元禄郷帳・天保郷帳)、戸伏村と郷的に結び付いていた。享保20年の摂河泉石高帳によると戸伏村本村のみの村高141石余。寺院には浄土真宗本願寺派戸伏山光照寺がある。明治16年(1883)庄村・中村・橋之内村・牟礼村が合併して戸伏村となる。
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明治時代後期の戸伏村の様子
『茨木町故事雑記』の伝承が、割と当時の状況を反映していると思われる要素として、永禄9年の政治状況は、将軍義輝殺害後に、中央政治が混乱し、次期将軍を巡って激しい争いが起きていました。三好三人衆と松永久秀が不和となり分裂、三好三人衆方が、阿波公方を擁立して、足利義栄を立てて京都へ攻め上ろうとしており、池田勝正は義栄擁立派として、積極的に行動していました。
 9月23日、義栄は摂津国武庫郡の越水城に入って、上洛の駒を一つずつ進めていました。12月5日、義栄は総持寺へ入り、その2日後、富田の普門寺へ入っています。同月28日、朝廷から従五位下左馬頭を叙任され、将軍職就任へ向けて、手続きも着々と進めます。

池田勝正の茨木方面の合戦(長田河原)は、そんな動きの中で行われたようで、『茨木町故事雑記』という伝承記録ではありますが、概ねの人物名、時代の流れに沿った時期は順当です。また、それを補完するかのような当時の史料もあります。
 年記未詳で、10月18日付け、三好三人衆方足利義栄擁立派と思われる松山彦十郎が、播磨国人別所大蔵少輔安治へ音信(返信)しています。
※戦国遺文(三好氏編3)P231

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御状拝見せしめ候。仍って茨木方不慮之覚悟是非に及ばず候。其れに就き(摂津国豊嶋郡)池田表之儀も万(よろず)伊丹(忠親)申し度くとて色を相立て之由候。然者此の者之儀申し談じ、越ち度無き之様及び断ずべく候条、手前に於いて御気遣い有るべからず候。次に其の表之儀に候はば、西表御在陣之由候。御辛労是非に及ばず、置塩与御方御召し之儀も相調え候由、別使へも御報せ申せしめ候。猶追って申し述べるべく候条せしめ。恐々謹言。
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文中の「仍って茨木方不慮之覚悟是非に及ばず候。」とは、寝返りがあった事を伝えているように思われます。『茨木町故事雑記』にある、戸伏郷内の長田河原合戦は、その2日後の事です。

寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によれば、戸伏村は、庄村・中村・橋内村・牟礼村(この4村は戸伏村の枝郷)を含め、1071石余の生産高があり、小さくない規模です。

その戸伏村には、やはり武士がおり、摂津池田家中から頭角を顕した、中川瀬兵衛尉清秀の家老格に登った人物がいました。
※中川家文書(神戸大学文学部 日本史研究室)P4

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知行配分目録
壱万八千五百石      中川石千代(秀成)
弐千石「四千石(異筆)」 中川平右衞門尉
千五百石         熊野田千介
七百石          寺井弥次右衞門尉
八百石          戸伏助進
 以上弐万参千五百石
 (包紙)「秀吉様与之御配分付」(朱書)「四十一」」
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また、元亀2年(1571)8月28日早朝、摂津国島下郡宿久河原にて、いわゆる白井河原の大合戦が行われますが、この時、戸伏氏一党は、荒木信濃守村重・中川清秀勢に居て、手柄を立てたようです。
※中川史料集:太祖 清秀公条P22

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一、(9月)欠日 戸伏宗慶兄弟五人並びに、嫡子助之進白井河原合戦以来、御幕下に属し忠戦を励み、茨木御入城の節は近隣を唱呼して、御味方に属け島下郡も悉く、御幕下に属せしむ。その功に依って御人数御預け老職仰せ付けられる。
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この後に、荒木村重や中川清秀が、茨木城に移り、周辺を統治して勢力を拡大させます。茨木城の至近にある戸伏村は、茨木城からすると鬼門でもあり、安威川手前の要衝。また、高槻街道と総持寺を繋ぐ重要な街道も通しています。重要拠点の一つとして、支城的な役割りも持っていた場所だったと考えられます。

戸伏姓を持つ武士が実在した証拠として、当時の史料を上げておきます。『親俊日記』の天文8年(1539)12月28日条、幕府政所代蜷川親俊が、幕府奉行人松田丹後守晴秀などへ音信した中に、戸伏掃部助の名が出てきます。
※親俊日記1(増補 史料大成)P334、大阪府の地名1(平凡社)P154

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また詳しいことが判れば、情報を追加したいと思います。以下、現在の戸伏集落の写真を載せておきます。

【追伸】
戸伏村に含まれる、安威川を渡った先の庄村に長塩家(旧寺田氏)の墓があります。長塩氏といえば、三好長慶や細川管領家に見られる高位の人物です。墓石の形式からしても、五連投ですし、非常に古いので、もしかして、そのあたりに繋がる家が庄村に根付いているのでしょうか。これもとっても気になります。

旧寺田氏 長塩家の墓地として、ポツンと一家だけあります

様式が無茶苦茶ですが、五輪塔の残欠を重ねてあります

以下、戸伏村(集落)の様子です。

集落の中心部の町並み

素戔嗚尊神社(戸伏第2児童公園)

集落の中心部にある浄土真宗本願寺派 戸伏山 光照寺

集落の中心地にある城のような旧家1

集落の中心地にある城のような旧家2

集落の中心部分(左は素戔嗚尊神社:戸伏第2児童公園)

村の南出入口にあたるところで道は旧高槻街道

2024年5月17日金曜日

摂津国人池田長正は、最終的に「筑後守」を名乗って惣領となっている証拠史料

史料が少いのですが、池田家政の画期の一つ、また、荒木村重の出自の一部が明確になる人物としても、池田長正の事跡を追うことは非常に重要です。

この長正という人物は、池田勝正の先代であり、池田家の波瀾万丈の悲劇の中心人物であった当主池田信正の次の代にあたります。
 この信正の死後、池田家中は分裂し、信正の創設した「四人衆」なる、いわば官僚(家老)と、跡目を自称する当主長正(本人)とが対立し、それぞれに惣領を立てて、並行します。
 これには、非常に複雑な経緯があり、ここでは一旦割愛して、後日に詳しくご紹介します。
 この争いが、非常に激しく行われ、池田長正は池田城には、起居できなくなり、一旦外に出ていたと思われます。また、自己の権力を形成する基盤も無くなって、細川晴元権力、いわば外来権力の後ろ盾を必要とする時期が一定期間あったはずです。若年であった事も大きな理由です。

しかし、その池田長正が、池田四人衆との争いに競り勝ち、最終的に惣領の名乗りである「筑後守」を音信に署名しています。これは、勝手にやっている事では無いと思われます。四人衆との和解を経て、惣領を自他共に認められている証拠だと考えられます。

その史料と言うのは、今のところ一点のみです。欠年11月25日付、山田彦太夫に宛てた音信です。これは、能勢のM氏所蔵文書です。
※戦国の動乱と池田氏(池田市制施行50周年記念)P17

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先年以来相詰め届け之儀、祝着候。罷り出でられ候共、人数等割り入れるべく、必ず越されるべく候。然るに於いては忠節之筋目相違有るべからず候。恐々謹言。
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恐々謹言の書留ですが、目下に軍事動員をかけているような内容です。これは、余程の関係性があっての事だと思います。

これまでは、宛先の山田彦太夫が、どこの「山田」なのかわからなかったのですが、近年の私の要素の蓄積により、能勢のM氏が所蔵している理由は、彦太夫が能勢の住人である可能性が高いと考えるようになりました。これは、確定度合いが高いと考えておりますし、それを証明するための他の史料も探しながら、後日にそれらを明らかにしたいと思います。能勢方面には、山田という集落がありますし、そこには比較的規模の大きな「山田城」もありました。もしかすると、余野との関係性も長正の代で醸成されている可能性も高いです。

上記の史料は、欠年で、今のところ永禄4年(1561)と考えてはいますが、もう少し前の可能性もあります。
 内容的に、軍事動員ですが、能勢周辺の至近とは限らず、長正が軍事動員を割と大規模にしなければいけなかった時期。または、能勢周辺でそのような必要性があった時期。長正が、ある程度、権力を帯びていた時期。などなど。
 因みに、池田長正は、永禄6年(1563)2月に死亡しています。この年は、時代の変わり目のような年廻りで、3月に、前右京大夫(管領)細川晴元が死亡、8月に三好長慶の一人息子義興、12月に右京大夫(現職)が死亡しています。あまりにも重要要素が重なり過ぎており、疫病の蔓延があったのではないかと考えられます。

この池田長正の死後、速やかに惣領の継承が行われ、池田勝正が惣領となります。しかし、勝正も直ぐには「筑後守」を名乗らず、試用期間があった可能性もあります。と言うのも、勝正の惣領就任は、池田四人衆の承認の下で行われ、その権力下にあった可能性もあります。

 


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2024年5月15日水曜日

摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て

摂津池田家を見る上で、池田長正という人物は非常に重要な人物です。この長正の代で、池田家の発展の伸び代が芽生え、また反面、同族争いもしています。それから、この長正の代で、荒木村重につながる丹波出身の荒木氏が重く取り立てられます。

池田長正は、残された史料が断片的で、知りたい所の肝心な部分が今のところ見当たらず、それについては、周辺史料から推し量るしかありません。しかし、史料が無い訳ではありませんから、泣き言を言わずに証拠を紡ぐしかありません。
 その要素の一つで、同じような行動をする人物として、芥川孫十郎が居ます。しかし、この芥川姓はいくつか見られ、一つの筋としてみてしまうと、矛盾する動きをしており、混乱してしまいます。少なくとも私はそうでした。

この矛盾は、整理しておかねばならないと思っていたところ、私の尊敬する馬部先生のお見立てが、非常に参考になりました。またまた、備忘録的に、私の頭の中の整理としても、ちょっとブログに記事を投稿しておきます。

『戦国期細川権力の研究』からご紹介します。
※第二部 澄元・晴元派の興隆 第一章 細川澄元陣営の再編と上洛戦 3上洛戦の展開と軍事編成の変化「註:79」P250より

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この芥川氏の後継者について、天野忠幸氏は『二水記』永正17年5月10日条や『元長卿記』同日条の既述をもとに、三好之長の子である芥川次郎長則が養子に入ったと指摘している。しかし、芥川家に複数の系統があることに注意が必要である。
 長則の後継者は天文18年頃まで芥川孫十郎を名乗っているが、天文21年までに芥川右近大夫と改めている。(「親俊日記」天文11年6月13日条。成就院文書 <『戦三』240>。離宮八幡宮文書266号 <『戦三』340>。)それとは別に、天文18年11月に細川氏綱の命に従って、西岡にて段米の徴収にあたっている芥川美作守清正がいる(東寺百合文書い函121号 <『戦三』724>・『鹿王院文書』593号 <『戦三』266>)。彼は、直前の同年10月までは四郎右衞門尉を名乗っているので、孫十郎とは明らかに別人である。(広隆寺文書 <『戦三』255>・東寺百合文書ソ函245号)。
 応仁の乱の頃、阿波には勝浦荘の藏年貢を押領する芥川次郎がいるので(『西山地蔵院文書』4-18(2)号)、長則はこの家を継いだとみるほうがよいかと思われる。「故城記」(『阿波国微古雑抄』224頁)では、勝浦荘に近い那東郡び芥川氏を確認できる。
 最終的に清正へと受け継がれる豊後守の系統は、四国で畿内復帰の機会を窺っていたと思われる。「細川両家記」享禄4年閏5月13日条に「阿波衆堺より出張也、典厩・香川中務丞、築嶋に陣取給ふ」とみえる「香川中務丞」は、同じ一件を指して「去5日芥河中務丞・入江彦四郎至摂州入国」(増野春氏所蔵文書 <『戦三』73>。東京大学史料編纂所影写本で一部修正)とあることから芥川中務丞の誤りである。ここでの芥川氏は、三好元長らと行動をともにして摂津への上陸を果たしている。摂津への復帰は、天文2年3月11日付けの将軍義晴の御内書で、伊丹氏や池田氏などの有力摂津国人に並んで、芥川中務丞が宛所となっていることからも窺える。(「御内書引付」<『続群書類従』第23号下>)。のちに晴元方に芥川豊後守がいることから、中務丞は歴代当主に倣い、豊後守に改称したものと思われる。(「親俊日記」天正8年閏6月13日条・『大館常興日記』同月13日条・15日条)。
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どこの家もですが、やはり、いくつかの系統があります。人物記などには、芥川孫十郎がよく出てきますので、耳馴染みがあり、地域史を知っている者からすれば、直ぐに摂津芥川氏と結びつけてしまいます。しかし、それをしてしまうと、混乱します。

馬部先生のお見立てでは、その芥川孫十郎は阿波国人であって、摂津との結びつきは希薄です。ただ、一方の摂津国人系で、阿波に一時的に身を寄せていた「四郎右衞門尉 - 豊後守」の系統のそもそもは、どちらも同族なのでしょう。

それで、この芥川孫十郎という人物が、池田長正と行動を共にしている事が多く、史料に散見されます。
 孫十郎は禁制の類いが多く出されていますが、それに対して摂津に強い結びつきを持つ豊後守系では、寺社などとのやり取りをしている自署文書が見られます。

今は、ザッと感覚的にご紹介しておきますが、芥川孫十郎は、確かに三好長慶系統の血族なのだとは思いますが、地盤が摂津に無いため、自らの権力基盤がありません。多分、収入というのも地場から得られるものはあまりなかったのでしょう。
 そうすると、三好長慶の近習的立場や様々な管理や取次などで、長慶の行動を支えたのかもしれません。孫十郎の活動拠点はよくわかりません。もちろん、本国の阿波からの身入りや立脚点はあったのでしょうけど...。
 それ故に、近畿地域での自らの権力の後ろ盾となる要素、人物、機会を求めて、表裏激しく行動しています。結局は立場を失って、阿波国に却ってしまいます。どうも、細川晴元の誘いを受けて、何度か乗っては失敗しているように見えます。

一方、池田長正を見てみます。この人物も、池田信正亡き後、権力基盤を失って、細川晴元の権力を後ろ盾に行動していた時期があり、芥川孫十郎と同じく、同じ時期に、付いたり離れたりしており、同じ境遇からか、両者は名を連ねることが少なからずありました。

馬部先生のお見立ては、私の迷いに光を当てていただいたように思えました。細川晴元権力の実態と経過を分析することは、非常に有意義だと思います。私の観察している摂津池田家は、その権力実態の証拠としても非常に興味深い歴史になることでしょう。

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主郭部分 2001年2月撮影

登城口から芥川山城を望む 2001年2月撮影

当時の石垣 2001年2月撮影

井戸跡 2001年2月撮影

当時の石垣その2 2001年2月撮影

主郭あたりからの眺望 2001年2月撮影

2024年5月10日金曜日

天正年間初期に、荒木村重が勧請した摂津古曽部日吉神社(大阪府高槻市)について

荒木村重についての発見やそれに関連する池田長正につながる大きな発見があったので、備忘録的に、記事にしておきたいと思います。後日、しっかり検証して、レポートとして書き直します。

この5月の連休に、ちょっとブラブラしようと思い、永年気になっていた高槻市の上宮天満宮周辺を見て回ろうと計画を立てました。
 このあたりには、和田惟政供養塔のある伊勢寺、三好義興の墓と伝わる霊松寺、西国街道上の要衝である上宮天満宮があります。ネット上でその周辺地図を見ていた所、古曽部に日吉神社がある事に気付きます。

古曽部は、古曽部焼という磁器生産地としては知っていたのですが、ここに日吉神社があって、その創建が荒木村重であったというのは、知りませんでした。5月3日。早速、心弾ませて訪ねてみました。

古曽部日吉神社の由緒を以下にご紹介しておきます。

(古曽部日吉神社パンフレットより)----------------------
古曽部の高台に鎮座します日吉神社は、戦国時代に武将・荒木村重によって創建されて以来、長らく古曽部の地主神として祀られて参りました。境内からの素晴らしい見晴らしはまさに圧巻です。古曽部は古くは「社戸」「許曽部」などとも表記され、「神社に関わる者」を意味する姓のひとつであったと伝えられています。
 天正元年(1573)7月、荒木村重が織田信長に謁した際、芥川城を落とした武功を賞されて、摂津守に任じられました。その折に、荒木村重は古曽部の地に正倉を創立して、近江国日吉神社から分霊を勧請し、祭典を執り行いました。
古くは祭典の折に、歴代城主が乗馬を献上するのが永年の恒例となっておりました。これが、日吉大神社の起源でございます。
社殿は、慶長十九年(1614)1月11日に再建されたもので、境内は385坪を有し、本殿は神明造・檜皮葺きに彩色を施されています。
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【参考】
古曽部日吉神社公式HP
 
とのことです。非常に興味のある地域の歴史です。確かに史実の流れもそのようになっており、荒木村重が、将軍義昭との抗争の中で、織田信長に加担したことの功績は非常に大きく、信長から称賛を得たのも事実です。参考までに天正元年のめぼしい動きを上げておきます。

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2/15 将軍義昭方池田衆、将軍警固として京都二条城に入る
2/17 二条城の防備強化普請を行う
2/23 織田信長、荒木村重の「無二之忠節」の約束に喜ぶ
2/26 織田信長、荒木村重と摂津衆の扱いについて細川藤孝へ音信
3/5   高槻城内で高山友照と和田惟長が争い、惟長が城を出る
3/7   将軍義昭、織田信長からの和睦案を拒絶
3/12 丹波守護代格内藤忠俊、兵を率いて将軍義昭へ参候
3/13 将軍義昭方池田衆、京都八条方面で陣取りを巡って東寺衆と喧嘩
3/14 将軍義昭、味方についた摂津池田遠江守へ内書を下す
3/27 将軍義昭、二条城の防御態勢を整える
3/29 荒木村重、細川藤孝と共に京都知恩院にて織田信長と会見
3/30 荒木村重、京都九条方面を打ち廻る
4/2   織田信長勢、洛外を放火
4/5   将軍義昭と織田信長の和睦会談が行われる
4/6   荒木村重、織田信長方の和睦交渉団に名を連ねる
4/7   将軍義昭と織田信長の和睦が成立
4/27 将軍義昭方池田紀伊守正秀など、織田信長方和睦交渉団から起請文を受け取る
4/28 将軍義昭方池田紀伊守正秀など、織田信長方和睦交渉団へ起請文を提出
7   荒木村重、芥川山城を攻める? ←出典確認中(三田市史に『野史』とある)
7/5   将軍義昭、眞木嶋城にて再度挙兵
7/18 将軍義昭降伏
7/28 「天正」に改元
8   荒木村重、織田信長より摂津一職を任される?
9/10 高山友照、摂津国本山寺知行安堵の旨を伝える
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色々思いついたのですが、今はキーワードだけ上げておきます。

  • 荒木村重は、天正5年9月に有岡城へも山王(日吉)神社を勧請している
  • 山王神は、古代氏族の秦氏が崇拝していた
  • 山王神は、開発、農業、治山、治水、開拓、酒造などに霊験灼かであること
  • 荒木村重は、丹波国に起源を持つ事を意識していた可能性
  • 荒木村重は、藤原系譜ではない
  • 古曽部郷の重要性(伊勢寺、霊松寺、上宮天満宮は全てその内にある)
  • 伊勢寺は、伊勢貞国(室町幕府政所執事)屋敷地を伊勢一党の菩提を弔うため寺地として寄進したと伝わる
  • 古曽部日吉神社地の要害性の利用(軍事戦術上の布石)
  • 芥川山と高槻城の間の要地
  • 西国街道の監視(南側は縄手で湿地であり、西国街道の監視には最適)
  • 楊谷寺 (柳谷観音)を経た西岡地域(長岡京方面)への直轄街道の確保
  • 高山右近に対する目付け的な行動及び補完関係


以下、資料的に写真も載せておきます。

 

古曽部日吉神社本殿

日吉神社境内地から南側を望む

古曽部日吉神社本殿への階段

古曽部日吉神社参道

古曽部村中心地の町並み

2024年4月11日木曜日

『荒牧郷土史』に記録された「酒造」と荒牧屋について

昭和から平成に元号が変わり、世も変わろうとする頃、それまでの地域の軌跡を記録しておこうとする動きも、各地でみらます。その取組は、今となっては大変貴重な取組でした。
 『荒牧郷土史』は、非常に念入りな構成で、市史や県史と同様の知見をまとめた非常に価値の高い内容となっています。中でも特に、この項目では「酒造業」の既述をみたいと思う。先ずは、内容をそのまま引用させていただきます。

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◎酒造業
酒造業については、次の文書からこの村でも酒造業が行われていたことがわかります。

寛成(政)四年極月五日(1792年12月5日)
一、右極月五日大坂東御番所より北在組酒家酒造御改二付、与力・同心大勢にて加茂両家、小池・中山・荒牧・川面・大鹿・昆陽・古江凡拾六七軒斗御改被成諸帳面不残御持帰り被成、同六日御番所へ御召にて段々御吟味被遊候所、川面其外無株之分五人有之入牢被為仰付(「天明・寛政期酒造一件諸控」、四井幸吉文書『西宮市史』第五巻)

大坂東御番所から与力・同心が酒造改めのため北在組十七軒ほどの酒家に出向いて帳簿を残さず持ち帰り、あくる日順番に取り調べて酒造株を持たずに営業している五人を入牢させています。この文書によって荒牧でも酒造業が行われていたことがわかります。
 近代になってからは、岸添家が明治三年(1870)大坂出身の酒造家鹿嶋屋清太郎から貸株を受け、伊丹中之島町で酒造業を行っています。

現在の宮水湧水地の様子
 これとは別に江戸時代の終わりまで「荒牧屋」と称していた酒造家があります。現在も「櫻正宗」の銘柄で知られている神戸市魚崎にある山邑酒造株式会社です。この会社は享保二年(1717)の創業で、天保のころ荒牧屋喜太郎(六代目太左衛門)は大坂の伝法町に住み、店は魚崎にありました。のちに西宮にも出作りし、とくに西宮藏の酒質が優れていることを知り、その原因を追及するうちに宮水の発見となりました。天保十一年(1840)のことです。
 現在の当主(山邑美保子氏)に伺いましたところ、残念ながら山邑家の過去帳は天保時代台風で水に浸かり判読できず、それ以前のことはわからないということです。
 ところで、江戸時代の商人の屋号を調べると、米屋・油屋など商品を付したもの、河内屋・播磨屋・大坂屋など国名や大都市の名を付したもの、山田屋・荒牧屋など農村名を付したもの、松本屋・大塚屋など人名を付したものに大別されます。その中で農村名を付した屋号は、その農村が出身地か、商業上の取引があったものと思われます。
 「荒牧屋」と荒牧村との関係を示す具体例として、天保12年西教寺に鯛島万兵衛とともに荒牧屋重次良が釣り燈籠を寄進しています。
 また、天保4年、荒牧屋もよという女の人が寡婦となって、一家そろって荒牧村の源左衛門に引き取られています。このような例から見ると、山邑家の先祖も荒牧村出身で、荒牧屋を称したものと思われます。
 ところで、「文政五年(1822)酒造米引手」では米の品種を大極から下々まで8種に分けて選定していますが、荒牧産米は大極から数えて5番目の「上」になっています。また『伊丹市史』第二巻によれば、米問屋鹿島屋利兵衛購入の荒牧産米は、主として掛米(もろみの仕込みに用いる米)に使われています。
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この中で、特に気になる既述の要素として、

天保のころ荒牧屋喜太郎(六代目太左衛門)は、大坂の伝法町に住み、店は魚崎にありました。のちに、西宮にも出作りし、...。

明治末から大正時代頃の伝法

という口伝です。2点気になる所があります。
 1つ目は、歴史的な一応の流れは、西宮から灘へ拡がったようですが、口伝ではその逆になっているようです。
 2つ目は、荒牧屋当主(六代目)が、大坂伝法町に住んでいたと伝わっている事です。1717年(享保2)に、荒牧屋にとって事業拡大や新体制となった画期で、「荒牧屋初代」と位置付けているようです。概ね一代の活動期間は20〜25年で計算すると、120〜150年後という事になります。ここを基点にすると、六代目の活動期は、1837年(天保8)から67年(明治元年)頃となります。
 一方で、荒牧屋は1625年(寛永2)創醸という事ですので、ここを基点にすると、六代目の活動期は、延享2年(1745)から安永4年(1775)という事になります。
 もしかすると、六代目の時代関係をどこに基準を当てるかによって、宮水の源泉発見も、もう少し前の時代になるのかもしれません。これは今のところ、勝手な想像ですが...。

現在の伝法の河港の様子
別の視点から見てみます。西宮市の公式見解としては、宮水の発見は1837年(天保8)ないし、1840年(同11)としており、また、その発見者を櫻正宗六代目山邑太左衛門としています。
 この事と荒牧屋の初代からの代重ねの道筋と概ね一致します。櫻正宗の公式見解として、「宮水の発見」との関連性から考えて、創業初代を享保2年(1717)としているようです。

それから、西宮や灘地域への拡大経緯ですが、これらを私なりに少々想像してみます。櫻正宗の公式見解と『荒牧郷土史』では、享保二年(1717)を初代と定義しています。創業から数えて六代目当主(天保年間:1831〜45)は、伝法町に住み、事業を拡大しつつあった中で、享保二年に新体制となったのでしょう。しかしこれは、それ以前から伝法町に住んでいたものと思われます。
 また、生産地も西宮から新興の灘地域へ進出して事業を拡大したのかもしれません。社会情勢や業界の成熟期など様々な要因で、更なる品質向上を求めていたところ、主要的生産地であった西宮で「宮水」の源泉に辿り着いたのではないでしょうか。
 もちろん、それまでにも銘水での酒造は行われていたとは思いますが、源泉からの安定供給により、更なる品質向上と生産量の増大によって、地域ブランド力の強化や差別化を図る意図もあったように思われます。時代を経て、酒造メーカーも増えて、競争の激化もあった事と想像します。
 今のところの「宮水発見」の公式見解は、1837〜40年で、これはほとんど、江戸時代末、いわゆる幕末にあたります。

「荒牧屋」が関連する地域の位置関係
一旦、既説をリセット(ご破算)しまして、以下、荒牧屋六代目が大坂の伝法に住んでいたという口伝について考えてみます。
 櫻正宗の公式見解によると、天保年間(1831〜45)に当主は大坂伝法町に住んでいたという事です。天保時代というと、江戸時代も末期で、幕府が倒れるまでに20年程です。その時代であっても、当主が伝法町に住まいを置いていたと言う事は、江戸時代を通じて、今で言う本社を伝法町に置いていたとも考えられます。
 同じく櫻正宗の公式見解では、1625年を創醸の年としており、この年が同地にある正蓮寺の創建(開山:日泉上人・開基:甲賀谷又左衛門尉正長)です。荒牧屋は、この創建時に大量の酒を提供しています。
池田から江戸までの輸送経路と運賃
 甲賀谷正長とは、摂津池田の高位の武士です。甲賀谷氏は、他にも尼崎の長遠寺(じょうおんじ)の大壇越であり、同寺では特別に顕彰されている人物です。ちなみに、両寺は共に日蓮宗です。また、甲賀谷氏の拠点である池田にも同宗の本養寺(京都本圀寺の第五世日伝の嫡弟玉洞院日秀の創建(応永年間1394-1428)と伝わる)があります。この日蓮(法華)宗は、近衛家とも繫がり深く、また全国に組織的ネットワークを持ちます。
 そういった状況もあって、伝法町の正蓮寺を基点にした関係性は維持していたとみられます。外形的には大消費地であると同時に、相場・物流拠点としての大坂・尼崎に近く、時局の把握と生産地への連絡を重視していた事が想像できます。ネットワークの中間地点に住んでいたというのは、無意味では無いのでしょう。
 その詳細は今後の課題にしたいと思いますが、荒牧の山邑氏、上月氏、甲賀谷氏の縁故がこれ程永く保たれていた事は、非常に興味深い事です。この事が、酒造・輸送(物流)・地域経済など、様々な謎を解くきっかけになれば良いと思います。

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2024年4月9日火曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(内訌直前、池田勝正が守護役(えき)として中嶋城の普請を行う)

この項目は「諸役負担、軍事負担、一部の権利返上」の補足である。同頁を併せて読んでいただきたい。この補足を行う事で、守護職を任じられる名誉と引き換えの苛烈な負担が池田家へ課されていたことが更にお分かり頂けると思う。
 状況としては、越前国守護朝倉氏攻めの結果、噂通りに近江国浅井家の幕府・織田信長方からの離反が判明し、この方面での争乱の火蓋が切られたカタチとなった。
 他方で、元々の幕府にとっての討伐対象であった、阿波国三好氏勢力は反幕府方として、京都を取り囲む包囲網を形成して、西から攻め上る構えを見せていた。元亀元年6月には、堺に軍勢が集まっている事が盛んに報じられ、不穏な空気を感じざるを得なくなっていた。これに備えるため、摂津守護である池田・伊丹方に、急遽の守護役が課される事となった。

十三公園(撮影:2006年2月頃)
これらの一連の動きは、織田信長の耳に入っており、京都の東西へその備えを行った。軍事面での戦術上、それを超えた戦略上も兼ねて、将軍自らの後巻きの出陣を進めていた。
 東部方面の近江国では、髙島郡の田中城(清水城館)を想定。西部方面の摂津国では、欠郡の中嶋城(現大阪市淀川区)をその場と決定していた。しかし同城は、そのまま使うには手薄であったらしく、急遽の補強を行う事となった。加えて、その補完的要地である榎並城(現大阪市城東区)にも手を加えている。
 この時、池田家(勝正)は、中嶋城の普請に2〜300名の人夫を出している。これは奴隷労働ではないので、当然賃金などの労役負担金品を池田家が供出している。

この中嶋城の対応については、典厩家の城としての社会的な象徴や認知があった事と、瀬戸内海と京都とをつなぐ交通と物流への監視、加えて、大坂本願寺への備えという意味があったと考えられる。
 後年、織田信長が政権として畿内地域で独立を始めた頃の天正2年夏、反織田方であった大坂本願寺を包囲するために、この中嶋から崇禅寺方面にかけて大合戦が行われており、この地域が要所の証左としての出来事もある。

池田家は、将軍義昭の実兄を殺害した阿波国三好家の一族であり、将軍義昭により守護職に取り立てられたとはいえ、疑いと迫害を多分に受けていた事は、数々の歴史的痕跡により容易に想像できる。
 元々、脆弱な足利義昭政権を支える為に、非常に重い課役を命じられていた事は、様々な史料からも判明する。池田家中は、それらに絶えられなくなった事と将軍義昭政権維持が危ぶまれる程の敵の軍事攻勢を前にして、池田家の人々は精神的にも追い込まれて、家中政治は断裂するに至った。同時に、藤原家の象徴的存在でもあった、近衛前久の反幕府行動もあり、同じ藤原一族としての池田氏も、その策動を意識せざるを得なかった事情もあるだろう。

<参考史料>
<永禄12年>--------------
正月 摂津守護池田勝正、播磨国鶴林寺並びに境内へ禁制を下す
 ※兵庫県史(史料編・中世2)P432
1/5 阿波足利家擁立派三好三人衆勢、将軍義昭の宿所本圀寺を襲撃
 ※言継卿記4-299、群書類従20(合戦部:細川両家記)P631など
1/27 京都二条武衛陣へ将軍邸の新造に着工
 ※言継卿記4-P305など
3 幕府・織田信長勢、摂津国兵庫を攻撃
 ※(新)神戸市史(歴史編3・近世)P3など
3/2 摂津国豊嶋郡などへ徳政令発布
 ※箕面市史(資料編2)P413など
7 幕府・織田信長勢、播磨・但馬国方面へ向けて出陣
 ※龍野市史4(史料編1)P463など
8/1 摂津守護池田勝正、但馬山名氏討伐に従軍
 ※池田市史(史料編1)P81など
8/8 摂津守護池田勝正、天王寺善珠庵分の年貢引き渡しの通達を受ける
 ※堺市史5(続編)P900など
8/17 堺商人今井宗久、天王寺善珠庵分の年貢引き渡しについて池田勝正へ音信
 ※堺市史5(続編)P898など
8/27 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗清貧斎正秀へ音信
 ※堺市史5(続編)P906
10/23 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗正詮などへ音信
 ※堺市史5(続編)P914
10/26 摂津守護池田勝正など幕府勢、播磨国へ出陣
 ※足利季世記(改定 史籍集覧第13冊)P255、池田市史(史料編1)P81など
11/11 摂津守護池田勝正、織田信長方から再度押領停止の通達を受ける
 ※堺市史5(続編)P916、織田信長文書の研究-上-P323など
11/19 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗正詮などへ音信
 ※堺市史5(続編)P916

<永禄13年・元亀元年>--------------
1/23 織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
 ※織田信長文書の研究-上-P346、ビブリア53号P134(二條宴乗記)など
2/2 将軍義昭、禁裏へ参内
 ※言継卿記4-P383
2/22 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗清貧斎正秀へ音信
 ※堺市史5(続編)P927
4/20 幕府・織田信長勢、京都を出陣
 ※言継卿記4-P407、多聞院日記2(増補 続史料大成)P181など
4/26 越前国天筒山・金ヶ崎城などが落ちる
 ※朽木村史(史料編)P147、信長公記(新人物往来社)P103など
4/28 越前国金ヶ崎からの撤退戦始まる
 ※朽木村史(資料編)P147+148、信長公記(新人物往来社)P103など
4/30 織田信長、京都に帰着
 ※言継卿記4-P411、多聞院日記2(増補 続史料大成)P182、ビブリア53号P146(二條宴乗記)など
5/上 織田信長、五畿内の主立った武家から人質を取る
 ※織田信長文書の研究-上-P409など
6/1 摂津池田衆、摂津国欠郡中嶋城の普請を行う
 ※新修 茨木市史(通史2)P28など(狩野文書)
6/18 摂津池田城内で内紛が起こる
 ※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634など
6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
 ※言継卿記4-P425など
6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
 ※言継卿記4-P425
8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
 ※言継卿記4-P440、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P156など
8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
 ※ビブリア52号P155(二條宴乗記)、池田市史(史料編1)P81、言継卿記4-P440など


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2024年1月4日木曜日

河内国若江郡長田村の八幡宮

河内国箕輪村(現東大阪市箕輪)と同じ若江郡に属する長田(現同市長田)にも鎌倉幕府により地頭が置かれたようだとしています。この幕府による地頭の設置がキッカケで、同地にはそれぞれ八幡宮を祀るようになったのではないかと思われます。開幕した源頼朝は、八幡信仰者で、京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請していますので、幕府と関連する施設には、やはり八幡宮が祀られる傾向にあったのではないかと思われます。繰り返しになりますが、その記述部分を以下に紹介します。
※大阪府の地名2(平凡社)P945

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◎東大阪市「中世」条

新田構成地図
京都府八幡市 石清水八幡宮(前略)平安時代末の天養年間(1144-45)市域内水走の地が藤原季忠を祖としてこの地方の代表的中世領主水走氏が登場した。同氏は河内郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、氷野河(現大東市)・広見池など池河や、河内郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、市域一帯を支配していた。源平合戦のとき、大江御厨に源氏の兵粮米が課せられ、水走開発田にも兵粮米使が乱入したが、当寺の領主康忠は源義経に訴えて鎌倉御家人となり、本領を安堵されている。また市域の武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わった。乱(源平合戦)のあと市内の箕輪や長田に鎌倉幕府の地頭が置かれたらしく、「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条に記された、地頭が伊勢神宮造営の役夫米を未済した所々の中に河内国三野和・長田の地名がみえる石清水八幡宮領高井田の地頭は将軍家祈祷所として停止され八幡宮の直接支配に戻った。また若江北条にも地頭給田があった。しかし鎌倉時代の市域は皇室領の大江御厨・若江御稲田、摂関家領玉櫛庄、中御門家領因幡庄、興福寺領若江庄、高野山領新開庄、石清水八幡宮領神並庄・桜井圓、枚岡社領荒本庄など公家寺社勢力が強く、その特権を帯びた供御人・寄人・神人らが諸産業・交易・交通などの業者として活躍し、やがて玉櫛庄民が日吉神人と称して八幡宮神人と利権を争い、若江住人が和泉国大鳥庄(現堺市)内の抗争に加担して悪党とよばれたように(田代文書)、庄園体制の旧秩序を攪乱して南北朝の内乱を導くに至る。(後略)

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長田の神社は現在「長田神社」と称していますが、今も八幡宮を祀っています。こちらも箕輪村と同じような「八幡宮」を祀る経緯を持つのではないかと思います。
 この長田村の歴史について、いつもの大阪府の地名から抜粋します。
※大阪府の地名2(平凡社)P980

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◎長田村(東大阪市長田:中1-5丁目、内介、西1-6丁目、東5丁目、長田)
1908年(明治41)測量の地図
若江郡に属し、標高3.75-5メートルの平坦地で北は稲田村。大和川付替えまでは、村の西を楠根川が流れていた。明治20年(1887)前後の仮製地形図では「長」に「ヲサ」とよみを付す。「新撰姓氏録」(河内国未定雑姓)の「長田使主 百済国人為君主之後也」は、当地に関係ある人物と伝える。「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条に、神宮使が各地の地頭の造太神宮役夫工米未進を訴えた記事があり河内国の未進のうちに「長田」がみえる。本願寺証如の「天文日記」天文11年(1542)5月4日条に「斎を河内長田教法為志調備之」とある「長田」も当地と考えられる。
 慶長17年(1612)の村高は801石余、寛永5年(1628)高西夕雲により117石余が無地増高された。同19年には村が大方と小方に分けられた(布施市史)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高1243石余で、848石余が幕府領、394石余が山城淀藩領。延享2年(1745)の村差出明細帳(栗山家文書)によると、幕府領分が大方、淀藩領分が小方。大方は寛文2年(1662)大坂城代青山宗俊領となり、小方は明暦4年(1658)淀藩主永井尚政の三男尚庸領となる。延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では大方は大坂城代太田資次領で610石余、改出117石余(無地増高)・120石余の計848石余。小方は永井尚庸の息直敬領で394石余。天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳も同様。大方は貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり、同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)、元禄13年(1700)から幕府領(宝暦10年「村差出明細帳」百済家文書)。小方は貞享4年直敬の下野烏山入封に伴い同藩領となったが、元禄15年から幕府領(宝暦10年村差出明細帳)。
長田神社(八幡宮)本殿
 元文2年(1737)河内国高帳
では一村幕府領で884石余409石余。延享2年の村差出明細帳によると大方は高844石余・菖蒲池新田27石余(反別2町5反、石盛1石1斗)、川違新田12石余(反別1町6反余、石盛8斗)、小方は高396石余、長田村新田12石余(反別1町1反余、石盛1石。)なお、宝暦10年(1760)の村差出明細帳では大方・小方に分かれているが、安永8年(1779)の様子明細帳(田中家文書)では大方499石余、大方から分かれたと思われる中方396石余、小方409石余に分かれてる。幕末には京都所司代松平定敬(伊勢桑名藩)領。なお、延享2年の村差出明細帳にみえる菖蒲池新田は宝暦10年の村差出明細帳では古新田とあり、元禄14年万年長十郎の地押(6尺竿)。川違新田は大和川付替えに伴うもので、享保6年(1721)玉虫左兵衛・遠山半十郎の検地(6尺3寸竿)。
 延享2年の村差出明細帳では大方の家数134・人数574、小方の家数57(高持46・無高10・寺1)・人数269。大方・小方で牛31、小船30(野通い・肥船)、竜骨車21・踏車28(ともに用水・悪水かき)。酒屋2・たばこ屋1・醤油屋1・たね買6、ほか1。余業は男女とも木綿稼。地蔵堂・禅宗常心寺・唱名庵・林鳥庵・摂取庵(現浄土宗)西願寺(現浄土真宗本願寺派)などが記される。安永8年の様子明細帳では、大方の家数94(うち寺2・庵3)・人数381(うち僧3)・牛12、中方の家数41(うち道場1)・人数193(うち僧1)・牛8、小方の家数58(うち寺1)・人数222(うち僧1)・牛5。平坦・低湿の地にあるため、南の新家村との堺に150間、荒本村との堺に79間の水請縄手をつくっていた(宝暦10年村差出明細帳)。文政5年(1822)松原宿の助郷村に加えられた(布施市史)。
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戦乱の世も終わり、社会が安定してきた頃の記録である、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高1243石余という、かなり大きな生産性を持つ村である事が分かります。
 江戸時代も社会が成熟してくると、経済的な停滞期も何度かあって、江戸時代中期頃に村切りが行われます。しかし、一貫して、生産性は衰えることも無く、幕末まで維持されていきます。
本願寺証如(光教)上人座像
 それから少し時代を遡って、『大阪府の地名』の記述中にある『天文日記』の該当部分を抜粋します。時は室町末期の戦国時代です。
※石山本願寺日記 上(証如上人日記)P420

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◎1542年(天文11)5月4日条
斎を河内国長田教法志為之調備。斎料為300疋之出す。仍って汁3・菜8。興正寺之呼び(此の門下也)教法方自り、相伴5人来たる。布施は100疋。兼誉・兼智等30疋宛。経照に20疋、坊主衆へは常の如く。(後略)
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「教法」というのは、人物名だと思われます。この時の法主は、「光教」で、この一族は、「教」「光」「兼」の文字を継ぎ、中でも「教」は、一族中枢に使われていたようですから、長田に配された人物は、教団内で非常に重要な位置付けにある人物だったと思われます。
 また、同じ本願寺関連の史料の中に「河内国長田」の記述がありますので、それもご紹介します。この年は本願寺宗が、時の中央政権との関わりを拗らせて、激しい武力闘争を行っていた頃でした。
※石山本願寺日記 下(私心記)P239

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◎1535年(天文4)6月10日条
敵出候。賢勝宿にて見物候。麦振る舞われ候。八時(午後2〜4時)に、森河内等崩れ候て、人数引き退き候。仍って中道・中間(浜?)まで敵焼き入り候。長田・稲田等落居候。
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天文4年の闘争では、やはり武士相手ですので、戦には適わない事が多かったようです。この時も長田と稲田の拠点は、敵方の手に落ちたと記述されています。

一方、『大阪府の地名』には、神社の記載がありません。東大阪市の神社全般に言える事ですが、経緯不明の場合も多く、この長田神社(八幡宮)も例に漏れずです。詳しくはまた、調査をしたいと思いますが、現地にある、東大阪市教育委員会の案内の内容を取りあえず、ご紹介しておきます。

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◎長田神社と子安地蔵
長田神社(八幡宮)鳥居
長田から西堤にかけて細長く続く旧集落は、古くは旧若江郡の北辺に広がっていた大きな湖沼(新開池)の南岸堤上にそって営まれた古い集落です。
 長田村の中央字相生と呼ばれた所に鎮座する長田神社は、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命、多紀理毘売命の三神を祀っています。神社の北方には字意伎宮屋敷、弓場と呼ばれた所があり、神社が焼失したため現在地に移されたといわれます。境内には本殿の他に末社として賽神社・愛宕神社・稲荷神社・水神社・琴毘羅神社があります。
 境内の北側には「摂取庵」と呼ばれる浄土宗の堂があり、鎌倉時代末期の木像地蔵菩薩立像(像高91cm)が安置されています。この地蔵像は、地元に伝わる「子安地蔵縁起」によれば、嘉禄年中(1225-27)、恵心僧都作と伝えられ、江州(滋賀県)堅田で子安地蔵としてまつられてきたものが、有縁の地である長田村へ移されたことがわかります。地蔵像及び子安地蔵縁起ともに、この地の歴史を伝える文化財として1974年(昭和49)3月25日に東大阪市文化財保護条例により有形文化財に指定されています。
東大阪市教育委員会 
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今の長田神社は、火災によって焼失したため、字意伎宮屋敷から現在地に移ったようです。その場所は、現在の場所から北へ200メートル程のところのようで、1908年(明治41)測量の地図では、既に現在地にありますので、それよりは以前の事ですが、それ程古い訳ではないようです。もしかすると、明治維新の混乱での事かもしれません。
 現在の神社は、寺地に再建されているようで、一乗寺との関係も浅からずあるようです。一乗寺は、天正8年創建と伝わり、この年は、織田信長政権下で、荒木村重の乱が収まる頃です。河内国中域は、荒木氏の委任支配下であり、同時に本願寺が織田方に降伏し、摂津・河内国の乱もひと段落する年です。長田村は、本願寺勢力の地域だったようですので、一乗寺創建の経緯はその事とも何か関係するのでしょう。

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◎一乗寺と善光寺阿弥陀三尊図
融通念仏宗 一乗寺 伝1580年(天正8)創建
一乗寺は、旧長田村の中央字中の町と呼ばれた所にあります。この寺は融通念仏宗の寺で、阿弥陀仏を本尊としています。
 記録によれば、天正8年(1580)に観信という人の開基と伝えています。寺には南北朝時代前後の作である絹本著色善光寺阿弥陀三尊図が残されています。
 善光寺式阿弥陀三尊は、鎌倉時代以降各地で信仰され、彫像は数多く伝わっていますが、仏画としての遺品は非常に少なく、一乗寺の三尊図は貴重なものといえます。
 近年の修理で三尊部分は描き改められていますが、その下の須弥壇や不動明王・毘沙門天の二像の緻密な描法等は、当初の趣を多分に残しています。
 鎌倉期の余影をとどめる善光寺阿弥陀三尊画像の貴重な遺品として、1985年(昭和60)1月23日に東大阪市文化財保護条例によって有形文化財の指定を受けています。
東大阪市教育委員会 
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今のところ、長田神社(八幡宮)周辺情報に留まっており、予備情報と言ったところですが、近日に調査して、情報を追加したいと思います。

 

東大阪市箕輪・古箕輪にある八幡宮のルーツを考えてみる(はじめに )へ戻る> 

2024年1月1日月曜日

河内国若江郡(東大阪市)古箕輪集落の中心部は島だった!?

紫色部分は先に干拓
前々から気になっていた事を、この度、まとめておきたいと思います。史料上の検討を経て、大和川付替え前の古箕輪集落の自然立地環境について、考えてみます。それらの検討については「はじめに」の各項目からご覧下さい。
 過去記事の中の加納村の項目で、周辺地域を見た通り、古箕輪村と加納村の間は、地面の高さから見て、川か沼であった可能性が高いと思われます。また大和川付替え工事後の干拓事業の経緯(詳しくはこちら)から、開発された場所が明らかですので、それらの資料を併せると、地図上では以下のような想定ができるように思われます。

中世には古箕輪は島で、川田も島だったと思われます。もしかすると、吉原村側から橋を架けるなどしていたかもしれません。 ただ、吉原は河内郡ですので、若江郡側に、そのような敷設をするかどうかは、わかりません。はたまた、郡の境界そのものが曖昧であったり、確定的でなかった可能性もあります。想像の域です。

 さて、古箕輪集落が、島であった事の検証ですが、いくつかの地点の写真と共に、地面の高さとその差位について、考えてみたいと思います。

以下、アルファベット文字表記の地点ごとに、写真と文字で状況を示したいと思います。

【概要】

AからHまでは、1〜2メートル程の高低差のある地形が望める場所の写真です。南北に長い島で、途中「C地点」で一旦高さを下げます。ここは、水運のために開削されたようで、藤五郎樋(樋門)があります。舟運のための水位調節施設が設けられています。また、灌漑のためにも川は使われていたのでしょう。
 「C地点」は、中世時代などでは、橋があったのかもしれません。人が住んでいたかどうかは不明ですが、降雨時など増水時には南北の行き来ができなくなると思われますので、橋があっただろうと思います。
 古箕輪集落の島は、南側程、海抜が低くなりますが、それでも1.5メートル程の高低差があり、「F地点」では、島の南端の低い部分を灌漑し、農業用水路としたようです。明治41年(1908)測量のこの地図では、灌漑用水路は描かれておらず、その後に開かれたようです。現在、この付近に揚水ポンプ小屋がありますが、これは、大正期に設置されたようですので、灌漑工事もその頃でしょう。
 中世時代は、F地点より南は人は生活できず、人が住んだり何らかの活動を行う場合は、そこから北側に限られていたと考えられます。
 

写真撮影地点図

【A地点】

古箕輪八幡宮西側:2メートル程の断崖

【B地点】

東大阪市道「古箕輪新庄線」東へ望む

【C地点】

古箕輪1丁目19付近から南を望む

【D地点】

古箕輪公民館へ通じる階段:2メートル弱の断崖

【E地点】

古箕輪1丁目8付近

【F地点】

古箕輪1丁目7付近:1.5メートル程の断崖で、このあたり南端

古箕輪1丁目7付近:1.5メートル程の自然の断崖で、このあたり南端。


古箕輪1丁目7付近:1.5メートル程の断崖の南端に大正期頃、水路を敷設


【F地点】

古箕輪1丁目7付近東側から北を望む。この道路は川だったと想定。

【H地点】

古箕輪八幡宮北端から西側を望む。

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2023年12月31日日曜日

東大阪市(河内国)古箕輪集落の北側で隣接する加納村について考える

明治41年(1908)測量の地図
河内国の「加納村」は若江郡に属し、同郡北限の村です。加納村は、箕輪新田村(現古箕輪)の北側に隣接する村でもあります。この間に「川田」集落がありますが、大和川付替え前には恐らく存在せず、その頃は小さな島だったと思われます。
 現在、秋の祭礼日には「川田」としての地車は出ていますが、集落に縁の神社としては盾津宇治懸神社の他に見当たらず、多くは神社と隣接か境内に立地するなかで、地車小屋も単体で建てられています。

先ずは、大阪府の地名を見てみます。
※大阪府の地名2-P967

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加納村(東大阪市加納など)
若江郡に属し、北は讃良郡三箇村・御供田村(現大東市)、東は恩地川、南は河内郡水走村・今米村・吉原村。大和川付替えにより村内を流れていた吉田川の水量が減少し、川床に川中新田が開発されたため、新田の東が加納村飛地となった。建長4年(1252)6月3日の藤原康高処分目録案(水走文書)に「在河内郡八条曾禰崎里卅六町内」とみえ、その注記に「自堤内南水走里」とある。水走里は水走村一帯と考えられるので、「曾禰崎里」は加納村付近にあたる。安元2年(1176)2月日付の八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)に「庁分御庄」として「河内国川田」がみえ、嘉元4年(1306)6月12日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧城文書)に「庁分」として河内国の「河田庄」が載る。当地に川田の字名があることから、加納一帯に比定する説がある(布施市史)。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高1627石余で幕府領小物成として葭年貢銀100匁元文2年(1737)河内国高帳では1624石余と新田113石余。以降幕末まで大きな高の変化なく一貫して幕府領で、寛政6年(1794)高槻藩預地となる(「高槻永井氏預り所村々高付帳」中村家文書)。幕末には京都守護職領(役知)。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。嘉永7年(1854)6月14日、11月4日・5日に大地震があった。6月には倒壊家屋18・負傷者6、11月には全壊30村の八割が半壊残りが中損で、村内の四ヵ寺とも倒壊した(布施市史)。天保15年の新庄村明細帳(岩崎太郎家文書)の付図には、三島新田の西に「加納領志方」がみえ、反別1町3反余・分米6石余(大和川付替工事史)。時期は不明だが、おそらく新開池南岸の湿地を新田化したものであろう。産土神の宇波神社は「延喜式」神名帳に載る若江郡「宇波神社」に比定される。浄土真宗本願寺派宝龍山西陽寺・同派善徳寺・真宗大谷派願行寺・同派紫雲山仏名寺・同派称名寺・融通念仏宗専念寺がある。
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記述では、新田113石余とあり、これが今の「川田」だと思われます。古箕輪と同様の成り立ちだったと思われます。
 ただ、今のところ、確定的ではないものの「河田庄」を今の川田に比定している説があり、これが正しいとすれば、時代により、川の水量の増減があって、陸地の様相が違った状況にあった可能性もあります。加納村が後の呼称で、そちらが定着した可能性もあります。
 また、今は川田集落にある「浄土真宗本願寺派宝龍山西陽寺」と「真宗大谷派称名寺」が、加納村内の寺として記述されており、両集落は一体的な成り立ちであると認識されているようです。不詳。

荘園分布図(竹内理三編より)
それから、竹内理三氏による『荘園分布図』によると、「河田庄:後宇多院領」として図示してあるのですが、河内国の池沼については、非常に複雑ですので、更に精査が必要かと思われます。図では地続きですが、多分、実際は断続的な島だったと思われます。

このような集落の経緯と現在の集落構成を踏まえ、今のところ、川田村は加納村の新田として開発された集落であろうとみられます。
 川田集落は、称名寺のある中心部で海抜3.0メートル程の高さがあり、大和川付替え以前は、小さな島のようになっていたと思われます。
 ちなみに、加納村の宇波神社あたりも3.2メートル程の海抜で、古箕輪八幡宮境内地(ここも海抜約3.2メートル)から北へ、点々と島と半島が並んだ風景だったように想像しています。
 「川田」という呼称からしても想像できるような立地環境だったのでしょう。川田の北と南側は、川が流れるか沼のようになっていたと思われます。橋をかけるには、距離があり過ぎますので、そういった自然地形のまま、生活をしていた事でしょう。

加納2-18付近の地形の様子
何れにしても、加納村としての石高は、正保郷帳の写しとみられる「河内国一国村高控帳」では高1627石余と、巨大な石高を持つ集落ですので、加納村も元文2年(1737)の「河内石高帳」では、箕輪村同様に新田が見られて、村切り(幕府の経済政策の一環)が行われているようです。

地形を詳細に見ていくと、加納村は東に地続きで、西側が断崖のような地形で、波打ち際にある集落だったのでしょう。その南に、後に川田集落となる島があり、さらに南に古箕輪集落となる隆起した島があったのだろうと思われ、これらは同じ若江郡で、何らかの重要な関係性があったと考えられます。しかも、江戸時代を通して加納村は幕府領でした。

最後に、参考として、宇波神社にある東大阪市による由緒の説明板をご紹介します。
※宇波神社門前の説明板

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宇波神社
宇波神社

宇波神社の祭神は埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)で字瓦口に鎮座しています。延喜式内社で神名帳によれば、従三位を授けられています。神社の周辺は、まわりより少し小高くなった所で、古代は水辺であったようで、この付近を白肩の津と呼び、船が停まれるような深さをもっていた所であったようです。加納の北西部に小字名で「シカタ」という所があることからも推定されますが、波打ち際に祀られた神社であったようです。
 この神社では、秋祭りになると獅子舞が各家を回ります。昭和45年頃までは、中地区の北部の各地で舞われていましたが、最近では、宇波神社に見られる郷土芸能として、貴重な伝統行事になりました。獅子舞は獅子の面の人と天狗の面をかぶり、ササラを持つ人が踊り、囃しは笛を使います。以前は十数種の踊りと吹き方を伝えていました。各家を訪ね五穀豊穣と家内安全を願って祓って歩くのです。

平成13年9月 東大阪市

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中世時代以前の川の様子(想定)


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2023年12月13日水曜日

河内国若江郡箕輪村・古箕輪村の産土神「八幡宮」についての小考(由来・歴史・ルーツ)

東大阪市の中北部地域にある古箕輪には、産土神として「八幡宮」があります。そこに神社がある理由は、村の歴史そのもので、古箕輪集落になぜ「八幡宮」社なのか、少し気になりましたので調べてみました。本来、人々は神社(寺)に寄り合い、決め事をしていました。大変身近で、なくてはならない存在でした。
 また、人々は自然の摂理を上手く使い、調和して文化を育みました。この一帯は、新開池という大きな池沼がありましたが、大和川の付け替えという大土木工事により、環境が一変しました。その事とも村の成り立ちは大いに関係があります。

それについて先ずは、古箕輪八幡宮にある東大阪市による由緒の説明板をご紹介します。
※古箕輪八幡宮境内の説明板


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古箕輪八幡宮
もと箕輪村に含まれる古箕輪は、新開池の南東に位置し、大和川付替え以前は池の藻草を刈り、魚を採って生活していた漁村でした。新田開発後は農村となりましたが、南方の村々の悪水で例年作付けに水難を受けるため、踏車を使って悪水を排水し、また天水場であるため日照りの時には干害にみまわれたといわれています。
 氏神である八幡宮は、創建は不明ですが、本殿は一間社流造杮葺で江戸時代中期の建築とみられ、また境内の鳥居に寛保元年(1741)の銘があり、拝殿前の燈籠に明和元年(1764)の銘があることから、新田が開発された後に、神社が整備されたことがわかります。
 拝殿には、幕末から明治初めに奉納された元寇、神功皇后朝鮮出兵図、江戸時代の風俗図、天皇に将軍・御三家等が供をした加茂明神参詣図などの明細な絵馬が残されています。
 また、正面左にある燈籠は、天保2年(1831)銘の「おかげ燈籠」です。竿に「おかげ」と刻むこの燈籠は、江戸時代に伊勢参宮が流行し、ほぼ60年毎に「おかげ参り」と呼ばれる集団参宮が行われた際に、村人達が神恩を感謝して奉納したものです。東大阪市内には合計18基の「おかげ燈籠」が知られていますが、文政13年/天保2年(1831)のものが13基で最も多く、この頃伊勢参宮が非常に盛んであったことがわかります。
平成16年10月 東大阪市
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それによると「氏神である八幡宮は、創建は不明」とありますが、続けて「本殿は一間社流造杮葺で江戸時代中期の建築とみられ、また境内の鳥居に寛保元年(1741)の銘があり、拝殿前の燈籠に明和元年(1764)の銘があることから、新田が開発された後に、神社が整備されたことがわかります。」と記述し、神社の創建に遡るための、少々の手がかりを得る事ができます。
 そこで、学術的な村の歴史を知るために、いつもの地名シリーズから、該当項目を抜粋します。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

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◎箕輪村(東大阪市箕輪)
箕輪旧集落の様子 ※2001年撮影
若江郡に属し、南は中野村。大和川付替えまでは、北に新開池があり、西方の菱江川、東方の吉田川に挟まれた平坦な低湿地であった。「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条によると、造太神宮役夫工米を各地の庄園の地頭が未進しており、そのなかに河内国の三野和がみえる。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高148石余、小物成として葭年貢銀100匁、幕府領。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領150石余・同新田118石余。天保郷帳では箕輪村150石余と箕輪新田118石余とに分かれて記される。新田は元禄16年(1703)に開発され、高118石余・反別11町1反余。鴻池屋善次郎が1反歩につき5両3分の地代を納めた(享保5年「箕輪村新田明細帳」田中家文書)。以降高の変化はなく、領主の変遷は横枕村に同じ。延享元年(1744)の村明細帳(同文書)によると、宝永元年(1704)以前、新開池床のうち60町歩ほどが箕輪村領で、「池之内に而藻草を苅、魚を取、百姓身命ををつなぎ候」とある。当地はこの一帯では最も低湿地で、南方の村々の悪水で例年作付に水難を受けるため、水車大5両・小25両を用意して悪水を踏み出し、水害を防ぐ手段とした。また天水場のため、堀井・溜池など用水に役立つものはいっさいなく、日照りの時には干害の難にあった。家数187・人数917、牛8。産土神は八幡宮2社で、1社は座衆25人、1社は100余人。享保5年(1720)の新田の家数2(無高)・人数11(前掲新田明細帳)。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。明治2年(1869)の新田を含めた家数155・寺2・人数756、牛20(同年「村明細帳」田中家文書)。真宗大谷派宝樹山淳信院聞称寺がある。明治7年箕輪新田が独立村となったが、同20年箕輪村と併合。
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同書によると、現在の古箕輪は、明治時代初頭までは「箕輪新田」と呼ばれており、その後は「小箕輪」との変化を経て現在の呼称に至るようです。また、産土神は八幡宮2社であるとしており、この内の1社が、古箕輪集落に祀られているものと思われます。
 それから、同記述中には、享保5年(1720)の新田の家数が2・人数11とあります。この規模では、村とは言えないように思います。大和川の付け替えなどによる工事(開発)は宝永2年(1705)です。古箕輪八幡宮の鳥居には寛保元年(1741)の銘が刻まれています。
 これらを整理すると、大規模新田開発が行われ始めた頃から段階的に箕輪村の新田開発を行うために、1720年頃に出先としての入植が始まり、その開発が概ね完了した頃の1741年に神社などの整備も行われて、集落として整ったのではないかと思われます。
 小箕輪集落は、箕輪村を起源としていますが、何度かの独立機運もあって、今となっては両村のつながりは無くなっているそうです。
 一方、この記述で大変気になるのは、「吾妻鏡」の建久元年(1190)の記述には、三野輪すなわち箕輪村に鎌倉幕府により地頭が置かれたようだ、としています。幕府の出先機関ともいえる地域の役所機能も備えた地頭が箕輪に置かれたならば「八幡宮」のルーツの可能性もそこにありそうです。その前に、地頭の意味について、概要部分を紹介してみます。
※ウィキペディアより抜粋「地頭」の項目
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD

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◎地頭とは
武士の館の一例
地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。
 平安時代(平氏政権期以前)には、荘園領主・国司(知行国主)が、所有する荘園・国衙領(公領)を現地で管理し領主へ年貢を納める職(荘官、下司、郡司、郷司、保司)を任命したが、鎌倉時代には源頼朝がその職の任命権を持つこととなり、朝廷も認めた。鎌倉幕府はこれを地頭職と呼ぶこととし、御家人から任命し、領主へは年貢を納めることを保証した。

在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領において武力に基づき軍事・警察・徴税権を持つこととなり、御家人の実質的な所領として認めることとなった。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。

幕府が御家人の所領支配を保証することを本領安堵(ほんりょうあんど)といい、幕府が新たに所領を与えることを新恩給与(しんおんきゅうよ)というが、いずれも地頭職への補任という手段を通じて行われた。地頭職への補任は、所領そのものの支給ではなく、所領の管理・支配の権限を認めることを意味していた。(中略)
 幕府に直属する武士は御家人と地頭の両方の側面を持ち、御家人としての立場は鎌倉殿への奉仕であり、地頭職は、徴税、警察、裁判の責任者として国衙と荘園領主に奉仕する立場であったとする解釈もある。 (中略)
 平氏滅亡後の文治元年(1185年)10月、源義経・源行家が鎌倉に対して挙兵すると、11月に上洛した北条時政の奏請により、義経・行家の追討を目的として諸国に「守護地頭」を設置することが勅許された(文治の勅許)。鎌倉幕府の成立時期にはいくつかの説があるが、守護地頭の任免権は、幕府に託された地方の警察権の行使や、御家人に対する本領安堵、新恩給与を行う意味でも幕府権力の根幹をなすものであり、この申請を認めた文治の勅許は寿永二年(1183年)十月宣旨と並んで、鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられることとなった。(中略)
 頼朝傘下の地頭の公認については当然ながら荘園領主・国司からの反発があり、地頭の設置範囲は平家没官領(平氏の旧所領)・謀叛人所領に限定された。しかし、後白河法皇が建久3年(1192年)に崩御すると朝廷の抵抗は弱まり、地頭の設置範囲は次第に広がっていった
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元々は平安時代に興りを持ち、後に鎌倉幕府なども荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職を指していたようですが、やがて幕府寄りの人物である御家人から選ぶようになり、それも収斂されて在地から選ばれるようになっていきます。
 これが時を経て地域権力化していくようですが、当初は鎌倉幕府による地頭職として、徴税・警察・裁判の責任者として、国衙と荘園領主に奉仕する立場であったと考えられています。その幕府の出先機関であるなら、源頼朝が信奉した、石清水八幡宮を勧請するのが自然な流れでもあるように思えます。
 この時期に地頭が置かれていたとする同じ若江郡に属する長田村(現東大阪市長田)にも神社はありますが、こちらも「八幡宮」を祀っています。同じような経緯だったのではないでしょうか。この補足資料をもう少しご紹介しておきたいと思います。
※大阪府の地名2(平凡社)P945

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◎東大阪市「中世」条
京都府八幡市 石清水八幡宮
(前略)平安時代末の天養年間(1144-45)市域内水走の地が藤原季忠を祖としてこの地方の代表的中世領主水走氏が登場した。同氏は河内郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、氷野河(現大東市)・広見池など池河や、河内郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、市域一帯を支配していた。源平合戦のとき、大江御厨に源氏の兵粮米が課せられ、水走開発田にも兵粮米使が乱入したが、当寺の領主康忠は源義経に訴えて鎌倉御家人となり、本領を安堵されている。また市域の武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わった。乱(源平合戦)のあと市内の箕輪や長田に鎌倉幕府の地頭が置かれたらしく、「吾妻鏡」建久元年(1190)4月19日条に記された、地頭が伊勢神宮造営の役夫米を未済した所々の中に河内国三野和・長田の地名がみえる。石清水八幡宮領高井田の地頭は将軍家祈祷所として停止され、八幡宮の直接支配に戻った。また若江北条にも地頭給田があった。しかし鎌倉時代の市域は皇室領の大江御厨・若江御稲田、摂関家領玉櫛庄、中御門家領因幡庄、興福寺領若江庄、高野山領新開庄、石清水八幡宮領神並庄・桜井圓、枚岡社領荒本庄など公家寺社勢力が強く、その特権を帯びた供御人・寄人・神人らが諸産業・交易・交通などの業者として活躍し、やがて玉櫛庄民が日吉神人と称して八幡宮神人と利権を争い、若江住人が和泉国大鳥庄(現堺市)内の抗争に加担して悪党とよばれたように(田代文書)、庄園体制の旧秩序を攪乱して南北朝の内乱を導くに至る。(後略)
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ここには、箕輪村の項目にあった視点を更に拡げた記述があるのですが、石清水八幡宮領であった高井田村(現東大阪市高井田)にも地頭職が置かれていたところ、石清水八幡宮の直接支配に戻ったとあります。
 やはり、源頼朝と関係の深い八幡宮が、これらの動きに関わっており、場所としても要衝であったところに幕府が政策として、出先機関を置くようになったようです
 それからまた、このあたりは、川の流域でもある事から、土砂の堆積で年々陸地化が進み、次第に荘園開発されるようになったようです。
 「新開庄」ができ、続いて「新開新庄」が開かれています。以下、資料です。
※大阪府の地名2(平凡社)P968

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◎新開庄
中新開の諏訪神社 ※2013年撮影
中新開一帯にあった庄園。「明月記」嘉禎元年(1235)正月9日条に「暁更禅室被下向河内新開庄(金吾供奉)」とみえる。弘安4年(1281)3月21日、鎌倉幕府は関東祈願所である高野山金剛三昧院に「河州新開庄」を寄進し、同院観音堂領としてこれを安堵した(「関東御教書」金剛三昧院文書)。同6年5月日の金剛峯寺衆徒愁状案(高野山文書)によると、悪党が金剛三昧院の寺庫を破って兵粮に充てよとしたので、同院は河内国新開庄・紀伊国由良庄の庄官らを招集して寺庫を守護させたという。鎌倉後期、西園寺家領であったようであるが(「公衡公記」正和4年3月25日条、建武2年7月21日「後醍醐天皇綸旨」古文書纂)、建武新政のもとで楠木正成が当庄を領有しており、湊川合戦で正成が討死した直後、足利尊氏は「河内国新開庄(正成跡)」を御祈祷料所として東寺に寄進した(建武3年6月15日「足利尊氏寄進状」東寺壱百合文書)。尊氏は続いて当庄に対する狼藉の停止を命じ(同年12月19日「足利尊氏御教書」同文書)、これをうけた河内国守護細川氏が当庄における兵粮米の徴収を止めるよう下知したが(同4年6月11日「細川顕氏下知状」同文書)、もとの領主西園寺家の愁訴により同家に返付され、改めて東寺に備後国因島と摂津国美作庄が寄進されている(東宝記)。
【参考記事】戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付替前の地形を探る)
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次いで、新開新庄についてです。
※大阪府の地名2(平凡社)P977

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◎新開新庄
新庄一帯にあった庄園。高野山金剛三昧院領新開庄を本庄とし、そこから分かれた新庄で、「河内国新開新庄」(文安3年9月12日「細川国賢書状案」高山寺文書)とか、「河内国新開之内新庄郷」(欠年月日「大聖寺殿塔頭長生院領所々目録」西園寺家文書)などとよばれている。弘安11年(1288)正月13日の尼如くわん寄進状案(高山寺文書)に「しんしやうのけししき二ちやう五反かうち二たんハ、ほんそんあみたの三そんに、えいたいをかきりて、きしんまいらせ候」とあり、新庄に2町5反の下司名田があって、そのうち2反を領主尼如観が寄進していることがわかる。尼如観は続いて同年4月に、新庄の下司名のうち給田3反を山城栂尾高山寺の「くうしやうの御はう」へ譲り渡した(同月20日「尼如観所領譲状案」同文書)。この田地は、文保元年(1317)10月4日の春胤奉書案(同文書)に「新開新庄郷内都賀尾田伍段」と記され、応安4年(1371)に、新開新庄下司の清冬が天役を高山寺の寺田に課し、栂尾雑掌が河内守護楠木正儀にこれを訴える事件があった(同年11月20日「楠木正儀書下案」同文書)。また前掲の細川国賢書状によると、当庄の「下司給内五段田」は、当時「高山寺方便智院領」であったという。
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箕輪村は、池川の水辺の淵にあり、年々地形も変化していたと思われます。「新開新庄」は、新庄村一帯にあった荘園で、鎌倉時代以降、島になったと思われます。新庄村についての資料です。
※大阪府の地名2(平凡社)P977

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◎新庄村(東大阪市新庄・新庄西・新庄東・新庄南)
新田構成図
若江郡に属し、南は本庄村。大和川付け替えまでは、北から西に新開池があり、南西を菱江川、東方を吉田川が流れる低湿地であった。明和7年(1770)の村差出明細帳(岩崎太郎家文書)によると、当村が開かれたころ新開海という大沼があり、沼の築州に百姓の居屋敷を定めていたが、数度に及ぶ大和川の洪水のため新開囲堤の内へ引越した。古屋敷に続く大沼・葭島も新庄村領で、作間に大沼で菱・海老・雑魚などをとって生活をし、葭小物成や運上銀を納めてきた。宝永2年(1705)の新田開発で大沼や囲堤外の地は鴻池新田となったが、その分の高6石余は減じられなかったという。
 正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高461石余で幕府領、小物成として葭年貢銀10匁。寛文6年(1666)より大坂定番米津田盛領となり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では米津領411石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳でも米津領で461石余、宝永4年より幕府領、享保20年(1735)より大阪城代太田資晴領(天保15年「高反別諸色書抜」岩崎太郎家文書)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で新田7石余を含み468石余。前掲高反別諸色書抜によると元文5年より幕府領。寛政6年(1794)には幕府領で高槻藩預地となる(「高槻永井氏預り所村々高付帳」中村家文書)、幕末には幕府領。享保7年の村明細帳(岩崎太郎家文書、以下同文書)によると堤新田(下畑7反余・分米6石余)があった。元文2年河内国高帳にみえる新田と思われる。三島新田との境にあり、もとは悪水井路で川違新田であった(享保20年村明細帳・天保15年村明細帳付図)。享保7年の村明細帳によると家数106・人数558、牛15。延享3年(1746)の村明細帳では家数124・人数694。他村よりの入作高はなく、出作高390石余・63人。田方は稲作7町8反余・綿作21町8反余(田方の約73パーセント)。綿作は連作になるため虫害や病害が多く、近年満作ということはない。宝暦10年(1760)の村明細帳では家数130(高持86・無高44)・人数658(うち僧1)、牛12、大工1(大工高40石は役高引、禁裏普請の時大工を勤める)。産土神は毘沙門天社。天保12年には木綿寄屋1軒があった(大阪木綿業誌)。浄土真宗本願寺派妙光山浄圓寺がある。
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今、見られる新庄村旧集落は、移転してきた後の形態としてですので、本来はもう少し、北や東の水際に近いあたりに位置していたようです。
 そして、その新庄村の南側に位置する本庄村について、続けて以下にご紹介します。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

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◎本庄村(東大阪市本庄西1-3丁目・本庄中1-2丁目・本庄東・本庄)
若江郡に属し、東は箕輪村・中野村。大和川付け替えまでは南西の村境を菱江川が流れ、東方を流れていた吉田川との間に位置して低湿地であった。寛政2年(1790)の村明細帳(藤戸家文書)によると、「悪水平押落込、元来地低成村」で難儀し、付け替え以降は「用水通路曾而無御座、天水場に罷成」と日照りが続けば干害にあった。享保20年(1735)の新庄村明細帳(岩崎太郎家文書)によると、大坂の陣で慶長の検地帳を失い、寛文5年(1708)の検地でも同様であったが、享保6年に分帳となったという。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高703石余、幕府領。延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では幕府領で978石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳では幕府領703石余、元文2年(1737)河内国高帳は幕府領で724石余。幕末には幕府領。寛政2年の村明細帳によると堤新田として下畑高4石余・反別5反余がある。享保6年に玉虫左兵衛・遠山半十郎の検地(6尺竿)をうけているので、大和川付け替えに伴う新田であろう。同帳によれば家数116・人数510。初め稲作2分であったが、大和川付け替え以降の天水場となり、木綿作8分・稲作2分となった。産土神は八幡宮(現六郷社)。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。浄土真宗本願寺派天王山浄福寺がある。
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両村は、本来は一所として認知されていたところが、後に村切りが行われて別々の集落となったようです。また、「本庄村」の項目で気になるのは、「享保20年(1735)の新庄村明細帳(岩崎太郎家文書)によると、大坂の陣で慶長の検地帳を失い」とあって、この新開新庄にも戦火が及んでいた可能性を示唆しています。
 地理的には、両村は離れていますが、箕輪村に近い本庄村が、そこから離れた新庄村と一体化していたのは非常に興味深い実態で、これは、箕輪村に地頭が置かれたキッカケで、時代を経ても地域の政所的な役割りがあっての事かもしれません。因みに本庄村の浄福寺は天正3年間(1575)の創建と伝わっています。また、この村々のある新開新庄は、若江郡に属しており、郡の境は川であったと考えられます。
 箕輪村の南から東にかけて川があったようです。村は島(新開新庄)の南東淵にあり、集落には、いくつかの街道も通していました。故に、箕輪村周辺は戦国時代に戦火に見舞われていた可能性があったと思われます。
 ちなみに、浄福寺の創建と伝わる天正3年という年は、織田信長の配下となった荒木村重が、摂津・河内国内の大きな争いは概ね鎮圧された頃で、大坂本願寺の本拠を除いて、戦後の再建(政治再編)が進められ始めた年にあたります。荒木は、摂津国一職に加えて、河内国の北半分(若江・河内郡以北あたり)も織田信長から任されていました。ですので、この若江郡地域は荒木の支配地域にあたります。

その頃(大和川付け替え前)は、今の小箕輪集落にあたるところは小さな島で、箕輪村との間は湿地や沼、水際の浅瀬だったのではないかと思います。
 地形を見ると、箕輪村八幡宮と古箕輪村(箕輪新田)八幡宮のある地所は、共に海抜3.2メートル程であり、周辺各村の中でも最も高い位置にあります。
 これをみても、箕輪村に地頭が置かれた場所は今の箕輪八幡宮のあるところと考えられ、幕府の出先機関を置くには、最も選ばれやすい立地です。

その他、箕輪村周辺の集落を参考までに紹介しておきます。当初は、箕輪村周辺にもいくつかの集落はあったと思われますが、時代を経て、次第に規模が大きくなったと考えられます。やはり、条件の良い地勢は先に人が住みますが、その他では海抜が低くなり、住むには条件が悪くなっていきます。大規模なインフラ整備などで、周辺環境が変わらない限り、人の力では自然の作用を克服できないためです。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

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◎横枕村(東大阪市横枕・横枕東店横枕西・荒本北・荒本西4丁目など)
未知の川があった想定図
若江郡に属し、菱江村の西にある。大和川付け替え後、村の中央を流れていた菱江川の川床に菱屋東新田が開発された。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高594石余、幕府領。寛文2年(1662)より大坂城代青山宗俊領となり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では同太田資次領で485石余と改出106石余と1石余。この改出は無地増高。天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳では太田領485石余・同新田162余。貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で577石余。幕末には京都所司代松平定敬(伊勢桑名藩)領。文政5年(1822)には松原宿助郷村に加えられた(布施市史)。浄土真宗本願寺派繍雲山横枕寺がある。

◎中野村(東大阪市中野村)
若江郡に属し、南は菱江村、西は本庄村・横枕村。村の形は「く」字形で、自然堤防上に位置する。このことから考えて、かつて横枕村西方を流れる菱江川から分かれて新開池に流入する川があり、当村はこの川床を開発して成立した可能性がある。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高380石余、幕府領。享保15年(1730)大坂城代土岐頼稔領となり、寛保2年(1742)頼稔の上野沼田入封以降同藩領。元文2年(1737)河内国高帳では407石余で以降高の変化なし。元禄14(1701)の諸色覚帳(西村家文書)によると10年間の平均免2ツ6分8厘。家数60・寺1、人数324。余業は男は木綿糸・日用稼、女は木綿稼。産土神は山王権現宮(現存せず)であった。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。真宗大谷派西善寺がある。
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この内、特に中野村は、大和川付替後に、水量の減った川床を開発して成立したと考えられています。あるいは、村が拡がったのでしょう。この村の伝承として、今の日吉神社は、元々今の高倉墓地にあったものを移転したとされています。
 この事は、地形が変わり、再開発に伴うものだったと考えられます。村そのものも移転したのかもしれません。中野村が日吉神社を祀るのは、この開発とも関係があるのだと思われます。産土神が山王権現宮で(現存せず)あるようですので、それが今の日吉神社として改められたのだろうと思います。これについては資料にあたっていませんが、そんな気がします。

中野村の項目にある、「かつて横枕村西方を流れる菱江川から分かれて新開池に流入する川があり」との記述にもある通り、この川が埋められた時期は、非常に興味深いです。大和川の付け替えのような大規模な河川改修の前の段階でも、中小規模の河川改修が行われていたようです。それは概ね、大坂の陣(1615年)が終わったあたりから想定できるのではないかと思います。

箕輪八幡宮
以前から個人的に気になっていた、「古箕輪の神社が、なぜ八幡宮なのか」が、最近出合った(というか既知の資料を読み直して気付いた)資料に、そのヒントがあり、今回ちょっとまとめてみました。

箕輪村周辺は、このような経緯がある場所ですし、鎌倉時代には庄園も設置されていますので、織田信長が登場する戦国時代末には、小土豪なども居たはずです。同村内の聞称寺境内には、五輪塔の残欠が多数見られ、関連性を感じさせます。
 それから、箕輪村に隣接する本庄村では、大坂の陣によって検地帳を失っており、また、同村の浄福寺創建は天正3年(1575)と伝わっています。この頃から、慶長20年(1615)頃までの戦乱の続く時代には、防御的に、交通網としても川を利用していたのではないかと思います。
 視野を広げると、箕輪村周辺は、概ね江戸時代を通じて幕府領でもありますから、重要な地域であった事も間違い無く、そういう面をみても、戦国時代には村や一族で守るためにも、そういった武士のような存在もなければ、政治・軍事的対処ができなかった思います。地頭の置かれた所でもあり、政所のような機能やブランドを残していた可能性もありますね。

想像は色々と膨らみます。

 

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